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16. キリストから離れ


「あなたがたは、キリストから離れ」(エペ2.12)

 冒頭の聖句は、エペソの人々がキリスト者となる前の状態を述べたものである。しかしそれだけではない。これは、まだ神に立ち返っていない、英国中のすべての人々の状態を述べている。これ以上に悲惨な状態を思い浮かべることはできない! お金から切り離された生活、健康から隔たった生活、家を持たない生活、友人のいない生活だけでも、みじめすぎるほどの生き方である。しかし、「キリストから離れ」ていることは、はるかに悲惨である。

 きょうは、この聖句を取り上げて、その内容を吟味していこう。今この説教を読んでいる誰かにとって、これが神からのメッセージにならないとは誰にも云えまい。

1. 「キリストから離れ」ている人とはだれか

 まず第一に、どのような人が「キリストから離れ」ていると云えるか考えてみよう。

 覚えておいていただきたいが、「キリストから離れ」という云い回しは私がこしらえたものではない。この言葉は私の造語ではなく、聖霊の霊感のもとに書かれたものである。これは、エペソのキリスト者たちに、福音を聞いて信じる以前の彼らの状態を思い起こさせようとして、聖パウロが用いたものである。疑いもなく以前の彼らは無知で、暗愚な、偶像崇拝と異教主義にどっぷりつかり、偽りの女神ダイアナを礼拝する者らであった。しかしパウロは、こうした事実をことごとく省いている。あたかも、こうしたことでは彼らの以前の状態を云いつくすことはできないと云うかのようである。それで彼は、冒頭の聖句を第一の特徴とする、1つの肖像を描き出すのである。「そのころのあなたがたは、キリストから離れ…」(エペ2:12)。ではこれは、どういうことを意味しているのだろうか。

 a. キリストから離れている人とは、キリストに関する知識を全く持たない人のことである。疑いもなく、おびただしい数の人々はこのような状態にある。彼らは、キリストが誰であるか知らず、キリストが何をしたかも、何を教えたかも、なぜ十字架にかけられたかも、今どこにおられるかも、人類にとってどういうお方であるかも知らない。一言で云えば彼らは、キリストについて全く無知なのである。云うまでもなく、この種の人々として真っ先に挙げられるのは、まだ一度も福音を聞いたことのない異教徒らである。しかし不幸なことに、異教徒を挙げるだけでは十分ではない。今日、英国においてすら、キリストについて異教徒なみのあいまいな知識しか持たない、何万もの人々が生きている。彼らがイエス・キリストについて何を知っているか聞いてみるがいい。その頭を占める無知の暗黒さに愕然とさせられるであろう。死の床についた彼らのもとを訪れてみるがいい。彼らのキリストに関するいわゆる知識は、そのマホメットに関する知識と大差ないであろう。このような状態の人々が、地方にも大都市にも数え切れないほど生活している。このような人々すべてについて云えることは1つしかない。彼らはキリストから離れているのである。

 現代の神学者の中に、いま私が述べたような見解をとらない人々がいることは承知している。彼らは、キリストのことを知っていようといまいと、全人類はキリストと結びついており、キリストの恵みにあずかっていると云う。すなわち、すべての人は、生きている間どれほど無知であっても、死後キリストのあわれみによって天国に行けるというのである! このような見解は、どう考えても神のみことばと調和できない。そう私は堅く信じている。聖書にはこう書かれている。「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハ17:3)。終わりの日に神の復讐を受ける悪人たちのしるしの1つは、「神を知らない」ことである(IIテサ1:8)。知られざるキリストは、救い主ではない。果たして異教徒が死後どのような状態になるのか、一度も福音を聞いたことのない野蛮人がどのようにさばかれるのか、どうしようもなく無知で無教育な人々を神がどのように取り扱われるのか----こういった問題はみな、ここで論じなくてもよいであろう。確かに、「全世界をさばくお方は、公義を行なう」はずである(創18:25)。しかし私たちは、聖書のことばを打ち消すようなことがあってはならない。もし聖書のことばが全く無意味だというのでもなければ、キリストについて無知であることは、キリストから離れているということである。

 b. しかし、それだけではない。キリストから離れている人とは、自分の救い主としてキリストを心から信じていない人のことである。キリストについての知識は完璧に備えていながら、キリストを信じていないということは、きわめてありうることである。おびただしい数の人々は、信仰箇条を1つ残らずそらんじており、キリストが「処女マリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」たことを、すらすら語ることができる。それは、彼らが学校で学ばされ、そらで云えるように記憶させられたからである。しかし実際には彼らは、その知識を全く生かしていない。彼らが信じているのは、キリスト以外の何かである。彼らは自分が道徳的で、品行方正で、毎日祈り、毎週教会に通い、バプテスマを受けて、聖餐式にあずかっているから天国に行けると思っている。しかし、キリストにある神のあわれみに対する生きた信仰----キリストの血と義ととりなしに対する、本物の、自覚的な信頼----について彼らは、全く何も知っていない。そして、このような人々すべてについて真実云えることは、1つしかない。彼らはキリストから離れているのである。

 私は、多くの人々が今述べたことを否定していることを承知している。ある人々は、洗礼を受けた人はみな、その洗礼の効力によってキリストのからだになっているのだと云う。また他の人々は、キリストについて知識を持った人なら、その人がキリストの救いにあずかっているはずで、その救いを云々する権利は私たちにないと云う。こういう考え方に対して私は、ただ一言、簡単に答えたい。聖書によれば、いかなる人も信じない限り、キリストに結び合わされていると云ってはならない。バプテスマは、私たちがキリストに結び合わされている証拠にはならない。魔術師シモンはバプテスマを受けていたが、彼は「このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません」、とはっきり云われている(使徒8:21)。頭だけの知識は、私たちがキリストに結び合わされている証拠にはならない。悪霊たちはキリストをよく知っている。しかし彼らはキリストの救いにあずかっていない。もちろん神は、永遠の昔から誰がご自分の民であるか知っておられる。しかし人間には、ある人が義と認められているかどうかは、その人が信じるまではわからない。決定的なのは、「私たちは信じているか?」、と問うことである。聖書にはこう書いてある。「御子を信じない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」。「信じない者は罪に定められます」(ヨハ3:36; マコ16:16)。聖書のことばが全く無意味だというのでもない限り、信仰がないということは、キリストから離れているということである。

 c. しかし、もう1つだけ云わなくてはならないことがある。キリストから離れている人とは、その生活のうちに聖霊の働きが見られない人のことである。見る目を持った人なら、無数の自称キリスト者が心の内側の回心を全く体験していないことを、どうして見ずにいられようか。彼らはキリスト教を信じていると云うであろう。彼らは、そこそこの頻度で礼拝にやって来るであろう。結婚式も葬式も、キリスト教式で挙げることに異存はないであろう。もし「あなたのキリスト教はにせものですよ」と云われたなら、彼らは大いに気分を害するであろう。しかし、彼らの生活のどこに聖霊の働きが見られるだろうか? 彼らの心や愛情は何に注がれているだろうか? 彼らの趣味や習慣や態度を特徴づけているのは、何の偶像であり、何の迷信だろうか? 悲しいことに答えは1つである! 彼らは、聖霊の更新や聖めのみわざを何も経験していないのである。彼らは、いまだ神に対して死んだ者である。このような人々すべてについて云えることは1つしかない。彼らはキリストから離れているのである。

 これを認める人がほとんどいないことも、私は重々承知している。大多数の人々は、キリスト者にそこまで要求するのは極端だ、まるで無茶苦茶だ、途方もないことだと云うであろう。何もみなが回心することはないではないかと云うであろう。今私が述べたような高い基準を守るには、この世から出て行かなくてはならないと云うであろう。そんな大聖徒にならなくても天国には行けるはずだと云うであろう。これらすべてに対して私はこれだけを云いたい。「聖書は何と云っているか? 主は何と云われたか?」 聖書にはこう書いてある。「人は、新しく生まれなければ、神の国にはいることができません」。「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」。「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」。「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」(ヨハ3:3; マタ18:3; Iヨハ2:6; ロマ8:9)。聖書のことばを無にすることはできない。聖書のことばが全く無意味だと云うのでもない限り、御霊を持たないということは、キリストから離れているということである。

 私が今述べた3つのことを、真剣に、祈り心をもって、よく考えていただきたい。それが結局どういうことかを熟考してほしい。それをあらゆる角度から調べてみようではないか。キリストの救いにあずかるためには、知識と、信仰と、聖霊の恵みが絶対に必要である。これらを持たない人はキリストから離れているのである。

 多くの人々は、何と痛ましいほどに無知なことであろう! 彼らは信仰について文字通り何も知らない。キリスト、聖霊、信仰、恵み、回心、聖潔などは、彼らにとって「わけのわからぬたわごと」でしかない。彼らは、自分のいのちを救うためであっても、これらの意味することを説明できない。このように無知な人々が天国へはいることができるだろうか? 不可能である! 知識のない人は、キリストから離れているのである!

 多くの人々は、何と痛ましいほどに自分の義を誇ることであろう! 彼らは満足気に、「自分は義務を果たしている」とか、「自分は他人には親切にしている」とか、「自分はいつも教会に行っている」とか、「自分はあんな人々ほど悪いことは一度もしたことはない」などと云って平然としている。それさえあれば天国に行けて当然であるかのようである! それでいて心底からの罪意識や、キリストの血潮といけにえに対する単純な信仰は、彼らの宗教とは全く無関係に見えるのである。彼らの話は、常に「あれをした」「これをした」といった、することがすべてであり、信ずることは毛ほども出てこない。このような自己義認を持ちながら、天国にはいることができようか? 不可能である! 信仰がなければ、キリストから離れているのである!

 多くの人々は、何と痛ましいほどに不敬虔なことであろう! 彼らは、神の安息日も、神の聖書も、神の定められた儀式も、神の聖礼典も、常にないがしろにしている。彼らは、神がはっきり禁じておられることを行なって何とも思わない。彼らは絶えず神の戒めとは正反対の生き方をしている。このように不敬虔な者が、結局は救われるのだろうか? 不可能である! 聖霊がなければ、キリストから離れているのである!

 私は、これらのことばが、初めは厳しく、無慈悲で、乱暴で、酷に聞こえるだろうことはよく承知している。しかし、つまるところ、これらは聖書に啓示された神の真理ではなかろうか? もし真理であれば、人に知らせるべきではなかろうか? もし知らせる必要があるならば、はっきり口にするべきではなかろうか? 正直に心から云いたいと思うが、私が何よりも望んでいるのは、罪人に対する神の愛の豊かさを大いに告げ知らせることてある。私は、神のみむねのうちに、どれほど豊かなあわれみと慈愛がたくわえられているか全世界に告げ知らせたい。そして、そのあわれみと慈愛は、求める者には誰にでも与えられることを知らせたいと思う。しかし、無知で不信仰で不敬虔な人々が、キリストの救いに少しでもあずかっているなどということは、どこにも書かれていない。もし私が間違っているというのであれば、どうかもっとすぐれた道を指し示していただきたい。喜んで耳を傾けよう。しかし、その間違いがはっきり証明されない限り、私はすでに述べた3つの立場を一歩も譲るわけにはいかない。私が神のみことばを偽って用いたことがわかるまでは、私はこの立場に立ち続ける。このことについて口をつぐもうとは思わない。それは魂の血の責めが私の手に帰せられないためである。知識のない人、信仰のない人、聖霊のない人は、キリストから離れている!

2. キリストから離れている人の実際の状態

 さて次に、ここで考えたいもう1つの点に移ろうと思う。キリストから離れている人は、実際どのような状態にあるのであろうか?

 これは、この問題の中でも、非常に特別な注意を払わなくてはならない部分である。もしこの点について幾分かでも真実を描き出せたら感謝につきない。私には、読者のある人々がこう云っている姿が目に浮かぶようである。「なるほど、では私がキリストから離れているとしよう。それがどうした。何がいけない。神はあわれみ深いお方のはずだ。私だって、他の多くの人々ほど悪いことはしていない。結局最後にはすべてがうまくいくだろうさ」。私はこのような考えが悲しいほど誤ったものであることを示そうと思う。キリストから離れて、すべてがうまくいくことはない。否、すべてが絶望的なほどまずくなるのである。

 a. まず第一に、キリストから離れているということは、神から離れているということである。使徒聖パウロは、同じことをはっきりエペソ人に語っている。彼は、「そのころのあなたがたは、キリストから離れ」ということばから始まる、この有名な一節を、「この世にあって望みもなく、神もない人たちでした」と終えている。しかし、少しでももののわかった人なら、誰がこのことに驚くだろうか? よほど神について卑俗な考え方しかできない者でなければ、神が最もきよく、聖にして、栄光に富む霊的存在であることは否定できないはずである。また、よほどひどく盲目な者でなければ、人間の性質が腐敗し、罪深く、汚れたものであることはわかるはずである。では、どうして人間のごとき虫けらが、心安く神のもとに近づけるだろうか。どうして人間が、大胆に、恐れなく神を見上げることができようか。どのようにすれば、恐怖もおびえもなく、神に語りかけ、神と交わりを持ち、神とともに住むことを待ち望みえようか。それは神と人の間に仲立ちがはいる以外にない。そして、その任を全うできるお方はただひとり、キリスト以外にない。

 キリスト抜きの、キリストとは全く関係のない、神のあわれみや愛を語るあなたは何者なのか。そのような愛、そのようなあわれみは、一言も聖書に書かれていない。この日、肝に銘じていただきたい。キリスト抜きの神は「焼き尽くす火」である(ヘブ12:29)。神があわれみ深い方であることに疑いはない。神はあわれみ豊かな方、あわれみに富むお方である。しかし神のあわれみは、その愛する御子イエス・キリストの仲介と分かちがたく結びついている。神のあわれみは、キリストという定められた通路を通して流れるか、全く流れないかのどちらかである。こう書かれている。「子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません」。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハ5:23; 14:6)。キリストから離れている限り、私たちに神はない。

 b. さらに、キリストから離れているということは、平和がないということである。どんな人にも良心がある。この良心が満足しない限り、人は幸福になることができない。この良心が眠っていたり、死んだも同然になっている限り、何があろうとどういうことはないに違いない。しかし、いったん良心が目覚め、自分の過去の罪、現在の失敗、将来のさばきのことを考え出すやいなや、人は自分の心を安らげてくれるものが必要であることに気づくのである。しかし私たちに何ができよう? 悔い改めて、祈りに励み、聖書を読み、教会に通い、聖餐にあずかり、苦行を積んで、あれこれ試してみることはできる。だが、むだな努力にすぎない。そうした努力によって良心の重荷を取り除けた者は一人もいない。しかし、平安は絶対に必要である!

 良心に平安をもたらすことのできるものはただ1つしかない。それは、その良心にイエス・キリストの血を注ぐことである。神に対する私たちの負債はキリストの死によって完済されたのだということ、信じるとき人にはキリストの死の功績が譲り渡されるのだということ、これらを明確に理解することこそ、うちなる平和の大いなる秘訣である。それは良心のあらゆる渇望を満たす。それは、どのような非難、告発にも屈さない。どのような恐れも静める。こう書かれている。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです」。「キリストこそ私たちの平和で…す」。「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」(ヨハ16:33; エペ2:14; ロマ5:1)。私たちは、彼の十字架の血による平安を持っている。それは、鉱山の底知れぬ採掘坑よりも深い平安、豊かにあふれ流れる川のごとき平安である。しかしキリストから離れている限り、私たちに平和はない。

 c. また別のことととして、キリストから離れているとは、希望がないことである。ほとんどの人は、まず例外なく、自分にも少しは望みがあると考えている。自分の魂には何の希望もない、などと公言する者はめったにいない。しかし、自らの「うちにある希望について説明できる」(Iペテ3:15)人の何と少ないことか! その希望の根拠について説明し、論じ立て、立証できる人の何と少ないことか! ばくぜんとした、根拠もない思い込みのほか何もなしに希望を持つ人の何と多いことか。そのようなものは、病床に伏す日や、死の床につくときには、全く無益で、何の慰めも与えないものであることが暴露されるであろう。

 確実な根拠のある、いのちと力にあふれた、ゆるがぬ希望はただ1つしかない。それは、人々の贖い主として、キリストが成し遂げられたみわざと職務という偉大な岩を基盤とする希望である。「だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです」(Iコリ3:11)。この礎石の上に建てる者は「失望させられることがない」。この希望は、非現実的な幻想ではない。この希望は、どこから眺めようが、どこをどう突っつこうが、びくともしない。どれほど洗い出そうと、何の傷も見つからない。これ以外の希望はことごとく無価値である。夏枯れの泉のように、一番必要なときに人を失望させるものである。さながら、船底の傷んだ船が、港で静かに停泊しているときは堅牢に見えても、ひとたび大洋の波浪にもまれると、腐った船板が発見され、水底に没していくのと同じである。キリストなくして確証などありえない。キリストから離れている者に望みはないのである(エペ2:12)。

 d. さらに別のこととして、キリストから離れているということは、天国から離れているということである。これは単に、キリストから離れている人は天国にはいれないというだけではない。キリストから離れている人は、天国に行っても幸福になれないということである。救い主も贖い主も持たない人は、決して天国でくつろぐことができない。彼は、このようなところに来る権利が自分にないことを痛感し、自分が場違いなところにいると感じるであろう。大胆に、確信をもって、気楽にしていることは不可能であろう。きよく聖なる御使いの間にあって、またきよく聖なる神の御目の前で、彼は顔をあげることができない。彼はいたたまれず、恥ずかしさでいっぱいになるであろう。これが、キリストのおられる天国の正しい姿である。

 キリストが何の位置も占めていないような天国を夢想するあなたは何者なのか。自分の愚かさに気づくがいい。聖書が描く天国には、必ずキリストがおられる。これが、その欠かすことのできない特徴である。聖ヨハネは云う。「私は御座…の間に、ほふられたと見える子羊が立っているのを見た」。その天の御座そのものが、「神と子羊の御座」と呼ばれている。小羊は天国のあかりであり、その神殿である。天国に住む聖徒らにとっては、「子羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださる」。天国で聖徒たちが相会うことは、「小羊の婚宴」と呼ばれる(黙5:6; 22:3; 21:22、23; 7:17; 19:9)。キリストのいない天国は、聖書の天国ではない。キリストから離れている者に天国はないのである。

 これらの他にも、多くを云い足すことができるであろう。キリストから離れているということは、いのちなく、力なく、安全なく、土台なく、天国における友がなく、義がないことであると云えよう。実に、キリストから離れている者ほど、ない物づくしの者はない!

 ノアにとって箱舟が、エジプトのイスラエルにとって過越の小羊が意味していたところのもの、また荒野の十二部族にとってマナが、また打たれた岩、青銅の蛇、雲の柱、火の柱、贖罪の山羊が意味していたところのもの----それが、人の魂にとってのキリストなのである。

 木の枝にとって根が意味するところのもの、また私たちの肺にとって空気が、肉体にとって食物や水が、被造物にとって太陽が意味するところのもの、これらすべては、私たちにとってキリストがどのようなお方であられるかを、不完全ながらも示している。キリストから離れている者ほど無力で、あわれむべき者はない!

 確かに、もしもこの世に病や死がなく、人が決して年老いることなく、永遠に地上で生き続けるのなら、この説教の主題は全く重要な問題ではあるまい。しかし忘れてはならない。病や死や墓場は悲しい現実なのである。

 もしもこの人生だけがすべてで、さばきも、天国も、地獄も、永遠も、何もなければ、このトラクトに記したような問いであなたを煩わすのは、全くの時間のむだであろう。しかし、あなたには良心がある。墓のかなたには最後の審判が待っていることを、あなたはよく知っている。来たるべきさばきがあるのだ。

 確かにこの説教の主題は、軽々しい問題ではない。小さなことではない。取るに足らない問題ではない。分別のある人間なら、だれしも注意しなくてはならない問題である。これは、私たちの魂の救いという、あの絶大に重要な問題の根幹にかかわっている。キリストから離れている者ほど悲惨な者はない。

 1. さてここで私は、この説教を読んでこられた方々ひとりひとりに、自分自身を吟味し、自分が今どんな状態にあるかを、正確につかむようにお願いしたい。あなたはキリストから離れているだろうか?

 何も真剣に考えず、何の自己吟味もしないまま人生を過ぎ去らせてはならない。今のまま、いつまでもやっていくことはできない。食べることも、飲むことも、眠ることも、着ることも、陽気になることも、金使いもやめなくてはならない日が必ずやってくる。いつかは、あなたの席が空席になり、あなたが故人としてしか語られなくなる日がやってくる。そのとき、あなたはどうするのか。もし、それまで自分の魂について何1つ考えることなく、神なく、キリストから離れて生き、死んだとしたら、そのときあなたはどこにいるだろうか? おゝ、忘れないでいただきたい。金もなく、健康もなく、友人もなく、仲間もなく、美食もできないという方が、キリストから離れているより千倍もまさっている!

 2. もしあなたがこれまでキリストから離れて生きてきたのなら、衷心からお願いしたい。今すぐ人生の方向を変えることである。見いだせるうちに主イエスを求めていただきたい。身近におられるうちに、主を呼び求めていただきたい。主は神の右に着座しておられ、みもとに来る者を完全に救うことがおできにる。どれほど罪深く、どれほど不敬虔に生きてきた者でも同じである。主は神の右に着座しておられ、どのような者の祈りにも耳を傾けようとしておられる。これまでの人生が全く誤りであったと感じ、今それを正したいと願うすべての者の祈りを喜んで聞こうとしておられる。キリストを求めていただきたい。今すぐ求めていただきたい。キリストの近づきになるがいい。彼のもとに来ることを恥じてはならない。この年、キリストの友となるがいい。いつの日か、あれは自分の人生で最高に幸福な年だったと云うときが来るはずである。

 3. もしもあなたがすでにキリストの友となっているのであれば、感謝にあふれた人となるように勧めたい。目を覚まして、この無限のあわれみに深く感謝していただきたい。全能の救い主、天国へ行く権利、永遠の家、決して死ぬことのない友を与えられた恩義を忘れてはならない! 数年もしないうちに、地上の家族がそろって集い、相会うことは永遠になくなる。しかしキリストのうちに、決して失うことのないものを抱いていると思えるのは何という慰めであろう!

 目を覚まして、キリストから離れている人々の悲しむべき状態を深く思いやっていただきたい。私たちは、食物や衣類や学校や教会から離れている多くの人々のことは、しばしば思い出させられる。もちろんそうした人々のことはあわれみ、できる限り助けの手を差しのべよう。しかし、それよりもずっとあわれむべき状態の人々がいることを決して忘れないようにしよう。どういう人々か。キリストから離れている人々である!

 私たちにはキリストから離れている親族がいるだろうか? 彼らに同情し、彼らのため祈り、彼らのことについて天の王に祈りをささげ、彼らに福音を勧める努力をしようではないか。彼らをキリストのもとに連れてくるために、あらゆる努力をしようではないか。

 私たちには、キリストから離れている隣人がいるだろうか? 彼らの魂が救われるように、あらゆる手段をとろうではないか。だれも働くことのできない夜がやって来る。キリストのうちには平安があり、安全があり、幸福があるが、キリストから離れている者は破滅の淵に立っている。このことを、ゆるぐことなく確信して生きられる者こそ幸いである。

キリストから離れ[了]

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