7. 愛
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」----Iコリ13:13
愛は正当にも、「キリスト者的な諸徳の女王」と呼ばれる。聖パウロは云う。「この命令は……愛を、目標としています」(Iテモ1:5)。これは、あらゆる人が公に賞賛する恵みである。これはだれにでも理解できる、平明で実際的なものに見える。これは決して、キリスト者たちが意見を異にする、「あの七面倒くさい教理上の諸点」の1つではない。おそらく何万何十万という人々は、義認や新生、またキリストや聖霊のみわざについて自分は何も知らない、と云って平然としているだろうと思う。しかし私の信ずるところ、「愛」について自分は何も知らない、などと云いたがる者はひとりもいないであろう! 人は、たとえキリスト教信仰について何もつかんでいなくとも、「愛」だけはつかんでいる、と云って常に得々としている。
ここで多少とも愛について平明な考えを巡らすことは無益ではないであろう。この件については、拭い去らなくてはならない偽りの思想が蔓延している。正されなくてはならない誤りが多々ある。私も、愛を賞賛することにかけてはだれにも負けはしない。しかし、あえて大胆に云えば、多くの人はこの主題全体について完全な思い違いをしているように見受けられる。
I. 私が第一に示したいのは、聖書がいかなる地位を愛に与えているか、ということである。
II. 第二に示したいのは、聖書の愛が本当はいかなるものか、ということである。
III. 第三に示したいのは、真の愛がどこから生ずるか、ということである。
IV. 最後に示したいのは、愛がなぜ恵みの中で「一番すぐれている」か、ということである。私は読者の方々に、この主題に最大限の注意を払っていただきたいと思う。私の心からの願いと神への祈りは、罪の重荷にあえぐこの世で愛が増し加えられ、大いに広まることである。人間の堕落した状態を如実に示すものとして、キリスト者的な愛の乏しさにまさるものはない。地上には信仰がほとんどなく、希望がほとんどなく、神に関する事がらの知識がほとんどない。しかし、結局のところ、真の愛ほど世に見られないものはない。
I. まず、聖書がいかなる地位を愛に与えているか、ということを示させていただきたい。
私がこの点から始めるのは、この主題の途方もない実際的重要性をはっきりさせるためである。私は、現今、高尚な抱負に燃える多くのキリスト者たちが、キリスト教における実際的な部分をほとんど全く顧みようとしていないことは承知している。彼らは、二三のお気に入りの教理のほか、何も語ることがない。だが私が読者の方々に思い起こしてほしいのは、聖書は教理と同じくらい多くのことを実践について語っており、その中でも非常に重きを置かれていることの1つが「愛」だということである。
私は新約聖書を手に取り、それが愛について何と云っているか人々に問いたいと思う。キリスト教について何を調べるにも、聖書自身に語らせることにまさるものはない。真理を発見するのに、聖書の平明な聖句を開いてみるという昔ながらの方法ほど確かな手段はない。聖書の聖句は、サタンに答える際にも、ユダヤ人と議論する際にも、主がお用いになった武器であった。聖書の聖句は、現代の私たちが決して参照するのを恥じてはならない便覧である。----「聖書は何と語っていただろうか? 何と書かれているだろうか? あなたはどう読んでいるだろうか?」
聖パウロがコリント人に向けて何と云っているか聞いてみよう。「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」(Iコリ13:1-3)。
聖パウロがコロサイ人に向けて何と云っているか聞いてみよう。「これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです」(コロ3:14)。
聖パウロがテモテに向けて何と云っているか聞いてみよう。「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています」(Iテモ1:5)。
聖ペテロが何と云っているか聞いてみよう。「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」(Iペテ4:8)。
私たちの主イエス・キリストご自身がこの愛*1について、何と云っておられるか聞いてみよう。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハ13:34、35)。何よりも、私たちの主が物語っておられる最後の審判の様相を読み、愛の欠如がいかにおびただしい数の人々を断罪することになるかに注目してみよう(マタ25:41、42)。
聖パウロがローマ人に何と云っているか聞いてみよう。「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです」(ロマ13:8)。
聖パウロがエペソ人に何と云っているか聞いてみよう。「愛のうちに歩みなさい。キリストがあなたがたを愛したように」(エペ5:2 <英欽定訳>)。
聖ヨハネが何と云っているか聞いてみよう。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」(Iヨハ4:7、8)。
私はこれらの聖句に何の注釈も加えまい。むしろ、これらの聖句は、簡明率直なまま読者の前に提示し、自ら語らせた方がよいと思う。もしだれかがこの論考の主題をたいして重大な問題ではないと考えているとしたら、私はただ、こうした聖句を眺めて、その考えを改めてほしい、と願うほかはない。「愛」を、聖書の中で占めているその高貴で聖なる地位から引きずり下ろし、二義的な重要さしか持たないものであるかのように扱う人は、神のみことばとの間で事を決さなくてはならない。私はそうした人との議論で時間を無駄にするつもりは全くない。
私自身の思いとしては、こうした聖句の証拠は、如実に明々白々であり、議論の余地ないものと思われる。これらが示しているように、愛は、「救いにつながること」の1つとして途方もなく重要なものである。また、これらが証明しているように、愛はキリスト者であると自称するすべての人が真剣に注意を払わなくてはならない主題であり、これを軽蔑する人はみな、聖書に対する自分の無知を暴露しているとしか云えない。
II. 第二に、聖書の愛とは本当はいかなるものか、ということを示させていただきたい。
この点について明確な見方をすることは非常に重要であると思う。まさにここから、愛についての種々の誤りが生じてくるのである。愛など全く持ち合わせていない何千何万もの人々が、聖書に関するはなはだしい無知に惑わされて、自分には「愛」があると考えている。だが彼らの云う愛は聖書で述べられている愛ではないのである。
(a) 聖書の愛は、貧しい人々に施しをすることに存してはいない。それが愛であると考える迷妄は広く世に行き渡っている。しかし聖パウロがはっきり告げているように、人は、「持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え」ても(Iコリ13:3)、愛のないことがありえる。愛ある人が「貧しい人たちをいつも顧みる」であろうことは、論をまたない(ガラ2:10)。そういう人が、自分にできる限りの努力をして貧者を助け、救い、その重荷を軽くするであろうことを、私は一瞬たりとも否定しない。私が云っているのはただ、そうしたことが「愛」を成り立たせているのではない、ということである。金銭、スープ、葡萄酒、パン、石炭、毛布、衣類などを施すことに一財産費やしながらも、聖書の愛に全く欠けていることはごくたやすい。
(b) 聖書の愛は、他の人が何をしようと決して反対しないということに存してはいない。これもまた、非常によくある迷妄の1つである! 何千何万という人々が、自分は他人が何をしようと糾弾したり、間違っていると云い立てりしない、と云ってそれを自慢の種としている。彼らは私たちの主の「さばいてはいけません」という戒めを、いかなる人にも決して反対意見を持たずにすますための云い訳に変えてしまっている。彼らは、性急な、また重箱の隅をつつくような判断をしてはならないという主の禁令を、いかなる判断をしてもならないという禁令に曲解している。あなたの隣人は酔っぱらいか、嘘つきか、安息日を遵守しない者か、すぐかっとなる人間かもしれない。気にせずともよい! 彼らはあなたに云うであろう。「その人に向かって、それは正しくないと宣告するのは愛ではありません」。信じてやるべきなのです。その人も心底では良い心を持っているはずだ、と! こうした愛の考え方は、不幸にして非常によく見受けられる。これは、とめどなく有害な結果をもたらしつつある。罪に覆いをし、物事の白黒をはっきりつけず、----「生活」があからさまに悪であっても「心」は善良であると語り、----邪悪なことに目をつぶり、不道徳に向かって耳あたりの良いことを云う。----これは聖書の愛ではない。
(c) 聖書の愛は、他の人の信仰上の意見に決して反対しないことに存してはいない。これもまた、この上もなく重大な、また増え広がりつつある迷妄である。多くの人々が、自分は他人がいかなる見解をいだいていようと、決して誤っているなどと決めつけたりしない、と云ってそれを自慢の種としている。確かにあなたの隣人はアリウス主義者か、ソッツィーニ主義者か、ローマカトリック教徒か、徹底的な無律法主義者かもしれない。しかし、多くの人々の「愛」は云うであろう。だからといって彼を間違っていると考える権利はありません、と! 彼が真摯である限り、彼の霊的状態を好ましく思わないのは「愛のない」ことなのです、と!----願わくは私がこのような愛から、永遠に救い出されるように! このようなことでは、使徒たちが異教徒に福音を伝えに出かけていったことすら誤っていたことになろう! このようなことでは、伝道活動に意味などないことになろう! このようなことでは、私たちは私たちの聖書を閉じ、私たちの諸教会を閉鎖した方がよいであろう! あらゆる人が正しくて、だれも間違ってはいないのである! あらゆる人が天国に行くことになり、だれも地獄へは行かないのである! そのような愛は、化け物じみた戯画にほかならない。どれほど真っ向から対立する意見の人々であっても、その全員が等しく正しいなどと云うこと、----互いに白と黒ほどにも教理上の意見を異とする人々であっても、その全員が等しく天国に向かいつつあるなどと云うこと、----これは聖書の愛ではない。このような愛は聖書を侮蔑し、あたかも神が真理をためすための書かれた指針を私たちに与えてくださらなかったかのように語ることである。このような愛は、私たちが天国についていだく観念を混乱させ、そこに調子外れで不協和なたわごとを詰め込むことである。真の愛は、教理に関してあらゆる人を正しいと考えはしない。真の愛は叫んでいる。----「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです」。----「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません」、と(Iヨハ4:1; IIヨハ10)。
この問題の否定的な側面はここまでにしておこう。この件について、多少詳しく扱ったのは、私たちの生きているこの時代と、現在はびこっている種々の奇妙な考えのゆえである。さてここからは、肯定的な側面に話を進めることにしたい。愛がいかなるものではないかを示してきたので、これから、愛がいかなるものであるかを示させていただきたい。
愛とは、信仰者の心の中に御霊が結ばせる実として聖パウロが真っ先にあげたあの「愛」のことである。「御霊の実は、愛」(ガラ5:22)。堕落前のアダムが有していたような、神への愛が、その第一の特徴である。愛ある人は、心と思いと知性と力によって神を愛したいと願う。人への愛がその第二の特徴である。愛ある人は、自分の隣人を自分自身のように愛したいと願う。まさにこのようなものとして、聖書は「愛」という言葉を用いている。心に「愛(love)」がある信仰者と私が語るとき、それは神と人の双方への愛があることを意味している。心に「博愛(charity)」がある信仰者と私が語るとき、それは、より具体的に人への愛があることを意味している*2。
聖書の愛は、信仰者の行ないのうちに現われるものである。それは信仰者をして、自分の手の届くあらゆる人に対し、----その肉体と魂の双方にとって----親切な行為を行なわせようとするであろう。それはその人をして、柔らかな言葉や善意だけで満足させはしない。可能な限りのすべて努力を払っても、他者の悲しみを減じさせ、幸福を増し加えさせようとする。その人は、その師のように、仕えられるよりは仕えることをこころがけ、見返りを何も求めない。その師の偉大な使徒たちのようにその人は、他者のために心から喜んで財を費やし、また自分自身をさえ使い尽くそうとする[IIコリ12:15]。たとえ、その報いとして愛されることなく、憎しみ返されるとしても、それは変わらない。真の愛は報酬を求めない。わざをなすことそのそものが、その報いなのである。
聖書の愛は、喜んで善をなそうとするだけでなく、喜んで悪を忍ぼうとする信仰者の態度のうちに現われるものである。それは信仰者をして、腹立たしいことをされても忍耐させ、傷つけられても赦しを与えさせ、不当な攻撃を受けても柔和にさせ、中傷されても沈黙を守らせる。それはその人をして、多くを忍ばせ、多くを耐えさせ、多くを辛抱させ、多くを大目に見させ、しばしば従順な態度をとらせ、しばしば自分を否定させ、すべてを平和のためになさせる。それはその人をして、自分の短気に強力な歯止めをかけさせ、自分の舌に強力なくつわをはめさせる。真の愛は決して年がら年中、「私の権利はどうなっているのだ? 私はしかるべき処遇を受けているか?」、などと問わない。むしろそれはこう問うであろう。「どうしたら私は最も平和を押し進めることができるだろうか? どうしたら私は他の人々の徳を最も建て上げることができるだろうか?」、と。
聖書の愛は、信仰者の全般的な心がまえと物腰のうちに現われるものである。それは信仰者をして、親切で、非利己的で、温厚で、気立て良く、思いやり深い者とする。それはその人をして、優しく、愛想良く、礼儀正しくし、私的な人間関係のあらゆる場面で他者のためを思う心遣いに富ませ、他者の感情を逆なでせずに、喜びを受けるよりは与えることを熱心に願わせる。真の愛は決して他人が栄えてもねたまず、決して他者が困難に陥ってもその不幸を喜ばない。いかなる場合にも信じて、期待することをやめず、他人の行動を善意に解釈しようとする。そして最悪の場合にも憐れみ深く、情け深く、同情心に満ちている。
このような愛の真の模範をどこに探せばよいか知りたい人がいるだろうか? それには、福音書に記された私たちの主イエス・キリストのご生涯を見るだけでよい。そこに私たちは、この愛が完璧な形で体現されているのを見るであろう。愛は主の行ないすべてのうちに輝き現われている。主の日常は、絶え間なく「巡り歩いて良いわざをなす」生活にほかならなかった。----愛は主の忍耐すべてのうちに輝き現われている。主は絶えず憎まれ、迫害され、誹謗され、いわれなき中傷を受けていた。しかし主はそのすべてを辛抱強く耐え忍ばれた。主の口から怒りのことばは一言も発されなかった。主の物腰に不機嫌なようすは決して見られなかった。「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず」(Iペテ2:23)。----愛は主の心根とふるまいのすべてのうちに輝き現われている。親切心という律法は常に主のくちびるの上にあった。弱く無知な弟子たちの間にあっても、助けと救済を求めて懇願する病んだ悲惨な者たちの間にあっても、取税人や罪人たちの間にあっても、パリサイ人やサドカイ人らの間にあっても、主は常に変わることなく同じ態度であられた。----だれに対しても親切で忍耐強くあられた。
だがしかし、忘れてならないことだが、私たちのほむべき師は決して罪人たちにこびることも、罪を見て見ぬふりすることもなさらなかった。主は決して、陰にひそんだ邪悪さをあからさまに暴露することを躊躇したり、そうした悪にしがみつき続けようとする者らを叱責することを尻込みしたりしなかった。主は、だれが主張していようと決して偽りの教理を非難することをためらわず、偽りの行動と、その確実な末路をあからさまに暴露することをためらわなかった。主は常に歯に衣着せない物云いをした。主は天国と栄光の御国を語るのと同じくらい何はばかることなく、地獄と消えることのない火についてお語りになった。主が永遠の証拠として記録に残されたように、完全な愛は、あらゆる人の生活や意見を是認しなくてはならないようなものではない。否、偽りの教理や邪悪な慣行を断罪すると同時に、愛に満ちていることは全く可能なのである。
私は今、読者の方々の前に、聖書の愛の真の性質をはっきり示した。それがいかなるものでないか、またいかなるものであるかについて、短く簡潔に説明した。ただし、先に進む前に私は、ここで2つの実際的な考えを示唆せずにはいられない。それは私の心に重くのしかかっている考えであり、他の人々の心にも同じようにのしかってほしいと願うものである。
あなたは愛について聞いてきた。ではしばらくの間、この地上には、いかに嘆かわしいほどわずかな愛しかないか考えてみるがいい。キリスト者たちの間には、いかに真の愛が際立って欠けていることか! 私は今、異教徒たちについて語っているのではない。キリスト者たちのことを語っているのである。個々の家庭の中で、いかなるかんしゃく玉、いかなる短気、いかなる自己中心、いかなるとげとげしさが見られることか! 隣人たち、同じ教区民たちの間に、いかなる争い、いかなるいさかい、いかなる意地悪、いかなる悪意、いかなる遺恨、いかなる嫉妬があることか! いかなるねたみと抗争が、国教徒と非国教徒の間、カルヴァン主義者とアルミニウス主義者の間、高教会派と低教会派の間で繰り広げられていることか! 「どこに博愛があるのか?」、と私たちは問うてしかるべきであろう。----この世に蔓延しているものの考え方を見るにつけ、「どこに愛があるのか? どこにキリストの心があるのか?」、と問うてしかるべきであろう。人々の心がこれほど愛について無知であるからには、キリストの御国の伸展が押しとどめられ、不信心が猖獗を極めているのも不思議ではない! 確かに私たちはこう云ってしかるべきであろう。----「人の子が来たとき、はたして地上に愛が見られるでしょうか」、と。
もう1つのこととして、もしもこの世にもっと愛があったとしたら、いかに世界が幸福なものとなるか考えてみるがいい。愛の欠如こそ、地上における悲惨さの半分を生じさせているのである。病や死や貧困は、地上に悲しみをもたらす原因の半分にも満たない。その他の部分は、不機嫌や短気、争いやいさかい、訴訟、悪意、嫉妬、復讐心、詐欺、暴力、戦争といったものから生じている。すべての人々が聖書の愛に満ちるようになったなら、それは人類の幸福を倍増させる大きな一歩であろう。
III. 第三に、聖書の愛がどこから生ずるか、ということを示させていただきたい。
私が述べてきたような愛は、確かに人間にとって自然なものではない。天性私たちはみな、多かれ少なかれ利己的で、嫉妬深く、短気で、意地悪く、不機嫌で、不親切なものである。子どもたちが自分たちだけになったときの姿を見さえすれば、その証拠は歴然としているであろう。しかるべきしつけや教育もなしに育った子どもたちの中に、キリスト者的な愛を有しているような者はひとりも見られないであろう。その中のある者らの、いかに自己中心的で、いかに自分が楽して得して生きることしか考えていないことか! そうでない者らの、いかに高慢とかんしゃく玉と不機嫌さに満ちていることか! これをどう説明できるだろうか? 答えは1つしかない。生まれながらの心は真の愛について何も知らないのである。
聖書の愛は、聖霊によって整えられた心以外のところには決して見いだされない。これは繊細な植物であって、一種類の土壌でしか決して育たないのである。正しくない心に愛を期待するのは、いばらに葡萄がなるのを期待したり、あざみにいちじくがなるのを期待するのと変わらない。
愛が育つ心は、聖霊によって変えられ、更新され、一新された心である。アダムが堕落によって失った、あの神のかたちと似姿が、たとえいかに微弱で不完全なものに見えようとも、そこには回復させられている。それは、キリストと結び合わされ、神の子とされることによって、「神のご性質にあずかる者となる」ことであり、その性質の第一の特徴の1つが愛なのである(IIペテ1:4)。
そのような心は罪を深く確信させられており、罪を憎み、罪から逃れようとし、日々罪と戦う。そして、そうした心が日ごとに打ち勝とうと努める罪の根本的な動きの1つこそ、自己中心、そして愛の欠如なのである。
そのような心は、私たちの主イエス・キリストに対するその大きな負債を痛感している。それは、自分の現在のあらゆる慰め、希望、平安が、私たちのため十字架上で死んでくださった主のおかげであることを絶えず感じている。その感謝をどのようにしたら現わせるだろうか? どうすれば自分の贖い主にその感謝を示せるだろうか? 他に何もできないとしてもそれは、主のようになろうと努力し、主の心を吸収し、主の足跡にならって歩み、主のように愛に満ちた者となろうと力を尽くすものである。「聖霊によって心に注がれているキリストの愛」こそ、キリスト者的な愛の最も確実な源泉である。愛は愛を生み出すのである。
読者の方々にはこの点に特別な注意を払っていただきたい。これは今日非常に重要な点の1つである。愛を賞賛すると公言していながら、キリスト教の根本原理には全く何の顧慮もしない多くの人々がいる。彼らは福音の実や結果のいくつかを好んではいるが、そうした実を結ばせることのできる唯一の根のことは好まない。すなわち、そうした結実と分かちがたく結びついた種々の教理を好まないのである。
愛や博愛を賛美する人々は山ほどいるが、彼らは人間の腐敗について聞かされたり、キリストの血や、心の内側における聖霊のみわざについて語られることを忌み嫌う。多くの親たちはわが子が利己的でなく、気立ての良い子になることを好むものだが、回心や悔い改めや信仰に向けて強く彼らの注意を引くことはあまり喜ばない。
さて私はこうした考え方に対して抗議したいと思う。キリスト教の根本原理を有することなくその果実をいだくことはできない。----キリスト教の教理を教えることなく、キリスト者的な気質を生み出すことはできない。----心のうちにおける恵みなくして、長続きのする永続的な愛を有することはできない。
私も、特に明確なキリスト教教理は何も持ち合わせていないのに、非常に思いやり深く気立てが良いように思える人が、たまには見受けられることを認めるのにやぶさかではない。しかし、そうした場合はあまりにもまれな、特殊な場合であって、例外が原則を証明するとの格言通り、それらは一般的な法則の正しさを証しするものにすぎない。そして、そうした場合においても、一見愛のように見えるものはしばしば、否、あまりにもしばしば、うわべだけにすぎず、私生活においては完全に体をなしていないのではないかとあやぶまれる。一般的法則として私の堅く信ずるところ、聖書で描き出されているような種類の愛が見いだされるのは、聖書に立ったキリスト教で徹底的に染め抜かれた心という土壌においてのみである。健全な教理なくして、聖い行ないは栄えない。神が合わせたものが、分離したり引き裂かれたりするのを期待しても無駄である。
私が戦おうとしているこの迷妄の害毒を、この上もなく助長しているのが、非常な多数に上る小説や物語本や作り話の類である。こうした作品の主人公や女主人公が常に美徳の極致として描かれていることを知らぬ者があるだろうか? 彼らは常に正しいことを行ない、正しいことを口にし、正しい気質を示している! 彼らは常に親切で、情け深く、利他的で、寛容である! だがしかし、彼らの信仰については一言も語られていない! つまり、虚構の作品の大半から判断する限り、教理なしに卓越した実際的キリスト教を身につけ、御霊の恵みなしに御霊の実をいだき、教理との結合なしにキリストの心を自分のものとすることは可能なのである!
つまるところ、ここにこそ、大方の小説や物語本や作り話を読むことの大きな危険があるのである。それらの大多数は、人間性について偽りの、あるいは不正確な見方を示している。それらは、そこで範とされた男女を、理想の姿で描き出し、現実にありうべき姿では描いていない。そうした読み物の読者たちは、世界のありようについて誤った概念で心を満たしてしまう。人類に対する彼らの観念は幻想上の、非現実的なものとなる。彼らは常に、現実世界では決して出会うことがないような男女を追い求め、決して見いだせないようなものを期待しているのである。
ここで私は読者の方々にはっきりお願いしておきたい。人間性に関するあなたの概念は聖書から引き出すようにし、小説などから引き出さないようにしてほしい。あなたの心に銘記しておくことである。恵みによって新しくされた心なくして真の愛はありえない、と。ある程度の親切心や礼儀正しさ、情け深さ、気立ての良さなら、疑いもなく、キリスト教の根本原理を全く有していない多くの人々のうちにも見られるであろう。しかし聖書の愛という輝かしい植物が、その全く充実した完全な姿で見いだされるのは、決してキリストとの結合や、聖霊のみわざのないところではない。子どもを持つ人は、このことを彼らに教えてやるがいい。学校に関係する人なら、これを学校に掲示しておくがいい。愛を称揚することはよい。愛を高く評価することはよい。親切や愛、気立ての良さ、利他的な心、穏和さを賞賛することではだれにもひけをとってはならない。しかし決して決して忘れてはならない。こうした事がらを徹底的に学べる学び舎は1つしかなく、それはキリストの学び舎であるということを。真の愛は上から下ってくるものである。真の愛は御霊の実である。その愛を持ちたいと願う者は、キリストの御足のもとに座り、キリストから学ばなくてはならない。
IV. 最後に、なぜ愛が恵みの中でも「一番すぐれている」と呼ばれているかを示させていただきたい。
この件に関する聖パウロの言葉は、明確で、取り違えようのないものである。彼は、愛に関するその素晴らしい章を、次のようにしめくくっている。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(Iコリ13:13)。
この表現は非常に尋常ならざるものである。新約聖書の記者たち全員の中で、聖パウロほど高く「信仰」を称揚した人物は確かにひとりにもいない。ローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙は、その途方もない重要さを示す文章であふれている。信仰によって罪人はキリストをとらえて救われるのである。信仰を通して私たちは義と認められ、神との平和を持てるのである。だがここで同じ聖パウロが語っているものは、その信仰をすらしのぐものなのである。彼は私たちの前に、キリスト教における3つの主要な恵みを指し出して、それらをこう判定している。----「その中で一番すぐれているのは愛です」、と。このような筆者によるこのような文章には、格別な注意を払わなくてはならない。信仰や希望よりも愛がすぐれていると聞くとき、私たちはこれをどのように理解すべきだろうか?
私たちは一瞬たりとも、愛が私たちの罪を贖えるとか、私たちと神との平和を作り出せるとか考えるべきではない。私たちのためにそうしたことを行なえるのはキリストの血しかなく、キリストの血の恩恵に私たちをあずからせることができるのは信仰しかない。このことを知らない人は、非聖書的な無知のうちにあるのである。魂を義と認めさせ、キリストに結び合わせる職務は、信仰だけに属している。私たちの愛も、その他のあらゆる恵みも、みな多かれ少なかれ不完全なものであり、神のさばきの厳格さに耐えることはできないであろう。私たちは、すべてをなし終えた後でも、「役に立たないしもべ」である(ルカ17:10)。
また私たちは、愛が信仰とは独立して存在しうるものだと考えるべきではない。聖パウロが意図したのは、1つの恵みを他の恵みに対立させることではない。彼が意味しているのは、ある人は信仰を持ち、別の人は希望を持ち、さらに別の人は愛を持っている場合、この三者の中で最もすぐれているのは愛を持っている人だ、などということではない。この3つの恵みは分かちがたく互いに結びついているのである。信仰のあるところ、常に愛がある。また愛のあるところ、常に信仰がある。太陽と光、火と熱、氷と冷気といえども、信仰と愛ほど緊密に結ばれてはいない。
愛がこの3つの恵みの中でなぜ一番すぐれていると呼ばれているか、その理由は私には平明で単純明解であると思われる。その理由をあげさせていただきたい。
(a) 愛が恵みの中で一番すぐれていると呼ばれるのは、それが信仰者と神とをいくらか似通ったものとするからである。神は何の信仰も必要としない。神はいかなる者にも依存していない。神がより頼まなくてはならないような、神にまさる存在は何1つない。----神は何の希望も必要としない。神にとっては、過去も現在も未来も、すべてのことは確かである。----しかし、「神は愛である」。そして、神の民は愛を持てば持つほど、天の御父に似た者となるのである。
(b) 別のこととして、愛が恵みの中で一番すぐれていると呼ばれるのは、それが他の人々にとって最も役に立つからである。信仰と希望は、疑いの余地なく、いかに尊いものであっても、信仰者自身の個人的な恩恵と特に関係している。信仰は魂をキリストと結び合わせ、神との平和をもたらし、天国への道を開く。希望は魂を来たるべき物事に対する朗らかな期待で見たし、目に見えるものが多くの失意をもたらす中にあっても、目に見えない物事を思い描かせることによって慰めを与える。しかし愛は何よりもまず人を有用な者とする恵みである。それは良い行いと親切心の源泉である。伝道団体と、学校と、病院との始祖である。愛は使徒たちをして、魂のために財を費やさせ、自分自身をさえ使い尽くさせた。愛はキリストの働き人たちを起こし、働かせ続ける。愛はいさかいをなだめ、争いをやめさせ、この意味において、「多くの罪をおおう」(Iペテ4:8)。愛はキリスト教を飾り、それを世に推奨する。人は真の信仰を持ち、それを感じているかもしれないが、その信仰が他人の目には見えないこともありうる。しかし人の愛は隠しておくことができない。
(c) 最後のこととして、愛が恵みの中で一番すぐれているのは、それが最も長続きするからである。実際、それは決して絶えることがない。いつの日か、信仰は目に見えるものに呑み込まれ、希望は確実なものに呑み込まれてしまう。それらの職務は、復活の朝には無用のものとなり、古暦のように打ち捨てられるであろう。しかし愛は未来永劫にわたって永遠に残り続ける。天国は愛の住まいとなるであろう。天国の住人は、愛に満ちた者らであろう。彼ら全員の心には1つの共通した感情があり、それは愛であろう。
私の主題のこの部分はここまでとし、結論に移ろうと思う。愛とその他の恵みの比較として、今あげた3つの点はそれぞれ、もっと詳細に語ろうと思えばいくらでも語れるであろう。しかし、限られた時間と紙数の中では、それはできない。「すぐれている」という言葉の正しい意味について人を誤りから守るに足るだけのことを云ったとしたら、私はそれでよしとしたい。常に忘れないでいてほしい。愛は義と認めも、私たちの罪を取り去りもしない。愛はキリストでも信仰でもない。しかし愛は、私たちをある程度神に似た者とする。愛は、世界にとって非常に役立つものである。愛は、信仰の働きが終了したときも残り続け、栄え続けるであろう。確かに、こうした点から見たとき、愛には最大の栄誉がふさわしいと云える。
(1) さてここで、この論考を手にしているあらゆる人に、1つ単純な問いを発してみたい。あなたの良心に、この論考の主題全体を肝に銘じさせていただきたい。私がここまで語ってきた恵みについて、あなたは何か知っているだろうか? あなたには愛があるだろうか?
使徒聖パウロの強烈な言葉遣いによってあなたは、この不正が軽々しくいなしてよいものではないと確信しているに違いない。この聖なる人物が、それなしには、「何の値うちもありません」、と云えたような恵み、主イエスがご自分の弟子たちの大きな目印であると明確に語っておられるような恵み、----このような恵みは、自分の魂の救いを真剣に考えるあらゆる人に、真剣な考慮を払わせてしかるべきである。それはその人をこう考えさせるべきである。----「これは私にどんな影響を与えているだろうか? 私には愛があるだろうか?」、と。
あなたはキリスト教信仰について何がしかの知識は持っていると云えるであろう。真の教理と偽の教理の違いがわかっているであろう。ことによると、聖句を引用して、自分の意見の擁護ができるかもしれない。しかし、覚えておくがいい。実生活と心ざしとに何の実際的結実も生み出さないような知識は無用の長物である。使徒の言葉は非常にはっきりしている。「たとい私があらゆる知識に通じていても、愛がないなら、何の値うちもありません」*(Iコリ13:2)。
ことによるとあなたは、自分には信仰があると思っているかもしれない。あなたは、自分は神の選民のひとりだと固く信じており、そのことに安心しきっている。しかし、確かに忘れてならないのは、悪霊どもにも一種の信仰があるが、それは全く何の役にも立たず、神の選民の信仰は「愛によって働く信仰」だということである[ヤコ2:19; ガラ5:6]。聖パウロは、テサロニケ人たちの信仰や望みだけでなく「愛」を思い起こしたときにこそ、こう云ったのである。----彼らが「神に選ばれた者であることは私たちが知っています」、と(Iテサ1:4)。
あなた自身の家庭内や家庭外における日常生活を見てみるがいい。そして聖書の愛がそこでいかなる位置を占めているか考えてみるがいい。あなたの気質はいかなるものだろうか? あなたの家庭において、あなたの周りにいる人々すべてに対して、あなたはいかなるふるまい方をしているだろうか? あなたの口のきき方----特にいらだったり、怒ったりするときの口調----は、いかなるものだろうか? あなたの気立ての良さや、礼儀正しさ、柔和さ、優しさ、忍耐はどこにあるだろうか? 他の人々と接する際に、あなたの愛から出た実際的な行動はどこにあるだろうか? 「巡り歩いて良いわざをなし」たお方----すべての人を愛し、しかしひときわご自分の弟子たちを愛したお方----悪にかえて善を返し、憎しみにかえて親切を返し、すべての人々を思いやれるほど広い心をお持ちだったお方の心について、何をあなたは知っているだろうか?
一体あなたは、愛もなく天国に行ったとしても、そこで何をしようというのだろうか? 愛を法律とし、利己主義や不機嫌さを完全に閉め出しているような住まいで、あなたはいかなる慰めが得られるだろうか? 悲しいかな! 私が思うに、天国は無慈悲な者や怒りっぽい者のなじめない世界である!----ある小さな男の子がある日何と云っただろうか? 「もしおじいちゃんが天国に行くなら、ぼくも弟も天国なんか行きたくないや」。「どうしてそんなことを云うんだい?」、と聞かれてその子は答えた。----「もしおじいちゃんが天国でぼくたちを見たら、今と同じみたいにきっと云うよ。----『この坊主たちはここで何しとるんだ? こいつらを叩き出せ』、って。おじいちゃんは下でもぼくたちを見たくないんだから、天国でもぼくたちを見たくないと思うんだ」。
真のキリスト者的な愛をいくらかでも体験的に知るまでは、決して心を安んじてはならない。あの心優しく、へりくだっているお方のもとに行って学び、いかにすれば愛せるか教えてください、と云うがいい。主イエス・キリストに向かって、どうかその御霊を自分のうちに入れてください、古い心を取りのぞき、新しい性質を与え、み思いの何がしかを悟らせてください、と求めるがいい。夜も日も恵みを求めて彼に叫び立てて、私がこの論考で描写してきたようなものをいくらかでも感じとるまで、彼をせきたてることである。「愛のうちに歩む」ことがいかなることかを本当に理解したとき、あなたの人生は何と幸いなものとなるであろう。
(2) しかし私は、この論考を読んでいる人々の中に、聖書の愛について全く知らないわけではないが、その実感をますます深めたいと願っている人々がいることを忘れてはいない。私はあなたに2つの簡単な勧めの言葉を与えたいと思う。すなわち、----「愛の恵みを実践せよ。そして、それを人に教えよ」、と。
熱心に愛を実践するがいい。愛は何よりも、絶えざる実践によって大きく育つ恵みの1つである。日常生活の細々とした小さな部分にまで、日ごとに愛を持ち込むように努力するがいい。----そして特に、あなたのしもべや子どもたちや近親の者たちへの接し方においてそうするがいい。箴言にある、あの衆に抜きんでた女性の性格を覚えておくがいい。----「その舌には恵みのおしえがある」(箴31:26)。----聖パウロの言葉を覚えておくがいい。「いっさいのことを愛をもって行ないなさい」(Iコリ16:14)。愛は、大きなことと同様、小さなことにおいても見られるべきである。----これも重要なこととして、聖ペテロの言葉を覚えておくがいい。「互いに燃えて愛し合いなさい」。火種を絶やさないでおくだけの愛でなく、赤々と燃え輝き、周囲のだれもが見ることのできる火のような愛をいだくことである(Iペテ4:8 <英欽定訳>)。こうした事がらを常に念頭に置いておくことには、苦痛と困難が伴うかもしれない。他の人々が実際にしている行動からは、ほとんど励ましが得られないかもしれない。しかし、やり抜くことである。このような愛は、それそのものに報いがあるのである。
最後に、他の人々に愛を教えるがいい。しもべを持っている人は、それを絶えず彼らに強調することである。親切心と、人助けと、思いやりを示し合うことの大いなる義務を彼らに語ってやるがいい。何よりも、子どもがいる人は、これを子どもたちに強調するがいい。親切さと、気立ての良さ、そして心の広さこそ、キリストが子どもたちにお求めになる第一の証拠にふくまれるものであることを、常に彼らに思い起こさせることである。彼らは、たとえものをよく知らず、教理を説明できなくとも、愛を理解することはできる。もし子どもたちのキリスト教信仰が、単に聖句や賛美歌を反復にしか存していないとしたら、そこに大した価値はない。それらは確かに有用なものではあるが、しばしば考えもなしに習得され、感慨もなしに覚えられ、意味もわからずに口にされ、子ども時代の終わりとともに忘れ去られる。むろん、ありとあらゆる手段によって、子どもたちには聖句と賛美歌を教えるがいい。しかし、そうした教育だけを彼らのキリスト教信仰のすべてとしてはならない。彼らには、かんしゃくを抑え、互いに親切になり、他人のことを思いやり、気立てがよく、面倒見がよく、忍耐強く、優しく、寛大な者となるように教えることである。たとえ彼らがメトシェラのように長生きしたとしても、死ぬまで決してこのことは忘れるなと彼らに告げるがいい。すなわち、愛がなければ、聖霊の云うように、「私たちには何の値うちもありません」。「これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです」、と(コロ3:14)。
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*1 ギリシャ語では同一の「愛」という言葉を、英欽定訳の翻訳者たちは、時として「charity」と、別のときは「love」と訳している。(訳注:上記Iコリント、コロサイ、Iテモテ、Iペテロの引用箇所において英欽定訳は、「愛」を charity と訳しているが、このヨハネ以下のローマ、エペソ、Iヨハネの引用箇所の「愛」は love と訳している。)[本文に戻る]
*2 (訳注)このように著者自身が特に区別立てしている場合をのぞき、この翻訳ではcharityもloveもすべて「愛」と訳した。[本文に戻る]
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