Self-Inquiry         目次 | BACK | NEXT

1. 自己省察


「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか」 ----使15:36

 このページの冒頭に掲げた聖句は、使徒パウロが、その第一次伝道旅行の後でバルナバに申し出た言葉である。彼が提案したのは、彼らが設立に携わった諸教会を再び訪問し、人々がどうしているか見て来ようということであった。その教会員たちは信仰に堅く立ち続けているだろうか? 恵みにおいて成長しているだろうか? 前進しているだろうか、停滞しているだろうか? 力を増し加えつつあるだろうか、衰えつつあるだろうか? ----「兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか」。

 これは、現実に即した賢明な提案であった。私たちもこの言葉を心にとめて、19世紀に生きる自分に適用してみようではないか。今の生き方を探り、自分が神とどのような関係にあるか確認してみよう。自分が「どうしているか見てみよう」。私は、本書を読み進めようとしているすべての方々には、その皮切りとして、私とともに自分を省みることをしていただきたいと思う。もしキリスト教信仰について自己省察が必要な時代があるとすれば、それは現代である。

 私たちが生きているのは、独特の霊的特権の時代である。世界が始まって以来、現在の英国ほど、魂の救われる機会がふんだんに与えられていた所はない。この国の歴史を見ても、これほど多くのキリスト教信仰のしるしがあふれ、これほど多くの説教がなされ、これほど多くの礼拝が教会や会堂で行なわれ、これほど多くの聖書が販売され、これほど多くの信仰書やトラクトが印刷され、これほど多くの伝道団体が支援され、これほど大きな敬意が(見かけだけとしても)キリスト教に対して払われていたことはない。百年前なら不可能と思われたようなことが、最近では至るところでなされている。主教たちは、未回心の大衆に福音を届けようとする努力でありさえすれば、どれほど大胆で過激な計画にも支持を拒まない。聖堂参事会長や主教座聖堂参事会が、夕拝説教のために大聖堂の身廊を解放している! 厳格きわまりない高教会派の聖職者たちが特別伝道を唱道し、福音派の兄弟たちの向こうを張って、「人は日曜礼拝に出席しているだけでは天国に行けない」、と声を大にして云っている。つまり、現代は、英国の国家創設以来いまだかつてないほどキリスト教信仰に対する関心が高まっている時代だということであり、これは、どれほど小賢しい懐疑論者や無信仰者にすら否定できない。もしロウメインや、ヴェンや、ベリッジや、ロウランズや、グリムショーや、ハーヴェイが、彼らの死後一世紀ほどでこのようなことが起こるだろうと告げられたなら、あのサマリヤの貴人と同じく、こう云いたい気分にかられたであろう。----「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」、と(II列7:19)。しかし主は天の窓を開かれた。現在の英国では、一週間のうちに、真の福音について教えられる人の数、イエス・キリストへの信仰による救いの道について教えられる人の数が、ロウメインの時代の一年間に教えられる人の数を上回っているのである。私たちは現在、画期的な霊的特権の時代に生きていると云っても決して過言ではない。しかし、だからといって私たちはその分向上しているだろうか? このような時代にあって、「私たちは自分の魂についてどうしているか」、と問うのは良いことである。

 私たちが生きているのは、独特の霊的危険の時代である。世界が始まって以来、ことによると現代ほど、見せかけだけの信仰告白が氾濫していた時代はなかったかもしれない。わが国の教会に集っている会衆のうち、うんざりするほど大きな割合を占めているのが未回心の人々である。そうした人々は心底からキリスト教を信ずるということを全然知らず、決して聖餐式に集いも、生活の中でキリストを告白しもしない。説教者たちを追いかけ回し、特別説教を聞くためなら群れをなして集まる人々は、その大多数が空っぽの桶か、うるさいシンバルにすぎず、実生活を見ると、これっぽっちも真に生きたキリスト教を有してはいない*1。種蒔く人のたとえが示している真理は、いやというほど現実の姿を見せつけている。どこを見ても、道ばたのような聴衆、岩地のような聴衆、いばらの中のような聴衆だらけである。

 今の時代、キリスト教信仰を告白する多くの人々が行なっているのは、霊的な酒類常飲でしかないのではなかろうか。彼らは常に、目新しい宗教的興奮を病的なほどこがれ求めており、それさえ手に入れば、その実質については、ほとんど気にもとめないように見える。どんな説教も彼らには同じように聞こえるらしい。彼らは、群衆でごった返した大会に集い、才気煥発で耳を楽しませる説教を聞かされている限りは、「違いを見分ける」ことができないようである。何より悪いことに、おびただしい数の若く未熟な信仰者たちが、これと同様の刺激的な興奮ばかり求める傾向に伝染し、そうしたものを常に追い求めることがキリスト者の義務であるなどと考え出しているのである。ほとんど無意識のうちに彼らは、神経症めいた、扇情的で、感傷的なキリスト教に入れ込み、しまいには「昔からの通り道」には到底満足できなくなり、アテネ人のように絶えず新奇なものに熱中するようになる。どの青年信徒たちの集まりを見渡しても、そこにいるのは生意気で、自信満々で、うぬぼれきった、人から学ぶより人を教えてやろうとしがちな者ばかりで、穏やかな心持ちの、キリストの似姿に成長しようと日々堅実に努力する者、家庭内でキリストのわざを静かに、ひけらかすことなく行なっている者を見かけることなど、皆無に近い! 悲しいかな、あまりにも多くの若い信仰告白者たちは、下賜金を使いきる前の新兵たちのようにふるまっている。彼らがいかに底が浅く、いかに自分の心を知らない者であるかを如実に示しているのが、そのけたたましく、でしゃばりで、ちょっとしたことにもすぐ食ってかかり、年輩のキリスト者たちをこきおろし、自分だけは健全で賢明であると夢想してふんぞりかえる態度である! この時代の若い信仰告白者たちが、しばらくの間、右へ左へ「教えの風に吹き回され」たあげくに、どこかのけちで狭量で非難がましい分派に加入するか、何かばかげた無分別で偏屈な異端を奉ずるかしないですめば、もっけの幸いであろう。確かにこのような時代には、自己吟味の大きな必要がある。私たちは周囲を見回すとき、こう問うてしかるべきであろう。「私たちは自分の魂についてどうしているだろうか」、と。

 この質問を扱う最も手っ取り早い方法は、自分を省みるべきいくつかの項目を列挙して、それを順々に考察していくことであろう。そうすれば、この本を手にとるであろうあらゆる人が、その人なりの問題を考えられるようになると思う。この論考を読むすべての方に私は云いたい。どうかほんの数分だけ、私とともに心静めて、深く自分を吟味していただきたい。私はあなたがたに敵としてではなく、友として近づきたいと思う。「私が心の望みとし、またあなたがたのために神に願い求めているのは、あなたがたの救われることです」*(ロマ10:1)。もし私が耳の痛い厳しいことを云うとしても、堪忍していただきたい。嘘ではない。最良の友とは、最も真実を告げる者のことなのである。

 (1) まず最初に問いたいのは、そもそも私たちは自分の魂について思い巡らすことがあるだろうか、ということである。英国に住むおびただしい数の人々は、この質問に満足な答えを返せないのではなかろうか。彼らは、宗教という問題にかかわることは、これっぽっちも心の思いに上せようとはしない。一年の最初から最後まで、彼らは仕事や、娯楽や、政治や、金銭や、何らかのほしいままな快楽にふけっている。死や、審きや、永遠や、天国や、来たるべき世のことを冷静に考えたり、考察したりすることは決してない。彼らが営々と暮らし続けているようすは、まるで自分が絶対に死ぬことも、復活することも、神の法廷に立つことも、永遠の宣告を受けることもないかのようである! 彼らは公然とキリスト教に反対しはしない。そうするに足るだけの、キリスト教についての意見などないからである。----しかし彼らは、あたかもキリスト教が虚構の絵空事ででもあるかのように食べたり、飲んだり、眠ったり、金儲けしたり、金使いしたりしている。彼らはローマ・カトリック教徒でも、ソッツィーニ主義者でも、不信者でもなく、高教会派でも、低教会派でも、広教会派でもない。彼らはただの無宗教派であり、わざわざ自分の意見など持とうとしないのである。これほど無分別で筋の通らない生き方は考えつくこともできないが、彼らに筋を通そうという気など全くない。神のことをちらりとでも考えるのは、病気や、家族の死や、事故に遭って神妙な気分になるわずかな瞬間だけである。そうした例外的な時期以外の彼らは、この世のことしか考えるには値しないと云わんばかりに、キリスト教信仰のことなど完全に無視したまま、落ちつき払い、心乱すことなく、わが道を歩み続けるのである。

 不滅の魂を持つ被造物にとって、いま私が描写したような生き方ほどふさわしくない生き方は、想像するのも困難である。それは、人間がけだもの同然になりさがる生き方にほかならない。しかし、これは文字通り真実に、英国中のおびただしい数の人々が送っている生活であって、彼らが世を去ると、その穴はやはり彼らと同様のおびただしい数の人々によって埋められつつあるのである。これは、ぞっとするほど痛ましく、胸を悪くするような光景に違いない。しかし不幸にしてこれは、まぎれもない真実なのである。あらゆる大都市、あらゆる市場、あらゆる証券取引所、あらゆるクラブにおいて、この種の人々は群れをなしている。----天の下にあるあらゆることについて考えを巡らしながら、どうしても必要なただ1つのこと----自分の魂の救い----についてだけは考えない人々である。古のユダヤ人たちと同じく彼らは、自分たちの「現状をよく考えない」。「自分の終わりもわきまえない」。「自分たちが悪を行なっていることを知らない」。(イザ1:3; ハガ1:7; 申32:29;伝5:1)。ガリオのように彼らは、「そのようなことは少しも気にしなかった」(使18:17)。もし彼らがこの世で富み栄え、金持ちになり、仕事で成功すれば、同輩たちから称賛され、もてはやされる。英国では、成功ほど大きな成功はない! しかしこうしたすべてにもかかわらず、彼らは永遠に生きてはいられない。やがて死んで神の法廷に立ち、審かれなくてはならなくなる。では、その結末はどうなるだろうか? この種の人々がわが国に大挙して存在しているこの時代に、私がこのページを読む方々に向かって、あなたはそうした類の人かと尋ねたとしても無理はなかろう。もしそうだと云うなら、あなたは二世紀前に疫病患者を出した家に貼られたようなしるしを玄関先につけておかなくてはならない。そして、そこには「主よ。われらをあわれみたまえ」、という言葉を記しておかなくてはならない。私がいま描写したような人々の姿を眺めてから、自分自身の魂を眺めてみるがいい。

 (2) 第二に問いたいのは、果たして私たちは、自分の魂のために何か具体的な行動をとっているだろうか、ということである。英国には、時たまはキリスト教信仰について考えないでもない、おびただしい数の人々がいる。しかし不幸にして彼らは、決して考える以上のことをしない。心を沸き立たせるような説教の後で、----あるいはだれかの葬式の後で、----あるいは重い病床に伏したときに、----あるいは日曜日の晩に、----あるいは家庭内で何らかの問題が悪化していくときに、----あるいはどこかのキリスト者の輝かしい模範に接するときに、----あるいは心を打つような信仰書か小冊子をふと手にしたときに、----そうしたときには彼らは、大いに考えを巡らし、漠然とではあるがキリスト教について口にすることすらある。しかし彼らはそこで急停止する。あたかも、考えたり語ったりしていさえすれば救われるかのように。彼らは年がら年中、今度からは本気になろう、真面目にやろう、決心しよう、決意を固めよう、ぜひともそうすることにしよう、ということだけで終始し、私たちに向かって、自分は何が正しいか「わかって」います、最後にはちゃんとしたいと「思って」います、と云うが、決していかなる「行動」も起こすことがない。現実にこの世と罪に仕える道から足を洗うことは全くなく、現実に十字架を負ってキリストに従うことは全くなく、信じていますと云うキリスト教において何か積極的な行ないをすることは全くない。彼らの人生は、私たちの主がたとえ話で語られた、あの兄息子の生き様をなぞることに費やされている。その息子のところに父親は来て、「『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった」のである(マタ21:28、29)。彼らはあのエゼキエルによって描写された人々のようである。その人々はエゼキエルの説教は好んだが、彼が説教したことは決して実行しなかった。----「彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。……あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない」(エゼ33:31、32)。このように、聞いたり考えたりするだけで行ないの伴わない時代に、私が人々に向かって自己吟味の絶対的な必要を強調するとしても、これをいぶかしく思う人はまずいないであろう。では、私はこのページを読む方々にもう一度この聖句の問いを考えてみるように願いたい。----「私たちは自分の魂についてどうしているだろうか」、と。

 (3) 第三に問いたいのは、私たちは自分の良心を、単なる形式的キリスト教で満足させようとしてはいないだろうか、ということである。現在この瞬間にも英国には、この岩に乗り上げて破船の憂き目にあっている無数の人々がいる。古のパリサイ人たちのように彼らは、キリスト教の外面的な部分については大騒ぎしながら、内面的で霊的な部分については全く等閑に付している。彼らは、自分の所属教会で行なわれる礼拝式には欠かさず几帳面に出席し、規則正しくその慣例や儀式に従っている。彼らは主の晩餐が執行される聖餐礼拝には絶対に欠席しない。中には、四旬節の苦行を厳密に守ったり、聖人記念日を非常に重んずる人々もいる。にもかかわらず、そうする間にも彼らのキリスト教信仰には、全くがこもっていない。彼らを親しく知っている者ならだれでも、彼らの感情が地上のものに向けられていて、上にあるものに向けられてはいないこと、また彼らが内面的なキリスト教の不足を、圧倒的な量の外面的な形式で埋め合わせようとしていることが、半分目をつぶっていても分かるであろう。そしてこの形式的なキリスト教信仰は、彼らに何の真の益ももたらしていない。彼らは満たされていない。外面的な物事を第一にするという間違った所から始めているため、内なる喜びや平安については何も知らず、心ひそかに何かが間違っているのではないかと感じながらも、なぜそうなのかはわからないまま、絶えざる葛藤のうちに一生を送るのである。むろんそれは、形式偏重の度合いをどんどん深め、ついには致命的な一歩を踏み出して、ローマカトリック教へと落ち込まなければの話だが! 信仰を告白する、こうした種類のキリスト者たちがこれほど巷にあふれているというときに私が、精密な自己吟味のこの上もない重要性を人に強調したとしても、驚くことは何もないであろう。もしあなたがいのちを大切に思うというなら、キリスト教信仰の外殻や見かけや枠組みだけで満足していてはならない。私たちの救い主が、その当時の形式偏重主義者たちについてお語りになったことばを思い起こすがいい。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである」(マタ15:9)。魂を天国に至らせるには、教会に熱心に通ったり、主の晩餐にあずかる以上の何かが必要である。恵みの手段や、キリスト教信仰の形式は、それなりに有益なものではあり、神がそうしたものなしにご自分の教会への働きかけをなさることはめったにない。しかし私たちは、港への水路をはっきり示すために建てられた当の灯台そのものに激突して難破するようなことがないように警戒しようではないか。もう一度私は尋ねたい。「私たちは自分の魂についてどうしているだろうか」。

 (4) 第四に問いたいのは、私たちは自分の罪の赦しを受けているだろうか、ということである。道理をわきまえた英国人なら、ほとんどの人は自分が罪人であることを否定しようなどとは思うまい。ことによると多くの人々は、自分は多くの他の人ほど悪い人間ではない、それほど極端に悪の限りを尽くしてきたわけではない、というようなことを云うかもしれない。しかし、繰り返して云うが、ほとんどの人は自分が天使のような生き方を常にしてきたとか、これまで一生の間、一度も悪いことを行なったり、口にしたり、考えたりしたことがないとか云おうとは思わないであろう。つまり、私たちはみな、自分が多かれ少なかれ「罪人」であること、罪人として、神の前に有罪であることを告白せざるをえないのである。そして、有罪であるからには、私たちは赦しを受けなくてはならない。さもないと、最後の審判の日に、永遠の滅びへと断罪されるしかないのである。----さてキリスト教信仰の栄光たる事実は、それがまさに私たちが必要とする赦しを提供している----十分にして、無代価で、完全にして、永遠で、完璧な赦しを与えてくれる----ということである。これこそ、ほとんどの英国人が幼少期に学ぶ有名な信仰信条の主立った項目の1つである。私たちは、「われは罪の赦しを信ず」、と唱えさせられるのである。この罪の赦しを私たちのために獲得してくださったのは、永遠の神の御子、私たちの主イエス・キリストにほかならない。主はそれを私たちのため獲得するため世に来られ、私たちの救い主となられ、私たちの代理者として、私たちの身代わりに生き、死に、よみがえられた。主はそれを私たちのために買い取る代価としてご自分の最も尊い血潮を流し、私たちに代わって十字架上で苦しみを受け、私たちのもろもろの罪の償いをしてくださった。しかしこの赦しは、いかに偉大で十分で栄光あるものではあっても、自動的にあらゆる人々の所有になるわけではない。これは、単に英国国教会に所属しているからといって、あらゆる教会員があずかれる特権ではない。これは個々の人が自分の個人的な信仰によって自分のものとして受けとり、信仰によってつかみとり、信仰によって所有し、信仰によってわがものとしなくてはならないものなのである。さもないと、少なくともその人に関する限り、キリストは無駄死にしたことになるであろう。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子を信じない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハ3:36 <英欽定訳>)。これよりも単純で、人間にとってふさわしい条件は想像することもできない。善良な老ラティマーが義認について語る際に云ったように、「これは信じて自分のものにする、ただそれだけのこと」である。求められているのは信仰しかない。そして信仰とは、救われたいと願う魂が、へりくだって、心の底から信頼すること以上の何物でもない。。イエスは救うことができ、それを望んでおられる。信ずる者はみなすぐさま義と認められ、赦される。しかし信ずることがなければ、そこには何の赦しも全くない。

 さてこの点こそ、おびただしい数の英国の人々が失敗している点であり、永遠の滅びへと陥る切迫した危険にさらされている点ではなかろうか。彼らはキリスト・イエスによる以外に罪の赦しはないことを知っている。罪人のための唯一の救い主、贖い主、仲保者は、処女マリヤから生まれたお方、ポンテオ・ピラトのもとで十字架刑に処せられ、死んで、葬られたお方以外にないと告白することもできる。しかし、そこで彼らはとどまってしまい、その先へは全く進まない! 彼らは、決して信仰によって現実にキリストをつかむところまで行かず、キリストと1つになり、キリストが彼らのうちにおられる状態に達することがない。彼らは、キリストは救い主であると云うことはできても、「私の救い主です」、と云うことはできない。----贖い主であるとは云えても、「私の贖い主です」、とは云えない。----祭司であるとは云えても、「私の祭司です」、とは云えない。----弁護者であるとは云えても、「私を弁護してくださる方です」、とは云えない。そしてそのように彼らは、赦しを得ることのないまま生き、死んでいくのである! マルチン・ルターがこう語ったのも無理はない。「多くの人々が滅びていくのは、所有代名詞を使えないからである」。多くの人々がこのような状態にあるこの時代に、私が人々に罪の赦しを得ているかどうか尋ねたとしても不思議はないであろう。ある著名なキリスト者の婦人が、老年になってからこう云ったことがある。----「私の魂の中に永遠のいのちが生ずるきっかけとなったのは、ひとりの老紳士との会話でした。その方は、私がほんの小さな女の子だった頃に私の父を訪ねてこられた方でしたが、ある日私の手をとって云いました。『お嬢さん、わしの命はそろそろ終わりに近いが、あなたはたぶんわしが世を去ってからも何年も何年も生き続けるでしょう。しかし、2つのことだけは忘れてはいけませんぞ。1つは、わしらは生きているうちから自分の罪を赦されることができるということ。もう1つは、わしらは自分が赦されたことがわかり、それを感ずることができるということです』。私は、この方の言葉を決して忘れなかったことを神に感謝します」。----私たちはどうだろうか? 私たちは、祈祷書が云うように、自分が赦されたことが「わかり、感じられる」まで、安心しないようにしようではないか。もう一度尋ねさせていただきたい。----罪の赦しという件について、「私たちはどうしているだろうか?」

 (5) 第五に問いたいのは、私たちは神への回心ということを体験的に知っているだろうか、ということである。回心がなければ決して救われることはない。「あなたがたも回心して子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」*。----「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。----「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」。----「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(マタ18:3 <欄外訳参照>; ヨハ3:3; ロマ8:9; IIコリ5:17)。生まれながらの私たちはみな、あまりにも弱く、あまりにもこの世的で、あまりにも地上のことに心を向け、あまりにも罪に傾いているため、徹底的な変化を経ない限り、生きているうちは神に仕えることができず、死んだ後は神を喜ぶことができない。あひるが卵から孵るや否や、喜んで水に飛び込んでいくように、子どもたちは何かできるようになるが早いか、わがままや嘘、ずるさを身につける。そしてだれひとり例外なく、祈ったり神を愛したりするには人から教えてもらわなくてはならない。身分の高低、貧富の差、裕福な家庭に育つか、みすぼらしい家で生まれるかにかかわりなく、私たち全員が必要としているのは完全な変化である。----聖霊がその特別な職務として私たちにお与えになる変化である。それが何という名前で呼ばれようと----新しく生まれること、新生、更新、新しく造られること、生かされること、悔い改め、など、どのように呼ばれようと----、救われたければ、それを持たなくてはならない。そしてもしそれがあるなら、それは見えるものなのである。

 罪を感じそれを深く憎むこと、キリストに対する信仰とキリストへの愛、聖潔を喜びそれをさらに希求すること、神の民を愛し、この世の物事に嫌気を覚えること、----これらが、これらこそが、回心につきもののしるしであり証拠である。私たちの周囲の無数の人々は、このことについて何も知らないのではないか。彼らは、聖書の言葉を使えば、死んでおり、眠っており、盲目で、神の国にふさわしくない。ことによると彼らは、年々歳々、使徒信条の「われは聖霊を信ず」という言葉を唱えているかもしれない。しかし彼らは、内なる人を変化させる聖霊のお働きについては全く無知なのである。時として彼らは、自分はバプテスマを受け、教会に通い、聖餐式にあずかっているのだから新しく生まれているはずだという思いで悦に入ることがある。聖ヨハネがその第一の手紙に書き記したような新生のしるしを完全に欠いているにもかかわらず。だが、こうした状況にもかかわらず、聖書の言葉ははっきりしており、取り違えようがない。----「あなたがたも回心し……ない限り、決して天の御国には、はいれません」*(マタ18:3 <欄外訳参照>)。このような時代に私が回心の問題を人々の魂に向かって強調するとしても、このページを読む方々は驚くにはあたるまい。疑いもなく、現代のように宗教的興奮に満ちた時代には、多くのまがいものの回心がまかりとおっている。しかし悪貨は良貨が存在しないという証拠にはならない。否、むしろそれは、価値のある、それゆえ模造に値する何らかの貨幣が流通しているしるしである。偽善者や似非キリスト者たちは、人々の間に真の恵みというものがあるという間接的な証拠なのである。それでは私たちは自分の心を探って、自分がどのような者であるかを調べてみようではないか。もう一度尋ねさせていただきたい。回心という件について、「私たちはどうしているだろうか」。

 (6) 第六に問いたいのは、私たちはキリスト者の実際的な聖潔について何か知っているだろうか、ということである。聖書の中に記されたいかなることにも劣らず確かなことだが、「聖くなければ、だれも主を見ることができません」(ヘブ12:14)。それと同等に確かなことは、これが救いに至る信仰の不変の実りであり、新生の真の試金石であり、内住の恵みの唯一健全な証拠であり、キリストと生きて結びつくことから生ずる確実な結果だということである。----聖潔とは、絶対的な完全やあらゆる欠点から解放されることではない。そのような類のものでは決してない! 一部の人々が語るような、何箇月もの間、「途切れることなき神のと交わり」を楽しむといったような乱暴な言葉づかいは、大いに非難されるべきである。なぜならそれは、非聖書的な期待を若い信仰者の思いのうちにかき立て、そのことによって害を加えるからである。絶対的な完全は天国のためのものであって、地上のためのものではない。地上における私たちには、弱い肉体と、邪悪な世界と、私たちの魂につきまとい、うるさく責めたてる悪魔が伴っている。また真のキリスト者の聖潔は決して、絶えざる戦いと争闘なしに到達されたり支え続けられたりするようなものではない。だが現在、巷間に流布している教えは、「私は戦い、……労苦し、……自分のからだを打ちたたいて従わせます」*(Iコリ9:27)、と語ったかの偉大な使徒を仰天させるようなことである。それは、個人的奮起の伴わない聖化であり、信仰者はただじっとしているだけで、すべては彼らのために自動的に整えられる、というのである!

 それにもかかわらず聖潔は、確かに最良の聖徒のそれすら微弱で不完全なものではあっても、現実に真実に存在するものであって、光や塩のように取り違えようのない性格を帯びている。それは騒々しい告白とともに始まり、そこに終わるものではない。それは耳で聞かされる以上に、はるかに目で見えるものであろう。純粋な、聖書的な聖潔は人をしてその家庭や炉端における義務を果たさせ、日常生活の細々とした試練においてその信仰の教えを飾らせるであろう。積極的な恵みばかりでなく、受け身的な種々の恵みをも表わすであろう。人をへりくだりに満ちた、親切な、優しくて、他人のことを考え、気立てがよく、思いやり深くて、愛想良く、柔和で、寛容な人とするであろう。それは人を無理矢理この世から出て行かせ、隠者のように洞窟に閉じこもらせたりしない。むしろそれは人を、神によって召された状態のまま、キリスト者としての原理に従って、またキリストの模範にならって、自分の義務を果たさせる。こうした聖潔は、私もよく知るように、ありふれたものではない。こうした実際的キリスト教のあり方は、今日では痛ましいほどまれなものとなっている。しかし私は、それ以外のいかなる聖潔の基準も神のみことばの中に見いだせない。----これ以外の何も、私たちの主とその使徒たちによって描き出されたキリスト教のありさまの中には見いだせない。このような時代に、やはり私がこの主題に注意を払うよう強調したとしても、このページを読むいかなる方々も不思議には思うまい。もう一度尋ねさせていただきたい。----聖潔という件について、私たちの魂はどうであろうか? 「私たちはどうしているだろうか」。

 (7) 第七に問いたいのは、私たちは恵みの手段を楽しむことを少しでも知っているだろうか、ということである。恵みの手段と云うとき私が念頭に置いているのは、主として5つのこと、すなわち、----聖書を読むこと、密室の祈り、公の礼拝、主の晩餐の礼典、そして主の日の安息、である。これらは、神が恵み深くも定めてくださった手段であって、聖霊によって人の心に恵みを伝えるためのもの、あるいは霊的生活が始まった後でそれを支え続けるためのものである。世界が存続する限り、人の魂の状態は常に、その人が恵みの手段をいかに、またどのような精神で用いるかによって大きく左右されるであろう。いかに、またどのような精神で、という表現を私は、あえて意識的に用いた。多くの英国人は恵みの手段を規則的に、また形式的に用いているはいるものの、それらを楽しむことについては全く知らない。彼らは義務としてそれらに身を入れるが、これっぽっちの感動も、関心も、愛情も持ち合わせていない。しかしながら、常識的に考えてさえ、聖なる物事をこのように形式的で機械的に用いることが全くの無価値で無益であることはわかるであろう。こうした物事について私たちが感動するか否かは、私たちの魂の状態を示す数ある試金石の1つにほかならない。一体いかにして、神を愛しているはずの人間が、神や神のキリストについて読むことを単なる義務として行ない、しおりを何章か前に進めるだけで満足しているなどということがありえようか?---- 一体いかにして、キリストに会う備えができているという人間が、密室で友なるキリストに自分の心を打ち明けることを面倒くさいと考えて行なわなかったり、毎朝毎晩一連のお題目を「祈り」という名のもとで繰り返し唱えるだけで満足し、その間、心ここにあらずなどということがありえようか?---- 一体いかにして、永遠に天国で幸福になるはずの人間が、日曜日を退屈だとか憂鬱だとか飽き飽きするなどと考え、----心からの祈りや賛美について何も知らず、講壇から聞かされるのが真理か偽りかの見分けもつかず、あるいはほとんど説教を聞いていない、などということがありえようか?---- 一体いかにして、まともな霊的状態をした人が、十字架上のキリストの死や罪の贖いを特に思い起こさせるパンと葡萄酒にあずかっても、全く「心がうちに燃える」ことがないなどということがありえようか? こうした問いかけは非常に真剣な、また重大なものである。かりに恵みの手段に現実的な効力がほとんどなく、人を天国に引き上げる助けにはほとんどならないものだったとしても、少なくともそれは、神の目から見た私たちの真の状態の試金石となるという点では役に立ったに違いない。ある人が聖書を読むことや、祈ること、また日曜日の過ごし方や、公の礼拝、主の晩餐についてどのようにふるまっているかさえわかれば、その人がいかなる人か、またいかなる道を歩んでいるかはたちどころに明らかになる。私たちについてはどうだろうか? もう一度尋ねさせていただきたい。----恵みの手段という問題について、「私たちはどうしているだろうか」。

 (8) 第八に問いたいのは、私たちは世において何らかの善をなそうとしているだろうか、ということである。私たちの主イエス・キリストは地上におられた間、絶えず「巡り歩いて良いわざをなし」ておられた(使10:38)。使徒たち、そして聖書の時代のあらゆる弟子たちは、常にこのキリストの御足の跡を歩こうと努力していた。自分だけ天国に行ければいいのだ、他の人々がどうなろうと----幸福のうちに生き平安のうちに死のうが、そうでなかろうが----かまったことではない、などと考えるキリスト者がいたとしたら、その人は原始時代の怪物か何かででもあるかのようにみなされ、キリストの御霊を持たない者と思われたであろう。では、なぜ私たちは、現在は、より低い水準で十分だなどと一瞬たりとも考えられるのだろうか? なぜ私たちは、現在は、実を結ばないいちじくの木が容赦されるなどと考えられるのだろうか? 私たちの主の時代にそうした木々は「土地ふさぎ」*であるとして切り倒されなくてはならなかったというのに(ルカ13:7)。これらは真剣な問いかけであり、真剣な答えが求められるものである。

 近年の、信仰を告白するキリスト者たちの世代は、自分の隣人に対する配慮を全く知らないように思える。彼らの関心事はことごとく自分のことだけ、----すなわち、自分と自分の家族のことだけで終始している。彼らは年々歳々、食べたり、飲んだり、眠ったり、服を着たり、働いたり、金をかせいだり、費やしたりしている。そして他人が幸せであろうが惨めであろうが、健康であろうが病んでいようが、回心していようが未回心であろうが、天国へ向かって旅をしてしようが地獄へ向かって旅をしていようが、そうしたことには完全な無関心を決め込んでいられるように見える。これが正しいことだろうか? これが良きサマリヤ人のたとえ話をお語りになり、「行って同じようにしなさい」(ルカ10:37)、とお命じになったお方を信ずる宗教に不似合いな態度でないと云えるだろうか? 私は全く疑わしいと思う。

 なさなくてはならないことは、あらゆる方面で山ほどある。英国中どこを探しても、何の働きの場もないとか、用いられたいと願う人を迎え入れようとする扉が1つも開かれていないとかいうような場所はただの一箇所もない。英国中どのキリスト者について調べてみても、その気さえあれば他者に対する何らかの良い働きを行なえないような人はひとりもいない。他人に施す金など1ペニーも持ち合わせていない極貧の人々でさえ、いつでも病める人や悲しむ人に対して深い同情心を示すことができるし、素朴な気立ての良さや優しい助けの手を差し出すことによって、この悩みの世にあるだれかしらの惨めさを減じ、慰めを増すことはできる。しかし悲しいかな、信仰を告白するキリスト者の大多数は、富者であれ貧者であれ、国教徒であれ非国教徒であれ、憎むべき自己中心という悪魔にとりつかれているらしく、善を施すという贅沢を知ってはいない。彼らは、バプテスマや、主の晩餐や、礼拝の形式や、教会と国家の融合などといった、ひからびた問題については何時間でも論じていられる。しかしその間ずっと彼らは、自分の隣人については何も気遣いを見せていないように思える。果たして自分が、あのたとえ話の中のサマリヤ人が旅人を愛したように隣人を愛しているか、またその人に善を施すために何がしかの時間をさき、面倒を引き受けることができているか、ということなら、すぐにわかる実際的な問題なのに、この点に彼らは決してふれようとしない。都会であると田舎であるとを問わず、英国内のあまりにも多くの教区において、真の愛は教会でも会堂でもほぼ根絶してしまったように思われる。まるでキリスト教は、浅ましい党派心と論争という実しか生み出せないかのように見える。このような時に私が、この平明で昔ながらの主題をこのページを読む方々の良心に向かって強調したとしても不思議はないであろう。私たちは純粋にサマリヤ人的な隣人愛について何か知っているだろうか? 自分の友人や親戚以外のだれかに、また自分と党派や信念を同じくする人々以外のだれかに善を施そうとこころがけているだろうか? 私たちの生き方は、常に「巡り歩いて良いわざをなし」、ご自分を「模範」(ヨハ13:15)とせよと弟子たちにお命じになったお方の弟子としてふさわしいだろうか? もしそうでなければ、最後の審判の日に、私たちはどの面さげてそのお方に会えるだろうか? この件についてもやはり、私たちの魂はどうであろうか? もう一度私は尋ねたい。「私たちはどうしているだろうか」。

 (9) 第九に問いたいのは、私たちは定常的にキリストと交わる生活について何か知っているだろうか、ということである。「交わり」ということで私が意味しているのは、私たちの主が聖ヨハネの福音書15章において、実を結ぶキリスト者となるため必須のこととして語られた、「キリストにとどまる」習慣である(ヨハ15:4-8)。明確に理解しておきたいことだが、キリストとの結合と、キリストとの交わりは全くの別物である。むろん最初に主イエスと結び合わされることがなければ、いかなる主との交わりもありえない。しかし不幸にして、まず主イエスと結び合わされながら、その後はほとんど、あるいは全く主と交わりを持たないと云うことがありえるのである。この2つの違いは、2つの異なる段階の違いではなく、斜面の上の方にいるか下の方にいるかの違いである。結合の方は、自分の罪を感じ、真に悔い改めて、信仰によりキリストのみもとに来て、彼にあって受け入れられ、赦され、義と認められたすべての者に共通する特権である。だが、見たところ、あまりにも多くの信仰者がこの段階から決して先へ進まない! 一部は無知から、一部は怠惰さから、一部は人への恐れから、一部は世に対するひそかな愛から、一部は何らかの抑制されていない罪にからみつかれることから、彼らはほんの少しの信仰と、ほんの少しの希望と、ほんの少しの平安と、ほんの小さな程度の聖潔とで自己満足してしまう。そして彼らは一生の間このような状態で生き続ける。----疑いながら、弱く、ためらいがちで、ほんの「三十倍」の実しか結ばぬまま、生涯の終わりを迎える!

 キリストとの交わりという特権を受けている者たちは、恵みと、信仰と、知識と、あらゆることでキリストの心にかなおうとすることとにおいて、絶えず成長しようと努めている。----彼らは、「うしろのもの」には目もくれず、「自分はすでに達成したなどとは考えず」*、むしろ「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っている」(ピリ3:14)。結合は芽だが、交わりは花である。結合は赤子だが、交わりは強い成人である。キリストと結び合わされている人は幸いである。だがキリストとの交わりを楽しんである人は、はるかにまさっている。両者とも1つのいのち、1つの望み、1つの天的な種を心に有している。----主は1つ、救い主は1つ、聖霊は1つ、永遠の故郷は1つである。しかし、結合よりもなお良いことが交わりなのである! キリストとの交わりにおけるその大きな秘密は、「彼を信ずる信仰によって生きること」*であり、また、どんな場合にも必要とされる助けを、常に彼から引き出していくことである。聖パウロは云った。「私にとっては、生きることはキリスト」----「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」、と(ガラ2:20; ピリ1:21)。

 このような交わりこそ、「信仰によるすべての喜びと平和」[ロマ15:13]にとどまる秘訣であり、よく知られているように、それこそブラッドフォードやラザフォードのような卓越した聖徒たちが有していたものである。いまだかつて彼らのようにへりくだりに満ち、自分の弱さと腐敗を深く確信していた者らはいなかった。きっと彼らは、ロマ書7章は自分たちの経験をありありと描き出したものであると云うに違いない。彼らは、私たちの祈祷書が聖餐礼拝において真の信仰者の口に授けている「告白」を、一言一句に至るまで是認したに違いない。「わが罪の記憶はいと重く、その重荷は耐えがたし」。しかし彼らは常にイエスに目を注ぎ、常にイエスにあって喜ぶことができた。----このような交わりこそ、彼らのような人々が罪と、世と、死の恐怖とに対しておさめた数々の素晴らしい勝利の秘訣である。彼らは決して、何もせずじっとしたまま、「私はすべてをキリストにおゆだねし、彼が私のためにすべてをなしてくださるのを待ちます」、などとは云わず、むしろ、主にあって強くされた彼らは、主が彼らに植えつけてくださった神から出た性質を、大胆に、また確信をもって用い、「彼らを愛してくださった方によって……圧倒的な勝利者と」なった(ロマ8:37)。聖パウロのように彼らはこう云ったであろう。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」、と(ピリ4:13)。----この交わりの生活に対する無知こそ、現代これほど多くの人々が告解を渇望し、主の晩餐における「実在」について奇妙な見解を抱いている数ある理由の1つである。こうした過誤の温床となっているのはしばしば、キリストについての不完全な知識と、よみがえって今も生きてとりなしておられる救い主を信じて生きる生活についての曖昧模糊とした見解である。

 このようなキリストとの交わりを楽しんでいる人は普通に見受けられるだろうか? 悲しいかな! そのような人はめったにいない! 大半の信仰者は、信仰による義認に関するごく初歩的な知識と、他に半ダースほどの教理があれば満足なようで、疑いつつ、ふらふらよろめき歩きつつ、うめきながら天国への道を辿って行き、勝利感も喜びもほとんど経験することがない。この終わりの日の教会がかかえこんでいるのは、弱く、無力で、たいした影響を及ぼすことのない信仰者たちの大群であり、最後に救われはするものの、それは「火の中をくぐるようにして」であり、決して世界を奮い動かしたりせず、「御国にはいる豊かな恵み」*について何1つ知らない人々である(Iコリ3:15; IIペテ1:11)。『天路歴程』の落胆氏や気弱氏や心配子もまた、真勇者や大勇者と同じくらい真実にまた確かに天の都に行き着きはした。しかし、彼らと同じような慰めをもって到達したのではないこと、世にあってなした善が彼らの十分の一もなかったことは確かである! 見たところ、近年は彼らのような者らが大勢いる! 教会がこのような状況にあるとき私が、自分たちの魂の状態を省みるよう云うとしても、このページを読むいかなる人もいぶかしがることはないであろう。もう一度尋ねたい。----キリストとの交わりという件について、「私たちはどうしているだろうか」。

 (10) 第十に、そして最後に問いたいのは、私たちはキリストの再臨に備えることについて何か知っているだろうか、ということである。キリストが再びやって来られることは、聖書のいかなる真理にも劣らず確かである。この世はキリストの見納めをしたわけではない。キリストは、あのオリーブ山の上で、ご自分の弟子たちの眼前で、目に見える形で、肉体を伴って天に昇られたが、それと同じくらい確かに彼は、力と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って再びやって来られる(使1:11)。再臨なさった彼は死者をよみがえらせ、生者を変化させ、ご自分の聖徒に報いを与え、悪人を罰し、全地を新しくし、呪いを除き去り、----かつて神殿をおきよめになったように世界をきよめ、----罪がどこにもなく、聖潔のあまねく満ちた御国を打ち立てられる。私たちが繰り返し唱え、また信ずると告白する信仰信条は、絶えずキリストが再び来られると宣言している。古代のキリスト者たちは自分のキリスト教信仰の一部として、キリストの再臨を待ち望むのを常としていた。彼らは、後方を向いては十字架と罪の赦しを見つめ、十字架にかけられたキリストによって喜んでいた。上方を向いては、神の右の座についておられるキリストを見つめ、とりなしをしておられるキリストによって喜んでいた。前方を向いては、彼らの主人の約束された帰還を見つめ、自分たちが再び彼を見られるだろうとの思いによって喜んでいた。そして私たちも同じようにしなくてはならない。

 私たちは本当はキリストから何を得ているのだろうか? またキリストについて何を知っているのだろうか? そしてキリストについてどう考えているのだろうか? 私たちは彼と再び会うことを楽しみにし、彼の現われを待ち望んでいるかのように生きているだろうか?----ただし、その現われに備えるといっても、それは、真の首尾一貫したキリスト者として生きていればよいだけのことである。だれひとり、自分の日常の務めをやめなくてはならないなどということはない。農夫は自分の農場を捨てることはないし、商人は自分の帳場を、医者はその患者を、大工はその金槌と釘を、煉瓦職人はそのしっくいとこてを、鍛冶屋はその仕事場を捨て去ることはない。あらゆる人はみな、自分の義務を果たすことにまさる備えをすることはできない。ただしそれは、キリスト者として、また、いつでも片づけて、地上を立ち去る覚悟を固めながら行なっていることが大切である。このような真理を前にするとき、私がこのページを読む方々に、キリストの再臨という件について私たちの魂はどうだろうか、と尋ねるとしても不思議はないであろう。この世は年老いつつあり、盛りを過ぎつつある。キリスト者の大部分は、ノアやロトの時代の人々のように見える。彼らは、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだり、植えたり、建てたりしていたが、やがてある日、洪水と火がやってきた。私たちの主人のこの言葉は非常に厳粛な、また心探られるものである。----「ロトの妻を思い出しなさい」。----「あなたがたの心が……この世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい」(ルカ17:32; 21:34)。もう一度私は尋ねたい。----キリストの再臨に備えるという件について、「私たちはどうしているだろうか」。

 私の問いかけはここで終わりとする。他にいくらでもつけ足していくことはできるだろうが、本書の冒頭にあたり、多くの人々に自己省察と自己吟味の思いをかきたてるだけのことは語れたと思う。神が証人であるが、私は自分自身の魂にとって途方もなく重要であると感じていないことについては一言も語ってこなかった。私が唯一願っているのは他者に善をなすことである。さて、しめくくりに実際的な適用の言葉を少しだけ語らせていただきたい。

 (a) この論考を読む人々の中に、キリスト教信仰については全くの無関心で、考えもしていない人がいるだろうか? おゝ、起きて目を覚ますがいい! 教会墓地や共同墓地を見てみるがいい。ひとり、またひとりと、あなたの周囲の人々がそこに落ちていきつつあり、あなたもいつの日かそこに横たわらなくてはならないのである。来世のことに目を向け、胸に手を当てて、云えるものなら云ってみるがいい。自分は死んで神に会う用意ができている、と。あゝ! あなたはボートの中で眠りこけたまま漂い流れ、ナイアガラ瀑布へ下っていく人も同然である! 「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい」!----「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる」!(ヨナ1:6; エペ5:14)

 (b) この論考を読む人々の中に、自分の罪深さをいやというほど感じ、自分の魂には何の望みもないのだと恐れている人がいるだろうか? 恐れを打ち捨て、罪人に対する私たちの主イエス・キリストの申し出を受け入れるがいい。彼のことばを聞くがいい。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタ11:28)。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハ7:37)。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハ6:37)。疑わずに、こうしたことばが、他のだれとも同じように、あなた自身のためのものであると信ずることである。あなたのあらゆる罪と、不信仰と、罪悪感と、欠陥と、疑いと、弱さとをかかえてくるがいい。----キリストのみもとにすべてをかかえてくるがいい。「この人は、罪人たちを受け入れ」、あなたをも受け入れてくださる(ルカ15:2)。手をこまねいていたり、どっちつかずによろめいていたり、都合の良い時が来るまで待っていたりしてはならない。「さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」。きょうのこの日、キリストのもとに来るがいい(マコ10:49)。

 (c) この論考を読む人々の中に、キリストへの信仰を告白する信仰者でありながら、ほとんど何の喜びも平安も慰めも持ち合わせていない信仰者がいるだろうか? この日忠告を受け入れるがいい。自分の心を探り、果たしてあなた以外のだれに非があるか考えてみることである。まず間違いなくあなたはたるんだ生き方をしており、ほんの少しの信仰、ほんの少しの悔い改め、ほんの少しの恵み、そしてほんの少しの聖潔があるだけで満足し、知らぬまに極端な立場から尻ごみしているであろう。こうした進み具合では、たとえメトセラのごとく長生きしたとしても、あなたは決して幸せなキリスト者にはなれまい。いのちを喜びとし、しあわせな日々を愛したければ、今すぐやり方を変えることである。大胆に進み出て、決然と行動するがいい。あらゆる面で自分のキリスト教信仰を、徹底的に、徹底的に、非常に徹底的に貫き抜き通すこととし、十分まっすぐに太陽の方を向くがいい。いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てることである。努めてキリストにより近づき、キリストにとどまり、キリストにしがみつき、マリヤのようにキリストの足許に座り、いのちの泉からわき出た水を腹一杯に飲み下すがいい。聖ヨハネは云う。「私たちがこれらのことを書き送るのは、あなたがたの喜びが全きものとなるためです」(Iヨハ1:4 <英欽定訳>)。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち……ます」(Iヨハ1:7)。

 (d) この論考を読む人々の中に、自分の頼りなさや欠点や罪悪感ゆえに、疑いと恐れで押しつぶされそうになっている信仰者がいるだろうか? イエスについてこう語っている聖句を思い起こすことである。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」(マタ12:20)。この聖句があなたのためのものであることを考えて慰められるがいい。あなたの信仰がどれほど頼りなくとも、それが何だというのか? それは全くの無信仰よりもましである。ごく微弱ないのちでさえ死よりはましである。ことによるとあなたは、この世での期待が大きすぎるのかもしれない。地上は天国ではない。あなたはまだ肉体のうちにある。むしろ自分にはほとんど期待することなく、キリストに大いに期待するがいい。よりイエスを頼りにし、自分には頼らないようにすることである。

 (e) 最後に、この論考を読む人々の中に、天国への途上で出会う種々の試練によってうちひしがれることのある人がいるだろうか? あなたは、肉体的試練や、家庭内の試練、状況から来る試練、隣人から来る試練、この世から来る試練によってうちひしがれることがあるだろうか? 私たちに同情できる救い主が、神の右の座についておられるのを仰ぎ見て、あなたの心を彼の前で洗いざらい打ち明けるがいい。彼はあなたの弱さを思いやることがおできになる。彼自身、試みを受けたことがおありだからである。----あなたは孤独だろうか? 彼もそうであった。あなたは誹謗や中傷を受けているだろうか? 彼もそうであった。あなたは友から捨てられただろうか? 彼もそうであった。あなたは迫害されているだろうか? 彼もそうであった。あなたは肉体の疲れ、心の悲しみを覚えているだろうか? 彼もそうであった。----しかり! 彼はあなたを思いやることがおできになり、思いやるだけでなく助けることがおできになる。では、キリストにより近づくことを学ぶがいい。時は縮まっている。もうしばらくすれば、すべては終わりとなる。私たちはまもなく「主とともにいる」ことになる。「確かに終わりがある。あなたの望みは断ち切られることはない」(箴23:18)。「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない』」(ヘブ10:36、37)。

自己省察[了]

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*1 奇妙でもあり、示唆に富んでもいることに、歴史を見ると、同じことが何度も繰り返されており、いかなる時代にも人の心は大同小異であることがわかる。ロバートスン主教座聖堂参事会員によれば、原始教会においてすら、「大勢の人々は、大がかりなキリスト教的式典に群がり、劇場に群がり、異教的な見せ物があれば種々の神殿にすら群がっていた。教会の儀式は、芝居じみた見物のようにみなされていた。説教は、修辞家による技芸の披露であるかのように聞かれていた。雄弁な説教者は、拍手されたり、足を踏みならされたり、手巾を打ち振られたり、『正統派!』だの『十三人目の使徒!』だのといった声をかけられたり、そうした類の喝采を博していた。こうした習慣をクリュソストモスやアウグスティヌスのような教師たちは抑制しようと試み、自分たちの群れに対して、より有益なしかたで説教を聞くように説いていた。ある人々は、祈りは自宅でもできると主張し、教会には説教を聴くためだけにやって来た。そして、礼拝の魅力的な部分が終わると、大多数の人々はぞろぞろと出て行き、聖餐にあずかるため残る者はほとんどいなかった」。----ロバートスン「教会史」、第二巻、第4章、p.356。[本文に戻る]

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