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4. 祈 り


「いつでも祈るべきである」*----ルカ18:1
「男は……どこででも……祈るようにしなさい」----Iテモ2:8

 祈りは実際的キリスト教において最も重要な主題である。他の主題はみな、これに次ぐものでしかない。聖書を読むこと、安息日を守ること、説教を聴くこと、公の礼拝に出席すること、聖餐式に集うこと、----これらはみな、非常に重大な問題である。しかし、こうした事がらのいかなるものも、密室の祈りほど重要ではない。

 私はこの論考で、なぜこれほど祈りについて強調するのか、7つの平明な理由をあげたいと思う。この論考を手に取るであろう、思慮あるすべての人に私は、これらの理由に注意を向けてもらいたい。あえて云うが、私の確信するところ、これらは真剣な熟慮に値するものである。

 I. まず第一に、祈りは人が救われるために絶対に必要である。

 絶対に必要と云うのは、考えに考えた上でのことである。私は今、幼児や精薄者について語っているのではない。異教徒の最終的状態に断を下しているのでもない。少ししか与えられなかった所では、少ししか求められないであろうことを私は忘れてはいない。私が特に語っているのは、わが国のような土地でキリスト者であると自称している人々のことである。そして、そのような人々について私は、祈らない者は決して救われることを期待できないと云っているのである。

 私は、恵みによる救いを主張する点ではだれにも引けを取らない。史上最悪の罪人にすら、無償の完全な赦しを喜んで差し出したいと思う。私はいささかのためらいもなく、その人の死の床に立ち会い、「主イエス・キリストを今信じなさい。そうすれば救われます」、と云うであろう。しかし、救いを求めない人でも救われることができるなどということは、聖書のどこにも見い出すことができない。心の中で天を仰ぎ見、「主イエスよ、私に赦しを与えてください」、と云いもしない人が、自分のもろもろの罪の赦しを受けることがある、などということを私は見い出すことができない。自分の祈りによって救われる者がいない、ということは見い出せるが、祈らなくとも救われる者がいる、ということを見い出すことはできない。

 聖書を読めるかどうかは、人が救われるために絶対に必要ではない。人は何の学問もなくとも、あるいは盲目でも、心にキリストをいだくことはできる。福音の公の説教を聞けるかどうかは、絶対に必要ではない。人は福音が説教されていないところでも、寝たきりの病人であっても、耳が聞こえなくとも、いのちを得ることはできる。しかし、祈りについて同様に云うことはできない。人が祈ることは、救われるために絶対に必要である。

 健康や学問に王道はない。君主であれ国王であれ、貧民であれ農民であれ、みな同じように、自分の肉体や頭脳の欲求には自分で気を配らなくてはならない。いかなる人も、代理人によって食べたり、飲んだり、眠ったりすることはできない。他人に代わってもらってアルファベットを覚えられる人はいない。こうしたことはみな、自分が自分でしなくては、全く成し遂げられることがないのである。

 頭脳や肉体と同じことが、魂についてもあてはまる。魂の健康と安寧のためには、いくつかの特定のことが絶対に必要とされる。そうしたことは、だれしも自分で心を配らなくてはならない。だれしも自分で悔い改めなくてはならない。自分でキリストに呼びかけなくてはならない。そして自分で神に語りかけ、祈らなくてはならない。あなたはそれを自分でしなくてはならない。他のだれによっても、そうすることはできないからである。

 一体いかにして私たちは、「知られない」神によって救われることを期待できようか? 祈ることもなしに、いかにして神を知ることができようか? 世間では、口もきかない間柄の人のことは何もわからないものである。私たちは、祈りによって神に語りかけない限り、キリストにおいて神を知ることはできない。もし天国で神とともにいたければ、地上で神の友となっていなくてはならない。地上で神の友となりたければ、私たちは祈らなくてはならない。

 最後の審判の日、キリストの右側には多くの人々がいるであろう。北からも南からも、東からも西からも聖徒たちが集められ、「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」となっているであろう(黙7:9)。彼らの贖いがついに完成したとき彼らの口からほとばしり出る勝利の歌は、実に荘厳なものであろう。それは、大水の音や、激しい雷鳴の音をはるかに越えたものであろう。しかし、その歌には何の不調和もないであろう。その歌を歌う者らは、声を1つにすると同時に、心を1つにしているからである。彼らの経験は全く同一であろう。全員が信じた者たちであろう。全員がキリストの血で洗われた者たちであろう。全員が新しく生まれた者たちであろう。全員が祈ったことのある者たちであろう。しかり、私たちは地上で祈っていなくてはならない。さもないと、決して天国で賛美することはできない。私たちは祈りの学校を修了していなくてはならない。さもないと、決して賛美に満ちた休暇にふさわしい者となることはできない。つまり、祈りがないということは、神を持たず、----キリストを持たず、----恵みを持たず、----希望を持たず、----天国を持たない、ということなのである。それは、地獄への途上にあるということにほかならない。

 II. 第二に、祈りの習慣は真のキリスト者を確実に示すしるしの1つである。

 地上にある神の子どもたちはみな、この点で瓜二つである。彼らは、そのキリスト教信仰に少しでも実質といのちが生じた瞬間から祈り出す。世に生まれ出た赤子に宿っているいのちの最初のしるしが呼吸という行為であるのと同様に、新しく生まれた人々の最初の行為は祈ることである。

 これは、神の選びの民全員に共通した徴候の1つである。選民は「夜昼神を呼び求めている」(ルカ18:7)。彼らを新しく造られた者とした聖霊は、彼らのうちに子とされた感覚を作り出し、彼らに、「アバ、父」、と叫ばせてくださる(ロマ8:15)。主イエスは、彼らを生かすとき、彼らに声と舌を与え、彼らに、「もう黙っていてはならない」、と云われる。神には、口のきけない子どもはひとりもいない。泣くことが子どもの性質の一部であるように、祈ることは彼らの新しい性質の一部である。彼らは、自分があわれみと恵みを必要とすることがわかっている。自分たちの貧しさと弱さを痛感している。彼らには、他の生き方ができないのである。祈らないではいられないのである。

 私は、聖書で物語られている神の聖徒たちの生涯を丹念に辿ってきた。創世記から黙示録に至る間で、その人生の詳細が語られている聖徒を見るとき、ひとりとして祈りの人でない者はいない。私が見るに、聖書で言及されている敬虔な人々の特徴は、神を「父と呼んでいる」こと、「主イエス・キリストの御名を……呼び求めている」ことにある。また聖書に記されているよこしまな人々の特徴とは、「主を呼び求めようとはしない」ことなのである(Iペテ1:17; Iコリ1:2; 詩14:4)。

 私は、聖書の時代以後に地上で生を送った、多くの卓越したキリスト者たちの伝記を読んできた。私が見るに、彼らのある者は富んでおり、ある者は貧しかった。ある者は学識があり、ある者は無学だった。彼らのある者は監督派であり、ある者は長老派であり、ある者はバプテスト派であり、ある者は独立派だった。ある者はカルヴァン主義者であり、ある者はアルミニウス主義者だった。ある者は何らかの典礼式文を使うことを好み、ある者は全くその種のものを用いなかった。しかし、私が見るに、1つだけ、彼らに共通していることがあった。彼らはみな祈りの人だったのである。

 私は、現代の色々な伝道団体の報告書をよく読んでいる。地球上のさまざまな場所で異教徒の人々が福音を受け入れつつあるのは実に喜ばしいことである。アフリカでも、ニュージーランドでも、ヒンドスタンでも、アメリカでも、回心者が起こされている。むろん世界各地の回心者たちには、種々雑多な点で違いがある。しかし、あらゆる伝道地において見てとれる、1つの瞠目すべきことがある。回心した人々は、例外なしに祈るということである。

 私も、人が心を込めもせず、いいかげんに祈ることがありえることは否定しない。ある人が祈っているという事実だけで、その人の魂の状態について何かを証明しているなどと云うつもりはさらさらない。キリスト教信仰の他のどの部分とも同じように、ここでも欺きと偽善は山ほどある。

 しかし、このことだけは云っておきたい。----祈っていないということは、その人がまだ真のキリスト者になっていないという明確な証拠である。そうした人が、自分のもろもろの罪を痛感しているはずがない。自分が返さなければならない負債をキリストに負っていると感じているはずがない。聖潔を慕い求めているはずがない。天国を憧れ求めているはずがない。その人はまだ新しく生まれていないのである。まだ新しく創造された者となっていないのである。その人は自信満々で選びや、恵み、信仰、希望、知識などについて得々と語り、無知な人々をたぶらかすことはできるかもしれない。しかし、もしその人が祈らない人であれば、それがことごとく無駄口であることは間違いない。

 さらに云いたいのは、御霊の真のみわざを示すあらゆる証拠のうちで、心の込もった密室の祈りの習慣こそ、考えうる限り最も満足の行くものの1つだということである。人は偽りの動機によって説教しているかもしれない。書物を書き、立派な演説をし、勤勉に善行に励んでいても、イスカリオテのユダのような人物かもしれない。しかし人が密室に赴き、だれも見ていない所で神の前に魂の真情を吐露するなどということは、本当に真剣でなければまずありえない。主ご自身、祈りは真の回心の最上の証明であるということに、その証印を押しておられる。アナニヤをダマスコのサウロのもとに遣わしたとき、主がサウロの心の変化の証拠としてお示しになったのは、ほかならぬこのことであった。----「そこで、彼は祈っています」(使9:11)。

 人が祈りに向かわされる前に、心の中で多くのことが起こっているであろうことは私も承知している。その人は、多くの確信、願望、願い、感動、意向、決意、希望、恐れをいだいているかもしれない。しかしこうしたものはみな、非常にあやふやな証拠である。これらは不敬虔な人々のうちにも見られることがあるが、結局は何にもならない。多くの場合、それらは、「朝もやか朝早く消え去る露」*程度にしか長続きしない(ホセ6:4)。真の、心からの祈り、砕かれて悔いた霊から発した祈りは、こうしたもの全部を寄せ集めたよりも価値がある。

 神の選びの民が永遠の昔から救いに選ばれていることは私も承知している。定めの時に彼らをお召しになる聖霊が、多くの場合、彼らを非常にゆっくりと、徐々にキリストを知る知識へとお導きになることを忘れているわけでもない。しかし、人間の目が判断できるのは、見えるものだけである。私はいかなる人をも、その人が信仰を持つまでは、義と認められていると呼ぶことはできない。そして、その人が祈るまでは、その人に信仰があると云うことはできない。口のきけない信仰などというものを私は理解できない。信仰が行なう最初の行為は、神に語りかけることであろう。魂にとって信仰は、肉体にとってのいのちと同じである。信仰にとって祈りは、いのちにとっての呼吸と同じである。生きてはいるが呼吸をしない人などというものは私の理解の埒外にあり、信じてはいるが祈らない人というのも私の理解を越えている。

 福音の教役者が、祈りの大切さをこれほど強調していることに、だれも驚かないでほしい。これこそ私たちがあなたに、実際に行なってほしい点なのである。----私たちが知りたいのは、あなたが祈る人かどうかということである。あなたの教理的な見解は正しいかもしれない。あなたがいだくプロテスタント主義への愛は暖かく、取り違いようのないものかもしれない。しかしそれでもこれは、頭だけの知識と党派心以上の何物でもないこともありえる。問題の焦点は、----あなたが、神について語っているのと同じくらい、神に向かって語っているかどうか、ということである。

 III. 第三に、キリスト教信仰における義務の中でも、密室の祈りほどないがしろにされているものはない。

 私たちの生きているのは、キリスト教の信仰告白がいやというほどなされている時代である。公の礼拝が行なわれている場所の数は、過去のいかなる時代にもまして多い。またそうした礼拝に集う人々の数は、英国の国家創設以来、これまでにないほど多い。しかしながら、この公のキリスト教信仰の大がかりな興隆にもかかわらず私は、密室の祈りがひどくないがしろにされていると信ずるものである。

 数年前であれば私も、このようなことは云わなかったであろう。愚かにも私はかつて、ほとんどの人が祈祷をささげ、大勢の人々が祈っているものと思い込んでいた。しかし、もはや私はそのような考えをいだいてはいない。私が到達した結論は、信仰を告白するキリスト者の大多数は祈ることを一切していない、というものである。

 これが非常に衝撃的な発言であり、多くの人々をぎょっとさせるであろうことは承知している。しかし私の堅く信ずるところ、祈りは世間で「当然視」されている事がらの1つであって、他の当然とされている多くの物事と同じく、不届きなほどないがしろにされている。それは、「だれもが行なわなくてはならないこと」であって、そうした事がらの多くについてしばしば起こるように、それを実行に移す者はごく少ないのである。それは、神と私たちの魂との間でなされる、個人的なやりとりの1つにほかならない。それは誰の目にも触れないがゆえに、抜かして省略させようという誘惑には事欠かないものである。

 私の信ずるところ、おびただしい数の人々は一言も祈ってはいない。彼らは食べたり、飲んだり、眠ったり、起きたり、働きに出たり、家に帰ってきたりすることはする。彼らは神の空気を呼吸し、神の太陽を目にし、神の大地の上を歩き、神のあわれみを楽しむ。彼らは死にゆく肉体を持ち、審きと永遠を前にしている。しかし彼らは決して神に語りかけようとしない! 彼らの生き方は滅びうせる獣に等しい。彼らのふるまいは魂を持たない生き物同然である。彼らは、自分のいのちと息とすべてとをにぎるお方、いつの日か自分たちの永遠の運命を宣告なさる口をお持ちのお方に、一言も語る言葉を持っていない。これは、何とぞっとさせられる光景であろう! しかし、もし人々の心の秘密が明らかにさえなるなら、何とありふれた光景であることか!

 私の信ずるところ、何万何千もの人々はただの形式でしかない祈りしか祈っていない。----それは、丸暗記した一連の文句を唱えることにほかならず、意味など全く考えられていない。ある人々は、子供部屋で聞き覚えた文章をいくつか口早に繰り返す。ある人々は使徒信条を唱えるだけで満足し、そこに何の願いもふくまれていないことを忘れている。ある人々はそれに主の祈りをつけ足すが、その厳粛な請願がかなえられることなど全然願ってはいない。貧民層の中には、今日ですら、あの古いローマカトリック教の詩句を繰り返す人々がいる。----

    「マタイに、マルコに、ルカに、ヨハネよ、
     わが寝床を祝福したまえ」

健全な形式を用いる人々の間でさえ、多くの人々は寝床にもぐりこんでから祈りをもぐもぐと唱えるか、朝の洗顔や着替えをしながら口早に祈りを唱えるだけである。他の人がどう考えるかは知らないが、請け合ってもいい。これは祈りではない。心を込めずに口にされた言葉が私たちの魂にもたらす益は、あわれな異教徒が彼らの偶像の前で叩きまくる太鼓の音と同程度でしかない。心ここにあらずな場合でも、舌のわざとくちびるのわざは見受けられるかもしれないが、そこには、神が耳を傾けるものは何もない。----そこには何の祈りもないのである。疑いもなくサウロは、ダマスコへの途上で主とお会いする前にも、多くの長い祈りをささげてきたに違いない。しかし、彼の心が砕かれて初めて主は、「彼は祈っています」、と云われたのである。

 このことに驚く読者がいるだろうか? 私の話を聞きさえすれば、私がわけもなくこうしたことを語っているのではないことが分かるであろう。あなたには私の主張が突飛で、無体なものだと思えるだろうか? しばし注意を傾けてほしい。すぐに私は真実以外の何物も告げていないことを明らかにするであろう。

 あなたは、人が祈るということが自然なことではないということを忘れているのではなかろうか? 肉的な精神は神に敵対する。人の心の願うところは神から遠ざかり、神と何の関わりも持たないことである。彼の神に対する感覚は愛ではなく恐れである。それではどうして人は、真の罪意識が全くなく、真に霊的な欠けを感ずるところが全くないときに、----目に見えないものに対する徹底した信仰が全くないときに、----聖潔と天国に対する願望が何もないときに、----どうして祈るなどということがありえようか? こうしたすべての事がらについて、大多数の人々は全く知りも感じもしていない。人々は群れをなして広い道を歩いている。私はそれを忘れるわけにはいかない。それゆえ私は大胆に云うのである。私は、祈る人はほとんどいないと信ずる、と。

 あなたは、祈ることは人受けが良くないものであることを忘れているのではなかろうか? 祈りは、人に知られたら相当に恥ずかしいとされる行為の1つにほかならない。自分には祈る習慣があるなどと人前で告白するくらいなら、要塞の突破口を強襲するか、決死隊を率いて突撃する方を喜んで選ぶ人は何千人もいるであろう。たまたま見知らぬ人と相部屋で同宿することになった場合、一言も祈ることなしに寝床に入る人は何万人もいるであろう。乗馬が巧みであること、射撃が巧みであること、舞踏会や音楽会や劇場に行くこと、聡明で、人当たりがいいこと、これらはみな人受けのいいことであるが、祈ることはそうではない。私はそれを忘れるわけにはいかない。これほど多くの人々が恥ずかしそうに行なっている習慣が、広く一般に行なわれているとは考えられない。やはり私は、ほとんどの人は祈っていないと信ずる。

 あなたは、多くの人々がどのような生活を送っているか忘れているのではなかろうか? 私たちは、人々がどっぷりと罪に埋没しているのを見ていながら、彼らは罪に陥らないように夜昼なく祈っているはずだ、などと本気で考えられるだろうか? 人々が、この世の種々の営みに没頭し、がんじがらめになっているというのに、彼らはこの世に負けないよう日々祈っているはずだ、などと考えられるだろうか? 人々が、神に仕えたいという願いなど毛ほども見せていないというのに、彼らは神に仕える恵みを与えたまえと心から神に求めているはずだ、などと考えられるだろうか? おゝ、否! 日の光ほど明らかなように、大多数の人々は神に何も求めていないか、求めているとしても自分の求めていることを本気で願ってはいない、----つまり全く同じことである。祈ることと罪を犯すことは、決して同じ心に同居できるものではない。祈りが罪を焼きつくすか、罪が祈りを窒息させるかである。私はそれを忘れるわけにはいかない。私には人々の生活が見えている。私は、ほとんどの人は祈っていないと信ずる。

 あなたは、多くの人々が死んでいくありさまを忘れているのではないだろうか? いかに多くの人々が、死の間際に近づきつつあるとき、神とは全く赤の他人のように見えることか。彼らは神の福音について悲しいほど無知なだけでなく、神に語りかける力も悲しいほど欠けている。神に近づこうとする彼らの努力には、ひどいぎこちなさ、はにかみ、まごつき、不慣れさが見られる。彼らは、生まれて初めて行なう何かをしているように見える。彼らのようすは、まるで自分を神に紹介してほしいと云わんばかりで、それまで一度も神と語り合ったことがないかと思われる。以前聞いたことのあるひとりの婦人は、最後の病を得たとき、必死に牧師の訪問を求めたという。彼女が牧師に願ったのは、どうか自分と一緒に祈ってほしいということであった。牧師が彼女に何と祈ればいいのか尋ねると、彼女は何も思い浮かばず、一言も答えられなかった。彼女は、自分の魂のため神に牧師から願ってほしいことを何1つあげることができなかったのである。彼女がしてほしかったのは、ただ牧師に祈ってもらうという形式だけでしかなかったようであった。私には、これがよく理解できる。死の床は、心の秘密をありありと明らかにするものである。私は病を得て、死に臨んでいる人々について目にしたことを忘れるわけにはいかない。こうしたことによっても私は、ほとんどの人は祈っていないと信ずる。

 IV. 第四に、祈りとは、キリスト教信仰において最も大きな励ましが与えられている行為である。

 もし人が祈ろうと試みさえするなら、神の側には、祈りを容易にするあらゆるものがある。神の側では、「もうすっかり、用意ができ」ている(ルカ14:17)。いかなる反対にも、先手が打たれている。いかなる困難に対しても備えはできている。よじくれた場所はまっすぐにされ、でこぼこの場所はなだらかにされている。祈らない人には何の云い訳も残されていない。

 そこには1つのがあって、その道を通れば、どれほど罪深く卑しい人であっても、父なる神に近づくことができる。イエス・キリストはその道を、十字架上で私たちのためになされたそのいけにえによって開いてくださった。罪人は、神の聖さと正義を思って怯えたり、遠ざかったりする必要はない。ただイエスの御名によって神に叫びさえするなら----イエスの贖いの血潮を申し立てさえするなら----、たちまち彼らは恵みの御座についておられる神が、喜んでいつでも耳を傾けようとしておられるのに気づくのである。イエスの御名は、私たちの祈りに添えられた永久許可証である。その御名において人は大胆に神に近づき、確信をもって願い事をすることができる。神はその人の声を聞くと請け合っておられる。これを考えてみるがいい。これは励ましではなかろうか?

 そこにはひとりの弁護してくださる方、また、とりなし手がいて、彼を雇う気持ちのあるいかなる人々の祈りをも提出しようと待ち受けている。その弁護者とは、イエス・キリストである。彼は私たちの祈りを、ご自分の全能のとりなしの芳香と混ぜ合わせてくださる。そのように混ぜ合わされた祈りは、神の御座の前に甘美な香として立ち上るのである。それ自体としては貧弱な祈りでも、私たちの大祭司、また長兄の手によってそれは、圧倒的に力強いものとなる。末尾に署名のない銀行券は、何の価値もない紙きれにすぎないが、ほんの数語をペンでしたためるだけで、そこに価値が宿るのである。アダムの子らの貧しい祈りは、それ自体でははかないものだが、ひとたび主イエスの手によって裏書きされるや否や、大いに力を振るうものとなる。かつてローマの都にはひとりの役人がいて、どんなローマ市民が助けを求めに来たときにも受け入れてやれるように、常にその門戸を開いておくように命ぜられていたという。まさにそれと同じく主イエスの耳は、あわれみと恵みを乞い求めるすべての者の叫びに対して、常に開かれている。彼らを助けることが主の職務なのである。彼らの祈りは主の喜びである。このことを考えてみるがいい。これは励ましではなかろうか?

 そこには聖霊がおられて、常に私たちの祈りの弱さを助けようと待ち受けておられる。聖霊の特別な職務の1つは、私たちが神に語りかけようとする努力の手助けをすることである。私たちは、恐れを感じたり、何を云っていいかわからないからといって落胆することも嘆くこともない。助けを求めさえするなら、御霊は私たちに言葉を与えてくださるであろう。御霊は私たちに「息吹く思想と燃える言葉」を備えてくださるであろう。主の民の祈りは主の御霊によって着想されたもの、----彼らのうちに恵みと嘆願の御霊として内住する聖霊が作り出してくださったものなのである。確かに主の民は、聞き届けられることを希望してよいであろう。彼らだけが祈っているのではなく、彼らのうちにあって聖霊が嘆願しておられるのである(ロマ8:26)。このことを考えてみるがいい。これは励ましではなかろうか?

 そこには、祈る者たちに対する、この上もなく大きく尊い約束がいくつもある。主イエスは、このようなおことばを語ったとき、何を意味しておられたのだろうか? 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」(マタ7:7、8)。「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」(マタ21:22)。「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」(ヨハ14:13、14)。真夜中の友人のたとえ話や、あの執拗なやもめのたとえ話をなさったとき、主は何を意味しておられたのだろうか(ルカ11:5; 18:1)? こうした箇所について考えてみるがいい。もしこれが祈りへの励ましでないとしたら、言葉には全く何の意味もないであろう。

 聖書には、祈りの力について素晴らしい実例がある。祈りにとって、何事であれ大きすぎたり、難しすぎたり、困難すぎたりするものはないように見える。それは、人には不可能とも、力の及ばぬものとも思われたものをつかみとってきた。それは火と大気と大地と水に対して勝利をおさめてきた。祈りは紅海を2つに割った。祈りは岩から水を、天からパンを引き出した。祈りは太陽を天空で静止させた。祈りは大空から火をエリヤのいけにえの上に降らせた。祈りはアヒトフェルの助言を愚かなものとさせた。祈りはセナケリブの軍隊を壊滅させた。スコットランド女王メアリーがこう云ったのも当然である。「私はジョン・ノックスの祈りの方が、一万人の軍隊よりも恐ろしい」、と。祈りは病人を癒した。祈りは死者をよみがえらせた。祈りは魂の回心をもたらした。一老キリスト者はアウグスティヌスの母に告げて云った。「多くの祈りの子は決して滅びません」、と。祈りと、労苦と、信仰には、どんなことでもできる。子としてくださる御霊を有する人には何事も不可能とは思えない。「わたしのするままにせよ」、とはモーセに対する神の尋常ならざるおことばである(出32:10)。それは、モーセがイスラエル人のためにとりなそうとしたときのことであった。カルデヤ語版でこれは、「祈ることをやめよ」、と訳されている。主は、アブラハムがソドムのためにあわれみを求め続ける限り、譲歩し続けてくださった。主はアブラハムが祈りをやめるまで決して譲歩するのをおやめにならなかった。このことを考えてみるがいい。これは励ましではなかろうか?

 キリスト教信仰において、人をして最初の一歩を踏み出させるためには、私が今祈りについて語って聞かせたこと以上に、何が必要であろうか? 贖いのふたへの通り道を容易なものとし、罪人の道からつまづきとなるようなものをことごとく取り除くためには、これ以上何ができるだろうか? 確かにもし地獄の悪霊たちの前にこのような扉が開かれたとしたら、彼らは喜びおどって、その底なしの穴を歓喜で鳴り響かせるであろう。

 しかしこのように輝かしい幾多の励ましをないがしろにする者は、終いには、どこにその頭を隠すのだろうか? 最後まで祈ることなしに死んでいく者に向かって何が語りうるだろうか? 願わくは、この論考を読む人々の中に、そのような者がひとりもいないように!

 V. 第五に、勤勉に祈りを積むことは、ひときわすぐれた聖潔に達する秘訣である。

 真のキリスト者同士の間にも、非常に広大な違いがあることに異論の余地はない。神の軍隊の最前列と最後尾の間には途方もない隔たりがある。

 彼らは全員、同じ良き戦いを戦っている。----しかし、いかにある人々が、他にましてはるかに勇壮に戦っていることか! 彼らは全員主にある光である。----しかし、いかにある人々が、他にましてはるかに燦然と輝いていることか! 彼らは全員同じ競走を走っている。----しかし、いかにある人々が、他にましてはるかに早く先へ進むことか! 彼らは全員同じ主、同じ救い主を愛している。----しかし、いかにある人々が、他にましてはるかに彼を愛していることか! 私は真のキリスト者のだれにでも、これが本当かそうでないかを問いたい。これが実状ではなかろうか?

 主の民の中には、その回心の時以来、決して進歩できないように見える人々がいる。彼らは新しく生まれてはいるが、一生の間赤子としてとどまる。彼らはキリストの学び舎の初学者ではあるが、決してABCを越えて進まず、最下級のままでいるように見える。彼らは羊の囲いの内側には入ったが、そこで寝そべってしまい、先に進むことがない。年々歳々、彼らのうちには同じ罪がまつわりついている。彼らから聞かされるのは同じ古ぼけた経験である。あなたは彼らの内側には、あいもかわらぬ霊的欲求の欠けがあることに気づかされる。----みことばの乳以外のものに対する、あいもかわらぬ気むずかしさ、堅い食物に対する、あいもかわらぬ嫌悪、----あいもかわらぬ幼稚さ、----あいもかわらぬ虚弱さ、----あいもかわらぬ精神の卑小さ、----あいもかわらぬ心の狭さ、----自分たちの狭い世界を越えた物一切に対する、あいもかわらぬ無関心さに気づかされる。それらは、あなたが10年前に気づかされたものと全く同じである。彼らは確かに巡礼ではあっても、古のギブオン人のような巡礼である。----彼らのパンは常にかわいて、ぼろぼろになっている。----彼らのはきものは常に古びて、つぎが当たっており、彼らの着物は常に裂けて破れている(ヨシ9:4、5)。私はこうしたことを悲しみと嘆きを覚えつつ語っている。しかし私は、真のキリスト者のだれにでも問いたい。これが真実ではなかろうか?

 主の民の中には、常に進歩し続けている者もいる。彼らは雨の後の草のように成長する。エジプトにおけるイスラエルのように力を増す。彼らはギデオンのように前進し続け、----時には「疲れていたが、追撃を続け」る(士8:4)。彼らは常に恵みに恵みを加え続け、信仰に信仰を、力に力を加え続ける。会うたびに彼らは、その心をさらに広くし、霊的に大きく、高く、強く発達している。年々彼らはそのキリスト教信仰において理解を深め、知識を増し、信仰を強め、感情を豊かにしている。彼らは、その信仰の実質を証明する良いわざを行なっているばかりか、そのことに熱心である。彼らは善を行なうだけでなく、それを行なうのに飽くことがない(テト2:14; ガラ6:9)。彼らは大きなことをしようとし、大きなことを行なう。失敗するとき彼らはもう一度試み、倒れるとき彼はすぐに起きあがる。そしてこの間ずっと、自分のことを貧しく役に立たないしもべだと考え、自分は何もしていないと思っているのである!----こうした人々こそ、キリスト教信仰を万人の目にとって麗しく、美しいものとしているのである。彼らは未回心の人々からさえも賞賛を引き出し、この世の利己的な人々からさえも絶大な信望を集める。こうした人々こそ、見るにも、ともにいるにも、話を聞くにも良い人々である。彼らに会うと、モーセのように、彼らが神の御前からやって来たばかりだということが信じられるであろう。彼らと別れると、自分の魂が火にあたっていたかのように、彼らとともにいることによって暖められていたことが感じられるであろう。こうした人々がまれにしかいないことは承知している。だが私は、そういうことがあるのではないか、ということだけを問いたい。

 おそらくこうした意見は一部の読者をぎょっとさせるであろう。私の見るところ、疑いもなく多くの人々は、卓越した聖潔とは一種の特別な賜物であって、ごく少数の人しか目指そうとはしないものに違いない、とみなしている。彼らはそうした聖潔を遠くから、あるいは書物の中に見て賞賛する。自分たちの近くにいる人にその実例を見るときには、それを美しいと考える。しかし、それがごく少数の人ではなく、だれにでも手の届くものだという考えは、決して彼らの思いに浮かばないものと見える。つまり、彼らの考えではそれは、恵まれた少数の信仰者にだけ許可された一種の独占業であって、信仰者全員に許されたものなどでは決してないのである。

 さて私の信ずるところ、これは危険きわまりない誤りである。私の信ずるところ、霊的な偉大さは、天性の偉大さと同じく、他の何にもまして、万人の手の届くところにある手段を用いるかどうかにかかっている。もちろん私も、私たちには知的賜物が奇蹟的に与えられると期待する権利がある、などとは云わない。しかし私が云いたいのは、ひとたび人が神に回心したならば、その人がひときわすぐれて聖い人となるかどうかは、その人自身が神の定めた手段を勤勉に用いるかどうかに大きくかかっている、ということである。そして私は確信をもって主張するが、ほとんどの信仰者がキリストの教会において偉大な者とされた最たる手段は、勤勉な密室の祈りの習慣なのである。

 聖書の中の、あるいはそれ以外の、神の最高にして最良のしもべたちの生涯を調べてみるがいい。モーセや、ダビデや、ダニエルや、パウロについて何とかかれているか見るがいい。ルターや、ブラッドフォードや、宗教改革者たちについて何と記されているか注意してみるがいい。ホイットフィールドや、セシルや、ヴェンや、ビカーステスや、マクチェーンらの密室における静思の時について何と物語られているか注目してみるがいい。この錚々たる聖徒らや殉教者らの集団の中で、このしるしを何よりも目立たせていなかった者があるか、教えてほしい。----彼は祈りの人だったのである。おゝ、まぎれもなく祈りは力である!

 祈りは、清新で絶え間ない御霊の注ぎを獲得する。御霊だけが人の心の中で恵みのみわざを始めることがおできになる。御霊だけがそれを進展させ、成功させることがおできになる。しかし、ほむべき御霊は、懇願されることを愛しなさる。そして最も願い求める者たちこそ、常に御霊の影響力を最も受けるものである。

 祈りは、悪魔とまつわりつく罪に対抗する最も確実な治療法である。心からの祈りによって対抗されている罪は決して堅く立つことはできない。私たちが主に追い出してくださるように嘆願するとき、悪魔は決して私たちに支配を長く及ぼし続けることはできない。しかし、その際私たちは、自分の症状をことごとく、天におられる私たちの医師の前に打ち明けなくては、彼から日ごとの救済を受けることはできない。私たちは、自分の内に巣くう悪霊どもをキリストの御足のもとに引きずり出し、これらをよみの穴に追い戻してくださいと、彼に叫ばなくてはならない。

 私たちは恵みにおいて成長し、傑出して聖いキリスト者になりたいと願っているだろうか? それでは決して祈りの価値を忘れないようにしよう。

 VI. 第六に、祈りをないがしろにすることは信仰が後退する大きな原因の1つである。

 キリスト教信仰においては、りっぱな告白をした後でも、信仰が退歩することがある。人は、あのガラテヤ人のように、しばらくの間よく走っていたのに、にせ教師たちに引かれて横道にそれることがある。人はペテロのように、熱く感ずるものがあるうちは声高に信仰を告白しているが、後で試練の時がやってくると、自分の主を否むことがある。人はエペソ人のように、その最初の愛を失ってしまうことがある。人はパウロの同行者マルコのように、善を行なおうというその情熱が冷めてしまうことがある。人はしばらくの間は使徒につき従っていても、その後、デマスのように、世に戻っていくことがある。----人には、こうしたすべてのことが起こりうるものである。

 信仰後退者となるのはみじめなことである。人間にふりかかるあらゆる不幸な事がらの中でも、これが最悪であると思う。座礁した船、翼を折った鷲、雑草のはびこった庭園、弦のない竪琴、荒廃した教会堂、----これらはみな見るも痛ましい光景である。しかし信仰の後退した者はそれらよりずっと悲しい光景である。真の恵みが決して消されないこと、またキリストとの真の結びつきが決して絶たれないことは、私はみじんも疑ってはいない。しかし私がやはり信ずるところ、人は堕落するあまり、自分の恵みを見失い、自分の救いを絶望するほどになることがありうる。そしてもしこれが地獄でないとしたら、これは地獄に次ぐものに違いない! 傷ついた良心、自己嫌悪に満ちた思い、自らを責めてやまない記憶、主の矢でさんざんに刺し貫かれた心、内側から出た断罪の重みで砕けた霊、----これはみな地獄を味わうことである。これは地上の地獄である。まことに、かの賢者の言葉は厳粛で、重みがある。----「心の後退している者は自分の道でうずめられる」(箴14:14 <英欽定訳>)。

 さて、ほとんどの信仰後退の原因は何だろうか? 私の信ずるところ、一般原則として云える、その大きな原因の1つは、個人的な祈りをないがしろにすることである。もちろん、堕落の隠された真相は最後の審判の日まで知られることはないであろう。私はただ、キリストの教役者として、また心をつぶさに研究してきた者としての意見を述べることしかできない。その意見とは、何度も繰り返すが、一般に信仰後退は個人的な祈りをないがしろにすることから始まる、ということである。

 祈りなしに読まれた聖書、祈りなしに聞かれた説教、祈りなしに執り行なわれた結婚、祈りなしになされた旅行、祈りなしに選ばれた住居、祈りなしに結ばれた友情、心を込めずに、そそくさとなされた日々の密室の祈りという行為そのもの、----こういった種類の下向きの歩みを進めることによって、多くのキリスト者は霊的な麻痺状態に陥っていくか、はなはだしい転落を神が許す点まで到達するのである。

 これこそ、あのためらいがちなロトたちや、落ちつきのないサムソンたち、妻を偶像にしているソロモンたち、首尾一貫しないアサたち、人の云いなりのヨシャパテたち、気遣いしすぎのマルタたちなど、キリストの教会員の中におびただしく見られる多くの者たちが生じさせられていく道行きである。そうした状態に陥った人々の歩みを端的に云えば、それはしばしばこのようになる。----彼らは個人的な祈りに気を遣わなくなったのである。

 これは間違いなく確かなことだが、公に堕落する人々は、そのはるか以前に私的に堕落しているものである。世の眼前で大っぴらに信仰を後退させるはるか前から、その密室の祈りにおいて信仰後退者となっているのである。ペテロのように彼らは、まず最初に、用心して祈っていよとの主の警告を聞き流す。その後でペテロのように彼らの力は消え失せ、誘惑の時に彼らは自分の主を否むのである。

 世は彼らの失墜に目をとめ、大声であざける。しかし世はその真の理由について何も知らない。異教徒たちは、古の教会教父オリゲネスを死ぬよりもひどい罰で脅かすことによって、偶像に香をささげさせることができた。そこで彼らは、彼の臆病さと背教を目にして大いに勝ち誇った。しかし異教徒たちが知らなかった事実をオリゲネスその人が私たちに告げている。彼は、まさにその日の朝、あわてて寝室を飛び出したために、いつもの祈りを終えないでしまったのである。

 もしこの論考を読む人の中に本当のキリスト者がいるなら、私はその人が決して信仰を失ってしまうことはないと堅く信ずる。しかしもしあなたが信仰の後退しつつあるキリスト者になりたくなければ、私が与えるこの心得を覚えておくがいい。----あなたの祈りに打ち込むことである。

 VII. 第七に、祈りは幸福と満足感とを得る最良の秘訣の1つである。

 私たちの住んでいる世の中には悲しみがあふれている。罪が入り込んで以来、これが常に世の状態であった。罪のあるところ悲しみがないわけにはいかない。そしとて罪が世から追い出されるまで、悲しみから逃れることができるなどと思うのはあだな望みである。

 疑いもなくある人々は、他の人々にもまして大きな悲しみの杯を持っている。しかし、長生きをした人のうち、何らかの種類の悲しみや心配をを持たずにいられる人はほとんどいない。私たちの肉体、私たちの財産、私たちの家族、私たちの子どもたち、私たちの親族、私たちのしもべたち、私たちの隣人たち、私たちの職業、これらは1つ1つが心配の源泉である。病、死、失敗、失望、別離、離別、忘恩、中傷、----これらはみな、ありふれたものである。私たちはこうしたものを味わうことなく世を渡っていくことはできない。やがていつの日か、それらは私たちを見つけだす。私たちの種々の感情が大きければ大きいほど、私たちの苦しみも深い。私たちが愛すれば愛するほど、私たちは大いに泣かなくてはならない。

 ではこのような世界において朗らかに生きるための最良の秘訣は何だろうか? この涙の谷を最も痛みなくくぐり抜けていくにはどうしたら良いだろうか? 私の知る限り、その秘訣として、何事も祈りによって神に持ち出す習慣にまさるものはない。

 これこそ旧新両約の聖書で与えられている平明な助言である。詩篇作者は何と云っているだろうか? 「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう」(詩50:15)。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」(詩55:22)。使徒パウロは何と云っているだろうか? 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリ4:6、7)。使徒ヤコブは何と云っているだろうか? 「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい」(ヤコ5:13)。

 これは聖書に生涯が記されたすべての聖徒たちが常に行なっていたことであった。これこそヤコブが、兄エサウを恐れていたときに行なったことであった。これこそモーセが、荒野で民が今にも彼を石打ちにしようとしていたときに行なったことであった。これこそヨシュアが、アイの前で敗北したときに行なったことであった。これこそダビデが、ケイラで危地に陥ったときに行なったことであった。これこそヒゼキヤが、セナケリブからの書状を受け取ったときに行なったことであった。これこそ教会が、ペテロの投獄に際して行なったことであった。これこそパウロが、ピリピの地下牢に放り込まれたときに行なったことであった。

 このような世界で真に幸福になる唯一の方法は、私たちの心配事の一切を常に神に投げかけることしかない。自分の重荷を自分で担おうするがゆえに信仰者たちは、しばしば悲しまされるのである。もし彼らが自分たちの困難を神に告げさえするなら、神は彼らをして、ガザの門扉をかついだサムソンのように軽々とそれらを負えるようにしてくださるであろう。もし彼らがそれらを自分のもとにとどめておこうと決心しているなら、いつの日か彼らはいなごですら重荷となっていることに気づくであろう(伝12:5)。

 私たちには、胸の内の悲しみを打ち明けさえするなら、いつでも私たちを助けようと待っている友がいるのである。----地上におられたときには、貧しい者、病んだ者、悲しむ者をあわれんだ友、----私たちの間で33年間人として生きられたために人の心がわかっておられる友、----悲しみの人で嘆きを知っていたがゆえに、泣く者とともに泣くことがおできになる友、----地上に治すことのできない痛みが1つもないため、私たちを助けることがおできになる友がいる。その友こそイエス・キリストである。幸福になる道は、常に私たちの心を彼に開くことである。おゝ、願わくは私たちがみな、あの貧しいキリスト者の黒人のようであるように。その黒人は、脅されようが罰されようが、「主にお話しなくては」、としか答えなかったのである。

 イエスは、いかなる状況にあろうとご自分に信頼し、ご自分を呼び求める者たちを幸福にすることがおできになる。牢獄の中にあっても心の平安を、----貧困のさなかにあっても満ち足りる心を、----愛する者と死別したときにも慰めを、----墓場に入る瀬戸際にあっても喜びを彼らに与えることがおできになる。イエスのうちには、彼を信ずるすべての肢体のための大いなる満ち満ちた豊かさがある。----祈りによって求める者ならだれにでも喜んで注ぎ出されるであろう豊かさがある。おゝ、願わくは人が、その幸福は外側の状況に依存するものではなく、心の状態によるものであることを理解するように!

 祈りは、私たちの十字架がどれほど重くとも軽くすることができる。それは、私たちを助けてそうした十字架を担わせてくださるお方を私たちのそばに引き下ろすことができる。----祈りは、私たちの行く手が閉ざされたように見えるときにも、私たちのために扉を開くことができる。それは、「これが道だ。これに歩め」、と云うお方を引き下ろすことができる。----祈りは、私たちの地上的な展望がことごとく暗くなるように思われるときにも、希望の光線を射し込ませることができる。それは、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」、と云うお方を引き下ろすことができる。----祈りは、私たちの最も愛する者たちが取り去られ、世界が空虚に感じられるときにも、私たちのための慰藉を獲得することができる。それは、私たちの心の隙間をご自分で埋めることができ、心の内の波浪に向かって、「黙れ、静まれ」、と云えるお方を引き下ろすことができる。おゝ、願わくは人が、荒野におけるハガルのように、自分たちのそば近くにあるいのちの水の井戸に対して盲目な者とはならないように!(創21:19)

 私がこの論考を読む方々に望むのは、真に幸福なキリスト者となってほしいということである。私の確信するところ、私が彼らに促すことのできる重要な義務として、祈りにまさるものはない。

 さてそれでは、そろそろこの論考をしめくくるべきときであろう。私は、真剣に考察すべき事がらを読者の方々の前に持ち出したものと信じている。私が心から神に祈るのは、この考察が彼らの魂にとって祝福となることである。

 (1) まず私には、祈っていない人々に対して、一言別れの言葉を語らせていただきたい。ここまで読んで来られた方々の全員が日々祈りを積んでいる人々であるなどとは私も考えていない。もしあなたが祈ることのない人であるとしたら、今日のこの日、神に代わってあなたに語らせていただきたい。

 祈りのない友よ、私には、あなたがたに警告することしかできない。しかし私は最も厳粛に警告する者である。私はあなたに警告する。あなたは、恐ろしく危険な立場にある。もし今の状態のまま死ぬなら、あなたの魂は失われてしまう。あなたはやがて復活しても、永遠にみじめになるだけである。私は警告する。あなたは、信仰を告白するあらゆるキリスト者の中で、最も完全に弁解の余地がない者である。祈らずに生きてきた理由として、あなたが示せるまともな理由は何1つない。

 あなたは、祈るにはどうすればいいか知らなかったなどと云っても無駄である。祈りはキリスト教信仰全体の中でも、最も簡単な行為である。祈り出すには学識も、知恵も、書物の知識もいらない。心と意志さえあればよい。どれほど無力な赤子でも空腹になったら泣くことはできる。どれほど貧しい乞食でも、施しを求めて手を差し出すことはできるし、洗練された言葉を考えつくまで待っていたりしない。どれほど無知な人でも、その気さえあれば神に云うことは考えつくであろう。

 祈るための都合のいい場所がないなどと云っても無駄である。そのつもりさえあれば、だれであれ、十分に人気のない場所を見つけられるものである。私たちの主は山の上で祈られた。ペテロは屋上で、イサクは野原で、ナタナエルはいちじくの木の下で、ヨナは鯨の腹中で祈った。いかなる場所も、奥まった部屋となり、祈祷堂となり、ベテル(神の家)となり、私たちにとって神の御前となりうるのである。

 自分には時間がないなどと云っても無駄である。人は使う気にさえなれば、たっぷり時間があるものである。時間は足りないかもしれないが、祈るためなら十分すぎるほど長い時間が常にあるものである。ダニエルは、一国の国務全般を掌握していたが、それでも日に三度祈っていた。ダビデは強大な国家の支配者だったが、それでも彼は、「夕、朝、真昼、私は祈る」、と云っている(詩55:17 <英欽定訳>)。本当に時間がほしければ、いつでも時間は見つかるものである。

 自分は信仰と新しい心を得るまで祈ることはできない、だから黙ってそれが手にはいるまで待っていなくてはならない、などと云っても無駄である。これは罪に罪を重ねることである。回心せずに地獄へ向かいつつあるだけでも十分悪い。それに輪をかけて悪いのは、「そんなことはわかっている。しかし私はあわれみを求めて叫ぶつもりはない」、と云うことである。このような種類の議論は、聖書で何の保証もされていない。イザヤは云う。「主を呼び求めよ。近くにおられるうちに」*(イザ55:6)。ホセアは云う。「あなたがたはことばを用意して、主のもとに来よ」*(ホセ14:2)。ペテロは魔術師シモンに云う。「悔い改めて、主に祈りなさい」(使8:22)。信仰と新しい心がほしければ、主のもとに行き、それらを求めて叫ぶことである。祈ろうとする試みそのものが、しばしば死んだ魂が生かされる機会となってきたのであ。嘆くべきことに、悪霊の中でも最も危険な悪霊は、おしの悪霊である。

 おゝ、祈っていない人よ、神に何も求めようとしていないあなたは何者で、何をしているのか? あなたは死と地獄とを相手に契約を結んだというのか? うじと火とを相手に和解しているのか? あなたには赦してもらわなくてはならない罪が何もないのか? あなたには永遠の苦悩に対する恐れが何もないのか? 天国を求める願いが何もないのか? おゝ、願わくはあなたが現在のあなたの愚かさから覚醒するように! おゝ、あなたが自分の終わりをわきまえるように! おゝ、あなたが立って、主に呼び求めるように! 嘆くべきことに、やがて来たるべき日に人々は、「ご主人さま、ご主人さま。あけてください」、と大声で祈るが、すべてが手遅れとなっている。----その日には多くの者が、岩に向かって、「われわれの上に倒れかかってくれ」、と云い、丘に向かって、「われわれをおおってくれ」、と云うが、決して神に向かって叫びはしないであろう。心からの親愛の情を込めて私はあなたに警告する。これがあなたの魂の末路とならないように用心するがいい。救いはあなたのすぐそばにある。求めなかったがために天国を取り逃がさないようにするがいい。

 (2) 二番目に、救いを本当に願い求めているが、そのための手だてがわからない、あるいはどこから始めればいいのか見当がつかない、という方々に語らせていただきたい。私は、読者の中にそのような方がおられることを切に希望する者である。もしそのような方がひとりでもおられるなら、その人に励ましと助言を差し出ずにはおられない。

 いかなる旅も最初の一歩から始まる。じっとしているだけの状態から、前の方に移動していく状態への変化がなくてはならない。イスラエルのエジプトからカナンへの旅は長く大儀なものだった。四十年の長きを経て、ようやく彼らはヨルダン川を渡った。それでも彼らがラメセスからスコテに向かって旅立ったときには、だれかが最初の一歩を踏み出したに違いない。人が本当に罪と世から出ていく最初の一歩を踏み出すのはいつのことだろうか? その人がそれをするのは、初めて心を込めて祈る日である。

 いかなる建物においても、最初の石が据えられ、最初の鎚の一打ちがなされなくてはならない。ノアの箱船は百二十年もかけて建造された。それでもノアが、その船の材料となる最初の木に斧を当てて切り倒した日はあったはずである。ソロモンの神殿は壮麗な建築物であった。しかし、モリヤの山の上に最初の巨石が据えられた日はあったはずである。御霊の建物が本当に人の心の中に姿を現わし始めるのはいつのことだろうか? それが始まるのは、私たちに判断のつく限り、その人が最初に自分の心を祈りによって神に注ぎ出すときである。

 もしこの論考を読む方の中に救いを願い求め、何をすればいいか知りたがっている人がいるなら、私はその人に助言する。きょうのこの日、ひとりきりになれる場所を探して、最初に見つかったところで、主イエス・キリストのみもとに出て、彼に向かって祈り、自分の魂を救ってくださいと懇願することである。

 彼に告げるがいい。私はあなたが罪人を受け入れてくださり、また、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」、と云われたことを聞きました、と(ヨハ6:37)。彼に告げるがいい。私は貧しく卑しい罪人ですが、あなたご自身の招きを信じてみもとにやってきました、と。彼に告げるがいい。私は自分を全く完全にあなたの御手にゆだねます、----私は自分が卑しく、無力で、自分のうちに何の希望もない者であると感じています、----あなたが救ってくださらなければ、救われる望みは何1つありません、と。彼に嘆願するがいい。罪の咎と力ともろもろの結果とから私を解放してください、と。彼に嘆願するがいい。私を赦し、あなたご自身の血潮によって私を洗ってください、と。彼に嘆願するがいい。私に新しい心を与え、私の魂にご聖霊を植えつけてください、と。彼に嘆願するがいい。私に、きょうのこの日から永遠に、あなたの弟子となりしもべとなる恵みと、信仰と、意志と、力をお与えください、と。しかり。もしあなたが本当に自分の魂について真剣に考えているのなら、きょうのこの日、行って、主イエス・キリストにこうしたことを告げるがいい。

 彼には、あなたなりのやり方、あなたなりの言葉遣いで告げるがいい。もしあなたが病に倒れて医者の往診を受けたなら、どこが痛いか告げることはできるであろう。もしあなたの魂が本当にその病を感じているのなら、確かにあなたは何かキリストに告げることがあることに気づくはずである。

 あなたが罪人であるからといって、あなたを救おうとするキリストの意欲を疑ってはならない。罪人を救うことこそキリストの職務なのである。キリストご自身が云っておられる。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」(ルカ5:32)。

 自分がふさわしくないと感じられるからといって、ぐずぐずしていてはならない。何からかの、あるいはだれか他の人によるきっかけを待って、手をこまねいていてはならない。あなたに手をこまねかせていようとしているのは悪魔である。ありのままのあなたで、キリストのもとに行くがいい。あなたが悪人であればあるほど、キリストの救いに身をかけていかなくてはならない必要は大きいはずである。あなたはキリストから遠ざかっていることによっては決して自己改善することなどできない。

 あなたの祈りが口ごもりがちで、舌足らずで、拙劣な言葉遣いだからといって、恐れてはならない。イエスはわかってくださる。母親が幼いわが子の最初の喃語を理解するように、ほむべき救い主は罪人の云いたいことをわかってくださる。彼は身ぶりを読み解き、うめき声の意味をくみ取ってくださる。

 お答えをすぐに受け取れないからといって、絶望してはならない。あなたが語っている間、イエスは耳を傾けていてくださる。もし彼がお答えを遅らせるなら、それは賢明な理由があってのことであり、あなたが真剣かどうかをためすためである。祈り続ければ、答えは確実にやって来るであろう。それが遅くなったとしても、待つことである。最後には確実にやって来るであろう。

 救われたいという願いが少しでもあるなら、この日私があなたに与えた助言を忘れてはならない。正直な思いで心からその助言に従うなら、あなたは救われるのである。

 (3) 最後に、祈りをしている人々に語らせていただきたい。この論考を読む方々に中には、祈りが何たるかをよく知っており、子としてくださる御霊を宿している人々がおられると思う。そのような人々全員に私は、兄弟としての忠告と勧告の言葉を差し出したい。幕屋でささげられる香は、特定のしかたでささげられるように指示が与えられていた。どんな種類の香でも間に合うわけではなかった。このことを忘れないようにし、自分のささげる祈りの内容と、祈り方について注意しようではないか。

 もし私がキリスト者の心について少しでも知っているとしたら、私が今語りかけているあなたは、しばしば自分の祈りにうんざりすることがあるはずである。時としてあなたは、膝まづいて祈っているときほど、「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っている……のです」、という使徒の言葉に共感することはないであろう(ロマ7:21)。あなたにはダビデの、「私はいたずらな考えを憎みます」*、という言葉が実感できる[詩119:113 <英欽定訳>]。あなたは、ホッテントット族の中で回心した、ひとりのあわれな男に同感できるであろう。その男は、こう祈っているのが聞かれたという。「主よ、私をお救いください。すべての敵から、何よりも、あの悪い男、私自身から!」 ----神の子らのほとんどは、祈りの時がしばしば争闘の時となることに気づく。悪魔が特に私たちに対して怒りを燃やすのは、私たちが膝まづいて祈っているのを見るときである。それでも私は、何の困難も私たちにもたらさない祈りなど、非常な疑惑をもって見られるべきであると信ずる。私の信ずるところ、私たちは、自分の祈りの健全さについては、非常に貧弱な判定しかできず、私たちに何の喜びももたらさない祈りがしばしば神を最も喜ばせるのである。それでは、同じキリスト者の戦いにおける戦友としてのあなたに、少しばかり勧告の言葉を差し出させていただきたい。少なくとも1つのことだけは、私たち全員が感じている。----私たちは祈らなくてはならない。私たちは祈りをやめてしまうことはできない。祈り続けなくてはならない。

 (a) さて私があなたの注意を引きたいのは、祈りにおける畏敬の念とへりくだりの重要性である。私たちは決して自分が何者であるか、また神に向かって語りかけることがいかに厳粛なことであるかを忘れないようにしよう。神の御前に不謹慎な、また軽率なしかたで駆け込んでいかないように用心しよう。自分に云い聞かせようではないか。「私が立っているのは聖なる地である。ここは天の門だ。もし私が思ってもいないことを云うなら、それは神をいいかげんにあしらうことになるのだ。もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない」。私たちはソロモンの言葉を心にとどめていよう。「神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ」(伝5:2)。アブラハムが神に語りかけたとき、彼は云った。「私はちりや灰にすぎません」。ヨブが語ったとき、彼は云った。「私はつまらない者です」(創18:27; ヨブ40:4)。私たちも行って同じようにしようではないか。

 (b) 次に注意を引きたいのは、霊的に祈ることの重要性である。どういうことかというと、私たちは祈るときには常に、御霊の直接的な助けを得るよう力を尽くすべきであって、何にもまして形式的な態度に用心しなくてはならない、ということである。どれほど霊的な行為もただの形式になりさがらずにすむものはなく、それは密室の祈りについて特に真実である。知らず知らずのうちに私たちは、可能な限り最適の言葉を用いて、最も聖書的な嘆願をささげる習慣に陥っているかもしれない。にもかかわらず私たちは、それをみな、何の感慨もなしに機械的反復として行ない、製粉所で使われる馬のように、毎度ながらの踏み固められた道を日々ぐるぐると歩むだけとなっていることがありうる。この点には特に微妙な部分があり、慎重にふれたいと思う。私も承知している通り、世の中には私たちが日々必要とする大きなことがいくつかあり、そうした事がらを同じ言葉で願い求めるからといって、必然的に形式的な祈りとなるとは限らない。世と、悪魔と、私たちの心とは、日々同じである。必然的に私たちは、日々古なじみの分野に戻って行かなくてはならない。しかしこれだけは云っておきたい。----私たちはこの点で非常に注意深くなくてはならない。もし私たちの祈りの骨格と枠組みが習慣によってほとんど一定の形式になっているとしたら、私たちは可能な限り努力して、自分の祈りの表現や肉付けが御霊から出たものにするべきである。本に書いてある祈りを祈ることは、ほめられない習慣である。本など使わなくとも自分のからだの状態を医者に告げることができるなら、私たちは自分の魂の状態を神に告げることができるに違いない。私は、骨折後の回復期に松葉杖を使う人に反対しはしない。しかし、もしその人が一生の間松葉杖をついて生きていくとしたら、それを祝うべきであるとは考えない。私としては、その人が十分頑健になってその松葉杖をお払い箱にしてほしいと思う。

 (C) 次のこととして注意を引きたいのは、祈りを日々の定期的な活動とすることの重要性である。私は、一日の定期的な時間を祈りのためにとることの価値について語ることもできるであろう。神は秩序の神である。ユダヤ教の教の神殿において、朝夕のいけにえの時間は意味もなく決められていたのではない。無秩序は罪の著しい結実の1つである。しかし私はいかなる人をも奴隷のくびきの下に置きたくはない。ただこれだけを云っておく。あなたの魂の健康にとって欠かせないのは、祈ることを日々、一日二十四時間の活動の一部とすることである。あなたが寝食や仕事に時間を割り当てているのと同じように、祈りにも時間を割り当てることである。その時間や頃合はあなた自身で選んでよい。だが最低限、あなたがこの世と語り合い出す前の早朝に、神と語り合うこと、またあなたがこの世との接触を終えた後の夜に神と語り合うことである。しかし、祈りが毎日行なうべき最重要事の1つであることは、心に深く銘記しておくがいい。それを片隅に追いやってはならない。あなたの一日の切れ端や、残り物や、搾りかすしか祈りに与えないようなことがあってはならない。他に何をしなくてはならなくとも、祈ることだけは確実に行なうことである。

 (d) 次のこととして注意を引きたいのは、祈りにおける不屈さの重要性である。この習慣をひとたび始めたら、決してやめてはならない。あなたの心は時として云うであろう。「うちでは家庭礼拝をしているのだから、密室の祈りを抜かしても、大した害などあるはずないでしょう?」、と。----あなたの肉体は時として云うであろう。「あなたは具合が良くないですよ、眠くなっていますよ、疲れていますよ。祈る必要はありませんよ」、と。----あなたの精神は時として云うであろう。「きょうは重要な商談に臨まなくてはなりませんよ。祈りは短く切り上げなさいよ」、と。こうしたすべての示唆は、悪魔から直接送り込まれたものとみなさなくてはならない。これらはみな、実質的には、「お前の魂のことをないがしろにするがいい」、と云っているのである。私も、祈りは常に同じ長さであるべきだと主張しているのではない。----しかし私は云う。いかなる云い訳によっても祈りをやめてはならない。パウロはあだやおろそかに、「たゆみなく祈りなさい」、また、「絶えず祈りなさい」、と云っているのではない(コロ4:2; Iテサ5:7)。これは、ユカイト派と呼ばれる古い一派が考えたように、人は常に間断なく祈り続けるべきだという意味ではない。パウロが意味しているのは、私たちの祈りが絶え間なくささげられる全焼のいけにえのようになり、----来る日も来る日もたゆみなく行なわれるもの、----やむことのない種蒔きと刈り入れ、夏と冬のごときもの、----決まった時節に途切れなく巡り来るもの、----いけにえを焼いていないときでも、祭壇の上から決して絶やされることのない火のようにすべきだということである。決して忘れてはならない。朝夕の静思の時は、日中に、絶え間なく矢のような瞬間的祈りを発し続けることによって、1つにくくり合わせることができるということを。人中にいようと、仕事をしていようと、路上にあろうと、あなたは黙って、翼をつけた小さな使者たちを神のもとに送り続けることができる。それは、ネヘミヤがアルタシャスタ王の面前で行なったことであった(ネヘ2:4)。また、神にささげられた時間が無駄になったなどとは決して考えてはならない。安息日を守っているがために、七年間で一年分も就労日を損しているからといって、貧しくなる国家はない。長い目で見たとき、祈りをやり抜いたために失敗者となったことに気づくようなキリスト者は決していない。

 (e) 次のこととして注意を引きたいのは、祈りにおける真剣さの重要性である。人は叫んだり、金切り声を上げたり、大声を発したりしなくとも、自分が真剣であることは証しできるものである。しかし望むらくは私たちは、真情の込もった、熱烈で、心暖かな、また自分のしていることに本当に関心があるような態度で願いをささげたいものである。「大きな力がある」のは、「働く、熱心な」祈りであって、冷淡で、眠りがちで、怠惰で、ものうげな祈りではない[ヤコ5:16 <英欽定訳>]。この教訓を私たちに教えているのが、聖書の中で祈りについて用いられている種々の表現である。それは、「叫び、たたき、格闘し、労し、努力する」ことであると呼ばれている。この教訓は、聖書の模範によって私たちに教えられている。ヤコブはそのひとりである。彼はペヌエルで御使いに向かって、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」、と云った(創32:26)。ダニエルもそのひとりである。彼がいかに神に向かって嘆願しているか聞いてみるがいい。「主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行なってください。私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください」(ダニ9:19)。私たちの主イエス・キリストもまたそのひとりである。主についてはこう書かれている。「キリストは、人としてこの世におられたとき、……大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ……ました」(ヘブ5:7)。嘆くべきことに、これは何と私たちの願いの多くと似ていないことか! 比較してみると、それらが何と無気力な、なまぬるいものに見えることか! 私たちの多くの者に対して神が、「お前は自分が祈り求めていることを本当はほしくないのであろう」、と云われたとしても、何と不思議はないことか! この欠陥を改めるようにしようではないか。「天路歴程」の慈悲子のように、聞き入れられなければ滅びるしかないかのように、恵みの扉を割れんばかりに叩こうではないか。私たちは心に深く銘記しておこう。冷淡な祈りは火のないいけにえである、と。かの偉大な雄弁家デモステネスのもとにある人が来て、自分の訴えを代弁してもらおうとしたときの話を私たちは忘れないようにしよう。デモステネスは相手が自分の云い分を真剣さなしに告げている間は、ぞんざいなようすで聞いていた。これを見て取ったその人が、それは全部本当のことなんです、と大声を上げた。そのときデモステネスは云ったのである。「ああ、やっと、きみの云ってることが信じられたよ」。

 (f) 次のこととして注意を引きたいのは、信仰によって祈ることの重要性である。私たちは努めて、自分の祈りが常に聞かれていることを信じ、神のみこころに従って物事を願うなら、それが常にかなえられると信じるべきである。これが私たちの主イエス・キリストの平明な命令である。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(マコ11:24)。祈りにとって信仰は、矢にとっての矢羽根のようなものである。それがなければ、祈りは的を射止めることができない。私たちは、自分の祈りの中で種々の約束を申し立てる習慣を身につけるべきである。私たちは何らかの約束を携えて行き、「主よ、これはあなたご自身が誓われたおことばです。仰せの通りに私たちのために行なってください」、と云うべきである(IIサム7:25)。これがヤコブや、モーセや、ダビデの習慣であった。詩篇119篇は、「あなたのことばに従って」願い求められたことで満ちている。何よりも私たちは、自分の祈りへの答えを期待する習慣を身につけるべきである。私たちは、何らかの応答を見るまで満足すべきではない。嘆くべきことに、これほどキリスト者たちの間に多く見られる欠点はほとんどない。エルサレムの教会は投獄されたペテロのために不断の祈りを積んでいたが、その祈りがかなえられたとき、彼らにはほとんどそれが信じられなかった(使12:15)。これは、老トレイルの厳粛な言葉である。「祈りをいいかげんにしている人々を確実に示すしるしとして、彼らが祈りによって得られるものに無頓着であることにまさるものはない」。

 (g) 次のこととして注意を引きたいのは、祈りにおける大胆さの重要性である。一部の人々の祈りには、見苦しいなれなれしさがあり、それはほめられたことではない。しかし、世の中には聖なる大胆さというものがあり、それはこの上もなく願わしいものである。私が意味しているのは、イスラエルを滅ぼさないように神に向かって懇願した際のモーセのような大胆さのことである。彼は云っている。「どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ……てください」(出32:12)。私が意味しているのは、イスラエルがアイの前で敗北した際のヨシュアのような大胆さのことである。彼は云っている。「あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか」(ヨシ7:9)。これは、ルターを尋常ならざるものとした大胆さである。彼が祈っているのを聞いたある人はこう云ったという。「何という霊、何という自信が、彼の言葉遣いそのものにすら込もっていたことか! 彼の請願には、神にものを乞い願う者のような畏敬の念が込もっていたが、愛する父か友と語り合うかのような希望と確信がそこにはあった」。これは、17世紀の偉大なスコットランド人神学者ブルースを傑出させたような大胆さである。彼の祈りは、「天に向けて撃ち込まれた太矢のよう」であったと云う。ここにおいても、残念ながら私たちには悲しむべき欠陥があると思う。私たちは信仰者の種々の特権を十分に悟っていない。私たちは、自分たちがしてよいほどしばしば訴えていない。「主よ、私たちはあなたご自身の民ではないのですか? 私たちが聖化されるのはあなたのご栄光のためではないのですか? あなたの福音が前進することはあなたの栄誉となることではいなのですか?」、と。

 (h) 次のこととして注意を引きたいのは、祈りにおける十分な豊かさの重要性である。私は私たちの主が、見栄のために長い祈りをするパリサイ人たちの例にならわないよう警告なさったこと、祈るときには意味のない繰り返しを用いないようにお命じになったことを忘れてはいない。しかしその一方で私が忘れられないのは、主ご自身、一晩中神に対して祈り続けることによって、大々的で長い祈祷の時を是認しておられる、ということである。いずれにせよ、私たちは今日においては長すぎる祈りをする方で過ちを犯す見込みは少ない。むしろ恐れるべきは、今の時代の多くの信仰者たちの祈りが短すぎることではなかろうか? 多くのキリスト者たちが祈りに振り向けている実際の時間は総計として非常に少ないのではなかろうか? 残念ながら、こうした問いかけに満足の行く答えは返せないのではないかと思う。残念ながら多くの人々が密室において行なっている静思の時は、痛ましいほど貧弱で、乏しいもの、----かろうじて彼らが生きていると示すに足るだけのもの----ででしかないと思う。彼らは本当に神からほとんど何もほしくないように見える。彼らには、告白することがほとんどなく、願い求めるものがほとんどなく、神に感謝すべことがほとんどないように見える。嘆くべきことに、これは全く間違っている! 信仰者たちから、自分はうまくやっていけていない、と苦情を云われることほどありふれたことはない。彼らが私たちに告げるのは、彼らは自分たちが願うほど恵みにおいて成長していない、ということである。だがむしろ疑わしいのは、多くの人々が受けている恵みは、彼らがちょうど願い求めている分しかないのではないか、ということである。多くの人々の真相は、彼らが少ししか持っていないのは少ししか願っていないからではなかろうか? 彼らの弱さの原因は、彼ら自身の発育不良で、矮小で、ちびて、縮こまった、あわただしく、ちっぽけで、か細い、せせこましい祈りにあるのではなかろうか? 彼らのものにならないのは、彼らが願わないからである。おゝ、読者よ、私たちは、キリストの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのである。主は云っておられる。「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう」。しかし私たちは、地面を五回、六回打つべきだったのに、三回しか打たなかったあのイスラエルの王のようなのである(詩81:10; II列13:18、19)。

 (i) 次のこととして注意を引きたいのは、祈りにおける具体性の重要性である。私たちは大まかに一般的な祈りをするだけで満足していてはならない。自分の求めを恵みの御座の前で個別に述べ立てなくてはならない。私たちが罪人であることを告白するだけでは十分ではない。自分の良心が私たちに最もやましく思わせている個々の罪を一々あげていくべきである。聖潔を願い求めるだけでは十分ではない。自分に最も不足していると感じられる個々の恵みを一々あげていくべきである。主に向かって自分が困難のうちにあると告げるだけでは十分ではない。自分の困難と、その個々の詳細をことごとく叙述するべきである。これこそ、兄エサウを恐れていたときヤコブがしたことである。彼は神に対して、自分が何を恐れているかをはっきり告げている(創32:11)。これこそ、主人の息子の妻を求めていたときエリエゼルがしたことである。彼は自分が求めていることを事細かに神の前に述べ立てている(創24:12)。これこそ、肉体にとげを有していたときパウロがしたことである。彼は主に願った(IIコリ12:8)。これこそ真の信仰であり確信である。私たちは、神の前であげるには小さすぎることなど何1つないと信ずるべきである。医者に向かって、自分は病気だと告げはしても、その具体的な症状を告げようとしない患者のことを何と考えるべきだろうか? 自分は不幸せだと夫に告げても、その原因をつまびらかに云おうとしない妻のことをどう考えるべきだろうか? 父親に向かって困ったことがあると告げても、それ以上何も云わない子どものことをどう考えるべきだろうか? 私たちは決してキリストが魂の真の花婿であること、----心の真の医者であること、----御民全員の真の父であることを忘れないようにしよう。そしてそう感じていることを、何事も包み隠さず彼に伝えることによって示そうではないか。彼には何の隠し立てもしないことにしよう。彼には私たちの心を洗いざらい打ち明けよう。

 (j) 次のこととしてあなたの注意を引きたいのは、私たちの祈りにおけるとりなしの重要性である。私たちはみな生まれながらに利己的なものであり、私たちの利己主義は、たとえ回心してからでさえ、非常に容易に私たちにこびりつきがちである。私たちの中には、自分の魂のことだけ、----自分の霊的争闘のことだけ、----自分のキリスト教信仰における進歩のことだけしか考えず、他者のことは忘れてしまう傾向がある。この傾向に対して私たちはみな、油断せず努力する必要があり、それはとりわけ私たちの祈りにおいてそうである。私たちは、努めて公共心の人となるべきである。私たち自身の名前だけでなく、他の人々の名前をも、恵みの御座の前に持ち出すように奮起すべきである。私たちは全世界を、----異教徒たちを、----ユダヤ人たちを、----ローマカトリック教徒たちを、----真の信仰者の集団を、----信仰を告白するプロテスタント諸教会を、----私たちの住んでいる国を、----私たちの属する会衆を、----私たちが寄寓している家庭を、----私たちと関わりを持っている友人親族を、心にとどめておくようにすべきである。こうした個々の、またすべての人々のために、私たちは申し立てるべきである。これは最高の愛である。人は、祈りによって愛してくれている人から最も愛されているのである。これは私たちの健康のためになることである。それは私たちの同情心を広げ、私たちの心を広げてくれる。これは教会の益になることである。福音を進展させるためのあらゆる機構の車輪は、祈りを潤滑油としている。あの山の上のモーセのようにとりなしをする人々は、ヨシュアのごとく戦塵の真っ直中で戦う人々と同じくらい、主の働きのために労しているのである。これはキリストに似た者となることである。キリストは、御民の大祭司として、御父の前で彼らの名をその胸当てと肩の上に担っておられる。おゝ、イエスと似た者となる特権よ! これは教職者の真の助け手となることである。もし私がどうしても会衆を選ばねばならないとしたら、常時祈っている会衆を与えてほしいと思う。

 (k) 次のこととして注意を引きたいのは、祈りにおける感謝の重要性である。神に願い事をすることと、神をほめたたえることとは全くの別物であることは重々承知している。しかし私の見るところ聖書では祈りと賛美が堅く結びついており、感謝がどこにも見あたらないような祈りを私は真の祈りと呼ぶ気にはならないのである。パウロはあだやおろそかにこう云っているのではない。「感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(ピリ4:6)。「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」(コロ4:2)。私たちが地獄に落ちていないのはあわれみによることである。私たちが天国の希望を有しているのはあわれみによることである。私たちが御霊によって召され、自分の生き方の実を刈り取るままにまかされなかったのは、あわれみによることである。私たちが今も生きていて、能動的にあるいは受動的に、神の栄光を現わす機会が与えられているのは、あわれみによることである。確かに、こうした考えこそ私たちが神と語り合うときに、私たちの精神に押し寄せてくるべきである。確かに私たちは、祈るときには決して、神をほめたたえることなしに口を開くべきではない。私たちを生かす無代価の恵みと、永遠に尽きることのない恩寵のゆえに、私たちは常に神をほめたたえるべきである。聖パウロは、その書簡の書き出しにあたって、感謝を表わさないことはほとんどない。前世紀のホイットフィールドや、私たちの時代のビカーステス、マーシュ、ホールデイン・ステュアートといった人々は、常に感謝の念に満ち満ちていた。おゝ、もしこの時代において燦々と輝く光になりたければ、私たちは賛美の霊をはぐくまなくてはならない! そして何にもまして、私たちの祈りを感謝に満ちた祈りとしようではないか。

 (l) 最後に注意を引きたいのは、あなたの祈りを常に見張っていることの重要性である。祈りは、キリスト教信仰における他のいかなる点にもまして、あなたが目を光らせていなくてはならない点である。ここから、真のキリスト教信仰は始まる。ここで信仰は成長し、ここで信仰は腐っていく。ある人がいかに祈っているかが分かれば、その人の魂の状態は如実に分かるものである。祈りは霊の脈拍である。これによって私たちは常に、霊的健康をはかることができる。また祈りは霊の晴雨計である。これによって私たちは常に、自分の魂が晴れ渡っているか、荒れているかを知ることができる。おゝ、密室における自分の静思の時について絶えず目を光らせていようではないか! ここにこそ、私たちの実際的キリスト教の核心があり、心髄があり、根幹があるのである。説教や、信仰書や、小冊子や、委員会や、善良な人々との交際は、みなそれなりに有益である。しかし、これらは決して密室の祈りをないがしろにした埋め合わせにはならない。あなたの心を神との交わりから引き離し、あなたの祈りを鈍重にさせるような場所や、つきあいや、仲間をよく心にとめておくがいい。そしてそうしたものに対し、おさおさ警戒を怠らないことである。また、どのような友人や、いかなる仕事が、あなたの魂を最も霊的な心持ちにしてくれるかを、事細かに察知しておくがいい。そしてこうしたものにこそ、堅くしがみつき、離れないようにすることである。もしあなたが、自分の祈りに気を遣っていさえするなら、あなたの魂がおおむね正しい方向に進んでいくことは保証してもよい。

 ここまで挙げてきたような点をひとり静まって考察していただきたいと思う。私はこれを、全くのへりくだりをもって差し出すものである。こうした点を最も思い出させられる必要があるのは、私自身であることは重々承知している。しかし私は、これらが神ご自身の真理であると信じており、自分もふくめて、愛する人々すべてに、これらを一層強く感じとってほしいのである。

 私は、私たちの生きている時代が、祈る時代となってほしいと思う。私たちの時代のキリスト者たちが、祈るキリスト者となってほしいと思う。私たちの時代の教会が、祈る教会となってほしいと思う。この論考を世に送るに際して私は、人々の間で祈りの霊を鼓舞したいと心から願い、祈るものである。私は願っている。これまで一度も祈ったことのない人々が、立って神を呼び求めるようになるように、と。また、私は願っている。いま実際に祈っている人々が、その祈りの内容を年々向上させ、自分の祈り方がたるんでいくのでも、見当はずれなものでもないことを見てとっていけるように、と。

祈り[了]

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