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18. 「測りがたい富」


「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え……るためにほかなりません」(エペ3:8)

 もし私たちが、この文章を初めて読み聞かされたとしたら、だれによって書かれたか知らなかったとしても、みなこれを、尋常ならざる文章であると感ずるだろうと思う。尋常ならざる、というのは、ここで用いられている大胆で印象的な比喩のためである。「すべての聖徒たちのうちで一番小さな」、「キリストの測りがたい富」----これらはまさに「息吹く思想と燃える言葉」である。

 しかし、この文章を書いた人物のことを思うとき、これは倍増しで尋常ならざるものとなる。これを書いたのは、かの偉大な異邦人の使徒、聖徒パウロにほかならない。千八百年前にパレスチナから進発して世界をひっくり返した、高貴で小さなユダヤ人の軍隊の指導者にして、キリストの勇敢な兵士にして、その罪なき主君を除き、女から生まれたいかなる者にもまして人類の上に深い影響を残した人物にほかならない。----その影響は今日までもとどまり続けている。確かにそのような人物のペンによって記されたこのような文章には、格別な注意を払わなくてはならない。

 私たちは、この聖句をひたと見据えて、ここに見られる3つのことに注目しよう。

1. 第一に、聖パウロは自分自身について何と云っているか。彼は云う。「私は、すべての聖徒たちのうちで一番小さな者です」。
2. 第二に、聖パウロは自分の牧師としての職務について何と云っているか。彼は云う。「私に、この恵みが与えられたのは、宣べ伝えるためです」。
3. 第三に、聖パウロは自分の宣べ伝えている偉大な主題について何と云っているか。彼はそれを、「キリストの測りがたい富」と呼んでいる。

 この3つの点それぞれについて、ここで多少の説明を加えるならば、この聖句全体を記憶に焼きつけ、良心と心と思いに銘記させる助けになると思う。

1. 聖パウロは自分自身について何と云っているか

 まず第一に、聖パウロが自分自身について何と云っているかに注目しよう。

 彼の言葉遣いは、著しく強烈なものである。各地の有名教会の創設者にして、霊感された14通の書簡の著者、「あの大使徒たちに劣るところはない」人物、その「労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばで」あった人物、人々の魂のためには「財を費やし、また自分自身をさえ使い尽くし」た人物、「キリストのゆえに、いっさいのことを損と思って」いた人物、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」、と真実云うことのできた人物[IIコリ11:5、23; 12:15; ピリ3:8; 1:21]----その彼が自分について何と云っているであろうか? 彼は際立った比較級と最上級を用いている。彼は云うのである。「私は、すべての聖徒たちのうちで一番小さな者よりも小さな者です」、と <英欽定訳> 。すべての聖徒たちのうちで一番小さな者とは、何とあわれな者であることか! しかし聖パウロは云う。「私は、その者よりさらに小さい者なのです」、と*1

 おそらくこのような言葉遣いは、キリスト者であると告白し自称している多くの人々にとって、ほとんど理解不能ではないかと思う。聖書にも自分の心にも無知な彼らは、聖徒のだれかれが自分と自分の達成した物事について、口をきわめてへりくだったことを語るとき、それがどういう意味か理解できない。彼らは云うであろう。「それは、言葉の綾というものだ。それは聖パウロがかつて、新米キリスト者としてキリストへの奉仕を始めたころには、そういう者だったという意味にすぎない」、と。まさに、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません」、ということほど真実なことはない(Iコリ2:14)。真のキリスト者の祈りも、賛美も、争闘も、恐れも、希望も、喜びも、悲しみも、ロマ書7章に記されているあらゆる経験も----すべてが、そのすべてが世の人にとっては「愚か」なのである。さながら盲人にはレノルズやゲーンズボロの名画の善し悪しがわからず、聾者にはヘンデルの『メサイア』が鑑賞できないように、回心していない人は使徒の卑しい自己認識の真意が理解できないのである。

 しかし、私たちはこう確信を持ってよいであろう。聖パウロがそのペンで書いたことは、彼がその心で真実感じていたことである、と。冒頭の聖句のような言葉遣いは、この箇所だけに限られたものではない。別の箇所では、この程度ではすまない表現すら用いられているのである。ピリピ人に対して彼は云っている。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ追求しているのです」。コリント人に対して彼は云っている。「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です」。テモテに対して彼は云う。「私は罪人のかしらです」。ローマ人に対して彼は叫んでいる。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」、と(ピリ3:12; Iコリ15:9; Iテモ1:15; ロマ7:24)。はっきり云えば、聖パウロは自分の内心の奥底に、他のいかなる人のうちに見られるよりも、はるかに多くの欠陥と弱さを見ていたのである。彼の心の目は、神の聖霊によって、この上もなく開かれていたため、他の人々の鈍い目には決して見えないような悪が、百も二百も自分のうちに存在するのを見出していた。つまり、大きな霊的な光を有していた彼には、自分の生来の腐敗を見通す大きな洞察力があり、頭の天辺から爪先まで謙遜を身につけていたのである(Iペテ5:5)。

 さてここで明確に理解しておきたいのは、聖パウロの持っていたようなへりくだりは、この偉大な異邦人の使徒だけに限られた特徴ではなかったということである。それとは逆に、これは、あらゆる時代の最も傑出した神の聖徒たち全員の主要なしるしの1つであった。人は真の恵みをその心のうちに持てば持つほど、自分の罪意識が深まるのである。聖霊が彼らの魂に光を注ぎ込めば注ぎ込むほど、彼らは自分の弱さと汚れと暗闇とを認識するようになる。死んだ魂は何も感じず、何も見えない。いのちがやってくるとともに、はっきりとした視力と、鋭敏な良心と、霊的感受性がやってくるのである。アブラハムやヤコブやヨブやダビデやバプテスマのヨハネが、いかに自分のことを卑しい者と語っているか見るがいい。ブラッドフォードやフッカーやジョージ・ハーバートやベヴァリジやバクスターやマクチェーンといった、近現代の聖徒らの伝記を調べてみるがいい。いかに彼ら全員に、ある特徴または性格が共通していることか、注目してみるがいい。----それは非常に深い罪意識であった。

 底の浅い、浅薄な信仰告白者たちは、その最初の愛に心燃えている間、その気さえあれば「完全」について語るかもしれない。だが教会史のあらゆる時代の偉大な聖徒たちは、聖パウロから今日に至るまで、常に「謙遜を身に着け」ていた。

 この論考を読んでいる人々の中で、救われたいと願う人は、きょうのこの日、知るがいい。天国への最初の足どりは深い罪意識と、自分自身の卑しい自己認識である。信仰生活のとっかかりは自分が「良い」人間だと感じることにある、などという愚劣な云い慣わしは打ち捨てるがいい。むしろこの聖書の大原則をつかむがいい。すなわち、私たちは自分がいかに「悪い」者であるかを感じることから始めなくてはならず、本当に自分の「悪さ」を感じ出すまでは、真の善についても救いに至るキリスト教についても何1つ知ってはいないのである。幸いなのは、あの取税人の祈りによって神に近づくことを学んだ者である。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)。

 私たちはみなへりくだりを追い求めようではないか。これほど人間に似つかわしい恵みはない。私たちは何様だというので高ぶるというのか。世界に生まれ出るあらゆる生物のうちで、アダムの子孫ほど他者に依存しているものはない。肉体的に考えて、これほどの配慮と注意を必要とするからだがあろうか。人間の肉体ほど、日ごとに食物と衣服という天の恵み、地の産物の厄介にならなくてはならないものがあろうか。精神的に考えても、この世で最も賢い者(そして決してその数が多くはない者)ですら何と僅かしか知らず、人類の大部分は何という無知の中にあり、何という悲惨を自らの愚行によって作り出していることか! ヨブ記は云う。「私たちは、きのう生まれた者で、何も知らず」(ヨブ8:9)。確かに、地上においても天上においても、人間ほどへりくだらなくてはならない被造物はない。

 私たちはへりくだりを追い求めようではないか。これほど英国国教徒にふさわしい恵みはない。私たちの比類なき祈祷書は、最初から最後まで、これを用いる人に最もへりくだった言葉遣いをさせている。朝の祈り夜の祈りの冒頭や、一般告白、連祷、聖餐式礼拝における文章は、すべてがみな、心へりくだった、自らを卑下した云い回しで満ちている。すべてが異口同音に英国国教会の礼拝者たちに、神の御前における私たちの正しい位置づけについての教えを授けてくれている。

 私たちはみな、もし現在少しでもへりくだりを知っているとしたら、いやまさってそれを追い求めようではないか。自分を卑しめれば卑しめるほど、キリストに似た者となる。私たちのほむべき主については(何の罪もお持ちではなかったにもかかわらず)、こう書かれている。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」(ピリ2:6-8)。そして、この箇所に先立つ言葉を思い出そうではないか。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」。嘘ではない。人は天国に近づけば近づくほど、へりくだった者になっていく。死の時を迎え、片足は墓場に入りながらも、天から降り注ぐ光のいくばくかに照らされつつあった、おびただしい数にのぼる偉大な聖徒や教会の高位聖職者たち----セルデンや、バトラー主教、ロングリ大主教のごとき人物----の告白として記録にとどめられていること、それは、死の床についたときほど彼らが自分のもろもろの罪を明確に理解し、あわれみと恵みに対する自分たちの負い目を深く感じたときはなかった、ということである。天国によってのみ私たちは、自分がいかにへりくだらなくてはならないかを余すところなく教えられるのだと思う。私たちは、幕の内側に立ち、自分が導かれてきた人生の全行路を振り返って見るとき初めて、へりくだりの必要と麗しさを完全に理解することであろう。この聖パウロのような言葉遣いは、その日には激しくもなんともなく見えるであろう。まさにその通り! 私たちは自分たちの冠を御座の前に投げ出し、ある偉大な神の人がこう述べたときの気持ちを身にしみて感ずるに違いない。「天国において、われわれはこう賛美してやまないであろう。『何ということを神はなされたのか!』、と」。

2. 聖パウロは自分の牧師としての職務について何と云っているか

 第二に、聖パウロが自分の牧師としての職務について何と云っているかに注目しよう。

 この主題に関する使徒の言葉には荘厳な単純さがある。彼は云う。「私に、この恵みが与えられたのは……宣べ伝えるためです」。この文章の意味ははっきりしている。「私には、良き知らせの使者となる特権が与えられているのである。私は喜びの訪れの伝令官となるよう任命されているのである」。もちろん、疑いもなく聖パウロのいだいていた牧師観にも、聖礼典の執行その他の、キリストのからだを建て上げるため必要とされるあらゆることがふくまれていたに違いない。しかし、ここでも他の箇所でも、彼が何を常に念頭に置いていたかは明らかである。彼にとって新約聖書の牧師の第一の務めは、何をおいてもまず、宣教者、伝道者となることであった。神の大使、神の使者として、堕落した世界に対する神の良き知らせを布告することであった。彼は別の箇所ではこう云っている。「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです」(Iコリ1:17)。

 キリストの教会の中には司祭制度があるべきだ、犠牲を奉献する祭司団があるべきだ、などという当世流行の理論を聖パウロが支持しているような箇所は、私はどこにも見つけることができない。使徒の働きにも、パウロが諸教会に宛てて書いたどの書簡にも、そうした観念を裏書きするような言葉は見あたらない。「神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に祭司」、などとはどこにも書かれていない(Iコリ12:28)。テモテとテトスに宛てた牧会書簡には、何はなくともここではそうした理論が説かれていてよさそうなものだが、やはりこうした説の欠落は如実である。むしろ逆に、まさにこの牧会書簡で見いだされるのが、次のような表現なのである。「神は……このみことばを宣教によって明らかにされました」。「私は……宣教者……として任命されたのです」。「私は宣伝者……に任じられました」。「それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ……るためでした」(テト1:3; IIテモ1:11; Iテモ2:7; IIテモ4:17)。そして、その極めつけとして、彼が一教会の責任を担う友テモテを残して先立とうというときに与えた最後の命令の1つが、この簡潔な文章なのである。「みことばを宣べ伝えなさい」(IIテモ4:2)。つまり、私の信ずるところ聖パウロが私たちに理解させようとしているのは、キリスト教の牧師が特に取り分けられた働きがいかに多種多様なものであろうと、その第一の、首位を占める、主要な働きは、神のみことばの宣教者、宣伝者となることでなくてはならない、ということである。

 しかし私たちは、犠牲を献げる祭司制度などというものが聖書で裏付けれていると認めるのを拒否しつつも、キリストの教役者が任ぜられている職務を軽んずるという極端にも走らないように用心しよう。近時は、その方向に向かう危険がまま見られる。私たちは、キリスト教の牧師職に関して確固たる原則を堅く握っていよう。そして、たとえどれほど強く祭司制度やローマカトリック主義を嫌悪していようと、そうした原則を手離させようといういかなる誘惑にも屈さないようにしよう。確かに、一方の祭司制度に対する卑屈な偶像崇拝と、もう一方の混乱をきわめた無秩序との間には、堅固な中道の立場がある。確かに、この教役者の問題についてローマカトリック教徒にならないからといって、クエーカー派やプリマス・ブレズレン派にならなくてはならないということはない*3。少なくとも、それは聖パウロの思いではなかった。

 a. 第一ののこととして、牧師という職制は聖書で規定された制度だということを心に銘記しよう。この点を証明するのに、あれこれ聖句を引用する必要はないであろう。あなたにはただ、テモテへの手紙とテトスへの手紙を読んで自分で判断するよう勧めたい。もしこれらの書簡が牧師職を権威づけしていないとしたら、私にとっては、言葉など無意味だということになるであろう。あなたの知人の中の最も知的で、誠実で、何の利害関係も偏見も持たない人を12人の陪審員として、彼らに新約聖書を手渡し、この問題を自分たちだけでじっくり調べてみてくれと云ってみるがいい。「キリスト教の牧師職は聖書的なものかそうでないか?」、と。彼らの評決がいかなるものになるか、私には一点の疑念もない。

 b. 別のこととして私たちは、牧師という職制は神によって与えられた最も賢明で有益な制度であると心に堅く銘記しよう。この職制があればこそ、キリストのお定めになったあらゆる制度と恵みの手段は、規則的に維持されることが確かにされているのである。この職制こそ、罪人を覚醒させ、聖徒らを建て上げる働きを押し進める不朽の仕組みである。いかなる分野においても、連帯責任はたちまち無責任となり果てるのが世の常である。そして他の方面でこれが真実であるとするなら、それは信仰生活においても負けないくらい真実である。私たちの神は秩序の神であり、手段によって働かれる神である。神がその大義を絶えざる奇蹟的な介入によって支え保つ間、神のしもべらはその間何の働きもせずにぶらぶらしているなどと期待する権利は、私たちには全くない。間断なくみことばを宣べ伝えさせ、聖礼典を執行させる手立てを何か講ずるとしたら、キリストの働きのために全く献身した人々の規則的な職制を任命することにまさるものはありえないであろう。

 c. さらに別のこととして私たちは、牧師という職制は名誉ある特権であると心に堅く銘記しよう。国王の大使となるのは栄誉ではある。そのような国家的官職にある人物は個人的な尊敬すら受け、法により国王陛下の大使と称される。トラファルガル海戦やワーテルローの戦勝の知らせを伝える務めは栄誉ではある。電信技術が発明されるまで、それは非常に羨望の的とされる栄誉であった。しかし、王の王の大使となり、カルバリで成し遂げられた勝利という良き知らせを布告するという栄誉は、何といやまさって大きなものであることか! このような主人に直接仕え、このような使信を携え運び、自分の働きの結果が(神の祝福を得られるなら)永遠のものであると知ること、これはまさしく特権である。他の働き人は朽ちていく冠のため働くかもしれないが、キリストの仕え人は朽ちない冠のために働く。キリスト教の教役者らが、自分で自分の職務を嘲笑されたり蔑まれたりするものと成り下がらせてしまうときほど、ある国の状態が悪化することはない。これはマラキ書にある恐るべき言葉である。「わたしもまた、あなたがたを、すべての民にさげすまれ、軽んじられる者とする。あなたがたがわたしの道を守ら(なかった)からだ」(マラ2:9)。しかし、人々が耳を傾けようが、耳を閉ざそうが、忠実な大使の職務は栄誉あるものである。これは、76歳で死んだひとりの老宣教師がその死の床で語った見事な言葉である。「人がなしうる最上のことは、福音を宣べ伝えることです」。

 この主題のこのくだりを締めくくるにあたり、心から願わさせていただきたい。祈る者すべてが、決してキリストの仕え人たちのための願いと祈りととりなしを欠かさないように。国内おいても宣教地においても、決して彼らへの正当な物資の補給が欠かされないように。彼らが信仰において健全に、生活において聖く保たれるように。そして彼らが自分自身にも、教えることにもよく気をつけているように、と(Iテモ4:16)。

 おゝ、確かに私たち牧師の職務は栄誉あるもの、有益で霊的なものではあるが、それはまた深く痛ましい責任を伴うものであることも忘れてはならない! 私たちは、さばきの日には神に弁明する者として魂のために見張りをしているのである(ヘブ13:17)。もし私たちの不忠実さのゆえに魂が失われたとしたら、彼らの血の責めは私たちの手に帰される。もし私たちの務めが、単に礼拝を導き、聖礼典を執行し、特別な衣装を身につけ、変わりばえのしない儀式や肉体的勤行や身ぶりやそぶりを際限もなく繰り返しているだけよいとしたなら、私たちの立場はたいして重要ではないであろう。しかし、それがすべてではない。私たちは、私たちの主人の使信を伝えなくてはならないのである。益となることは少しもためらわずに知らせ、神のご計画の全体を宣言しなくてはならない。もし私たちが自分の会衆に、真理から何か差し引いたようなものや、何かつけ足したようなものを告げるなら、私たちは不滅の魂を永遠に滅ぼすことにもなりかねない。生と死が宣教者の舌にかかっているのである。「もし福音を宣べ伝えなかったら、私たちはわざわいに会います」*(Iコリ9:16)!

 もう一度云う。私たちのために祈ってほしい。このような事柄にだれがふさわしいであろうか? 教父たちの古い云い回しを思い出してほしい。「すべての人にまさって大きな霊的危険のうちにある者、それは牧師である」。私たちを批判したり、あらを探したりするのはたやすい。私たちは宝の入った土の器である。あなたがた自身と同じような人間であって、無謬ではない。このような試練と誘惑と論争に満ちた日々の中にある私たちのため祈ってほしい。信仰においては健全で、大胆なことは獅子のごとく、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなお」な主教と司祭と執事らが、私たちの教会から決して絶えることがないように(マタ10:16)。「私に、この恵みが与えられたのは、宣べ伝えるためです」、と云ったその人は、別の箇所でこう語った人と同じ人なのである。「私たちのために祈ってください。主のみことばが……早く広まり、またあがめられますように。また、私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように。すべての人が信仰を持っているのではないからです」(IIテサ3:1、2)。

3. 聖パウロは自分の宣べ伝えている偉大な主題について何と云っているか

 さて最後に、聖パウロが自分の宣べ伝えている偉大な主題について何と云っているかに注目しよう。彼はそれを、「キリストの測りがたい富」と呼んでいる。

 この、回心したタルソの人が「キリスト」を宣べ伝えるのは、それに先立つ彼の状態を思い起こせば何の不思議でもない。自分自身、十字架の血潮によって平和を見いだした彼は、他の人々にも常にその十字架の物語を伝えようとしていたと考えてよいであろう。彼は決して、単に根も葉もない道徳を称揚したり、漠然とした抽象概念や「真実なること」、「高貴なること」、「真摯なること」、「美なること」、「人性のうちなる善の胚芽」などといった空疎な決まり文句について詳述したりして、貴重な時を浪費しはしなかった。彼は常に、問題の根源に赴き、人々にその家伝の業病と、彼らが罪人として絶望的な状況にあることと、罪に病む世界に必要とされる偉大な医者のことを示した。

 彼がキリストを「異邦人に」宣べ伝えると云っているのも、あらゆる場所における、あらゆる人々に対する彼の身の処し方について私たちの知るすべてに符合したことである。どこを旅し、どこで立ち上がって説教しようと----それがアンテオケであろうと、ルステラ、ピリピ、アテネ、コリント、エペソであろうと、また相手がギリシヤ人であれローマ人であれ、知識人であれ無学な庶民であれ、ストア派哲学者であれエピクロス派哲学者であれ、金持ちであれ貧乏人であれ、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人などの別なく----、イエスとその身代わりの死、イエスとその復活こそ、彼の説教の基調であった。賢明にも彼は、聴衆に応じて語り方を変えはしたが、彼の説教の核心にあったのは十字架につけられたキリストであった。

 しかし冒頭の聖句を見るとき、そこで彼が用いているのは非常に独特の表現であることに気づく。「キリストの測りがたい富」。これは、疑いもなく彼の書いたあらゆる文章の中でも、ここだけにしか出てこない表現である。これは烈々と燃え上がる言葉である。キリストのあわれみと恵みに対する自分の負い目を常に覚えていて、それを自分がいかに痛切に感じているか喜んで言葉にして表わそうとしていた人物の言葉である。聖パウロは物事を中途半端に行なったり語ったりする質の人物ではなかった。彼は決してあのダマスコへの道を忘れなかった。『まっすぐ』と呼ばれる街路にあるユダの家を忘れなかった。善良なるアナニヤの訪問と、自分の目から落ちた二枚のうろこ、自分の驚くべき死からいのちへの変遷を忘れなかった。こうしたことは、彼にとって常に鮮明で新鮮な記憶であった。それで彼は、ただ単に「私に、この恵みが与えられたのは、キリストを宣べ伝えるためです」、と云うだけでは満足できないのである。それで彼は、それを「キリストの測りがたい富」と呼ぶのである。

 しかし、「測りがたい富」という言葉で、彼は何を意味していたのだろうか? この質問に答えることは容易ではない。疑いもなく彼がキリストのうちに見ていたのは、人の魂のあらゆる求めを際限なしに満ち足らわすものであって、彼はこう述べる以外に自分の意図を伝える語句を知らなかったに違いない。いかなる視点からイエスを見ようと、イエスのうちには人知の思い描きうる、あるいは筆舌に尽くしうる範疇をはるかに越えたものが見られた。だから彼が正確には何を意図していたかは、必然的に憶測の問題とならざるをえない。しかし彼の思いの中にほぼ間違いなくあったはずの事柄のいくつかを、ここに詳細に記しておくことは有益であろう。それは有益であるはずだし、有益に違いなく、有益でなくてはならない。なぜなら思い出そうではないか。結局のところ、こうしたキリストの富とは、聖パウロと同じく、あなたや私が現在の英国で必要としている富であり、何にもまして、あなたや私のために、千八百年前と全く変わらずキリストのうちに蓄えられている富なのである。その富は今もそこにある。得たいと思う人には、だれにでも、今も無償で差し出されている。今も悔い改めて信ずるすべての人の財産となりうる。だからその富の一部を手短に眺めてみようではないか。

 a. まず第一に、何にもまして心に深く銘記したいのは、キリストのご人格には測りがたい富がある、ということである。私たちの主イエス・キリストにおける、あの完全な人と完全な神との奇跡的な合一は、疑いもなく偉大な神秘であり、人知をはるかに越えたものである。これは高遠なもの、私たちの手の届かないものである。しかし、いかにその合一が神秘的なものであれ、それを正しく考えることのできるすべての人にとっては、励ましと慰めとの鉱脈である。無限の力と無限の同情心とが、私たちの救い主のうちで合流し、結び合わされている。もし彼が人間でしかなかったなら、私たちを救うことはできなかったであろう。もし神でしかなかったなら(これは畏敬の意をこめて云うのだが)、「私たちの弱さに同情」することも、「ご自身が試みを受けて苦しまれ」ることもできなかったであろう(ヘブ4:15; 2:18)。神として、彼は救うに力強いお方であり、人として、彼は私たちの首長(かしら)、代表者、友となるにまさにうってつけのお方である。深い考えの全くない人々は私たちを、信条や教義学について愚にもつかない争いをする連中だと、あざけりたければあざけるがいい。しかし、思慮深いキリスト者は決して、受肉および私たちの主における二性合一という、この軽視され続けてきた教理を信じ、堅くにぎることを恥じないようにするがいい。私たちの主イエス・キリストが神であり人であるということ、これは豊かな、また尊い真理なのである。

 b. 次に心に深く銘記したいのは、その地上におけるご生涯と死と復活においてキリストが私たちのために成し遂げられたみわざには測りがたい富がある、ということである。まことに、またかけねなしに、彼は御父が行なわせるためにお与えになったわざを成し遂げられた(ヨハ17:4)。----贖罪のわざ、和解のわざ、贖いのわざ、満足のわざ、「正しい方が悪い人々の身代わりと」なる代償のわざを成し遂げられた。人はこうした短い言葉の数々を、「人造の神学用語、人間によるドグマ」などと好んで呼びたがる。それは承知している。しかし彼らは、こうした大いにけなされている言葉の1つ1つが、聖書の平明な諸聖句の実質を素直にふくんだものではないと証明しようとすれば四苦八苦するに違いない。「三位一体」という言葉と同じように神学者たちは、便宜上、聖書の実質的内容を一語に込めているのである。そして、その一語一語には非常に豊かな内容があるのである。

 c. 次に心に深く銘記してほしいのは、キリストが今この瞬間に果たしておられる種々の職務には測りがたい富がある、ということである。彼は今、私たちのために御父の右の御座について生きておられる。彼は私たちの仲保者であると同時に、私たちの弁護者、私たちの祭司、私たちのとりなし手、私たちの羊飼い、私たちの監督、私たちの医者、私たちの指揮官、私たちの王、私たちの主人、私たちの首長(かしら)、私たちの先駆け、私たちの長兄、私たちの魂の花婿である。疑いもなくこうした職務は、生きた信仰について何も知らない人々にとっては無価値であろう。しかし信仰の生活を送っている人々、神の国を第一に求めている人々にとって、こうした1つ1つの職務は黄金のように尊いものである。

 d. 次に心に深く銘記してほしいのは、聖書の中でキリストに当てはめられている名前と称号には測りがたい富がある、ということである。その数が非常に多いということは、注意深く聖書を読んでいる人ならだれでも知っている。むろん私も、そのうちのごくわずかを抜き出す以上のことができるわけではない。たとえば、このような称号について、しばしの間考えてみるがいい。神の子羊、いのちのパン、生ける水の泉、世の光、門、道、ぶどうの木、岩、礎石、キリスト者の衣、キリスト者の祭壇----こうした名称のすべてについて思い巡らし、そこにどれほど豊かなものがふくまれているか考えてみるがいい。無頓着な、世俗の人にとっては、これらは単なる「言葉」であって、それ以上の何物でもないが、真のキリスト者にとって、こうした称号はどれもみな、内なる意味をかみくだき、そこにふくまれている思想をふくらませていくならば、ほむべき真理の宝庫を裡に宿していることがわかるであろう。

 e. 最後に心に深く銘記してほしいのは、人間に対するキリストのみ思いには測りがたい富がある、ということである。新約聖書を読むと、人間に対するキリストのみ思いの特徴的な性質と属性と性向と意図とが明らかにされている。キリストのうちには、罪人に対する豊かなあわれみと愛と同情がある。人をきよめ、赦し、無罪にし、完全に救うことのできる豊かな力がある。悔い改めと信仰によってみもとに来るすべての人を受け入れる心の豊かさがある。この上なくかたくなな心も最悪の性格もその御霊によって変化させることのできる豊かな御力がある。最も弱い信者をも優しく忍ぶ豊かな忍耐がある。内外にいかなる敵があろうと御民を最後まで助けることのできる豊かな強さがある。うちひしがれて、みもとに悩みを持ってくるすべての人々に対する豊かな同情心がある。そして最後に、しかし決して小さくないこととして、彼が再臨し、死者をよみがえらせ、御民を集めて御国でご自分とともにおらせるようになさるときには、豊かな栄光の報いがある。この世の子らはこうしたことに無関心か、軽蔑して背を向けるかもしれない。しかし自分の魂の価値を感じとっている人々は、もっと賢明である。彼らは異口同音に云うであろう。「御民のためキリストのうちに蓄えられているものほど豊かな富はありません」、と。

 なぜなら、何より良いことに、この富は測りがたいものだからである。これは、どれほど地中深く掘り進んでも無尽蔵の鉱脈である。どれほど多くの人が汲み出そうと、決して枯渇しない泉である。天に輝く太陽は六千年の間輝き続け、地球の全表面に光といのちと暖かさと肥沃な実りをもたらす力を与え続けてきた。ヨーロッパでもアジアでも、アフリカでもアメリカでも、太陽の恩恵をこうむっていないような木や花は一本もない。それでも太陽はなおも輝くことをやめず、幾世代、幾星霜を数えても、十年一日のごとく日の出、日の入りを繰り返し、いかなる分け隔てもせず、いかなる報酬も受け取らず、普通の人の目には創造の日と全く変わりない光と熱を降り注いでいる。まさしくそれと同じように、もし何らかのたとえが真実に近づきうるとするなら、まさしくキリストもそれと同じである。彼は今もなお、全人類にとって「義の太陽」であられる(マラ4:2)。おびただしい数の人々が、これまでの時代に彼から恵みを引き出し、彼にたよりつつ慰めをもって生き、慰めをもって死んでいった。いまこの瞬間にも無数の人々が、彼から日ごとのあわれみと恵み、平安、力、助けの満たしを引き出しつつあり、彼のうちに「満ち満ちた豊かさ」が宿っているのを見いだしている。にもかかわらず、私の確信するところ、人類のため彼のうちに蓄えられている富は、その半分も知られていない! 確かに使徒が「キリストの測りがたい富」という語句を用いたのも、至極もっともである。

 さてこの論考の締めくくりとして、実際的な適用の言葉を3つ語らせていただきたい。便宜上、それを問いかけの形にするが、この本の読者全員に私は願いたい。こうした問いかけをひとり静まって吟味し、答えを出してみてほしい。

 1. では第一の問いかけとして、あなたは自分のことをどう考えているだろうか? 聖パウロが自分のことをどのように考えていたかは、これまでの話ですでにわかったであろう。では、あなたは自分のことをどう考えているだろうか? あなたはこの壮大な基盤たる真理、すなわち、自分が罪人であり、神の御目において咎ある罪人であることを見出しているだろうか?

 現今は、教育の普及を求める声がかまびすしく、巷に満ちている。至るところで無知が嘆かれている。しかし、請け合ってもいいが、この世に最もはびこっている、最も有害な無知は自分自身についての無知である。しかり。人はありとあらゆる学芸や科学や言語や経済学や政治学に通じていても、自分自身の心や自分自身の神の前における状態については、情けないほど無知なことがありうるのである。

 よくわきまえておくがいい。自分を知ることこそ天国への第一歩である。神の筆舌に尽くせぬ完全さを知り、自分自身の途方もない不完全さを知り、自分自身の筆舌に尽くせぬ欠陥と腐敗を悟ること、これこそ救いに至るキリスト教のABCである。私たちは、真の内的な光を持てば持つほど、謙遜でへりくだった心になり、あの軽蔑の的たるキリスト教の福音の価値をより理解するようになる。自分と自分の行ないとを最悪のものと考える者こそ、ことによると神の前では最上のキリスト者なのかもしれない。多くの人々が、夜も昼も、この単純な祈りを祈るようになるなら、どんなに良いことかと思う。「主よ。私の真の姿を示させたまえ」、と。

 2. 第二に、あなたはキリストの仕え人のことをどう考えているだろうか? この問いは奇妙に思えるかもしれないが、私の堅く信ずるところ、人がこの問いに対してどのような答えを返すかは、それが正直に語られたものである場合、その人の心の状態を相当確かに示す試験となる。

 ただし注意していただきたい。私が今尋ねているのは、怠惰で、俗的で、生活に裏おもてのある聖職者について、あなたがどう考えているか、ということではない。眠りこけている見張り人や、不忠実な羊番についてのあなたの意見ではない。否! 私が聞きたいのは、キリストの忠実な仕え人----正直に罪をあばき、あなたの良心を刺す教役者----についてあなたがどう考えているか、ということである。よく考えて答えてほしい。近頃はあまりにも多くの人々が、耳あたりの良いことしか預言せず、自分たちの罪については全く触れないような牧師しか好まない傾向にある。聴衆の自尊心をくすぐり、彼らの知的趣味を刺激はしても、決して警鐘を鳴らさず、来たるべき御怒りについては一言も告げないような牧師ばかり好まれる傾向がある。アハブがエリヤを見たとき、彼は云った。「あなたはまた、私を見つけたのか。わが敵よ」(I列21:20)。ミカヤがアハブの前で指名されたとき、彼は叫んだ。「私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです」(I列22:8)。残念なことに、この19世紀にも大勢の者がアハブそっくりである! 彼らが好むのは、自分を居心地悪くさせず、教会から帰宅するとき気分を悪くさせないような牧師である。あなたはどうであろうか? おゝ、嘘ではない。最上の友とは、最も真実を語ってくれる者のことである! 教会の中でキリストの証人たちが黙らされたり迫害を受けたりし、人が自分を叱責する者を憎むようになるのは悪いしるしである(イザ29:21)。かの預言者は厳粛な言葉をアマツヤに告げている。「私は神があなたを滅ぼそうと計画しておられるのを知りました。あなたがこれを行ない、私の勧めを聞かなかったからです」(II歴25:16)。

 3. 最後に、あなたはキリストご自身のことをどう考えているだろうか? 彼はあなたの目にとって大きな存在だろうか、小さな存在だろうか? あなたの価値判断の中で、彼は第一に来るだろうか、第二に来るだろうか? キリストは、キリスト教会やキリスト教の牧師や、キリスト教の聖礼典や、キリスト教の儀式の上に立つ方だろうか、下に立つ者だろうか? 彼はあなたの胸のうちで、またあなたの心の目にとって、いかなる位置を占めているだろうか?

 究極のところ、これこそ何よりも重要な問いである! 赦し、平安、良心の安らぎ、死における希望、天国そのもの----これらはみな、私たちの答えしだいで決まる。キリストを知ることは永遠のいのちである。キリストから離れていることは神から離れているということである。「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」(Iヨハ5:12)。純粋に世俗的な教育の愛好者たちや、改革と進歩の熱心な唱道者たち、理性と知性と精神と科学の礼拝者たちは、好き勝手なことを述べ、あらん限りの手を尽くして世界を改善しようとするかもしれない。しかし、もし彼らが自分の努力が水泡に帰すのを見たくなければ、人間の堕落ということを考えに入れなくてはならない。自分たちの理論のしかるべき位置をキリストに占めていただかなくてはならない。人間の心中にははなはだしい病があり、それは彼らのあらゆる努力の裏をかき、彼らのあらゆる計画をくつがえす。その病が罪である。おゝ、人々が人間性の堕落をさとり、認めさえするならばどんなに良いことか! 福音という救済法に基づかずに人間を改善しようとするあらゆる努力の無益さをさとり、認めさえするならばどんなに良いことか! しかり。世には罪という悪疫があり、いかなる鉱泉もこの悪疫を癒すことはできない。それができるのはただ、すべての罪のために開かれた泉----十字架につけられたキリスト----から湧きあふれる鉱泉水だけである。

 そこで、結びとして云おう。私たちの誇りはどこにあるのか? さる偉大な神の人がその死の床で云ったように、「私たちの人生はみな、半ば眠ったまま過ごしているのだ」。私たちの間における最上のキリスト者も、信ずることを学んだ後でさえ、その栄光ある救い主をごくわずかしか知ってはいない。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ている。私たちは彼のうちにある測りがたい富をさとっていない。次の世で彼の似姿のうちに目覚めるとき私たちは、自分がいかに不完全にしか彼を知っていなかったことか、いかに少ししか彼を愛してこなかったことか、と驚くことになるであろう。私たちは今、彼をよりよく知るよう努め、彼とのより親しい交わりのうちに生きるようにしようではないか。そのように生きるとき、私たちは人間の祭司や地上的な懺悔の必要を感ずることは全くないであろう。私たちはこう感ずるであろう。「私にはすべてがあり、満ち足りている。これ以上何もほしくはない。十字架の上で私のために死んでくださるキリスト、神の右の座について常に私たちのためにとりなしをしてくださるキリスト、信仰によって私の心に住んでおられるキリスト、まもなく再臨して私と御民のすべてを集め、二度と離ればなれにならないようにしてくださるキリスト----キリストは私にとって十分である。キリストを持つ私には、測りがたい富があるのだ」、と。

    わが身の良きこと みくらの賜物
      まがことすべて みむねの最善
    主の友なれば 貧せど富むなり
    主ともにおらずば 富めども乏し
    われ浮き沈みも 受け入れ委ねん
    われ満つ われ主の、主のわがものなれば
    
    地にては おぼろに御愛を知るのみ
      おぼろに拝し おぼろに崇めり
    されど天にて 主にまみゆれば
      望むはただ主を 全く愛し
    ひたすら告げん 天つ歌人と
    いかに われ主の、主のわがものなるかを

「測りがたい富」[了]


*1(訳注) 新改訳聖書で「一番小さな者」と訳されているギリシャ語エラキストテロスはパウロの造語である。これは、「小さい」という形容詞の最上級「最も小さい」という言葉にさらに比較級の語尾をつけたもので、字義通りに訳すと「最も小さい者よりもさらに小さい」となる。英語の欽定訳聖書はこれを忠実に「less than the least of all saints」と訳してあり、文語訳聖書もまた、「いと小き者よりも小き者」と正確に訳してある。「新聖書注解 新約3」(いのちのことば社)の、小畑進師によるエペソ書注解(p.509)を参照されたい。[本文に戻る]

*2 この論考の内容は、1879年5月にロンドンのピカディリーにある聖ジェームズ教会およびウィンチェスター大聖堂でなされた説教とほぼ同一である。


*3 よく教えを受けた人々には周知のことだが、クエーカー派とプリマス・ブレズレン派は、牧師職を完全に無視しているように思われ、ほとんどの人々の懸念の的となっている。[本文に戻る]

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