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15. 「あなたはわたしを愛しますか」


「あなたはわたしを愛しますか」(ヨハ21:16)

 冒頭の質問は、キリストが使徒ペテロに問いかけたものである。かつてこれほど重要な質問はなかったであろう。この言葉が語られてから18世紀が過ぎ去ったが、今日に至るまで、これほど心を探る、有益な問いかけは1つもなかった。

 誰かを愛するという性質は、神が人間性に植えつけられた感情の中でも、最も普通の思いの1つである。不幸にして、あまりにも多くの場合、人はふさわしくないものに自分の愛情を注いでいる。きょう私が求めたいのは、私たちの心の最上の感情をすべてささげるにふさわしい唯一のお方のために、場所をあけていただきたいということである。私たちを愛し、私たちのためご自分をお捨てになった、あの聖なる方のために、少しでも自分の愛を注ぐ人々が起こされてほしいと思う。愛するものの数ある中で、ぜひキリストを愛することは忘れないでほしい。

 今この説教を読む人は、しばらくの間、この大きな主題に注意を向けていただきたい。この問題は、単なる熱狂的信者や狂信者の問題ではない。聖書を信じる理性的なキリスト者全員のまじめな考察に値するものである。まさに私たちの救いそのものが、この問題と密接に関連している。いのちと死、天国と地獄が、この単純な質問にどう答えることができるかにかかっている。「あなたはキリストを愛しますか」。

 この主題を探求するにあたり、私は2つの点を明らかに示そうと思う。

1. 真のキリスト者がキリストに対して抱く特有の感情

 第一に示したいのは、真のキリスト者がキリストに対して抱く特有の感情である。----彼はキリストを愛する。

 真のキリスト者は、単にバプテスマを受けただけの人ではない。それ以上である。彼は、日曜になると単に体裁だけのため教会やチャペルに出かけ、残りの週日は神などいないかのように生活する者ではない。形式的な習慣はキリスト教ではない。心のこもらぬ口先だけの礼拝は真の信仰ではない。聖書ははっきり語っている。「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではない」(ロマ9:6)。この言葉の実際的な教訓はだれの目にも明白であろう。目に見える教会の教会員が、すべて真のキリスト者ではないのだ。

 真のキリスト者とは、その心と生活に信仰があらわれている人のことである。彼は自分の心の中に信仰を感じる。他の人々は、彼の行ないと生活の中に信仰を見る。彼は自分の罪深さ、咎、邪悪さを感じ、悔い改める。イエス・キリストを、自分の魂が必要とする聖なる救い主として見る。自分自身を彼にゆだねる。古い人を、その腐れ切った肉的な習慣とともに脱ぎ捨て、新しい人を着る。世と肉と悪魔に対して不断に戦い、新しい聖い生活を送る。キリストご自身が、彼のキリスト教の隅のかしら石である。もし彼に向かって、自分のおびただしい数の罪が赦されるために何を頼みとしているかと問うなら、キリストの死だと答えるであろう。最後の審判の日に罪なき者として立つために、どんな義を身にまとうつもりかと問うなら、キリストの義だと答えるであろう。自分の生活の規範として何を目標にしているかと問うなら、キリストの模範だと答えるであろう。

 しかし、これらすべての他に、真のキリスト者には、1つのことがきわめて独特のものとして伴っている。それは、キリストへの愛である。知識、信仰、希望、尊敬、服従などはみな真のキリスト者の性格をかたちづくる顕著な特徴である。しかし、もし彼の聖なる主人に対する「愛」を落とすなら、彼の肖像は非常に不完全なものとなるであろう。彼は、単に知り、信頼し、従うだけの存在ではない。それよりもさらに大いなることをする----彼は愛するのだ。

 この真のキリスト者特有のしるしは、聖書の中で何度か言及されているものである。「私たちの主イエス・キリストに対する信仰」は、多くのキリスト者になじみ深い云い廻しである。しかし、聖霊が、信仰と同じくらい力強い言葉で愛について語っていることを決して忘れないようにしよう。「信じない」者の危険は大きいが、「愛さない」者の危険も同じくらい大きい。信じないこと、愛さないことは、両方とも永遠の滅びに至る歩みである。

 聖パウロがコリント人に何と云っているか聞いていただきたい。「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください」(Iコリ16:22)。聖パウロはキリストを愛さない者に何の云い逃れも許さない。何の抜け穴も、何の弁解も許さない。明晰な知的理解がなくとも救われることはできる。ペテロのように勇気を失い、人を恐れてくじけることがあるかもしれない。ダビデのように、すさまじく堕落するかもしれない。それでも再び立ち上がる。しかしもし人がキリストを愛していなければ、その人はいのちの道に立ってはいない。その人にはまだ呪いがかかっている。その人は滅びに至る広い道の上にいるのだ。

 聖パウロがエペソ人に何と云っているか聞いていただきたい。「私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように」(エペ6:24)。ここで使徒はすべての真のキリスト者に幸いを祈り、自分の好意を伝えている。疑いもなく彼は、相手の多くとは一面識もなかった。初代教会に属していた人々の多くは、ほぼ疑いもなく信仰も知識も自己犠牲も乏しい人々であった。ではパウロは、自分のメッセージを送るにあたって、彼らを何と評しただろうか。弱い兄弟たちを落胆させずに、どんな言葉を使えただろうか。彼は、あらゆる真のキリスト者を一言で云い表わす包括的な表現を選んでいる。教理においても実際面においても、みながみな同じレベルに達してはいなかった。しかしすべての者がキリストを心から愛していたのである。

 私たちの主イエス・キリストご自身がユダヤ人に何と云っておられるか聞いていただきたい。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです」(ヨハ8:42)。主は、ご自分の敵対者らが自分らの霊的状態について間違った考えに陥り、単にアブラハムの子孫だからというだけで自己満足しているのをごらんになった。彼らが、今日の多くの無知なキリスト者らと同じように、単に割礼を受けておりユダヤ教の教会に属しているというだけの理由で、自分は神の子だと主張しているのをごらんになった。そこで主は、この概括的な原則を述べられたのである。すなわち、神のひとり子を愛さない者は、だれも神の子ではありえない。キリストを愛さない者に、神を父と呼ぶ権利はない。この大いなる原則は、多くのキリスト者にも、ユダヤ人のこととしてだけでなく自分のこととしても適用してもらいたいと思う。キリストを愛さない者に、神の子である権利はない!

 私たちのイエス・キリストが使徒ペテロに何と云っておられるか、もう一度聞いていただきたい。三度、主は質問された。「あなたはわたしを愛しますか」(ヨハ21:15-17)。それは、ただの状況ではなかった。主は、過ちを犯した弟子に、三度繰り返した失敗を優しく思い起こさせようとされた。主は、教会を養う任務を再びペテロに公けに与える前に、彼から信仰の告白を新たに引き出すことを望まれた。では主は何と質問されたか。「あなたは信じますか」と問うこともできたはずである。「あなたは回心していますか」とも、「あなたは信仰を告白する覚悟がありますか」とも、「あなたはわたしに従いますか」とも問うことができた。しかし主はそのいずれをも口にされなかった。主はただ、「あなたはわたしを愛しますか」と問われた。これこそ、ある人のキリスト教信仰をはかるかなめである。主はそれを知らせようとしておられる。この質問は単純に聞こえるが、これほど心を探るものはない。どんなに学問のない貧しい人にでも簡単に理解できるほどはっきりしているが、最も老練な使徒の心根をも探る内容をふくんでいる。もしも、ある人が真にキリストを愛しているなら、何も問題はない。しかし、もしそうでないなら、何もかも間違いである。

 真のキリスト者のしるしとなる、この特有の感情の秘密がどこにあるかご存じだろうか。それは聖ヨハネの言葉のうちにある。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(ヨハ4:19)。もちろんこの聖句は、特に父なる神にあてはまる言葉である。しかし、御子なる神にも全く同じようにあてはまる。

 真のキリスト者は、自分のためキリストがなしてくださったすべてのゆえにキリストを愛する。キリストは彼の身代わりに苦しみ、彼のため十字架上で死なれた。その血潮によって、彼を罪の咎、罪の力、罪の結果から贖ってくださった。その御霊によって彼を召し、自分の本当の姿に気づかさせ、悔改めと信仰と聖潔へと招いてくださった。世と肉と悪魔との奴隷状態から解放してくださった。彼を地獄の淵からさらって、狭い道の上に立たせ、天国へ向かわせてくださった。暗闇のかわりに光を、不安のかわりに良心の平安を、迷いのかわりに希望を、死のかわりにいのちを与えてくださった。真のキリスト者がキリストを愛するのも当然ではないか。

 またそれに加えて彼は、キリストが今もなしておられるすべてのゆえにキリストを愛する。彼は、キリストが自分の数多くの欠陥や短所を日々洗い流し、自分の魂のため神の御前でとりなしておられるのを感じる。キリストは日々彼の魂の必要を満たし、あわれみと恵みの蓄えを一瞬一瞬備えてくださる。ご自分の御霊によって日々彼を、住む家の待つ都へと導き、彼が弱く愚かになっても彼を忍び、彼がつまづき倒れても彼を引き上げ、多くの敵から彼を守り、彼のため天国に永遠の住まいを備えておられる。真のキリスト者がキリストを愛するのも当然ではないか。

 借金が返せないで監獄に放りこまれた者に、もし一人の友人がいて、思いがけず、また何の義理もないのに全借財を肩代わりし、それどころか新たに資本を与えて、共同経営者にしてくれたなら、彼はその友人を愛するだろうか。敵軍の捕虜になった者は、もしある戦友が自らの命をかけて戦線を突破し、自分を救出し自由にしてくれたなら、彼を愛するだろうか。水夫がまさに溺れんとするとき、もし彼の後を追って甲板から飛び込み、髪をひっつかみ、力の限りをふりしぼって水底の墓地から救い出してくれた者がいたとしたなら、その人を彼は愛するだろうか。子供でもこうした質問には答えることができるであろう。まさにそれと同じように、真のキリスト者はイエス・キリストを愛するのである。

 a. このキリストへの愛は、救われる信仰と別ちがたく結びついたものである。悪霊どもの信仰、単なる知識だけの信仰なら、愛がなくとも持つことができる。しかしキリストを愛さない人が救いの信仰を持っていることはありえない。もちろん愛は信仰の地位を奪いはしない。愛は人を義とすることはできない。魂をキリストに結びつけることはできない。良心に平安をもたらすことはできない。しかし真に義とされる信仰をキリストに対して抱く人は、常にキリストへの心からの愛を抱く。本当に赦された者は、本当に愛する者であり(ルカ7:47)、キリストを全く愛さない人は、全く信仰を持っていないに違いない。

 b. キリストへの愛は、キリストのための奉仕の原動力である。義務感や正否の区別からだけでは、キリストの栄光をあらわすわざをほとんど何も行なうことができない。真の働きをはじめ、その働きをつづけていくには、第三者的な態度を心からぬぐいとらなくてはならない。感情的な興奮からでも、キリスト者は活気づいて発作的、散発的な活動に走るかもしれない。しかし忍耐をもって善をなしつづけること、国内海外でうむことなく伝道の働きをつづけることは、愛なくしては不可能である。看護婦は、つとめを適切に手際よく果たすことができるかもしれない。時間通り病人に薬を与え、食事を食べさせ、手助けを与え、必要な世話をすべてこなすことができるかもしれない。しかし、その看護婦と、愛する夫の病床につきっきりで世話をする妻、あるいは愛児の臨終を見守る母親とでは、雲泥の差がある。一方は義務感から動くが、他方は愛情から動く。一方は、自分の給料を得るために義務を果たし、他方は自分の心につき動かされて行なう。キリストに仕える道もこれと全く同様である。教会の偉大な働き人たち、孤独な伝道地で希望を導き、世界中を騒がせて来た者たちは、みな人一倍キリストを愛する人々であった。

 オーウェンやバクスター、ラザフォードやジョージ・ハーバート、レイトンやハーヴェイ、ホイットフィールドやウェスレー、ヘンリー・マーチンやジャドソン、ビカーステスやシメオン、ヘウィットソンやマクチェーン、ストウウェルやマクニールがどのような人物であったか吟味していただきたい。これらの人々は歴史にその足跡を刻み込んだ人々である。彼らの人物に共通する特徴は何か。彼らはみなキリストを愛していた。単に信条を信じていただけではなかった。彼らは、ひとりのお方、主イエス・キリストを愛していたのである。

 c. キリストへの愛は、子供たちに信仰を教える際、特に強調すべき点である。選びや、義の転嫁、原罪、聖潔、いや信仰そのものでさえ、時として幼い子供には理解を越えたものとなる。しかし、イエスへの愛は、はるかに理解しやすい。彼がいのちを捨てるほど自分たちを愛してくれたこと、そのお返しに自分たちも彼を愛すべきであるということは、子供の頭でも理解できる信仰信条である。「あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された」(マタ21:16)とのみことばは、何と真実なことであろう! 世には、アタナシオス信条、ニカイア信条、使徒信条を完全に暗記していながら、真のキリスト教理解にかけては、キリストを愛しているという自覚しか持たない幼児にも劣る、おびただしい数のキリスト者がいるのである。

 d. キリストへの愛は、世界中のキリスト教会のあらゆる教派の信者たちが一致できる共通の土台である。監督派も長老派も、バプテストも組合教会も、カルヴァン主義者もアルミニウス主義者も、メソジストもモラビア派も、ルーテル教会も改革教会も、英国国教会教徒も非英国国教会教徒も、少なくともここでは一致している。形式や礼典、教会政治や礼拝の仕方については、著しい違いがあるのが普通である。しかし少なくとも一点においては、みな同じ立場に立っている。自分たちの救いの望みの土台たるお方に対しては、みなが1つの共通した感情を抱いている。彼らは、「主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛する」のである(エペ6:24)。おそらく、そのうちの多くは組織神学など何も知らず、自分の信仰箇条について、たいした弁明もできない人々であろう。しかし彼らはみな、自分の罪のために死んでくださった方に対して自分がどのような思いを抱いているか知っている。ある無学なキリスト者の老婦人が、チャーマズ博士に云ったという。「私はキリストのためご大層なことは語れませんが、口で語れなくとも、キリストのためなら死ねます!」

 e. キリストへの愛は、救われて天国に入った魂の際立ったしるしとなる。あの、だれも数えることのできない大群衆は、みな同じ心を持つであろう。かつての意見の違いは、1つの共通した感情に飲み込まれてしまう。かつて地上で激しい論争の種となった教理上の差異は、1つの共通した、キリストに対する恩義という思いでおおわれてしまうであろう。ルターとツウィングリはもはや云い争わない。ウェスレーとトップレイディはもはや論争に時間を費やさない。英国国教会教徒と国教会反対者はもはやいがみあったり、いさかったりしない。みながみな、1つの心になり、声を合わせてこの賛美をもってほめたたえる。「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン」(黙1:5-6)。

 死の川の中に立つ場面で、ジョン・バンヤンが固守氏に語らせている言葉には、非常に美しいものがある。彼は云う。「[この]川はこれまで多くの人々にとって恐ろしいものでした。実際私は思ってみても恐ろしかったことがよくありました。[しかし]今は安らかに立っていると思われます。私の足はイスラエルがこのヨルダンを渡ったとき、契約のひつぎを運んだ祭司たちの足が立った所にしっかりとついています。水は口には苦く胃には冷たいのですが、これから行こうとしている所や、向こう岸で私を待っている身内のことを考えると、私の心にはあかあかと燃える炭があるのです。私は今や旅路の果てに来ています。つらかった生涯も終わりました。私はこれからいばらの冠をいただかれたあのみ顔を仰ぎ、私のためにつばきせられたあのみ顔を拝みに参ります。以前は風説と信仰とで生きて来ました。しかしこれから参ります所では、私は目のあたり仰いで暮らし、その交わりを楽しみとするお方のみもとにいるのです。私は主のうわさを聞くことが好きでした。またいつでも地上でみ足の後が見られた所には私も踏みたいと切望しました。主のみ名は私にとって香箱のようなものでした。いや、どんな香箱よりもかぐわしかったのです! そのみ声は私にとって、いとも慕わしいものでした。そしてみ顔は、日の光を最もあこがれる者にもましてお慕い申しました!」*1。このような経験をいくばくなりとも知っている者は幸いである! 天国にはいるのにふさわしくなりたいと願う者は、キリストへの愛をいくらかでも知らなくてはならない。その愛を知らずに死ぬ者は、いっそ生まれてこなかったほうがましである。

2. キリストへの愛の証拠となる独特のしるし

 第二に、キリストへの愛の証拠となる独特のしるしについて示させていただきたい。

 これは非常に重要な点である。もしキリストへの愛なくして救いがなく、もしキリストを愛さぬ者が永遠の地獄に落ちる危険にさらされているのなら、私たちはこの点についてわかっていることをはっきり確認しておくべきである。キリストは天におられ、私たちは地上にいる。ではどうしたら、ある人が主イエス・キリストを愛しているとわかるのか。

 幸いにして、この問題の解決はさほど困難ではない。この地上で私たちが誰かを愛しているとき、それはどのようにしてわかるだろうか。世の人々の間において、愛はどのような形をとるか。夫婦間で、親子間で、兄弟間で、友人間で、愛はどのような表われを示すだろうか。単純に常識的に考えていただきたい。この問いに正直に答えるとき、私たちの前の難題はすでに解かれている。私たちは自分の愛情をどのような形で示すのだろうか。

 a. もし私たちがある人を愛するなら、私たちはその人のことを考えることを好む。その人のことは、わざわざ人から思い出させてもらう必要はない。その人の名前も、姿も、性格も、意見も、好みも、立場も、仕事も忘れはしない。その人は私たちの心の目に、一日のうち何度も立ち現われる。たとえ遠く離れていても、思いの中では間近にいる。さて、これは真のキリスト者とキリストの間でも全く同じである! キリストは彼の「心のうちに住んで」おられ、日々、多かれ少なかれ思い出される(エペ3:17)。真のキリスト者は、自分には十字架についた主人がいるのだということを人から思い出させてもらう必要はない。彼はしばしば主のことを考える。主の日、主の目的、主の民、また自分がその民の一員であることを決して忘れない。愛情こそは、信仰生活で記憶力を増す秘訣である。世の人は、キリストがしいてそうなさらない限り、決してキリストについて思い巡らすことができない。全くキリストを愛していないからである。しかし真のキリスト者は、いのちの日の限り毎日キリストについて思う。それは、ただキリストを愛するがゆえである。

 b. もし私たちがある人を愛するなら、私たちはその人について聞くことを好む。私たちは、その人について語られることばに喜んで耳を傾ける。その人について語られることならどんなことにも興味を感ずる。その人のことが話されるとき、私たちはたちまち耳をそばだてる。その人の物事の仕方や、云ったこと、したこと、しようとしていることなどを聞くと、全身が耳になる。他の人々は、その人について語られるのを聞いてもまるで無関心かもしれない。しかし私たちは、その人の名前を一言でも耳にすると心が躍るのを感ずる。さて、これは真のキリスト者とキリストの間でも全く同じである! 真のキリスト者は、自分の主について聞くことを喜ぶ。彼が最も好む説教は、キリストが大きく中心を占めている説教である。彼が最も楽しいと感じる交わりは、人々がキリストに関する事柄について語り合っている交わりである。以前私は、あるウェールズの老信者について読んだことがある。この婦人は、一言も英語を理解できなかったにもかかわらず、毎週何マイルも歩いて英国人の牧師が説教する教会まで通っていた。理由を尋ねられて彼女は答えたという。この牧師先生は、説教の中で何度も何度もキリストの御名を口にしてくださるので、私はそれが嬉しくて来るのです、と。彼女は自分の救い主の名前そのものすら愛していたのである。

 c. もし私たちがある人を愛するなら、私たちはその人について読むことを好む。遠方の夫から手紙を受け取った妻、家を離れている息子から手紙を受け取った母親は何という強い喜びを感じるであろう。他の者は、そんな手紙に何の値打ちも感じないかもしれない。わざわざ最後まで目を通すことさえいやがるであろう。しかし、その差出人を愛する人々にとってその手紙は、他の誰にも理解できないものをうちに秘めている。彼らはその手紙を宝物のように持ち歩き、何度も何度も読み返す。さて、これは真のキリスト者とキリストの間でも全く同じである! 真のキリストは聖書を読むことを喜ぶ。自分の愛する救い主について語ってくれるからである。聖書を読むことは彼らにとって、退屈でも、飽き飽きする苦行でもない。旅行に出るとき、人に云われて聖書を持っていくようなことはめったにない。彼は聖書がなければ楽しめないのである。なぜだろうか。それは聖書が彼の魂の愛する方、すなわちキリストについて証ししてくれるからである。

 d. もし私たちがある人を愛するなら、私たちはその人を喜ばせようとする。私たちは喜んでその人の好みや意見に伺いをたてようとする。その人の忠告に従って行動し、その人の賛成することを行なおうとする。自分を否定してでも、その人の望みをかなえ、その人が嫌うと知っている行ないをつつしみ、個人的には好きでないことも覚えようとする。それがその人を喜ばせると知っているからである。さて、これは真のキリスト者とキリストの間でも全く同じである! 真のキリスト者は、肉体においても、霊においても、聖くなることによって、キリストをどうにか喜ばせようと努力する。彼が日常行なっていることのうちで何か、これはキリストが憎まれることだと示してみるがいい。彼はそれをやめるであろう。何か、これはキリストが喜ぶことだと示してみるがいい。それを追い求めるであろう。彼は、この世の子らのように、キリストの要求は厳しすぎる、きつすぎるなどと不平を云ったりしない。彼にとってキリストの戒めは悲しいものではない。キリストの重荷は軽い。どうしてそのようなことがあるのだろうか。それは、ただキリストを愛するがゆえである。

 e. もし私たちがある人を愛するなら、私たちはその人の友人を好む。たとえまだよく知り合っていなくとも、好感をいだく。同じ一人のひとに対する友愛の思いが共通しているので、互いにひきあう共通のきずながあるからである。顔を合わせても赤の他人とは思えない。一致したつながりがある。自分の愛する人を相手の人も愛しているのだ。それだけで立派な紹介状になる。さて、これは真のキリスト者とキリストの間でも全く同じである! 真のキリスト者は、キリストの友をみな自分の友とみなす。同じからだの部分部分、同じ家の家族、同じ軍隊の戦友、同じ家をめざす旅人仲間とみなす。彼らと出会うとき、まるで長年の知り合いであったかのようにさえ感じる。数分一緒にいただけで、この世で数年間知人であった人々とともにいるよりくつろぐことができる。では、これらすべての秘訣はどこにあるのか。それは、ただ同じ救い主に対する愛情、同じ主に対する愛のゆえである。

 f. もし私たちがある人を愛するなら、私たちはその人の名前と名誉に傷がつかないよう用心する。私たちは、その人がそしられるとき、その人のために口をきって弁護せずにはいられない。私たちは、その人の信用や評判が落ちてはならないと感ずる。その人に意地悪なことを云ったり、したりする人々は、あたかも自分に意地悪をしたかのように不快に思える。さて、これは真のキリスト者とキリストの間でも全く同じである! 真のキリスト者は、自分の主のことば、主の御名、主の教会、主の日をそしったり、けなしたりしようとするあらゆるものに対して、敬虔なねたみを燃やす。彼は、必要なら君主たちの前でも主を告白する。主の名誉が毛ほどでも傷つけられれば、たちまち敏感に反応する。彼は自分の主の御名が汚されているのに、何の反論もせず心穏やかでいるなどということはできない。では、なぜこのようなことがあるのか。それは、ただキリストを愛するがゆえである。

 g. もし私たちがある人を愛するなら、私たちはその人と語り合うことを好む。自分の思いをすべて打ち明け、心をことごとくその人に注ぎ出す。話題に困るようなことはない。他の人の前では、どれほど内気で引っ込み思案な人でも、愛する友と語るときには言葉がすらすら出てくるのを感じる。どれほど頻繁に会おうとも、話の種が尽きて困ることはない。いつでも話したいことがある。いくらでも語りたいことがある。いくらでも伝えたいこと、知らせたいことがある。さて、これは真のキリスト者とキリストの間でも全く同じである! 真のキリスト者は、自分の救い主と会話をかわすことに何の困難も覚えない。毎日、何かしら主にお告げすることがある。それを語るまでは、幸せになれない。彼は毎朝毎晩、祈りによって主に語りかける。自分の必要と希望を、自分の感情と恐れを打ち明ける。困難のときには助言を求め、悩むときには慰めを求める。そうせずにはいられない。自分の救い主と絶えず会話を交わしていなくては、道の途中で気絶してしまう。では、これはどういうわけであろうか。それは、ただキリストを愛するがゆえである。

 h. 最後に、もし私たちがある人を愛するなら、私たちは常にその人とともにいることを好む。愛する人のことを考え、聞き、読み、そして時にはその人とじかに語りあうことは、それなりに素晴らしいことである。しかしもし本当に相手を愛するなら、それ以上のことを求めるはずである。私たちは常にその人のそばにいたいと切に思う。いつも一緒にいたいと願う。何の中断もなく、片時も離れずに交わり続けたいと思う。さて、これは真のキリストとキリストの間でも全く同じである! 真のキリスト者の心は、自分の主人と顔と顔を合わせてまみえ、二度と離れることのない祝福の日を待ち望む。罪を犯し、悔い改め、信仰に生きることとは縁を切り、自分が知られているのと同じように自分も完全に知ることになる人生、二度と罪を犯すことのない、あの永遠の人生をはじめるときのことを慕い求める。信仰によって生きる甘美さを彼は知っている。しかし見るところによって生きることは、さらに一層甘美であろうと今、感じている。キリストのことを聞き、キリストについて語り、キリストについて読むことは快い。ではキリストを、じかに目で見て、二度と決して別れることがないとしたら、その快さはどれほどであろう! 彼は「目が見るところは、心があこがれることにまさる」(伝6:9)と感じる。では、なぜこうしたことがあるのか。それは、ただキリストを愛しているがゆえである。

 これらが、真の愛を見分けるための特徴である。これはみな単純、明快なもので、簡単に分かる。ここには、はっきりしないもの、難解なもの、不可解なものは何1つない。これを正直に見つめ、公正に考慮してみるなら、必ずこの説教の主題にいくばくかの光が与えられるであろう。

 あなたがたの中には、セポイの反乱の時、またはクリミヤ戦争時に、愛する息子が陸軍に入隊していたという方がいるかもしれない。ひょっとして息子さんは、実際に敵軍と交戦し、まさに激戦地のただ中にあったかもしれない。あなたは、わが子のことを思うとき、どのように胸しめつけられるような不安、恐れ、動揺を感じたか、思い出されないだろうか。それこそ愛である!

 あなたがたの中には、ご主人が海軍軍人という方々があるかもしれない。愛する夫が、しばしば任務のために家庭から召還され、何箇月も何年も離れ離れに暮らさなくてはならない方がいるかもしれない。その別離のときに味わう悲しみ、さびしさを、あなたは思い出されないだろうか。それこそ愛である!

 あなたがたの中には、今このとき、愛する弟が初めてロンドンに上京し、この大都会のもろもろの誘惑の中で、社会人として一歩を踏み出そうとしているという方々がいるかもしれない。あの子はどうなるだろうか。うまくやって行けるだろうか。もう一度会えるだろうか。弟のことを何度も何度も考えている自分に、あなたは気がつかないであろうか。これこそ愛情である!

 おそらくあなたがたの中には、いま婚約中の方がいるかもしれない。相手は、自分にとって申し分のない女性である。しかし、さまざまのことを考えあわせると結婚は少し先にしなくてはならない。また仕事の都合上、婚約者の女性から離れて暮らさなくてはならない。あなたは、彼女のことをしばしば心に思い描いていると告白せざるをえないではないだろうか。彼女の様子を聞かされ、彼女から便りをもらうことは楽しみではないだろうか。彼女に会うのを心待ちにしているではないだろうか。これこそ愛情である!

 私が述べていることは、誰にでもなじみのあることである。さらに詳しく話すことはないであろう。こうした思いは丘々よりも古い。世界のどこででも理解されうることである。アダムの家系に属する者で、愛情や愛のことについて全く知らないという者はめったにいるものではない。ならば決して、あるキリスト者がキリストを本当に愛しているかどうかは結局知りえないことだ、などと云わないようにしよう。それは知りえることである。見分けのつくことである。すべての証拠が手元にそろっている。この日このとき、はっきり云っておこう。主イエス・キリストに対する愛は、決して隠されたもの、秘密のもの、感知されえないものではない。それは光のごとく目に見え、音のごとく耳で聞こえ、熱のごとく手で感じられるものである。それが存在している限り、隠れていることはありえない。目に見えないとしたら、それは存在していないに違いない。

 この説教もそろそろしめくくりのときである。しかしその前に私は、ここまで読んでこられた読者ひとりひとりの良心に、この主題を深く問いかけずにおくことはできない。私は、心からの愛と愛情をもって語りたい。私が心から願い、心から神に祈り求めていることは、この説教があなたがたの魂に益するものであってほしいということである。

 1. まず第一に、キリストがペテロに向けて語られたこの問いを真っ正面から見つめていただきたい。そして、この問いを自分に向けられたものとして、答えてほしいと思う。真剣に考えていただきたい。あだやおろそかに答えてはならない。あらゆることを考えに入れて、慎重に答えていただきたい。ここまで述べたことをすべて読んだ上で、あなたは正直に自分はキリストを愛していると云えるだろうか。

 自分はキリスト教の真理を信じている、キリスト教の信仰箇条を受け入れている、などということでは答えになっていない。そんな信仰では決してあなたの魂は救われない。悪霊どもも、ある意味では信じており、身震いしているのである(ヤコ2:19)。真に魂を救うキリスト教は、単に一連の概念を信じたり、一連の観念を受け入れたりすればよいというものではない。キリスト教の本質は、私たちのために死んでくださった方、すなわち主キリストを知り、このキリストに信頼し、このキリストを愛することなのである。初代のキリスト者たち、フィベやペルシス、ツルパナやツルポサ、ガイオやピレモンは、おそらく教義神学についてはほとんど知らなかったであろう。しかし彼らはみな、この大きな特徴を持っていた。彼らはキリストを愛していたのである。

 自分は感情的な信仰には賛成しないのだ、などということでは答えになっていない。もしそれが、まるきり感情だけで他に何もふくんでいない信仰はきらいだ、という意味なら、私も全く同意見である。しかしもしそれが、私たちの感情をことごとく締め出すべきだ、というのなら、あなたはキリスト教についてほとんど何も知っていないのだ。人が真の信仰なしでも感情的に高まりうるということは、聖書が明らかに教えている。しかし、それと同じくらい明らかな聖書の教えは、キリストに対して何らかの熱い思いを抱くことなしに、真の信仰はありえないということである。

 隠しても何にもならないことなので、はっきり云おう。もしあなたがキリストを愛していないなら、あなたの魂は非常に危険な状態にある。地上で生きる今のあなたは、救いの信仰を全く持っていない。そして今のまま死ぬとしたら、あなたは天国に入るのにふさわしくない。キリストへの愛なしに生きる者は、キリストに何の恩義も感じることができない。キリストへの愛なしに死ぬ者は、キリストがすべてであり、キリストがすべてのうちにおられる天国で幸福になることができない。目覚めるがいい。そして、危急の状態にあると悟ることである。目を開くがいい。自分の道を思いめぐらし、賢く歩むことである。私はただ友として警告することしかできない。しかし私は心の底から、衷心から警告したい。願わくは神がこの警告を無駄にはなさらないように!

 2. 次に、もしあなたがキリストを愛していないというのであれば、その理由が何か、ここではっきり述べさせていただきたい。あなたはキリストに何の恩義も感じていない。何の負い目も感じていない。特に何かをキリストから受けたような思い出もない。もしそれが事実なら、あなたがキリストを愛するなどということはまずないであろう。それは道理に合わない。そのようなことがあれば不思議である。

 このような状態から救われる道は、ただ1つ、自分について知ることと、聖霊から教えられることである。あなたは心の目が開かれなくてはならない。あなたは、自分が生来どのような者であるか見抜かなくてはならない。あなたは、あの大いなる秘密、すなわち自分が神の目にとってどれほど罪深く、無価値な者であるかに気づかなくてはならない。

 おそらくあなたは今まで一度も聖書を読んだことがないであろう。あるいは単に形式的に時たまページをめくるだけで、何の興味も持たず、理解しようとも、自分にあてはめて考えようともせずに読んだだけであろう。どうか今日、私の助言を受け入れて、そうした読み方を変えていただきたい。聖書を真剣に読みはじめていただきたい。聖書に何が書いてあるかつかむまで決して安心してはならない。神の律法が何を要求しているかを、主イエスがマタイ5章でどのように解き明かしておられるか読むことである。ロマ書の1章、2章で、聖パウロがどのように人間の性質を描き出しているかを読むことである。聖霊のさとしを祈り求めながら、こうした箇所を研究することである。そうしたあとで、自分が神の前に負い目のある者であるかどうか云ってみるとよい。自分が、キリストのごとき友を絶対に必要とする債務者ではないかどうか云ってみるとよい。

 またおそらくあなたは、真実の、心から出た、真剣な祈りについて全く知らないであろう。あなたにとって信仰とは、教会や礼拝や日曜日にだけ関係したものだと思われていたであろう。内なる人が真剣に、心から注意を払わなくてはならないものだなどとは全く思ってもみなかったであろう。しかしどうか今日、私の助言を受け入れて、そうした祈り方を変えていただきたい。本当に熱心な思いをもって神に嘆願する習慣を身につけることである。光とさとしと、自分の真の姿の認識を神に求めることである。魂が救われるために知らなくてはならないものすべてを示してくださるよう懇願することである。心を尽くし、思いを尽くし、この一事に励むなら、遠からずして必ずあなたは自分にキリストが必要であると感じるようになる。

 ここに述べた助言は、単純きわまりない、時代遅れなものと思われるかもしれない。だからといって軽蔑してはいけない。これは、すでに何百万、何千万もの人々が踏み越え、魂に平安を見出した古き良き道なのである。キリストを愛さないのは、永遠の滅びへ落ち込む崖っぷちに立っているのと同じである。自分が今キリストを必要としていること、キリストに驚くほどの負い目があることを悟ること、それがキリストを愛するための第一歩である。自分自身を知り、神の前における自分の真の状態に気づくこと、それがあなたの必要を悟るための唯一の道である。神の書を探り、祈りのうちに光を神に求めること、それが救いの知識に達するための正しい方法である。私の助言を退けてはならない。この助言をつかみとり、救われることである。

 3. 最後に、もしあなたがキリストを愛することをいくらかでも本当に知っているのなら、別れの前に2つの激励と忠言の言葉を受けていただきたい。この言葉があなたにとって益となるよう主が導いてくださるように。

 まず第一のことは、もしあなたがキリストを真実心から愛しているなら、そのことを喜んでいただきたい。それは、あなたの魂が良い状態にあるという証拠である。愛こそは、恵みの証拠である。

 時としてあなたは、疑い、恐れに悩むことがあるかもしれない。自分の信仰が純粋なものかどうか、自分の恵みが真実なものかどうか、確信をもって云えなくなるときがあるかもしれない。しばしば涙で目が曇り、自分が神に召され選ばれていることがあやふやになるときがあるかもしれない。それが何であろうか。それでもなお、もしあなたの心が自分はキリストを愛していると証しできるなら、希望と強い慰めを持ってよい根拠があるのである。真の愛があるところには、信仰と恵みがある。もし彼があなたに何かをなさらなかったなら、あなたは彼を愛そうとはしなかったであろう。あなたの愛そのものが、何よりの良い証しである。

 もうひとつ別のこととして、もしあなたがキリストを愛しているのなら、決してそのことを他の人々から隠してはならない。決して恥じてはならない。キリストのために語りなさい。キリストのために証ししなさい。キリストのために生きなさい。キリストのために働きなさい。もし彼があなたを愛し、あなたをあなたのもろもろの罪からご自分の血潮によって洗ってくださったのなら、決してあなたは自分がそれを感じていること、その愛に答えて自分も彼を愛していることを他の人々から隠す必要はない。

 あるとき、ひとりの無思慮で不敬虔な英国人の旅行者が、ある北米インディアンの回心者に尋ねて云ったそうである。「ねえ教えてくれないかね。一体なぜそうまでキリストをありがたがり、キリストのことを喋べりまくるのかね。一体キリストが何をしてくれたから、そこまで大騒ぎするのだね」

 インディアン回心者は、口では相手の旅行者に答えなかった。彼は、枯れ葉や乾いた苔をかき集めると、それで地面の上に輪をつくり、生きたみみずをつまみ上げ、その輪の中心においた。そして火打ち石でその苔や枯れ葉に火をつけた。たちまち炎が燃え上がり、熱がみみずを焼け焦がさんばかりになった。みみずは苦しんでのたうち回り、火から逃れようとしてあらゆる方向へむだな動きを繰り返したが、結局、絶望して死を待つかのように、真中で体を丸めてしまった。そのときインディアンは手をのばし、優しくそのみみずをつまみ上げると、自分の胸の上においてやった。「異国の方」と彼は英国人に云った。「このみみずをごらんになられたか。私はこの死なんとする虫けら同然の身の上であった。自分の罪の中で滅びようとしていた。私は何の希望も持たず、無力で、まさに永遠の火の海へ落ち込む間際であった。そこへ力強い腕を伸ばしてくださったのがイエス・キリストなのである。その恵みの御手で私を救い出し、永遠の火炎から私をつかみ出してくださったのがイエス・キリストなのである。みじめな罪深い虫けらであるこの私を、その愛の御胸に抱いてくださったのがイエス・キリストなのである。異国の方、それこそ私がイエス・キリストのことを語る理由である。イエス・キリストをありがたく思う理由である。私はそのことを恥とは思わない。私は彼を愛しているのだから」。

 もし私たちがキリストへの愛をいくらかでも知っているのなら、この北米インディアンのごとき思いを持つべきではないか! ほどほどにキリストを愛するなどということがあってはならないではない! ほどほどに奉仕するだの、ほどほどに証しするだの、ほどほどの信仰生活を送るだのということがあってはならない! 復活の日の朝、私たちが味わう驚きの中でも最大の驚きは、どうして自分は死ぬまでに、もっとキリストを愛さなかったのかということであると思う。

あなたはわたしを愛しますか[了]

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*1 ジョン・バニヤン、「天路歴程 続編」 p.247-248(池谷敏雄訳)、新教出版社、1985. [本文に戻る]

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