Wants of the Times       目次 | BACK | NEXT

19. 時代の要請*1


「時を悟り」(I歴12:32)

 この言葉は、ダビデが初めてイスラエルの統治を始めた時代の、イッサカル部族について書かれたものである。サウルの不幸な死の後のイスラエルでは、何をすべきか決めかねていた部族がいくつかあったと思われる。「どちら側の王につくか?」、が当時のパレスティナ最大の問題であった。人々はサウル家にあくまで従うか、ダビデを自分たちの王として受け入れるか迷っていた。ある者らはためらうばかりで、あえて一方の側に身を投ずることができずにいた。別の者らは大胆に立ち上がり、ダビデを支持すると宣言した。この後者の中にいたのが、イッサカル族に属する多数の人々であった。そして聖霊は、彼らに特別の賞賛の言葉を与えている。「彼らは時を悟っていた」*、と。

 私の心底からの確信によれば、この文章は、聖書の他の文章と同様、私たちに教訓を与えるために書かれたものである。このイッサカルの人々は私たちが見習うべき手本、後に従うべき模範として私たちの前に置かれている。なぜなら、自分の生きている時代を悟り、その時代が何を要求しているか知ることは最も重要だからである。アハシュエロスの宮廷にいた知恵のある者たちは、「時に詳しい」*者たちであった(エス1:13 <新改訳聖書欄外注参照>)。私たちの主イエス・キリストがユダヤ人たちを非難なさったのは、彼らが「神の訪れの時を知らなかった」からであり、「時のしるしを見分けることができない」からであった(ルカ19:44; マタ16:3)。私たちも、同じ罪に陥らないよう気をつけようではないか。世間知らずのままぬくぬくと炉辺でくつろぎ、私事にかまけるだけの毎日を送り、教会や世界の情勢に対する社会的関心など全く持たないというのでは、とうてい国を愛しているとは云えず、キリスト者としてもお粗末な姿というべきである。私たちの主が私たちに望んでおられるのは、私たちが、聖書と自分自身の心を学ぶことについで、自分の今生きている時代について学ぶことである。

 さて私がこの論考で考察しようとしているのは、今の時代が私たちに何を要求しているか、ということである。どんな時代も、信仰を告白するキリスト者には、その時代特有の危険がある。それゆえ、私たちはみな、自分たちに特有の義務に格別な注意を払わなくてはならない。この論考を手にとる読者の方々には、しばし私の語ることに注意を向けてほしいと思う。これからは私は、今の時代の英国のキリスト者、特に英国国教会の信徒に何が要求されているかを示していきたい。5つの点について提起したいと思うが、私はそれを率直に、また腹蔵なく語るつもりである。「ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう」(Iコリ14:8)。

 1. 何よりもまず第一に時代が私たちに要求しているのは、キリスト教のすべての真理、および聖書の神的権威を、大胆に、ひるむことなく主張することである。

 私たちが生まれ合わせた時代は、不信仰と、懐疑主義と、----これを加えなくてはならないのは遺憾だが----無信仰とが大いにはびこっている時代である。ことによると、ケルススとポルフュリオスとユリアヌス帝の時代からこのかた、これほど啓示宗教[キリスト教]の真実性が公然と攻撃された時代、またこれほどその攻撃がもっともらしく、まことしやかに見えた時代はいまだかつてなかったかもしれない。1736年にバトラー主教が書いた言葉は、私たちの時代にぴったり当てはまっている。「昨今では、キリスト教はもはや探求の対象ではない、今やキリスト教は虚構であることが発見された、などとということが、当然の見解としてまかりとおっている。それに伴いキリスト教は、こうした見解が分別ある人間の統一見解ででもあるかのような扱われ方をしている。キリスト教は、もはや主として嘲弄とあざけりの的としての意味しかないかのように扱われているのである。それは、この世の楽しみをこれだけ長々と邪魔してくれた憎き仇への報復という様相すら呈している」*2。私はしばしば思いにふけることがある。もしこの生真面目な主教が、この1879年に生きていたとしたら、何と云ったであろうか、と。

 書評や雑誌、新聞、講演、評論において、そして時には説教の中でさえ、小賢しい多数の著述家たちが、キリスト教の根本的な土台に対して絶え間なく戦いを挑んでいる。彼らの大胆な主張によると、理性や科学、地質学、人類学、現代における種々の発見、自由思想などは、ことごとく彼らの味方だという。最近では、いやしくも教育を受けた人間が超自然的宗教だの、聖書の十全霊感だの、奇蹟の可能性だのをまともに信じることなどありえない、といった意見を聞かされない日はない。三位一体や、キリストの神性、聖霊の人格性、贖罪、安息日遵守の義務、祈りの必要や効力、悪魔の存在、来たるべき永遠の刑罰の現実性、といった昔ながらの種々の教理は、役立たずの古暦のごとく戸棚の上に安置されるか、小馬鹿にされたあげく弊履のごとく捨てられている! そしてこうしたことはみな、非常に如才なく、いかにも率直で公平無私な見かけと、人間性の可能性と崇高さに対する賛辞をもってなされているため、足元のおぼつかない、おびただしい数のキリスト者たちが、まるで洪水に遭ったかのように押し流され、完全な信仰の破船にまでは至らなくとも、相当に浮き足立たされてしまっている。

 こうした不信仰の疫病が存在することに、私たちは一瞬たりとも驚いてはならない。それは単に古くからの敵が新しい衣をまとい、古くからある病が新しい形をとってやって来ただけのことである。アダムとエバが堕落したその日から悪魔は、人間に神を信じさせまいとする誘惑の手をゆるめたことがなく、直接的に間接的に、「別に信じなくても死にはしませんよ」、と云い続けてきた。特に終わりの日には、不信仰をいだく人々がおびただしく発生するはずだと聖書は確言している。「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」。「悪人や詐欺師たちは、……ますます悪に落ちて行くのです」。「終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけ……(る)でしょう」(ルカ18:8; IIテモ3:13; IIペテ3:3)。ここ英国における懐疑主義は、半カトリック主義や迷信に対する自然な反動であって、それは多くの賢明な人々がずっと以前から予測し予期していたことである。人間性に通じた、先見の明のある人々は、振り子の揺り戻しがあることを期していた。これは、まさにそれが起こっただけのことである。

 しかし、この時代にはびこっている懐疑主義に驚くなと云うと同時に、私があなたに勧めなくてはならないのは、これによって心を動揺させてはならない、堅固な心構えをぐらつかされてはならない、ということである。慌てふためく理由など何1つない。雄牛が揺らしたように見えても、神の箱は安泰である。キリスト教はこれまでにも、ヒュームやホッブズ、ティンダルらの攻撃をしのぎ、コリンズやウルストン、ボリングブルック、チャッブ、ヴォルテール、ペイン、ホリオークらの攻撃にも耐え抜いてきた。こうした人々は、その時代にあっては非常に世間の評判となり、気弱な人々をおののかせたが、彼らの生じさせた効果といえば、せいぜい暇人の旅行者がエジプトのピラミッドに名前を落書きしたようなものでしかなかった。請け合ってもいいが、キリスト教は以前と同じように、この時代の小賢しい著述家たちの攻撃をもしのぐであろう。現代なされているような啓示への反論は、耳目を引く目新しさがあるため、実際よりも重みがあるように見えることは確かである。しかしながら、私たちの手には余るからといって難問題が絶対に解けないということにはならないし、私たちの目では見通せず、説明できないからと云って、手強い問題が説明不能ということにはならない。懐疑主義者に答えを返せないときには、より多くの光が与えられるまで待つことで満足するがいい。しかし決して1つの偉大な原則は捨ててはならない。ファラデーの言葉によると、多くの科学的問題と同じく、宗教における「最も高次の原則は、しばしば、思慮をもって判断を未決のままにしておくこと」なのである。信ずる者は急ぐことはない。十分待てる余裕があるのである。

 懐疑主義者や無信仰者が云うだけのことを云ったとき、私たちは忘れてはならない。彼らの説明では決して片づけることのできなかった重大で明白な事実が3つある、と。私の確信するところ、これらを今の彼らは決して説明して片づけられず、今後も絶対にできないであろう。それらはみな非常に単純な事実であり、どんなに無学な者にでも理解できることである。

 a. 第一の事実はイエス・キリストそのひとである。もしキリスト教が人間の発明したものにすぎず、聖書が神から出たものでないとするなら、無信仰者はどのようにしてイエス・キリストを説明できるのだろうか? 彼が歴史上実在したことを彼らは否定できない。ではどのようにして彼は、武力も賄賂も使わず、武器も富力も使わずに、あれほど広大で深甚な影響を世界にくっきりと刻み込むことができたのだろうか? 彼はいかなる人物であったのか? 何者だったのか? どこから来たのか? 有史以来、彼のような人物が空前にして絶後であったのはなぜなのか? 彼らには説明できない。何物も説明できない。説明できるのはただ、あの啓示宗教の基盤をなす偉大な原理、すなわち、イエス・キリストは神であり、彼の福音はすべて真理である、という原理以外にない。

 b. 第二の事実は、聖書そのものである。もしキリスト教が人間の発明したものにすぎず、聖書の権威は他の霊感されていない書物と同程度でしかないとするなら、どのようにしてこの書物は、現在あるようなものとなっているのだろうか? 世界の片隅にいた数人のユダヤ人によって書かれた書物、幾時代にもわたって著者たちの間に何の提携も共謀もなしに書かれたような書物、ギリシャ人やローマ人とくらべれば文学に何の寄与もしていないような民族に属する人々によって書かれた書物----、この書物がどうして他に抜きんでて、否、いささかも比肩しうるようなものすらない存在として、他を圧する高潔な神観、真実な人間観、荘厳な思想、崇高な教理、清浄な道徳を提示しているのか? 無信仰者はこの書物についてどのような説明をつけられるだろうか? これほど深遠で、これほど単純で、これほど賢明で、これほど欠陥と無縁な書物をどう説明できるだろうか? 無信仰者は、自分の主義に立っては聖書の存在と性質を説明することができない。その説明をつけられるのは、その書物が超自然的なもの、神から出たものであると考える私たちだけである。

 c. 第三の事実は、キリスト教が世界に生じさせた影響である。もしキリスト教が人間の発明したものにすぎず、超自然的な神的啓示ではないとするなら、どのようにしてこれは人類の状態にこれほど完全な変化を生じさせたのだろうか? 博識な人ならだれでも知っているように、キリスト教が植えつけられる以前の世界の状態と、キリスト教が根づいた以後のそれとの間にある道徳的な違いは、夜と昼の違い、天国と悪魔の王国との間にある違いである。ここで私は、あらゆる人に向かって、世界地図を見てみるがいい、と云いたい。人々がキリスト者である国と、人々がキリスト者ではない国とを比較してみよ、そしてその二種類の国々が光と闇のように、黒と白のように違っていることを否定してみよ、と云いたい。無信仰者のうち、自分の主義に立ってこの事実を説明できる人がどこにいるだろうか? どこにもいない。それができるのは、キリスト教が神から下ってきたものであり、世界で唯一の神的宗教であると信ずる私たちだけである。

 無信仰の増大によって慌てふためかされそうなときには常に、今私が言及した3つの事実を思い起こし、恐れを退けるがいい。この3つの事実という塁壁のかげに身を置き一歩も退かなければ、現代の懐疑主義者らの渾身の努力も平然と無視することができよう。彼らはしばしばあなたが答えることのできない百もの質問を投げかけ、聖書の異なる読み方や霊感、地質学、人間の起源、世界の年代などに関する、あなたに解くことのできない巧緻な問題を持ち出すかもしれない。彼らは、いいかげんな推論や理論であなたを悩ませ、苛立たせるかもしれない。あなたは、彼らの理論が誤りだということは感じとっていながら、現時点ではそれを証明できないかもしれない。しかし落ちつきを失わず、恐れないようにするがいい。私が先に挙げた3つの偉大な事実を思い起こし、それをうまく説明してみよと懐疑主義者に向かって大胆に挑戦してみるがいい。疑いもなくキリスト教のかかえる種々の困難には大きなものがある。しかし請け合ってもいいが、それは無信仰のかかえる種々の困難にくらべれば無に等しいのである。

 2. 第二に時代が私たちに要求しているのは、キリスト教教理に関する明確で、きっぱりとした見解である。

 私は自分のこの確信を胸のうちに抑えておくことができない。この19世紀に信仰を告白する教会が、内部における教理的な締まりなさ、不明瞭さから受けている損害は、外部の懐疑主義者や不信者から受ける損害にも劣らないものである。近年では、信仰を告白する多数のキリスト者が、違っているはずのものの区別を全くつけられないように見受けられる。色盲を病む人々のように彼らは、真実なものと偽りのもの、健全なものと不健全なものを見分けることができない。どこかの説教者が、才気にあふれ、雄弁で、熱心だとすると、それだけで彼らは、説教の中身がどれほど奇妙で異質なものであったとしても、何の問題もないと考えてしまうようである。彼らには見るからに霊的感覚が欠如しており、誤りを見抜くことができない。カトリック主義であろうがプロテスタント主義であろうが、贖罪があろうがなかろうが、人格的な聖霊がおられようがなかろうが、未来の刑罰があろうがなかろうが、「高」教会であろうが「低」教会であろうが「広」教会であろうが、三位一体説であろうがアリウス主義であろうがユニテリアン信仰であろうが、何事も彼らにとっては問題なしである。彼らはいかなるものも丸飲みにしてしまう。消化できるかどうかは別の話だが! 寛大さと愛であると勝手に思い込んだものによってとらわれているため、彼らの考えによれば、あらゆる人が正しくだれも間違ってはおらず、あらゆる聖職者が健全で不健全な聖職者などどこにもおらず、だれもが救われることになり滅びる者などひとりもいないかのようである。彼らの信仰生活はないないづくしである。唯一あるものと云えば、彼らが明確な区別を嫌悪し、極端で、きっぱりした、積極的な見解をすべて非常に邪悪で非常に誤ったものと考えるということである!

 こうした人々は、一種の霞か霧の中で生きている。彼らには何も明確に見えず、自分が何を信じているかも知らない。彼らは福音の中核となる種々の点についても自分の考えを持っておらず、あらゆる学派の名誉会員であることで満足しているように見受けられる。一生のあいだ彼らは、義認について、新生について、聖化について、主の晩餐について、バプテスマについて、信仰について、回心について、霊感について、未来の状態について、自分が何を真理だと考えているか語ることができない。彼らは論争に対する病的な恐怖、および「党派心」に対する無知な嫌悪にとりつかれているが、実はそうした語句が何を意味しているか定義することもできないのである。彼らについてはっきりわかる唯一の点は、彼らが熱心さと才気と愛を高く評価しており、才気があって熱心で愛に満ちた人が誤りに陥っていることなど考えられもしない、ということである! それで彼らはそのように、はっきりしないまま生きていく。そしてあまりにもしばしば、はっきりしないまま墓場へとただよい下っていく。自分の信仰に何の慰めもいだかず、残念ながら何の希望も持たずに死んでいくのである。

 こうした骨抜きの、締まりのない、クラゲのような魂の状態の説明は簡単につけることができる。まず最初に、人間の心は生まれながらに宗教に関しては暗闇の中にあり、真理を直観的に感じとることができず、教えと光を与えられることを必要としている。それに加えて、ほとんどの人々の生来の心は宗教における骨折りを憎み、忍耐強く労を惜しまず探求することを心底から嫌っている。何よりも生来の心は一般に他者からの賞賛を好み、衝突から尻込みし、思いやりがあって寛大な人とみなされたいと切に願っている。これらすべての結果、一種の大ざっぱな宗教的「不可知論」こそ、大多数の人々にとって最適なものであり、特に若い人々の気に入るものとなるのである。彼らは議論の種になるような点はことごとく屑として放り投げることで満足している。もし彼らを優柔不断だと云って非難するなら、彼らはこう答える。「私は論争を理解できるふりなどしません。論争の種になるような点の吟味などお断りです。長い目で見れば、どれもこれも大差ないかもしれないでしょう?」。こうした人々が至るところに群がっていることを知らぬ人がいようか?

 さて私がこの論考を読むすべての人に願いたいのは、信仰におけるこうしたあいまいな心持ちに用心していただきたい、ということである。これは、暗やみに歩き回る疫病、真昼に荒らす滅びである。確かにこうした怠惰で無為な魂の状態にあれば、人は頭を使ったり探究したりする手間からは免れるに違いない。しかし、こうした魂の状態は、聖書でも、英国国教会の信仰箇条でも祈祷書でも何の保証もされていないものである。あなた自身の魂のために、何が真理で誤りか、勇をふるってはっきりとした明確な見解を持つようにするがいい。決して決して、きっぱりとした教理的意見を持つことを恐れてはならない。人への恐れや、人から党派心の持ち主、狭量で論争的な人物だと思われることに対する病的な恐怖にとらわれるあまり、不活発で、骨抜きで、無味乾燥で、ぼやけた、なまぬるい、教理抜きのキリスト教で安閑としていてはならない。

 私の云うことに注意するがいい。この時代で善をなしたいのであれば、あなたは優柔不断さを打ち捨てて、明確で、輪郭のはっきりした、教理的な信仰姿勢をとらなくてはならない。もしあなたがほとんど何も信じていなければ、だれかに善をなそうとしても彼らは何も信じないであろう。キリスト教の勝利は、どこで勝ち取られたものであろうと、常に明確な教理的神学によって勝ち取られてきた。すなわち、キリストの身代わりの死と犠牲のことを人々に率直に告げ、十字架上におけるキリストの代償とその尊い血潮のことを彼らに示し、信仰による義認のことを彼らに教えて十字架につけられた救い主を信ずるよう彼らに命じ、罪による滅びとキリストによる贖いと御霊による新生を説き聞かせ、青銅の蛇を高く掲げ、仰ぎ見て生きよ、信じて、悔い改めて、回心せよと人々に告げることによってであった。これが、これこそが18世紀もの間、神が成功をもって栄誉を与えてこられた、また今日も国内で海外で栄誉を与え続けておられる唯一の教えである。大ざっぱな、教理的でない神学を主唱する小賢しい人々----熱心さと真摯さと冷淡な道徳を主体とする福音の説教者たち----に向かって、私は云う。きょうのこの日、「教義」なしに、彼らの主義主張だけで福音化されたような村か教区か市か町か地方を英国の中から1つ示してほしい、と。これは、今の彼らにはできないし、今後も決してできない。明確な教理抜きのキリスト教は無力である。これは一部の人々にとっては美しく見えるかもしれないが、子どもを生み出せない不毛なものである。事実を覆すことはできない。地上でなされる善は比較的小さなものかも知れない。悪がはびこり、無知で忍耐のない人々はつぶやき、キリスト教は失敗したと叫ぶかもしれない。しかし、請け合ってもいいが、もし私たちが「善を行ない」、世を揺り動かそうと思うなら、私たちは古の使徒たちの武器によって戦い、「教義」に固執しなくてはならない。教義なくして実りなし! 明確で福音的な教理なくして、福音化はなし!である。

 さらにもう一度私の云うことに注意するがいい。英国国教会に最も善を施した人々、その時代と世代に最も深い足跡を刻み込んだ人々は、常に最もはっきりとした明確な教理的見解の持ち主たちであった。カペル・モリノーや私たちの大いなる古のプロテスタントの闘士ヒュー・マクニールのごとく、大胆で、はっきりした意見を歯切れ良く語る人物こそ、深い印象を残し、人々を考え込ませ、「世界中を騒がせ」る者である。使徒時代の「教義」こそ、異教の神殿を空にし、ギリシャやローマを揺り動かしたのであった。「教義」こそ、宗教革命の時代にキリスト教国をそのまどろみから覚醒させ、ローマ教皇からその臣民の3分の1をぶんどったものであった。「教義」こそ、百年前のホイットフィールドやウェスレー、ヴェン、ロウメインの時代に英国国教会を覚醒し、今にも消えそうだったキリスト教を燃えさかる炎へと吹き起こしたものであった。「教義」こそ、国の内外を問わず現時点で成功をおさめつつあるあらゆる宣教団体に活力を与えているものである。教理こそ----明瞭で、あいまいなところのない教理こそ----エリコにおける雄羊の角笛のように、悪魔と罪との反抗を打ち壊すものである。私たちは、近時どんなことが云われていようと、きっぱりとした教理的立場に固着しようではないか。そうすれば私たちは、自分にとっても他人にとっても、英国国教会にとってもキリストの世界宣教にとっても、善を施すことになるであろう。

 3. 第三に時代が私たちに要求しているのは、私たちがもう一度まざまざと、ローマカトリックという宗教の非聖書的で魂を滅ぼす性質を実感することである。

 これは痛ましい主題であるが、いやでもおうでも、だれかがぴしりと云わなくてはならないことである。

 事実関係は非常に単純である。ものをよく知った観察者の目には明々白々なことであるが、ローマカトリック教に対する英国の大衆感情は、その風潮が、過去40年の間に多大な変化をこうむった。これは、有名な背教者で、ニューマン枢機卿の盟友であるオウクリ主教が、『現代批評』の最新号で誇らしげに主張しているところである。そして、残念ながら私の判断においても、彼の云っていることは正しいと云わざるをえない。かつてはほぼ普遍的な思潮であった、カトリック教に対する全般的な嫌悪と、憂慮と、反感はもはや見ることができない。英国におけるプロテスタント主義に関する古の感情は鈍り、薄れてしまった。ある人々は、もう宗教論争などうんざりだと公言し、和を保つためには神の真理も喜んで犠牲にしようとしている。ある人々は、ローマカトリック教も変わったのだ、かつてのように悪質なものでは決してない、と信じ込ませようとしている。ある人々はプロテスタントの種々の欠点を恐れげもなく指摘し、ローマカトリック教徒も私たちと全く同じくらい良い人々なのだと声高に云い立てている。ある人々の考えによれば、自分の信条を真面目に信じている人のことを間違っているなどと考える権利はだれにもない、という主張こそ立派で開放的な姿勢なのだという。しかしながら、2つの偉大な歴史的事実、すなわち、(a) カトリック教のもとにあった四百年前の英国は無知と不道徳と迷信が猖獗をきわめていたこと、(b) 宗教革命こそ、わが国に神が賜った最大の祝福であること----この2つの事実に疑いをさしはさもうなどという者は、50年前には、教皇主義者以外、一人もいなかったものである! 嘆かわしいことに、今日では、こうした事実を忘却することの方が都合が良く、当世流なのである! つまり、この勢いで行けば現在は、王位継承法を廃止し、英国の王冠を教皇主義者が戴くこともおかまいなしにするという法案が提出されても何の不思議もない状勢にあるのである。

 大衆感情における、この暗澹たる変化の原因を見いだすことは困難ではない。

 a. その原因の1つは、ローマカトリック教会そのものの不屈の熱意である。カトリック教会の代理人たちは、決してまどろむこともなく、眠ることもない。彼らは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回る。エジプトの蛙のように、どこにでももぐりこみ、彼らの宗旨を広めるためなら、王宮においても救貧院においても、あらゆる手を尽くしてやまない。 

 b. これに拍車をかけているのが、英国国教会内にいる儀式尊重派の動きである。この精力的な活動集団は何年もの間、宗教革命をけなし続け、プロテスタント主義を冷笑し続けてきており、多大なる成功をおさめた。これは多くの国教徒の思いを堕落させ、変容させ、盲目にさせ、惑わせようと、絶え間ない虚偽を喧伝してきた。彼らはしだいしだいに人々を、明確にローマカトリック教のものである教理や慣行に慣れ親しませてきた。聖餐におけるキリストの実在、ミサ、司祭に対する秘密懺悔、司祭による赦罪、牧師職の祭司的性格、修道院制度、それに公同礼拝の芝居じみた、感覚的で、派手派手しい様式などである。その自然な結果として、多くの単純な人々は、正真正銘の純粋なカトリック教にも別段たいした害悪はないと思っている!

 c. 最後に、しかし決して小さくないこととして、今私たちが生きている時代の偽りの寛大さが、カトリック教への傾斜を強めている。当世もてはやされる考え方によれば、すべての宗派は平等であるべきであり、すべての信条には等しい恩典と敬意が払われるべきであり、どんな種類の宗教の根底にも共通の真理が土台としてあり、仏教もイスラム教もキリスト教も根本は同じだという! その結果、無数の無知な人々が、教皇主義者の主張にも特に危険なものはなく、メソジストや独立派や長老派やバプテストらによる主張と似たりよったりなのだろう、と、また、ローマカトリック教についてあれこれ云ってはならない、それが非聖書的で、キリストを貶める性格を持っていることは決して暴露してはならない、と考え出しているのである。

 あえて云うが、この論調の変化がもたらす結果は、このまま何の歯止めもかけなければ、最も壊滅的で有害なものとなるであろう。いったんカトリック教が英国の首筋に再度足がかりを得るなら、わが国の国家としての偉大さはすべて終わりを告げるであろう。神は私たちを見捨て、私たちはポルトガルやスペインと同程度の国家に没落していくであろう。聖書を読むことが認められず、個人による判断が禁じられ、キリストの十字架への道がせばめられたり塞がれたりし、聖職者による政治介入が再び確立され、秘密懺悔所があらゆる教区に設けられ、修道院や女子修道院が国中に点在させられ、女たちは至る所で農奴か奴隷のように聖職者の足下に膝まづかされ、男たちはすべての信仰を放棄させられて懐疑主義者となり、学校や大学はイエズス会派の神学校にさせられ、自由な思想をいだくことは糾弾され呪われ、その他もろもろのことによって、英国魂の明確な男らしさと独立精神はしだいに衰微、退潮したあげくに滅ぼしつくされ、英国そのものが破滅に至るであろう。そしてこれらすべては、私の確固たる信念によれば、プロテスタント主義の価値を尊ぶ旧来の感情をよみがえらせることができない限り、現実のこととなるであろう。

 私はこの論考を読むすべての人々に警告したい。特に、同じ英国国教会に属する人々に警告したい。時代があなたに要求しているのは、目を覚まし、警戒を怠らないことである。ローマカトリック教に用心し、意識的にも無意識的にもローマカトリック教への道を開くような、いかなる宗教的教えにも用心するがいい。どうか、この国におけるプロテスタント主義がしだいに衰えつつあるという痛ましい事実を認識していただきたい。どうか、キリスト者として、また国を愛する者として、英国宗教革命の数々の祝福を忘れさせようとする傾向の増大に抵抗していただきたい。

 キリストのゆえに、英国国教会のゆえに、わが国のゆえに、後代の子孫たちのゆえに、ローマカトリック教の無知と迷信、聖職者政治、不道徳へと押し戻されていかないようにしようではないか。私たちの父祖たちはカトリック教を遠い昔に、何世紀もかけてためしてみたあげく、とうとう愛想も尽き果て怒りのうちに投げ捨てたのである。時計を逆戻りさせ、エジプトに帰るようなことはしないようにしようではないか。私たちがローマと何らかの和平を結ぶのは、ローマがその過誤を誓って廃絶し、キリストと和平を結んでからとしよう。ローマがそうするまでは、一部の人々が自慢げに口の端にのぼせ、私たちの注意をやっきになって引こうとしている、西方諸教会の再統合などは、キリスト教に対する侮辱である。

 自分で聖書を読み、聖書の種々の議論を頭に蓄えるがいい。聖書を勤勉に読む平信徒は、国家を誤りから守る最も堅固な防塞である。英国の平信徒がその義務を果たしてさえいるなら、私は英国のプロテスタント主義に何の危惧もいだかない。英国国教会の三十九信仰箇条とジューエルの『弁明』を読み、こうした無視されている文書がカトリック教の種々の教理について何と述べているか見てみるがいい。残念だが、私たち聖職者にはしばしば悲しいほど責任があるのではないかと思う。私たちは教会法規の第一を破り、毎年四度、ローマ教皇の首位性を論駁する説教をせよとの命令に背いている! あまりにもしばしば私たちは、「教皇巨人」が死んで葬られたかのようにふるまい、彼の名を一度も口にしない。あまりにもしばしば、つまづきを置きたくないとの恐れから私たちは、カトリック教の真の性質と邪悪さを自分の会衆に示すのを怠る。

 私は読者に願いたい。聖書と信仰箇条に加えて、歴史書を読み、過ぎ去りし時代にローマが何をしたか見ていただきたい。それがいかにあなたの国の自由を踏みにじり、あなたの父祖たちの財布から富を収奪し、国中を無知で迷信深く不道徳な状態のままにしておいたかを読むがいい。ロード大主教が、英国国教会を脱プロテスタント化しようとするその愚昧で、頑迷で、神を怒らせる努力によって、いかに教会と国家を荒廃させ、自分とチャールズ国王を死刑場の露と消えさせたか読むがいい。英国でカトリック教を信奉した最後の国王ジェームズ二世がいかにそのプロテスタント主義を押さえつけ、カトリック教を再導入しようとする向こうみずな試みによって王冠を失ったか読むがいい。そしてローマが決して変わらないことを忘れてはならない。自らが無謬であり、常に同じであり続けるということこそ、ローマの自慢の種であり誇りなのである。

 歴史を読まないというなら、現時点におけるこの地球上で殊に顕著な種々の事実の意味を読みとるがいい。何がイタリアやシチリアをごく最近まであのような状態にしておいたのだろうか? カトリック教である。何が南米諸国を今のような状態にしているのだろうか? カトリック教である。何がスペインやポルトガルを今のような状態にしているのだろうか? カトリック教である。何がアイルランドをマンスターやレンスターやコノートにおけるような状態にしているのだろうか? カトリック教である。何がスコットランドや、合衆国や、私たちの愛する英国を今あるような、そして私が末永くかくあれかしと神に願うような強大で繁栄した国にしているのだろうか? 私はためらいなく答えよう。プロテスタント主義と、聖書を読む自由と、宗教改革の諸原理である。おゝ、宗教改革の諸原理を投げ捨てる前に、よくよく考えるがいい! カトリック教に好意的で、ローマに戻ろうとする優勢な傾向に屈する前によくよく考えるがいい。

 宗教革命の到来によって英国人は、無知のしみこんだ国民から知識を所有する者たちにされた。聖書のない国から、あらゆる教区に聖書がある国となった。暗やみの中から、それなりに明るい光の中に連れ出された。聖職者に牛耳られていた状態から、キリストの賜る自由を享受する状態に至らされた。贖罪の血潮や、信仰、恵み、真の聖潔には縁もゆかりもない状態から、こうしたものに至る鍵をにぎらされた。盲目だったのが、見える者とさせられ、奴隷だったのが自由にさせられた。永遠にわたって私たちは、宗教改革のことを神に感謝しようではないか! それがともした燭台を、私たちは決して消させたり、薄暗くさせてはならない。確かに私にはこう述べる権利がある。すなわち、時代が私たちに要求しているのは、ローマカトリック教の邪悪さを再び感じとり、プロテスタント宗教改革の巨大な価値を再び感じとることである、と。

 4. 第四に時代が私たちに要求しているのは、より高い水準の個人的聖潔であり、日常生活における実際的な信仰生活により注意深くなることである。

 私は自分の確信を正直に宣言せざるをえないが、宗教革命の時代以来、今日の英国におけるほど、実行の伴わない信仰告白、神について語りながら神とともに歩もうしない人々、神のみことばを聞きながら行なおうとはしない人々が多く見られたことは一度もなかった。いまだかつてこれほど多くの、空っぽの桶やうるさいシンバルがあったことはなかった。いまだかつてこれほど形式が重んじられながら、実質の伴わないことはなかった。何が実際的キリスト教の根幹をなしているかに関して、人々の思いは全く下降してしまったように思われる。キリスト者の男女にふさわしいふるまいとしてあった、古の黄金の基準は下落し、退歩したように見える。少し気をつけて見れば、おびただしい数の(いわゆる)宗教的な人々が、過ぎ去りし時代には、全く生きた信仰とは両立しないと考えられたであろうような行為を絶えず行なっていることがわかる。彼らはカード遊びも、劇場通いも、ダンスパーティも、小説本への耽溺も、日曜日に旅行することも、まるで害がないと思っており、それに反対されても何を云われているか全く理解できない! こうした事柄に対する古代の鋭敏な良心は失われつつあり、ドードー鳥のように絶滅していくかに見える。こうした習慣にふける若い陪餐者たちに諌言でもしようものなら、彼らはあなたを時代遅れの、狭量な、生きた化石でも見るかのように見つめ、「何かまずいことでもあるんですか?」、と云う。つまり、若い男性たちの間における締まりのない考え方、若い女性たちの間における「身持ちの悪さ」や軽薄さは、信仰を告白するキリスト者の青年層において、残念ながらざらに見受けられる特徴になってしまっているのである。

 さてこうしたすべてのことを云うからといって、私の意図を誤解してほしくないと思う。私には、禁欲的な信仰生活を勧める気持ちなど毛頭ない。修道院や女子修道院、この世からの完全な隠遁、この世における義務の履行の拒否といったすべてのことを、私は非聖書的で有害なインチキ薬であると主張する。また私は、神のみことばの中に何の保証も見いだせないような完全さの理想的基準を人々に押しつけるつもりもない。そうした、この世では到達できないような基準を唱道し、この社会の物事の管理を悪魔や悪人ばらに譲り渡すようなつもりはない。私が常に押し進めたいと願っているのは、活発で、快活で、男らしい信仰、どこに伴っていこうと、その場所でキリストの栄光を現わせるような信仰である。

 私が読者の注意を引こうと思う、より高い水準の聖潔への通り道は、非常に単純なものである。あまりにも単純なので、多くの人が馬鹿にして、にやりとする顔が思い浮かぶほどである。しかし、単純ではあってもそれは、嘆かわしいほど無視され、雑草の生い茂った小道であり、いいかげんに人々をその道へと導かなくてはならない時がきている。さて今、私たちがより詳しく吟味する必要があるのは、私たちの古き良き友、十戒である。アンドルーズ主教やピューリタンたちによって敷衍され、しかるべく詳説された、神の律法の二枚の板は、実際的信仰生活の完璧な鉱脈である。思うに、現代の悪いしるしの1つは、多くの聖職者たちがその新会堂あるいは改築した教会堂に、あえて十戒を掲げようとはせず、「あれはもう必要ない」、などと冷ややかに云い放つことである。私の信ずるところ、今ほどそれが必要な時代はない! 私たちには、私たちの主イエス・キリストの教えのうち山上の説教のような部分をより詳しく吟味する必要がある。あの素晴らしい講話には何と豊かな思索の糧がふくまれていることか! 「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません」、とは何と驚くべき言葉であることか!(マタ5:20) 悲しいかな、この聖句はほとんど用いられていない。そして最後に、しかし決して小さくないこととして、私たちがより詳しく吟味すべき必要があるのは、諸教会に対する聖パウロのほとんどすべての書簡の後半部分である。こうした箇所は、あまりにも多くの場合、見落とされ、無視されている。私の案ずるところ、聖書を読む多数の人々はローマ人への手紙の最初の11章は熟知しているが、最後の5章の内容はごく僅かしか知ってはいない。トマス・スコットの述懐によれば、彼があの古きロック聖堂でエペソ人への手紙を講解したとき、このほむべき書物の実際的な部分に到達したときには会衆の数がごく少数になってしまっていたという! 何度も云うが、あなたは私の勧告を非常に単純だと思うかもしれない。だが私はためらうことなく断言したい。これらの箇所に注意を払うことは、神の祝福により、キリストの福音進展のため最も有益なこととなる、と。私の信ずるところ、それは英国のキリスト教の水準を引き上げ、家庭における信仰生活や、世からの分離、与えられた義務の勤勉な履行、利他精神、良い気立て、そして一般的な霊的関心といった点において、今ではめったに見られないような高みへと至らせるであろう。

 この終わりの日によく聞く苦情は、現代のキリスト教には力がなく、キリストの真の教会、キリストをかしらとするからだが、過去の時代にしてきたようには19世紀の世を揺さぶっていない、ということである。その理由を歯に衣着せず告げてよいだろうか? それは、信仰を告白する信者たちの間で悲しくも優勢を占めている、低い生活基調のためである。私たちに必要なのは、エノクやアブラハムのごとく神とともに、神の前を歩く男女である。今日の私たちは、人数という点では、私たちの福音主義的な先祖たちの人数を凌駕しているが、私の信ずるところ、キリスト者的な実践という点における基準では彼らにはるかに劣っている。七、八十年前にはあれほど多くの私たちの先駆者たちを特徴づけていた自己否定、時間の活用、奢侈と放縦の欠如はどこにあるのか? 世的な事柄からの見間違えようもない分離や、自分の主の務めに常に従事しているという一見して明らかな様子、一途な心、家庭生活の単純さ、社会における格調高い生活態度、忍耐、へりくだり、全般的な礼儀正しさは、どこにあるのか? しかり、それらは全くどこへ行ってしまったのか? 私たちは彼らの主義主張を受け継ぎ、彼らの武具を身にまとってはいる。しかし私の恐れるところ、彼らの生活習慣は受け継いでいないのではないか。聖霊はそれをごらんになり、悲しんでおられる。この世はそれを見て、私たちを蔑んでいる。生活である。生活こそ----天の香のする、敬虔な、キリストに似た生活こそ----、請け合ってもいいが、世に影響を与えるのである。神の祝福によって、こうした非難を振るい落とそうと決意しようではないか。この件において時代が私たちに何を要求しているか、はっきりと見抜けるように目覚めようではないか。今より格段に高い水準の生活習慣を目ざそうではないか。どっちつかずの聖潔で満足するのは、過ぎ去った時だけで十分としようではないか。今後は努めて神とともに歩み、日常生活においては「徹底した」、見間違えようのない者となり、私たちをせせら笑う世を、たとえ回心させることはできなくとも、せめて沈黙はさせようではないか。

 5. 第五に、また最後に時代が私たちに要求しているのは、私たちの魂に善を施す昔ながらのやり方を、より規則正しく堅実に固守することである。

 聡明な英国人であればだれひとり知らぬことはないと思うが、近年わが国において途方もなく興隆を見せているのが、----他によい名称がないためこう呼ばざるをえないが----大衆宗教である。ありとあらゆる種類の礼拝が異様なほど増大している。礼拝の場所は、少なくとも50年前の10倍は開かれており、祈りと説教と主の晩餐の執行がなされている。大聖堂の身廊における礼拝や、農学会館やミルドメイ会議場などの巨大な公会堂における礼拝、連日連夜開かれている伝道礼拝、----これらはみな、よくあるもの、慣れ親しまれたものとなっている。実際これらは、現代において定期的な年中行事となっており、それらに押し寄せる人々の数を見ても人気のほどがはっきり知れるというものである。つまり、私たちが今直面している否定しようもない事実は、19世紀最後の四半世紀が途方もない量の大衆宗教の時代だ、ということである。

 さて私はこのことを非難しようとするものではない。決して誤解しないでほしい。逆に私は、古の使徒たちが企てたような信仰の「攻撃的性格」がよみがえったこと、また「何とかして、幾人かでも救」いたい(Iコリ9:22)という熱望が明らかに広まっていることについて神に感謝している。私は簡易礼拝、国内伝道、ムーディやサンキによるもののような伝道活動について神に感謝している。どんなものでも、休眠状態や無感動や無活動よりはましである。もしキリストが宣べ伝えられているのであれば、それを私は喜んでいる。しかり、今からも喜ぶことであろう(ピリ1:18)。古の英国の預言者や義人たちはこうしたことを見たいと願ったのに、決して見られなかったのである。もしホイットフィールドやウェスレーがその時代に、いずれ英国の大主教や主教たちが伝道礼拝を認可するだけでなく自ら積極的にかかわる時代がやってくるなどと告げられたとしたら、彼らにはとうてい信じられなかっただろうと思う。むしろ彼らは、エリシャの時代のあのサマリヤの貴人のように云いたくなったのではなかろうか。「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」、と(II列7:2)。

 しかし、大衆宗教の増大に感謝しつつも、私たちが決して忘れてならないのは、個人的な信仰を伴わない限り、そこに真にしっかりした価値は何もなく、極度の悪影響すら生み出しうる、ということである。扇情的な説教者を絶えず追いかけ回し、深夜まで長々と続く人いきれのこもった集会に絶えず出席し、どこかの講壇で何か鮮烈な興奮を巻き起こすような新奇な説が語られないかと絶えず切望する----こうした類のことはみな非常に不健康な形のキリスト教を生み出すと思われ、私の案ずるところ、多くの場合はその結果として魂の全き破滅へと至る。なぜなら不幸にして、大衆宗教だけを後生大事にする人々はしばしば、聖職者の壮大な熱弁と雄弁を見聞きするうちに、単なる一時的感激に引きずられ、自分が本当に感じているものにはるかにまさるような告白へと導かれてしまうからである。その後彼らが自分の到達したと想像する標準を維持するには、絶え間ない宗教的興奮を受け続けるしかない。だがしだいに、阿片吸飲者や習慣的飲酒家のように、いくら服用してもその力がなくなるときがやってきて、彼らの心に消耗感と不満足感が忍び込んでくる。そしてあまりにもしばしば、これらすべての結末は、完全な無感覚と、不信仰への堕落と、この世への完全な逆戻りではないかと思う。そしてこれらすべての原因は、大衆宗教以外に何も持っていなかったことにある! おゝ、人々がこう思い起こすならどんなによいことであろうか。エリヤに神の臨在を示したのは、風でも、火でも、地震でもなく、「かすかな細い声」であった、と(I列19:12)。

 いま私は、この主題について警告の声を上げたいと思う。私が大衆宗教の衰退を求めているのでないことは覚えておいてほしい。しかし私が押し進めたいと願っているのは、個人的な信仰----ひとりびとりと神との間における個人的な信仰である。草木の根というものは地上には全く現われていない。掘り出して調べてみると、それは貧相で、汚くて、野暮ったく、果実や葉や花のように見栄えの良いものとはほど遠い見かけをしている。しかしながら、それにもかかわらず、その軽蔑される根こそ、私たちの目に映るあらゆるいのちと健康と活力と肥沃さの真の源泉であって、それなしにはその植物や木はたちまち死んでしまうのである。さて、個人的な信仰は、あらゆる生きたキリスト教の根である。それがなくとも、集会の中や壇上で、はなやかな様子を見せたり、賛美に声を張り上げたり、涙をふりしぼったり、人々の評判を博したり、ほめそやされたりすることはできるかもしれない。しかしそれがない人は、婚礼の礼服[マタ22:11]を持たず、「神の前では死んでいる」のである。私は読者に率直に告げたい。時代が私たちに要求しているのは、自分の個人的な信仰にいやまさる注意を払うことである。

 a. 私たちは個人の生活において、より心を込めて祈るようにし、より自分の全霊を祈りに傾注しようではないか。祈りにも、生きた祈りと死んだ祈りがある。何の犠牲も伴わないような祈りもあれば、しばしば激しい叫びと涙を要する祈りもある。どちらがあなたの祈りだろうか? 名のある信仰者が公に背教して教会を驚かせ、衝撃を走らせることがあるが、その真相は彼らが、その祈りにおいて、ずっと以前から後退していたことにある。彼らは恵みの御座に赴くことを怠っていたのである。

 b. 私たちは個人の生活において、より聖書を読むようにし、そのためにより努力し、より勤勉になろうではないか。聖書を知らないことこそあらゆる誤りの根源であり、人を悪魔のなすがままにさせてしまうものである。人は、50年前よりも、ずっと個人的に聖書を読まなくなったと思う。これほど多くの英国人が、「教えの風に吹き回され」、あるいは懐疑主義に陥り、あるいは気違いじみた狭量な熱狂主義に突き進み、あるいはローマカトリック教へと転向しているかげには、神のみことばを怠惰に、表面的に、不注意に、おざなりにしか読まない習慣が根づいてしまったことがあるとしか考えられない。「そんな思い違いをしているのは、聖書……(を)知らないからです」(マタ22:29)。講壇で聖書が読まれるからといって、それは決して家庭で聖書を読むことに取って代わってはならない。

 c. 私たちは、より個人生活における瞑想と、キリストとの交わりとを保つ習慣を養おうではないか。時おり時間をとってひとりきりになる決意を固め、ダビデのように自分の魂と語り合い、自分の思いのたけを、神の右の御座についておられる私たちの偉大な大祭司にして、弁護者にして、聴罪司祭なるお方に注ぎ出そうではないか。私たちはもっと秘密懺悔を行なう必要がある----ただし人間に対してではない。私たちに必要な懺悔は、祭服室にある仕切りのついた小部屋で行なうものではなく、恵みの御座で行なうものである。私の見るところ、信仰を告白するキリスト者の中には、常に霊的食物を求めて走り回っているが、決して密室に退くことがなく、常に息を切らして急いでおり、決してひとり静まる時間をとって黙想したり、自分の霊的状態を吟味したりしようとしない人々がある。そのようなキリスト者が、矮小でひねこびた信仰しか持たず、成長せず、パロが夢で見た痩せこけた雌牛のように、いくら大衆宗教の饗宴にあずかっても全く肥え太ろうとせず、それどころか、かえって悪化していくとしても、私は全然驚きはしない。霊的に成長するかどうかは、個人的な信仰生活に大きくかかっており、個人的な信仰生活を充実させるため不可欠なのは、神の助けによって、いかなる困難が生じようとも時間を作ると決意し、その時間を用いて黙想し、祈り、聖書を読み、キリストとの個人的な交わりを持つことである。悲しいかな! 私たちの主のこのおことばは嘆かわしいほど無視されている。「自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめ……なさい」(マタ6:6)。

 私たちの福音主義的な先祖たちには、私たちの手にあるよりもはるかに乏しい手段や機会しかなかった。群衆の集う大々的な宗教的集会など、時おり教会で、あるいは野外で、ホイットフィールドやウェスレーやロウランズのような人々が説教する際を除けば、全く彼らの知るところではなかった。彼らの行動は、当世風のものでも、人気を博するものでもなく、しばしば称賛よりは迫害や攻撃を招くものだった。しかしその僅かな武器を彼らは見事に使いこなした。人々から評判や喝采を受けることは少なかったのに、私の信ずるところ彼らは神のために、私たちが現代のありとあらゆる協議会や集会や伝道室や伝道ホールや増殖した伝道手段の数々をもってするよりも、はるかに深い影響をその世代に刻み込んだ。彼らの回心者たちは、昔風の服や肌着にも似て、現代新しく生まれる赤子たちの多くよりも、より体になじみ、より長持ちし、より薄れること少なく、より色合いを保ち、より安定し、根ざし、根拠づけられていたのではないかと思う。だが何がこれらすべての理由であったか? 思うにただ彼らが、私たちが一般にそうしているよりも、より多くの注意を個人的な信仰生活に払っていたからである。彼らは個人の生活において神の近くを歩み、神に栄誉を帰していたので、神は公に彼らに栄誉を与えられた。おゝ、私たちは彼らがキリストに従ったように彼らの後に従おうではないか! 私たちも行って同じようにしようではないか。

 さてこの論考の締めくくりにあたり、いくつか実際的な適用の言葉をもって閉じさせていただきたい。

 1. まず第一に、あなたは自分自身の魂との関連において時代があなたに何を要求しているか理解したいと思っているだろうか? よく聞くがいい。私が教えよう。あなたが生きているのは独特の霊的危険のある時代である。ことによると、いまだかつてこれほど多くの罠や陥穽が天国への途上に置かれていたことはなかった。確かに、そうした罠の餌がこれほど巧みに仕掛けられていたことはなく、そうした陥穽がこれほど精巧に設けられていたことはない。自分のしようとしていることに心を向けてみるがいい。自分の行ないに注意するがいい。あなたの足の立っている道をよくよく考えるがいい。あなたが永遠の悲嘆に至ったり、自分の魂を滅ぼしたりしないように警戒するがいい。自由思想という美名のもとで実質的な不信仰に陥らないよう用心するがいい。党派心を持たないという一見もっともらしい考え方や、いわゆる寛大さだの博愛だのといった破滅的な影響によって、教理的な真理について優柔不断を通すという救いがたい状態に陥らないよう用心するがいい。いつかは決断しようと願ったり、決心したり、希望したりしているうちに人生を空費してしまい、ついには扉が閉ざされ、良心を無感覚にさせられたまま、何の希望もなく死ぬというようなことがないよう用心するがいい。目を覚まして自分の危険を感じとるがいい。立ち上がるがいい。他の何をあやふやにしようと、あなたの召されたことと選ばれたことだけは熱心に確かなものとするがいい。神の国は非常に近づいた。全能の救い主キリスト、罪人の友キリスト、永遠のいのちキリストが、あなたを待ち受けている。あなたはただキリストのもとに行きさえすればいい。立ち上がり、あらゆる云い訳を払い落とすがいい。今日のこの日、キリストはあなたを召しておられる。ともに行こうという者がだれもいなければ、ひとりきりで来るがいい。だれをも待っていてはならない。もう一度云う。この時代は途方もなく危険である。いのちに至る狭い道にほんの一握りの人々しか立っていないとしたら、神の助けにより、少なくともあなたはその一握りの中にいるよう決意するがいい。

 2. 次に、あなたは他の人々の魂との関連において時代があなたに何を要求しているか理解したいと思っているだろうか? よく聞くがいい。私が教えよう。あなたが生きているのは、善をなすための非常な自由と機会にあふれた時代である。これほど多くの用いられるための扉が開かれていたことはかつてなく、これほど多くの畑が、色づいて、刈り入れるばかりになっていたことは、かつてなかった。こころがけて、それらの開かれた扉を用い、それらの畑から収穫を刈り取るよう努めるがいい。死ぬ前に、小さな善を行なうよう努めるがいい。力を尽くして用いられる者となるがいい。神の助けにより、あなたの埋葬の日には、あなたの誕生の日よりも良いものとなった世界を残していくようにしようと、決意するがいい。親戚、友人、仲間たちの魂を思い起こすがいい。神がしばしば弱い器によって働かれることを思い起こし、聖なる巧妙さによって彼らをキリストに導くよう努めるがいい。時は縮まっている。この古き世の砂時計から砂粒はなくなりつつある。では時間を活用し、ひとりきりで天国へ行くようなことがないよう努力するがいい。疑いもなく、あなたが成功するという保証はない。善をなそうとするあなたの努力が常に他者に善を施すことになるかどうかは確かではない。しかし、それがあなた自身に善を施すことになるのは全く確実である。実践することである。実践こそ、肉体にとっても魂にとっても健康を保つ偉大な秘訣である。「人を潤す者は自分も潤される」(箴11:25)。これは私たちの主の深遠な黄金のおことばだが、その十全な意味について理解する人はめったにいない。「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使20:35)。

 3. 最後に、あなたは英国国教会との関連において時代があなたに何を要求しているか理解したいと思っているだろうか? よく聞くがいい。私が教えよう。疑いもなく、あなたが生きているのは、私たちの由緒ある教会が非常に危険で、痛ましく、きわどい立場にある時代である。彼女の漕ぎ手たちは、彼女を荒波の中に導き入れてしまった。彼女の存立そのものが、外部の教皇主義者や、不信者や、国教廃止論者たちによって危機にさらされている。彼女の生き血そのものが、内部の裏切り者や、偽りの友人や、小心な教職者たちによってどくどくと流し出されている。それにもかかわらず、英国国教会が聖書と、信仰箇条と、プロテスタント宗教革命の諸原則を堅く固守し続ける限り、私は、この教会にとどまり続けよと、あなたがたに強く勧める。この信仰箇条が打ち捨てられ、古き軍旗が降ろされるようなときが来るなら、そのとき初めて、あなたがたと私とは救命艇を水面におろし、この難破船の残骸から離れ去るべきである。だが現在のところ、私たちはこの老船にとどまっていようではないか。

 彼女が困難のさ中にあり、苦労なしにはその囲いの中で真理を保てないからといって、どうして私たちは、臆病者のように、今彼女を捨てていくべきだろうか? それが私たちにどれだけ良い状態をもたらすだろうか? どこに私たちは行けるというのだろうか? どこにこれほどすぐれた祈祷書があるだろうか? 欠陥は多々あるにせよ、いかなる教団がこれほどの善を施しているだろうか? 疑いもなくそこには私たちを悲しませるものがたくさんある。しかし、地上にある目に見える教会の中で、これほど良くやっている教会は他に1つもない。雲1つなく、すべてが晴朗な教団などどこにもない。「いずこの悪も善と混じり合っている」。麦は必ず毒麦とともに育つ。しかしそれらすべてにもかかわらず、私たちを喜ばせるものも数多くあり、わが国ではこれまで一度もなかったほど福音的な説教がなされ、国内と海外の双方でかつてないほどの働きがなされている。もしも、前世紀のロンドンでほんの数名の聖職者たちとともに孤軍奮闘した、かのブラックフライアーズの聖アン教会の老ウィリアム・ロウメインが今も生きていて、今私たちが自分の目で見ている事態を目にしたとしたら、彼は私たちの意気地のなさと恩知らずを厳しく叱責したであろう。しかり。英国国教会の改革のための戦いは、半カトリック主義や懐疑主義にもかかわらず、また外部のねたみ深い傍観者や内部の不平屋が何と云おうと、いまだ敗れたわけではない。ナポレオンが、マレンゴの戦場で4時に云ったように、「勝利するための時間はまだある」。もしも国教会内の真に忠実な者たちがひるむことなく彼女を支え続けて、互いに白眼視し合ったり、同じ消火栓で働くことや同じ救助艇で任務につくことを拒んだりさえしなければ、----もし彼らがつまらぬいさかいや反目にうつつを抜かさず、「途中で言い争」ったり[創42:24]さえしなければ、英国国教会は死ぬことなく生き続け、私たちの子々孫々への祝福となるであろう。では私たちは、両足をしっかと踏みしめ、自分の持ち場を堅く守ろうではないか。何箇所か水漏れしているからといって、あわてて船を見捨てないようにしよう。むしろポンプに人員を配置し、この立派な船を水面に浮かべておくようにしよう。私たちは働き続け、戦い続け、祈り続けて、英国国教会にとどまろう。こうした線に沿って歩く英国国教徒こそ、私の信ずるところ、「時を悟っている」英国国教徒なのである。

時代の要請[了]


*1 この論考にふくまれているのは、1879年6月11日、イプスウィッチの聖マーガレット教会において、東部地方在住の福音主義的聖職者たちの合同集会が開かれた際に行なわれた説教と実質的には同一のものである。ここには、ほとんど説教された通りの内容が再録してあるが、時間の関係上割愛せざるをえなかった個人的聖潔に関する数段落だけがつけ加えられている。[本文に戻る]

*2 バトラー『類比』序文[本文に戻る]

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