3. 実 質
「廃物の銀」----エレ6:30
「葉のほかは何もない」----マコ11:13
「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」----Iヨハ3:18
「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」----黙3:1
もし私たちが、少しでも自分にはキリスト教信仰があると告白するのであれば、それが実質を伴ったものであるように細心の注意を払いたいものである。このことは声を大にして云いたい。もう一度云う。私たちは、自分のキリスト教信仰が実質を伴ったものであるように、よくよく注意しようではないか。
「実質を伴った」という言葉で私は何を意味しているのか。私が意味しているのは、それが本物で、純粋で、正直で、裏表がない、ということである。まがいものでなく、白々しいものでなく、形ばかりでなく、偽りがなく、贋物でなく、ごまかしでなく、名ばかりのものではない、ということである。「実質の伴った」キリスト教信仰は、上っ面だけの見せかけや、薄っぺらな気分や、見かけ倒しでしかないようなものではない。それは内的なものであって、実体があり、中身があり、内側に根ざし、生きており、永続的なものである。私たちには、にせ金と本物の硬貨の違いがわかる。----純金と安ぴか品の違い、----めっきと銀の違い、----本物の大理石と石膏模型の違いがわかる。こうしたことを念頭に置きつつ、この論考の主題を考えていただきたい。私たちのキリスト教信仰は、いかなる性質をしているだろうか? それには実質が伴っているだろうか? それは弱くて、頼りなくて、多くの欠点が混入しているかもしれない。だが、今日はそういう点を問題にしているのではない。私たちのキリスト教信仰は実質を伴っているだろうか? 真実なものだろうか?
私たちの生きているこの時代を考えると、この主題にはぜひとも注意を払わなくてはならない。実質の欠如こそ、現代おびただしい数の人々が有するキリスト教信仰の著しい特徴である。ある詩人たちによると、世界は4つの異なる段階または状態を経てきたと云われる。黄金時代、白銀時代、青銅時代、黒鉄時代である。それがどこまで本当なのか、わざわざ調べてみようとは思わないが、しかし残念ながら、私たちの生きる時代の性格についてはほとんど疑いようがないのではなかろうか。それは、どこを見ても卑金属と屑鉄の時代である。もしこの時代のキリスト教信仰をその見かけの量で評価するとしたら、たいしたものになるであろう。しかしもしその質で評価するとしたら、ちゃちなものにしかなるまい。どこを見渡しても、私たちには充実した実質が欠けているのである。
ぜひ注意して、この論考の主題を深々と良心に刻み込んでいただきたい。これから私は2つのことを行なおうと思う。
I. まず第一に私は、実質が伴っていることがキリスト教信仰にとっていかに重要であるかを示したい。
II. 第二に私は、自分のキリスト教信仰が実質を伴ったものかどうかためすための、いくつかの試問を提示したい。この論考を読む方々の中には、死んだら天国に行きたいという願いを少しでもいだいている人がいるだろうか? あなたは、人生においては慰めとなり、死に臨んでは確証となり、最後の審判の日には神の審きに耐え抜けるようなキリスト教信仰を持っていたいだろうか? では、目の前にある主題から目をそらしてはならない。じっくり腰を据えて、あなたのキリスト教が実質を伴った真実なものか、それとも似て非なる虚ろなものかどうか考えることである。
I. まず示さなくてはならないのは、実質が伴っていることがキリスト教信仰にとっていかに重要であるか、ということである。
この点は、一見、多言を要さなくとも簡単に証明できそうに思える。人は私に云うであろう。実質が大切であることくらい、だれでも理の当然として納得しているはずだ、と。
しかし、本当にそうだろうか? 本当にキリスト者の間では、実質に対して、しかるべき敬意が払われていると云えるだろうか? 私はそれを完全に否定するものである。実質が大切である、と公言する大多数の人々は、だれにでも実質はあると考えているらしい!----彼らは私たちに、「だれでも心の底には善良な思いがあるのだ」、と語る。----過ちは犯すにしても、あらゆる人は大本では真摯で真実な心をしているのだ、と云う。だれかの心が善良なものであるかどうか、私たちが少しでも疑いを差し挟むと、たちまち彼らは私たちに向かって、愛がないとか、無情だとか、人を裁いているとか云う。つまり彼らは、ほとんどだれにでも実質はあるとみなすことによって、実質の価値をだいなしにしているのである。
この広く行き渡っている迷妄こそ、私がこの主題を取り上げようと決意するに至った原因の1つにほかならない。私が人々に理解してほしいこと、それは実質を伴った信仰は、一般に思いみなされているよりも、はるかにまれで、めったに見られないものだ、ということである。私は人々に、実質のなさこそキリスト者が警戒しなくてはならない大きな危険の1つであることを知ってほしいと思う。
聖書は何と云っているだろうか? これこそ、この主題を審理できる唯一の判事である。まず私たちの聖書に向かい、それを公平に吟味した上で、キリスト教信仰にとって実質を伴うことがいかに重要であるか、また実質に欠けることがいかに危険であるか、できるものなら否定してみるがいい。
(1) まず1つのこととして注目したいのは、私たちの主イエス・キリストが語られた数々のたとえ話である。そのいかに多くが、真の信仰者と単なる名ばかりの弟子とを強く対比させるために語られているか、見てみるがいい。種蒔きのたとえや、麦と毒麦のたとえ、漁師の引き網のたとえ、二人の息子のたとえ、婚礼の礼服のたとえ、十人のおとめのたとえ、タラントのたとえ、大いなる宴会のたとえ、ミナのたとえ、2つの家のたとえ、これらには1つの大きな点が共通して見られる。それらはみな、キリスト教信仰において実質が伴っていることと、いないこととの違いを、きわめて鮮明に明らかにしている。これらすべてによって示されているのは、実質を伴わず、羊頭狗肉の、真実ならざるキリスト教がいかに無用で危険なものであるか、ということである。
(2) 別のこととして注目したいのは、私たちの主イエス・キリストが、律法学者やパリサイ人らに向けて語ったおことばである。1つの章の中で8度も私たちは、主が彼らを「偽善者」であると、すさまじいばかりの言葉で非難しておられるのを見る。----主は云われる。「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう」(マタ23:33)。この途方もなく強烈な表現から、私たちは何を学べるだろうか? なにゆえ私たちの恵み深くあわれみ深い救い主は、何はともあれ取税人や遊女たちよりは道徳的で上品であった人々に向かって、これほど痛烈なことばをお用いになったのだろうか? そこから私たちが教えられなくてはならないのは、にせの信仰告白と見かけだけのキリスト教信仰が、神の御目にとって極度に忌まわしいものだということである。むろん、あからさまに放蕩無頼の生活にふけり、自分から肉的な情欲に身を投じるのは大きな罪であり、すっぱり手を切らない限り、魂を破滅させる所業であることに間違いはない。しかし、それよりはるかにキリストにとって不快なことは、実質が伴っていない偽善なのである。
(3) また別のこととして注目したいのは、真のキリスト者の性格としてあげられる個々の恵みのうち、そのまがいものが神のみことばで叙述されていないものはほとんど見られないという驚くべき事実である。信仰者の顔立ちのうち、ただ1つの造作さえ、模写されていないものはない。よく注意していただきたい。このことは、もう少し詳しく説明したいと思う。
世には、実質を伴わない悔い改めというものがあるのではなかろうか? 疑いもなく、そうしたものはある。サウルやアハブ、ヘロデ、そしてイスカリオテのユダは、罪について痛切な悲しみを感じはした。しかし彼らが本当に救いに至る悔い改めをいだいたことは決してなかった。
世には、実質を伴わない信仰というものがあるのではなかろうか? 疑いもなく、そうしたものはある。サマリヤの魔術師シモンについて語られているのは、「信じた」彼が、その心においては神の目には正しい者となっていなかった、ということである。悪霊たちについてすら、彼らは「信じて、身震いしています」、と書かれている(使8:13; ヤコ2:19)。
世には、実質を伴わない聖潔というものがあるのではなかろうか? 疑いもなく、そうしたものはある。ユダの王ヨアシュは、祭司エホヤダが生きている間は、どこから見ても非常に聖く善良な王であった。しかしエホヤダが世を去るや否や、ヨアシュの信仰も同時に死に絶えた(II歴24:2)。----イスカリオテのユダの生活は、はた目には、彼が師を裏切るそのときまで、使徒たちのだれにも劣らぬほど品行方正なものだった。疑わしい点は何1つなかった。しかし実は彼は「盗人」であり、裏切り者だったのである(ヨハ12:6)。
世には、実質を伴わない愛というものがあるのではなかろうか? 疑いもなく、そうしたものはある。ある人々の愛は、言葉や、柔和な口ぶりや、派手な愛情表現や、他の人々を「愛する兄弟」と呼ぶことだけであり、心では全く愛することをしない。聖ヨハネはあだやおろそかにこう云っているのではない。「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」。聖パウロは理由もなくこう述べたのではない。「愛には偽りがあってはなりません」(Iヨハ3:18; ロマ12:9)。
世には、実質を伴わないへりくだりというものがあるのではなかろうか? 疑いもなく、そうしたものはある。ある人々は、わざとへりくだったような物腰を演じて、しばしばそれを高慢ちきな心の隠れ蓑にしている。聖パウロが私たちに警戒させているのは、「ことさらに自己卑下をしようと」する輩や、「人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜……などのゆえに賢いもののように見え」る態度である(コロ2:18、23)。
世には、実質を伴わない祈りというものがあるのではなかろうか? 疑いもなく、そうしたものはある。私たちの主はこれを、パリサイ人らの特別な罪の1つとして糾弾しておられる。----彼らは「見えのために長い祈りをするからです」(マタ23:14)。主が彼らを非難されたのは、彼らが祈っていなかったためでも、その祈りが短かかったためでもない。彼らの罪、それは彼らの祈りに実質が伴っていないことにあった。
世には、実質を伴わない礼拝というものがあるのではなかろうか? 疑いもなく、そうしたものはある。私たちの主はユダヤ人について云っておられる。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている」(マタ15:8)。彼らは、形式的な礼拝式なら、その神殿や会堂でいやというほど行なっていた。しかし、それらの致命的な欠陥は、そこに実質が伴わず、真心が伴っていないことであった。
世には、信仰に関して、実質もない話をすることがあるのではなかろうか? 疑いもなく、そうしたものはある。エゼキエルが物語っているように、信仰を告白するユダヤ人の中には、神の民のようにしゃべったり語ったりしていながら、その間も「彼らの心は利得を追って」いた者たちがいた(エゼ33:31)。聖パウロの言葉によれば私たちは、たとえ「人の異言や、御使いの異言で話しても」、やかましいどらや、うるさいシンバルでしかないことがありえる(Iコリ13:1)。
こうしたことに私たちは何と云うべきだろうか? どう控え目に云っても、これらは私たちを考え込ませてしかるべきであろう。私の考えでは、ここから導き出される結論は1つしかない。これらが明確に示しているのは、聖書がいかに途方もなくキリスト教信仰にとって実質が伴っていることを重要視しているか、ということである。これらが明確に示しているのは、私たちが、最後の最後になって自分のキリスト教が単なる名ばかりの、形だけの、実質を伴わない、模造品でしかなかったことに気づくようなことにならないように、いかに用心しなくてはならないか、ということである。
この主題は、いかなる時代においてもはなはだしく重要である。キリストの教会が創設されて以来、信仰を告白するキリスト者たちの間には常におびただしい数の、実質を伴わない、名ばかりの信仰者らが存在していた。私の確信するところ、現代もそれと全く同じである。どこに目を向けても、この警告に値する人々が山ほどいる。----「キリスト教信仰の贋物に用心せよ。本物であれ。裏表のない者であれ。実質の伴った者であれ。真実な者であれ」。
英国国教会の一部の人々にとって、その信仰のどれほどが、単に国教会の一員であることにだけ存していることか! 彼らは国教会に属している。国教会の洗礼盤で洗礼を受け、国教会の祭壇前で結婚式を挙げ、国教会の墓地に葬られ、国教会の教職者の説教を日曜ごとに聞かされている。しかし、国教会の信仰箇条および祈祷書で規定されている数々の偉大な教理は、彼らの心のどこにも位置を占めておらず、彼らの生活に何の影響も及ぼしていない。それらについて彼らは何も考えず、何も感じず、何も気にせず、何も知ってはいない。だが、こうした人々の信仰が実質の伴ったキリスト教だろうか? 全く違う。それは模造品にすぎない。それは、ペテロやヤコブやヨハネやパウロのキリスト教ではない。それは英国国教会教であって、それ以上のものではない。
一部の非国教徒の人々がいだいている信仰は、そのどれほどが、単に英国国教会に従わないことにだけ存していることか! 彼らは、自分たちが国教会と何の関わりもないことを誇りとしている。自分たちには何の祈祷書も、何の典礼も、何の主教もないことを喜んでいる。自分たちが個人の判断を働かせていること、自分たちの礼拝に何も儀式的なものがないことを大きな喜びとしている。しかし、その間ずっと彼らは、恵みも、信仰も、悔い改めも、聖潔も、行ないと生活における霊性も有していない。古の非国教徒たちのような、体験を重んずる、実際的な敬虔さは、彼らに全く欠けている。彼らのキリスト教は、朽ち木のように瑞々しさや実りが欠けており、古ぼけた骸骨のように無味乾燥である。だが、こうした人々のキリスト教に実質が伴っていると云えるだろうか? 全く違う。それは模造品にすぎない。それは、オーウェンやマントンやグッドウィンやバクスターやトレイルのキリスト教ではない。それは非国教会教であって、それ以上のものではない。
儀式派のキリスト教信仰は、そのいかに大きな部分に、全く実質が伴っていないことか! 時として人々は、講壇に立つ者の祭服や挙措や姿勢、また教会の装飾や日々の礼拝や頻繁な聖餐式についての議論とあらば怒り心頭に発するというのに、その心といえば如実にこの世に置き去りにされたままなのである。聖霊の内的な働き、----主イエスへの生きた信仰、----聖書や信仰的な会話に対する喜び、----世俗的な猥雑さや娯楽からの分離、----神に対して魂を回心させようとする熱心、----こうしたすべてのことについて、彼らは無知もいいところである。だが、こうしたものに実質が伴っているだろうか? 全く違う。それは有名無実なものにすぎない。
福音派のキリスト教信仰は、そのいかに大きな部分に、完全に実質が伴っていないことか! 時として人々は、純粋な「福音」への熱烈な愛を告白していながら、その福音に、実質上これ以上ないほどの害悪を加えているのが見受けられる。彼らは声高に信仰の健全さについて語り、いかに微妙な異端をも嗅ぎわけるであろう。彼らは大衆伝道者の後を熱心について回り、公の集会ではプロテスタントの説教家に大喝采するであろう。福音主義的なキリスト教信仰のあらゆる決まり文句に精通し、その主要な教理についてよどみなく語れるであろう。公の集会や教会に出席している彼らの顔は、この上もなく敬虔な人々にしか見えない。彼らの言葉を聞いていると、あたかも彼らの生活は、種々の伝道団体や、『千歳の岩』や『証しびと』といった各紙や、エクセターホールに織り込まれているように思える。しかしながら、こうした人々がその私生活において行なっていることは、時として一部の異教徒たちすら恥ずかしく思うようなことなのである。彼らは誠実でも真摯でもなく、正直でも雄々しくもなく、正しくも気立てが良くもなく、利他的でもあわれみ深くもなく、謙遜でも親切でもない! だが、このようなキリスト教に実質が伴っているだろうか? 否である。これはみじめな詐欺師であり、卑しむべき騙りであり、戯画である。
今日のリバイバル集会系のキリスト教信仰は、そのいかに多くに、全く実質が伴っていないものであることか! 聖霊が注ぎ出されるところ常に、おびただしい数のにせの信仰告白者らが出現し、神のみわざに泥を塗るものである。神のイスラエルがエジプトを出国するときには常に、エジプト人の大群衆がイスラエルに入り混じって同行するのが見られる。最近では、いかに多くの人々が、自分は突如神に回心した、----イエスのうちに平安を見いだした、----魂の喜びと恍惚感に圧倒された、----などと語りながら、実は何の恵みも全く有していないことか。岩地のような聞き手と同じく、彼らはしばらくの間しか持ちこたえることがない。「試練のときになると、身を引いてしまうのです」(ルカ8:13)。最初の興奮が醒めるや否や、彼らは元通りの生き方に立ち返り、昔ながらの罪に立ち戻る。彼らの信仰はヨナのとうごまと同じく、一晩で生え出たかと思うと、一晩で枯れ果てる。彼らには根もなければ生命力もない。彼らのすることといえば、神の働きを妨害し、神の敵に冒涜のきっかけを与えることだけである。だがこのようなキリスト教に実質が伴っているだろうか? そのような種類のものでは全くない。それは、悪魔の造幣所から出てきた贋金であって、神の目には無価値である。
私は悲しみをもってこうした事がらを書き記している。私はキリストの教会のいかなる方面にも恥をかかせたいとは思わない。神の御霊によって始められた、いかなる運動にも汚名を着せたいとは思っていない。しかし時代が要求しているのは、現代において優勢なキリスト教のいくつかの点に対して、歯に衣着せず率直に語ることである。そして私が堅く確信するところ、いま注意を要する1つの点は、至る所ではびこっているのが見られる実質の欠如にほかならない。
いずれにせよ、いかなる読者も、自分が目にしているこの論考の主題が途方もなく重要なものであることは否定できないであろう。
II. さてここから、私が行なおうとしている第二のことに話を移そう。私は、自分のキリスト教信仰が実質を伴ったものかどうかためせるような、いくつかの試問を提示したい。
私の主題のこの部分に近づくにあたり、私がこの論考を読んでいるあらゆる人に願いたいのは、どうか公正に、正直に、筋の通ったしかたで自分の魂を取り扱ってほしい、ということである。教会や会堂に通っていさえすれば、心配などあるはずがない、----といった世間一般の考え方をあなたの頭から叩き出すことである。そのようなくだらない考えは永久にお払い箱にしてしまうがいい。真理を発見したければ、それよりもずっと遠く、高く、深くものを眺めなくてはならない。私の言葉に耳を傾けさえするなら、いくつかの助言を差し上げたいと思う。嘘ではない。これは決して軽い問題ではない。これはあなたのいのちなのである。
(1) 1つのこととして、もしあなたが、自分のキリスト教信仰に実質が伴っているかどうか知りたければ、それがあなたの内なる人のどこに位置を占めているかによってためしてみることである。それは、あなたの頭の中にあるだけでは十分ではない。あなたは真理を知っており、真理に同意しており、真理を信じていながら、それでも神の目には誤っていることがありえる。----それは、あなたのくちびるの上にあるだけでは十分ではない。あなたは使徒信条を毎日唱えているかもしれない。教会における公の祈りに「アーメン」と云うかもしれない。それでもなお、うわべだけのキリスト教信仰しか持っていないこともありえる。----それは、あなたの気分の中にあるだけでは十分ではない。ある日あなたは説教に打たれて泣き出すかもしれないし、別の日には喜悦と興奮のあまり第三の天にまで引き上げられるかもしれないが、それでもなお神に対して死んでいることもありえる。----あなたのキリスト教信仰は、もしそれが実質を伴っているなら、また聖霊によって与えられたものであるなら、あなたの心の中になくてはならない。それは衷心に位置を占めていなくてはならない。それが手綱を握っていなくてはならない。それが感情を統括しなくてはならない。それが意志を導かなくてはならない。それが嗜好を左右しなくてはならない。それが選択や決定に影響を与えなくてはならない。それは、あなたの魂の最深の、最底の、最奥の座を占めていなくてはならない。これがあなたのキリスト教信仰だろうか? そうでないとするなら、あなたはそれが「実質を伴った」、真実なものかどうか疑ってみた方がよいであろう(使8:21; ロマ10:10)。
(2) 第二に、もしあなたが、自分のキリスト教信仰に実質が伴っているかどうか知りたければ、それが生じさせる、罪に対する感覚によってためしてみることである。聖霊から出たキリスト教は常に、罪の極度の罪深さを非常に深く見つめさせるものである。それは罪を欠点や不運などとみなすだけですませたり、人々をあわれみと同情の対象とさせるものにすぎないと考えたりはしない。それは罪のうちに、神がお憎みになる忌まわしいもの、人をその創造者の目において咎を負わせ、失われた者とさせるもの、神の御怒りと断罪に値するものを見る。そうした考えによれば、罪という元凶によってこそ、ありとあらゆる悲しみや不幸、争いや戦争、いさかいや対立、病や死、----神の美しい被造世界を荒廃させた疫病が生じさせられたのであり、罪とは全地をうめかせ、苦しめ、痛めつけている呪わるべきものなのである。何よりもそれが罪のうちに見るのは、購い代を見いださない限り私たちを永遠に滅ぼし、----その鎖を断ち切ることができない限り、私たちをとりこにして引っ立てていき、----死ぬまで抵抗し戦い続けない限り、現世でも来世でも、私たちの幸福を破壊するであろうものである。これがあなたのキリスト教信仰だろうか? これが罪についてのあなたの感覚だろうか? そうでないとするなら、あなたはそれが「実質を伴った」ものかどうか疑ってみた方がよいであろう。
(3) 第三に、もしあなたが、自分のキリスト教信仰に実質が伴っているかどうか知りたければ、それが生じさせる、キリストに対する感覚によってためしてみることである。名ばかりのキリスト教信仰も、キリストなる人物が存在したこと、彼が人類に大きな恩恵をもたらしたことは信じられるかもしれない。彼に対して何かしらうわべだけの敬意を払い、彼の定めた外的な儀式に参列し、彼の御名の前にこうべを垂れることはできるかもしれない。しかし、それができるのはそこまでである。実質が伴ったキリスト教信仰は、人をしてキリストを誇りとさせるものである。自分が望みをかける唯一の贖い主として、解放者として、祭司として、友としてのキリストを誇りとさせるものである。それは自分の魂の仲保者であり、食物であり、光であり、いのちであり、平和であるキリストに対する揺るがない信頼、彼への愛、彼にある喜び、彼にある慰めを生じさせるものである。これがあなたのキリスト教信仰だろうか? あなたはイエス・キリストに対するこうした感覚を少しでも知っているだろうか? そうでないとするなら、あなたはそれが「実質を伴った」ものかどうか疑ってみた方がよいであろう。
(4) 別のこととして、もしあなたが、自分のキリスト教信仰に実質が伴っているかどうか知りたければ、それがあなたの心と生活との中で結ばせる実によってためしてみることである。上からのキリスト教信仰は常にその実によって知られるものである。それを有する人の内側には、悔い改めや、信仰、希望、愛、へりくだり、霊性、親切な気立て、自己否定、利他主義、赦し、節制、誠実さ、兄弟愛、忍耐、寛容が生じさせられるものである。こうした種々の恵みが現われる度合は、個々の信仰者によって違いがあるかもしれない。だが、これらの萌芽と種子は、神の子らであるすべての人々のうちに見いだされるであろう。こうした実によって彼らは見分けられる。これがあなたのキリスト教信仰だろうか? そうでないとするなら、あなたはそれが「実質を伴った」ものかどうか疑ってみた方がよいであろう。
(5) 最後のこととして、もしあなたが、自分のキリスト教信仰に実質が伴っているかどうか知りたければ、恵みの手段に関するあなたの感覚と習慣によってためしてみることである。それを日曜日によってためしてみるがいい。その日は、うんざりさせられる窮屈な日だろうか? それとも、喜ばしく、気分を爽快にさせられる、天国にはいる安息の甘やかな前味となっているだろうか?----それを公の恵みの手段によってためしてみるがいい。公の祈りや公の賛美、また神のみことばの公の説教、主の晩餐の執行について、あなたはどのような感覚をいだいているだろうか? これらは、あなたが何の感慨もなく同意し、見ばと聞こえを慮ってやむなく行なっていることだろうか? それとも、これらはあなたが喜びを感じ、これらなしには幸せに生きることができないほどのものだろうか?----最後に、それを個人的な恵みの手段によってためしてみるがいい。あなたは、個人的に聖書を規則正しく読むこと、祈りによって神に語りかけることが自分の慰めにとって欠かせないと思っているだろうか? それともあなたは、こうしたことには飽き飽きし、いいかげんに流すか、全く行なわないかしているだろうか? これらの問いはあなたの注意に値するものである。公のものであれ個人のものであれ、恵みの手段があなたの魂にとって、あなたの肉体にとっての食べ物や飲み物と同じくらい必要なものとなっていないとしたら、あなたは自分のキリスト教信仰が「実質を伴った」ものかどうか疑ってみた方がよいであろう。
私はこの論考を読むすべての人々に向かって、今あげた5つの点に注意を払うよう強く願うものである。こうした問題においては、具体的な詳細に立ち入ることにまさるものはない。もし自分のキリスト教信仰が「実質を伴った」、本物の、真実なものであるかどうか知りたければ、私が今あげた5つの具体的な点によってそれを評定してみることである。それを公正に評価し、正直にはかってみることである。もしあなたの心が神の前に正しい状態にあるなら、吟味から尻込みする理由は何もない。もしそれが正しくない状態にあるなら、早めにそれを知るにこしたことはない。
さてこれで私は、自分が最初に提示したことをやり終えたことになる。私は聖書から、実質が伴っていることがキリスト教信仰にとって、いかに言葉に尽くせぬほど重要であるか、またそれが欠けているがために、いかに多くの人々が永遠の滅びに至る危険の瀬戸際にあるかを示してきた。また私は、自分のキリスト教信仰が実質の伴ったものであるかどうか知るための5つの平明な試問を列挙してきた。そこでしめくくりとして私は、この問題全体の直接的な適用を、この論考を読むあらゆる人々の魂に向けたいと思う。特にこれといった狙いは定めずに弓を引き、神がその矢で多くの人々の心と良心を射し貫いてくださることに信頼しよう。
(1) 私が適用として最初に述べたいのは、1つの問いかけである。あなた自身のキリスト教信仰には実質が伴っているだろうか、いないだろうか? 私が聞きたいのは、他の人々についてあなたがどう考えているかではない。ことによるとあなたは、身の回りに多くの偽善者を見ているであろう。全然「実質が伴っていない」多くの人々を指さすことができるであろう。だが、それは問題ではない。あなたの他の人々についての意見は正しいかもしれない。しかし私が知りたいのは、あなた自身のことなのである。あなた自身のキリスト教は、実質が伴った真実なものだろうか? それとも、名ばかりの模造品だろうか?
いのちを愛しているなら、今あなたの前にある質問から目をそらしはならない。いつかは、すべての真実が知られる時が確実にやって来る。最後の審判の日には、あらゆる人のキリスト教信仰がいかなる種類のものであるかが明らかにされるであろう。婚礼の礼服のたとえ話は、恐るべき形で成就するであろう。今、自分の状態に気づいて悔い改める方が、悔い改める何の余地もない来世で手遅れになってからそれに気づくより、何千倍もましに違いない。もしあなたに普通の思慮と分別と判断力があるなら、私の云っていることを考えてみることである。今日のこの日、じっくり腰を据えて考え、自分を吟味するがいい。あなたのキリスト教信仰の真の性格を看破するがいい。聖書を手に、正直さを心にいだいて事にあたれば、真相は明らかになるであろう。では、それを見抜く決意をするがいい。
(2) 私が適用として第二に述べたいのは、1つの警告である。私はそれを、自分のキリスト教信仰には実質が伴っていないと良心で知っているすべての人に向けて語るものである。私はそういう人々に、自分の危険がいかに大きいか、また神の目の前における自分の咎がいかにひどく重いものであるか思い起こしてほしい。
実質を伴わないキリスト教は、私たちが相手にしなくてはならない偉大な神にとって、ひときわ怒りをかき立てるものである。神は聖書の中では絶えず真実の神であると語られている。真実は格別に神のご属性の1つである。本物でも真実でもないあらゆるものを神が忌み嫌われることをあなたは一瞬でも疑えるだろうか? 私の堅く確信するところ、最後の審判の日には、自分が無知な異教徒であるとわかった方が、名ばかりのキリスト教信仰以外の何も持っていないことがわかるよりもましである。もしあなたのキリスト教信仰がそうした類のものであるなら、用心するがいい!
実質を伴わないキリスト教は、最後には確実に人を裏切るものである。それは、すりきれてなくなってしまうであろう。ばらばらに分解してしまうであろう。その持ち主を砂洲に乗り上げ、波に見捨てられた難破船の残骸のようにしてしまうであろう。最も慰めを必要とするとき----苦しみに遭うとき、また死の床につくとき----、何の慰めも与えてくれないであろう。もしあなたが、キリスト教信仰を自分の魂にとって何らかの役に立つものとしたければ、実質の欠如に用心するがいい! もし死に臨んで慰めもなく、最後の審判の日になって希望もない者になりたくなければ、本物の、実質が伴った、真実な者となることである。
(3) 私が適用として第三に述べたいのは、忠告である。私はこの論考の主題で良心が刺されたように感じているあらゆる人にそれを与えたいと思う。私が彼らに忠告したいのは、キリスト教信仰をいいかげんに扱ったり、もて遊んだりするのをやめて、正直に、裏表なく、全心全霊を傾けて主イエス・キリストに従う者となれ、ということである。
一刻もぐずぐずせずに主イエスのもとへ行き、どうか自分の救い主、自分の医師、自分の祭司、自分の友となってくださいと願うがいい。自分の無価値さをいじいじ考えて、遠く離れていてはならない。自分のもろもろの罪を思い出して、みもとに行くのを遅らせてはならない。決して、決して忘れてはならない。あなたが自分の魂をキリストにゆだねさえすればキリストは、どれほど大量の罪からもあなたをきよめることがおできになる。しかしキリストがご自分のもとに来る者らにお求めになることが、たった1つある。それは、彼らが実質を伴った、正直で、真実な者であるということである。
実質をこそ、あなたがキリストのみもとに近づく際の旗印とするならば、あなたには希望をいだくべきあらゆる理由がある。あなたの悔い改めは微弱かもしれないが、それを実質の伴ったものとするがいい。あなたの信仰は弱いかもしれないが、それを実質の伴ったものとするがいい。あなたの聖潔を求める願いは多くの弱さと混じり合っているかもしれないが、それを実質の伴ったものとするがいい。あなたのキリスト教には、いかなる留保も、二心も、誠意のない偽りも、にせのふるまいもないようにするがいい。決してキリスト教徒の仮面をかぶることで満足していてはならない。たとえ過ちは犯すにせよ、実質を伴った者であるがいい。つまづくことはあっても、真実な者であるがいい。この原則を絶えず目の前に置いておけば、恵みから栄光へと続く旅路の間中、あなたの魂は安泰であろう。
(4) 私が適用として最後に述べたいのは、励ましである。私はこれを、雄々しく十字架をとり、正直にキリストに従いつつあるすべての人々に向けて語るものである。私が彼らに勧告したいのは、最後までやり抜き、困難や反対に遭っても動かされないようにせよ、ということである。
あなたはしばしば自分に味方する者がほとんどなく、多くの人々が自分に反対していることに気づくであろう。あなたはしばしば、辛辣な言葉が投げつけられるのを聞くであろう。あなたはしばしば、それはやりすぎだ、極端すぎる、と云われるであろう。それを気にしてはならない。この種の意見には何の耳も貸してはならない。前進し続けることである。
もし人として裏表なく、実質を伴って、真実に、また正直に、全心をあげて行なわなくてはならないことが何かあるとしたら、それは自分の魂をどうするか、ということである。もし人として、決して粗略にしてはならないこと、ぞんざいに行なってはならないことが何かあるとしたら、それは「自分の救いを達成する」という偉大なわざである(ピリ2:12)。キリストを信ずる信仰者よ、このことを忘れてはならない! キリスト教信仰においては何を行なうにしても、誠実に行なうがいい。実質が伴った者であるがいい。裏表のない者であるがいい。正直であるがいい。真実であるがいい。
もし世の中に、人が恥じる必要のないことが何かあるとしたら、それはイエス・キリストに仕えることである。罪や、世俗性や、軽薄さや、怠惰や、時間の浪費や、快楽の追求や、怒りっぽさや、高慢や、金銭崇拝や、衣装や、舞踏や、狩猟や、射撃や、カード遊びや、小説を読みふけることや、そういった類のこと、----これらすべてについて人は恥じ入ってしかるべきであろう。このようなしかたで生きることによって彼は、御使いらを悲しませ、悪霊らを喜ばせている。しかし、自分の魂のために生きること、----自分の魂を気遣うこと、----自分の魂について考えること、----自分の魂のため備えをすること、----自分の魂の救いを日々の生活のかなめとすること、これらすべてについて人は何1つ恥じる理由はない。キリストを信ずる信仰者よ、このことを忘れてはならない! あなたが聖書を読むとき、また密室で祈るとき、このことを思い出すがいい。あなたの安息日を過ごすとき、このことを思い出すがいい。あなたの神を礼拝するとき、このことを思い出すがいい。これらすべてのことにおいて、誠心誠意、実質を伴った、裏表のない、真実な者であることを決して恥じてはならない。
私たちの人生の歳月はすみやかに過ぎ去りつつある。今年が生涯最後の年とならないとだれに知れよう? まさにこの年、召されて自分の神に会うことにならないと、だれに云えよう? そのための備えをしていたいと少しでも思うのであれば、実質の伴った、真実なキリスト者となることである。模造品の贋物であってはならない。
実質を伴ったものしか、火に耐えられない時が、すみやかに来ようとしている。実質を伴った神への回心、----実質を伴った私たちの主イエス・キリストに対する信仰、----実質を伴った心と生活の聖潔、----これらが、これらだけが、最後の審判の日によしと認められるものである。これは、私たちの主イエス・キリストは厳粛なおことばである。「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』」(マタ7:22、23)。
実質[了]
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