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2. 自己奮励


「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから」----ルカ13:24

 あるとき私たちの主イエス・キリストに、1つの非常に深遠な質問をした人がいた。「主よ。救われる者は少ないのですか」、と。

 この人がどういう人であったかはわからない。いかなる動機からこのような質問をしたのかも語られていない。それは、愚にもつかない好奇心を満足させるためだったかもしれないし、救いを求めないですませる云い訳がほしかったためかもしれない。聖霊はこうしたことを全く明かしておらず、この質問をした人の名前も動機も隠されている。

 しかし1つだけ非常に明確なことがある。それは、この質問に端を発した私たちの主のことばの途方もない重要さである。イエスはこの機会をとらえて、周囲にいたすべての人々の思いを彼ら自身の明白な義務へとお向けになった。主は、彼らの心の中で、この人の質問がどのような思いを連鎖的に引き起こしたかご存知であった。主は、彼らの内側で起こりつつあることを見抜いておられた。主は声を大にして云っておられる。「努力して狭い門からはいりなさい」、と。救われる者が少なかろうと多かろうと、あなたがたの行くべき道ははっきりしている。----努力してはいるがいい。今は恵みの時、今は救いの日である。だがやがて、多くの人がはいろうとしても、はいれなくなる日がやって来る。「努力して、今、狭い門からはいるがいい」*。

 私はこの論考を読むすべての人々に、この主イエスのことばに込められた厳粛な教訓を、真剣に心に留めていただきたいと思う。これは今日、特に思い起こすに値することばの1つである。ここで明白に教えられている重大な真理、それは、私たちには、自分の魂の救いに対する個人的な責任がある、ということである。またその教えによれば、不幸にも多くの人々がしているように、キリスト教信仰の要求する大切な義務をはぐらかそうとするのは途方もなく危険である。これらの点について、この聖句で私たちの主イエス・キリストが発しておられる証言には一点の曇りもない。永遠の神であられ、完璧な知恵のことばをお語りになったお方が、人の子らにこう云っておられるのである。----「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから」、と。

 I. ここには、救いの道の描写がある。イエスはそれを、「狭い門」、と呼んでおられる。
 II. ここには、明白な命令がある。イエスは、「努力してはいれ」、と云っておられる。
 III. ここには、恐るべき預言がある。イエスは、「はいろうとしても、はいれなくなる人が多い」、と云っておられる。

 願わくは聖霊が、この論考を手にとるであろうすべての人の心に、この主題を適用してくださるように! 願わくはこの論考を読むすべての人が、救いの道を身をもって知り、主の命令に実際に従い、主が再臨なさる大いなる日にも安全な立場に身を置いていられるように!

 I. ここには、救いの道の描写がある。イエスはそれを、「狭い門」、と呼んでおられる。

 この世には、赦しと、神との平和と、天国へと至る1つの門がある。だれでもその門をくぐる者は救われる。明らかに、これほど必要な門は1つもない。罪は人間と神との間に立ちはだかる巨大な山嶺である。それを乗り越えられるような者がどこにいようか?----罪は人間と神の間にある高い壁である。それを突き抜けられるような者がどこにいようか?----罪は人間と神との間にぱっくり開いた深淵である。それを飛び越えられるような者がどこにいようか?----神は、天国におられる、聖にして、きよい霊であって、いかなる汚れも、いかなる暗いところも全くない光であり、悪を忍ぶことも、不義に目を留めることもできないお方である。人間は、ほんの数年の間地べたを這いずり回るしかない、みじめな堕落した虫けらであって----罪深く、腐敗し、誤りを犯し、欠陥に満ち----、その心に計ることはみな悪いことだけに傾き、その心は何よりも陰険で、それは直らない。その人間と神とを、どうすれば1つにできようか? どうすれば人間が、恐れも恥も感じずにその造り主に近づくことができようか? 神はほむべきかな、その手段があるのである! 道があるのである。通り道があるのである。扉があるのである。それこそ、キリストのことばで語られている門----「狭い門」にほかならない。

 この門は、主イエス・キリストによって罪人たちのために作られた。永遠の昔から、主はそれを作るという契約を交わし、約束しておられた。時満ちるに及んで主は世にやって来られ、それを、ご自分の十字架上の贖いの死によって作ってくださった。その死によって主は、人間の罪を償い、神に対する人間の負債を支払い、人間の罰を負ってくださった。主は、ご自分のからだと血という代価を払って、偉大な門を建ててくださった。主は地上から天まで届くはしごを立ててくださった。主は罪人のかしらでさえ、恐れなく神の聖なる御前に進み出ることができる戸口を作ってくださった。主は、最低最悪の人間でさえ、主を信じれば、神に近づいて平安を持てるような道を切り開いてくださった。主は私たちに向かって大声で云っておられる。「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます」(ヨハ10:9)。「わたしが道……なのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハ14:6)。パウロは云う。「私たちはこのキリストにあ……って大胆に確信をもって神に近づくことができるのです」(エペ3:12)。このようにして、救いの門は築かれたのである。

 この門は狭い門と呼ばれているが、あだやおろそかにそう呼ばれているのではない。これは常に狭く、幅が細く、人によっては非常にくぐり抜けるのが困難な門であって、この世の続く限りそのようなものとしてあり続けるであろう。これは、罪を愛し、罪と手を切るまいと決意しているすべての人にとって狭い門である。これは、この世に愛情を注ぎ、この世における快楽や報いを第一に求めるすべての人にとって狭い門である。これは、困難をいとい、自分の魂のために労苦したり犠牲を払ったりしたくないすべての人にとって狭い門である。これは、孤立をきらい、長い物に巻かれることを望むすべての人にとって狭い門である。これは、自分の義を立て、自分を立派な人間だと考え、自分は救われて当然だと思うすべての人にとって狭い門である。このようなすべての人々にとって、キリストがお作りになった偉大な門は、幅の細い、狭い門である。彼らがくぐり抜けようとしてもむだである。その門を通り抜けることはできない。神が彼らを受け入れたくないと思っておられるわけでなはい。彼らの罪が多すぎて赦されないわけではない。だが彼らは、神の道を通って救われたいとは思わないのである。過去十八世紀もの間、おびただしい数の人々が、この門口を広げようと努力してきた。おびただしい数の人々が、これ以下の条件で天国に到達しようと、さんざん労苦してきた。しかし、この門の形は決して変わらなかった。この門に弾力性はない。人に合わせて枠を広げたりしない。常に変わらず狭い門なのである。

 狭くはあっても、この門は人が天国に行くことのできる唯一の門である。そこには、横に通用門があるわけではない。間道は1つもない。その壁に切れ目や低くなっている所はない。救われる者はみな、ただキリストによってのみ救われ、キリストへの単純な信仰によってのみ救われるのである。----ひとりとして、自分の悔い改めで救われる者はない。きょう悲しんだからといって昨日の勘定書が帳消しになりはしない。----ひとりとして、自分の行ないで救われる者はない。だれがどのような善行を行なおうと、それは目もあやな罪と大差ない。----ひとりとして、外的な恵みの手段を規則正しく用いることで救われる者はない。すべてをなし終えた後でも、私たちはあわれな「役に立たないしもべ」である。否、否! 永遠のいのちに至る何か別の道を探し求めるのは時間の浪費に過ぎない。人はどれほど右顧左眄し、どれほど自家製の手段を用い続けようと、決して別の扉を見いだすことはない。誇り高い人々がこの門を嫌いたければ嫌うがいい。放蕩三昧の人々はこれをばかにし、これを用いる人々をあざけるがいい。怠惰な人々はこの道は厳しすぎると文句を云うがいい。しかし、結局人々が見いだしうる唯一の救いは、十字架にかけられた贖い主の血潮と義とを信ずる信仰の救い以外にないであろう。私たちと天国との間には1つの壮大な門が立っている。それは狭いかもしれない。しかし唯一の門なのである。私たちはこの狭い門を通って天国に行くか、行かないか、2つに1つである。

 狭くはあっても、この門はいつでも扉を開こうと待ち構えている門である。いかなる種類のいかなる罪人も近づくことを禁ぜられることはない。だれでもはいって救われることができる。入門を許される条件は1つしかない。その条件とは、自分の罪を心から思い知り、キリストによって、キリストご自身の方法を通して救われたいと願うことである。あなたは本当にあなたの咎と邪悪さを感じているだろうか? あなたは真に悔い砕かれた心をしているだろうか? では救いの門を見上げ、中にはいるがいい。その門をお作りになったお方が宣言しておられる。----「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハ6:37)。考えるべき問題は、あなたが大罪人か小罪人かではない。----あなたが選ばれた者かそうでないかではない。----回心したかしていないかではない。問題は単純に、「あなたは自分のもろもろの罪を思い知っているか? 自分が疲れた者、重荷を負っている者であると感じているか? 自分の魂をキリストの御手にゆだねるつもりがあるか?」、ということである。もしそうだとすれば、この門はたちどころにあなたの前で開くであろう。きょうのこの日、中にはいるがいい。「どうして外に立っているのですか」*(創24:31)。

 狭くはあっても、この門は無数の人々が中にはいって救われた門である。自分の罪を心からいとわしく思ってこの門に来た罪人のうち、お前は悪人すぎて中にはいるのは許せない、と云われて追い返された者はひとりとしていない。ありとあらゆる種類の無数の人々が受け入れられ、きよめられ、洗われ、赦され、衣を着せられ、永遠のいのちを受け継ぐ者とされた。彼らの中には、とうてい中にはいるのを許されそうもない者たちがいた。あなたや私なら、あれは救われるには悪人すぎると考えたかもしれない。しかし、この門を建てられたお方は彼らを拒まれなかった。彼らが扉を叩くやいなや、この方は、彼らを中に入れよとの命令をお下しになった。

 ユダの王マナセはこの門のもとにやって来た。マナセほどの悪人はいなかった。彼は善良な父ヒゼキヤの模範と忠告をずっと侮ってきた。エルサレム中を流血と残虐で満たしてきた。自らの子らを殺戮した。しかし彼が自分のもろもろの罪に対して目を開かれ、赦しを求めてこの門へ身を避けたとき、この門は扉を大きく開け放ち、彼は救われたのである。

 パリサイ人サウロはこの門のもとにやって来た。彼は大きな悪を働いてきた。彼はキリストを冒涜し、キリストの民を迫害してきた。福音の進展を食い止めるためなら、いかなる労苦もいとわなかった。しかし彼が心を打たれ、自分の咎をさとり、赦しを求めてこの門に身を避けてくるやいなや、たちまちこの門は扉を大きく開け放ち、彼は救われたのである。

 私たちの主を十字架につけた多くのユダヤ人たちはこの門のもとにやって来た。彼らは実に忌まわしい罪人であった。彼らは自分たちのメシヤを拒否し、はねつけた。彼をピラトに引き渡し、彼が殺害されるように請願した。バラバが釈放されることを願い、神の御子が十字架につけられることを願った。しかし彼らが、ペテロの説教によって心を刺された日に、赦しを求めてこの門のもとへ行ったとき、門はたちまちその扉を開け放ち、彼らは救われたのである。

 あのピリピの看守はこの門へとやって来た。彼は無慈悲で、冷酷で、神を知らぬ男だった。彼は思う存分にパウロとその同行者を虐待した。彼らを奥の牢に入れ、彼らの足に足かせを掛けた。しかし地震によって良心を目覚めさせられ、パウロの教えによって心に光を受けた彼が、赦しを求めてこの門のもとへ行ったとき、門はたちまち扉を開け放ち、彼は救われたのである。

 しかし、なぜ聖書中の実例だけでとどめることがあろうか? 何はばかることなく云えることだが、使徒たちの時代以後も、おびただしい数の人々がこの「狭い門」のもとに行き、そこにはいって救われた。階級、身分、年齢を全く問わない無数の人々が、----学者も文盲も、富者も貧者も、老いも若きも----この門を叩いてみて、それが簡単に開くことを見いだした。----その門を通って、自分の魂に平安を見いだした。しかり。今も存命中の無数の人々がこの門をためしてみて、それが真の幸福への道であることを見いだしたのである。この狭い門が、「楽しい道であり、平安の通り道である」ことを見いだしてきた貴人や庶民、商人や銀行員、兵士や水夫、行商人や労務者や職人は、今もなお地上にいる。彼らの中で、その門の内側にある国を悪く云いふらした者はいない。彼らはキリストのくびきが負いやすく、その荷が軽いことを見いだしてきた。彼らの唯一の後悔は、そこにはいって行く者が少なすぎること、また自分たち自身ももっと早くはいらなかったことである。

 この門にこそ私は、この論考を手に取るであろうあらゆる人に、はいってほしいと思う。私があなたに願うのは、単に教会や会堂に通うことではなく、全心全霊をこめて、このいのちの門のもとに行くことである。単にそのような門があるとか、それは良い門であると信ずるだけでなく、信仰によって門の中にはいり救われることである。

 そもそも門があること自体、どれほどの特権であるか考えてみてほしい。自分の領域を守らなかった御使いたちは、堕落して、二度と再び引き上げられることがなかった。彼らには、逃れの扉は何も開かれなかった。----異教徒たちは決して永遠のいのちに至る道について聞いたことがなかった。多くの黒人やインディアンたちが一回でもキリストについての平易な説教を聞いたなら、自分の持てるすべてを差し出したのではなかろうか?----旧約時代の聖徒たちは、この門をおぼろげに、また遠くはるかにしか見ることがなかった。「前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていなかった」(ヘブ9:8 <英欽定訳>)。だがあなたがたには、この門がはっきり目の前に示されているのである。あなたがたには、キリストと完全な救いとが、何の代価も代金もなしに差し出されているのである。あなたがたには、向かうべき道に迷う必要は決してないのである。おゝ、これがいかなるあわれみか考えてみるがいい。この門をさげすみ、不信仰の中で滅びていくことがないように気をつけるがいい。この門のことを知りながら外でぐすぐずしているくらいなら、この門のことを知らないでいる方が何千倍もましである。これほど素晴らしい救いをないがしろにした場合あなたがたは、どうして逃れることができようか。

 もしあなたが本当にこの門にはいっているとしたら、いかにあなたは感謝あふれる人とならなくてはならないか考えてみるがいい。罪と咎を赦され、義と認められた魂となり、----病も死も審きも永遠も恐れることなく、----今の世でも後の世でも常に必要なものが与えられていること、----確かにこれは日ごとに賛美すべきことに違いない。真のキリスト者は今よりもはるかに感謝に満ちた者でなくてはならない。残念ながら、生まれながらの自分がいかなる者であり、恵みに対して自分がいかに大きな負債を負っているか十分覚えている者はほとんどいないのではなかろうか。ある異教徒の言葉によれば、賛美の歌を歌うことは初代のキリスト者たちを特に際立たせていたしるしの1つであったという。現代のキリスト者たちが、このような心持ちを今以上に知っていたなら、どんなに良いことであろう。愚痴や不平ばかりでほとんど賛美がないのは、決して魂の健全な状態を示すしるしではない。救いの門があること自体、驚くばかりのあわれみである。しかし、それよりさらに大きなあわれみは、私たちが、それにはいって救われよと告げられていることである。

 II. 第二にここには、明白な命令がある。----イエスは、「努力して狭い門からはいりなさい」、と云っておられる。聖書には、ほんの一言から多くのことを学べる言葉が多々ある。特に私たちの主イエスのことばは、常に考えさせられる内容に満ちている。この箇所のことばは、私が今述べたことを顕著に示す実例である。ここで私たちは、この偉大な教師が教えようとしておられることを、「努力して」という一語から汲み取っていこう。

 「努力して」が教えていること、それは、人は魂の救いを得たければ、種々の手段を熱心に用いなければならない、ということである。世の中には、神に近づこうと努力する人々を手助けするため神がお定めになった方法がある。キリストのうちにあると認められたい者なら歩まなくてはならない道がある。礼拝、聖書を読むこと、福音説教に耳を傾けること----これらこそ私が言及している類のことである。これらは、いわば人間と神との真ん中に横たわっているのである。確かに、いかなる人も自分の心を変えたり、自分の罪を1つでも拭い去ったり、自分をほんの少しでも神に受け入れられやすくすることはできない。しかしあえて云うが、もし人が、ただおとなしくじっとしていることしかできなかったとしたら、キリストは決して「努力せよ」とは云わなかったはずである。

 「努力して」が教えていること、それは、人は自由意志を持つ行為者であって、責任ある存在として神から扱われる、ということである。主イエスは私たちに、「待っていよ」とも、「願っていよ」とも、「感じていよ」とも、「期待していよ」とも、「望んでいよ」とも命じてはおられない。主は、「努力せよ」、と云っておられる。私がみじめなキリスト教信仰と呼びたいのは、「私たちは自分では何1つできません」、と人々に云わせ、彼らを罪の中にとどまらせておく類のしろものである。これは、人々に向かって、あなたがたが回心していないのはあなたがたのせいではない、あなたがたが救われないとしたら責めるべきは神だけである、と教えるのと同じくらい悪い。そのような神学は、新約聖書に一言も書かれていない。罪人に対するイエスのことばとして私が聞いているのは、「来よ----悔い改めよ----信ぜよ----労せよ----尋ねよ----求めよ----叩けよ」、である。私たちの救いが最初から最後まで完全に神から出ていることは明々白々である。しかし、それに全く劣らず明白に示されているのは、もし私たちが滅びるとしたら、私たちの滅びが、徹頭徹尾私たちから出ているということである。断言してもいいが、罪人はいついかなる場合も、責任を持ち、責めを負うべき者として語りかけられている。そして、それを何にもまして証明しているのが、この言葉、「努力せよ」、なのである。

 「努力して」が教えていること、それは、人は魂の救いを得たければ、多くの敵との激しい戦闘を覚悟しなくてはならない、ということである。そしてこれは経験から云って、まぎれもなく真実である。「労苦なくして報いなし」、は、物質的なことに劣らず霊的な事がらにもあてはまる。かのほえたける獅子、悪魔は、決して一戦を交えもせずに、魂が自分から逃れていくのを許しはしない。生まれながらに官能的で地上的な心は、日ごとの戦いなしには決して霊的な事がらに向かわされることはない。この世は、そのありったけの反対と誘惑とを考えてみても、争闘なしには決して打ち負かせるものではない。しかし、なぜこれらすべてに驚くことがあろうか? いまだかつて偉大な功業が困難もなしに成し遂げられたことがあろうか? 麦は鋤くことも蒔くこともなしに育ちはしない。富を得るには心配りと細心の注意が欠かせない。人生で成功するには患難辛苦がつきものである。そして何にもまして、天国は十字架と戦いなしに到達できるものではない。「激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(マタ11:12)。人は「努力し」なくてはならないのである。

 「努力して」が教えていること、それは、救いを求めるのは人にとって価値あることだということである。それも当然であろう。もしこの世で苦心惨憺するに値するものがあるとしたら、それは魂の幸福である。人間たちの大多数が努力して追求している目標は、それとくらべれば貧しく、つまらぬものである。富も、栄誉も、地位も、学識も、「朽ちる冠」である。朽ちないものは、すべてこの狭い門の内側にある。人のすべての考えにまさる神の平安----後に来る素晴らしいものの輝かしい希望----自分の内側に御霊が内住しておられる感覚----罪赦されて、何が起ころうと安全で、備えができており、現世でも永遠でも必要なものすべてが与えられているという保証----これらこそ真の黄金であり、いつまでも残る富である。主イエスが私たちに、「努力せよ」、と要求しておられるのも当然である。

 「努力して」が教えていること、それは、キリスト教信仰において怠惰さは大きな罪だということである。それは、一部の人が思いみなしているような、ただの不運ではない。----あわれむべき、また悔やむべき災難にすぎないものではない。それは、はるかに大きなものである。あからさまな命令への違背である。神の律法にそむいて、神がしてはならないと云っておられることを行なう人のことを何と云うべきであろうか? 答えは1つしかない。罪人である。「罪とは律法に逆らうことなのです」(Iヨハ3:4)。また、自分の魂をないがしろにし、狭い門にはいろうとする何の努力もしない人のことを何と云うべきであろうか? 答えは1つだけである。その人はなすべき義務を怠っているのである。キリストはその人に、「努力せよ」、と云っておられるのに、見よ、その人は、うずくまっているだけなのである!

 「努力して」が教えていること、それは、この狭い門の外側にいるあらゆる人は、大きな危険にさらされている、ということである。彼らは永遠に滅びる危険にさらされている。彼らと死との間には、ただの一歩の隔たりしかない。もし今の状態のままの彼らを死が襲ったなら、彼らは何の望みもなく死ぬであろう。主イエスはそのことをはっきりさとっておられた。人生の不確かさと時の短さを知っておられた。主は罪人がぐずぐずせず急いでやって来て、魂に関する務めを引き延ばさないことを喜ばれる。主はあたかも、日ごとに彼らに迫りつつある悪魔を目にし、彼らのいのちの日がしだいに細りつつあるのを見ているかのように語っておられる。主は、彼らが用心し、遅くなりすぎないことを望んでおられる。それで主は声を上げておられるのである。「努力せよ」、と。

 「努力して」という言葉が私の脳裡に引き起こすのは、厳粛な思いである。それは、おびただしい数の受洗者たちに対する圧倒的な有罪宣告である。これは、キリスト者であると告白し自称する無数の人々の生き方、生活態度を断罪している。多くの人々は決して悪態をつきも、人殺しも、姦淫を犯すことも、盗みも、嘘をつくこともしない。しかし不幸にして、あることだけは、彼らについて云うことができない。すなわち、彼らが救われるために「努力して」いると云うことはできない。キリスト教信仰にかかわるすべてのことにおいて、彼らの心は「鈍い心」にとらえられている。この世の事がらについて、彼らは十分努力している。彼らは朝早く起き、深更まで休みをとらない。彼らは骨惜しみせず働き、労し、忙しくし、注意を払う。だが、どうしても必要なただ1つのことについては、決して何の「努力」もしない。

 日曜日の公の礼拝を不規則にしか守らない人々のことを何と云うべきであろうか。イギリス全土には、こうした描写にあてはまる無数の人々がいる。時おり気が向くと彼らは、どこかの教会か会堂に出かけ、礼拝に出席する。それ以外の時は、自宅にいて新聞を読んだり、のらくらしたり、勘定書に目を通したり、何か娯楽にふけったりする。これが「努力」だろうか? 私は常識ある人々に語っている。おのおのが私の云っていることを判断するがいい。

 規則正しく礼拝堂に来てはいても、それが単なる慣例からでしかない人々のことを何と云うべきであろうか。イギリス中のあらゆる教区には、こうした状態の人々がたくさんいる。教会には行くようにと親から教わった。毎週教会に通うことは習慣になっている。欠席したみっともない。しかし出席しても彼らは、礼拝のことはまるで気にかけていない。耳に入ってくるのが律法であろうと福音であろうと、真理であろうと誤りであろうと、彼らにとっては全く同じである。後になれば何も覚えていない。だがこれが「努力」だろうか? 私は常識ある人々に語っている。おのおのが私の云っていることを判断するがいい。

 聖書をほとんど、あるいは全く読まない人々のことを何と云うべきであろうか。こうした描写にあてはまる人々が無数にいるのではなかろうか。彼らは聖書という名前は知っている。それが、いかに生き、いかに死ぬべきかを教えてくれる唯一の書物であると一般にみなされていることは知っている。しかし彼らは絶対にそれを読む時間を見つけられない。新聞や批評や文学や小説は読めるが、聖書は読めない。だがこれが、はいろうとして「努力する」ことだろうか? 私は常識ある人々に語っている。おのおのが私の云っていることを判断するがいい。

 全く祈りもしない人々のことを何と云うべきであろうか。私の堅く信ずるところ、このような状態の人々がおびただしくいる。神なしに彼らは朝起床し、神なしに夜就寝する。彼らは何も願わない。何も告白しない。何についても感謝を返さない。何も求めない。彼らはみな死につつある被造物である。それでいながら彼らは、自分の造り主であり審き主であるお方と満足に口をきける間柄にもなっていないのである! だがこれが「努力」だろうか? 私は常識ある人々に語っている。おのおのが私の云っていることを判断するがいい。

 福音の教役者であることは厳粛なことである。霊的な事がらに関する人々の生き方を眺め、注視するのは、痛ましいことである。私たちの手にしている偉大な法典たる神の書が宣言するところによれば、悔い改めと、回心と、キリストを信ずる信仰なしには、いかなる生ける人も救われることはできない。自分の職務を遂行すべく私たちは、人々に向かって悔い改めて、信じて、救われよ、と説きつけている。しかし、悲しいかな、私たちは何としばしば、自分の労苦がすべて無益であるかのように思われて嘆かざるをえないことか。人々は私たちの教会に出席し、耳を傾け、同意を示しはするが、救われるための「努力」は行なわない。私たちは罪の極度の罪深さを示し、キリストの麗しさを説明し、この世のはかなさを明らかにし、キリストに仕える道の幸いを述べ、苦しみ疲れ、また重荷を負っている子らに生ける水を差し出す。しかし、悲しいかな、いかにしばしば私たちは風に向かって語っているかのように思われることか。私たちの言葉は、日曜日には忍耐強く聞いてもらえる。私たちの議論は反駁されることがない。しかし平日私たちに向かってあからさまに示されるのは、人々は救われるための「努力」をしていない、ということである。月曜の朝になると悪魔がやって来て、その無数の罠を差し出すのである。世がやって来て、その見た目はもっともらしい宝をつきつけるのである。私たちの聴衆は、貪欲にそれらの後をついていくのである。彼らは世にある物のためには必死に働き、サタンの命ずるままに骨折って働く。しかし、どうしても必要なただ1つのことのためには、彼らは全く「努力し」ない。

 私は人伝えに聞いた話を書いているのではない。自分の目で見てきたことを語っているのである。牧会生活37年の経験の結果を書き記しているのである。その間私は、以前は全く知らなかったような人間性に関する教訓を学んだ。私は、狭い道に関する私たちの主のことばが、いかに真実であるかを見てきた 。私が発見したのは、救われるために「努力」する人々がいかに少ないか、ということであった。

 物質的なことに関する熱心さはざらに見受けられる。この世で富み栄えるために努力することは、珍しくも何ともない。金銭や、仕事や、政治に関する労苦----商業や、科学や、芸術や、娯楽に関する労苦----賃貸や、賃金や、労働や、土地に関する労苦----そうした事がらに関する労苦なら、都会でも田舎でもふんだんに見受けられる。しかし、狭い門にはいるために「努力して」いる者の姿は、どこであれ、ほとんど見かけることがない。

 私はこのことに少しも驚いてはいない。聖書の記すところによれば、こういう結果しか予想できない。大いなる宴会のたとえは、私が牧師になって以来この目で見てきた現実の正確な写し絵である(ルカ14:16)。私も、私の主である救い主が私に告げておられるように、「人々が言い訳をつけて断る」のを見てきた。ある人には見に行かなくてはならない畑がある。別の人には、ためさなくてはならない牛がある。三番目の人には家庭的な故障がある。しかしこうしたすべてがあるからといって私が人々の魂のために深い悲しみを覚えないわけではない。考えるだけでも悲しいのは、彼らが永遠のいのちのこれほど身近にありながら、中にはいって救われる「努力」をしないがために滅びていくということである。

 この論考を読む多くの方々がどのような魂の状態をしているか私にはわからない。しかし私はあなたに警告したい。「努力」を欠くために永遠の滅びへ至るようなことがないように注意することである。破滅の穴へ至るのは、何か緋のようなどぎつい罪を犯す者たちだけだ、などと考えてはならない。何もせずにじっとしていさえすれば、結局はそこに落ち込んでいる自分を見いだすであろう。しかり! サタンがあなたに願っているのは、何もあなたがカインや、パロや、アハブや、ベルシャザルや、イスカリオテのユダの足跡をたどることではない。それと同じくらい確実に地獄へ至るもう1つの道がある----霊的惰眠、霊的怠惰、霊的無精の道である。サタンはあなたがキリスト教会のれっきとした教会員であることに何の反対もしない。彼は、あなたが什一献金を払おうが、教会維持税を払おうが、会堂座席料を払おうがとめだてしない。一生の間あなたが毎日曜日ぬくぬくと教会に座っていようが放っておくであろう。彼は重々承知しているのである。あなたが「努力」しない限り、最後には、尽きることがないうじ、消えることがない火へと至らざるをえないことを。このような結末に至らないように注意するがいい。もう一度云う。あなたはただ何もしないでいさえすれば、それだけで滅びるのである。

 もしあなたが自分の魂の幸福のために「努力」するように教えられてきたとすれば、私はあなたに願いたい。決して努力しすぎているなどと考えてはならない。自分は自分の霊的状態について骨折りのしすぎではないか、それほど気を遣う必要などないのだ、などという考えに決して屈してはならない。むしろ、「すべての勤労には利益がある」[箴14:23]、そして、いかなる勤労も魂のためになされたものほど利益をあげるものはない、と心に思い定めるがいい。優秀な農夫たちが云い慣わしていることだが、土地は手をかければかけるほど大きな見返りを与えるという。これはキリスト者の間でも云い慣わされるべき格言だと私は確信する。すなわち、自分のキリスト教信仰に手をかければかけるほど、その信仰は大きな見返りを与えてくれるのである。恵みの手段について無頓着にさせようとする、どれほど些細な徴候にも警戒するがいい。あなたの祈りを、聖書を読むことを、神との密室における交わりを縮めようとさせるものに用心するがいい。神の家における公の礼拝を上の空で、薄ぼんやりと用いないように注意するがいい。福音の説教を聴いている間は、いかなる眠気にも、あら探しの精神にも、揚げ足取りの思いにも屈さないように戦うがいい。神のためにあなたが何をするにも、それは心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして行なうがいい。その他の事がらにおいては、中庸を保つこととし、極端に走ることを怖ぞ気をふるって避けるがいい。しかし魂の問題においては、疫病を恐れるのと同じくらい中庸を恐れるがいい。人があなたのことをどう思おうとかまってはならない。あなたにとっては、あなたの主人が、「努力せよ」、と云っておられることだけで十分とすることである。

 III. この論考で最後に考察したいのは、主イエスが口にしておられる恐るべき預言である。彼は、「はいろうとしても、はいれなくなる人が多い」、と云っておられる。

 これはいつの時代のことになるだろうか? いかなる時代に、救いの門は永遠に閉ざされるのだろうか? はいろうとして「努力」することが何の役にも立たなくなるのはいつだろうか? これらは深刻な問題である。この門は今は罪人のかしらにも喜んで扉を開け放とうと待ちかまえている。しかしやがて、それが二度と開かなくなる日がやって来る。

 私たちの主によって予告された時期は、主ご自身が世を審くために再臨なさる時である。神の寛容は、最後には終わりを迎える。恵みの御座は、ついには取りこわされて代わりに審きの座が打ち立てられることになる。生ける水の泉は、ついにはふさがれることになる。狭い門は最後には閂をさされ、締め釘で閉ざされることになる。恵みの日は過ぎ去る。罪にたわむ世の清算の日がついに始まる。そしてそのとき、主イエスの厳粛な預言が実現することになるのである。----「はいろうとしても、はいれなくなる人が多い」。

 これまでに成就した聖書の預言はみな、一字一句違わずに成就した。多くの人々にとってそれらは、実現する間際まで、ありそうもないこと、起こりえないこと、不可能なことと思われていた。しかし、それらの一言でさえ地に落ちなかった。

 良い事がらの約束はみな、打ち勝ちがたいような数々の困難にもかかわらず、かなえられた。サラは、子を産める年をはるかに越してから息子を得た。イスラエル人たちはエジプトから連れ出されて、約束の地に定住させられた。ユダヤ人はバビロン捕囚から70年を経た後に贖い出され、再び神殿を建設することができた。主イエスは、まさしく聖書が予告した通りにきよい処女から生まれ、人々に仕え、裏切られ、断ち切られた。神のみことばは、これらすべての事例において、それがそのようになると誓っていた。そして、それはその通りになったのである。

 町々や国々に対する審きの予言も、それらが最初に語られた時には信じがたいことと思われたが、実現した。今のエジプトはどの王国にも劣っている。エドムは荒野である。ツロは網を乾かす岩である。「非常に大きな町」ニネベは、廃墟となり、荒れ果てている。バビロンは砂漠と荒れた地であり、----その広い城壁は、全くくつがえされている。ユダヤ人は、分離した民として全地に散らされている。こうしたすべての例において、神のみことばはそのようになると予告していた。そして、それはその通りになったのである。

 私が今日あなたがたの注意を向けている主イエス・キリストの預言もまた、同じように成就することになる。それが実現するはずの時が来たときには、その一言すら地に落ちることはない。「はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのです」。

 その時が来れば、神を求めても無益である。おゝ、人々がそのことを覚えていればどんなによいことか! あまりにも多くの人々は、探しても見つからない時など絶対にやって来ないと夢想している。しかし悲しいことにその考えは大間違いである。悔い改めない限り彼らは、いつの日か自分の間違いを知って、あわてふためくことであろう。キリストが来られるときには、「はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのです」。

 その時が来れば、多くの人々が永遠に天国から閉め出されることになる。そのような運命を迎えるのは、ほんの一握りの人々ではなく、大群衆である。この教区のひとりかふたり、別の教区のひとりかふたりではなく、おびただしい数の人々の悲惨な末路となる。「はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのです」。

 多くの人々が知識を得たときには、もはや手遅れである。最後には彼らも、不滅の魂の価値、魂の救いという幸福についてさとることになる。彼らはついに自分自身の罪深さと神の聖さ、またキリストの福音の輝かしい適切さを理解することになる。彼らはついに、なぜ教役者たちがあれほど心配そうにしていたのか、なぜあれほど長々と説教し、なぜあれほど熱心に回心するよう懇願していたのかがわかることになる。しかし、悲しいかな、彼らがこれらすべてを知っても時はすでに遅いのである!

 多くの人々が悔い改めを得たときには、もはや手遅れである。彼らは自分自身の途方もない邪悪さを思い知り、自分の過去の愚行を徹底的に恥じることになる。彼らは苦い後悔と、詮ない嘆き、痛切な罪意識と、心ひき裂かれるような悲しみに満たされることになる。彼らは自分の罪を思い返して泣き、うめき、悲しむ。自分の人生の追憶は嘆かわしいものとなるであろう。自分の咎の重荷は耐えがたく思われよう。しかし、悲しいかな、イスカリオテのユダと同じく、彼らが悔い改めても時はすでに遅いのである!

 多くの人々が信仰を得たときには、もはや手遅れである。彼らはもはや、神がおられることや、悪魔や天国や地獄が存在することを否定できない。理神論、懐疑主義、無信仰は永遠に打ち捨てられるであろう。信仰者を嘲弄し、あざけること、また自由思想にふけることは絶えてなくなるであろう。彼らは、教役者たちが語っていた事がらが、うまく考え出した作り話などではなく、まぎれもなく大いなる真理であったことを、その目で見、肌で感ずるであろう。彼らは、福音主義的なキリスト教が、口先だけのお題目でも、極論でも、熱狂主義でも、狂信でもないことを知って痛惜するであろう。それこそ、どうしても必要なただ1つのことであり、それを欠くがために自分は永遠に滅びるのだと知るであろう。悪霊どもと同じように、彼らはとうとう信じて、身震いするようになるであろうが、時はすでに遅いのである!

 多くの人々が救われたいと願うときには、もはや手遅れである。彼らが赦しと、平安と、神のいつくしみを乞い求める時には、それらは得られないであろう。彼らは、せめてもう一回日曜日を過ごせさえすれば、もう一度だけ赦しの申し出がありさえすれば、もう一度だけ祈るよう求められさえすればと願うであろう。しかし、そのときになって彼らが何と考え、いかに感じ、何を願っても、どうにもならない。恵みの日は過ぎ去っており、救いの門は閂をかけられ、閉ざさているであろう。時はすでに遅いのである!

 私はしばしば考えることがある。物事の価値を示す尺度や目安には、やがていかに大きな変革がもたらされることか、と。私は、自分の割当として与えられたこの世界を見回し、この世界の内側にあるすべてのものの現在の価格に注目する。私はキリストの到来と大いなる神の日を仰ぎ見て、その日がもたらすであろう物事の新秩序のことを思い巡らす。私は、主イエスのことばの中で、家の主人が立ち上がって戸を閉めてしまうと語られている箇所を読みながら、自分に向かって云う。「まもなく大きな変革が起こるだろう」、と。

 現在尊ばれているものは何だろうか? 金、銀、宝石、銀行券、鉱山、船舶、土地、家屋、馬、馬車、家具、食べ物、飲み物、衣服、そうしたものである。こうしたものには価値があると考えられている。こうしたものこそ、人々が喜んで飛びつくものである。こうしたものは、ある程度の値をつけなければ決して手に入らないる。こうしたものを多く持っている人こそ、富んだ人とみなされている。これが世の中である!

 では、いま軽んぜられているものは何であろうか? 神を知ること、福音の無代価の救い、キリストのいつくしみ、聖霊の恵み、神の子どもとされる特権、永遠のいのちを受ける資格、いのちの木の実を食べる権利、天国の邸宅の相続権、朽ちることのない資産の約束、しぼむことのない栄光の冠の申し出といったものである。こうしたものは、だれも気にかけない。これらは、人の子らに向かって、代金も代価もなしに差し出されている。ただで----無代価で、無償で----手に入れることができる。だれであっても、自分の分け前を手に入れることができる。しかし、悲しいかな、こうした事がらへの需要はない。これらは、店晒しのまま、ほとんど見向きもされない。差し出しても受け取る者はいない。これが世の中である!

 しかし、その日が私たち全員に臨むときには、あらゆるものの価値が変換される。その日が来れば、銀行券はぼろくず同然の役にしか立たなくなり、黄金は地のちりのように無価値となる。その日が来れば、無数の人々が、かつては生きがいとしていたものを一顧だにせず、かつては蔑んでいた事がらしか熱望しなくなる。大広間や宮殿は忘れ去られ、「人の手によらない家」に対する熱望にとってかわられる。富者や貴人の恩顧はもはや思い出されず、王の王のご好意だけが切望される。絹や、繻子や、ビロードや、レースなどは、キリストの義の衣への渇望の前に全く顧みられなくなる。すべてが様変わりし、すべてが一変するのが主の再臨する大いなる日である。「はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのです」。

 一部の賢い人々の重みのある言葉によれば、「地獄とは手遅れになってから知った真理」である。今日信仰を告白する無数のキリスト者たちは、それを身をもって知るのではなかろうか。彼らが自分の魂の価値を見いだしたときには、あわれみを手に入れるには遅すぎ、彼らが福音の麗しさを知ったときには、そこから何の利益も引き出せないであろう。おゝ、手遅れにならぬうちに人々が賢くなれるように! 私はしばしば、箴言1章にあるこの言葉ほど恐ろしい聖書箇所はないと思う。----「わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、わたしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。それで、彼らは自分の行ないの実を食らい、自分のたくらみに飽きるであろう。」(箴1:24-31)。

 この論考を読む人々の中のある人は、信仰も、キリストの福音が求める行ないも、好んではいないであろう。あなたは、悔い改めて回心してほしいとあなたに懇願する私たちを極端すぎると考えている。この世を出て、十字架を負い、キリストに従うようあなたをせっつく私たちにはついて行けないと考えている。しかし注意するがいい。いつの日かあなたは私たちが正しかったことを告白するであろう。遅かれ早かれ、この世か来世かで、あなたは自分が間違っていたと認めるであろう。しかり! 福音の忠実な教役者にとっては思うも憂うつなことだが、自分の説教を聴いたすべての人々がいつの日か、「あなたの忠言は良いものだった」、と認めるであろう。地上では、彼の証言はあざけられ、蔑まれ、軽蔑され、無視されるかもしれないが、その日が来れば、真理が彼の側に立っていたことが完全に明らかになるであろう。私たちの説教を聴いて、なおかつこの世を神としている富者は、----私たちの説教を聴いて、自分の帳簿を自分の聖書とする商人は、----私たちの説教を聴いて、その土地の粘土のように冷たいままの農夫は、----私たちの説教を聴いて、自分の魂のために石よりも心に感ずるものがない労働者は、----みながみな、最後には、世の前で自分たちが間違っていたと認めるであろう。みなが最後には、私たちが今彼らの前にむなしく示している当のあわれみを熱心に求めるであろう。

 この論考を読む人々の中のある人は、主イエス・キリストを心から愛しているであろう。そのような人は、未来のことを思っても慰めを得ることができるであろう。あなたは、今はしばしばキリスト教信仰を持っているがゆえに迫害を受けている。あなたは、きつい言葉や意地悪なあてこすりに耐えなくてはならない。あなたの動機はしばしばねじまげて噂され、あなたの行動はしばしば中傷される。十字架の非難はやんではいない。しかしあなたは、未来を見越して主の再臨を思うとき勇気を出してよいであろう。その日がすべてを埋め合わせことになる。あなたは、今あなたが聖書を読み、祈り、キリストを愛するといってあなたを笑っている人々が、全く別の精神状態になるのを見るであろう。彼らが、あの愚かな娘たちが賢い娘たちに云ったように、あなたのもとに来るのを見るであろう。「油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです」(マタ25:8)。今は、カレブとヨシュアと同じくキリストに仕える道を悪く云わないからというのであなたを憎み、あなたを愚か者呼ばわりしている人々が、一変し、様変わりし、同じ人々とは思えなくなるのを見るであろう。彼らは云うであろう。「おゝ、私たちもあなたの仲間になっていさえしたなら! 本当に賢かったのはあなたの方で、私たちの方こそ愚かだった」、と。では、人々の非難を恐れてはならない。世の前で大胆にキリストを告白するがいい。あなたの旗幟を鮮明にし、自分の主人のことを恥じないようにするがいい。時は縮まっている。永遠が駆け足でやって来つつある。十字架はほんの一時、栄冠は永遠である。その冠については確実にしておき、何事も不確かなままにしておいてはならない。「はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのです」。

 さて今から少しばかり、別れの言葉として、この論考を読むあらゆる人の心に、この主題全体を適用させていただきたい。あなたは主イエスのことばの解き明かしを聞いてきた。あなたは救いの道の姿を見てきた。それは狭い門であった。----あなたは王の命令を聞いてきた。「努力して狭い門からはいりなさい」。----あなたは彼の厳粛な警告について語られてきた。「はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのです」。----そこで、もう少しだけ語りかけるのを許していただきたい。あなたの良心にこの全問題を印象づけさせていただきたい。私には、神に代わって云うべきことがまだあるのである。

 (1) 1つのこととして、私はあなたにごく簡単な質問をしたい。あなたは、この狭い門にはいっているだろうか、はいっていないだろうか? あなたが老いていようと若かろうと、富んでいようと貧しかろうと、英国国教徒であろうと非国教徒であろうと、私はこの質問を繰り返したい。あなたは、この狭い門にはいっているだろうか?

 私があなたに問いたいのは、この門について聞いたことがあるか、門があると信じているか、ということではない。この門を見たことがあるか、それを素晴らしいと思っているか、いつの日かその中にはいりたいと思っているか、ということではない。私が問うているのは、あなたがその前に立ち、戸を叩き、中にはいることを許され、今その中にはいっているか、ということである。

 もし中にはいっていないとしたら、あなたのキリスト教信仰に何のありがたみがあるだろうか? あなたは罪を赦されてもおらず、受け入れられてもいない。神と和解させられてもいない。新しく生まれも、きよめられも、天国に入るにふさわしくなってもいない。もし今のまま死ぬなら、悪魔はあなたを永遠に手に入れ、あなたの魂は永遠にみじめなままであろう。

 おゝ、考えよ、考えよ。これは何という生き様であろうか! 何にもまして考えよ、考えよ。これは何という死に様であろうか! あなたのいのちは、一体どのようなものか。霧にすぎない。せいぜい数年もすれば、あなたはいなくなっている。この世であなたの抜けた穴は、すぐに埋められる。あなたの家には別の人間が住むようになる。太陽は輝き続ける。あなたの墓はすぐに青草や雛菊で覆われる。あなたの肉体は虫たちのえさとなり、あなたの魂は永遠に失われるであろう。

 そして、その間ずっと、あなたの前には救いの門が大きく戸を開いたまま立っているのである。神はあなたを招いておられる。イエス・キリストはあなたを救おうと申し出ておられる。あなたを解放するための備えは万端整っている。ただ1つ足りないこと、それは、救われたいというあなたの気持ちである。

 おゝ、こうしたことを考えて、知恵を得よ!

 (2) 別のこととして私は、このせまい門の内側にまだいないすべての人々に、はっきり忠告したい。その忠告とは、一日も早くこれにはいるがいい。ただそれだけである。

 できるものなら教えてほしいが、この「狭い門」を通らずに天国に達した者などいるだろうか? 私はひとりも知らない。世界で最初に死んだアベルからこのかた、聖書に名前が記された最後のひとりに至るまで、キリストを信ずる信仰という道以外の方法で救われた者など、私にはひとりも見いだせない。

 できるものなら教えてほしいが、「努力」することもなしにこの狭い門にはいれた者などいるだろうか? 私の知る限り、早世した乳幼児以外に、ひとりもいない。天国を勝ちとりたい者は、この門を目ざして戦うことに不満をいだいてはならない。

 できるものなら教えてほしいが、はいろうとして熱心に努力した者のうち、それに成功しなかった者などいるだろうか? 私はひとりも知らない。私の信ずるところ、どれほど弱く無知であろうと、心からの誠意をもって、正しい扉の前でいのちを求めた者のうち、平和の答えを受けとらずに残された者は決していない。

 できるものなら教えてほしいが、この狭い門にはいった者のうち、後でそれを悔やんだ者などいるだろうか? 私はひとりも知らない。私の信ずるところ、その門の敷居につけられた足跡はみな、一方にだけ向かっている。だれしもキリストに仕える幸いを見いだし、決してキリストの十字架を負って後悔などしなかったのである。

 もしこうした事がらが真実だとしたら、ぐずぐずせずにキリストを求め、それがかなううちに、このいのちの門にはいるがいい! きょうのこの日、それを始めるがいい。あのあわれみ深く力強い救い主のもとに祈りによっておもむき、あなたの心を御前に注ぎ出すがいい。彼に向かってあなたの咎と邪悪さと罪を告白するがいい。彼に何もかも打ち明けるがいい。何も包み隠してはならない。彼に向かって、私は自分と自分の魂に関することを何もかも御手にゆだねます、と告げ、どうか御約束に従って私をお救いください、御聖霊を私に宿らせてください、と願うがいい。

 そうするようあなたを励ますものには何の不足もない。あなたと同じくらい悪人であった無数の人々が、この道を通ってキリストに懇願してきたが、その中で追い返されたり拒まれたりした者はひとりもいない。彼らは、それまで夢にも思わなかったほどの良心の平安を見いだし、喜びながら進んで行った。彼らは人生のあらゆる試練に立ち向かえる力を見いだし、そのうち荒野で滅びるにまかされた者はひとりもない。では、なぜあなたがキリストを求めて悪いことがあろうか?

 私があなたにするよう告げていることをただちに行なうようあなたを励ますものには何の不足もない。あなたの悔い改めと回心が、あなたに先立つ他の人々と同じくらい即座になされてならない理由は何1つ見あたらない。あのサマリヤの女は、無知な罪人として井戸にやって来たが、新しく造られた者として家に帰っていった。あのピリピの看守は、一日で暗闇から光へと向かわされ、公然たるキリストの弟子となった。では、なぜ他の者らも同じようにしてならないわけがあろうか? なぜあなたがきょうのこの日、あなたの罪を捨ててはならず、キリストをつかみとってはならないのだろうか?

 私があなたに与えている忠告は良いものである。そう私は知っている。ただ、大きな問題は、あなたはそれに従うか? ということである。

 (3) 最後に云わなくてはならないのは、この狭い門に本当にはいっているあらゆる人々に対する要請である。それは、あなたが見いだした祝福のことを他の人々にも告げてほしい、ということである。

 私は、回心した人はみな宣教師となってほしいと思う。全員が外国に出かけて、異教徒に向かって説教してほしいとは思わないが、全員が宣教師精神をいだいて、国内で善をなすよう努力するようになってほしいと切に願う。自分たちの周囲のあらゆる人々に向かって、この狭い門こそ幸福への道であると証しし、そのようにして彼らを説得し、これにはいらせてほしいと思う。

 アンドレは回心したとき、その兄弟のシモン・ペテロを見つけて、「『私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。』と言った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た」(ヨハ1:41、42)。ピリポは回心したとき、ナタナエルを見つけて、彼に云った。「『私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。』ナタナエルは彼に言った。『ナザレから何の良いものが出るだろう。』ピリポは言った。『来て、そして、見なさい。』」(ヨハ1:45、46)。あのサマリヤの女は回心したとき、「自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。『来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。』」(ヨハ4:28、29)。パリサイ人サウロは回心したとき、「ただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた」(使9:20)。 私が切に願うのは、このような種類の精神が今日のキリスト者たちちの間に行き渡ることである。この狭い門の素晴らしさをまだ外側にいるすべての人々に推奨しようとする、より大きな熱情、中にはいって救われるよう彼らを説得しようとする、より大きな願望を見たいと思う。真に幸いな教会とは、その教会員が自ら天国に達することを願うだけでなく、他の人々をも自分たちと一緒に連れていきたいと願っている教会である!

 この大いなる救いの門は、まだその扉を大きく開いているが、それが永遠に閉ざされる時が近づきつつある。昼の間にわざを行なおうではないか。「だれも働くことのできない夜が来」るからである(ヨハ9:4)。自分の親族友人に告げようではないか。私たちはいのちの道をためしてみみたが、それは喜ばしかった、いのちのパンを味わってみたが、それは美味しかった、と。

 聞いた話によると、世界中の信者か毎年ひとりの人をキリストに導けば、全人類が二十年たらずで回心する勘定だという。私はそうした計算については何も言及すまい。だが、そうしたことが可能かどうかにかかわりなく、1つのことだけは確かである。それは、もしキリスト者たちが善をなすことにより熱心になるなら、おそらくは、より多くの魂が神に回心するだろう、ということである。

 少なくともこのことは覚えていてよい。神は、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」(IIペテ3:9)。この狭い門を隣人に示そうと努力する者は、神がよしとされるわざを行なっているのである。その人が行なっているわざは、御使いたちが興味深く眺めているわざ、ピラミッドの建設すらくらべものにならないほど重要なわざである。聖書は何と云っていただろうか? 「罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおう」のである(ヤコ5:20)。

 私たちはみな、この件における自分の責任をより痛切に感じるよう目を覚まそうではないか。私たちは、自分が生活する中で身の回りにいる人々を見渡し、神の前における彼らの状態を考えようではないか。彼らの多くはまだこの門の外側にいて、赦されも、きよめられも、死ぬ備えができてもいないのではなかろうか? 彼らに語りかける機会がないか注意していよう。彼らにこの狭い門のことを告げて、「努力してはいる」ように懇願しよう。

 「時宜にかなったことば」に何ができるかだれに知り得よう? 信仰と祈りによって語られるとき、それに何ができるかだれに知り得よう? それは、ある人にとって生涯の展開点となるかもしれない。人が思いを巡らし、祈りをささげ、永遠のいのちに至る発端となるかもしれない。おゝ、信仰者の間に、より多くの愛と大胆さが生まれるように! 考えてみよ、人を回心に至らせる言葉を一言でも語れることの、何たる祝福であることかを!

 私は、このページを読んでいる人が、この主題について今どのように感じているか知らない。だが私の心の願いと祈りは、あなたが日々キリストのこの厳粛なことばを思い出すことである。----「はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのです」。このことばを思いに留めつつ、他の人々の魂に関して無頓着でいられるものなら、そうしてみるがいい。

自己奮励[了]

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