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5. 聖書を読む


「聖書を調べなさい」----ヨハ5:39[新改訳欄外訳]
「あなたはどう読んでいますか」----ルカ10:26

 キリスト教信仰において、祈りの次に重要なのは、聖書を読むことにほかならない。神は恵み深くも私たちに一冊の本を与えてくださった。それは、「私たちに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができる」*本である(IIテモ3:15)。その本を読むことによって私たちは、何を信ずるべきか、どうあるべきか、何をすべきか学ぶことができる。いかにすれば慰めをもって生きられ、いかにすれば平安のうちに死ねるか学ぶことができる。幸いなるかな、聖書を所有している者は! さらに幸いなるかな、それを読んでいる者は! 何よりも幸いなるかな、それを読むだけでなく、それに従い、それを自分の信仰と行為の基準としている者は!

 それにもかかわらず悲しむべきは、不幸にも人間が、神の賜物を濫用することに長けているという事実である。人間のあらゆる特権、力、能力は、それが本来授けられた目的とは別の目的のため巧妙に悪用されている。人間の言語能力、想像力、知性、力、時間、影響力、金銭は、----自分の創造主の栄光を現わす道具として用いられるかわりに、----浪費されるか、自分の利己的な目的のために使われるのが通例である。そして人は、他の恵みをたやすく悪用してしまうのと同じように、書かれたみことばをも悪用するのである。キリスト教界全体は、あまねく1つの告発を受けてしかるべき状態にあるといえよう。その告発とは、聖書の軽視と濫用である。

 この告発を証明するのに、海外に目を向ける必要など全くない。その証拠は、私たち自身のうちにある。疑いもなく今現在の英国には、世界が始まって以来かつてなかったほど大量の聖書がある。聖書の販売と購入----聖書の印刷と配布----は、英国の国家創設以来、これまでないほどの規模で行なわれている。どこの書店に行っても聖書が置いてあり、----ありとあらゆる大きさ、価格、装幀の聖書、----大型の聖書、小型の聖書、----富者のための聖書、貧者のための聖書が置かれている。わが国のほぼ一家に一冊は聖書がある。しかし、こうしたすべてにもかかわらず私たちには、1つ忘れていることがあるのではなかろうか。聖書を持っていることと、それを読んでいることとは、まるで別のことなのである。

 この、ないがしろにされている聖書こそ、私がきょう、この論考を読んでおられる方々に向けて語りたいことである。確かに、あなたが聖書についてどうしているかは、決して軽い問題ではない。確かに、疫病が流行しているときには自分に悪疫の発疹が出ていないか調べてみるべきである。しばらくの間、私の語ることに注意を払っていただきたい。これから私は、いくつかの平明な理由をあげて、なぜ自分の魂について気遣う人がだれしも聖書を重んじなくてはならないか、なぜそれを規則正しく学ばなくてはならないか、なぜその内容に精通していなくてはならないかについて語っていこうと思う。

 I. まず第一のこととして、この世に存在するいかなる本も、聖書のようなしかたで書かれてはいない。

 聖書は、「霊感によるもの」である(IIテモ3:16)。この点において聖書は、他のいかなる著作とも全く異なっている。神は聖書の著者たちに何と云うべきをお教えになった。神は彼らのペンを導いて、そうした種々の観念と思想を書き記された。それを読むときあなたは、あなたと同じ貧しく不完全な人間たちが独力で編み出した文章を読んでいるのではない。永遠の神のことばを読んでいるのである。それを聞くときあなたは、定命のはかない生者らの、誤りがちな意見に耳を傾けているのではない。王の王の普遍の思いに耳を傾けているのである。聖書をしたためるために用いられた人々は、自分から語ったのではない。彼らは、「聖霊に動かされ」て語ったのである(IIペテ1:21)。世界中の他のすべての本は、どれほどそれなりに健全で有益なものではあっても、多かれ少なかれ欠陥を帯びている。調べてみればみるほど、欠陥や欠点が目についてくる。聖書だけが、絶対的に完璧である。冒頭から末尾に至るまで、それは「神のことば」である。

 私はこの点について、微に入り細を穿った証明を長々と続けて時間を無駄にはすまい。あえて云おう。この本そのものが、その霊感の最上の証人である、と。そう考える以外に、いかなる説明も解釈も全く成り立たない。これは今も働き続ける、世界最大の奇蹟である。聖書が霊感されたものではないと云う者は、できるものなら、聖書について筋の通った説明をしてみせるがいい。この本の独特の性質と性格について、常識を有するいかなる人をも満足させるような説明をしてみるがいい。その立証責任は、私の考えるところ、そういう人にあると思われる。

 ある人々が主張するように、聖書の著者たちに文体の違いがあるということも、全く霊感を否定する証拠にはならない。イザヤはエレミヤのようには書いていないし、パウロはヨハネのようには書いていない。これは、まごうことなき事実である。----にもかかわらず、こうした人々の著作は、霊感されているという点では何の優劣もない。海原の水面には、さまざまに違った色合いがある。ある所では青く見えるが、別の所では緑に見える。しかしその違いは、目に見える部分の深さや浅さや、海底の性質によっているのである。どんな場合も海水は、塩気のある同じ海水である。----人の息は、手にした楽器の性質しだいで、種々に異なった音を出すことができる。横笛、縦笛、トランペットには、それぞれ独特の音色がある。しかし、そうした種々の音色を生じさせている息は、どんな場合にも全く同一である。----私たちが天空に見る種々の惑星の光は多種多彩なものである。火星と土星と木星は、それぞれ独特の色をしている。しかし私たちは、それらが反射させている太陽の光が、どんな場合にも全く同一であることを知っている。それと全く同じように、旧約聖書と新約聖書はみな霊感された真理ではあるが、聖霊がそうした真理の導管となさった者らの精神に応じて、見かけ上は異なっているのである。著者たちの筆跡や文体には、各人が個別の個性をもった存在であったことを証明するに足るだけの違いがある。しかし、その全体を口述し、指示なさった神聖な導き手は、常におひとりである。すべては同じように霊感されている。あらゆる章、あらゆる節、そして言葉は神から出ているのである。

 おゝ、願わくは霊感に関する疑いと、疑念と、懐疑的な思いとに悩んでいる人々が、自分自身で聖書を静かに吟味してみるように! おゝ、願わくは彼らが、アウグスティヌスを回心へと踏み出させた助言に従って行動するように!----「取りて読め!----取りて読め!」 いかに多くのゴルディオスの結び目が、こうした行動をとることによって断ち切られることであろう! いかに多くの困難や反論が、日の出の前の朝もやのように消え失せてしまうことであろう! いかに多くの人々がすぐに告白するであろう。「ここには神の指がある! 神がこの本におられるのに、私はそれを知らなかった」、と。

 この本こそ、私が、この論考を読んでおられる方々に向けて語りたいことである。確かに、あなたがこの本についてどうしているかは、決して軽い問題ではない。神はあだやおろそかにこの本を「あなたがたを教えるために書かせた」*のではなく、あなたがたはあだやおろそかに「神のいろいろなおことば」*を前にしているのではない(ロマ3:2; 15:4)。私はあなたに命ずる。あなたに要求する。私の問いに正直な答えを返していただきたい。あなたは聖書についてどうしているだろうか?----そもそも、それを読んでいるだろうか?----あなたはどう読んでいるのか?

 II. 第二のこととして、人が救われるため絶対に必要な知識は、聖書に見いだされる事がらの知識以外にない。

 私たちが生きている時代は、ダニエルの言葉が私たちの眼前で成就している時代である。----「多くの者は知識を増そうと探り回ろう」(ダニ12:4)。種々の学校は、四方八方で増設されつつある。新しい専門学校は、陸続と設立されている。いくつもの古い大学は改革され、改善されつつある。新刊書は絶え間なく出版されている。世界が始まって以来かつてないほど多くのことが教えられつつあり、----多くのことが学ばれつつあり、----多くのことが読まれつつある。これはみな良いことである。私もそれを喜んでいる。いかなる国にとっても、無知な大衆は危険で、不経済な重荷である。衆愚は、彼らを誘惑して悪を行なわせようとして最初に現われるアブシャロムや、カティリナや、ワット・タイラーや、ジャック・ケードのたやすいえじきとなる。しかし、このことは云っておく。----私たちが決して忘れてならないのは、人間は頭の教育をいくら授けられても、魂を地獄から救い出すことはできず、それには聖書の真理を知るほかない、ということである。

 人はどれほど博覧強記の知識の持ち主であっても、必ずしも救われるとは限らない。その人は、世界のあらゆる言語の半分を使いこなせるかもしれない。天と地の間にある、あらゆる高次で深遠な事がらに通暁しているかもしれない。万巻の書を耽読し、歩く百科事典のようになっているかもしれない。天の星々、----空の鳥たち、----地の獣たち、海の魚たちのことを、掌をさすように知っているかもしれない。ソロモンのように、「レバノンの杉の木から、石垣に生えるヒソプに至るまでの草木について語り、獣や鳥やはうものや魚についても語」れるかもしれない(I列4:33)。火と空と土と水のいかなる秘密をも論述できるかもしれない。だがしかし、もしその人が聖書の真理について無知なまま死ぬとしたら、それはみじめな死に方である! 化学は決して罪意識をいだく良心を静めたことかない。数学は決して砕かれた心を癒したことがない。世界のありとあらゆる科学をもってしても、決して臨終は穏やかなものとされたことはない。いかなる地上の哲学も、いまだかつて死に臨んで希望を与えたことはない。いかなる自然神学も、いまだかつて聖なる神と会うことを思っておののいている人に平安を与えたことはない。これらすべては地から出た、地上的なことであって、人を決して地上以上の段階へ引き上げることはできない。それらは人を、同じ定命の者らよりは尊大ぶった足どりで歩ませ、そっくり返らせ、短い地上の生の間を苛立ちつつ過ごさせたりするかもしれないが、決してその人に翼を与えて、天に向かって舞い上がらせることはない。そうした知識を他のだれよりも有している人といえども、最後には、聖書の知識がなければ永久の所有物を何も手にしていないことに気づくであろう。死が、その人の達成したあらゆることに終止符を打ち、死後、それらはその人に全く何の益ももたらさないであろう。

 人はどれほど無知な人間であっても、救われることはできる。その人は、一言も読めず、一字も書けないかもしれない。自分の地元を越えた地理については全く知らず、パリとニューヨークのどちらが英国に近いか全くわからないかもしれない。算数についてはまるで無知で、百万と一千のどこが違うか全く知らないかもしれない。歴史についてもまるで無知で、自分の国に最も恩恵をもたらしたのがセミーラミス[伝説のアッシリヤ女王]なのか、ボアディケア[古代ケルト人のイケニ族の女王]なのか、エリザベス女王なのか全くわかっていないかもしれない。自分の時代についてもまるで無知で、国の財政を管理しているのが大蔵大臣なのか、全軍総司令官なのか、カンタベリ大主教なのか答えることができないかもしれない。科学とその発見についてもまるで無知で、----ユリウス・カエサルがその数々の戦勝を得たのは火薬力によってかどうか、使徒たちの時代には印刷機があったか、太陽が地球のまわりを回っているのかどうか、皆目見当もつかないかもしれない。だがしかし、もしそうした人が聖書の真理を耳で聞き、心で信じているとしたら、その人は自分の魂を救うに足ることを知っているのである。その人は、最後には、アブラハムのふところにいるラザロとともにいることになるであろうが、その人の、科学知識に通じた同胞は、回心せずに死んだ場合、永遠に失われるであろう。

> 最近は科学や「実用的な知識」について大いに喧伝されている。しかし結局は、聖書の知識こそ、唯一必要な、また永遠に役に立つ知識にほかならない。人が天国に行き着くには、金銭も、学識も、健康も、友人もいらない。----しかし、聖書知識なしには決してそこに到達することはありえない。人は強力無比の精神と、その強力な精神で把握できる限りのあらゆる知識を蓄えた記憶を有しているかもしれない。----だがしかし、もしその人が聖書の事がらを知っていなければ、その魂は永遠に滅びるであろう。わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。聖書について無知なまま死ぬ人々に![黙8:13]

 この聖書こそ、私がきょう、この論考を読んでおられる方々に向けて語りたいことである。あなたがこのような本についてどうしているかは、決して軽い問題ではない。それはあなたの魂のいのちに関わっているのである。私はあなたに要求する。----あなたに命ずる。これから私が発する問いに正直な答えを返していただきたい。あなたは聖書についてどうしているだろうか? それを読んでいるだろうか? あなたはどう読んでいるのか?

 III. 第三のこととして、この世に存在するいかなる本も、聖書ほど重要な内容をふくんではいない

 聖書の中に見いだされ、聖書だけでしか見いだされえない偉大な事がらを、ことごとく詳細にわたって十分述べようなどとしたら、いくら時間があっても足りるまい。聖書の秘宝は、手短に述べたりあらましを語ったりするだけでは決して示すことはできない。この本の全体を、聖書が明らかにしている独特の真理の一覧をあげて埋め尽くすこともたやすいであろうが、それでも聖書の富の半分は全く語られないままであろう。

 そこには何と輝かしく、何と魂を満ち足らわすような描写が、神の救いのご計画について、また私たちのもろもろの罪が赦される方法についてなされていることか! 罪人を救う神-人なるイエス・キリストのこの世への到来、----キリストが私たちの身代わりに苦しみ、正しい方が悪い人々の身代わりとなったことによって成し遂げられた贖い、----キリストがご自分の血によって私たちのもろもろの罪のために支払われた完全な代価、----ただイエスを信ずるだけでいかなる罪人にも与えられる義認、----御父、御子、聖霊が喜んで受け入れ、赦し、完全に救おうとしておられる意欲、----これらすべての真理の、何と云いつくしがたく壮大で、心喜ばせるものであろうか! 私たちはこうしたことを聖書なしには何1つ知りえない。

 聖書は、いかに慰めに満ちた記述を新約時代の偉大な大祭司、----人なるキリスト・イエスについて与えてくれていることか! その肖像画は、四度にもわたって私たちの前で描かれている。四人の独立した証人が、その数々の奇蹟と伝道活動について語ってくれている。----そのことばとその行ない、----その生とその死、----その力とその愛、----その優しさとその忍耐、----そのしぐさ、そのことば、その働き、その思い、その心を語ってくれている。神はほむべきかな、聖書の中には、どれほど偏見に満ち満ちた読者でさえ到底理解しないではいられないことが1つあるのである。そして、その1つとはイエス・キリストのご人格にほかならない!

 聖書の中に記された善良な人々の模範は、いかに心強める励ましを与えてくれることか! そこで告げられているのは、私たちと同じような人間であった多くの人々、----私たちと同様に心労や、苦難や、家族や、誘惑や、患難や、病を持っていた男女である。----だがしかし、彼らは「信仰と忍耐によって約束のものを相続」し、無事に故郷へ帰り着いたのである(ヘブ6:12)。こうした人々の生涯について聖書は何1つ隠し立てしていない。彼らの過ちも、弱さも、戦いも、経験も、祈りも、賛美も、有益な生き方も、幸いな死も、----すべてが完全に記録されている。そして聖書は私たちに、こうした人々の神であり救い主であるお方は今も恵み深くあろうと待ちかまえておられ、いささかも変わってはおられないことを告げている。

 聖書は、いかに教訓に富む悪人たちの実例を示してくれることか! そこで告げられているのは、私たちと同じように光と知識と機会を持っていながら、にもかかわらず、その心をかたくなにし、世を愛し、自分の罪にしがみつき、自分勝手に歩みたがり、叱責をあなどり、自分の魂を永遠に滅ぼしていった男女のことである。そして、それが私たちに警告しているのは、パロや、サウルや、アハブや、イゼベルや、ユダや、アナニヤとサッピラを罰した神は、決して変わることのない神であり、地獄はある、ということである。

 聖書には、神を愛する人々が役立たせることのできる、いかに尊い約束がふくまれていることか! ほぼあらゆる緊急事態や状況に対して、聖書には、何らかの「時宜にかなったことば」がふくまれている。そして、聖書が人々に告げているのは、神はこうした種々の約束によって思い出されることを切に願っておられ、もし神があることを行なうと云われたなら、神の約束は確かに実行される、ということである。

 聖書は、キリスト・イエスを信ずる者たちに、いかにほむべき希望を差し出していることか! 死の時に望んでも平安を、----墓の向こう側における安息と幸福を、----復活の朝における栄光のからだを、----最後の審判の日における完全にして勝利に満ちた免罪を、----キリストの御国における永遠の報いを、----ともに相会う日における主の民同士の喜ばしい会合を、----これらが、これらこそがあらゆる真のキリスト者が未来にいだく望みである。それらはみなこの本に記されている。----その内容のすべてが真実である本に。

 聖書は、人間の性格に関して、いかに驚くべき光を投げかけていることか! それは私たちに、いかなる立場、いかなる境遇にあろうと、人間がどのようなものであるか、また、どのようなことを行なうはずであるか、教えてくれている。それは私たちに、人間の行動の隠れた源泉と動機について、また人間という作用因の支配下にある事の自然な成り行きについて、この上もなく深遠な洞察を与えてくれる。それは真に「心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができ」る(ヘブ4:12)。箴言や伝道者の書にふくまれている知恵の何と深いことか! とある昔の聖職者がこう云った言葉を私はよく理解できる。「燭台と聖書さえ与えてくれれば、暗黒の地下牢に閉じこめられても私は、全世界がどのように動いているか何もかも云い当ててみせよう」。

 こうしたことはみな、人が聖書の中でしか見いだすことのできない物事である。おそらく私たちは、聖書がなければ自分たちの知識がいかに乏しいものであったか、まるで思い及ばないであろう。私たちは自分の呼吸している空気や、私たちに降り注ぐ太陽のありがたみをほとんどわかっていない。それらがない世界がどのようなものか一度も経験したことがないためである。私がここまで長々と述べてきたような真理のありがたみが私たちにわかっていないのは、こうした真理が啓示されていない人々の暗黒を悟っていないためである。確かに、いかなる言葉も、この一巻の書物におさめられている財宝の価値を余すところなく云いつくすことはできないであろう。いみじくも老ジョン・ニュートンは云う。自分の評価によれば、ある本はの本であり、ある本はの本であり、ごく少数の本がの本であるが、----聖書だけは全ページが銀行券でできた本のようだ、と。

 この聖書こそ、私がきょう、この論考を読んでおられる方々に向けて語りたいことである。確かに、あなたが聖書についてどうしているかは、決して軽い問題ではない。この宝をあなたがいかに用いているかは、決して軽い問題ではない。私はあなたに命ずる。あなたに要求する。私の問いに正直な答えを返していただきたい。----あなたは聖書についてどうしているだろうか?----それを読んでいるだろうか?----あなたはどう読んでいるのか?

 IV. 第四のこととして、この世に存在するいかなる本も、聖書ほど素晴らしい影響を人類全般に及ぼしてはこなかった

 (a) これこそ、その教理によって使徒たちの時代に世界をひっくり返した本である。

 今をさかのぼること十八世紀前に、神は数人のユダヤ人を地上の片隅から遣わし、1つの働きを行なわせようとされた。その働きは、人間の判断によれば、到底不可能と思えたに違いない。神が彼らを遣わした当時は、全世界が迷信と残虐行為と情欲と罪とで満ちあふれていた。神が彼らを遣わした目的は、地上ですでに定着していた諸宗教が贋物で、役立たずで、捨て去られなくてはならないと宣言させるためであった。神が彼らを遣わしたのは、人々を説得して、先祖伝来の習慣や慣習を捨てさせ、異なる生き方をさせるためであった。神が彼らを遣わして戦わせた相手は、この上もなく野卑な偶像礼拝と、へどの出るほど邪悪な不道徳と、種々の既得権階級と、種々の古くからある連合団体と、頑迷な祭司階級と、せせら笑う哲学者たちと、無知な住民と、残忍な皇帝たちと、古代ローマの全勢力であった。あらゆる点から見て、これほどドンキホーテ的な、これほど成功の見込みの薄い事業はかつてなかった!

 だが神は、どのようにしてこの戦いに赴く彼らを武装させたのだろうか? 神が彼らに持たせたのは、肉の武器では全くなかった。神が与えたのは、人々に同意を強要できるいかなる世俗的権力でも、信仰におびき寄せる手段にできるいかなる世俗的富でもなかった。神は単に聖霊を彼らの心に宿らせ、聖書を彼らの手に持たせただけであった。神が彼らに命じたのは、単にその聖書の教理を解き明かし、説明し、断固として主張し、世に広めることだけであった。紀元一世紀のキリスト教の説教者は、マホメットのような、剣と軍隊を率いて、人心を恐怖に陥れようとする人間ではなかった。----ヒンドスタンの恥ずべき種々の偶像に仕える祭司たちのような、官能の欲にふけるお墨付きを与えて人々を誘惑しようとする人間でもなかった。否! 彼は、一冊の聖い本を持った一個の聖い人にすぎなかった。

 だがこの一書の人々は、いかなる成功をおさめただろうか? 数世代のうちに彼らは、聖書の教理によって社会の様相を一変させてしまった。彼らは異教徒の神々の数ある神殿をからっぽにした。彼らは偶像礼拝をすたれさせ、座礁して見捨てられた船の残骸のようにしてしまった。彼らは世の人々の間に、より高い基調の道徳をもたらした。彼らは女性の身分と立場を引き上げた。彼らは清廉さと上品さの基準を変えてしまった。彼らは剣闘士による決闘といった、残虐で血なまぐさい慣習の多くに終止符を打った。----その変革を押しとどめることは何物にも不可能であった。次から次へと勝利が続いた。迫害しても反対しても無駄であった。悪徳は次から次へと消え失せていった。人々は、好むと好まざるとにかかわらず、知らぬ間に、この新しい宗教運動に影響されていき、その力の渦巻の中に引き込まれていった。地は震え動き、彼らの腐った隠れ家は倒壊してしまった。彼らは洪水が押し寄せてきて、自分の足をさらい、押し上げてしまったことに気づいた。キリスト教という樹木は根を張り枝を広げ、その生長を押しとどめようとして彼らが幹に巻きつけた鎖は、糸くずのようにぷっつり切れてしまった。だが、これらはみな聖書の教理によってなされたのである! 実際、他の何が勝利であろう! アレクサンドロス大王や、カエサルや、 マールバラ公や、ウェリントンらの戦勝は、私が今言及したような数々の勝利にくらべれば何であろう? その広がりと、徹底的な深さと、結果と、永続性において、聖書の数々の勝利にまさる勝利は何1つない。

 (b) この本こそ、あの輝かしいプロテスタント宗教革命の時代にヨーロッパをひっくり返した本である。

 五百年前のキリスト教界の歴史を読めばだれしも、信仰を告白するキリスト教会全体をいかなる暗黒が覆っていたか、それこそ鼻をつままれても判らぬほどの暗黒が覆っていたことがわかるであろう。それまでキリスト教にもたらされていた変化のとてつもなさは、たとえ使徒がひとり死者の中からよみがえったとしても、それがキリスト教であるとは全く気づかず、異教の宗教が息を吹き返したに違いないと考えたであろうほどのものであった。福音の数々の教理は、人間の伝承という巨塊の下に埋没していた。種々の苦行や、巡礼、免罪符、聖骨崇拝、聖像崇拝、聖人礼拝、処女マリヤ礼拝が、あらかたの人々のキリスト教信仰の実質的な根幹となっていた。教会は1つの偶像とされていた。教会の司祭や聖職者たちがキリストの位置を簒奪していた。だが、いかなる手段によって、こうした悲惨な暗黒のすべてが一層されたのだろうか? それは、ほかならぬ、聖書を今一度、世に知らしめることによってであった。

 単にルターや彼の友人たちの説教によって、プロテスタント主義はドイツに確立されたのではない。かの国における教皇の権力を転覆させる大きなてことなったのは、ルターが翻訳したドイツ語訳聖書であった。----単にクランマーや英国の改革者たちの著作によって、ローマカトリック教は英国で倒壊させられたのではない。そのように進展させられた働きの種子は、それよりはるか以前に、まずウィクリフが聖書を翻訳したことによって蒔かれていたのである。----単にヘンリー八世とローマ教皇がいさかいをおこしたことによって、英国人の精神に及ぼされていた教皇の支配力がゆるめられたのではない。それをしたのは、聖書を翻訳して、諸教会に据え置くことを許し、望みさえすればだれでもそれを読むことができるようにした国王の許可であった。しかり! 聖書を読み、聖書を流布させたことこそ、英国とドイツとスイスにおいてプロテスタント主義の運動を確立させた主たる要因であった。もしもこうしたことがなかったならば人々は、おそらく初代の改革者たちの没後は、以前のくびきに戻っていたことであろう。しかし聖書を読むことによって大衆の精神は、しだいに真のキリスト教信仰の諸原理による変容を及ぼされていったのである。人々の目は徹底的に開かれていった。彼らの霊的理解は徹底的に広げられていった。ローマカトリック教の忌まわしい性質は明確に目に見えるようになった。純粋な福音の卓越性は、彼らの心の中に堅く根ざした概念となった。そうなってしまえば、いくら代々の教皇が破門状を叩きつけようが無駄であった。いくら王たちや女王たちが火と剣をもってプロテスタント主義の運動を押し止めようとしても役に立たなかった。時はすでに遅かった。大衆はあまりにも多くを知ってしまった。彼らは光を見てしまった。喜びの叫びを聞いてしまった。真理を味わい知ってしまった。太陽が彼らの精神を照らしてしまった。うろこは彼らの目から落ちてしまった。彼らのうちにおいて、聖書はその定めの働きを行なってしまっており、その働きをなかったことにすることはできなかった。人々はエジプトに戻ろうとはしなかった。時計の針を逆に回すことはできなかった。知的で、道徳的な革命がもたらされてしまっていた。そしてそれをもたらしたのは主として神のみことばであった。聖書のもたらす革命こそ真の革命である。ヴェルトゥーの記す種々の革命が何であろうか、----フランスと英国がくぐり抜けてきた革命が、これらにくらべれば何であろうか? いかなる革命も、聖書によってなしとげられたものほど、少ない流血と、多大な満足と、永続的な結果に恵まれてはいない!

 この本こそ、常に国家の安寧のかなめとなり、現在キリスト教世界に位置するあらゆる国家の利益が分かちがたく結びついている本にほかならない。聖書がどれだけ尊ばれているか否かに正確に比例して、光と暗闇、道徳と不道徳、真のキリスト教信仰と迷信、自由と専制、良い法律と悪法がその国には見いだされる。こころみに歴史書をひもといてみれば、その証拠が過去の時代には読みとれるであろう。列王の時代のイスラエルの歴史にそれを読みとってみるがいい。なんとはなはだしい邪悪が当時ははびこっていたことか! しかし、そこに何の不思議があろうか? 主の律法の姿は完全にかき記され、ヨシアの時代に発見されるまで、神殿の片隅に投げ出されていたのである(II列22:8)。----私たちの主イエス・キリストの時代のユダヤ人たちの歴史に、それを読みとってみるがいい。律法学者やパリサイ人、また彼らの信仰は、何とすさまじい姿をさらしていたことか! しかし、そこに何の不思議があろうか? 聖書は、「人の言い伝えのために無に」*されてしまっていたのである(マタ15:6)。----中世のキリスト教会の歴史にそれを読みとってみるがいい。その無知と迷信の話ほどひどい光景がどこにあるだろうか? しかし、そこに何の不思議があろうか? 人が聖書の光を有していないとき、時代は当然暗いであろう。

 この本こそ、文明世界が、その最良にして最も称賛に値する種々の制度の多くを負っている本である。ほとんどの人にとって思いもよらぬことだろうが、人が公共の益のために採用した多くの良い慣習は、その起源を明らかに聖書にたどれるのである。聖書は、それが受け入れられた土地に恒久的なしるしを残してきた。社会秩序を守る最良の法律の多くは、聖書から引き出されている。真理と誠実と夫婦関係に関する規範は、聖書からとられてきている。それらはキリスト教国で行き渡り、----たとえ多くの場合 ほんのしるし程度にしか尊重されていないとしても----キリスト者らと異教徒らを截然と区別しているものである。聖書のおかげで私たちは、哀れな人間に対する最も慈悲深い恵みたる安息日の休息を得ている。聖書の影響があればこそ、ほとんどすべての人道的、慈善的な制度が現在存在しているのである。病者や、貧者や、高齢者や、孤児や、精神異常者や、精薄や、盲人は、聖書の感化が及ばされる前の世界ではほとんど、あるいは全く顧みられることがなかった。こうした人々を救済する制度の記録を求めてアテネやローマの歴史を調べても無駄である。悲しいかな! 世の中には聖書をあざ笑い、聖書などないほうが世界はよっぽどうまくやっていけるなどと云う人々が大勢いる。彼らは自分たちがどれほどの恩恵を聖書からこうむっているかほとんど考えていないのである。病に倒れ、現代の大病院で横たわる無宗教の労働者は、今のその安楽さのすべてが、自分の軽蔑してやまない本のおかげであることをほとんど考えることがない。もし聖書がなかったとしたら、彼はみじめに、だれからも顧みられることなく、人知れず孤独に死んでいたかもしれない。まことに私たちの生きている世界は、すさまじく恩知らずな世界である。私の信ずるところ、最後の審判の日になるまで、正確にどれほどの恩恵が聖書によって世界にもたらされたかが明らかになることはないであろう。

 この素晴らしい本こそ、私がきょう、この論考を読んでおられる方々に向けて語りたいことである。確かに、あなたが聖書についてどうしているかは、決して軽い問題ではない。敵を征服する将軍たちの剣、----英国艦隊を勝利に導いたネルソンの座乗艦、----メナイ海峡に吊り橋をかかげた液圧式圧搾機、これらはみなそれぞれ、偉大な力に用いられた道具として興味深いものである。しかし私がきょう語っている本は、それよりも千倍も強大な器なのである。確かに、あなたがこれにしかるべき関心を払っているかどうかは決して軽い問題ではない。私はあなたに命ずる。あなたに要求する。きょう私の問いに正直な答えを返していただきたい。----あなたは聖書についてどうしているだろうか?----それを読んでいるだろうか?----あなたはどう読んでいるのか?

 V. 第五のこととして、この世に存在するいかなる本も、聖書ほど、それを正しく読む人に大きな益をもたらしはしない

 聖書はこの世の知恵を教えると公言してはいない。それが書かれたのは、地質学を教えるためでも天文学を教えるためでもない。それはあなたに数学も、自然科学も教えはしないであろう。それはあなたを医師にも、法律家にも、技師にもしてくれないであろう。

 しかし、私たちが考えるべき世界は、いま現在人が住んでいる世界のほかに、もう1つあるのである。人が創造された目的は、金儲けをして働くことのほかにもあるのである。人が顧慮すべき利益は、自分のからだのこと以外にもあるのである。すなわち、自分の魂にかかわることである。その不滅の魂にかかわる利益こそ、聖書が特に押し進めることができるのである。もしあなたが法律を知りたければ、ブラックストンやサグデンの著書を調べるであろう。もしあなたが地質学や天文学を知りたければ、ハーシェルやライエルの著書を調べるであろう。しかしもしあなたが、いかにして自分の魂が救われることができるか知りたければ、あなたは書かれた神のみことばを調べなければならない。

 聖書は、「人に知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができる」*(IIテモ3:15)。それはあなたが知らなくてはならないすべてのことを教え、あなたが信じなくてはならないすべてのことを指し示し、あなたが行なう必要のあるすべてのことを説明できる。それはあなたに、あなたがいかなる存在か----罪人であること----を示すことができる。それはあなたに、神がいかなるお方か----完全に聖いお方であること----を示すことができる。それはあなたに、赦しと平安と恵みとの偉大な与え主であられるお方----イエス・キリスト----を示すことができる。私は、ブレア、ラザフォード、ディクソンという三人の有名な説教者の時代、スコットランドを訪れ、彼らの説教を次々に聞いてきた一人の英国人の話を読んだことがある。彼の言葉によると、最初の説教者は彼に神の威光を示し、----二番目の説教者は彼にキリストの麗しさを示し、----三番目の説教者は彼に彼自身の心のすべてを示したという。聖書の栄光であり美であるところは、それが最初の章から最後の章に至るまで常に、この3つのことを多かれ少なかれ教えているということである。

 聖霊によって心に適用された聖書は、魂が最初に神に回心させられるときに用いられる大きな道具である。その途方もない変化は通常、人が何らかのみことばの聖句あるいは教理を、その良心において痛切に感じとることから始まる。このようなしかたで聖書は、幾万もの道徳的奇蹟をなしとげてきた。それは酔っぱらいを素面にし、----不身持ちな者を貞淑にし、----盗人を正直者にし、----暴虐な気質の者を柔和にしてきた。それは、人々の生活の方向を全く変革してきた。それは、彼らの古いものを過ぎ去らせ、彼らのありかた全体を新しくしてきた。それは世的な人々に、神の国をまず第一に求めることを教えてきた。それは快楽を愛する者たちに、神を愛する者となることを教えてきた。それは人々の情愛の流れを下向きにではなく、上向きに流れることを教えてきた。それは人々に、常に地上のことだけを考えるかわりに天のことを考えさせ、見えるところによってではなく信仰によって生かしてきた。それはこうしたすべてを世界のあらゆる場所でなしてきた。それはこうしたすべてを今もなしつつある。無知蒙昧な人々が信じているローマカトリック教の種々の奇蹟など、たとえそれらが本当のことだとしても、これらすべてに比べたら何ほどのことがあろう? 真に偉大な奇蹟とは、みことばによって毎年のようになされている数多くの奇蹟にほかならない。

 聖霊によって心に適用された聖書は、回心の後で人々が信仰のうちに建て上げられ、確立されるために用いられる主たる手段である。それは彼らをきよめ、聖め分かち、義の訓練を受けさせ、すべての良い働きのためにふさわしく整えられた者とする(詩119:9; ヨハ17:17; IIテモ3:16、17)。御霊は普通、こうしたことを書かれたみことばによって行なわれる。それは、みことばが読まれることによる場合もあれば、みことばが説教されることによる場合もあるが、みことばを抜きにして行なわれる場合は、万が一あるとしても、めったにあることではない。聖書は信仰者に、いかにすればこの世で神を喜ばせる歩みができるかを示すことができる。いかにすれば人生のあらゆる人間関係においてキリストの栄光を現わすことができるか、いかにすれば良い主人、良いしもべ、良い臣民、良い夫、良い父親、良い息子になることができるかを教えることができる。それは信仰者をして、種々の患難と欠乏とを、つぶやくことなく堪え忍ばせ、「それは良いことだ」、と云わせることができる。信仰者をして、死の瀬戸際にあるときにも、「私はわざわいを恐れません」、と云わせることができる(詩23:4)。最後の審判と永遠のことを思っても、不安にさせないことができる。ひるむことなく迫害に耐えさせ、キリストの真理を否定するくらいなら自由も命も投げ出させることができる。信仰者は魂がまどろんでいるだろうか? それは彼を覚醒することができる。----彼はつぶやいているだろうか? それは彼を慰めることができる。----彼は間違いを犯しつつあるだろうか? それは彼を回復させることができる。----彼は弱いだろうか? それは彼を強くすることができる。----彼は人々の間に入り交じっているだろうか? それは彼を悪から遠ざけておくことができる。----彼はひとりでいるだろうか? それは彼と語り合うことができる(箴6:22)。これらすべてを聖書はあらゆる信仰者のために行なうことができる。----最大の信仰者のためだけでなく、最小の信仰者のためにも、----最も富んだ信仰者のためだけでなく、最貧の信仰者のためにも行なうことができる。これはすでに幾万もの人々のためになされてきたし、毎日幾万もの人々のためになされつつあることである。

 聖書を有し、聖霊を心に有している人は、自分を霊的に賢くするため絶対必要なすべてのものを持っている。その人には、自分のためにいのちのパンを割ってくれる司祭など必要ない。自分をすべての真理に導き入れてくれる由緒ある伝統だの教父らの著作だのは必要ない。その人の前には真理の泉が開かれているのである。それ以上何が必要だろうか? しかり! たとえその人がたったひとりで牢獄に閉じこめられようと、無人島に流されようと、----二度と教会や教職者や礼典を目にすることがなくとも、----もしも聖書さえ持っているなら、その人には無謬の導き手があるのであり、それ以外に何もいらない。その聖書を正しく読もうとする意志さえあれば、聖書は確実に天国へ至る道をその人に教えるであろう。ここにのみ、無謬の権威は存している。それは教会にはない。公会議にもない。教職者たちにもない。書かれたみことばにのみ存しているのである。

 (a) 救いに至る力など聖書にはなかった、と云う多くの人々がいることは私も承知している。彼らによると、彼らは聖書を読もうとしたが、そこから何も学びとらなかった、という。彼らに見えたのは、難渋で深遠なことだけであった。彼らは私たちに、聖書の力などと語って、どういう意味かと問いかけている。

 答えよう。疑いもなく聖書には難解な事がらがふくまれている。さもなければ、それは神の本ではないであろう。そこには理解困難なことがふくれまれてはいるが、それが難解なのは、私たちにそれらを理解する精神的な理解力がないからにほかならない。そこには私たちの推論の力及ばない事がらがふくまれているが、その説明がつかないのは単に私たちの心の目がぼやけてかすんでいるがためにほかならない。しかし、自分の無知を認めることは、あらゆる知識の礎石そのものであり、土台ではないだろうか? いかなる学問の初学者も、まずは多くのことを無条件に受け入れて初めて、その学問に通ずる第一歩を踏み出せるのではなかろうか? 私たちは自分の子どもたちに、最初は意味のわからない多くのことを学ぶように要求するのではないだろうか? では私たちも、神のみことばを学び出すときには、そこに「深遠な事がら」を見いだすことを期待するべきではなかろうか? そして、たゆみなく読み続けるならば、そうした多くのことの意味はいつの日か明らかになると信ずるべきではなかろうか? 疑いもなく私たちはそのように期待すべきであり、そのように信ずるべきである。私たちはへりくだりをもって読まなくてはならない。多くのことを額面通りに信じなくてはならない。今はわからないことを信じなくてはならない。それらは、やがてわかるようになる。---- 一部はこの世で、すべては来たるべき世でわかるようになる。

 しかし私は、聖書に難解な事がらがふくまれているからといって聖書を読むのをあきらめた人に問いたい。あなたは聖書に、わかりやすく平明な事がらも数多く見いだしたのではなかろうか? 私はその人の良心に問いただしたい。聖書を読んでいる間ずっとあなたは、そこに数々の道しるべや根本原理を見かけなかったのだろうか? 救いに必要な事がらは、さながらランズエンドからテムズ河口に至る英国沿岸の岬という岬に立つ幾多の灯台のように、くっきりと際立ってあなたの眼前にそびえ立ってはいなかったろうか? もしもある汽船の船長が、自分は英国海岸に点在するあらゆる教区や村や入り江を知らないから、などと云って、イギリス海峡の入り口で夜間に投錨するようなことをしたら、私たちはどう考えるべきだろうか? そんな船長は、怠け者の臆病者と考えるべきではなかろうか? なぜなら、リザード半島、エディストン岩群、スタート、ポートランド島、セントキャサリンズ、ビーチ岬、ダンジネス、南北のフォアランド岬の上には、灯火の束のように幾多の灯台が立ち並び、その海峡をさかのぼる際の導きとなる光を煌々と輝かせているからである。私たちは云うのではなかろうか? なぜあなたは導きとなるあの大きな数々の光によって舵をとらないのか、と。では、私たちは、聖書には難解な事がらがふくまれているから読むのをやめるなどという人に向かって何と云うべきであろうか? その人自身の状態や、天国へ至る道筋や、神への仕え方については、日の光のように明確な教えが、取り違えようもないようにことごとく書き記されているのである。確かに私たちはその人に向かって、あなたの反対は怠け者の口実も同然で、耳を貸す価値はない、と告げるべきであろう。

 (b) これまでおびただしい数の人々が聖書を読んできたが、読んでも何の得にもならなかったではないか、と云う多くの反対者がいることは私も承知している。そして彼らは私たちに、だとしたら、聖書のご自慢の力はどうなったのか、と問いかけている。

 答えよう。かくも多くの人々が聖書を読んでも益を得られないでいる理由は、はっきりしており単純なものである。----彼らは聖書を正しいしかたで読んでいないのである。普通、世の中のありとあらゆるものには正しいしかた、正しい行ない方というものがある。そして、他のことと同じように聖書を読むことにおいてもそれは同じである。聖書は、どのような心と態度で読んでも大して問題ではない、などというほど、他のあらゆる本と全くかけ離れた本ではない。当然のことながら、聖書に印刷されている文字に単に目を走らせるだけでは益を得ることはない。単に礼典を受け取るだけでは何の益も受け取れないのと同じである。聖書は通常、へりくだりと熱心な祈りを持って読まない限り、何の足しにもならない。かつて建造された中で最良の蒸気機関といえども、人がその操作方法を知らなければ無益である。かつて組み立てられた最上の日時計といえども、その持ち主がそれを日陰に置いておくほど無知な人間である場合は、時刻を告げることはない。その蒸気機関や日時計と全く同じことが聖書にもあてはまる。人々がそれを読んでも益を得ないという場合、責任は聖書にはなく、彼ら自身にあるのである

 多くの人が聖書を読んでも何の足しにもなっていないからといって、聖書の力を疑う人に私は云いたい。何かが誤用されているからといって、それを用いない理由にはならない、と。私はその人に大胆に云おう。子どものように、根気強い心でその本を読んだ人々----あのエチオピアの宦官やベレヤ人のようにした人々(使8:28; 17:11)----のうち、天国への道を見つけられなかった者はいまだかつて一人もいない、と。しかり、最後の審判の日には、多くのこわれた水ためは恥を見るであろう。しかしそのときには、いかなる魂も、自分は渇きを覚えながら聖書のもとへ行ったが、そこに何の生ける水も見いださなかった、----聖書の中に真理を探したが、いくら探しても見いだせなかった、と云って立ち上がれはしないであろう。箴言の中で知恵について語られている言葉は、そっくりそのまま聖書にもあてはまる。「もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう」(箴2:3、4、5)。

 この驚異に満ちた本こそ、私がきょう、この論考を読んでおられる方々に向けて語りかけたいことである。確かに、あなたが聖書についてどうしているかは、決して軽い問題ではない。コレラが流行しているというときに、肉体の健康を保つための処方箋を軽蔑する人がいたとしたら、あなたは何と考えるだろうか? もしあなたが、あなたの魂に永遠の健康を確実にもたらす唯一の処方箋を軽蔑するとしたら、あなたのことは何と考えなくてはならないだろうか? 私はあなたに命ずる。どうか、これから私が発する問いに正直な答えを返していただきたい。あなたは聖書についてどうしているだろうか?----それを読んでいるだろうか?----あなたはどう読んでいるのか?

 VI. 第六のこととして、聖書は、教理やなすべき義務にかかわるあらゆる問題をためすことのできる唯一の規範である

 主なる神は、私たちのあわれな堕落した理解力の弱さと欠陥を知っておられる。たとえ回心後であってさえも、私たちの善悪の認識が、この上もなくぼんやりとしたものであることをご存知である。サタンがいかに巧みに、誤りの上に真実の装いを着せかけ、もっともらしい議論で間違いを飾りたて、正しいことそっくりに見せかけることができるかをご存知である。こうしたことすべてを知っておられるため神は、あわれみ深くも私たちに、真と偽、正と邪の誤りなき基準を与えてくださり、その基準をわざわざ一冊の書かれた本、----すなわち、聖書----にしてくださったのである。

 世界を見渡せばだれでも、そのような備えをしておくことの賢明さを認めるに違いない。ある程度の年齢に達した人ならだれでも、自分には助言者が常に必要だということ、----信仰と行為の基準について、頼りにできる相談相手が常に必要だということがわかっているに違いない。魂も良心もない動物のように生きているのでもない限り、人は、自分が絶えず、困難で、当惑させられるような幾多の問いかけによって攻めたてられていることに気づくであろう。その人はしきりに自問するであろう。私は何を信じなくてはならないのか? また、何をしなくてはならないのか?、と。

 (a) 世界は、教理上の問題に関する困難で満ちている。過ちの家は、真理の家と軒を接して建っている。その扉は、互いに酷似していて、いつ何どき間違いを犯すかわからない。

 大量に読書する人や、広範な旅行をする人なら、すぐにわかることだが、キリスト者であると自称する人々の間には、極端に正反対な種々の意見がはびこっている。その人が見いだすのは、救われるために私は何をしなくてはならないか、というこの重要な問いに対して、異なる人々が極端に異なった答えを返している、ということである。ローマカトリックとプロテスタント、----新学説神学派とトラクト運動派、----モルモン教徒とスヴェーデンボリー派、----こうした人々はみなそれぞれ、自分だけにしか真理はない、と主張するであろう。みなそれぞれ、自分たちの宗派でしか安全を見いだすことはできないと告げるであろう。みなそれぞれ、「私たちとともに行こう」、と云うであろう。これらはみな、目を白黒させられることである。人はどうしたらよいだろうか?

 人は、たとえ英国かスコットランドのどこかの田舎教区に静かに遁世しているとしても、すぐに気づくであろう。自国内でさえ、極端に対立する幾多の見解が主張されているのだ、と。また、信仰の種々の部分と各条項の優劣に関して、キリスト者の間には深刻な相違があるのだ、と。ある人は教会政治のことしか考えず、----別の人は礼典や儀式や形式のことしか考えず、----第三の人は福音の説教のことしか考えない。もしも、その解決を教職者に求めたらどうなるだろうか? おそらくその人は、ある教職者が1つの教理を教え、別の教職者が別の教理を教えることに気づくであろう。これらはみな、目を白黒させられることである。人はどうしたらよいだろうか?

 答えは1つしかない。人は聖書だけを自分の規範としなくてはならない。みことばに沿っていないようなことは何1つ受け入れてはならず、何1つ信じてはならない。その人は、あらゆる信仰上の教えを、1つの単純な試験によってためさなくてはならない。----すなわち、それは聖書に合致しているだろうか? 聖書は何と云っているだろうか?、と。

 願わくは神が、この国の平信徒たちの目を、より一層この主題について開かれたものとしてくださるように。願わくは神が、彼らをして種々の説教や書物、意見や教職者たちを、聖書のはかりではかることを学び、すべてをみことばに符合する度合によって評価することを学ばせてくださるように。願わくは神が、彼らにこう知らせてくださるように。あることをだれが云っているかなどということには、----たとえ、そのだれかが教父であれ宗教改革者であれ、----主教であれ大主教であれ、----司祭であれ執事であれ、----大執事であれ聖堂参事会長であれ、----何の重みもないのだ、と。唯一問題となるのは、----云われたそのことは聖書的か、ということである。もしそうなら、それは受け入れられ、信じられなくてはならない。もしそうでければ、退けられ、捨てられなくてはならない。私が恐れるのは、「牧師様」が云うことなら何もかも奴隷的に受け入れるという、英国の平信徒の多くに行き渡っている態度がいかなる結果をもたらすか、ということである。盲目にされたアラムのように彼らは、どこに行くかを知らないまま導かれ、いつの日か自分がローマ教皇の支配下に置かれていることに気づくことになりはしないだろうか(II列6:20)。おゝ、英国の人々が、自分たちに聖書が与えられているのは何のためかを思い出しさえするなら、どんなによいことであろうか!

 私は英国の平信徒たちに告げるものである。ある人々は、教職者の教えをみことばによって判断するなど思い上がりである、と云っているが、それははばかげている、と。ある教区で1つの教理が宣言され、別の教区では別の教理が宣言されているときには、人々は自分で読み、自分で判断しなくてはならない。その教理の両方とも正しいことがありえない以上、その両方をみことばによってためされなくてはならない。私は何にもまして彼らに命ずる。決して、真の福音の教職者が、自分の教えるすべてを聖書ではかろうとする会衆を嫌うなどと思ってはならない、と。むしろ逆に、彼らが聖書を読めば読むほど、また自分の云うすべてを聖書でためせばためすほど、喜ぶことであろう。にせの教職者は、「お前たちには、個人的な判断を働かせる権利などないのだ。聖書のことは、正式に叙任されたわれわれにまかせるがいい」、と云うかもしれない。だが真の教職者は云うであろう。「聖書を調べなさい。そして私があなたがたに教えていることが聖書的でないとしたら、私を信じないようにしなさい」、と。にせの教職者は、「教会の声を聞くがいい」、とか、「私に聞け」、と叫ぶかもしれない。だが真の教職者は云うであろう。「神のみことばに聞きなさい」、と。

 (b) しかし世界は教理上の問題についての困難に満ちているだけではない。それと同じくらい、実践の問題についての困難にも満ちている。信仰を告白し、良心的に行動したいと願うあらゆるキリスト者であれば、このことを知っているに違いない。この上もなく当惑させられるような問題が絶え間なく生じている。自分のなすべき義務について、あらゆる方面からの疑いにさいなまれ、しばしば何をするのが正しいか見分けがつかなくなる。

 その人が事務所勤めをしていたり商売をしていたりする場合、自分の世俗的な職業をどう管理するかということについての疑問によって苦しめられる。時として彼は、非常に疑わしい性格の物事がなされつつあるのを見ることがある。----とうてい公明正大で誠実とは云えないような行為、自分にしてほしいとは思えないような行為を目にすることがある。しかしそのとき、その商売にかかわるすべての人がこうしたことをしているのである。それらは常に、だれからも尊敬されている商店でなされてきた。もしそうしたことをしなければ、利益の上がる商売を続けていくことはできないであろう。それらは、神によってあからさまに名指され、禁じられていることではない。これはみな非常に当惑させられることである。人はどうしたらよいだろうか?

 その人は、世俗的な娯楽についての疑問によって苦しめられる。競馬や舞踏場や歌劇や劇場やカード遊びなどはみな、非常に疑わしい時間の使い方である。しかしそのとき、多大な数の身分高い人々がそれらに参加しているのが目につくのである。こうした人々が全員間違っているというのだろうか? そうしたことに本当にそれほど途方もない害悪があるなどということがあるだろうか? これはみな非常に当惑させられることである。人はどうしたらよいだろうか?

 その人は、自分の子どもの教育についての疑問によって苦しめられる。彼は子どもたちを道徳的に、またキリスト教信仰に基づいて訓練したいと願い、彼らの魂のことを忘れないようにしたいと願っている。しかし彼に向かって多くの分別ある人々が云うのである。子どもは子どもなのだ、----あまりにも子どもをしめつけすぎてはいけない、おとぎ芝居に連れていったり、子ども向けの祝会に連れていったり、子ども向けの舞踏会を自分でも開いてやらなくてはならない。貴族や上流の婦人たちはいつもそうしているが、彼らは信仰深い人々とみなされているではないか、と。確かに、それが誤っているはずはなかろう。これはみな非常に当惑させられることである。人はどうしたらよいだろうか?

 こうした疑問すべてに対する答えは唯一である。人は聖書を自分の実践の規範としなくてはならない。聖書の主要な種々の原則を、自分の人生航路を導く羅針盤としなくてはならない。聖書の文字と精神によって、あらゆる難点や疑問点をためさなくてはならない。「律法と証しに従おう! 聖書は何と云っているだろうか?」 彼は他の人々が何を正しいと考えていようが一顧だにするべきではない。隣人の家の時計を見て自分の懐中時計の針を調整するのではなく、みことばという日時計で調整しなくてはならない。

 私は読者の方々に厳粛に命ずる。いま私が定めた原則に則って行動し、人生のいかなる時点においても、厳格にこれを固守するがいい。そのようにするとき決して後悔しないであろう。決してみことばに反した行動をとらないことを主たる原理とするがいい。几帳面すぎるとか、必要もないのに四角四面すぎるという非難を気にしてはならない。あなたが仕えている神が厳格な聖い神であることを忘れてはならない。あなたが決まりとしているような規範は実行不可能だ、現代世界では守ることができない、などという、よくある反対に耳を貸してはならない。そうした反対をする者らは、自分の考えをはっきり口に出し、聖書が何のために与えられたか私たちに語ってみせるがいい。そうした者らは、私たちがみな最後の審判の日には聖書によってさばかれることを思い出すがいい。そして、地上にいる間に自分自身をこれによってさばくことを学び、死後これによってさばかれて断罪されるようなことがないようにするがいい。

 この信仰と行為との素晴らしい基準である本こそ、私がきょう、この論考を読んでおられる方々に向けて語りかけたいことである。確かに、あなたが聖書についてどうしているかは、決して軽い問題ではない。確かに、右からも左からも危険が迫りつつある時には、神が備えてくださった保護手段を自分がどう用いているか考えてみるべきであろう。私はあなたに命ずる。どうかぜひ、これから私が発する問いに正直な答えを返していただきたい。あなたは聖書についてどうしているだろうか?----それを読んでいるだろうか?----あなたはどう読んでいるのか?

 VII. 第七のこととして、聖書は、神の真のしもべたち全員が常に養いを受け、愛してきた本である。

 神から造られたあらゆる生き物は食物を必要とする。神によって植えられたいのちは、滋養と栄養の補給を受けなくてはならない。これは動物の生命であれ植物の生命であれ、----鳥であれ獣であれ、魚であれ爬虫類であれ、昆虫であれ草木であれ、同じことである。同じことは霊的いのちにもあてはまる。聖霊がある人を罪の死からよみがえらせ、キリスト・イエスにある新しい創造物とするとき、その人の心の中にある新しい原理は食物を必要とするのであり、それを養うことのできる唯一の食物は神のみことばである。

 世界の果てから果てまで探しても、真に回心した人々のうち、啓示された神のみこころを愛さないような者はひとりもいない。世に生まれ出た子どもが、その滋養のために差し出された乳を自然に慕い求めるように、「新しく生まれた」魂も、純粋なみことばの乳を慕い求めるものである。これは神の子ら全員に共通するしるしである。----彼らは、「主のおしえを喜びと」する(詩1:2)。

 聖書を読むことを軽蔑するような人、あるいは聖書の解き明かしを軽んずるような人がいるとしたら、私の主張するところ、その人がまだ「新しく生まれた」者となっていないことは確実な事実である。その人は、形式や儀式について熱心かもしれない。礼典や日ごとの礼拝に勤勉に出席しているかもしれない。しかし、もしこうした事がらがその人にとって聖書よりも尊いとしたら、私にはその人が回心した人であるとは思えない。ある人にとって聖書がどんな意味を持っているかがわかれば、その人がどんな人かは一般に知れるものである。もし人の心の状態を知りたければ、これこそ私たちがはかるべき脈拍、----私たちが調べるべき晴雨計である。ある人に御霊が内住しておられるのに、そのご臨在の明確な証拠を示さないなどということは私には全く理解できない。そして私が御霊のご臨在を如実に示す証拠であると信ずるのは、みことばがある人の魂にとって真実尊いものとなっていときのことである。

 みことばへの愛は、ヨブのうちに私たちが見る特徴の1つである。この族長や彼の時代について私たちはほとんど知るところがないが、少なくともこのことだけはだれの目にも明らかである。彼は云う。「私は、私に必要な食物にまさって御口のことばを尊んだ」、と(ヨブ23:12 <英欽定訳>)。

 みことばへの愛は、ダビデの性格における輝かしい特徴である。かの素晴らしい聖書箇所、詩篇119篇の全体を通じて、それがいかに現わされているか注目するがいい。確かに彼にはこう云って当然であった。「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう」、と(詩119:97)。

 みことばへの愛は、聖パウロの性格の著しい点である。彼とその同行者たちは、「聖書に通じていた」人々でなくて何であったろうか? 彼の説教は、みことばの講解と適用でなくて何であったろうか?

 みことばへの愛は、私たちの主なる救い主イエス・キリストのうちに抜きんでて見られる。主はみことばを公に朗読された。絶えずそれを引用なさった。しばしばそれを説き明かされた。それを「調べる」ようにユダヤ人らに助言なさった。悪魔に立ち向かう際の武器としてそれを用いられた。何度となく、「聖書は成就しなくてはならない」、と云われた。----主が地上で行なわれたほとんど最後のことは、「聖書を悟らせるために弟子たちの心を開」くことであった(ルカ24:45)。残念なことだが、聖書に対する自分の主人の思いと感覚を少しも共有していない者らは、決してキリストの真のしもべとは云えないのではないかと思う。

 みことばへの愛は、使徒たちの時代以来、私たちが少しでも知っている、あらゆる聖徒たちの生涯において、その顕著な特徴であった。これはアタナシオスや、クリュソストモスや、アウグスティヌスらがつき従った松明である。これはヴァレンス派やアルビ派をして、信仰の破船から免れせしめた羅針盤である。これは、遠い昔にふさがれた後に、ウィクリフやルターによって再び開かれた泉であった。これはラティマーやジューエルやノックスがその勝利を勝ち取った剣である。これはバクスターやオーウェンや、あの高貴なピューリタンの軍勢を養い、彼らを戦いのために強くしたマナである。これは、ホイットフィールドやウェスレーが彼らの力強い武具の数々を引き出した武器庫である。これは、ビカーステスやマクチェーンが豊富な黄金を掘り出した鉱脈である。こうした聖なる人々は、確かにいくつかの点で異なってはいたが、1つの点においては全員が一致していた。----彼らはみなみことばを喜びとしていたのである。

 みことばへの愛は、世界中のさまざまな宣教地において回心した異教徒たちが最初に現わすしるしの1つである。炎熱の気候であろうと酷寒の気候であろうと、----野蛮人の中であろうと文明人の中であろうと、----ニュージーランドであろうと南洋諸島であろうと、アフリカであろうとヒンドスタンであろうと、----それは常に変わらない。彼らは、みことばが読まれるのを聞いて喜ぶ。それを自分でも読めるようになることを切に願う。彼らは、なぜキリスト者たちがもっと早く自分たちにそれを送ってくれなかったのかと怪しむ。モファットが描き出している、南アフリカの粗暴な族長が最初に福音の力のもとに置かれた際の姿は、何と驚くべきものであろうか! 彼は云っている。「しばしば私は、彼が巨岩の陰で、ほとんど終日、聖書のページを熱心に熟読しているのを見た」。----あるあわれな回心した黒人が、聖書について語っている言葉は、何と心を動かすことであろう! 彼は云った。「それは絶対に飽きたり、冷めたりしねえだ」。----もう一人の老黒人の言葉は何と感動的なことか! 高齢の彼に、読むのを学ぶのを思いとどまらせようとする人に向かって、彼は云った。「いんや。おらは、死ぬまであきらめねえ。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』、って一節を読めるようになるなら、どんな苦労をしてもかまわねえだ」、と。

 みことばへの愛は、わが国の回心した人々全員の間に一致が見られる大きな点の1つである。監督派も長老派も、バプテスト派も独立派も、メソジスト派もプリマス・ブレズレン派も、----彼らが真のキリスト者となるが早いか、聖書を重んずる点で全員が結ばれる。これは、私たちのイスラエルすべてが常食とし、満ち足らわせる食物であると知るマナである。これは、キリストの群れのさまざまな分団がその周りに相集い、そこからどの羊も渇いたまま去ることのない泉である。おゝ、願わくはこの国の信仰者たちが、書かれたみことばにより一層固着することを学べるように! おゝ、願わくは彼らも、聖書が、そして聖書だけが、人のキリスト教信仰の実質となればなるほど、今よりも一致できるようになることを悟れるように! おそらく霊感されていない本の中で、最も一般の敬意を集めているのは、バニヤンの『天路歴程』であろう。それは、キリスト者たちの全教派が喜んで尊重している本である。それはあらゆる宗派の賞賛をかちえてきた。さて、ここで何よりも驚くべき事実は、その著者が、如実に一書の人だったことにほかならない。彼は聖書のほかには、ほとんど何も読んでいなかったのである。

 最終的には天国には「大群衆」がいるだろうというのは、喜ばしいことである。疑いもなく、ある特定の時と場所における主の民は少ないが、全員が最終的には一同に会し、彼らは「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」となるであろう(黙7:9; 19:1)。彼ら1つの心、1つの思いとなるであろう。彼らはみな、同じような経験を経てきているであろう。彼らはみな、悔い改め、信仰を持ち、聖さと、祈りと、へりくだりの生活を送ってきているであろう。彼らはみな、その衣を小羊の血で洗って、白くした者たちであろう。しかしこれらすべての他に、1つのことにおいて彼らは一致しているであろう。彼らはみな、聖書の章句と教理を愛しているであろう。聖書は彼らの地上における巡礼の間、その食物であり喜びとなっていたものであろう。そして聖書は、彼らが天国で一同に会したとき、喜ばしい黙想と追想の一致した対象となるであろう。

 この、すべての真のキリスト者が自分の養いとし、愛している聖書こそ、私がきょう、この論考を読んでおられる方々に向けて語りかけたいことである。確かに、あなたが聖書についてどうしているかは、決して軽い問題ではない。確かに、あなたがこのみことばに対する愛をいくらかでも知っているかどうか、また、「群れの足跡について行」く(雅1:8)しるしを有しているかどうか、これは真剣に問いかけるべき問題である。私はあなたに命ずる。どうか、これから私が発する問いに正直な答えを返していただきたい。あなたは聖書についてどうしているだろうか?----それを読んでいるだろうか?----あなたはどう読んでいるのか?

 VIII. 最後のこととして、聖書は、人をその人生最後の時にも慰めることのできる唯一の本である

 死は、十中八九、私たち全員の前にある出来事である。それを避けるすべはない。これは、私たちがおのおの渡らなくてはならない川である。書く私も、読むあなたも、それぞれいつかは死ななくてはならない。私たちはみな悲しくもこの主題を棚上げにしておきがちである。「万人は、万人に寿命があると考えるが、自分は例外だと思う」。私は、あらゆる人に人生における義務を果たしてほしいと思うが、あらゆる人に死のことも考えてほしいと思う。いかにして生きるべきかあらゆる人に知ってほしいと思うが、いかにして死ぬべきかもあらゆる人に知ってほしいと思う。

 死はすべての人にとって厳粛な出来事である。それは、現世におけるあらゆる計画と期待の終焉である。私たちが愛し、ともに生きてきたすべてのものとの訣別である。それはしばしば多くの肉体的苦痛と痛みを伴う。それは私たちを墓場と、蛆虫と、腐敗へと至らせる。それは審きと永遠への扉、----天国あるいは地獄への扉を開く。この出来事が起こった後では、何の変化も、何の悔い改めの余地もない。他の間違いなら改めたり、取り返しがついたりするかもしれないが、私たちの臨終における間違いはそうではない。木が倒れるときのように、それはそのままそこに残るのである。棺の中では何の回心もありえない! 私たちが息をするのをやめてからでは、何の新生もありえない! そして死は私たちすべての前にある。それはごく間近かもしれない。私たちの出立のときは全く不確かである。しかし、遅かれ早かれ、私たちはそれぞれひとりきりで横たわり、死ななくてはならない。これらはみな真剣に考慮すべきことである。

 死はキリストを信ずる者たちにとってすら厳粛な出来事である。疑いもなくその人にとって「死のとげ」は取り除かれている(Iコリ15:55)。死は、その人の特権の1つとなっている。その人はキリストのものだからである。生きようと死のうと、その人は主のものである。もし彼が生きるなら、キリストが彼のうちにあって生きておられる。またもし彼が死ぬなら、彼はキリストとともに生きることになる。彼にとって、「生きることはキリスト、死ぬこともまた益」である(ピリ1:21)。死は彼を多くの試練から解放する。----弱い肉体、腐敗した心、誘惑する悪魔、罠を仕掛けたり迫害をもたらすこの世から解放する。死によって彼は、多くの祝福を受けることが許される。彼はその数々の労苦からの安息を得る。----喜ばしき復活の希望は確実なものと変えられる。----聖い、贖われた霊たちとともにいることになる。----彼は「キリストとともに」いることになる。これらはみな真実である。----しかしながら、信仰者にとってさえ、死は厳粛なことである。肉と血は自然にそれからしりごみする。私たちの愛するすべてのものから引き裂かれることは、悲痛であり、感情にとって試練である。私たちが向かう世界は、私たちの故郷であるとはいえ、いまだ知らない世界である。信仰者にとって死は優しく、無害なものであるとはいえ、軽々しく扱わってよい出来事ではない。それは常に非常に厳粛なことでなくてはならない。

 思慮深く、感受性の鋭い人であればみな、自分がどう死と出会うことになるかを静まって考えてみるべきである。勇士のように腰に帯を締め、この主題にまっこうから向かい合うことである。私に耳を傾けていただきたい。私は、私たちが向かいつつある最期について、いくつかのことを告げたいと思う。

 この世の良き事がらは、人が死に近づきつつあるとき彼を慰めることはできない。カリフォルニアやオーストラリアの黄金すべても、この暗黒の谷間に光を差し出しはしないであろう。金銭があれば、人間の肉体にとって最上の医学的助言と付き添いを買うことができるであろう。しかし、いくら金銭を積んでも自分の良心と心と魂の平安を買うことはできない。

 親戚も、愛する友人も、しもべたちも、人が死に近づきつつあるとき彼を慰めることはできない。彼らは、彼の肉体の必要を愛情深く満たすことはできるかもしれない。彼らは、彼の寝床のわきで優しく見守り、彼のあらゆる願いを先読みして看護してくれるかもしれない。彼らは彼の死の枕をなだらかにし、彼の衰えゆく肉体をその腕で支えてくれるかもしれない。しかし彼らは悩まされつつある心の疼痛を止めることはできない。不安な心を神の目からさえぎることはできない。

 この世の種々の快楽も、人が死に近づきつつあるとき彼を慰めることはできない。目もあやな舞踏室、----愉快な踊り、----真夜中の浮かれ騒ぎ、----エプソム競馬場での競馬に向かう一行、----歌劇場の特別観覧席、----歌いまくる男女の声、----これらはみなついには不快な味しかしなくなる。狩猟や射撃の約束を聞かされても、何も楽しくなくなる。宴席や、競艇や、仮装舞踏会への招待を受けても、安らぎは得られない。彼は、これらがうつろで、むなしく、役立たずな事がらであることを自分に隠せない。これらは、彼の良心の耳にきしるような音を立てる。これらは、彼の状態にそぐわない。これらは、最後の敵が洪水のようにひたひたと迫り来るとき、彼の心の空隙を1つも埋めることはできない。これらは聖なる神に会うことを思っておののく彼を平静にすることができない。

 本も新聞も、人が死に近づきつつあるとき彼を慰めることはできない。マコーレーやディケンズの最高に才気縦横の著作も彼の耳を飽かせるであろう。タイムズの最も高尚な記事も彼の興味を引かない。『エディンバラレヴュー』も『クォータリーリヴュー』も、彼に何の喜びも与えないであろう。『パンチ』も、『絵入りロンドン新聞』も、最新刊の小説も、開かれることなく、手をつけられることがないであろう。それらの時は過ぎ去っているであろう。それらの使命は消え失せているであろう。健康なときそれらがどんな意味を持っていたにせよ、死の時に望んでは何の役にも立たない。

 自分の最期に近づきつつある人に慰めを与える源泉は1つしかなく、それは聖書である。聖書の中の数々の章、----聖書の中の章句、----聖書から取られた真理の言明、----聖書から引き出された内容をふくむ書物、これらこそ、人が死のうとするときに慰めを得られる唯一の見込みである。私は聖書が、以前から聖書を尊んでもいない人に、その死の間際になって、いわば自動的に益をもたらすものであるなどとは、一言も云っていない。残念ながら私は、そう云うには、あまりにも多くの臨終を見過ぎてきた。生きている間、聖書を信ずることなく、ないがしろにしてきた人が、死に臨んでいきなり聖書を信じ、聖書から慰めを受けるようになることが往々にしてあるかどうかは云わない。しかし、私が明確に云えること、それは死につつあるいかなる人も、神のみことばの内容から得られるもの以外に、決して真の慰めを得ることはない、ということである。それ以外の源からの慰めはすべて、砂の上に建てられた家である。

 私は、このことを万人に適用できる法則として規定するものである。地上のいかなる階級をもはばからず、何の例外を設けもしない。国王であれ貧民であれ、知識人であれ無学な者であれ、----みな、この件に関しては同列にある。いかなる人であれ、死につつあるときには、聖書から得るもの以外の真の慰めはひとかけらもない。聖書の中にある数々の章、章句、約束、教理、----耳で聞き、心で受け入れ、信じて、頼りにされた聖書、----これらこそ私が、世を去ろうとするあらゆる人にあえて約束できる唯一の慰め手である。人が聖餐を受けたとしても、みことばを受け入れ、信じていない限り、ローマカトリック教の終油の秘蹟と同様、何の役にも立たない。司祭による免罪も、もしそのあわれな死に行く罪人が聖書の真理を受け入れ信じているのでなければ、異教徒の呪術師のまじないと同程度にしか、良心をなだめはしない。私はこの論考を読むあらゆる人に告げたい。たとえ人は生きている間は聖書なしに快適にやっていくことができるように見えても、聖書なしに快適に死ぬことはできない、と。これは、かの学識あるセルデンの真の告白である。----「死にゆく瞬間に私たちが頼りにできる本は、聖書しかない」。

 ここまで述べてきたすべてのことを、実例や実話をあげて確証することは簡単にできよう。私はあなたに、聖書を軽蔑するように気取ってきた人々の臨終を示すことができよう。ヴォルテールやペインといった著名な不信心者の死に様が、いかに悲惨と苦々しさと憤怒と恐怖と絶望に満ちたものであったかを告げることもできよう。また、聖書を愛し信じてきた人々の幸いな臨終と、彼らの臨終のようすが他の人々にもたらした喜ばしい影響とを示すことができよう。セシル----どの教会にも置かれてしかるべき賛美歌の作者----は云う。「私は、母の臨終の床に立ち会ったときのことを忘れることができない。『死ぬのが怖くはありませんか』、と私が聞くと、『いいえ!』、と母は答えた。----『でも、今からまるで知らないところへ行くというのに、なぜ不安にならないのですか?』----『なぜって、神様が云われたからですよ。恐れるな。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない、と』」(イザ43:2)。この種の実話をいくつもあげることはたやすいであろう。しかし、私の主題のこの部分は、私が牧師として実際に見てきた結果を伝えることによってしめくくる方がよいと思う。

 私はこれまで、少なからぬ人々が死んでいくのを見てきた。そうした死にゆく人々の多種多様な態度、ふるまいを見てきた。ある人々が、むっつりと、押し黙ったまま、慰めもなく死んでいくのを見てきた。別の人々が、無知なまま、無頓着に、一見さほどの恐れもなく死んでいくのを見てきた。また、ある人々が長患いのあまり疲れ果て、喜んで世を去ろうというようすでいながら、私の見るところ神の御前に出るには全くふさわしくない状態のまま死んでいくのを見てきた。別の人々が、希望と神への信頼を告白しながらも、彼らが岩の上に立っているという満足な証拠を何1つ残さず死んでいくのを見てきた。また他の人々が、私の信ずるところは「キリストのうちに」あり、安全ではありながらも、目に見えるような慰めを大きく感じているようには決して見えずに死んでいくのを見てきた。ごく少数の人々が、全き希望の確信のうちに、バニヤンの描く「固守氏」のように、死の川の中にあってすら、キリストの忠実さに対して輝かしい証しをしつつ死んでいくのを見てきた。しかし、1つだけ私が決して見てこなかったことがある。聖書からその平安を引き出していない人が、実質の伴った、堅固で、平静で、筋の通った平安と私が呼ぶところのものを、その臨終において受けとるのを、私は一度も見たことがない。そして私はこのことを大胆に云うものである。聖書をその慰め手、その同伴者、その友として持ちもしないでその臨終に赴くことを考えている者は、世界で最も常軌を逸した狂人のひとりである、と。魂には聖書の慰め以外に何の慰めもなく、そうした慰めをつかんでこなかった者は、他に何をつかんでいようとそれは、せいぜい折れた葦程度のものでしかない。

 臨終にとって唯一の慰め手たるこの本こそ、私がきょう、この論考を読んでおられる方々に向けて語りかけたいことである。確かに、あなたが聖書についてどうしているかは、決して軽い問題ではない。確かに、死につつある世界で死につつある人間は、自分が死ぬ番が来たときに慰めになるものを持っているかどうか真剣に考察すべきである。私はこれを最後にあなたに命ずる。どうか、これから私が発する問いに正直な答えを返していただきたい。あなたは聖書についてどうしているだろうか?----それを読んでいるだろうか?----あなたはどう読んでいるのか?

 ここまでで私は、なぜ私があらゆる読者に、聖書を読むという義務とその重要性についてこれほど強調するか、その種々の理由を示してきた。私は、いかなる本も聖書のようなしかたで書かれてはいないこと、----聖書の知識が救われるためには絶対に必要であること、----いかなる本もこのような内容をふくんではいないこと、----いかなる本も世界全般にこれほどの益をもたらしてはこなかったこと、----いかなる本もそれを正しく読むあらゆる者にこれほどの益をもたらせないこと、----この本こそ信仰と行為に関する唯一の基準であること、----これは昔も今も、神の真のしもべたちの食物であったこと、----これこそ人が死ぬときに慰めを与えることのできる唯一の本であることを示してきた。これらはみな昔から云い古されてきたことである。私は何も新規なことを告げているふりはしない。私は単に、古い真理の数々を1つに併せて、それらを新しい型に鋳直そうと努めてきたにすぎない。さて、すべてのしめくくりとして、もう少しばかり平明な言葉を、あらゆる立場の読者の方々の良心に語らせていただきたい。

 (1) この論考を手にとるのは、字は読めても、ただの一度も決して聖書を読もうとしない人々かもしれない。あなたはそのようなひとりだろうか? もしそうだとしたら、私にはあなたに云うべきことがある。

 私は、現在のような心をしているあなたを慰めることはできない。そのようなことは、あなたを愚弄し、欺くこととなろう。私は、あなたが現在のようなしかたで聖書を扱っている間は、あなたに向かって平安と天国について語ることはできない。あなたは自分の魂を滅ぼす危険のうちにあるのである。

 あなたが危険のうちにあるというのは、聖書をないがしろにするあなたの態度は、あなたが神を愛していないあからさまな証拠だからである。人の肉体の健康は普通その食欲によってわかる。人の魂の健康は、その聖書に対する扱い方でわかる。さてあなたがはなはだしい病にかかっていることは一目瞭然である。あなたは悔い改めないであろうか?

 私があなたの心を動かせないことは分かっている。私はあなたに、こうした事がらを悟らせも、感じさせもすることができない。私にできるのはただ、あなたの現在のような聖書の扱い方について、私の厳粛な意義を申し立て、その意義をあなたの良心の前に置くことだけである。私はそれを私の魂のすべてをこめて行なうものである。おゝ、あなたの悔い改めが遅すぎないよう用心するがいい! 聖書を読むのを先延ばしにしたあげく、いざ最後の病にかかって医者を呼びにやるときになってから、聖書が封印された本であること、イスラエル人とエジプト軍の間に立った雲の柱のように、不安におののくあなたの魂にとって暗黒なものであることに気づくことがないよう用心するがいい! 一生の間、「人間は、そんな聖書を読むことなど全然しなくとも、何の支障もないのだ」、と云い云いしながら、最後になって、支障が大ありであることを知って臍をかみ、地獄という末路に至るようなことがないよう用心するがいい! いつの日あなたが、「もし聖書を毎日の新聞と同じくらいにでも重んじていたなら、慰めのない最期に至るようなことはなかったのに」、と痛感するようなことがないよう用心するがいい! 聖書をないがしろにしている読者よ、私はあなたにはっきり警告しておく。あなたの玄関口には現在、疫病に打たれたしるしの十字が貼りつけられている。願わくは主があなたの魂をあわれんでくださるように!

 (2) この論考を手にとるのは、自分の聖書を読み始めたいと願ってはいても、この件について助言を欲している人々かもしれない。あなたはそのような人だろうか? 私の云うことを聞いてほしい。以下に手短になすべき事がらの一覧をあげてみよう。

 (a) 第一のこととして、きょうのこの日からあなたの聖書を読み始めることである。物事を行なうにはそれを行なうことが一番であり、聖書を読むにはそれを実際に読むことである。もくろんだり、願ったり、決心したり、意図したり、あれこれ考えたりすることは、あなたを一歩も前に進めはしない。あなたは、決然と読み出さなくてはならない。この問題において王道がないのは、祈りの問題と同じである。もし字が読めないというのであれば、だれかに頼んで読み聞かせてもらわなくてはならない。しかし、耳を通してであれ目を通してであれ、聖書の言葉を現実にあなたの精神の前に突きつけなくてはならない。

 (b) もう1つのこととして、聖書はそれを理解しようという真剣な願いをもって読むことである。一瞬たりとも、聖書を読む第一義の目的は、印刷された紙を一定の分量だけめくることであって、内容を理解するかしないかは二の次である、などとは考えてはならない。一部の無知な人々の思い込みによると、毎日何章かを片づけさえすれば、その中身に何が書かれてあったかまるで頭に残っていなくとも、しおりを何ページか前に進めたことさえはっきりしていれば、後は何もしなくてはもよいらしい。これは、ローマカトリック教における、ほとんど信じられないような回数だけアヴェマリアや主の祈りを唱えることで免償状を買う習慣とほとんど同じくらい悪い。ここから思い出されるのは、あるあわれなホッテントット族の男が、自分の隣人の心を慰めてくれるオランダ語の賛美歌集を見て、その歌集を食べてしまったという話である。あなたが心の大原則として銘記すべきなのは、理解されなかった聖書は、何の益ももたらなさい聖書である、ということである。聖書を読むときには、何度もこう自問するがいい。「これらはみな何について書かれているのだろうか?」、と。オーストラリアの金鉱を掘っている人のように、聖書の意味を深く掘り下げるがいい。懸命に努め励み、その務めを駆け足で放棄してはならない。

 (c) また別のこととして、聖書は子どものような信仰とへりくだりをもって読むことである。あなたの聖書を開くときには、あなたの心も開き、「主よ。お話しください。しもべは聞いております」、と云うがいい。その中に見いだすものは何でも、たとえどれほど自分の偏見とまっこうから対立するものであっても、無条件に信ずるよう決意するがいい。好むと好まざるとにかかわらず、真理のあらゆる言明を心から受け入れるよう決意するがいい。聖書を読む多くの人々が陥っている、あのみじめな精神の習慣に用心するがいい。彼らは自分たちの好みに合うからといってある教理を受け入れ、自分たちを、あるいは愛するだれかを、また親戚を、友人を、罪に定めるからといって別の教理を退けるのである。こういうしかたでは聖書は何の役にも立たない。あなたは聖書にふくまれてしかるべきことを判定する審判になろうというのだろうか? あなたは神よりもものをよく分かっているのだろうか? あなたの心に銘記しておくがいい。あなたはすべてを受け入れ、すべてを信じ、自分が理解できないことも額面通りに受けとるようにする、と。祈るときには、あなたが神に語りかけているのであり、神があなたの言葉を聞いておられるのだと覚えておくがいい。しかし、聖書を読むときには、神があなたに語りかけているのであり、あなたは「口答え」するべきでなく、耳を傾けるべきであると覚えておくがいい。

 (d) 別のこととして、聖書は従順な、自分に適用する心をもって読むことである。熱心に聖書を学び、日ごとにこう決意することである。私はこの規則によって生き、この言明を頼りとし、この命令に立って行動するのだ、と。どの章を読み進めるときにも、こう考えることである。「これは私の立場と生き方にどう影響するだろうか? これは私に何を教えているだろうか?」、と。単なる好奇心から聖書を読んだり、思弁的な目的のため、頭を満たし精神に種々の意見を詰め込むために聖書を読みながら、その本があなたの心と生活に何の影響を与えることも許さないというのは見下げはてたやり方である。最上の聖書の読み方とは、それを最もよく実践に移すことである。

 (e) 別のこととして、聖書は毎日読むことである。神のみことばの何らかの部分を読むことを、あなたの毎日の生活の一部とするがいい。個人的な恵みの手段は、私たちの魂にとって、食物や衣服が私たちの肉体にとって必要であるのと全く同じくらい毎日必要である。昨日のパンは労働者をきょう養いはしないし、きょうのパンは労働者を明日養いはしない。イスラエル人が荒野でしたようにするがいい。あなたの新鮮なマナを毎朝集めることである。自分に一番都合のいい頃合と時間を選ぶがいい。あせって駆け足で読んではならない。あなたの聖書に、あなたの時間の、最悪の部分ではなく、最上の部分を割り当てるがいい。しかしあなたがどのような計画に従うにせよ、恵みの御座を毎日訪れることを生活の決まりとすることである。

 (f) 別のこととして、聖書はその全部を、しかも秩序立ったしかたで読むことである。残念ながら、ある人々は、みことばの中の多くの部分を決して読もうとしないのではないかと思う。これは、どう控えめに云っても、非常に思い上がった習慣である。「聖書はすべて……有益です」(IIテモ3:16)。もとをたどればこの習慣にこそ、今日行き渡っているような、視野の狭い、均衡の欠けた真理のとらえ方の原因があるのであろう。ある人々の聖書の読み方は、絶え間なくあちこちを飛び回る、つまみ食いの連続でしかない。彼らからは、聖書全体を規則正しく読み通すという考えが抜け落ちているように見える。これもまた、非常に大きな誤りである。疑いもなく、病や患難のおりには、時宜にかなった箇所を探り求めることが許されよう。しかしこうした例外は認めつつも、私の信ずるところ、聖書を読む最上最善の方法は、旧約聖書と新約聖書を両方一度に読み始めること----どちらも最初から最後まで読み通すこと----である。これは、あらゆる人が自分で心を決めなくてはならない問題である。私に云えるのはただ、それが四十年近く私が実践してきたやり方であり、それを改めるべき理由は何1つ見いだしたことがない、ということである。

 (g) 別のこととして、聖書は公正に、また正直に読むことである。あらゆる箇所をその平易で、あからさまな意味のまま受けとり、いかなる無理な解釈も大きな猜疑の念をもって見るよう決意するがいい。一般的な規則として、聖書のいかなる一節も、それが意味しているように見えることを実際にも意味しているのである。セシルのこの法則は非常に価値あるものである。----「聖書を解釈する正しい法則は、それをあるがままに受けとり、何か特殊な体系に合わせてねじまげるようなことをしないことである」。いみじくもフッカーは云う。「私はこのことを、聖書講解における最も無謬の法則であると主張する。すなわち、文字通りの解釈が成り立つときには、通常、文字通りの意味から最もかけ離れた意味こそ最悪の解釈である」。

 (h) 最後のこととして、聖書はキリストから絶えず目を離さずに読むことである。聖書全体の主たる大目的は、イエスを証しすることである。旧約聖書の種々の儀式はキリストの影である。旧約聖書のさばきつかさや解放者たちはキリストの予型である。旧約聖書の歴史は世界がキリストを必要としていることを示している。旧約聖書の種々の預言は、キリストの受難と、来たるべきキリストの栄光で満ちている。初臨と再臨、----主の謙卑と主の御国、----十字架と栄冠とが、聖書の至るところで照り輝いている。もし聖書を正しく読みたければ、この手がかりを堅くにぎって離さないことである。

 紙数さえ許せば、こうした心得の他にも簡単につけ加えることができるであろう。だが、これらは数少なく、手短なものではあるが、注意に値するものであるとわかるであろう。これらに立って行動しさえすれば、私の堅く信ずるところ、あなたは決して天国への道を見失うようなことはない。これらに立って行動しさえすれば、あなたの精神には絶え間なく光が増し加わっていくことに気づくであろう。キリスト教信仰の証拠を集めたいかなる本も、みことばを毎日正しく用いる人が得ている内的な証拠とはくらべものにならない。そうした人は、ペイリやウィリスンやマッキルヴェインのような学識者の著作を必要とはしない。自分自身がその証人なのである。聖書そのものが彼の魂を満足させ、養ってくれる。あるとき、一人の貧しいキリスト者の婦人がある不信心者に云った。「私は学者ではありません。あなたのように論ずることはできません。でも私にも、蜂蜜は蜂蜜だとわかります。口に甘い味がするからです。そして私は、自分の心で感じる味わいのおかげで、聖書が神のみことばだとわかるのです」。

 (3) この論考を手にとるのは、聖書を愛し、聖書を信じていながらも、それを少ししか読めていない人々かもしれない。残念ながら今日そのような人はたくさんいるのではないかと思う。今日は喧噪とせわしなさの時代である。議論と、委員会と、社会事業の時代である。こうした事がらはみなそれなりに非常に良いものではあるが、私の恐れるのは、こういったもののため、時として個人的に聖書を読むことが切りつめられ、縮められているのではないか、ということである。あなたの良心は、自分が、今私の語っているような者のひとりであると告げてはいないだろうか? 私の云うことに耳を傾けてほしい。あなたが真剣に注意を払うに値することをいくつか云いたい。

 あなたは、必要なときに聖書からほとんど慰めを得られそうもない人である。試練という時期は人をふるいにかける。患難は身にしみる風であって、木々から葉っぱをむしりとり、鳥たちの巣をむき出しにする。さて私が恐れるのは、あなたが蓄えている聖書の慰めはいつの日か尽き果ててしまうかもしれない、ということである。私が恐れるのは、あなたが最後には備蓄のすべてを使い果たし、弱り切り、疲れ果て、やせこけた状態で天に入港するのではないか、ということである。

 あなたは、決して真理のうちに確立させられそうもない人である。私は、あなたが確信や恵みや信仰や堅忍その他の事がらについての疑いや疑念に悩まされていると聞いても驚かない。悪魔は老獪な敵である。ベニヤミン人のように彼は、「一本の毛をねらって石を投げて、失敗することがな」い(士20:16)。その気になれば彼は、聖書を縦横無尽に引用できる。さて、あなたの手持ちの武器では、彼に対して勇敢に戦えるだけの備えができていない。あなたの武具は、あなたによく合っていない。あなたの剣はあなたの手にうまくなじんでいない。

 あなたは、人生で間違いを犯す見込みの高い人である。私はあなたの結婚が失敗したとか、----子どもの教育に失敗したとか、----家のとりしきりに失敗したとか、----会社の経営に失敗したとか聞かされても不思議には思わない。あなたが舵を取って進みつつある世界は岩礁や浅瀬や砂州で満ちている。あなたは種々の灯台にも海図にも十分精通していない。

 あなたは、どこかのまことしやかなにせ教師によって、しばらくの間心を奪われる見込みの高い人である。私は、こうした才気あふれる、「悪を善に見せかける」ことのできる雄弁な人々の中のだれかが、あなたを多くの愚行へと至らせていると聞いても意外なこととは思わない。あなたには心に安定をもたらすものが欠けている。あなたが波にもまれるコルク栓のように、もてあそばれたりしても不思議はない。

 これらはみな、不愉快なことである。私はこの論考を読むあらゆる人が、こうしたことから免れてほしいと思う。私がきょう与える助言を受け入れるがいい。あなたの聖書を「少々」読むだけでなく、大量に読むことである。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ……なさい」(コロ3:16)。霊的知識においては、ただの幼子であってはならない。「天の御国の良き弟子と」なることを求め、絶えず古い物に新しい物を加えることを求めることである。感情まかせの信仰は不確かなものである。それは潮流のように、高まるときもあれば、引いていくときもある。それは月のように、輝くときもあれば、おぼろになるときもある。聖書の深い知し識に立った信仰こそ、確固たる永続的な持ち物である。それは人をして、「私はキリストにある希望を感じています」、と云わせるだけではない、----「私は、自分の信じて来た方をよく知って」います、と云わせるのである(IIテモ1:12)。

 (4) この論考を手にとるのは、聖書を大いに読んでいるのに、いくら読んでも何の役にも立っていないと思っている人々かもしれない。これは悪魔の悪辣な誘惑である。ある場合には悪魔は、「聖書など全然読んではならない」、と云う。他の場合には、「お前がいくら読んでも何の足しにもならない。あきらめることだ」、と云う。あなたは、そのような人だろうか? 私は、心の底からあなたへの同情を感ずる。どうか私に助けさせていただきたい。

 あなたは、聖書から益を得ている成果が毎日のように目に見えないからといって、そこから何の益も得ていないなどと考えてはならない。最も大きな影響とは、最もけたたましい音を立てたり、最も容易に観察されるものでは決してない。最も大きな影響とは、しばしば何の音も立てず、静かな、それが生じつつある間は察知しにくいしいものである。地球に対する月の影響や、人間の肺に対する空気の影響について考えてみるがいい。霜がいかに静かにおりることか、また草がいかに目につかぬように育つか思い出すがいい。あなたが聖書を読むことによって、あなたが思うよりもはるかに大きなことがあなたの魂においてなされつつあるであろう。

 みことばはあなたの心に種々の深甚な印象を徐々に生み出しつつあるのかもしれず、あなたは現在はそれに気づいていないのかもしれない。人の性格には、記憶としては何の事実も残っていなくとも、何らかの永続的な印象が残されていることがよくある。罪は年ごとにあなたにとってより憎むべきものとなっているだろうか? キリストは年ごとにより尊いお方となっているだろうか? 聖潔は年ごとに、あなたの目にとってより愛すべきもの、より願わしいものとなっているだろうか? もしこうした事がらが正しければ、勇気を出すがいい。毎日のように目につくことはないかもしれないが、聖書はあなたに益をもたらしているのである。

 聖書があなたを抑えていなかったら、あなたは何らかの罪、または何らかの惑わしに陥っていたかもしれない。聖書はあなたを日ごとに引き留め、あなたの垣根となり、多くの偽りの歩みに踏み出すことを妨げてくれているのかもしれない。あゝ、みことばを読むのをやめるや否や、あなたはたちまちこのことを身をもって知って臍をかむであろう! あまりにも慣れ親しみすぎた祝福は、時として私たちをその価値について鈍感にしてしまう。悪魔に立ち向かうがいい。このことを確固たる法則として、心に銘記しておくがいい。あなたが今の瞬間に感じていようがいまいが、あなたは聖書を読むことによって霊的健康を吸入しつつあるのであり、知らないうちにより強くなっているのである。

 (5) この論考を手にとるのは、真に聖書を愛し、聖書に養われて生き、聖書を大いに読んでいる人々かもしれない。あなたは、そのような人だろうか? どうか私の云うことに心をとめていただきたい。私は、来たるべきときのために心におさめておいてよい、いくつかのことに言及したいと思う。

 私たちは、生きる限り毎年、聖書をいやまさって読む決心をしよう。それが私たちの記憶に根づき、私たちの心に植えつけられるようにしよう。死という船路に向けて、それを徹底的に備蓄しておこう。私たちの航路が非常に激しい嵐に遭わないとだれに知れよう? 何も見えず、何も聞こえないまま、私たちは深い海底に呑み込まれるかもしれない。おゝ、願わくは私たちが、そうした時にも「心にたくわえ」たみことば(詩119:11)を持っていられるように!

 私たちは、生きる限り毎年、自分の聖書の読み方について、いやまさって用心深くなる決心をしよう。油断することなく、自分がそれにどういう時間を割り当てているか、またその時間をどのように費やしているかについて注意深くなろう。しかるべき理由もなく、毎日の聖書日課を省略したりしないように用心しよう。聖書を読んでいる間、あくびをしたり、眠気がさしたり、居眠りしたりしないようにしよう。私たちは、ロンドンの商人がタイムズの商業経済記事をじっくり調べるように読み、----妻の遠国にいる夫からの手紙を読むように読もう。あらゆる注意を払って、自分がいかなる教職者をも、説教をも、本をも、小冊子をも、友人をも、決してみことば以上に尊んだりしないようにしよう。私たちと聖書との間に割り込み、聖書を私たちの目から隠してしまうような本や、小冊子や、人間の助言は呪われるがいい! もう一度私は云う、私たちは非常に用心深くしていよう。私たちが聖書を開くや否や、悪魔は私たちの隣に腰をおろす。おゝ、願わくは私たちが、飢えた霊と、徳を高められようという一途な願いをもって読むように!

 私たちは、自分の家庭の中で聖書をいやまさって尊ぶ決心をしよう。それを朝な夕なに、子どもたちと家内の者たちに向かって読み聞かせ、そうすることを人々に見せて恥じないようにしよう。家庭で聖書が読まれていたがために多くの者たちは、たとえ地獄からではなくとも、監獄や、救貧院や、『ガゼット』紙から遠ざけられてきたのである。

 私たちは、聖書についていやまさって瞑想する決心をしよう。この世に出ていく前に、いくつかの章句を携えて行き、少しでも閑暇のあるときに、それらについて再三再四思い巡らすことは良いことである。それは多くの無駄な思いを閉め出す。それは毎日の聖書日課を思いに固定させる。それは私たちの魂がよどんだり、腐敗した想念を生じさせたりしないようにする。それは私たちの記憶を聖め、生かし、それをして、蛙は住めても魚の住めない沼のようになることを防ぐ。

 私たちは、信仰者に出会ったときには、聖書についていやまさって語る決心をしよう。悲しいかな、キリスト者たちが出会ったときに交わす会話は、しばしば痛ましいほどに無益なものである。何と多くの軽薄な、つまらぬ、愛のないことが語られていることか! 私たちは、いやまさって聖書を持ち出すようにしよう。そうすれば悪魔を追い払い、私たちの心の調子を乱さずに保つ助けとなるであろう。おゝ、願わくは私たちがみな、この悪の世を歩むにあたって、あのエマオに向けて旅をしていたふたりの弟子のように、イエスがしばしば近づいて、ともに道を歩いてくださるような歩みを、努めてともにしていけるように!

 最後の最後に私たちは、生きる限り毎年、聖書によっていやまさって生きる決心をしよう。私たちのあらゆる意見と習慣、----私たちの公の行動と私的な行動、----世間におけるふるまいと自宅の炉端のそばにおけるふるまいのすべてをしばしば考慮に入れよう。私たちはすべてを聖書によってはかり、神の助けによって、聖書に従わせる決意をしよう。おゝ、願わくは私たちが、みことばによって、いやまして「自分の道をきよく保」つ(詩119:9)ことを学べるように!

 この論考を手にとるであろうあらゆる人に私は、これらすべてを真剣に、祈り深く留意していただきたい。私の望みは、わが愛する国の教職者たちが聖書を読む教職者となり、----その会衆が聖書を読む会衆となり、----その国民が聖書を読む国民となることである。この願わしい結果を招来させるため、私は神の金庫にこの貧者の一灯を投ずるものである。願わくは主が、それを無駄になされなかったものとしてくださるように!

聖書を読む[了]

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