Going to the Table 目次 | BACK | NEXT
6. 聖餐式への出席
「ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい」----Iコリ11:28
この論考の題名になっている言葉が指し示しているのは、非常に重要な主題である。その主題とは、主の晩餐の礼典にほかならない。
ことによると、キリスト教信仰の中でも、主の晩餐ほど徹底的に誤解されているものはないかもしれない。ほぼ千八百年もの間、これほど多くの議論、不和、論争につきまとわれてきた点はない。これほどその思い違いによって多大な害を及ぼしてきた点はない。今日ですら、今なおその戦いは盛んになされつつあり、キリスト者たちの間にどうしようもない分裂を招いている。私たちを平安と益をもたらすために設けられた儀式そのものが、不一致の原因、罪のきっかけとなっているのである。このようなことがあってはならない!
私は、何の弁解もせずに、この主の晩餐を、実際的キリスト教の主要な点の中にふくめようと思う。私が堅く信ずるところ、信仰を告白するキリスト者同士の現在の分裂の半分は、この礼典に関する無知な見解や、偽りの教理を原因としているのである。ある人々はこれを完全に無視し、ある人々はこれを完璧に誤解し、ある人々はこれを、本来意図されもしなかったような位置にまつりあげ、1つの偶像にしてしまっている。もしここで、多少なりともこの主題の上に光を投じて、少しでも多くの人の疑いを拭い去ることができたなら、幸いこれにすぐるものはない。残念ながら、主が再び来られるまで、主の晩餐に関する論争に終止符を打てる見込みはまずありえないと思う。しかし、一部の人々の思いを混濁させている迷いや謎や曖昧さを、平明な聖書の真理によって拭い去ることくらいは、望んでよいはずである。
主の晩餐の礼典を吟味するにあたり、私は4つの実際的な問いを発し、それらに答えを返すことでよしとしたい。
I. 主の晩餐はなぜ制定されたのか。
II. 聖餐にあずかることができ、陪餐者となれるのはだれか。
III. 陪餐者は主の晩餐から何を期待できるか。
IV. 多くのいわゆるキリスト者たちが決して主の晩餐に集おうとしないのはなぜか。私が思うに、この4つの問いを公正かつ正直に、また偏見なしに扱うならば、この論考の主題をより明瞭に理解できるだけでなく、現代における際立った誤りのいくつかについて、明確な、地に足のついた考え方ができるようになるであろう。私は「地に足のついた」という言葉を強調したい。本書の主たる目的は、実際的キリスト教信仰を押し進めることにあるからである。
I. まず第一のこととして、主の晩餐はなぜ制定されたのだろうか?
この問いへの答えには、教会の教理問答の言葉を用いようと思う。私の確信するところ、これにまさる定義はない。主の晩餐が制定されたのは、「キリストの死による犠牲と、その犠牲からわれらが受けとる祝福とを不断に記念させるため」である。----主の晩餐で裂かれ、与えられ、食されるパンは、十字架上で私たちの罪の犠牲とされたキリストの肉体を私たちに記念させるためのものである。注がれ、受けとられる葡萄酒は、十字架上で私たちの罪のため流されたキリストの血潮を私たちに記念させるためのものである。そのパンを食べ、葡萄酒を飲む人は、自分の魂のためキリストが獲得してくださった種々の恩恵と、そうしたすべての恩恵のかなめであり、転回点であるキリストの死とを、この上もなく印象的に、また力強く記念させられるのである。
さて、このように述べられた見解は、新約聖書の教理であろうか? そうでないとしたら、これは永久に否認され、廃棄され、拒否されなくてはならない。だがそうであるとしたら、私たちはこれを堅く信じて決して恥じないようにし、これを信ずる立場を表明し、自分の信仰をその上にかけ、それ以外の見解をいだくことは、だれが何と教えようと、頑として拒否しよう。このような主題において、私たちはいかなる者をも師と呼んではならない。高位の主教や学識ある聖職者が、どれほど勝手な意見を発表しようと、そこにほとんど意味はない。もし彼らが神のみことばにふくまれている以上のことを教えるなら、彼らを信ずるべきではない。
私は自分の聖書を手にとり、新約聖書を開いてみる。そこには、主の晩餐が最初に定められた場面について物語る独立した記事が四箇所もある。聖マタイ、聖マルコ、聖ルカ、聖パウロの四人全員が、それを書き記している。私たちの主がこの記念すべきおりに何をなさったかについては、この4つの記述はみな完全に一致している。----しかし、そのパンを食べ、その杯を飲むべき理由として、主が何と弟子たちにお語りになったか告げているのは二人しかいない。聖パウロと聖ルカは、ふたりとも、この注目すべきことばを記している。「わたしを覚えてこれを行ないなさい」。----聖パウロは、彼自身の霊感された解説をつけ加えて云う。「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせる(あるいは宣言する、あるいは布告する)のです」(ルカ22:19; Iコリ11:25、26)。聖書がこれほど平明に語っているのに、人はなぜこれだけで満足できないのだろう? なぜ私たちは、新約聖書がこれほど単純明快に記している主題を神秘化し、混乱させなくてはならないのだろう? 「キリストの死を不断に記念すること」こそ、主の晩餐が制定された大目的であった。これを越えて進む者は、神のみことばに付け足しをしているのであって、自分の魂に大きな危険を招いているのである。
さて、私たちの主が、「ご自分の死を絶えず記念させる」などという単純な目的のために1つの儀式をお定めになったのは、理にかなっているだろうか? まぎれもなく理にかなったことである。地上で主が行なわれたすべての働きの中で、その死ほど重要な事実は1つもない。それは人間の罪を償う大いなる贖罪であって、世界の土台が据えられる前から神の契約で定められていたことであった。それは全能の御力による大いなる贖いであって、人間の堕落以来、あらゆる動物の犠牲が絶えず指し示してきたことであった。それはメシヤが世に来られた主たる目的また目当てであった。それは人間のすべての希望、赦し、神との平和のかしら石であり、基盤であった。つまり、いかにキリストが生き、教え、説教し、預言し、奇蹟を行なわれたとしても、もし主が最後に私たちの身代わりとして私たちの罪のために死ぬことをなさらなかったとしたら、他のすべてはことごとく無駄になったのである。主の死は私たちのいのちであった。主の死は、神に対する私たちの負債を帳消しにすることであった。主の死がなければ私たちは、すべての被造物の中で一番哀れな者であろう。この救い主の死を私たちに記念させるため1つの儀式が特別に定められたのは何の不思議でもない。まさにそれこそ、貧しく弱く罪深い人間が絶えず記念させられなくてはならないことである。
果たして新約聖書は、主の晩餐が制定されたのはいけにえとされるためであり、主の晩餐においてキリストのからだと血はパンと葡萄酒という形のもとに臨在しているのだ、というような人々に正当な根拠を与えているだろうか? 絶対にそんなことはない! 主イエスが弟子たちに向かって、「これはわたしのからだです」、と、また、「これはわたしの血です」、と云われたときに意味しておられたのは、明らかに、「わたしが手にしているこのパンは、わたしのからだの象徴であり、わたしが手にしているこの葡萄酒の杯には、わたしの血の象徴が入っているのである」、ということであった。弟子たちは、主のこのような言葉遣いに慣れていた。彼らは主がこのように云ったことを覚えていた。「畑はこの世界であり、良い種とは御国の子どもたち……です」(マタ13:38 <英欽定訳>)。弟子たちにとって、主がご自分のからだとご自分の血を手に携え、その肉体と血を自分たちに文字通り与えて食べさせ、飲ませようと仰っているのだ、などというのは、思いも寄らないことであった。新約聖書の記者のうちひとりとして、この礼典をいけにえとして語っているような者、聖餐式を祭壇と呼んでいるような者はいない。キリスト教の教職者をいけにえを捧げる祭司であるとほのめかす者すらいない。新約聖書が一様に教えているのは、キリストがただ一度いけにえをおささげになった後では、いかなるいけにえをささげる必要もない、ということである*1。
果たして英国国教会の祈祷書は、主の晩餐が制定されたのはいけにえとされるためであり、主の晩餐においてキリストのからだと血はパンと葡萄酒という形のもとに臨在するのだ、というような国教徒に正当な根拠を与えているだろうか? もう一度答えよう。絶対にそんなことはない! 祈祷書の中に祭壇という言葉は一言も記されていない。主の晩餐は一度もいけにえなどと呼ばれてはいない。聖餐式礼拝の全体を通じ、この儀式の意味として絶えず私たちの注意を引きつけているのは、キリストの死の「記念」ということである。この式次第の末尾に付された執行規定は、キリストの真の肉体と血がパンと葡萄酒という形のもとで臨在しているなどということを、この上もない平明さをもって明確に否定している。その執行規定の明白な主張によると、「キリストの真の肉体と血は天にあり、ここにはない」。国教徒と名乗りながら、主の晩餐における「祭壇」や「いけにえ」や「祭司」や「実在」について嬉々として語る多くの人々は、自分が英国国教会によって全く用いられていない言葉遣いをしていることを思い出すがよかろう。
私たちの前にあるのは、途方もなく重要な点の1つである。私たちはこの点を堅くにぎりしめ、決して手放さないようにしよう。これこそ、わが国の宗教改革者たちがローマカトリック教徒たちと最も激しく論争した点であり、譲歩するよりは火あぶりになることを選んだ点であった。主の晩餐がいけにえであると認めるくらいなら、彼らは喜んで自分のいのちを投げ出した。「実在」の教理に後戻りし、古き良き英国国教会の聖餐式をローマカトリック教の「ミサ」に変えてしまうのは、わが国の殉教者たちを侮辱し、プロテスタント宗教改革の第一の原則を覆すことである。否、むしろそれは、神のみことばのはっきりとした教えを無視し、私たちの主イエス・キリストの祭司職の栄誉を奪うことにほかならない。聖書の明確な教えによれば、主の晩餐が制定されたのは、「キリストのからだと血を記念する」ためであって、いけにえとするためではなかった。聖書の教えるところ、十字架上におけるキリストの身代わりの死は、罪のための唯一の完全ないけにえであって、決して繰り返される必要のないものであった。私たちは、キリスト教信仰のこの2つの大原則に堅く立ち続けよう。主の晩餐の意図を明確に把握しておくことこそ、現代の種々の迷妄に対する魂の最上の防護策である。
II. 第二のこととして、陪餐者として許されるのはだれかという点について示させていただきたい。聖餐にあずかり、主の晩餐を受けるべきであるとされていたのは、いかなる種類の人々だったのだろうか?
本論に移る前の地ならしとして最初に示したいのは、いかなる人々がこの儀式にあずかってはならないか、ということである。この点についてはびこっている無知は、この主題の他のあらゆる側面についての無知と同じように、途方もなく、嘆かわしく、ぞっとさせられるものである。もし私がこの点についていささかでも理解の光を投ずることができたとしたら、幸いこれにすぐるものはない。ジョン・バニヤンが「天路歴程」で、キリスト者の巡礼の前に立ちふさがる危険な巨人として描き出したのは、法皇巨人と異教徒巨人であった。もしこの古き良きピューリタンが私たちの生きているこの時代を予見したとしたら、彼はきっと無知巨人についても語っていたに違いない。
(a) バプテスマを受けたすべての人を陪餐者になるよう促すのは正しくない。この儀式にはふさわしさや、備えというものがあるのである。これは何かの薬のように、それを受ける者たちの精神状態と無関係に働くものではない。自分の会衆全員に向かって聖餐式に集うようにせきたてる人々の教えは、あたかも聖餐式に出席すること自体がいかなる者にも必然的に益をもたらさずにはおかないというかのようであるが、これは全く聖書から正当化できることではない。否、むしろこれは、人々の魂に多大な害を及ぼし、この礼典を受けることをただの形式にしてしまいかねない教えである。無知は決して満足な礼拝の母にはなれず、なぜ集うのか知らぬまま聖餐式に出席する無知な陪餐者は、全く場違いなところにいるのである。----「ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい」。----「みからだをわきまえ」ること、----すなわち、パンと葡萄酒という物素が何を表わしているかを理解し、それらがなぜ定められたかを理解し、さらにキリストの死を記念することが具体的に何の役に立つのかを理解すること----は、真の陪餐者に必須の資格である。神は、「どこででもすべての人に悔い改め」と福音を信ずること「を命じておられ」る(使17:30)。しかし神は、それと同じようには、また同じしかたでは、聖餐式に集うことをすべての人に命じてはおられない。否。これは無分別に、あるいは軽率に、あるいは軽々しく受けとってよいことではないのである! これは厳粛な儀式であり、厳粛に用いられなくてはならない。
(b) しかしこれがすべてではない。公然たる罪の中に生きていて、頑としてそれをやめようとしない罪人たちは、決して聖餐式に出席してはならない。そうすることは、キリストをあからさまに侮辱し、キリストの福音に軽蔑を注ぐことである。キリストの死を必要ならしめた、呪わるべきものにしがみついていながら、キリストの死を記念したいなどと告白するのは、たわごとである。人が罪の中にとどまり続けているという事実だけで、その人がキリストのことを大切に思っておらず、贖いに対して何の感謝も感じていない明々白々な証拠である。司祭による告解聴聞席に赴き、赦罪を得る無知なローマカトリック教徒は、自分はローマカトリック教のミサに出席するにふさわしくなったと考え、ミサの後で自分の種々の罪に舞い戻っていけるかもしれない。彼は決して聖書を読むことがなく、それが悪だとは全くわかっていないのだから、それもしかたなかろう。しかし常習的に神の戒めを破っていながら、礼典に赴き、あたかもそれが彼に益をもたらし、自分の罪を拭い去ってくれるかのようにみなしている英国人は、まぎれもなく非常に罪深い者である。そうした邪悪な習慣を保ち続けようとしている限り、彼はキリストの儀式から何1つ益を受けることはできず、罪に罪を重ねているだけでしかない。悔い改めていない罪を聖体拝領台まで携えていき、そこでパンと葡萄酒を受けつつ、内心では自分と邪悪さがまだ友誼を結んでいることを自覚しているのは、人間に行なえる最悪の罪の1つであり、良心を何よりもかたくなにしてしまう悪の1つである。もし人がその種々の罪と縁を切ろうとせず、それを捨てられないというのであれば、そういう者は万難を排しても主の晩餐から遠ざけておくべきである。世の中には「ふさわしくないままで食べ、飲む」ということがあり、その飲み食いが自分を「さばく」ということがあるのである。これらの言葉が完全にあてはまる者として、公然たる罪人にまさるものはない。
(c) しかし、それでも終わりではない。自分自身の行ないによって救われようとする、自分を義とする人々は、聖餐式に出席すべき何の筋合もない。一見奇異に思えるかもしれないが、こうした人々は、あらゆる者の中で、この礼典を受ける資格に最も欠けているのである。彼らはうわべは品行方正で、道徳的な生き方をしているかもしれないが、自分自身の善良さにより頼んで救いを得ようとしている限り、彼らが主の晩餐に集うというのは全くの筋違いなのである。なぜなら、私たちは主の晩餐で何を宣言しているのだろうか? 私たちが公に告白しているのは、私たち自身には何の善良さも、義も、価値もなく、自分のすべての希望はキリストにある、ということである。自分が有罪であり、罪深く、腐敗しており、生まれながらに神の御怒りとさばきに値する者である、ということである。自分の功績ではなくキリストの功績、自分の義ではなくキリストの義こそ、神に受け入れていただく望みをいだける唯一の理由だ、ということである。さて、このような儀式と、自分を義とする人間とに何の関わりがあるだろうか? 明らかに皆無である。ともかく1つのことだけは非常にはっきりしている。自分を義とする人間に、英国国教会の礼典を受ける筋合は一切ない。国教会の聖餐式礼拝がすべての陪餐者に命じているのは、彼らが「自分自身の義により頼んで聖餐式に来るようなことをせず、神の数限りない、また大いなるあわれみにより頼んで来る」ことである。----それが彼らに云うよう告げているのは、----「われらは、汝が食卓の下のパンくずを集める値打ちだになし」、であり、----「われらが罪の記憶はいと重く、その重荷は耐えがたし」、である。----自分を義とする国教徒がどうして聖餐式に集って、こうした言葉を口にできるかは、私の理解を越えている! そこからわかるのはただ、信仰を告白する多くのキリスト者たちが、卓越した礼拝「形式」を用いていながら、それらの意味をまともに考慮しようとしていない、ということである。
率直に云えば主の晩餐は、死んでいる魂のためにではなく、生きている魂のために設けられたのである。軽々しい者、無知な者、悪を故意に行なう者、自分を義とする者が聖体拝領台のもとに進み出るのは、王の宴会に死体がすわるのと同じくらいふさわしくない。霊的な宴会を楽しむには、霊的な心と、霊的な嗜好と、霊的な食欲がなくてはちなくてはならない。キリストの儀式が霊的でない人間にも益をもたらしうるなどと考えるのは、死人の口にパンと葡萄酒をつっこむのと同じくらい愚かなことである。軽々しい者、無知な者、そして故意に悪を行なう者は、そうした状態にとどまり続ける限り、全く陪餐者となるにはふさわしくない。彼らに出席するよう促すのは、彼らに益をもたらさず害をもたらすことである。主の晩餐は人を回心させたり、義と認めさせるための儀式ではない。人が聖餐式に未回心のまま、あるいは罪赦されないまま出席したとしても、全く何の足しにもならぬまま出てくるであろう。
しかし、こうした誤りを一掃した後でも、答えなくてはならない問題は手つかずのまま残っている。----陪餐者となるべき人とは、いかなる種類の人々なのだろうか? この問題には、教会の教理問答の言葉で答えようと思う。そこでは、このような問いがなされている。「主の晩餐に集う人々に求められていることは何か?」 その答えには、こう教えられている。すなわち、人は「自分を吟味すべきである。果たして自分は、過去の罪を真に悔い改めているか。新しい人生を送ろうと堅く決意しているか」。----果たして自分は、「キリストによる神のあわれみを信ずる鋭敏な信仰を有しているか。感謝をもってその死を思い起こしているか」。----また果たして自分は、「あらゆる人々を愛しているか」。---- 一言で云えば、ふさわしい陪餐者には3つの単純なしるしと資格があるとされているのである。----それは、悔い改めと信仰と愛である。人は真に罪を悔い改め、それを憎んでいるだろうか? イエス・キリストを自分の救いの唯一の希望として信頼しているだろうか? 他者に対する愛に生きているだろうか? この3つの問いに対していずれも、「そのようにしています」、と云える人には、主の晩餐を受ける聖書的な資格があるのである。そうした人は大胆に進み出るがいい。そうした人の前にはいかなる障壁も置いてはならない。その人は、聖書の記す陪餐者の基準を満たしているのである。その人は確信をもって近づくことができ、その宴の偉大な主人の不興を買ってはいないという確証を感ずることができるのである。
その人の悔い改めは非常に不完全なものかもしれない。気にすることは全くない! それは実質を伴っているだろうか? その人は真の悔い改めを少しでも有しているだろうか?----キリストを信ずるその人の信仰は非常に弱いものかもしれない。気にすることは全くない! それは実質を伴っているだろうか? 1ペニー貨がまぎれもなくわが国の現行貨幣であり、まぎれもなく女王の肖像が刻印されていることは、ソヴリン金貨にいささかも劣ってはいない。その人の愛は、その量と程度において欠陥だらけかもしれない。気にすることは全くない! それは純粋なものだろうか? ある人のキリスト教信仰をためす最大の試金石は、その人の有する恵みの量ではなく、その人が少しでも恵みを有しているかどうかである。キリストが自らパンと葡萄酒をお与えになった最初の十二名の陪餐者らは、実に欠け多い者らだった。----知識に欠け、信仰に欠け、勇気に欠け、忍耐に欠け、愛に欠けていた! しかし、そのうちの十一名には、そのすべての欠陥を補って余りあるものがあった。彼らは実質を伴った、純粋で、真摯で、真実な者だったのである。
この大原則を私たちは永遠に肝に銘じておこう。----ふさわしい陪餐者とは、神に対する悔い改めと、私たちの主イエス・キリストに対する信仰と、他者に対する実際的な愛とを経験によって知っている者にほかならない。あなたはそうした人だろうか? ならばあなたは聖餐に近づくことができ、その礼典を受けて慰められることができる。私は、陪餐資格として、これよりも低い基準を定めることはできない。私は、決して聖体拝領台を軽々しく、無知で、自分を義とする列席者らで賑わせる気持ちにはなれない。----また、陪餐資格としてこれよりも高い基準を定めようとも思わない。私はいかなる者にも決して、完全になっていなければ去るがいいとか、御使いのように明鏡止水の心境になるまで待っているがいいなどと告げはすまい。なぜなら、私の主もその使徒たちもそうはすまいと信じているからである。自分のもろもろの罪を心から痛感し、キリストに真により頼み、聖くなろうと真に苦闘している人がいるなら、私は自分の主人の名によってその人を歓迎するであろう。その人は弱く、誤りがちで、頼りなく、か弱く、疑いに満ち、みじめで、貧しい者であることを自覚しているかもしれない。それが何だというのか? 私の信ずるところ、聖パウロはその人を正当な陪餐者として受け入れたであろうし、私も同じようにするであろう。
III. 第三のこととして考察したいのは、聖餐式に集い、主の晩餐に出席することで陪餐者はいかなる益を得られると期待できるか、ということである。これはゆゆしく重大な点であり、途方もない誤りがはびこっている点である。ことによると、この儀式にまつわるあらゆる点の中で、これほどキリスト者たちの見解があいまいで、おぼろで、曖昧模糊としている点はないかもしれない。
人々の間に行き渡っている1つの考え方は、「礼典にあずかる人は、いやでも益を受けずにはいられない」、というものである。彼らは、なぜそうなるのかを説明できない。それがいかなる益かも正確に語れない。しかし彼らのいだく、しまりのない、大まかな考えによると、陪餐者になるのは正しいことであり、それが不可思議なしかたで彼らの魂の役に立つのだという! これはもちろん、まるきりの無知と変わるところがない。このような陪餐者がキリストを喜ばせることができるとか、自分の行動により真の益を受けることができるなどと考えては筋違いである。もし聖書の中に、信仰による礼拝行為について明確に規定されている原則が1つあるとしたら、それはこのことである。----すなわち、それは知性によるものでなくてはならない。礼拝者は少なくとも自分が行なっていることについてある程度は理解していなくてはならない。精神も心も伴っていない、ただの身振りそぶりだけでしかない礼拝は、全くもって無価値である。型通りにするために、また自分の牧師がそうせよと云うので聖体拝領台まで進み出て、パンを食べ、葡萄酒を飲みつつ、それが何を意味しているか全く明確な考えを有していないという人は、何の益も引き出すことがない。その人は家にとどまっていたのと全く変わらないであろう!
もう1つ人々の間に行き渡っている考え方は、「礼典にあずかることは人を天国に至らせる助けとなり、彼らの罪を取り除く」、というものである。こうした人を欺く考え方こそ、一部の教区民が一年に一回礼典に赴き、かつてある老農夫が云ったように、「一年分の罪を拭い去ろう」とする習慣の元凶になっていると考えられよう。またこうした考え方こそ、病のときに牧師を呼びにやり、死ぬ前に礼典を受けようとするという、あまりにもよくある慣行のもととなっていると考えられよう。悲しいかな、いかに多くの人々が、不敬虔きわまりない人生を送ってきた自分の親族について、彼らが死につつあるとき礼典にあずかったとしいう、ただそれだけで、それ以外に何の良い理由もなしに、慰めを感じていることであろう! 彼らが悔い改めたか、信じたか、新しい心を得たか、そうした人々は知りもせず、意に介そうともしないように見える。そうした人々が知っているのは単に、「彼らは死ぬ前に礼典にあずかった」、ということでしかない。私は、このような証拠に立って人々が心を安んじているのを聞くたびに、やり切れない思いがする。
こうした考えはいずれも、主の晩餐について人々の思いを満たしている無知の嘆かわしい証拠である。これらは、聖書でも祈祷書でも全く正当化されていない考えである。これらが打ち捨てられ、投げやられるのが早ければ早いほど、教会にとっても世界にとっても幸いであろう。
私たちは、主の晩餐が義認のための手段としても、回心のための手段としても与えられたのではないことを心に堅く銘記しようではないか。これは決して、まだ何の恵みもない所に恵みを与えたり、まだ何の赦しも受けていない心に赦しを授けたりするために与えられたものではない。これは、神に対する悔い改めと、主イエス・キリストに対する信仰の欠如を埋め合わせることなど絶対にできない。これは悔悛者のための儀式であって、悔い改めていない者のための儀式ではない。----回心者のための儀式であって、未回心者のための儀式ではない。悔い改めと信仰という昔ながらの道を踏まずに、礼典にあずかることによって天国への近道をすることができるなどと夢みる未回心者は、いつの日か自分が完全に思い違いをしていたことに気づいて臍をかむであろう。主の晩餐は、人が有している恵みを増し加え助けるために与えられたものであり、その人がまだ持っていない恵みを分け与えるために与えられたのではない。それは、私たちを神との平和を持つ者としたり、義と認めたり、回心させたりするためのものでは決してなかった。
真に誠実な陪餐者が主の晩餐から受けとることを期待できる恩恵は、教会の教理問答のこの言葉によって簡潔に云い表わされている。----すなわち、「私たちの魂を強め、活気づける」ことである。----キリストとその贖いについてのより明確な見解、キリストが私たちの仲保者、弁護者として占めておられるあらゆる職務についてのより明確な見解、キリストがその十字架上における身代わりの死によって私たちのために獲得してくださった完全な救済についてのより明確な見解、神の御前で私たちがキリストを通して完全で万全に受け入れられていることについてのより明確な見解、罪のため深く悔い改めるべきより新しい理由、鋭敏な信仰を持つべきより新しい理由、----これらこそ、信仰者が主の晩餐に出席することで得られると確信をもって期待できる主立った報いである。正しい精神でパンを食べ、葡萄酒を飲む者は、自分がキリストとのより親しい交わりに引き入れられていることに気づき、キリストをより親しく知り、より深く理解していることが感じられるであろう。
(a) 主の晩餐を正しく受けることには、魂をへりくだらせる効果がある。こうしたキリストのからだと血との象徴を見ることによって私たちは、罪がいかに罪深いものであるかを思わさせられる。神ご自身の御子の死による以外、償いをつけることができず、私たちをその咎から贖い出すことができなかったというからには、いかに罪の罪深いことであろう。確かに聖体拝領台の前に膝まづく時にまさって、私たちが「謙遜を身に着け」なくてはならない時はない。
(b) 主の晩餐を正しく受けることには、魂を元気づける効果がある。裂かれたパンと注がれた葡萄酒を見ることによって私たちは、自分たちの救いがいかに万全で、完全で、十全なものかを思わさせられる。こうしたあざやかな象徴は私たちに、どれほど莫大な代価が私たちの贖いのために支払われたかを思い起こさせてくれる。これらが私たちに否応なしに突きつける偉大な真理、それは、私たちの負債のために十分な支払いがすでになされた以上、キリストを信ずる私たちには何も恐れることはない、ということである。「キリストの尊い血」は、私たちに向かって持ち出されうるあらゆる請求に答えてくれる。神は「ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになる」ことができるのである(ロマ3:26)。
(c) 主の晩餐を正しく受けることには、魂をきよめる効果がある。パンと葡萄酒によって私たちは、自分がいかに大きな恩義を私たちの主に対して負っているか、またいかに自分の罪のために死んでくださった主のため徹底的に生きるべき義務があるかを思わさせられる。これらは、あたかも私たちに向かってこう云っているかのようである。「お前のためにキリストが何をしてくださったか思い出すがいい。そして、その主のために、何かもったいなさすぎてできないようなことが1つでもあるか自ら問うてみるがいい」、と。
(d) 主の晩餐を心で正しく受けとることには、魂を抑制する効果がある。信仰者が聖体拝領台の前に進み出るたびに思わさせられるのは、キリスト者であることがいかに重大なことであるか、またいかに首尾一貫した生き方を送るべき義務を負っていることか、ということである。このパンと葡萄酒が思い出させるような代価をもって買い取られた自分は、主の所有とされたこのからだと霊において、キリストの栄光を現わすべきではなかろうか? 主の晩餐に規則正しく、また知性をもって集う人は、罪に屈すること、世にならうことがいやまさって困難になっていくことに気づくものである。
これらが、正しい心をした陪餐者が主の晩餐から受け取ることを期待できる恩恵についての手短な説明である。そのパンを食べ、その杯を飲むことで、そうした人は自分の悔い改めを深め、自分の信仰を増し加え、自分の知識を広げ、自分の聖い生き方の習慣が強められるであろう。その人は、自分の心の中におけるキリストの「実在」をいやまさって悟るであろう。信仰によってそのパンを食べることでその人は、キリストのからだとのより親密な交わりを感ずるであろう。信仰によってその杯を飲むことでその人は、キリストの血とのより親密な交わりを感ずるであろう。その人は、自分にとってキリストがいかなるお方であるか、また自分がキリストにとっていかなる存在であるかをより明確に悟るであろう。また、「キリストとともにあること、キリストがともにおられること」がいかなることかを、より徹底的に理解するであろう。自分の魂の霊的いのちの根元が潤されるのを感じ、心の中の恵みの働きが確かにされ、建て上げられ、前進させられるのを感じるであろう。これらの事がらすべては、生まれながらの人にとってはばからしく聞こえるかもしれないが、真のキリスト者にとっては光であり、健康であり、いのちであり、平安である。真のキリスト者が、主の晩餐を祝福の泉であると悟るのも不思議ではない。
覚えておいてほしいが、私は決して、上でわずかなりとも描写しようとした主の晩餐の祝福が、すべてのキリスト者によって十二分に経験されている、などと云うつもりはない。また、ある信仰者の魂が常に同じ霊的心持ちにあるはずだとか、常に同じだけの恩恵をこの礼典から受け取るはずだ、などとも云ってはいない。しかし、あえてこれだけは云っておく。真の信仰者が、主の晩餐を自分の最上の助け、最高の特権の1つであるとみなさないようなことはめったにないであろう。その人は云うであろう。もし自分から主の晩餐が奪い去られたなら、その損失は自分の魂にとって大きな不利益となりましょう、と。世の中には、奪われるまでは、その価値が決して分からないものがあるものである。主の晩餐もそうしたものであると思う。神の子らのうち最も弱く、最も卑しい者でさえ、この礼典からそれと知らないほどの祝福を受け取っているのである。
IV. 最後のこととして考察したいのは、なぜ多くのいわゆるキリスト者たちが決して主の晩餐に集おうとしないのか、ということである。
バプテスマを受けた、おびただしい数の人々が決して聖餐式に出席しようとしないのは、厳然たる事実である。もしも彼らがだれかから、あなたは信仰を否定しており、実質上キリストと何も交わりを持っていないのだ、などと云われたとしたら、到底がまんできないであろう。彼らは神を礼拝するとき、キリスト教の礼拝所に出席する。宗教的な教えを聞くときには、キリスト教の教えを聞く。結婚するときには、キリスト教の式を挙げる。子どもたちが洗礼を受けるときには、バプテスマの礼典を受けさせてほしいと云ってくる。にもかかわらず彼らは、決して主の晩餐には集おうとしない! 彼らはしばしばこのような精神状態のまま何年も暮らし、全く恥じるようすを見せない。彼らはしばしばこうした状態のまま、一度としてこの礼典を受けることなく死んでいく。しかしそれでも彼らは、臨終の際には自分は希望が感じられると告白し、その友人たちも彼らについての希望を表明する。だのに彼らは、キリストの明白な命令に公然と背きながら生き、死んでいくのである! これらは単純な事実である。だれでも自分のまわりを見回してみて、できるものならそれを否定してみるがいい。私はだれはばかることなく云おう。英国のあらゆる礼拝所に集う会衆のうち、その大多数は陪餐者となろうとしない人々であって、陪餐者の方は少数である。これを否定できるものならしてみるがいい。
さて、これはなぜであろうか? こうしたことの説明はどうつくのだろうか? 私たちの主イエス・キリストがその弟子たちに与えた最後の訓令は、明確で、明白で、取り違えようのないものである。主はすべての者に云っておられる。「食べて、飲みなさい。わたしを覚えて、これを行ないなさい」、と。主は、ご自分の訓令に留意するかしないかを、私たちの勝手な判断にまかせられただろうか? ご自分の弟子たちが、今制定されたばかりの儀式を守ろうが破ろうがたいしたことではない、などと云われただろうか? 絶対に違う。そのような考えそのものがばかげており、使徒時代には夢にも思われなかったことに違いない。----聖パウロは明白に、すべてのキリスト者が陪餐者であることを当然視していた。決して聖餐式に集おうとしないような部類の礼拝者など、彼には存在が知られていない部類のキリスト者であった。それでは、聖餐式日曜ごとに、私たちの教会から悪びれもせず、おどおどしたようすもなく、恐れなく、恥じもせずに歩き去って行く大勢の非陪餐者について、私たちは何と云うべきであろうか? なぜそうなのか? いかにしてそうなるのか? これらはみな何を意味しているのか? これらの問いに真っ正面から公正に向き合い、それらに答えを出してみようではないか。
(1) 1つのこととして、多くの人々が陪餐者とならないのは、彼らが全く軽率で、キリスト教信仰をまともに受けとらず、キリスト教の基礎中の基礎にあたる原則について無知であるためである。彼らは、単に型通りに行なうために、また他の人々も行くからというので教会にやってくる。しかし彼らは、教会で何がなされているか知りもせず、気遣いもしない! キリストへの信仰は、彼らの心にも、頭にも、意志にも、理性にも何の位置も占めていない。それは、ただの「ことばや名称」に関する問題であって、彼らはそれをフェストやガリオ並みにしか理解していない。聖パウロの時代には、そのようなキリスト者は、たとえいたとしてもごく少数であった。だがこの、万事が摩滅し、荒廃しつつあるように思われる世の終わりの時代には、そうした者らがあまりにも多すぎる。こうした者らは教会の重荷であり、キリスト教の恥さらしである。こうした人々に必要なのは光であり、知識であり、恵みであり、良心の刷新であり、変えられた心である。現在のような状態の彼らは、キリストに何の分け前も、あずかる分もない。そしてこのような状態のまま死ぬなら、天国に入る資格はない。私は彼らが主の晩餐に集うことを願うだろうか? 絶対に否である。彼らが回心するまでは否である。人は回心しない限り、決して神の国に入ることはない。
(2) 別のこととして、多くの人々が陪餐者とならないのは、彼らが何らかの罪を常習的に犯しながら生きていると、あるいはキリスト者としての何らかの義務を常習的に怠りながら生きていると自分でも知っているからである。彼らの良心は彼らに告げているのである。お前は、このような状態で生きている限り、また自分の罪と手を切らない限り、聖餐式に集う資格などない、と。よろしい。それまでのところ彼らはきわめて正しい! 私は自分の罪を捨てることができない人にはだれにも陪餐者となってほしくない。しかし私はこうした人々に警告したい。もし彼らが聖餐式にふさわしい状態にないとしたら、彼らは死ぬのにふさわしい状態にもなく、もし現在のような状態のまま死ぬとしたら永遠に滅びるであろうことを忘れてはならない、と。この礼典にあずかる資格を失わせているのと同じ罪は、彼らが天国に入る資格を確実に失わせるに違いない。そのような状態のままの彼らが主の晩餐に集うことを私は望むだろうか? 絶対に否である! しかし私が彼らに望むのは、悔い改めて回心すること、悪を行なうことをやめ、自分の罪と手を切ることである。永遠に忘れてはならない。主の晩餐にふさわしくない者は死ぬのにもふさわしくないのだ、と。
(3) また別のこととして、ある人々が陪餐者とならないのは、それが自分たちの責任を増すような気がするためである。彼らは多くの人々とは違い、キリスト教について無知でも軽率でもない。彼らは規則正しく恵みの手段に集い、福音の説教を好みさえする。しかし彼らは、前に進み出て告白をすることは気が進まないと云う。彼らが恐れているのは、自分がその後で脱落し、キリスト教の評判に泥を塗るのではないかということである。それで、不確実なことは何もせず、言質を与えるようなことは何もしないに越したことはないと考えるのである。こうした人々が覚えていていいことは、たとえ聖餐式に集わないことである種の責任を回避するとしても、彼らは別の種類の、魂にとっては同じくらい深刻で、同じくらい重い責任を背負い込むことになる、ということである。彼らは、キリストの命令に公然たる不従順を示すという罪に問われる。彼らは、自分の主が絶えずその弟子たちに命じておられること----人前で主を告白すること----を行なうことから尻込みしているのである。疑いもなく前に進み出て礼典を受けるのは重大な一歩である。これは、だれも軽々しく、自己吟味もなしに踏み出してよい一歩ではない。しかし、この儀式を受けるよう招いておられるのがどなたか、また何のためにそれが定められたかを思い起こすとき、それと同じくらい重大な一歩は、歩み去ってその儀式を拒むことである。私は、今話題としている人々に自分が何をしているか注意するよう警告したい。そうした人々は、キリストの明確な命令を無視することが賢明で思慮深く安全な生き方であるなどと自分をごまかしてはならない。さもないと、最後になってから、自分が自分の咎を増し加え、自分へのあわれみを打ち捨ててきたことに気づいて、臍をかむことになるであろう。
(4) さらに別のこととして、ある人々が陪餐者とならないのは、自分にはまだそのような価値がないような気がするためである。自分の内側に完全めいたものを感ずるのでない限り、いかなる者にも主の晩餐にあずかる資格はないという、誤った考えをいだいて彼らは待って、立ちつくしているのである。陪餐者の理想像をあまりに高く掲げすぎ、そんな境地には達せないと絶望しているのである。内なる完全さを持てる日を待ちながら彼らは生き、あまりにもしばしば、それを待ちながら彼らは死ぬ。さてそうした人々が理解すべきなのは、聖餐式に集う本当の「ふさわしさ」を、彼らは完璧に見誤っている、ということである。彼らは忘れているようだが、主の晩餐は、無垢の御使いたちのためのものではなく、弱さに取り巻かれ、誘惑に満ちた世に住み、生きる限り毎日あわれみと恵みを必要とする人間たちのためのものなのである。自分が全く無価値であると感ずることこそ、私たちが聖体拝領台の前に携えていける最も尊いものにほかならない。自分がキリストにすべてを----今有しているすべてと、未来に希望するすべてを----完全に負っていると痛切に感じとっていることこそ、私たちが携えていける最上の感情である。私が今念頭に置いている人々は、果たして自分たちの今の立場が筋の通ったものかどうか、また自分で自分の幸いを妨げていはしないかどうか、真剣に考慮すべきである。もし彼らが自分のうちに完全な心、完全な動機、完全な感情、完全な悔い改め、完全な愛、完全な信仰を感ずるまで待っていなくてはならないとしたら、永遠に待っていなくてはならないであろう。そのような陪餐者はいかなる時代にも存在したことがなかったし、----私たちの主や使徒たちの時代にいなかったことは確実である。----この世の続く限り、決して現われないであろう。否。むしろ、自分は完全にふさわしいなどと感ずる思いそのものが、隠れた自己義の徴候であり、神の前で聖餐式を受ける資格がないことを明らかにするものにほかならない。私たちは最初に罪人として恵みの御座の前に出る。----そして死ぬまで罪人であり続ける。回心し、変えられ、新しくされ、きよめられはしても、それでも罪人のままである。つまり、いかなる者も、自分が「みじめな罪人」であると痛切に感じていない限り、真にふさわしい陪餐者ではないのである。
(5) 最後のこととして、ある人々が陪餐者となるのを拒むのは、彼らの見るところ、聖餐式に集う他の人々がふさわしくない人々、正しい精神の状態をしていない人々だからである。他の人々がふさわしくないままで飲み食いしているために彼らは、飲み食いを全く拒絶するのである。はっきり云わなくてはならないが、非陪餐者が、キリストの儀式を無視する理由としてあげるあらゆる立場の中で、これほどばかげた、これほど根拠薄弱な、これほど筋の通らない、これほどまるで非聖書的なものを私は知らない。これは、主の晩餐など決して受けるつもりはない、と云うにひとしい! この地上で、陪餐者の全員が回心しているような集会などどこに見いだせようか?----それは他人をさばく、この上もなく不健康な態度をとることである。「隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか」。「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」。----それは、単に他の人々が濫用し悪用しているからといって、偉大な特権を自分から放棄することである。----それは、自分が主ご自身よりも賢いふりをすることである。もし聖ルカの言葉が全く意味のないものでなければ、イスカリオテ・ユダも最初の聖餐式には出席しており、他の者たちとともにパンと葡萄酒を受けたのである。----それは聖書から全く正当化されない立場をとることである。聖パウロは一部の陪餐者たちの不敬なふるまいについて厳しくコリント人たちを叱責しているが、ふさわしくないまま聖餐式に集う者がいるなら他の者は身を引いて出席を控えよ、などとは、どこを見ても一言もほのめかしてはいない。私が今念頭に置いているような非陪餐者には、書かれていることを越えて賢くならないように用心せよ、と助言させてほしい。そうした人々は麦と毒麦のたとえを学び、いかにその両者が「収穫まで、両方とも育つままに」されたか注目するがいい(マタ13:30)。完璧な教会、完璧な会衆、完璧な陪餐者らの集会などというものは、いずれもこの混乱と罪の世界においては到達不可能である。私たちはよりすぐれた賜物を求め、他の人々の罪をくいとめるためできる限りのことを行なおう。しかし私たちは、他の人々が無知な罪人であり、自分の食物を毒に変えているからといって、自分を飢えさせるようなことがないようにしようではないか。たとえ他の人々が愚かにもふさわしくないまま飲み食いしているとしても、私たちはキリストの儀式に背を向けたり、全く飲み食いしないなどということをしないようにしようではないか。
これらは、現代のおびただしい数の人々が、キリスト者であると自称しながら決して主の晩餐に集おうとしない理由として、普通あげられる5つの云い訳である。これらには1つの共通した評言があてはまるであろう。この5つの理由は、1つとして「良い」理由と呼ぶに値せず、そうした理由をあげる者を罪とせずにはおかない、ということである。これをだれか否定できるものなら否定してみるがいい。何度も述べたように、私はいかなる者も正当な資格を持たないまま陪餐者となってほしくはない。しかし私が聖餐式に集おうとしない人々に決して忘れてほしくないのは、彼らが自分たちの行動の根拠としている理由は彼らを罪に定めている、ということである。私は彼らに告げたい。彼らは神の前で有罪と宣告されている、と。それは彼らが、陪餐者とはいかなる者か、また主の晩餐とはいかなるものであるかについて非常に無知であるか、正しい生き方をしておらず、死ぬのにふさわしい状態をしていないかのいずれかだからである。つまり、私は聖餐を受けません、と云うということは、次の3つのどれかを口にしているにひとしいのである。----「私は罪のうちに生きているので出席できません。----私はキリストが私に命令しておられることは知っていますが、キリストに従おうとは思いません。----私は無知な人間で、主の晩餐が何を意味しているのかわかりません」。
私はこの論考を手に取っている人が現在いかなる思いをしているか、あるいはその人が主の晩餐についていかなる意見の持ち主であるかはわからない。しかし、この主題全体をしめくくるにあたり私は、すべての人に向けていくつかの警告を発したいと思う。それは、あえて云えばこの時代に特に求められている警告であると思う。
(1) 第一のこととして、主の晩餐への出席を怠ってはならない。主イエス・キリストが定めた儀式を有益に用いることを故意に平然と拒否するような者の魂は、非常に誤った状態にあるに違いない。やがてさばきは来ようとしている。地上における私たちのあらゆる行動についての決算報告を出さなくてはならない日がやって来ようとしている。その日を待ち望み、慰めと平安をもってキリストにお会いしたいなどと云いながら、一生の間キリストご自身の儀式においてキリストと会うことを拒み続けるなどということがどのようにして可能なのか、私には全く理解できない。これはあなたの心を刺す言葉だろうか? では自分の行ないに気をつけるがいい。
(2) 第二のこととして、主の晩餐を軽々しく受けてはならない。不敬な心で、あるいは型通りに行なうだけのために受けてはならない。聖体拝領台の前に進み出て、パンを食べ、葡萄酒を飲みながらも、心ここにあらずという人は、大きな罪を犯しているとともに、自分から大きな祝福を放棄しているのである。ここでは、他のあらゆる恵みの手段と同じく、どのような精神でその儀式を用いるかにすべてがかかっている。悔い改めも信仰も愛もなく、罪とこの世で満ちた心をしたまま近づく者は、まるで向上することなく、むしろ確実に退歩するであろう。これはあなたの心を刺す言葉だろうか? では自分のふるまいに気をつけるがいい。
(3) 第三のこととして、主の晩餐を偶像にしてはならない。聖餐こそキリスト教における第一にして、首位に立つ、最重要の、主要な儀式である、などと云う者は、いざそれを証明しようとすれば四苦八苦するはずである。新約聖書の書物は、その大部分が、一言も主の晩餐にふれていない。教職者の種々の義務について書かれた、テモテおよびテトスへの手紙において、この主題は言及すらされていない。悔い改めて回心すること、信じて聖くなること、新しく生まれて心に恵みをいだくこと、----これらはみな、陪餐者となることよりもはるかに重要な事がらである。こうしたことなしに私たちは救われることができない。主の晩餐がなくても、私たちは救われることができる。悔い改めた強盗は陪餐者にはならなかったが、イスカリオテ・ユダは陪餐者であった! あなたは、主の晩餐をキリスト教のいかなる部分にもまさって優先すべきであると感じているだろうか? それを、祈りや説教よりも上に立つものとしたい気持ちがあるだろうか? 用心することである。自分のふるまいに気をつけるがいい。
(4) 第四のこととして、主の晩餐を不規則に用いてはならない。この儀式が執り行われるときには決して欠席してはならない。いかなる犠牲を払っても出席することである。規則的な習慣は、肉体の健康を保つために欠かせないであろう。あらゆる恵みの手段を規則正しく用いることは、私たちの魂の活力のために欠かせないのである。聖餐式が行なわれるあらゆる機会に集うのは難儀だなどという人は、何か自分におかしな部分がないかどうか、果たして子羊の婚宴に出席する備えができているかどうか点検した方がよい。トマスは、主が最初に弟子たちの一団の前に姿を現わしたとき欠席さえしていなければ、あれほど愚かなことは云わずにすんだであろう。欠席によって彼は祝福を失ってしまったのである。これはあなたの心を刺す言葉だろうか? では自分のふるまいに気をつけるがいい。
(5) 第五のこととして、陪餐者としてのあなたの告白を汚すようなことは何1つ行なってはならない。聖餐式に出席した後で罪に突進していくような者は、ことによると、いかなる罪人よりも大きな悪を行なっているのである。そうした者は悪魔の利益をはかる生きた説教である。そうした者は、主の敵に冒涜の機会を与え、人々をキリストから遠ざけておく手助けをしているにひとしい。嘘つきで、酒飲みで、淫行にふけり、不正直で、かっとなりやすい陪餐者は、悪魔の助力者であり、福音にとって最悪の敵である。これはあなたの心を刺す言葉だろうか? では自分のふるまいに気をつけるがいい。
(6) 最後のこととして、自分の切なる願いにもかかわらず、主の晩餐からたいした益を得られないように感じても、落胆してはならない。悲観してはならない。たぶんあなたは期待が大きすぎるのであろう。たぶんあなたは、自分自身の状態について不正確な判断しかしていないのであろう。自分では何の進歩もしていないと思っている間にも、あなたの魂の根元は強められ、成長しつつあるのかもしれない。たぶんあなたは、地上が天国ではないこと、ここで私たちは信仰によってではなく見るところによって歩み、完全なものは何1つ期待できないことを忘れているのであろう。こうした事がらを心に銘記しておくことである。理由もなく自分を責め苛んではならない。
この論考を手にとって読んでいるあらゆる方に私は勧めたい。この主題のすべては真剣で厳粛な考察に値するものである。私自身、貧しく誤りがちな人間以上の何者でもない。しかし、もし私が何らかの点について心を決めていることがあるとすれば、それはこれに尽きよう。----すなわち、現在、主の晩餐に関する真理ほど、率直な物云いを必要としている真理はない。
_________________________________
*1 「私たちには一つの祭壇があります」、という聖パウロのヘブル人に対する言葉を証拠として、聖餐式を1つの祭壇であると考えている人があるとしたら、私は、決して二流の神学者ではないウォータランドがこの件についてどう云っているか読むことをお勧めしたい。----「キリスト者たちには、彼らのあずかる1つの祭壇がある。その祭壇とは、私たちの主キリスト、すなわち祭壇であり、祭司であり、いけにえであり、すべてを一身に兼ねたお方である」。----ウォータランド全集、第5巻、p.298。オックスフォード版。[本文に戻る]
注記 ここで読者の注意を特に喚起したいのは、カンタベリ大主教であった故ロングリ博士の最後の告諭から抜粋した以下の文章である。
この大主教の占めていた地位、その人格の尋常ならざる穏和さと柔和さ、この告諭が博士の最終的な見解を含んでおり、これが博士の死後まで公表されなかったという事実、----これはみな、この主の晩餐に関する抜粋を格別に興味深いものにしていると思われる。
「私は、聖餐式用祭服の着用を(主の晩餐の執行時に)採り入れるという無分別な行動に走った人々の全員が、ローマカトリック教の誤謬に心寄せているのだ、などと非難するつもりは毛頭ない。しかし、このことは率直に云っておかなくてはならない。これまで刊行された種々の出版物の中には、私たちの教会内におけるそうした部類の人々がいだいている意見の表明と認められるものが明白に示されており、それによれば、信仰を告白する国教会信徒の一部、否、その教職者の一部の考えるところ、人は、ミサの犠牲を捧げるローマ教会の教理は信じようと信ずまいと自由であって、たとえそれを信じていようと、また国教会の式文集からローマ教会の誤謬を異とする宗教改革のあらゆる痕跡を抹消することを公言していようと、英国国教会の囲いの中に自らの立場を保持し続けることができるらしい。こうした人々がこの件について発言するものの云い方は、彼らが所属すると自称する国教会への忠誠とは完全に相容れないものである。彼らはそれを、「プロテスタントの邪説によって著しく汚染された聖餐」と呼ぶ。彼らによれば、「私たちの義務は、悪を取り除くことであって、悪を前にして潰走することではない」。それゆえ、彼らが私たちとともに留まっているのは、聖餐式の代わりにミサを用いるためである、と宣言しても、何ら愛のないことにはならない。だが、わが国の宗教改革者たちが明瞭に意図していたのは、ミサの代わりに聖餐式を用いることである。疑いもなく英国国教会は、あらゆる神秘の中でも最も神秘的なもの、すなわち主の晩餐という礼典についていかなる見解をいだくかについては、相当に幅の広い自由を許容している。そして、『これはわたしのからだです』、『これはわたしの血です』、というあの原初の制定時の厳粛なことばが聖別の文言の中に留まっている限り(また、これらは決してそこから抹消されえないものである)、その限りにおいては、これらのことばを多種多様に解釈する余地はあり、それらのすべては、私たちの国教会への服従と両立しうるものではある。ただし、それには次の3つの条件が守られていなくてはならない。----
「1. これらのことばを、キリストの本来の肉体がこの礼典のうちに存在するかのような意味に解釈しないこと。
「2. これらのことばを、肉体で受けとる聖餐のパンと葡萄酒に対する崇拝や、キリストの本来の肉体や血の何らかの物質的な実在に対する崇拝の許容に結びつくようなしかたで解釈しないこと。
「3. これらのことばを、キリストの肉体と血が再び罪の償いとして捧げられるというような信念の正当化に至るようには解釈しないこと。なぜなら、一度捧げられたキリストは、全世界の原罪と実際の罪との完全な贖い、なだめ、満足であったからである。「これらが、私たちの国教会が私たちのほむべき主のおことばの解釈の自由に課した限度である。
「多くの人々の思いの中で、こうした聖餐式用祭服を着用することと緊密に結びついている思想は、聖餐式の本質的な要素がキリストのみからだと御血潮を神に捧げることにあり、そのみからだと御血潮が聖体聖別の行為の後に神秘的なしかたで物素の中に臨在する、というものである。教職者がそのとき着用する祭服は、犠牲を捧げる祭司としてのものである。この見解に従えば、この聖餐式の最も重要な部分は、私たちが神に捧げるものであって、私たちが神から受けとるものではないことになると思われる。
「この見解は、英国国教会がその式文集において認めるところのものではない。その信仰箇条の第二十五箇条における一般的な定義によると、礼典とは、『恵み……の確実な証拠、また有効なしるしで……それにより、神は、私たちの内側で不可見的にお働きにな……る』ものである。また、主の晩餐についてはことさらにこう云われている(第二十八箇条)。すなわち、それは、『キリストの死による私たちの贖いの礼典である。そのためこれを正しく、ふさわしいしかたで、信仰をもって受けとる者にとっては、私たちが裂くパンはキリストのからだにあずかることであり、同様に祝福の杯はキリストの血にあずかることである』のである。その肉体と血を犠牲とするなどという思想は、こうした厳密な定義のどちらにも全く見いだされない。教理問答もこれと同じ言葉遣いでこの礼典を定義しており、それによると、これは、『私たちに与えられている内的で霊的な恵みの外的で目に見えるしるしである』。また、聖餐式の式次第そのものを吟味しても、問題の見解は何の支持も受けられないであろう。その式次第の中で明確に奉納、あるいは供物に言及しているくだりは、物素の聖別祷の前にある、戦闘の教会のための祈りの中にしかなく、それゆえキリストの肉体と血の供物、あるいは犠牲ではありえない。そして、私たちが行なうものとして語られている唯一の犠牲は、『私たち自身を、私たちの魂と肉体を、霊的な、聖い、生きた供え物として』ささげることでしかない*。私たちの教会は、絶えざるキリストの犠牲などという思想を支持しかねない表現を明らかにすべて細心の注意を払って遠ざけながら、その一方で、十字架上のキリストの死のことを『全世界の罪のための十全にして完全で十分な犠牲として一度限り自分自身をおささげになったもの』と語っている。その犠牲を繰り返したり、罪のためのその他の犠牲を認めたりする余地は何も残されていない。
「トリエント公会議の呼ぶところの、キリストの肉体と血による、真の、現実の、実体的な犠牲というローマカトリック教の観念は、祭壇という用語の使用を伴わざるをえない。しかし、この用語は祈祷書のどこにも見あたらない。疑いもなくそれは、こうした犠牲説に何の支持も与えないために省かれたのである。それゆえキリストの肉体と血を物質的な物素において絶えざる犠牲として捧げるという観念は、私たちの礼拝式の精神にも文字にも異質なものであって、私の主張するところ、初期の教父たちの教理にとっても、私たちの教会の主要な神学者たちの教理にとっても異質なものである。この後者の点についても、私は後で確証するよう努めるであろう。
「他方、それと同時に、実在説がある意味で英国国教会の教理であることも否定できない。国教会の主張するところ、キリストの肉体と血は、『まことに、また真実に、主の晩餐において信仰者により受けとられる』のである。そしてそれと等しく主張されるのは、そうした臨在が物質的なものでも肉体的なものでもなく、キリストのからだは『この晩餐において、天的で、霊的なしかたにおいてのみ、与えられ、受けとられ、食される』、ということである(信仰箇条第28条)。キリストの臨在は、彼のみからだが裂かれ、御血潮が流された目的と意図たるすべてのことにとって効力を有している。信仰者の心の中以外の場所における臨在について、英国国教会は沈黙を守っており、それゆえこのフッカーの言葉が国教会の見解を代表するものである。『キリストの最もほむべきみからだと血との実在は礼典のうちに求められるべきではなく、その礼典をふさわしく受けとる者のうちに求められるべきである』」。
* 『祈祷書に関する聖職者代議員報告』、p.320を参照されたい。[本文に戻る]
HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT