'Christ is all'       目次 | BACK | NEXT

20. 「キリストがすべて」


「キリストがすべて」(コロ3:11)

 このページの冒頭に掲げた聖句は、ほんの数語の、一息で云えるような短い言葉である。しかしそこには、非常に大きな内容がふくまれている。さながら、「私にとっては、生きることはキリスト」、であるとか、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」、といった黄金の云い回しと同じく、この言葉は著しく豊かな示唆に富んでいるのである(ピリ1:21; ガラ2:20)。

 この3つの言葉['Christ is all']こそ、キリスト教の本質であり実質である。この言葉に心から賛同できるなら、私たちの魂は良い状態にあると云える。そうできないとしたら、確かにその人は、まだまだ多くのことを学ばなくてはならない。

 そこで私は、この論考を読む方々の前に、いかなる意味でキリストがすべてなのか明らかにしてみたいと思う。そしてその方々には、以下の論考を読みつつ正直に自分の状態を判断し、最後の審判が来たとき信仰の破船に遭うことがないようにしていただきたいと思う。

 私は意図的に、本書の最後を飾る論考の主題として、この尋常ならざる聖句を取り上げた。キリストこそ、教理的キリスト教と実際的キリスト教の双方のかなめである。キリストに関する正しい知識は、義認についてだけでなく、聖化について正しく知るためにも欠かせない。いくら聖潔を追求しても、キリストにその正当な地位を認めない限り何の進歩もないであろう。私は本書を、罪に関する率直な言明によって始めた。本書の最後は、キリストに関する、同じくらい率直な言明によってしめくくらせていただきたい。

1. キリストは神のご計画においてすべてである

 まず第一に理解したいのは、キリストは、人間に関する神の全計画において、そのすべてである、ということである。

 a. かつてはこの地球にも、影も形もない時があった。いかに山々が堅固に見えても、いかに海原が底知れぬ深淵に思われても、いかに天の星々が高く見えても、かつてそれらは全く存在していなかった。そして人間も、いかに今は自分を高く評価していようと、当時はまるで未知の生物であった。

 だが、そのときキリストはどこにおられたのか?

 そのときでさえキリストは「神とともにあった」。「神であった」。「神の御姿であられ」た(ヨハ1:1; ピリ2:6)。そのときでさえ彼は、神の愛する御子であられた。「あなたはわたしを世の始まる前から愛しておられた」*、と彼は云われる。「世界が存在する前に、わたしはあなたとごいっしょにいて栄光を持っていました」*。「大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた」(ヨハ17:5、24; 箴8:23)。そのときでさえ彼は、「世の始まる前から知られて」いた救い主であり(Iペテ1:20)、信仰者らは「キリストのうちに選」ばれていた(エペ1:4)。

 b. それから、この地球が現在のような状態に創造される時が来た。太陽、月、星々が、海、陸、そしてそこに住まうありとあらゆるものが、混沌と混乱の中から生じさせられ、造り出された。そして最後の最後に、人間が地のちりから形作られた。

 だが、そのときキリストはどこにおられたのか?

 聖書の云うことを聞くがいい。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」(ヨハ1:3)。「万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、……すべて御子によって造られたのです」(コロ1:16)。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです」(ヘブ1:10)。「神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった」(箴8:27-30)。主イエスがその説教において、絶えず自然界から教訓を引き出しておられたことに何の不思議があるだろうか? 主は、羊や魚、烏、麦、ゆりの花、いちじくの木、葡萄の木について語られたとき、ご自分でお造りになった物について語っておられたのである。

 c. それから、この世に罪がはいった日がやって来た。アダムとエバが禁断の実を食べて堕落したのである。彼らは、最初に創造されたとき与えられた聖い性質を失った。神の友情と恩顧を喪失し、咎を負い、腐敗し、無力で、望みなき罪人となってしまった。罪が、彼らと、天におられる彼らの聖なる父との間に障壁として入り込んだ。もし神が、彼らに相応する罰に従って彼らを取り扱っておられたなら、彼らの前にあるのはただ、死と地獄と永遠の破滅以外の何物でもなかったであろう。

 だが、そのときキリストはどこにおられたのか?

 まさにその日、彼は震えおののく私たちの先祖たちに、唯一の救いの希望として啓示されたのである。自分たちが堕落したまさにその日、彼らに告げられたのは、やがて女の子孫がへびの頭を踏み砕き、女から生まれた救い主が悪魔を打倒し、罪に堕ちた人間を永遠のいのちへ至らせる道を勝ちとってくださるということであった(創3:15)。キリストは、堕落のまさに当日に、世の真の光として掲げ示されたのである。そしてその日以来、魂が救われるべき名としては、主の御名以外のいかなる名も知られていない。救われたあらゆる魂は、アダム以来ずっと、彼によって天国へ入ってきた。そして彼なしには、だれひとりとして地獄を免れることはできなかった。

 d. それから、世界が神に関する無知の中に埋没してしまったかのように思われた時代がやって来た。四千年を経た後、地の国々は自分たちを造ってくださった神のことをきれいさっぱり忘れ去ってしまったように見えた。エジプト、ペルシャ、ギリシャ、ローマの各帝国が成し遂げたのは、種々の迷信と偶像礼拝を蔓延させることだけであった。詩人、歴史家、哲学者たちが明らかにしたのは、どれほど高い知的能力の持ち主であっても神に関する正しい知識は決して持つことができず、人間は生来、全く腐敗した者だ、ということであった。「この世は自分の知恵によっては神を知ることがない」*(Iコリ1:21)。世界の片隅で蔑まれていた少数民族ユダヤ人をのぞき、全世界は無知と罪との中で死んでいた。

 だが、そのときキリストは何をされたのか?

 彼は、永遠の昔から御父とともにいて持っていた栄光を離れ、救いをもたらすために世に下られた。人間として彼は、私たち全員が中途半端にしか行なえなかった神のみこころを完璧に成し遂げられた。人間として彼は、私たちが受けなくてはならなかった神の御怒りを、十字架の上で受けられた。彼は、私たちのために永遠の義をもたらしてくださった。私たちを、破られた律法ののろいから贖い出してくださった。あらゆる罪と汚れを癒す泉を開いてくださった。彼は私たちの罪のために死なれた。私たちが義と認められるためによみがえられた。神の右の座に高く挙げられ、その御座につき、ご自分の敵どもがご自分の足台にされるのを待っておられる。そして今、彼はその御座の上から、みもとに来ようとするすべての者への救いを差し出しつつ、彼を信ずるすべての者のためにとりなしをし、魂の救いにかかわるすべてのことを、神の任命によってとりはからっておられる。

 e. やがて、この世から罪が打ち捨てられる時がやってくる。邪悪はいつまでも罰されないまま栄えることはない。サタンはいつまでも支配を続けるわけではなく、被造物はいつまでも重荷の下でうめき続けるわけではない。やがて万物が改まる時がやって来る。やがて正義の住む新しい天と新しい地がやって来て、主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす時が到来する(ロマ8:22; 使3:21; IIペテ3:13; イザ11:9)。

 だが、そのときキリストはどこにおられるのか? そして彼は何をなさるのか?

 キリストご自身が王となるのである。彼はこの地上にお戻りになり、万物を新しくなさる。彼は、大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来て、この世の国は彼のものとなる。国々は彼へのゆずりとして与えられ、地はその果て果てまで、彼の所有として与えられる。すべてが彼の前にひざをかがめ、すべての口が、彼は主である、と告白する。彼の主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない(マタ24:30; 黙11:15; 詩2:8; ピリ2:10、11; ダニ7:14)。

 f. やがて、すべての人がさばきを受ける日がやって来る。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出す。墓の中で眠っていたすべての者が目を覚まして出てくる。それから、おのおのが自分の行ないに応じてさばかれる(黙20:13; ダニ12:2)。

 だが、そのときキリストはどこにおられるのか?

 キリストご自身がさばき主となるのである。「父は……すべてのさばきを子にゆだねられました」。「人の子が、その栄光を帯びて……来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け……ます」。「私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになる」(ヨハ5:22; マタ25:31、32; IIコリ5:10)。

 さてもしこの論考を読む人の中にキリストのことを軽んじている人がいるなら、きょうのこの日知るがいい。自分は、神とは非常に異なる考え方をしている、と。あなたの思いは、神の思いとは全く別物である。あなたの判断は、神の判断とは全く別物である。あなたは、キリストにはちょっとした栄誉と、ちょっとした畏敬と、ちょっとした敬意を払っていれば十分だと考えている。しかし、父なる神の永遠のご計画すべてにおいて、----創造にも、贖いにも、万物更新にも、さばきにも----すべてのことにおいて、キリストは「すべて」なのである。

 確かに私たちはこうした事柄を考えておいて損はないであろう。確かにこの言葉は、あだやおろそかに書かれたものではない。「子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません」(ヨハ5:23)。

2. キリストは聖書においてすべてである

 第二のこととして理解したいのは、キリストは、聖書の各巻をなす霊感された全書物においてすべてである、ということである。

 旧新両約のいかなる箇所においても、キリストは見いだされる。----初めはおぼろげで、はっきりしない形であり、中頃では次第に明確で平明な形をとり、最後には完全に如実な形で示されているとはいえ、----実質的にキリストは、まぎれもなくあらゆる箇所におられる。

 罪人のためのキリストの犠牲と死、またキリストの御国と未来の栄光とは、聖書のどの書物を読むときも、それらを照らし出すため差し出さなくてはならない光である。キリストの十字架とキリストの王冠は、聖書の難所を通り抜けようとする人が、堅く握りしめていなくてはならない手がかりである。キリストは、みことばの多くの謎めいた箇所を解き明かすための唯一の鍵である。ある人々は聖書が理解できないと不平を云う。だが理由はごく単純である。彼らはこの鍵を用いていないのである。彼らにとって聖書は、古代エジプトの象形文字のようなものである。それが神秘であるのは、ただ単にこの鍵を知らず、用いていないがためにほかならない。

 a. キリストこそ、旧約聖書中のあらゆるいけにえにおいて示されていたお方であった。ほふられて、祭壇の上でささげられたあらゆる動物は、事実上の告白として、罪人たちのために死んでくださるひとりの救い主が待ち望まれていることを告げていた。----人間の身代わりに罪を負う代理人として死に、そのことによって人間の罪を取り除く救い主のことを告げていた。永遠の神が、罪もないけものたちを意味もなく屠殺することをお喜びになるなどと考えるのは、ばかげたことである!

 b. キリストこそ、アベルがカインよりもすぐれたいけにえをささげたとき仰ぎ見ていたお方であった。明らかにアベルは、兄より良い心を持っていただけでなく、身代わりのいけにえに関する知識と、贖罪に対する信仰とを持っていた。彼は自分の群れの初子とその血をささげることによって、血を流すことなしに罪が赦されることはないという彼の信仰を宣言したのである(ヘブ11:4)。

 c. キリストこそ、悪逆が猖獗をきわめていたあの洪水前の時代に、エノクが預言したお方であった。彼は云った。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行な……(う)ためである」(ユダ14、15)。

 d. キリストこそ、約束の地で天幕生活をしていたアブラハムが待望していたお方であった。彼は自分の子孫、自分の家系に生まれる何者かによって、地のすべての民族が祝福されることを信じていた。信仰によって彼はキリストの日を見て、喜んだのである(ヨハ8:56)。

 e. キリストこそ、死の床にあるヤコブがその子らに語ったお方である。彼は、キリストが生まれるはずの部族を名指しで示し、やがて国々が彼に対して「服従」するであろうことについて予告した。「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う」(創49:10)。

 f. キリストこそ、神がモーセを通してイスラエルにお与えになった祭儀律法の実体であった。朝夕のいけにえ、日々繰り返される血の注ぎ、祭壇、贖いのふた、大祭司、過越の祭、贖罪の日、アザゼルのやぎ----これらはみな、キリストとそのみわざを示す数多くの象徴、型、表象であった。神はご自分の民の弱さをあわれんでくださった。神は、彼らに一歩ずつ、また人が幼子に教えるときのように、たとえによって「キリスト」を教えられた。特にこの意味において「律法は」、ユダヤ人たちを「キリストへ導くための……養育係と」なった(ガラ3:24)。

 g. キリストこそ、荒野のイスラエルの眼前で、日々なされていたすべての奇蹟によって、神が彼らの注意を向けておられたお方であった。彼らを導いた雲と火の柱、毎朝彼らを養った天からのマナ、彼らについて来た岩を打つことで迸り出た水----これらはみな、1つ1つがキリストの象徴であった。また、彼らに燃える蛇の罰が下された、あの忘れがたい日に掲げられた青銅の蛇もまた、キリストの表象であった(Iコリ10:4; ヨハ3:14)。

 h. キリストこそ、すべてのさばきつかさがその予型とされていたお方であった。ヨシュアやダビデ、ギデオンやエフタ、サムソンなど、神がイスラエルを虜囚の状態から解放するため立てられたすべての者たち----彼らはみな、キリストの表象であった。確かに彼らの中には、弱く、あてにならず、誤りを犯しがちな者たちがいたが、彼らは遠い未来のよりすぐれたことの例として立てられていたのである。彼らはみな、やがて来たるべき、はるかにすぐれた解放者のことを十二部族に思い起こさせるための人物であった。

 i. キリストこそ、ダビデ王がその予型とされていたお方であった。ほとんど誰からも尊ばれていなかった時期に油注がれ選ばれて、サウルとイスラエルの全部族から排斥され、迫害を受け、命を狙われて逃亡生活を余儀なくされ、一生の間悲しみの人として過ごしながら、最後には征服者となった生涯----これらすべてにおいてダビデはキリストを象徴していた。

 j. キリストこそ、イザヤからマラキまでのすべての預言者が語っていたお方であった。彼らは鏡にぼんやり映るものを見ていた。彼らは、時には彼の苦難について語り、時にはそれに続く彼の栄光について語った(Iペテ1:11)。彼らは、必ずしも常にキリストの初臨と再臨との区別を明確につけはしなかった。一直線に並んだ2つのろうそくを重ねて見たときのように、彼らは時として2つの来臨を同時に見て、それらについて一気に語った。聖霊によって動かされ、時には十字架につけられたキリストの時代について書き、時には後の日に到来するキリストの御国について書いた。しかし彼らの書いたものを読めば、死にたもうイエス、支配したもうイエスについての思いこそ、常に彼らの念頭にあったことがわかる。

 k. 云うまでもなくキリストこそ、新約聖書全体に満ち満ちておられるお方である。使徒の働きは、キリストが宣べ伝えられ、云い広められた記録である。新約書簡は、キリストが書き記され、説明され、称揚された手紙である。しかし最初から最後まで、新約聖書全体を貫いて、いかなる名前よりもはるかに高くそびえたつ名前、それはキリストの御名である。

 私は、この論考を読むすべての人に命ずる。あなたにとって聖書がどういう本であるか、しばしば自問するがいい、と。それは、単に道徳的な教訓や健全な助言を授けてくれるだけの書物であろうか? それとも、キリストを見いだせる書物であろうか? キリストがすべてとなっているような書物であろうか? そうでないとしたら、はっきり云っておくが、あなたがこれまで聖書を読んできたことはほとんどむだだったのである。それは、さながら太陽系の研究をしながら、中心にある太陽についてまるで無視するようなものである。あなたが聖書を退屈な本だと思っても何の不思議もない!

3. キリストはあらゆる真のキリスト者の信仰生活においてすべてである

 第三のこととして理解したいのは、キリストはあらゆる真のキリスト者の信仰生活においてすべてである、ということである。

 このように云うとき私は、誤解されないように一言ことわっておきたいと思う。いかなる人も、その救いが成し遂げられるためには、父なる神の選びと、御霊なる神の聖化が絶対に必要である。そう私は信じている。三位一体の三位格には、いかなる人を栄光に至らせる際にも、完璧な調和と一致があること、また三位格すべてが協同し、合同することで、その人を罪と地獄から救い出す1つの働きをなさっておられること、それを私は信じている。御父はそのようにしておられ、御子はそのようにしておられ、聖霊はそのようにしておられる。御父はあわれみ深く、御子はあわれみ深く、聖霊はあわれみ深い。最初に「造ろう」[創1:26]、と語られたのと同じ三者が、「贖って救い出そう」、ともお語りになったのである。いかなる人も、天国に行き着くときには、その救いの栄光すべてを、御父と御子と聖霊という唯一の神の三位格に帰すであろう、と私は信じている。

 しかし、それと同時に、聖書の中に明確に見られる証拠によれば、ほむべき三位一体のみ思いにおいては、キリストこそ、人類救済のみわざにおいて最も傑出し、また最も判明に称揚されるべきお方なのである。キリストはことばとして示されていて、このことばを通して罪人に対する神の愛が知らされている。キリストの受肉と十字架上の贖いは、救いの計画全体を支える巨大な隅のかしら石である。キリストは、神に近づこうとする者が通り抜けることのできる唯一の道であり門である。キリストは、選ばれたあらゆる罪人がつぎ木されなくてはならない根である。キリストは、神と人、天と地、聖三位一体と貧しく罪深いアダムの子らと間にある、唯一の合流点である。キリストこそ、父なる神が死の世界にいのちを伝えさせるために認証し任命されたお方である(ヨハ6:27)。キリストこそ、栄光へ至らされるべき人々を御父がお与えになった相手である。キリストこそ、御霊が証ししておられるお方であり、御霊が赦しと平安を与えるため人の魂を常にお導きになるお方である。一言で云えば、「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」なさった(コロ1:19)。天空における太陽の位置は、真のキリスト教においてキリストが位置するところにひとしい。

 私はこうした事柄をあえて説明のために語っている。私がこのページを読む方々に明確に理解してほしいのは、「キリストがすべて」であると云うとき、私は御父および御霊のみわざを除外しようとする意図はない、ということである。さて、では私がどういうことを述べようと意図しているかを示させていただきたい。

 a. キリストは、神の前における罪人の義認においてすべてである。

 キリストを通してのみ私たちは聖なる神と和解することができる。彼によってのみ私たちは、いと高き方の御前に出る許可が得られ、そこに恐れなく立つことができる。「私たちは……キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです」。彼においてのみ神は、ご自身が義であり、また、不敬虔な者を義とお認めになることができる(エペ3:12; ロマ3:26)。

 定命の人間がいかなるものによって神の御前に出られるだろうか? その御目には天そのものでさえきよくはないという、光輝く存在の前で、何をもって赦免の訴えができるだろうか?

 私たちは神への義務を果たしてきたと云うだろうか? 隣人への義務を果たしてきたと云うだろうか? 私たちの祈り、私たちの規則正しさ、私たちの道徳堅固さ、私たちの生活改善、私たちの教会出席を持ち出すだろうか? これらのいずれかのゆえに、神よわれを受け入れたまえと願うだろうか?

 こうした物事のうち、何か神の目の厳重な精査に耐えられるものがあるだろうか? これらのうち、何か実際に私たちを義とするものがあるだろうか? これらのうち、何か私たちにさばきをくぐり抜けさせ、私たちを無事に栄光へと至らせるものがあるだろうか?

 無、無、無である! 十戒から何か1つ戒めを抜き出して、それによって自分を吟味してみよう。私たちはそれを繰り返し破ってきた。私たちは千のうち1つも神に答えることができない。私たちのうちいかなる者も、その生活に立ち入り、それを仔細に吟味してみれば、罪人以外の何者でもないことがわかるであろう。下される宣告は1つしかない。私たちは全員有罪であり、全員が地獄にふさわしく、全員が死ななくてはならないのである。では、いかなるものによって私たちは神の前に出られるだろうか?

 私たちはイエスの御名によって出なくてはならない。それ以外のいかなる根拠により頼むこともできず、こう云う以外に、いかなる申し立てもできない。「キリストは不敬虔な者のために十字架の上で死なれました。そして私は彼により頼んでいます。キリストは私のために死なれました。そして私は彼を信じています」、と。

 私たちの長兄の衣、キリストの義、これは、私たちの身を覆える唯一の衣、私たちが天の光の下でも恥じることなく立つことができる唯一の衣である。

 イエスの御名は、私たちに永遠の栄光の門を通り抜けさせることのできる唯一の名である。その門に私たち自身の名によって向かっても徒労であり、開門は認められず、扉を叩いても無駄である。しかしイエスの御名によって向かうなら、それは許可証となり、シボレテとなり、私たちは中に入って生きることができる。

 イエスの血のしるしは、私たちを破滅から救い出せる唯一のしるしである。終わりの日に、御使いたちがアダムの子らを分離するとき、もし私たちに、その贖罪の血潮によるしるしがついていないとしたら、生まれてこなかった方がましである。

 おゝ、義と認められたければ、キリストがすべてでなくてはならないことを、決して忘れないようにしよう! 私たちは無償の恵みによって救われた物乞いとして、ただイエスを信ずる者として天国に行くことで満足しなくてはならない。さもなければ決して救われることはないのである。

 本書を読んでいる人の中に、無頓着で、世俗的な者があるだろうか? 最後になったら急いで、「主よ、私をあわれんでください」と云い、キリストもなしに天国に到達しようと考えている人がいるだろうか? そういう人には心から忠告したい。あなたは不幸の種を蒔いているのである。今のまま変わらなければ、やがてあなたは永劫に続く苦悩の中で目覚めることになるであろう。

 本書を読んでいる人の中には、高慢で形式張った者がいるだけうか? 自分の行ないによって天国にふさわしい者となり、その検閲を通過するほど良くなろうと考えている人がいるだろうか? そういう人には衷心から忠告したい。あなたはバベルの塔を建てているのである。現在のままのあなたでは決して天国へ行き着くことはないであろう。

 しかし、本書を読んでいる人の中に、疲れた人、重荷を負っている人がいるだろうか? 救われることを願いつつ、自分が汚れた罪人であると痛感している人がいるだろうか? 私はそのような人に云う。「キリストのもとに来なさい。彼はあなたを救ってくださる。キリストのもとに来て、魂の重荷を彼に投げかけなさい。恐れずに、ただ信じていなさい」、と。

 あなたは御怒りを恐れているだろうか? キリストはあなたを来たるべき御怒りから救い出すことができる。律法ののろいからあなたを贖い出すことができる。あなたは遠く隔てられているような気がしているだろうか? キリストが苦しみを受けられたのは、あなたを神に近づけるためであった。あなたは自分が汚れていると感じているだろうか? キリストの血はすべての罪からあなたをきよめることができる。あなたは自分を不完全なものと感じるか? あなたはキリストにあって欠けのない者となれる。あなたは自分が無のように感じているだろうか? キリストはあなたの魂にとってすべてのすべてとなるであろう。天国へ行き着いた聖徒らのうち、ただのひとりといえども、こう語らない者はいない。「私は小羊の血で洗われ、白くされたのです」*、と(黙7:14)。

 b. しかしまた、キリストは、真のキリスト者の義認においてすべてであるだけでなく、その聖化においてもすべてである。

 私はだれにも誤解してほしくないと思う。私は一瞬たりとも御霊の働きを過小評価するつもりはない。しかし私が云いたいのは、いかなる人もキリストのもとに来て彼に結び合わされるまでは決して聖くなることはない、ということである。キリストと結び合わされるまで、その人のわざは死んだわざであり、その人には何の聖さもない。まずあなたはキリストにつぎ合わされなければならない。そうするときあなたは聖くなる。「彼なしに、彼から離れては、あなたがたは何もすることができない」*(ヨハ15:5)。

 そして、いかなる人もキリストにとどまることなしに、聖潔において成長することはできない。キリストは、あらゆる信者が、前進するための力を引き出さなくてはならない偉大な根源である。御霊はキリストの特別な賜物、キリストがご自分の民のために獲得された賜物である。信仰者は、単に「主キリスト・イエスを受け入れ」るだけでなく、「彼にあって歩み……キリストの中に根ざし、また建てられ」なくてはならない(コロ2:6、7)。

 あなたは聖くなりたいだろうか? ならばキリストは、古の荒野におけるイスラエルのようにあなたが日ごとに食べなくてはならないマナである。あなたは聖くなりたいだろうか? ならばキリストは、あなたが日ごとに生ける水を飲まなくてはならない岩である。あなたは聖くなりたいだろうか? ならばあなたは、常にキリストを見つめ、その十字架に目をとめていなくてはならない。また、その模範を見習うことによって、いやまさって神のそば近くを歩むべき動機を、常に新しく学んでいなくてはならない。彼に目を注いでいるうちに、あなたは彼のようになっていく。彼に目を注いでいるうちに、あなたの顔は知らぬまに輝き出してくる。自分に目を注ぐよりも彼に目を注ぐことが多くなるにつれ、あなたは、自分にまつわりつく種々の罪がふり落とされ、あなたから離れていくことに気づく。そしてあなたの目は日々光を増していく(ヘブ12:2; IIコリ3:18)。

 荒野から上って行く真の秘訣は、愛するお方に寄りかかることである(雅8:5)。強くなるための真の道は、自分の弱さを悟り、キリストがすべてでなくてはならないと感じることである。恵みにおいて成長する真の道は、一瞬ごとの必要を満たす泉としてキリストを用いることである。私たちは、あの預言者の妻が油を用いたようにキリストを用いなくてはならない。----単に自分の負債を払うためばかりでなく、日々暮らしていくために用いなくてはならない。私たちは、こう云えるように努力すべきである。「いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(II列4:7; ガラ2:20)。

 キリストを抜きにして聖くなろうとする人々の、何と哀れなことか! あなたの労苦はことごとくむなしい。あなたが金を投じている財布は穴だらけである。あなたはざるに水を注いでいるのである。あなたは巨大な丸石を丘の上まで転がしていこうとしている。練っていないモルタルで壁を築きつつある。嘘ではない。あなたは間違ったところから仕事を始めているのである。あなたはまず、キリストのもとに来なくてはならない。そうするとき彼は、あなたに聖める御霊を賜るであろう。あなたはパウロとともにこう云えるようにならなくてはならない。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリ4:13)。

 c. しかしまた、キリストは、真のキリスト者の聖化においてすべてであるだけでなく、現在の時におけるキリスト者の慰めにおいてもすべてである。

 救われた魂には多くの悲しみがある。彼には、他の人々と同じ、弱くもろい肉体がある。他の人々と同じ心、そしてしばしば人並み以上に繊細な心がある。他の人々と同じ、そしてしばしば人並み以上に厳しい試練や損失がある。彼には、離別や死や失望や十字架といった、世で受けるべき割り当ての分がある。彼には戦うべき世があり、非難されることないように果たすべき人生での務めがあり、忍耐を持って忍ばなくてはならない未回心の親族があり、耐えるべき迫害があり、死すべき死がある。

 だが、このような務めにふさわしい者は、いったいだれであろうか? 何がこれらすべてを耐え忍ぶ力を信仰者に与えてくれるだろうか? それは、キリストのうちにある慰め以外にない(ピリ2:1)。

 まさにキリストは、苦しみを分け合うために生まれた兄弟である。兄弟よりも親密な友人であり、ご自分の民を慰めることのできる唯一のお方である[箴17:17; 18:24]。彼は、彼らの弱さに同情することができる。ご自分も苦しみに会われたからである(ヘブ4:15)。彼は悲しみがどういうものか知っておられる。ご自身、悲しみの人だったからである。彼は肉体の痛みがどういうものか知っておられる。ご自分の肉体が苦痛で搾り上げられたからである。彼は叫ばれた。「私の骨々はみな、はずれました」(詩22:14)。彼は貧困や疲労がどういうものか知っておられた。ご自身、しばしばくたくたに疲れ果て、枕するところもないことがあったからである。家族からの不親切がどういうものか知っておられた。彼の兄弟たちでさえ彼を信じていなかったからである。彼はご自分の家族からさえ全く尊ばれてはいなかった。

 そしてイエスは、どのようにすれば苦しみを受けているご自分の民を慰めることができるか正確に知っておられる。どのように霊の傷に油とぶどう酒を注げばいいか、またどのようにぽっかり穴のあいた心を満たせばいいか、どのように疲れ果てた者におりにかなった言葉をかければいいか、どのように絶望のうちにある心を癒せばいいか、どのように私たちのすべての病床を整えればいいか、どのように私たちが息も絶え絶えな時に近づけばいいか、どのようにすれば、「恐れるな。わたしがあなたの救いだ」、と語ればいいかを知っておられる(哀3:57; 詩35:3)。

 同情は心に甘いと云われる。しかしキリストの同情のようなものは他にない。私たちのすべての苦しみにおいて、彼も苦しんでくださる。彼は私たちの悲しみを知っておられる。私たちのすべての苦痛において、彼も苦痛を感じてくださる。そして腕の確かな名医のように、私たちに余計な悲しみは一滴も多く処方なさることはない。ダビデはかつてこう云った。「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださる」(詩94:19 <英欽定訳>)。きっと多くの信仰者が同じことを云えるであろう。「もしも主が私たちの味方でなかったなら、……そのとき、深い水は私たちの魂を越えて行ったであろう」(詩124:5 <英欽定訳>)。

 信仰者が、いかにそのすべての困難を乗り越えていくかは驚くべきことに思える。彼がいかに火と水の中を通り抜けていくかは理解しがたいように見える。しかしその真相は簡単である。キリストは、義認や聖化であるばかりか、慰めでもあるのである。

 おゝ、尽きることのない慰めを求めている人々に、私は勧める。キリストのもとへ行くがいい! キリストにだけは何の不足もない。金持ちはその富によって失望させられる。学のある人々はその書物によって失望させられる。夫は妻によって失望させられる。妻は夫によって失望させられる。親は子どもによって失望させられる。政治家は、多くの苦闘の後でようやく得た地位と権力によって失望させられる。彼らが痛恨とともに思い知るのは、それが楽しみよりは苦痛であること、それが失意と、いらだちと、絶え間ない面倒と、心配の種と、虚栄と、霊の悩みであるということである。しかしいかなる人も決してキリストによって失望させられたことはない。

 d. しかしキリストは、真のキリスト者の慰めにおいてすべてであるだけでなく、来たるべき未来についてキリスト者がいだく希望においてもすべてである。

 私が思うに、いかなる人も、自分の魂についてある程度の希望はいだいているものである。しかし大多数の人々の希望は、むなしい幻想にすぎない。それは何の確実な根拠にも基づいていない。真の神の子ら----真摯で、徹底的なキリスト者----以外のいかなる人間も、自分のうちにある希望について筋の通った弁明をすることはできない。いかなる希望も、聖書的でなければ筋の通ったものではない。

 真のキリスト者には将来への見通しとして確かな希望がある。そうしたものが世俗的な人には全くない。真のキリスト者は遠くにある光を見ている。世俗的な人に見えるのは暗闇だけである。では何が真のキリスト者の希望なのだろうか? それは、イエス・キリストが再びやって来るということ、罪なきお方として、ご自分の民すべてを引き連れて、あらゆる涙を拭い去り、眠りについたその民をよみがえらせ、ご自分の家族全員を集めて、いつまでもご自分とともにいさせるために、やって来られるということである。

 なぜ信仰者は忍耐強いのか? 主の来臨を待ち望んでいるからである。彼の宝は天にある。彼が良い目を見るのはこれからである。この世は彼の安住の地ではなく、仮寝の宿であり、宿屋はわが家ではない。彼が知っているのは、「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない」、ということである。キリストがやって来られる、それだけで十分なのである(ヘブ10:37)。

 これはまさしく「祝福された望み」である!(テト2:13) 現在は授業中だが、そのときには永遠の休暇となる。今は波立つ海上で揺さぶられ続けているが、そのときには平穏な港につくのである。今は散らされているが、そのときには集められるのである。今は種蒔きの時だが、そのときには収穫の時となるのである。今は労働の季節だが、そのときには報酬が得られるのである。今は十字架だが、そのときには栄冠なのである。

 人は、この世での自分の「期待」や希望について語る。だがいかなる人も、救われた人ほど確実な期待を持ってはいない。その人はこう云えるのである。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ」(詩62:5)。

 救いに至るあらゆる真の信仰において、キリストはすべてである。義認においてすべてであり、聖化においてすべてであり、慰めにおいてすべてであり、希望においてすべてである。このことを知る母の子の何と祝福されたことよ! それ以上に、それを感じている者の何と祝福されていることよ! おゝ、願わくは人々が自分を探って、自分の魂のため、こうしたことをどれだけ知っているか確かめるように!

4. キリストは天国においてすべてである

 さらにもう1つだけつけ加えて、終わりたいと思う。私たちは、キリストが天国においてもすべてであることを理解しよう。

 この点について私は長々と語ることはできない。たとえ紙数に余裕があったとしても、力の方が足りない。まだ見ぬことがら、見知らぬ世については、私は不十分な描写しかできない。しかし私はこのことだけは知っている。天国に行き着いたあらゆる人は、そこでもキリストがすべてであることを見いだすであろう。

 ソロモンの神殿における祭壇のように、十字架にかけられたキリストは天国における中心的な存在である。その神殿は神殿の門を入ってきたあらゆる人の目を釘付けにした。それは巨大な青銅の祭壇で、20キュビトという幅は、神殿正面そのものの横幅に等しかった(II歴3:4; 4:1)。それと同じようにイエスは、栄光に入ったすべての人の目に飛び込んでくる。その御座の中央には、賛美の声をあげる御使いらや聖徒らに囲まれた、「ほふられたと見える子羊」がおられる。そして「子羊が」その場所の「あかり」なのである(黙5:6; 21:23)。

 主イエスに対する賛美は、天のあらゆる住人の永遠の歌となる。彼らは大声で云う。「ほふられた小羊は……賛美を受けるにふさわしい方です。御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」(黙5:12、13)。

 主イエスに対する奉仕は、天のあらゆる住人の1つの永遠の務めとなる。私たちは、「聖所で昼も夜も、彼に仕え」ることになる(黙7:15 <英欽定訳>)。私たちがとうとう気を散らされることも、倦み疲れることもなく、彼に仕えられるようになるとは、何という幸いであろう。

 キリストご自身のご臨在は、天の住人の1つの永遠の喜びとなる。私たちは「彼の御顔を仰ぎ見」*、彼の御声を聞き、友と友が語るように彼と語り合うことになる(黙22:4)。たとえその婚宴にだれが欠けているとしても、主そのひとが臨席しておられ、その臨在が私たちのすべての欠けを満ち足らすとは、何と甘やかなことであろう(詩17:15)。

 主イエス・キリストを心から愛してきた人々にとって、天国は何と甘美で栄えに満ちた住まいとなることか! この地で私たちは、信仰によって彼とともに生き、彼を目で見ることはなくとも平安を見いだしている。だが、かの地においては顔と顔を合わせて彼にまみえ、その完全な麗しさを目の当たりにするのである。まさに、「目が見るところは、心があこがれることにまさる」(伝6:9)。

 しかし悲しいかな、天国にふさわしい人々の何と少ないことだろうか。常日頃から、死んだら「天国に行く」と語っている人々が、その実、救いに至る信仰も、キリストを真に知る知識も如実に欠けているということの何と多いことか。この地であなたはキリストを全く尊ぼうとしていない。彼と何の交わりも持とうとしていない。彼を愛してもいない。あゝ、ではあなたは天国で何ができようか? そこであなたは全くお呼びでない。その喜びはあなたにとって何の喜びでもない。その幸福はあなたが入ることのできない幸福である。そこでなされる務めは、あなたの心にとって大儀な重荷となるであろう。おゝ、遅くならないうちに悔い改めて、自分を変えるがいい!

 さて私は、これまで述べたことで、この「キリストがすべて」という短い表現の裾野がいかに深いものであるかを示せたと思う。

 紙数さえ許せば、こうした事柄に、いくらでもつけ加えていけるであろう。この主題はまだまだ語り尽くせていない。私は単にその表面をなでまわしただけにすぎない。これに関連した尊い真理の鉱脈がいくつも、手つかずのまま残っている。

 私は、目に見える教会において、いかにキリストがすべてでなくてはならないかを示すこともできたであろう。壮麗な礼拝堂、おびただしい数の宗教儀式、きらびやかな式典の数々、聖職者の大群、これらはみな、主イエスご自身がそのすべての職務において栄誉を帰され、賛美され、称揚されていない限り、神の目にとってはことごとく無に等しい。キリストがすべてとなっていないような教会はいのちを失った亡骸にすぎない。

 私は、牧会活動のすべてにおいて、いかにキリストがすべてでなくてはならないかを示すこともできたであろう。聖職に叙任された人々がなすべきものとされている偉大な務めは、キリストを高く掲げることである。私たちは、あの青銅の蛇を掲げた旗ざおのようになるべきである。私たちは、この信仰の偉大な対象を称揚する限りにおいて有用な者ではあるが、それを越えては何の価値もない。私たちは、反逆の世に王の御子についての知らせを運ぶ大使となるべきである。だがもし私たちが教えることによって人々が、その方について考えるよりも、私たちについて考えるようになるとしたら、私たちは職務にふさわしくないことになる。キリストについて証しせず、キリストをすべてとしないような教役者に、御霊は決して誉れを与えはしない。

 私は聖書において、キリストの種々の職務が、いかに言葉で云い尽くせないほど多岐にわたって見えることも示せたであろう。キリストの満ち満ちた豊かさが、いかに比喩に比喩を重ねても説明しきれないように見えることも示せたであろう。大祭司、仲保者、贖い主、救い主、弁護者、羊飼い、医者、花婿、かしら、いのちのパン、世の光、道、門、ぶどうの木、岩、泉、義の太陽、先駆け、保証、創始者、いのちの君、アーメン、万物の支配者、信仰の創始者であり完成者、神の子羊、もろもろの民の王、不思議な助言者、力ある神、魂の監督者----これらはみな、そしてこれらよりさらに多くの名称が、聖書でキリストに与えられている。その気さえあれば、これらはみな、だれでも飲むことのできる教えと慰めの泉である。それぞれがみな、有益な瞑想の糧を与えてくれる。

 しかし私は、これまで述べたことで十分、私がこの論考を読むすべての人の思いに刻み込みたいと願っている点について明らかにしたと思う。今からこの主題のしめくくりに語ろうとしている実際的結論の途方もない重要性については、これまで述べたことで十分示せたと思う。

 1. キリストはすべてだろうか? ならば私たちは、キリストを抜きにした信仰が全く無益であることを学びとろうではないか。

 残念ながらバプテスマは受けたものの、キリストについては実質上何も知らないという人々があまりにも多い。彼らの信仰を成り立たせているのは、いくつかの漠然とした観念と空疎な決まり文句である。彼らは「他の人ほど悪い人間ではない」。彼らは「教会に忠実に通っている」。彼らは「自分の義務を果たそうとしている」。彼らは「だれにも迷惑をかけていない」。彼らは「神があわれみをかけてくださることを願っている」。彼らは「全能の神が自分の罪を赦し、死んだら天国へ連れていってくださると信じている」。これが彼らの信仰のほぼすべてである!

 しかし、こうした人々は実質的にキリストについて何を知っているだろうか? 無である。皆無である! 彼らは、彼の種々の職務とみわざ、彼の血潮、彼の義、彼の仲介、彼の祭司職、彼のとりなしについて、実体験として何を知っているだろうか? 無である。皆無である! 救いに至る信仰について彼らに聞いてみるがいい。御霊により新しく生まれることについて聞いてみるがいい。キリスト・イエスにあって聖められることについて聞いてみるがいい。どのような答えが得られるだろうか? あなたは彼らにとって未開人であろう。あなたは単純な聖書の質問をしただけである。しかし彼らがそれについて経験的に知っていることは、仏教徒かトルコ人なみの乏しさでしかない。にもかかわらず、これが世界中でキリスト者と呼ばれている何百何千万もの人々の信仰なのである!

 もしこの論考を読む人の中にそうした種類の人がいるなら、私はその人にはっきり警告したい。そのようなキリスト教は決して人を天国へ連れてはいかない、と。それは人の目には、しごく申し分のないものに見えるかもしれない。教区会でも、職場でも、議会でも、大通りでも、何の問題もなく及第点を得られるかもしれない。しかし、それは決してあなたを慰めることはない。決してあなたの良心を満足させることはない。決してあなたの魂を救うことはない。

 私はあなたにはっきり警告する。神のあわれみに関するあらゆる観念、理論は、キリスト抜きの、キリストを除外したものである限り、無根拠な議論、むなしい空想である。そうした理論は、インド神話のクリシュナ神を刻んだ像と同じく、人間の発明した純然たる偶像である。こうした種々の理論はすべて地から出て、土で造られたものである。それらは決して天から出たものではない[Iコリ15:47]。天の神はキリストを唯一の救い主、いのちの道として認証し任命なさったのであって、救われたいと願うすべての人は、彼によって救われることでよしとするか、決して救われないかのいずれかでなくてはならない。

 この文章を読むすべての人は注意するがいい。私はこの日あなたがたに公明正大に警告しておいた。キリスト抜きの信仰は決してあなたの魂を救わないのだ、と。

 2. もう1つ云わせていただきたい。キリストはすべてだろうか? ならば、救いの問題においてキリストに何か別のものをつけ足すということが途方もない愚行であることを学ぶがいい。

 おびただしい数の人々が、バプテスマを受け、キリストを尊んでいると告白しているが、その実、はなはだしい侮辱を彼に加えている。彼らは、自分の信仰体系の中で多少の地位はキリストに認めているが、神が指定なさったほどの地位をキリストが満たすことは認めない。彼らの魂にとって、キリストだけがすべてのすべてではないのである。とんでもない! 彼らが自分の魂を実質的に安らわせているのは、キリストと教会、キリストと聖礼典、キリストと聖職者、キリストと自分の悔い改め、キリストと自分の善良さ、キリストと自分の祈り、キリストと自分の誠実さと愛、といったもののいずれかなのである。

 もしこの論考を読む人の中にそのような種類の人がいるとするなら、やはり私ははっきりと警告する。あなたの信仰は神を怒らせるものである、と。あなたは神の立てた救いの計画を、自分勝手にこしらえた計画に変えてしまっている。あなたのしていることは、キリストだけにふさわしい栄光を他のものに与えることによって、実質上キリストをその御座から退位させているにひとしい。

 そうした信仰をだれが説いているか、あなたの信仰がだれの言葉に基づいているか、私にはどうでもいいことである。それが教皇であれ枢機卿であれ、大主教であれ主教であれ、聖堂参事会長であれ大執事であれ、長老であれ執事であれ、監督派であれ長老派であれ、バプテスト派であれ独立派であれ、ウェスレー派であれプリマス・ブレズレン派であれ、だれであれキリストに何かをつけ加える者は、誤りを教えているのである。

 あなたがキリストに何をつけ加えているか、私にはどうでもいいことである。それがローマ教会に加入することであれ、監督派になることであれ、単立教会の信徒になることであれ、祈祷書を捨てることであれ、浸礼を受けることであれ、----いかなることであれ救いの問題においてキリストに実質的に何かをつけ加えるならば、あなたはキリストに損害を与えているのである。

 自分のしていることをよくわきまえるがいい。キリストのしもべたちに、キリストにしかふさわしくない栄誉を与えないよう用心するがいい。キリストの制定なさった儀式に、主にのみささげられるべき栄誉を与えないよう用心するがいい。あなたの魂の重荷をキリスト以外の何物にもゆだねず、キリストにだけゆだねるよう用心するがいい。

 3. 最後にもう1つだけ云わせていただきたい。キリストはすべてだろうか? では、救われたいと願う人はみな、キリストに直接そう願い求めるがいい。

 多くの人はキリストのことをその耳で聞き、彼について語られたことをすべて信ずる。彼らは、キリスト以外に何の救いもないことを認める。イエスだけが彼らを地獄から救い出すことができ、イエスだけが彼らを神の御前に傷なく立たせることがおできになることを受け入れる。

 しかし彼らは、決してこの一般的な承認を越えて進もうとはしないように見える。決して自分の魂のため明確にキリストにすがりつこうとはしない。彼らは願いつつ、求めつつ、感じつつ、意図しつつある状態から一歩も動こうとせず、決してそれ以上先には行かない。彼らは、私たちが何と云っているかは理解する。それがすべて真実であることも知っている。いつかは完全にその恩恵にあずかりたいとは希望している。が、現在のところは、そこから何の恩恵も受け取っていない。世が今なお彼らのすべてである。政治が彼らのすべてである。快楽が彼らのすべてである。商売が彼らのすべてである。しかしキリストは彼らのすべてではない。

 もしこの論考を読む人の中にこうした種類の人がいるなら、やはり私ははっきり警告する。あなたの魂は悪い状態にある、と。今のままのあなたは、イスカリオテのユダやアハブやカインと全く異なることなく、地獄へ向かってまっしぐらに進みつつある。嘘ではない。キリストに対する信仰が現実になくてはならない。さもないと、あなたに関する限りキリストの死はむだだったのである。飢えた人を養うのはパンを眺めることではなく、現実にそれを食べることである。難破した水夫を救うのは救命艇を見つめることではなく、現実にそれに乗り込むことである。あなたの魂を救うには、単にキリストが救い主であると知り、信じるだけでなく、現実にあなたとキリストとの間でやりとりがなされなくてはならない。あなたはこう云えなくてはならない。「キリストは私の救い主です。なぜなら私は信仰によって彼のもとへ行き、彼を自分のものとしたからです」、と。ルターは云う。「信仰生活の大部分は、所有代名詞を使えるか使えないかで決する。私から『私の』という言葉を取り去ってみるがいい。それは私を神から取り去ることである」。

 この日、私が与える助言を聞き、それに基づいて即座に行動するがいい。一刻もぐずぐずしていてはならない。決してやって来ないような、何か想像上の心持ちや気分が訪れるのを待っていてはならない。まず最初に御霊を得てからキリストのもとに行くのだ、などと考えて、ためらっていてはならない。立ち上がって、ありのままのあなたでキリストのもとへ行くがいい。彼はあなたを待っておられる。彼は力強さだけでなく救う意欲にも満ちておられる。あなたは自分の肉体的な病気の治療について医者とやりとりするように彼とやりとりしなくてはならない。直接彼に申し出て、あなたの願いとするところをすべて申し上げるがいい。この日、あなたはことばを用意して[ホセ14:2]、あの十字架上で死んだ強盗がしたように、主イエスに向かって大声で赦しと平安を求めるがいい。あの男がしたように、「イエスさま。……私を思い出してください」、と叫ぶがいい(ルカ23:42)。彼に申し上げるがいい。自分はあなたが罪人を受け入れてくださると聞きました、自分は罪人です、と。自分は救われたいのです、と申し上げ、どうか救ってください、と願うがいい。自分自身で実際に主がいつくしみ深い方であることを味わうまでは安心しないようにしなさい。本当に真剣に求める思いで、そのようにしさえするなら、遅かれ早かれあなたは気づくであろう。キリストがすべてである、と。

 4. もう一言だけ云わせていただきたい。キリストはすべてだろうか? ならば、キリストのすべての回心した民は、それを本気で信じているような態度を彼に対してとろうではないか。これまでしてきたよりもはるかにまさって彼により頼み、信頼するがいい。

 悲しいことに、主の民の多くの生き方は、彼らのものである種々の特権よりもはるかに低い! 多くの真のキリスト者の魂は、自分で自分の平安を盗みとり、自分で自分への恵みを捨てている。多くの人は、無意識のうちに、自分の信仰か、自分の心のうちにおける御霊の働きをキリストにつけ足しており、その結果福音の平安のすべてをとり逃している。多くの人は、その聖潔の追求においてほとんど進歩することがなく、非常に薄ぽんやりとしか輝かない。だが、それらすべてはなぜだろうか? 二十人のうち十九人までは、ただ単にキリストをすべてのすべてとしていないためである。

 さて私はこの論考を読むすべての信仰者に願いたい。どうか自分自身のために、キリストが本当に、徹底的に、自分のすべてのすべてとなっているかどうか確かめていただきたい。自分自身の何かをキリストと混ぜ合わせたりしないよう用心するがいい。

 あなたには信仰があるだろうか? それは、はかりしれない価値の祝福である。イエスを心から喜んで信頼する者はまことに幸いである。しかし、あなたは自分の信仰をキリストにしないように注意するがいい。自分の信仰に頼るのではなく、キリストに頼るがいい。

 あなたの魂の中では御霊が働いておられるだろうか? もしそうなら神に感謝するがいい。それは決して覆されることのない働きである。しかし、おゝ、用心するがいい。知らぬ間に、御霊の働きをキリストにしてしまわないように! 御霊の働きに頼るのではなく、キリストに頼るがいい。

 あなたは信仰生活の豊かさを実感し、恵みを体験しているだろうか? もしそうなら神に感謝するがいい。幾多の人々が犬猫並みの信仰心しか持っていないのである。しかし、おゝ、用心するがいい。自分の感情や感動をキリストにしてしまわないように! そうしたものは、貧弱で、あてにならないものであって、私たちの肉体や外的状況に悲しいほど依存している。自分の感情には髪の毛一筋も頼ってはならない。キリストだけを頼りにしなくてはならない。

 心からお願いしたい。信仰の偉大な対象であるイエス・キリストをさらにさらに見つめ、彼のことを常に思いにとどめておくことを学んでいただきたい。そのようにすることによってあなたは信仰が、そしてその他のすべての恵みが成長することに気づくであろう。初めは、自分が成長していることなど全く感じとれないかもしれない。しかし練達の射手となろうとする人は、矢を見つめるのではなく、的を見つめなくてはならない。

 悲しいかな、多くの信仰者の心には今なお大きな高慢と不信仰の大きな塊がこびりついているのではないかと思う。自分がいかに救い主を必要としているか悟っている人は、ほとんどないように見える。自分がいかに徹底的に彼の恩恵をこうむっているか理解している人は、見た所ほとんどいない。自分がいかに日々彼を必要としているかわかっている人は、見た所ほとんどいない。自分がいかに単純に、幼子のようになって彼に自分の魂をゆだねなくてはならないか感じとっている人は、見た所ほとんどいない。彼がいかにご自分の貧しく弱い民に対して愛に満ちておられるか、いかに喜んで彼らを助けようとしておられるか気づいている人は、見た所ほとんどいない! そして、それゆえ、キリストにあって持つことのできる、敬虔な生活を生きる平安と喜びと強さと力とを知っている人が、見た所ほとんどいないのである。

 私はあなたに云う。もし良心があなたに罪ありと告げているのであれば、やり方を変えることである。考え方を変えて、キリストをいやまさって信頼することを学ぶがいい。医者は患者が来院して治療を受けるのを愛するものである。病人を受け入れ、できるものなら病を癒してやるのが医者の務めである。弁護士は雇われるのを愛する。それが彼の職務である。夫は妻に信頼され、寄りかかられるのを愛する。彼女をいつくしみ、彼女の慰めを増してやるのが彼の喜びである。そしてキリストは、ご自分の民が彼に寄りかかり、彼にあって安らい、彼にとどまるのを愛される。

 私たちはみな、そのようにすることを学び、ますますそうしていこうではないか。私たちは、キリストをいのちとして生きようではないか。キリストにあって生きようではないか。キリストとともに生きようではないか。キリストのために生きようではないか。そのようにすることで私たちは、自分が心からキリストがすべてであると悟っているという証しを立てるのである。そのようにすることで私たちは、大きな平安を感じ、主を見るために欠かせないあの聖潔に、いやまさって達するのである(ヘブ12:14)。

「キリストがすべて」[了]

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