9. 自由
「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」----ヨハ8:36
私たちの目の前にある主題は、熟読玩味に値するものである。それは英国人とスコットランド人の耳にトランペットの音のように鳴り響くべきものである。私たちの住んでいる国は、まさに自由の発祥地にほかならない。しかし、私たち自身は自由だろうか?
この問いは、現今の英国世論の状態を鑑みるとき、格別な注意を払わなくてはならないものだと思う。多くの人々の精神は完全に政治向きのことに埋没している。だが、いかなる人も手に入れられる、しかし残念なことにあまりにも知られることのまれな自由が1つあるのである。----いかなる政治的変化にも左右されない自由、----女王にも、上院にも、下院にも、いかに才気煥発な大衆指導者にも授けることのできない自由があるのである。これこそ、きょう私が書き記そうと思う自由である。私たちはそれについて何か知っているだろうか? 私たちは自由だろうか?
この主題について語り起こすにあたり、3つの点を提起したいと思う。
I. まず第一に示したいのは、あらゆる人にとっていかに自由がすぐれたものであるか、ということである。
II. 第二に示したいのは、最善にして、最も真実な種類の自由とはいかなるものか、ということである。
III. 第三に示したいのは、この最善の種類の自由を手に入れるにはどうすればよいか、ということである。いかなる読者も決して、これが政治的論考になるだろうなどと考えてはならない。私は政治家ではない。私の奉ずる政策は、聖書の政策だけである。私が気にかけている党派は主の側に立つ党派だけである。主の側に立っていることさえはっきりするなら、私はそれを支持するであろう。私が気にかけている唯一の選挙は、恵みの選びだけである。私の唯一の願いは、罪人たちが自分の召されていることと、選ばれていることとを確かにすることである。----私が何にもまして知らしめ、押し進めたいと願う自由は、神の子どもたちの栄光の自由である。私が心から支持する支配権は、私の主なる救い主イエス・キリストの肩にある主権である。私が願うのは、キリストの前で、あらゆる膝がかがめられ、あらゆる口が「イエス・キリストは主である」、と告白することである。これから私がこの主題について検討することに、ぜひ耳を傾けていただきたい。もしあなたが自由でないとしたら、私はあなたを真の自由に導き入れたいと思う。もしあなたが自由であるとしたら、あなたの自由の価値を余すところなく知らせたいと思う。
I. 最初に示さなくてはならないのは、あらゆる人にとっていかに自由がすぐれたものであるか、ということである。
この点について、読者の中には、何も云う必要などないのではないか、と考える人があるかもしれない。そういう人々の想像するところ、いかなる人にも自由の価値などわかりきったことであり、そのことについてくどくど述べるのは時間の無駄にすぎないのである。だが私はそうした意見に全く同意できない。私の信ずるところ、おびただしい数の英国人は、この国が享受している種々の恩恵について何1つわかっていない。彼らは生まれ落ちてから成年するまで、自由制度のまっただ中で成長してきた。他の国々の人々がいかなる状態にあるか、彼らには思いもよらない。また、最悪の形をとる2つの専制政治----冷酷な軍事独裁者による圧倒的な暴政と、常軌を逸した大衆による狭量な暴政----についても、彼らは無知である。つまり、多くの英国人は、自由のただ中に生まれ、一瞬たりとも自由のない状態に至ったことがないため、自由の価値をまるで悟っていないのである。
そこで、私がこの論考を読むあらゆる人に思い出してほしいのは、自由こそ、墓のこちら側の地上で、人がいだきうる最大の祝福の1つだということである。私たちの住んでいる国では、私たちの肉体が自由である。私たちは、他の人々の人格や財産や品性を傷つけない限り、だれからも指一本触れられることがない。いかに貧しい人でも、その家はだれにも踏み込めない城館である。----私たちの住んでいる国では、私たちの行動が自由である。私たちは、自活できている限り、何をしようと、どこへ行こうと、何をして過ごそうと自由である。----私たちの住んでいる国では、私たちの良心が自由である。私たちは、穏やかな暮らしを心がけ、他人に干渉しない限り、自分の好きなしかたで神を礼拝する自由があり、だれからも天国へ向かう特定の道を強要されはしない。----私たちの住んでいる国では、いかなる外国人も私たちを支配してはいない。私たちの法律は、私たちと同じ英国人によって施行されたり修正されたりしており、私たちの支配者は私たちのそばに住む、私たちの骨肉である。
つまり私たちには、地上のいかなる他の国も比肩できないほどの、あらゆる種類の自由があるのである。私たちには、個人的自由があり、市民的自由があり、宗教的自由があり、国家的自由がある。私たちには自由な肉体、自由な良心、自由な言論、自由な思想、自由な行動、自由な聖書、自由な出版、自由な家庭がある。こうした特権の一覧の何と広大なことであろう! ここにふくまれた慰めの何と無辺なことであろう! これらの真価は、ことによると決して知りえないかもしれない。いみじくも、古代ユダヤの律法学者たちは云う。「たとえ海を墨とし、世界を羊皮紙としても、決して自由への賛美を書き尽くすことはできまい」。
この自由の欠如こそ、あらゆる時代に世界中の国々で、最もはなはだしい悲惨を生み出してきた原因である。聖書を読む人であればだれしも、イスラエル人たちがエジプトでパロの、カナンでペリシテ人の奴隷となっていた時期の悲しみを思い出さずにはいられまい。歴史を学ぶ者であればだれしも、オランダやポーランドやスペインやイタリアが、外国の圧制者や宗教裁判所によって加えられた惨禍をいやでも思い出すであろう。この現代においてすら、あの巨大な不幸の源泉たる、黒人奴隷制度について聞いたことのない者があろうか? 確かに奴隷制の悲惨にまさる悲惨は何もない。
自由を勝ちとり、それを保持するためにこそ、地上では多くの国民的闘争がなされ、幾多の流血の海がもたらされた。自由の大義のためにこそ、おびただしい数のギリシャ人、ローマ人、ゲルマン人、ポーランド人、スイス人、英国人、アメリカ人が、喜んで命を投げ出してきた。いかなる代償も、国民が自由とされるためなら大きすぎるとは考えられなかった。
自由のための闘士たちこそ、あらゆる時代において正当にも、人類に最大の恩恵をもたらした人々とみなされてきた。ユダヤ人の歴史におけるモーセやギデオン、スパルタ王レオニダス、ローマ人ホラーティウス、ドイツ人マルティン・ルター、スウェーデン王グスターヴ・ヴァーサ、スイス人ウィリアム・テル、スコットランド人ロバート・ブルースおよびジョン・ノックス、英国人アルフレッド、ハムデン、およびピューリタンたち、アメリカ人ジョージ・ワシントンといった名前が、歴史の中で永く記憶にとどめられ、決して忘れ去られることがないのも無理はない。多くの愛国者を輩出した歴史があることこそ、一国にとって最高の賛辞である。
自由の敵たちは、あらゆる時代において至当にも、その当時の疫病神であり怨嗟の的とみなされてきた。エジプトのパロや、シュラクサイのディオニュシオス、ローマのネロ、フランスのシャルル九世、英国の流血女王メアリーといった名前は、決して恥辱を拭われることはないであろう。人類の世論は決して彼らを弾劾することをやめないであろう。その唯一の理由は、彼らが人々を自由にしなかったことにある。
どれほどの時間や紙数を費やしても、自由の賛美について云えることの十分の一も云えまい。歴史の年代記とは、自由の友と敵との間で交わされた争闘の長い記録でなくて何であろう? いまだかつて地上においてその絶頂に達し、世界にその痕跡を刻みつけた国々の中で、自由を持たなかったものがあろうか? 今この瞬間の地球上で、商業、芸術、科学、文明、哲学、道徳、社会的幸福において最も発達を遂げつつある国はどこだろうか? まさにそれと同じ国々こそ、これ以上ないほど大きな自由がある国である。今この日に、これ以上ないほどの悲惨さをかかえ込んだ国、絶え間なく陰謀や不平不満が渦巻き、生命や家財の収奪が日常的に行なわれていると聞かされる国はいかなる国だろうか? まさにそれと同じ国々こそ、自由が存在していないか、名ばかりの存在となり果てている国、----人々が農奴か奴隷のように扱われ、自分の考えを持つことも自分の好きな行動をとることも許されていない国なのである。大西洋の向こう側のひとりの偉大な政治家が、とある大きな機会に、集まった国民たちに向かってこう宣言したのも不思議ではない。「鎖と奴隷制によって購わなくてはならないほど、生命とは貴重なものであろうか? それほど平和とは甘美なものであろうか? 絶対にそのようなことはない! 余人のとる道は知らず、しかしこの身に関して云えば、われに与えよ、自由を、しからずんば死を!」、と*1。
私たちは、英国人として自分がこの国で享受している自由を過小評価しないよう用心しよう。確かに、こうした警告は必要である。ことによると、この地上で英国ほど、やたらと愚痴がこぼされ、あら探しがなされている国はないかもしれない。人々は身の回りにあると思われる想像上の悪を見つめて、そのおびただしさや激しさを針小棒大に云い立てている。彼らは、私たちを取りまく無数の恩恵や特権を見ようともしないか、見てもその恵みを割り引いて考える。彼らが忘れているのは、その比較はあらゆる場所を視野に入れてなされるべきだということである。いかに私たちの過ちや欠点が多くとも、いま現在の地上に、英国ほど多くの自由と幸福があらゆる階級に及んでいる国はない。彼らが忘れているのは、人間性が腐敗している限り、この下界では完璧さを望むべくもない、ということである。いかなる法令も、いかなる政府も、悪弊や腐敗を完全に防ぐことはできない。そこで今一度私は云いたい。英国の自由を過小評価したり、抜本的な変革を唱道するあらゆる人を追いかけ回したりしないよう用心しようではないか。変化は必ずしも改善にはならない。古靴には穴があいていたり、傷がついているかもしれないが、新しい靴は、きつすぎて歩くこともできないかもしれない。疑いもなく、現在よりも良い法令や政府を持ってならないなどということはない。しかし確かに、今よりも悪い法令や政府を持つことはきわめて容易であろう。きょうのこの日、地球上のいかなる国といえども、その最下層民の生命と、健康と、財産と、人格と、個人的自由すら尊重する点において、英国にまさる国はない。今よりも多くの自由がほしい人は、海を越えてみさえすれば、わが国ほど真の自由にあふれている国は世界中どこにもないことにたちまち気づくであろう*2。
しかし、英国における自由を過小評価しないように命ずる一方で私は、それを過大評価してはならないとも云いたいと思う。決して忘れてはならない。世俗的な奴隷制だけが奴隷制なのではなく、世俗的な自由だけが自由なのではない。たとえあなたが自由な国の市民であるとしても、魂が自由でないとしたら、それが何の得になるだろうか? たとえあなたが英国のような自由な国に住み、思想の自由、言論の自由、行動の自由、良心の自由を得ているとしても、罪の奴隷であるとしたら、また悪魔のとりこであるとしたら、それが何の役に立つだろうか? しかり。世には、いかなる目にも見えないが、パロやネロ同然に現実の害悪を及ぼす暴君たちがいるのである! いかなる手でもふれることはできないが、黒人奴隷の肢体を押しつぶしてきた鎖と同じくらい真実に、重く魂を萎えさせる鎖があるのである! こうした暴君についてこそ、きょう私はあなたに覚えてもらいたいと思う。こうした鎖からこそ、あなたが自由にされてほしいと願う。むろん英国の自由は尊ぶがいい。だが、それを過大評価してはならない。いかなる世俗的な自由よりも高く、遠くを眺めるがいい。私たちは、最も高い意味において、「自由である」ように心しようではないか。
II. 第二に示さなくてはならないのは、最も真実にして、最善の種類の自由とはいかなるものか、ということである。
私が語っている自由は、いかなるアダムの子らにも、それを手に入れたいと望みさえすれば手の届くものである。地上のいかなる権力も、それを受けとろうという意志のある男女にその自由を持たせないようにすることはできない。暴君たちは脅したり、投獄したりするかもしれないが、彼がいかに手を尽くそうと、人がこの自由を持つことを妨げることはできない。そして、一度私たちのものになったなら、何者もそれを取りあげることはできない。人々は私たちを拷問にかけ、追放し、縛り首にし、打ち首にし、焼き殺すかもしれないが、決して私たちから真の自由を引き離すことはできない。極貧の者も、大富豪に負けず劣らずそれを有することができる。どれほど無学な者も、最高の学者に劣らずそれを持てる。いかに弱い者も、だれよりも強い者と同じくそれを持てる。法律でそれを奪い取ることはできない。ローマ教皇の大勅書でそれを盗むことはできない。いったん自分のものとなったなら、それは永遠の所有物となる。
さて、この栄光の自由とは何だろうか? それはどこに見いだせるのだろうか? それはどのようなものなのだろうか? だれがそれを人のために獲得したのだろうか? だれが今この瞬間それを手にとって人々に授けているのだろうか? 読者の方はよく耳を傾けていてほしい。私はこうした問いに平明に答えていこうと思う。
私が語っている真の自由とは、霊的な自由----魂の自由である。それはキリストが授けてくださる自由、金銭も代価もなしに、真のキリスト者すべてに授けてくださる自由である。御子が自由にしてくださる者たちは本当の意味で自由である。「主の御霊のあるところには自由があります」(IIコリ3:17)。人には、君主国の自由と共和国の自由とを比較して、云いたいことを云わせておけばよい。そうしたければ、普遍的な自由と平等と博愛を求めて戦うのもいい。だが至高至善の自由を知るには、神の国の市民として登録されるしかない。キリストの自由人となっていない限り私たちは、最善の種類の自由について何1つ知らないのである。
キリストの自由人は罪の咎から自由にされている。赦されていないそむきの罪という、あの重い荷、多くの良心の上に重くのしかかっているあの重荷は、もはや彼らに重圧を加えてはいない。それは、キリストの血によってことごとく洗い清められている。彼らは自分が赦され、和解させられ、義と認められ、神の目に受け入れられていることを感じている。自分たちの古い罪が、いかにどす黒く、おびただしいものであっても、それをふり返って、こう云うことができる。----「お前は私を罪に定めることはできない」、と。何も考えず世俗的に過ごしてきた長い年月をふり返って、こう云うことができる。----「だれが何の責めを私に問うというのか」、と。これこそ真の自由である。これこそ自由になるということである。
キリストの自由人は罪の力から自由にされている。もはや罪は、彼らの心の中で指図することも、支配することも、彼らを洪水のように押し流すこともない。キリストの御霊の力により、彼らは自分のからだの行ないを殺し、自分の肉をそのさまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまっている。自らのうちに働くキリストの恵みによって彼らは、自分の邪悪な性質に対して勝利を得ている。肉はあらがうかもしれないが、彼らを打ち負かすことはない。悪魔は誘惑し悩ませるかもしれないが、彼らを征服することはない。彼らはもはや情欲や本能、情動や気分の奴隷ではない。こうしたすべてのことを負かして彼らは、自分たちを愛してくださったお方によって、圧倒的な勝利者となる。これこそ真の自由である。これこそ自由になるということである。
キリストの自由人は神への奴隷的な恐れから自由にされている。もはや彼らは、神を怒りを発した造物主と考えたり、恐怖やおびえを覚えたりすることがない。もはや神を憎むことも 園の木々の中にいたアダムのように神から逃げ去ることもない。もはや神のさばきを考えておののくことはない。キリストから与えられた、子としてくださる御霊によって彼らは、神を、和解してくださった御父とみなし、神の愛を考えて喜ぶ。彼らは御怒りが過ぎ去ったことを感じる。父なる神が彼らを見下ろすとき、自分たちをキリストのうちにある者と見てくださり、自分自身には何の価値もなくとも、自分たちを喜んでくださっていると感じる。これこそ真の自由である。これこそ自由になるということである。
キリストの自由人は人への恐れから自由にされている。彼らはもはや人の意見を恐れたり、人からどう思われるかを気に病むことがない。彼らは、人の好意にも敵意にも、人の笑顔にも渋面にも、同じくらい無頓着になる。目に見える人間から目を離し、目に見えないキリストに目を向ける。キリストのいつくしみを受けつつある者として、人々からのそしりを気にしなくなる。「人を恐れる」ことは、かつて彼らにとってわなであった。人から何と云われるか、何と思われるか、何をされるか、と考えて震え上がったものだった。自分の周囲の人々の流儀やしきたりにまっこうから逆らうことなど到底できなかった。自分ひとりが孤立することを思うとすくみあがった。しかし、そのわなはもはや壊され、彼らは解放された。これこそ真の自由である。これこそ自由になるということである。
キリストの自由人は死の恐れから自由にされている。彼らはもはや死を、考えることも厭わしい、身の毛もよだつ物として、陰気な諦念とともに待ち受けたりはしない。キリストによって彼らは、この最後の敵にも穏やかに相対し、こう云うことができる。----「お前は私に危害を加えることはできない」、と。彼らは死の後に来るあらゆること----腐朽、復活、さばき、永遠----を見通しても、落胆しないでいられる。開いた墓の傍らに立って、こう云うことができる。「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。死よ。おまえの勝利はどこにあるのか」、と。彼らは臨終の床についても、こう云うことができる。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません」(詩23:4)。「私の髪の毛一筋も失われることはない」、と。これこそ真の自由である。これこそ自由になるということである。
何よりもすぐれたことに、キリストの自由人は永遠に自由である。いったん天国の市民名簿に登録されれば、彼らの名前は決して抹消されることがない。いったんキリストの御国の自由を贈与されれば、彼らはそれを永遠に所有することになる。この世の自由の最も高い特権といえども、それはせいぜい一生の間しか保たない。地上で最も自由な市民といえども、最後には死んで、自分の特権を永遠に失わなくてはならない。しかしキリストの民の特権は永遠である。彼らは墓までその特権を携えて行き、そこでもそれはなくならない。彼らは最後の審判の日にその特権をもってよみがえり、その種々の特権を永遠に享受することになる。これこそ真の自由である。これこそ自由になるということである。
キリストはいかにして、またどのような方法によってこうした偉大な特権をご自分の民のために獲得なさったのか、と問う人がいるだろうか? あなたにはそう問いかける権利がある。そしてこれは、どれほど明確に答えても足りない問いである。よく耳を傾けてほしい。私はあなたに、キリストがいかなる方法によってその民を自由にしてくださったかを示そうと思う。
キリストの民の自由は、他のあらゆる自由と同じく、非常に大きな代償と犠牲を支払うことによって、かちとられたものである。生来の彼らがとらわれていた縛めは非常に大きく、彼らを自由にするために払わなくてはならなかった代価も、やはり大きなものであった。彼らを自分のとりこであると主張していた敵は強大であり、その手から彼らをふりほどくには、やはり強大な力が必要だった。しかし、神はほむべきかな、イエス・キリストのうちには十分な恵み、十分な力が備えられていた。彼はご自分の民を自由にするために必要だったあらゆるものを完全に与えてくださった。キリストがご自分の民のために払った代価は、彼ご自身の生き血にほかならなかった。彼は、彼らの代理人となり、彼らのもろもろの罪のために十字架の上で苦しみを受けてくださった。彼らを律法の呪いから贖い出すために、彼らのために呪われた者となられた(ガラ3:13)。彼らのすべての負債をご自分で支払い、彼らに平安をもたらすために、懲らしめを受けられた(イザ53:5)。彼らに向かって突きつけられる、あらゆる律法の要求を満足させるために、その義を完全に成就してくださった。彼らをあらゆる罪の汚名から雪ぐため、彼らのために罪となられた(IIコリ5:21)。彼らにかわって悪魔と戦い、十字架の上で悪魔に勝利してくださった。彼らの擁護者として、すべての支配と権威の武装を解除して、カルバリの上でさらしものとしてくださった。一言で云えば、キリストは、私たちのためにご自分をお捨てになり、私たちを贖い出す完全な権利を獲得なさったのである。彼が自由を与えた者たちには、何者も手出しができない。彼らの負債は返済されている。何千倍も多く返済されている。彼らのもろもろの罪は、完全で完璧で十分な贖罪によって贖われている。ひとりの聖なる代理人の死が、神の正義の要求を完全に満たしているので、完全な救いが人間にもたらされているのである。
この贖いの栄光あるご計画に目を注ぎ、自分がそれを本当に理解しているか注意しようではないか。この点における無知こそ、キリスト者たちの思いの中で希望が薄っぺらく、慰めがかすかで、疑いが絶え間なく起こる、隠れた大きな理由である。あまりにも多くの人々が、キリストは何らかのしかたで罪人たちを救うのだ、というぼんやりとした考えで満足している。だが彼らは、それがどのようにしてか、なぜなのかを全く知らない。私はこうした無知に抗議する。私たちは、自分の目の前に、キリストの代償死と身代わりという教理を完全に据えておき、その上に自分の魂を安んじさせよう。私たちは、キリストが十字架上でその民の立場をとり、その民のために死に、その民のために苦しみ、その民のために呪われた者とも罪ともみなされ、そのための負債を支払い、その民のための償いをなし、その民の保証人とも代表者ともなり、このようにしてその民の自由を獲得なさったという、この偉大な真理を固くにぎっていよう。そのことを明確に理解しよう。そのとき私たちは、キリストによって自由にされることがいかに偉大な特権であるかがわかるであろう。
これこそ、他のいかなる自由にもまして持つに値する自由である。私たちは、いかにそれを高く評価しても決して十分ではない。それを過大評価する恐れはない。他のすべての自由はどれほど良いものであっても不満足なものであり、か弱さと不安定さのつきまとう所有物である。キリストの自由だけは、決してくつがえされることがない。それは、萬具(よろず)備りて鞏固なる契約によって確保されている[IIサム23:5 <文語訳>]。その土台は、神の永遠の会議のうちに据えられていて、いかなる外敵も転覆させることはできない。この土台は神の御子ご自身の血潮によって固められ、結合されており、決して倒壊させられることがない。国々の自由はしばしば、せいぜい数世紀の間しか保たない。キリストがご自分の民のひとりにお与えになる自由は、この大地が崩れ去った後にも残り続ける自由である。
これこそ最も真実にして、最も高貴な種類の自由である。これこそ変転絶え間なき、死につつある世界の中で、人々に所有してほしいと私が願う自由である。
III. さて最後に示さなくてはならないのは、この最善の種類の自由を手に入れるにはどうすればよいか、ということである。
この点について多くの誤りがはびこっていることに鑑みると、これは非常に重要な点である。ことによると、幾万もの人々は、霊的自由というものがあること、またキリストだけがそれを私たちのために獲得してくださったことを認めているかもしれない。だが、贖いの適用ということに至ると彼らは、道に迷ってしまう。彼らは、「キリストが現実にはだれを自由にしてくださるのか」、という問いに答えることができない。そしてその答えを知らないがために彼らは、鎖につながれたままの状態に甘んじているのである。私はあらゆる読者に、今一度よく耳を傾けてほしい。私はこの主題にいささかなりとも光を投じてみようと思う。実際、キリストが手に入れてくださった贖いも、どうすればその贖いの成果を自分のものにできるかがわからなければ、何の役にも立たない。キリストが人々に授けてくださる自由についていくら読んでも、どうすればその自由にあずかることができるかわからなければ、無駄である。
私たちはキリストの自由人に生まれつくわけではない。多くの都市の住民は、その出生地の恩典によって種々の特権を享受している。キリキヤのタルソで産声を上げた聖パウロの場合、ローマ人の隊長に向かって、「私は生まれながらに自由です」、と云うことができた[使22:28 <英欽定訳>]。しかし霊的な事がらにおけるアダムの子らの場合、そういうわけにはいかない。私たちは、生まれながらに罪の奴隷であり、罪のしもべである。生まれながらに「御怒りを受けるべき子ら」であって、天国に入る資格に欠けた者らである。
私たちはバプテスマによってキリストの自由人にされるわけではない。おびただしい数の赤ん坊が毎年教会の洗礼盤のもとに連れてこられ、三位一体の神の御名によって厳粛にバプテスマを授けられるが、一生の間、奴隷のように罪に仕え、キリストを全く顧みないのである。ある人の魂の状態として、悲惨きわまりないのは、自分が天国の市民となっている証拠として提出できるものが、かつてバプテスマを受けたという事実しかない場合である!
私たちは単にキリストの教会の教会員であることによってキリストの自由人にされるわけではない。世の会社や法人の中には、その社員名簿に名前が載っただけで、その人個人の性格とは何の関わりもなしに、種々の莫大な特権にあずかることのできるものがある。キリストの御国は、こうした類の公社ではない。御国に属しているかどうかの最大の試金石は、個人的性格である。
こうした事がらを心に刻み込もうではないか。私は、キリストの贖いの範囲をせばめるつもりは毛頭ない。彼が十字架上で支払った代価は全世界のために十分である。私はバプテスマや教会員籍を過小評価するつもりも毛頭ない。キリストが定められた儀式や、キリストが暗黒の世界のただ中で保っておられる教会は、どちらも軽くみなされてよいものではない。----私がひたすら主張したいのは、万が一にも決してバプテスマや教会員籍だけで満足してはならないということである。もし私たちのキリスト教信仰が、そこ止まりだとするなら、それは役に立たず、不満足なものである。キリストが獲得してくださった贖いにあずかりたければ、それらを越えた何かが必要である。
キリストの自由人となるための道は、単に信ずること以外の何物でもない。信仰、すなわち、彼を私たちの救い主、贖い主として信ずる単純な信仰によってこそ、人の魂は自由にされる。キリストを受け入れ、キリストにより頼み、キリストに自分をゆだね、キリストに完全によりかかること、----これこそ、霊的な自由を自分のものとする道である。この他にやり方はない。キリストの自由人の持っている特権がいかに偉大なものであろうと、それらはみな、彼が最初に信じたその日に彼の所有となる。彼には、それらの完全な価値がまだわからないかもしれないが、それらはみな彼のものなのである。キリストを信ずる者は罪と定められることがない。----彼は義と認められており、新しく生まれており、神の世継ぎであり、永遠のいのちを持っている。
私たちの前にある真理には、底知れぬ重要性がある。私たちはこれに固く執着し、決してこれを手放さないようにしよう。もしあなたが良心の平安を願うなら、もしあなたが内心の安息と慰めを望むなら、信仰こそキリストの贖いにあずかる偉大な秘訣であるという立場から、一寸たりとも離れてはならない。----信仰については、最も単純な見方をするがいい。あなたの思いを混み入った観念で混乱させないよう用心することである。むろん、可能な限り一心に聖潔を追求するがいい。心の内側における御霊のみわざを示す、最も完全で、最も明確な証拠を求めるがいい。しかし、キリストの贖いにあずかるという件に関しては、信仰に並び立つものが何1つないことを忘れてはならない。信ずること、単純に信ずることによって魂は自由にされるのである。
この教理ほど、無知で無学な人々にとってふさわしいものはない! 神学など何1つ知らず、使徒信条を唱えることすらできないような、極貧の卑しい田舎家の住人を訪ねてみるがいい。彼に十字架の物語を聞かせ、イエス・キリストについての良き知らせと、罪人に対するイエスの愛を告げてみるがいい。国中で最も学識のある人にも劣らず、彼にも自由が----咎からの自由、悪魔からの自由、断罪からの自由、地獄からの自由が----備えられていることを示してやるがいい。そしてそれから彼にはっきりと、大胆に、包み隠さず、歯に衣着せずに告げてやるがいい。もしキリストにより頼み、信じさえするなら、この自由はすべて彼のものになるのだ、と。
この教理ほど、病人や死に行く人々にとってふさわしいものはない! 死の時が近づきつつある極悪非道の悪人の病床に立ち、愛をもって彼に告げてやるがいい。もしも彼に受けとることができさえするなら、彼にすら希望はあるのだ、と。彼に告げるがいい。キリストが世に来られたのは罪人を救うため、否、罪人のかしらをすら救うためであった、と。キリストはすべてを行ない、すべてを支払い、すべてを成し遂げ、人の魂が救われるために必要と考えられるありとあらゆるものを獲得なさったのだ、と。そして彼に保証してやるがいい。彼も、彼でさえも、ただ信じさえするなら、そのあらゆる咎からたちまち自由にされることができるのだ、と。しかり。聖書の言葉によって、彼に告げるがいい。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるのです」*、と(ロマ10:9)。
忘れてはならない。自分がキリストの贖いと救いにあずかっているかどうか知りたければ、これこそ私たちが目を向けなくてはならない点である。自分が選ばれているかどうか、回心しているかどうか、恵みの器であるかどうかなどと思い悩んで時間を浪費してはならない。キリストは自分のために死んでくださったのだろうか、などといった愚にもつかない問いをくよくよ考えながら手をこまねいていてはならない。そのような点について疑問を呈している人は聖書中ひとりもいない。この単純な問いかけにあなたの考えを固着させるがいい。----「私は本当に、一個の卑しい罪人として、キリストにより頼んでいるだろうか? 私は自分の身をキリストに投げかけているだろうか? 私は信じているだろうか?」----これ以外の何物も眺めてはならない。これだけを見つめることである。自分の魂を聖書の平明な聖句と約束に安らわせることを恐れてはならない。信ずるなら、あなたは自由なのである。
(1) さてここで、この論考のしめくくりにあたって私は、読者の方々ひとりひとりに、心からの愛情をこめて、この主題全体から自然に生じてくる問いかけを投げかけたいと思う。1つの平明な問いを発させていただきたい。「あなたは自由だろうか?」
私は、この論考を手にしておられるあなたが、どこの、どういう方か知らない。しかし、このことだけは知っている。すなわち、私があなたに投げかけているこの問いかけが、今ほど徹底的に必要とされた時代は決してなかった、ということである。政治的自由、市民的自由、商業的自由、言論の自由、出版の自由、----こうしたすべてのことが、またその他の幾百もの似たような主題が、人々の注意を呑みつくしている。まれにしか、ごくごくまれにしか、わざわざ霊的自由のことを考える人などいない。多くの人が、あまりにも多くの人が、地位の上下とはかかわりなく、罪に仕えている人ほど骨の髄までの奴隷はいないことを忘れ果てている。しかり! この国に住む何万何千もの人々はビールやアルコールの奴隷、情欲の奴隷、野心の奴隷、政治的党派の奴隷、金銭の奴隷、賭博の奴隷、流行の奴隷、気分や癇癪の奴隷である! あなたは、こうした人々の鎖を肉眼で見ることはできないかもしれないし、こうした人々自身、自分の自由さを自慢しているかもしれない。しかし、それにもかかわらず彼らは骨の髄まで奴隷である。人の耳に快く聞こえようと聞こえまいと、博打打ちであれ泥酔漢であれ、貪欲な者であれ短気な者であれ、大食漢であれ好色家であれ、みな自由ではなく、奴隷にほかならない。彼らは悪魔によって手足を縛り上げられているのである。「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハ8:34)。自由を自慢していながら、情欲や情動によって奴隷とされている者は、右手に嘘をにぎりしめたまま地獄へ下っていくことになる。
健康と時間と生命がまだ与えられているうちに、目を覚まして、こうしたことを悟るがいい。政治的闘争や政争などによって、あなたの大切な魂のことを失念してはならない。政策については自分の好きな立場をとり、良心の確信の命ずる通り正直に歩むがいい。しかし決して、決して忘れてはならない。そうしたいかなる政策も与えることのできない、はるかに高く、はるかに永続的な自由があるのである。その自由があなたのものとなるまで安心してはならない。あなたの魂が自由になるまで安んじてはならない。(2) あなたは、少しでも自由になりたいという願いを感じているだろうか? この世が与えることのできる自由よりも高く、すぐれた自由----死んでも死に絶えることがなく、墓を越えてもあなたに伴う自由----に対する切望が、あなたの中にはあるだろうか? ならば、この日私があなたに与える忠言に従うことである。キリストを求め、悔い改め、信じて、自由になるがいい。キリストは、ご自分に向かってへりくだつつ自由を叫び求めるすべての者に授けることができる栄光の自由を持っておられる。キリストは、あなたの心から重荷を取りのぞき、あなたの内なる人から鎖を叩き落とすことがおできになる。「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(ヨハ8:36)。
このような自由こそ、真の幸福の秘訣である。天の御国の市民たちほど、楽々と、また満足した思いでこの世をくぐり抜けていく者たちはいない。地上の重荷は彼らの肩には軽く感じられる。地上の失望は、他の者たちの場合のようには彼らの心をくじきはしない。地上の務めと心労は、彼らの霊を干からびさせはしない。彼らは、いかに暗い時期であっても、常に身をまかせることのできる、この頼りになる思いがある。----「私には、この世によって左右されないですむものがある。私は霊的に自由なのだ」。
このような自由こそ、良き政治家となる秘訣である。あらゆる時代においてキリストの自由人は、法律と秩序との最も忠実な友であり、人類のあらゆる階層の恩恵をはかる器であった。決して、決して忘れないようにしよう。二百年前に人々の侮蔑の的であった、あのピューリタンたちは、英国における真の自由の大義のために、この地で統治したいかなる政府にもまさることを成し遂げた。いまだかつて、オリヴァー・クロムウェルほどこの国を恐れと畏敬の対象とした人物はいない。何よりも純粋な愛国心の根幹は、キリストが自由にしてくださった者たちのうちに見られる。
(3) あなたは霊的に自由だろうか? ならば、あなたの自由を喜び、感謝するがいい。人の蔑みや軽蔑を気に病んではならない。あなたは、あなたのキリスト教信仰をも、あなたの主人をも恥じる理由は何1つない。その国籍が天にある人々(ピリ3:20)、神を自分の御父とし、キリストを自分の長兄とし、御使いたちを自分の日々の護衛とし、天国そのものを自分の家としている人々こそ、あらゆることに準備ができている人々である。いかなる法改正も彼の偉大さを増し加えることはできない。いなかる特権の拡充も、神の御目の前における彼の立場をいささかも高めることにはならない。「測り綱は、彼の好む所に落ちた。まことに、彼への、すばらしいゆずりの地だ」*(詩16:6)。今の恵み、死後の栄光の望みこそ、二十の自治区や特別市における選挙権を有することよりも、はるかに永続的な特権である。
あなたは自由だろうか? ならば、あなたの自由の中にしっかりと立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにするがいい。巧言や甘言によってあなたをローマ教会のもとへと後戻りさせようとする者たちに耳を貸してはならない。用心するがいい。あなたを説得して、唯一の仲介者キリスト・イエス以外にだれか仲介者がいるだの、----カルバリでささげられた唯一のいけにえ以外に何かいけにえがあるだの、----偉大なる大祭司インマヌエル以外にだれか祭司がいるだの、----十字架にかけられたお方のかおり以外に何か礼拝で焚かなくてはならない香があるだの、----神のみことば以外に何か信仰と行為の基準があるだの、----恵みの御座以外に何か告解の場があるだの、----キリストが、彼を信ずる御民の心にお授けになるもの以外に何か実効的な赦罪があるだの、----キリストの血という、罪をきよめるために開かれた1つの泉以外に何か、私たちが生きている間だけ用いられるべき贖罪の場があるだのと信じ込ませようとする者たちに用心するがいい。こうしたすべての点において、あなたはしっかりと立ち、警戒を固めるがいい。誤った考えにとりつかれた幾多の教師たちが、キリスト者たちから福音を盗み去り、私たちの間に、とうに底の割れた迷信をもたらそうとしているからである。男らしく彼らに抵抗し、一瞬たりとも譲歩してはならない。あのほむべき宗教改革以前のこの国において、ローマカトリック教がいかなる姿をしていたか思い出すがいい。この国で殉教した改革者たちが、いかに大きな代償を払って霊的な自由を福音による光のもとに引き出してくれたかを思い出すがいい。この自由のために男らしくしっかりと立ち、これをあなたの子どもたちに、完全で無傷のまま手渡すように努めるがいい。
あなたは自由だろうか? ならば生きる限り毎日、まだ霊的暗黒の中で手足を縛られたままの何千万もの同胞のことを思うがいい。キリストと救いのことをまだ一度も聞いたことのない六億もの異教徒たちのことを考えるがいい。自分たちのメシヤをまだ受け入れていないがために地の全面に散らされ、さまよい歩く、あわれな故郷を持たないユダヤ人たちのことを考えるがいい。いまだ教皇のもとでとらわれの身となっており、真の自由や光や平安について全く知らない数百万ものローマカトリック教徒たちのことを考えるがいい。私たちの大都市に住み、安息日もなく恵みの手段もなしに生きていて、実質的に異教徒と変わらない、悪魔がひっきりなしに捕虜として引っ立てている、おびただしい数の同国人たちのことを考えるがいい。こうした人々全員のことを考え、思いやるがいい。こうした人々全員のことを考え、しばしば自分に向かって云うがいい。----「この人たちのため私に何ができるだろうか? どうしたら、この人たちを自由にさせる助けができるだろうか?」、と。
何たることか! 最後の審判の日になったとき、パリサイ人やイエズス会士らについては改宗者を作るのに海と陸とを飛び回ったことが、----政治家たちについては旧教徒解放や自由貿易をかちとるために夜も日もなく盟約を結んで労働したことが、----博愛主義者らについては黒人奴隷制を廃止させるために何年もの間心血を注いできたことが宣言されるというのに、----その間キリストの自由人たちは、人々を地獄から救い出すためにほとんど何もしてこなかったように見えるなどということがあってよかろうか? 信仰にかけて、絶対にそのようなことがあってはならない! 愛にかけて、絶対にそのようなことがあってはならない! 確かに、もしこの世の子らが世俗的な自由を押し進めるために熱心になるとしたら、はるかにまさって神の子らは、霊的な自由を押し進めるために熱心にならなくてはなるまい。利己的な思いをしたまま、この件において無精を決め込んでいるのは、過ぎ去った時で、もう十分とすることである。私たちは、残された人生の間、あらゆる努力を払って、霊的解放を押し進めるようにしようではないか。もし私たちが自由の祝福を味わい知っているのなら、他の人々をも自由にするため骨惜しみしないようにしようではないか。
あなたは自由だろうか? ならば、信仰と希望をもって、後に来る素晴らしいものを待ち望むがいい。キリストを信じれば罪の咎と力から自由になるとはいえ、確かに私たちは、日々自分が罪の存在と悪魔の誘惑から自由になっていないことを感じているに違いない。堕落による永遠の結果から贖い出されたとはいえ、しばしば私たちは、自分がまだ病と弱さ、悲しみと痛みから贖い出されていないことを感じているに違いない。確かに、その通りである! 一体、自分がまだ天国にいるのではないことを、しばしば痛みとともに思い起こさないですむようなキリストの自由人がどこにいるだろうか? 私たちはまだ肉体のうちにある。まだこの世の荒野をついて旅しつつある。まだ故郷に帰り着いてはいない。私たちはすでに多くの涙を流してきたし、おそらくさらに多くを流すであろう。自分の内側には、まだ貧しく弱い心がある。私たちはまだ悪魔の襲撃を受けやすい者らである。私たちの贖いは確かに始まりはしたものの、まだ完成に至ってはいない。私たちには今、贖いの根はあるが、その花は咲いていない。
しかし勇気を出そうではないか。やがてより良い日がやって来る。私たちの偉大な贖い主にして解放者なるお方は、すでに私たちに先だってご自分の民のために場所を備えに行かれ、彼が再びやって来るとき、私たちの贖いは完成されるのである。偉大なヨベルの年はこれからやって来る。もう少しクリスマスと新年の日々が繰り返されれば、----もう少し出会いと別れが繰り返されれば、----もう少し誕生と死が繰り返されれば、----もう少し婚礼と葬式が繰り返されれば、----もう少し涙と争闘が繰り返されれば、----もう少し病と痛みが繰り返されれば、----もう少し安息日と礼典が繰り返されれば、----もう少し説教と祈りが繰り返されれば、----もう少しすれば、終わりが訪れる! 私たちの主人はもう一度やって来られる。死んだ聖徒たちはよみがえらされる。生きている聖徒たちは変えられる。そのとき、そしてそのとき初めて私たちは、完全に自由になるであろう。私たちが信仰によって享受している自由は、目で見える自由となり、希望の自由は確かな自由へと変わるであろう。
さあ、それでは私たちは、自分のため天国に蓄えられているものがある人々のように待ち、見張り、望み、祈り、生きていく決意をしようではないか。夜はふけて、昼が近づいた。私たちの王は遠く離れてはいない。私たちの完全な贖いは近づきつつある。私たちの完全な救いは、私たちが信じたころよりも、ずっと私たちに近づいている。時代のしるしは見慣れぬものとなりつつあり、あらゆるキリスト者の真剣な注意を喚起している。この世の王国は乱れつつある。この世の種々の権威は、世俗のものであれ教会のものであれ、至るところでその土台に至るまで震わされ、揺さぶられている。幸いなるかな、まことに幸いなるかな。キリストの永遠の御国の市民となり、何が来ようと備えのできている人々は。本当に祝福された人々とは、自分が自由であると知り、それを実感している人々にほかならない!
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*1 誤解を避けるため、ここで云っておくのがいいと思うが、私が言及している人物とは、前世紀のアメリカ人政治家パトリック・ヘンリーのことである。[本文に戻る]
*2 以下の説得力ある文章は、賢明なるフッカーの筆になるものであり、現代のあらゆる人の注意を喚起してしかるべきものである。これは彼の『教会政治理法論』の第一巻冒頭の箇所である。
「群衆のもとに出ていって、今の政府はなっていないと説得しようと努める者は、決して、一心に耳を傾ける好意的な聴衆に事欠くことはない。なぜなら民衆は、現政体の数々の欠陥を知っているからである。そうした欠陥は、いかなる種類の支配にも統治にも伴わざるをえない。しかし、その陰に隠れた障害や困難の山について考えるような良識を持ち合わせているような者は、まずいない。そうした障害や困難は、公共の事がらを扱おうとすれば、数え切れないほど伴わざるをえないものである。また、国家の無秩序を公然と非難する者らこそ、あらゆる公益の主たる友とも、非凡な精神的自由の持ち主ともみなされているがゆえに、この立派で申し分のない隠れ蓑の下で彼らがひとたび口にすることは何であれ、永久に世間で云い広められるのである。彼らの弁舌がいかに穴だらけのものであっても、それを初めから受け入れ信じようとする人々の目には全く入らない。それとは逆に、もし私たちが既成の体制を支持しようとするなら、人々の胸の奥に深く根ざした、幾多の偏見と闘わなくてはならず、時勢に迎合して現状を肯定する、特権階級か野心家だと目されるばかりか、考えただけでも胸が悪くなるような扱いを至る所で甘受する覚悟をしなくてはならない」。[本文に戻る]HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT