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14. 目に見える教会への警告


「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」(黙3:22)

 この論考を読んでいる人は全員、何らかの、目に見えるキリスト教会に属していると考えてよいかと思う。私が今問題にしているのは、あなたが監督派か、長老派か、独立派か、ということではない。ただあなたが、無神論者とも不信者とも呼ばれたくない人であろう、と考えているだけである。あなたは、信仰を告白するキリスト者たちが集う、何らかの、目に見える単立教会または国教会で公の礼拝に出席している人であろう。

 さて、あなたの教会が何という名前であろうと、私はあなたに、目の前の聖句に特別の注意を払うよう勧めたい。覚えておくがいい。この聖句の言葉は、あなたにかかわるものである。これが書かれたのはあなたを教えるため、またキリスト者と名乗るすべての人々のためなのである。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」。

 この言葉は、黙示録2章と3章において7たび繰り返されている。そこで主イエスは、そのしもべヨハネの手によって7通の異なる手紙を、アジアにある7つの教会に送っておられる。7たび主は、その手紙を同じ厳粛な言葉でしめくくっておられる。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」、と。

 さて主なる神は、そのすべてのみわざにおいて完璧であられる。偶然なさるようなことは何1つない。聖書のいかなる部分も、偶然に書かれたのではない。主のなさるすべてのみわざには、意図と目的と計画を見いだすことができる。個々の惑星の大きさと軌道には意図がある。どれほど小さな羽虫も、その翅の形や構造には意図がある。聖書のあらゆる節には意図がある。ある節が繰り返されている場合、どんな箇所であろうと、そこには意図がある。私たちの前にある聖句が7たび繰り返されていることにも意図がある。そこには意味があるのであり、それを私たちは注目しなくてはならない。

 私が思うに、この節は、この7通の「諸教会への手紙」に対して、真のキリスト者すべての注意を特に促そうとしているのである。この聖句は信仰者に、この7通の手紙の内容に格別の注意を払わせるためのものだと思う。

 そこで、この7通の手紙が教えていると思われる主要な真理をいくつか指摘させていただきたい。それは、私たちの生きる現代のための真理である。終わりの日のための真理、いくら詳しく知っても十分ではない真理、私たちが今よりはるかによく知り、はるかに強く心に感じてよい真理である。

1. 私がまず第一に読者に注目してほしい点は、主イエスがこの7通の手紙全部において、教理と、生活と、警告と、約束のほか何1つ語っておられない、ということである。

 時間のあるとき、静かに、この諸教会への7通の手紙に目を通してみていただきたい。私が何のことを云っているかはすぐにわかるであろう。

 あなたは主イエスが、時として、偽りの教理や、不敬虔で首尾一貫しない生き方を非難し、厳しく叱責しておられることに気づくであろう。

 あなたは時として、主が信仰や、忍耐や、行ないや、労苦や、忠実さを称賛し、こうした種々の恵みを高く称揚しておられることに気づくであろう。

 あなたは時として、主が悔い改めや、生活の改善や、初めの愛に戻ること、主ご自身への信仰を新たにすることを命じておられることに気づくであろう。

 しかし私があなたに気づいてほしいのは、主がどの手紙においても、決して教会政治や、種々の儀式などについては、かかずらっていないということである。主は聖礼典や諸儀式については何も語っていない。典礼や礼式については全く述べていない。主がヨハネに書かせた手紙には一言も、バプテスマや、主の晩餐や、教役者の使徒継承などについては書かれていない。つまり、この7通の手紙を隅から隅まで読んでも、いわゆる「礼典制」の主要原理については、全く取り上げられていないのである。

 さて、なぜ私はこのことにこだわるのか? それは現代、信仰を告白するキリスト者の多くが、こうしたことこそ第一の、枢要な、また最高度の重要性を持つことだと信じさせたがっているからである。

 少なからぬ数の人々が、主教がいなければ教会はありえない、また典礼がなければ信仰はありえないと主張しているように見える。あたかも、聖礼典の価値を教えることこそ教役者の第一の務めであり、自分の教区教会から離れないことこそ人々の第一の義務である、と信じているかのようである。

 さて私がこのように云うからといって、だれも誤解しないでいただきたい。変な早合点をして、まるで私が聖礼典に何の重要性もないと云っているように思ってはならない。全く逆に私は、聖礼典は、「正しく、尊崇の念と信仰をもって」受け取る者すべてにとって、大きな祝福であるとみなしている。私が主教制や、典礼や、教区制に何の価値も認めないなどと考えてはならない。全く逆に私は、これら三者を有する教会はよく治められており、福音的な牧会活動をしており、これらが見られない教会よりもはるかに充実した、有益な教会であると考えている。

 しかし私が云いたいのは、聖礼典や、教会政治や、典礼の執行や、儀式や礼式の遵守は、信仰や、悔い改めや、聖潔にくらべれば、ことごとく無にひとしい、ということである。そして、何をよりどころにそのように語るかといえば、それは、この7つの教会に対する私たちの主のおことば全体の調子にほかならない。

 もし特定の教会政治形態が、ある人々の云うほど非常に重要なものだとしたら、この教会の偉大なかしらが、ここでそのことについて何1つ語らないなどということは到底信じられない。サルデスやラオデキヤには、そのことについて何か語られていてしかるべきであろう。しかし、全く何も語られていないのである。そして私の見るところ、その沈黙は雄弁な事実である。

 エペソの長老たちに対するパウロの告別の言葉にも、全く同じ事実が見られると云わざるをえない(使20:27-35)。そのときパウロは、彼らと永遠の別れをしようとしていた。彼は地上における最後の訓戒を与えようとしており、自分の聞き手の顔を二度と見ることがない者として語っていた。にもかかわらず、その訓戒の中には一言も、聖礼典や教会政治については語られていないのである。それらについて語らなくてはならない時があるとしたら、この時こそ、まさにそうであった。しかし彼は何も語っておらず、私はこれは意図的な沈黙であると信ずる。

 さてここにこそ、私たち、良かれ悪しかれ福音派教職と呼ばれる者たちが、今している程度にしか、主教や祈祷書や諸制度について説教していない理由の1つがある。それは私たちがそれらを評価していないからではない。しかるべき分際に置かれる限り、そうしたものを私たちは、だれに負けず真実に、心から評価しているし、感謝している。しかし私たちの信ずるところ、神に対する悔い改めと、私たちの主イエス・キリストに対する信仰、そして聖い生活の方が、人の魂にとってははるかに重要な主題である。こうしたことがなければ、だれひとり救われることはできない。こうしたことこそ第一のことであり、最重要の問題である。だからこそ私たちは、こうしたことに力を傾けるのである。

 さらにまたここには、私たちがこれほどしばしば、キリスト教のうわべを身につけるだけで満足しないよう人々に促す理由の1つがある。知っての通り、私たちはしばしばあなたに、教会員であることや教会に属しているという特権を頼みにしてはならないと警告している。毎週教会に通い、聖餐式に出席しているからといって何もかも大丈夫だと満足してはならないと告げている。私たちは飽くことなくあなたに促している。外的に教会につながる者がキリスト者なのではない、あなたは「新しく生まれなくてはならない」、あなたは「愛によって働く信仰」を持たなくてはならない、心の中には御霊による「新しい創造」がなくてはならない、と。私たちがそのようにするのは、これこそキリストの心であると思うからである。こうしたことこそキリストが、この7つの異なる教会に対して7通の手紙を書いておられたとき最も重要視しておられた種類の事柄である。私たちは、キリストの模範に従っている限り、大きく間違うことはないと思う。

 人が私たちのことを、先に挙げたような主題について「低い見解」をいだいていると非難していることはよく承知している。しかし、私たちの見解がどれほど「低い」と思われても、それが聖書的であるとの良心の声がある限り、たいしたことではない。いわゆる高い見地が常に安全な立場とは限らない。バラムの言葉が私たちの答えでなくてはならない。「主が告げられること、それを私は告げなければなりません」(民24:13)。

 あからさまな真実を語れば、現在英国には2つの全く異なる別々の体系のキリスト教があるのである。それを否定しても何にもならない。その2つが存在していることは厳然たる事実であり、だれの目にも明らかである。

 一方の体系によれば、信仰とは単なる合同事業にすぎない。あなたはある特定の団体に属するべきである。この団体の一員であることによって、現世と永遠の双方における莫大な特権が授与される。あなたの内面や感情は、ほとんど問題ではない。内側に何を感じているかで自分を判断すべきではない。あなたは、大いなる教会組織の一員なのである。だとすれば、その特権と特約条項は自動的にあなたのものである。あなたは、この唯一真の、目に見える教会組織に属しているか? それが最大の問題である。

 もう一方の体系によれば、信仰とは何よりもまず、あなたと神の間における個人的な問題である。何らかの教会団体に外的に属しているからといって、それであなたの魂が救われはしない。その教会団体がどれほど健全であろうと関係ない。その団体の会員籍は、あなたの罪を洗い流しも、最後の審判の日にあなたに確信を与えてくれもしない。キリストに対する個人的な信仰がなくてはならない。あなたと神との間に個人的な関係がなくてはならない。自分の心と聖霊との間に個人的な交わりがあると感じとれなくてはならない。あなたにはこの個人的な信仰があるだろうか? あなたの魂には、この御霊の働きが感じとれるだろうか? それが最大の問題である。もしそれらがなければ、あなたは滅びる。

 この後の方の体系こそ、福音派教職と呼ばれる人々が墨守し、かつ教えている体系である。彼らがそうするのは、これが聖書の教える体系であると心から納得しているからである。これ以外の体系が最も危険な結果を生み出すものであり、人々を自分の実際の状態について致命的な迷妄に陥らせるものであると確信しているからである。これが、神が祝福をお与えになる唯一の教理体系であり、悔い改めや信仰や回心や御霊のみわざが教役者の説教の中で眼目となっていない限り、いかなる教会も力強く成長することはないと信じているからである。

 もう一度云うが、私たちはしばしば、この7通の「諸教会への手紙」に注意深く目を通そうではないか。

2. 私が第二に読者に注目してほしい点は、主イエスがどの手紙においても、「わたしは、あなたの行ないを知っている」、と云っておられるということである。

 この繰り返された表現は非常に目立つものである。この言葉が7たびも繰り返し記されているのは、決してゆえなきことではない。*

 ある教会に対して主イエスは、「わたしは、あなたの労苦と忍耐を知っている」と云われ、別の教会には、「あなたの苦しみと貧しさとを知っている」と云われ、次の教会には、「あなたの愛と信仰と奉仕を知っている」と云っておられる。しかし、すべての教会に対して主は、今ここで詳しく考えようとしていることばを用いておられる。「わたしは、あなたの行ないを知っている」、と。それは、「わたしは、あなたの信仰告白を知っている」でも、「あなたの願いを知っている」でも、「あなたの決心、あなたの願望を知っている」でもなく、「あなたの行ないを知っている」である。「わたしは、あなたの行ないを知っている」。

 信仰を告白するキリスト者の行ないは、非常に重要である。むろん行ないによって魂は救えない。行ないによって義と認められることはできない。行ないがあなたのもろもろの罪を拭い去ることはできない。行ないがあなたを神の御怒りから救い出すことはできない。しかし、行ないによっては救われないからといって、行ないに何の重要性もないことにはならない。そうした考えには用心し、警戒するがいい。そんな考えをいだく人は、恐ろしい思い違いをしているのである。

 私はしばしば、律法の行ないによらない、信仰による義認という教理のためなら、喜んで死ねると思う。しかしまた、一般論としては、ある人の行ないが、その人の信仰の証拠である、ということも熱を込めて主張しなくてはならない。キリスト者であると名乗る人は、それを日常生活や日常のふるまいによって示さなくてはならない。アブラハムやラハブの信仰が、彼らの行ないによって証明されたことを思い起こすがいい(ヤコ2:21-25)。神を知っていると告白しても、行ないでそれを否定していたら何にもならないことを思い出すがいい(テト1:16)。主イエスのことばを思い出すがいい。「木はどれでも、その実によってわかるものです」(ルカ6:44)。

 しかし、信仰を告白するキリスト者の行ないがどのようなものであれ、イエスは云っておられる。「わたしは、あなたの行ないを知っている」! 主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている(箴15:3)。あなたがどれほど人目につかない所で行なった秘密の行為も、イエスはそれを見ておられる。あなたの発したほんの一言でも、否、ささやきですら、イエスはそれを聞いておられる。あなたが書いたどんな手紙も、たとえ最愛の親友に対する手紙ですら、イエスはそれを読んでおられる。あなたのいだいたどんな考えも、たとえ最も秘められた思いですら、イエスはそれを熟知しておられる。彼の目は燃える炎のようである。暗やみも彼にとっては暗やみではない。あらゆることが彼の前には開かれており、明らかである。彼はあらゆる人に云っておられる。「わたしは、あなたの行ないを知っている」、と。

 a. 主イエスは、悔い改めず、不信仰を続けるあらゆる人の行ないを知っておられ、いつの日かそれを罰される。そうした行ないは、地上では忘れられるかもしれないが、天では忘れられない。大いなる白き御座が据えられ、幾多の書物が開かれるとき、死んだ悪人たちは「自分の行ないに応じて」さばかれる[黙20:12]。

 b. 主イエスは、ご自分の民の行ないを知っておられ、それを量りにかけられる。「もろもろの行ないは主によって量られる」(Iサム2:3 <口語訳>)。彼はあらゆる信仰者の行ないのいわれ因縁をことごとく知っておられる。彼らのすることなすことの動機を知っておられる。どれだけが主のためになされたのか、またどれだけが人々の賞賛を得るためになされたのかを見抜いておられる。悲しいかな、あなたや私の目には非常に素晴らしく見えても、キリストから非常に低く評価されているものは少なくない。

 c. 主イエスは、ご自分の民の行ないをすべて知っておられ、いつの日か彼らに報いをなさる。彼は、御名のために発された親切な言葉1つ、御名のためになされた親切な行為1つをも、決してお見過ごしにならない。彼は、最も小さな信仰の実をも尊んでくださり、その現われの日には全世界の前でそれを明らかにしてくださる。もしあなたが主イエスを愛し、彼に従うなら、あなたの行ないと労苦は主にあってむだではないと確信してよい。主にあって死ぬ者たちの行ないは「彼らについて行く」(黙14:13)。そうした行ないは彼らの先を行くことも、彼らのわきを進むこともないが、彼らの後について行き、キリストの現われの日にその真価を認められる。ミナのたとえが実現するのである。「それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです」(Iコリ3:8)。世はあなたを知らない。あなたの主人を知らないからである。しかしイエスはすべてをごらんになっており、すべてを知っておられる。「わたしは、あなたの行ないを知っている」。

 ここに、あらゆる世的で偽善的な信仰告白者にとって、何と厳粛な警告があるか考えてみるがいい。そのような者はみな、これらの言葉を読み、心に刻み、その意味をかみしめるがいい。イエスはあなたに云っておられるのである。「わたしは、あなたの行ないを知っている」、と。あなたは私や他の牧師をだませるかもしれない。それはたやすいことである。あなたは私の手からパンと葡萄酒を受けていながら、心の中では不義にしがみついているかもしれない。あなたは毎週毎週、福音的な説教者の講壇の前に座り、謹厳な顔つきでその言葉を聞いていながら、それを信じてはいないかもしれない。しかし、このことを覚えておくがいい。あなたはキリストをだますことはできない。サルデスが死んでいること、ラオデキヤがなまぬるい状態にあることを見て取ったお方は、あなたの裏も表も見通しておられ、あなたが悔い改めない限り、終わりの日にあなたのすべてを暴露するであろう。

 おゝ、嘘ではない。偽善は負けの決まった勝負である。見かけと実質を別物にし続けることは決してできないし、キリスト者の名を借りながら実はにせ者であり続けることはできない。思い知るがいい。あなたの良心が痛み、このことであなたの非を鳴らしているのなら、あなたの罪は露見すると思い知るがいい。アカンが金の延べ棒を盗んで隠すのをごらんになっていた御目は、あなたの上にも注がれている。ゲハジやアナニヤとサッピラの行為を記録した書物が、あなたの生き方をも記録している。イエスはあわれみ深くも、今日、あなたに警告のことばを送ってくださっている。彼は云う。「わたしは、あなたの行ないを知っている」、と。

 しかしまた、ここには、正直で真実な心を持つあらゆる信仰者にとって、何という励ましがあるか考えてみるがいい。あなたにもイエスは云っておられる。「わたしは、あなたの行ないを知っている」、と。あなたは、自分の行なうどんな行為にも何の美しさも見ることができない。すべてが不完全で、傷があり、汚れたものに見える。あなたはしばしば自分の短所にげんなりする。自分の一生がつけの溜まり続ける帳簿のように感じられ、毎日が空白か染みにすぎないように思える。しかし今知るがいい。イエスは、あなたが彼を喜ばそうという曇りない願いから行なったあらゆることのうちに、何らかの美点を見ることがおできになる。彼の目はご自分の御霊の実であれば、どれほど小さなことのうちにも気高さを見分けることができる。彼は、あなたのすることなすことのかすの中から金の粒をつまみ上げ、あなたのあらゆる行ないの中から麦と殻をふるい分けることがおできになる。あなたの涙はことごとく彼の瓶の中におさめられる。あなたが他者に善をなそうとして行なった努力は、どれほど微かなものであっても、彼の記憶の書に記される。彼の名によって与えられた、ほんの一杯の冷水でさえ、決して報いに漏れることはない。たとえ世は一顧だにしなくとも、彼は、あなたの行ないと愛のわざを忘れることがない。

 これは全く信じがたいことだが、事実にほかならない。イエスはご自分の民におけるご自分の御霊のみわざに栄誉を与え、彼らの弱さ過ちを見過ごしにすることを愛される。彼はラハブの信仰に目をとめてくださるが、彼女の嘘は見過ごされる。ご自分の使徒たちが、彼のさまざまの試練の時について来たことをおほめになるが、彼らの無知や信仰の欠けは見逃してくださる(ルカ22:28)。「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」(詩103:13)。そして父が、赤の他人には全く目につかないような、わが子の最も小さな行ないにも喜びを感ずるように、主は私たちが主に仕えようとして行なう貧しくかぼそい努力をも喜んでくださると思う。

 しかし、これはみな全く信じがたいことである。私は最後の審判の日に声を上げる義人たちの気持ちがよくわかる。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか」(マタ25:37-39)。その大いなる日にあえて認められるほど価値あることを行なえたなどとは信じられず、ありえないと思われるかもしれない! しかしそれが事実にほかならない。すべての信仰者はこのことに慰めを得るがいい。主は、「わたしは、あなたの行ないを知っている」、と云われる。これはあなたをへりくだらせるべきことである。しかし、あなたを不安にかりたてるべきではない。

3. 私が第三に、そして最後に読者に注目してほしい点は、主イエスがどの手紙においても、勝利をおさめる者には約束を与えておられるということである。

 7たび主は、途方もなく偉大で尊い約束を教会に与えておられる。それぞれ異なり、それぞれが強い慰めに満ちているが、そのどれも勝利するキリスト者に授けられている。それは常に「勝利を得る者」である。このことに注目してほしいと思う。

 信仰を告白するキリスト者はみなキリストの兵士である。彼には、そのバプテスマによって、罪と世と悪魔に対するキリストの戦いを戦う義務がある。これを行なわない者は、その誓いを破っているのである。霊的な破約者である。自分の債務を履行していないのである。これを行なわない者は実質上キリスト教を捨てているのである。その人が教会に属しているという事実、キリスト教会の礼拝所に出席し、キリスト者と名乗っている事実そのものが、自分はイエス・キリストの兵士とみなされたいという願いの公然たる表明にほかならない。

 使う気さえあるなら、信仰を告白するキリスト者には武具が支給されている。パウロはエペソ人たちに云う。「神のすべての武具をとりなさい」。「しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け」、「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい」(エペ6:13-17)。そして、決して小さくないこととして、信仰を告白するキリスト者には、最高の指揮官、すなわち救いの指導者たるイエスそのひとがあり、この方によって圧倒的な勝利者となることができる。また最高の糧食、すなわちいのちのパンといのちの水がある。そして最高の俸給、すなわち重い永遠の栄光が約束されている。

 これらはみな云い古されたことである。私は現在の主題からそれて、これらについて詳しく述べようとは思わない。

 私があなたの魂に今まさに銘記させたい唯一の点は、真の信仰者は単に兵士であるだけでなく、勝利を約束された兵士だということである。キリスト者は単にキリストの側に立って罪と世と悪魔と戦うと告白するだけでなく、実際に戦って勝利を得るのである。

 さてこれは、真のキリスト者をはっきり区別する著しいしるしである。ことによると、それ以外の者らもキリストの軍隊の兵卒として数えられたいと思うかもしれない。他の人々も栄光の冠を手に入れたいという怠惰な願い、だらけた希望を持つかもしれない。しかし、兵士の働きをするのは真のキリスト者だけである。真のキリスト者だけが自分の魂の敵に真っ向から立ち向かい、現実に交戦し、その戦いによって敵を打ち負かすのである。

 私がこの7通の手紙から学んでほしい1つの偉大な教訓は、もし自分の新しく生まれたこと、天国へ向かっていることを証明したければ、あなたはキリストの兵士として勝利をおさめなくてはならない、ということである。もしあなたがキリストの尊い約束にあずかる資格のあることをはっきりさせたければ、あなたはキリストのために勇敢に戦わなくてはならない。そして、その戦いにおいて勝利者とならなくてはならない。

 勝利こそ、あなたが救いに至る信仰を有している証拠として唯一満足のいくものである。ことによると、あなたは良い説教を好んでいるかもしれない。聖書を尊び、折にふれて聖書を読むことがあるかもしれない。朝晩祈っているかもしれない。家庭礼拝をひらき、信仰的な諸団体に献金しているかもしれない。それは感謝なことである。それはみな非常に良いことである。しかし戦いはどうなっているか? そうしたすべての間、この大いなる戦闘はどうなっているか? あなたはこの世への愛、人々への恐れに対して勝利を得つつあるだろうか? 自分の心の情動や気質や情欲に対して勝利を得つつあるだろうか? 悪魔に立ち向かい、かれを逃げ去らせつつあるだろうか? 罪と悪魔と世に支配者として臨むか、奴隷として仕えるかは2つに1つである。中間の道はない。征服するか滅びるかである。

 あなたの戦わなくてはならない戦いが厳しいものであることはよく承知している。あなたにもそう承知してほしいと思う。永遠のいのちを手に入れたければ、信仰の戦いを勇敢に戦い、艱難に耐えなくてはならない。天国にたどり着きたければ、日々闘争する覚悟を決めなくてはならない。人間は天国への近道を発明するかもしれないが、古のキリスト教、古き良き通り道は、十字架の道、争闘の道である。罪と世と悪魔は、実際に殺され、立ち向かわれ、打ち負かされなくてはならない。

 これこそ古の聖徒たちが踏みしめて行った道であり、その記録を天に残した道である。

 a. モーセがエジプトで罪の楽しみを拒み、神の民とともに苦しむことを選び取ったとき、これは勝利であった。彼は快楽への愛に対して勝利を得たのである。

 b. ミカが、真実を語れば迫害されると知っていながら、アハブ王に耳障りの良いことを預言するのを拒んだとき、これは勝利であった。彼は安逸への愛に対して勝利を得たのである。

 c. ダニエルが、自分のために獅子の穴が用意されているのを知りつつ、祈るのをやめることを拒んだとき、これは勝利であった。彼は死への恐れに対して勝利を得たのである。

 d. マタイが私たちの主の命ぜられた通り収税所から立ち上がり、すべてを捨てて主に従って行ったとき、これは勝利であった。彼は金銭への愛に対して勝利を得たのである。

 e. ペテロとヨハネが議会の前に大胆に立ち、「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」、と語ったとき、これは勝利であった。彼らは人への恐れに対して勝利を得たのである。

 f. パリサイ人のサウロが、ユダヤ人の間における立身出世の見込みをことごとく捨てて、かつては先頭きって迫害していたイエスを宣べ伝えたとき、これは勝利であった。彼は人の賞賛への愛に対して勝利を得たのである。

 救われたければ、こうした人々が行なったのと同じ種類のことを行なわなくてはならない。彼らはあなたと同じような人であったが、勝利した。彼らはあなたがおそらく受けるのと同じくらい多くの試練を受けてきたが、それでも勝利した。彼らは戦った。格闘した。争った。あなたも同じようにしなくてはならない。

 彼らの勝利の秘訣は何だったのか? 彼らの信仰である。彼らはイエスを信じ、信じる中で強くされた。彼らはイエスを信じ、信じる中で支えられた。そのすべての戦いにおいて、彼らはその目をイエスにひたと向けており、イエスは決して彼らを見捨ても、置き去りにしもしなかった。「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った」(黙12:11)。あなたも同じことができるであろう。

 私はこの言葉をあなたの前に指し示した。これを真剣に考えてほしい。神の恵みによって、勝利を得るキリスト者となる決意を固めるがいい。

 私は、信仰を告白するキリスト者の多くが心配でならない。彼らには、勝利を得ているようすどころか、戦っているようすすら全く見えない。彼らは一度もキリストの側に立って太刀をふるったことがない。彼らはキリストの敵と仲むつまじく暮らしている。彼らと罪には何の反目もない。私は警告する。これはキリスト教ではない。天国へ向かう道ではない。

 私は、福音を定期的に聞いている人々のことがしばしば心配でならない。私が恐れるのは、あなたが福音の教理を耳にたこができるほど聞きすぎて、福音の力に無感覚になりはしないかということである。私が恐れるのは、あなたの信仰生活が、自分の弱さや腐敗についての薄ぼんやりとした愚痴りあいや、キリストについての感傷的な云い回しを多少口にするだけといったものに成り下がり、キリストの側に立って現実に実際に戦うことがものの見事に忘れ去られはしないか、ということである。おゝ、そのような心持ちに用心するがいい。「みことばを実行する人になりなさい。……ただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコ1:22)。勝利なくして栄冠はない! 戦って勝利を得よ!

 私はうら若い青年男女、特に、キリスト者の家庭で育った方々のことが非常に心配でならない。私が恐れるのは、あなたが誘惑という誘惑に屈する習慣を身につけはしないかということである。私が恐れるのは、世と悪魔に対して「断る!」と云うのを恐れるようになりはしないか、罪人たちから誘いをかけられたときに別段同意しても問題ないだろうなどと思いはしないか、ということである。私はあなたに願う。譲歩には用心していただきたい。1つ妥協をするたびに、その分あなたは弱くなる。キリストの戦いを戦い抜く決意を持って社会に出て行き、血路を切り開いてほしい。

 あらゆる教会のあらゆる境遇にある、主イエスを信ずる人々に私は云いたい。私はあなたの気持ちが分かる。あなたの道が厳しいことを私は知っている。あなたが戦わなくてはならない戦闘がはなはだしいものであることを知っている。あなたがしばしば、「しょうがない」と云って、全面降伏したくなる気持ちを知っている。

 愛する兄弟姉妹、勇気を出すがいい。元気を出すがいい。あなたの立場の明るい面に目を向けることである。勇躍して戦い続けることである。時は縮まっている。主は近い。夜はふけた。あなたと同じくらい弱かった何百何千万もの人々が、同じ戦いを戦ってきた。その何百何千万ものうちただの一人といえども、最終的にサタンの捕虜となって引かれていったものはない。あなたの敵は強大だが、あなたの救いの指導者はそれよりさらに強大である。彼の御腕、彼の恵み、彼の御霊があなたを支える。勇気を出すがいい。打ちひしがれてはならない。

 1つや2つ戦いに負けたからといって、それが何か? あなたがすべてを失うことはない。時々気を失うからといってそれが何か? あなたが完全に打ち倒されることはない。7たび倒れたからといってそれが何か? あなたが滅ぼされることはない。罪に用心せよ。そうすれば罪があなたを支配することはない。悪魔に立ち向かうがいい。そうすれば彼はあなたを手放さざるをえない。あなたは最後には自分が圧倒的な勝利者となったことに気づく。あなたは「勝利を得る」のである。

 この主題全体から、いくつか適用の言葉を引き出して、締めくくりたいと思う。

 1. まず最初のこととして、この世のためだけに生きているすべての人々に対して警告させていただきたい。自分のしているることに用心するがいい。あなたは、自分ではそのつもりがなくともキリストの敵である。あなたはキリストに背を向け、彼に自分の心を与えることを拒否しているが、彼はあなたの生き方を心にとめておられる。あなたの日常生活に注目し、あなたの日々の歩みを克明にたどっておられる。やがてあなたのあらゆる考え、言葉、行動が、再びよみがえるときがやってくる。あなたはとうに忘れ果てているかもしれないが、神は忘れはしない。あなたはいいかげんにうっちゃっているかもしれないが、それは記憶の書に微細に書き記されている。おゝ、世俗の人よ。このことを考えるがいい! 震えおのき、悔い改めるがいい。

 2. 別のこととして、形式的で、自分を義とするすべての人々に対して警告させていただきたい。自分をあざむかないよう用心するがいい。あなたは、自分が毎週教会に行っているから天国へ行けるものと思い込んでいる。欠かさず主の晩餐に集い、礼拝に欠席したことがないから永遠のいのちを受けられると決め込んでいる。しかし、あなたの悔い改めはどこにあるのか? あなたの信仰はどこにあるのか? あなたが新しい心を持っている証拠はどこにあるのか? 御霊のみわざはどこにあるのか? あなたが新生した証拠はどこにあるのか? おゝ、形式的なキリスト者よ。こうした問いをとくと考えてみるがいい! 震えおののき、悔い改めるがいい。

 3. もう1つ別のこととして、いいかげんな生き方を続けるすべての教会員に対して警告させていただきたい。自分の魂をもてあそび地獄へ陥らないように気をつけるがいい。あなたの生き方は年々歳々、あたかも罪や世や悪魔と何の戦いもしなくてもいいかのように続けられている。あなたは人生を、微笑み笑いかわしながら、紳士らしく、あるいは淑女らしく過ごしており、まるで悪魔も天国も地獄もないかのようにふるまっている。おゝ、いいかげんな国教徒よ。いいかげんな非国教徒よ。いいかげんな監督派、いいかげんな長老派、いいかげんな独立派、いいかげんなバプテストよ。目を覚まし、真実の光のもとで永遠の現実を直視するがいい! 目を覚まし、神の武具を身につけるがいい! 目を覚まし、いのちがけで戦うがいい! 震えおののき、悔い改めるがいい。

 4. さらに別のこととして、救われたいと願うすべての人々に対して警告させていただきたい。世間が定めた信仰の基準で満足してはならない。確かに目の見える者ならだれでも、新約聖書のキリスト教が、信仰を告白する大多数のキリスト者のいだくキリスト教よりもはるかに高く、はるかに深いものであることをさとらないではいられまい。多くの人々が「信仰」と呼ぶ、あの形式的で、安易で、最小限しか手を汚さないしろものは、明らかに主イエス・キリストの信じたものではない。主が非難なさるのは、世が何か害があるとみなすようなことではない。おゝ、もしあなたがキリストに従いたければ、世間なみのキリスト教で満足していてはならない。震えおののき、悔い改めるがいい。

 5. 最後のこととして、主イエスを信じていると告白するすべての人々に対して警告させていただきたい。小さな信仰生活で満足してはならない。

 キリストの教会のうちに見られるあらゆるしるしのうちで、私の見るところ最も痛ましいしるしは、キリスト者が小さな恵み、小さな悔い改め、小さな信仰、小さな知識、小さな愛、小さな聖潔で得々と満足しきっている姿である。今この小冊子を読んでいる、信仰を有するあらゆる人に私は懇願し、切に願う。そうした類の人になってはならない。もし少しでも用いられたいという願いがあるなら、またもしあなたの主のご栄光を高めたいという望みが少しでもあるなら、もし内なる大きな平安がほしいという欲求が少しでもあるなら、小さな信仰生活で満足しないようにするがいい。

 むしろ私たちは求めようではないか。生きている限りは毎年、より高い霊的進歩をとげ、恵みと主イエスの知識において成長することを。へりくだりと自分をわきまえることにおいて成長することを。霊性と天的な心構えにおいて成長することを。私たちの主のかたちに似ていくことにおいて成長することを。

 私たちは警戒しようではないか。エペソのようには初めの愛から離れないように。ラオデキヤのようにはなまぬるくならないように。ペルガモのようには偽りの生き方を目こぼししないように。テアテラのようには偽りの教理をもてあそばないように。サルデスのようには半分死んだような状態になって死にかけないように。

 むしろ私たちは、よりすぐれた賜物を求めようではないか。傑出した聖潔をめざそうではないか。スミルナやフィラデルフィアのようになるよう努力しようではないか。すでに得ているものを堅く守り、絶えず多くを求めようではないか。見間違えようのないキリスト者となるよう努力しようではないか。私たちの明確な特徴が、科学の人であるとか、文芸の人であるとか、世知の人であるとか、快楽の人であるとか、実業の人であるとかいうことではなく、「神の人」であるようにしようではないか。私たちを見るあらゆる人に、それとわかるような生き方をしようではないか。神のことこそ私たちにとって第一のことであり、神の栄光こそ私たちの人生の第一目標であり、キリストに従うことこそ私たちの現在における最大の目的であり、キリストとともにいることこそ来たるべき時における私たちの最大の目的である、と。

 私たちはこのような生き方をしようではないか。そうすれば私たちは幸福になるであろう。このような生き方をしようではないか。そうすれば世に対して善を行なうことになるであろう。このような生き方をしようではないか。そうすれば墓に葬られたときも、良き証拠を後に残していくことができるであろう。このような生き方をしようではないか。そうすれば、諸教会へのこの御霊のことばが私たちに語られたのもむだではなかったことになろう。

目に見える教会への警告[了]


*訳注: 英欽定訳では各教会あてに必ずこの表現が見出されるが、ギリシャ語原典の9節および13節にはこの表現は見あたらない。[本文に戻る

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