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序 文

 今読者が手にとっておられる本は、私がすでに上梓した、『解かれた結び目』および『昔からの通り道』という、もう二冊の書物の姉妹編となるべきものである。

 『解かれた結び目』は、互いにつながりのある一連の論考を組織的に並べたものであって、その内容は、今日、英国国教徒の間で論争の種となっている種々の問題点に焦点を合わせている。もしだれかが教会や、聖職者の務め、バプテスマ、新生、主の晩餐、実在説、礼拝、告解、安息日といった論点に関心があるとしたら、『解かれた結び目』の中で、それらが相当詳しく論じられているのがわかるであろう。

 『昔からの通り道』も、やはり一連の論考を集めたものだが、その内容となっているのは、救いに必要であると通常考えられている主要な福音教理である。聖書の霊感や、罪、義認、赦し、悔い改め、回心、信仰、キリストのみわざ、聖霊のみわざといったことが『昔からの通り道』で扱われている主だった問題である。

 さて、本書におさめられている一連の論考の主題は、「実際的キリスト教」である。ここでは、真のキリスト者であると告白し自称するすべての人々の日常的な義務や、危険、経験、特権が扱われている。本書は、私が先に出版したもう1つの著作である『キリスト者の聖潔』とともに読んでいただきたい。私の信ずるところ、これはあらゆる信仰者のあるべき姿と、なすべき務めと、期待すべき約束とに、いささかなりとも光を投じてくれるであろう。

 この三冊の書物すべてには、共通して1つの特徴が見いだされるはずである。私はそれを初めから明言しておくものであり、一瞬たりとも隠し立てしようとは思わない。私が最初から最後まで立脚しようとしてきた立場は、福音主義的国教徒の立場である。

 私はこのことをあえて強調して云っておく。福音主義的国教徒であることは、今日、人気を博することでも人受けのいいことでもない。それは重々承知している。これは多くの人々から軽蔑されている立場であり、彼らが「見とれるような姿もなく、輝きも」ない。所によっては、福音主義的見解に立つと公言すれば、人々から冷笑され、「無学な、普通の人」であるとのそしりを招くことになる。しかし、結果がどうであれ、私は自分の立場を一歩も譲ろうとは思わない。自分の意見を恥とはしない。40年間、聖書を読み、祈り、瞑想し、神学研究を積んできた私は、自分がますます強く「福音主義的」キリスト教に心結ばれ、ますます深く福音主義信仰に満足しつつあることを実感しているのである。この福音主義信仰はいつまでも古びることがなく、いかなる砲火にも耐え抜いてきた。キリスト教信仰として、これ以上にすぐれたものを私は知らない。この福音主義信仰によって私は一世紀の三分の一を生きてきたし、この福音主義信仰によって死んでいきたいと思う。

 あからさまな真実を告げれば、私には他のどんな立場をとることも可能とは思えず、他のどんな場所にも安心して足の裏を下ろせないのである。自分が無謬だなどと主張するつもりはないし、他の人々の審判者になりたいとも思わない。だが齢を重ね、種々の著作を読み進めるにつれ、私が確信を深めているのは、福音主義の原則こそ、聖書の原則であり、改革された英国国教会の信仰箇条と祈祷書とその主だった神学者たちの原則である、ということである。こうした見解をいだいている以上、私がこのような書き方しかできなかったのも当然であろう。

 本書の出版にあたり、ここに私は心からの祈りをささげたい。願わくは聖霊なる神がこの書を祝福し、多くの魂にとってこれを有益なもの、助けとなるものとしてくださるように、と。

J・C・リヴァプール

1878年11月

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