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9. 戒めとされた男----ロト


「彼はためらっていた」(創19:16)

 聖書は私たちを教えるために書かれたものである。だからそこには、私たちへの模範ばかりでなく、警告や戒めもふくまれている。見習うべき例もあれば、避けるべき例もある。このページの冒頭に冠した名前の人物は、全キリスト教会に対する戒めである。彼の性格を1つの短い言葉が端的に示している。「彼はためらっていた」。私たちは、しばらくこの戒めについて思いを巡らすことにしよう。すなわち、ロトについて考えてみたいと思う。

 ここでためらっているのは、どのような素性の人物か。信仰の父アブラハムの甥である。彼がためらったのは、どのような状況においてであったか。まさにソドムが滅亡を迎えようとしていた朝である。彼はどこでためらっていたか。そのソドムの城門の内側でである。その町から彼を連れ出すために遣わされた二人の御使いの目の前でである。それでもなお「彼はためらっていた」!

 この言葉は厳粛である。ここには、大いに思いを巡らすべき深いものがある。この言葉は、キリスト教信者だと自認するすべての人の耳元で、トランペットのように吹き鳴らされるべきである。今この説教を読んでいる人はみな、この言葉に深く思いをひそめるだろうと信じたい。これが、今の自分の魂に最も必要な言葉ではないとどうして云えよう? 主イエス・キリストは声高く命じているではないか。「ロトの妻を思い出しなさい」(ルカ17:32)と。その主のしもべのひとりが、きょうロトのことを思い出すよう云っているのである。

 ここで4つのことを考えてみよう。
 1. ロト自身はいかなる人物であったか。
 2. 上の聖句から彼についていかなることがわかるか。
 3. 彼がためらったのは、いかなる理由からと考えられるか。
 4. 彼は、ためらったためにいかなる結果を招いたか。

 自分は確かにキリスト者だと思っている人、また聖い生涯を送りたいと願っている人は、特に注意を払っていただきたい。この原則を心にしっかりと打ち込んでいただきたい。聖潔を追い求める者は「ためらって」いてはならない。

 もう一度云う。「ロトは私たちに対する戒めである」。

1. ロトは何者であったか

 これは最も重要な点である。このことを述べなければ、おそらく私は、最も肝心な人々、最も教えられてほしいと私の願う人々をとりのがしてしまうであろう。もしこの点をはっきりさせておかないと、多くの人は読み終わった後で云うであろう。「そう。ロトは悪い奴だった。みじめな奴、なさけない奴、駄目な奴だった。回心もしていない、この世の人間だった。こういう男がためらっていたのも当然だ」、と。

 しかし、これから云うことをよく聞いていただきたい。ロトは決してそのような人間ではなかった。ロトは真の信仰者であった。回心した人物、本当に神の子とされた人物、義と認められた義人であった。

 いま読者は心に神の恵みを受けているだろうか。ロトも同じ恵みを受けていたのである。いま読者は救いの望みを抱いているだろうか。ロトも同じ望みを抱いていたのである。いま読者は「新しく造られた者」となっているだろうか。ロトも同じだったのである。いま読者はいのちへ至る狭い道を歩んでいるだろうか。ロトも同じ道を歩んでいたのである。

 どうかこれが私ひとりの個人的意見とか、ただのでたらめな空想とか、聖書の根拠を欠いた私見だとは思わないでいただきたい。どうか私が自分の考えを無理やり押しつけようとしているなどとは思わないでいただきたい。聖霊が、この件に関しては議論の余地ない決定的な証言をしておられる。ロトは「義人」であり、「正しい」心を持っていた(IIペテ2:7、8)。そして、内側にある確かな恵みの証拠を示していた。

 1つの証拠は、彼が、堕落した土地に住んでいながら、また周囲の邪悪な行ないをすべて「見聞きして」いながら(IIペテ2:8)、彼自身は邪悪な人物ではなかったということである。ところがバビロンにおいてダニエルとなり、アハブの家においてオバデヤとなり、ヤロブアムの家においてアビヤとなり、ネロの宮廷において聖徒であり、ソドムにおいて「義人」であるためには、神の恵みがなくてはならない。それは恵みなしには不可能である。

 もう1つの証拠は、彼が、自分の周囲の「あらゆる不法な行ないを見聞きして……その心を痛めていた」ということである(IIペテ2:8)。彼は罪の姿に心を痛め、傷つき、悲しみ、嘆いていた。これは聖徒ダビデの思いと同じである。「私は裏切る者どもを見て悲しみました<英欽定訳>。彼らがあなたのみことばを守らないからです」。「私の目から涙が川のように流れます。彼らがあなたのみおしえを守らないからです」(詩119:136、158)。これは聖パウロの思いと同じである。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。……私の同胞、肉による同国人のために」(ロマ9:2、3)。これは神の恵みということを考えずには説明がつかない。

 さらにもう1つの証拠は、彼が「その心を日々痛めていた」ということである。彼は多くの人がそうするようには、結局は冷淡になり、なまぬるくなるということをしなかった。どれほど罪を身近にし、目の当たりにしても、鈍感になることがなかった。それがたいていの場合と違う点である。多くの人々は、初めは世の邪悪な姿に息をのみ、衝撃を受けるが、それにもかかわらず、やがてはそれも見慣れて、比較的無関心になってしまう。特にこれは大都会や都市部に住む人、また大陸の方を旅行する人たちについて云える。こうした人々は、聖日礼拝を破ることや、その他もろもろの公然たる罪に対して何も感じなくなることが非常に多い。しかしロトはそうではなかった。これもまた、彼の恵みが本物であったという大きな証拠である。

 ロトはこうした人物であった。正しい心の義人、聖霊ご自身の証印をもって天国の世継ぎと認められた人物であった。

 先へ進む前に、私たちは1つのことを覚えておこう。真のキリスト者は、多くの欠点、多くの短所、多くの弱さを持つかもしれないが、それにもかかわらず真のキリスト者でありうる。私たちは、不純物が混じりあっているからといって金を金でないなどとは云わない。多くの腐敗が伴っているからといって、神の恵みを過小評価してはならない。先を読み進めていけば、そこで「ためらっていた」ためにロトが非常に大きな代価を払わなくてはならなかったことがわかるであろう。しかし、忘れてはならない。ロトは神の子のひとりだったのである。

2. この聖句からロトについて何がわかるか

 先に述べた第二の点に移ろう。上に引用した聖句は、ロトのふるまいについてどのようなことを教えているだろうか。

 これは、まさに愕然とさせられる言葉である。「彼はためらっていた」。その場、その状況を考えれば考えるほど、私たちは驚嘆せざるをえない。

 ロトは、自分の住む町の恐るべき状態を知っていた。その忌まわしい乱脈ぶりの「叫び」は、「主の前で大きくなっ」ていた(創19:13)。にもかかわらず、彼はためらっていた。

 ロトは、やがて町の城門の中にあるすべてのものに対して、恐るべきさばきが来ようとしていることを知っていた。御使いたちは彼にはっきりと告げていた。「主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです」(創19:13)。にもかかわらず、彼はためらっていた。

 ロトは、神が常にご自分のことばを守られる神であることを知っていた。もし神が何か語られたならば、必ずそのことをなさることを知っていた。アブラハムの甥であり、彼と長年生活をともにしていた彼が、そのことに気づかなかったはずはない。にもかかわらず、彼はためらっていた。

 ロトは危険がせまっていると信じていた。だからこそ彼は婿たちのもとへ行って、立って逃げるよう警告したのである。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから」、と(創19:14)。にもかかわらず、彼はためらっていた。

 ロトは、神の御使いがそばに立ち、彼と彼の家族が出て行くのを待っているのを見ていた。彼は、この怒りの御使いたちの、急ぐようにと促す声が耳の中で鳴り響くのを聞いていた。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう」(創19:15)。にもかかわらず、彼はためらっていた。

 彼は急がなくてはならないときに、ぐずぐずしていた。飛び出さなくてならないときに、尻込みしていた。大あわてでいなくてはならないときに、のらくらしていた。一目散に走りださなくてはならないときに、手間取っていた。これは不思議を通り越して、信じがたいことと云わねばならない! あまりの不思議さに、本当にあったこととは到底思えない! しかし御霊は私たちに学ばせようと、このことを書きとめておられる。これは事実起こったのである。

 しかしながら、初めは驚くべきことのように見えても、残念なことに、主イエス・キリストの民の中には非常にロトに似た人々がいるのではないかと思う。

 ここで読者はみな、私の云うことをしっかり心にとめていただきたい。誰ひとり誤解しないように、もう一度はっきり云う。私はロトがためらっていたと云った。そして、今日の多くのキリスト者は非常にロトに似ていると云った。

 今日は非常に多くの人々が、真の神の子でありながら、頭で理解していることよりずっと劣った生き方しかできず、心で悟っていることよりずっと低い実践しかできず、そうした状態を何年も何年も続けている。信じがたいことに彼らは、知的理解は十分なくせに、それ以上には決して進歩しないのである!

 彼らはかしらなるキリストを尊び、真理を愛している。彼らは健全な説教を好む。福音の教理を聞けば、その1つ1つにことごとく賛成する。しかしそれでもなお彼らには、一種云いがたい不満足な部分があるのである。彼らは年中、牧師や先輩キリスト者の期待を裏切るような行為をしている。驚くべきことに彼らは、それほど正当な教理を保っているくせに、ずっと停滞したままなのである!

 彼らは天国を信じている。しかし、天国を待ち望む様子はほとんど見受けられない。地獄を信じている。しかし、地獄を恐れる気配はほとんど感じられない。彼らは主イエスを愛している。しかし、その主イエスのためにはほとんど働こうとしない。彼らは悪魔を憎んでいる。しかし、その悪魔を誘惑しようとするかのように見えることがあまりにも多い。彼らは時が縮まっていることを知っている。しかし、時がいつまでも続くかのように生きている。彼らは、自分に戦うべき戦いがあることを知っている。しかし、あたかも平時であるかのように過ごしている。自分に走るべき競走があることを知っている。しかし、しばしば座り込んでじっとしているように見受けられる。彼らは、さばきの主が戸口まで来ており、御怒りが今にものぞもうとしていることを知っている。しかし、半分眠ったような様子に見える。驚愕すべきことに彼らは、すべてを承知の上で、何もしようとしないのである!

 こういう人々について何と云うべきであろう。彼らは、信仰の友や家族にとって、しばしば謎である。非常にはらはらさせる存在である。敬虔な人々にとって疑惑の種であり、本当に大丈夫かといらいらさせられる存在である。しかし、彼らは一言で云い表わすことができる。彼らはみなロトの兄弟姉妹なのである。彼らは、ためらっているのである。

 こういう人々は、あらゆる信仰者が聖くなるなど不可能だ、すべての信仰者が霊的になるなどできない、と考えている! 確かに、抜きん出た聖潔を身につけるのは素晴らしいことだろう。そういう人たちの本を読んだり、あるいは時たま自分の目でそういう人たちを見たりするのは結構だ。しかし、みながみなそんなに高い基準をめざすことはないのではないか。彼らはこう考える。少なくとも自分には無理なことだ、と云っているようである。

 こういう人々は、愛について間違った考えにとりつかれている。これが愛だ、と彼らは云う。彼らは、堅い人間になったり、狭量な考えの持ち主になったりすることを病的なまでに恐れる。そのあまり、常に逆の極端へ走る。彼らはどんな人間にも愛想をふりまき、どんな人間にも自分を合わせ、どんな人間にも気に入られようとする。しかし忘れていることがある。人がまず第一にはっきりさせなくてはならないのは、自分が神を喜ばせているかどうかなのである。

 こういう人々は、犠牲を払うことを死ぬほど恐れ、自己否定の道の前で尻ごみする。彼らは、私たちの主が命じられたように、「十字架を負い」、「右の手を切って捨て、右の目をえぐり出して、捨ててしま」う(マタ5:29、30)ことが決してできないように見える。彼らは、私たちの主がこういう表現を用いられたことまで否定することはしない。しかし、これらの命令が信仰生活の中にはいる余地は絶対に設けない。彼らは狭い門をなんとか広げ、重い十字架をなんとか軽くしようと一生の間あがく。しかし決して成功しない。

 こういう人々は、いつも世に同調しようとしている。彼らが世とすっぱり縁を切らないための理由をひねりだす巧妙さには驚くばかりである。彼らは、実にもっともらしい云い訳をこしらえては、疑わしい楽しみにふけり、疑わしい交友を保つ。ある日聖書研究会に出席したかと思うと、次の日には夜の盛り場へ踊りに行く。ある日断食し、教会に出て、聖餐式に集っていたかと思うと、別の日には朝っぱらから競馬場に出かけたり、夜っぴて観劇にうつつを抜かしたりする。ある日どこかの煽情的な説教に熱狂して興奮していたかと思うと、別の日には下らない三文小説に涙している。彼らが常に自分に云い聞かせようとしているのは、少しぐらい世的な人々と世的な土俵の上で交わることは人々のためによいことだ、ということである。しかし彼らの場合、彼らが何の善も施しておらず、むしろ害を受けているのは明らかである。

 こういう人々は、決して自分にまつわりつく罪と争おうとしない。それが怠惰であれ、不精であれ、短気であれ、高慢であれ、利己心であれ、不寛容であれ、何の抵抗もしない。そうしたものを心の中でしたい放題にさせておく。彼らはそれが自分の生れつきの性分だ、気質だ、と云う。これは自分への試練だ、あるいは、これが自分の生き方だ。父も、母も、祖母も、みなこのように生きてきた。自分にはどうすることもできない、と云う。そして、一、二年してから会うと、また同じようなことを聞かされる!

 しかし、ここまで述べてきたことはみな、ことごとく1つの短い言葉で云い尽くすことができる。彼らはロトの兄弟であり姉妹なのである。彼らはためらっているのである。

 おゝ、もしためらっているなら、あなたは不幸せである! それは自分でもよくわかっているはずである。幸せだなどというなら、全く奇妙と云うしかない。ためらいを続けるとき、キリスト教の幸福は確実に破壊される。ためらい、ぐずつく人は、その良心が、内なる平安を楽しむことを許さないのである。

 おそらく、あなたも、かつてはよく走っていたであろう。しかしあなたは初めの愛から離れてしまった。以前感じたような慰めは、もはや決して感じられないし、「初めの行ない」へ戻るまで二度と感じることができない(黙2:5)。主イエスが捕えられたときのペテロと同じように、あなたは遠くから主についていこうとしている。しかしペテロと同じく、それが決して楽な道でなく、むしろつらい道であることを知るであろう。

 ここへ来て、ロトを見るがいい。ロトの生きざまとその末路をしかと心にとめるがいい。しかとロトの「ためらい」について考え、賢い者となるがいい。

3. 彼のためらいは、いかなる理由からと考えられるか

 次に、ロトがためらったのはいかなる理由からか考えてみよう。

 これは非常に重要な問題である。ぜひ真剣に注意していただきたい。病患の原因を知ることは、治癒への第一歩である。あらかじめ警告されることは、先んじて武装することにひとしい。

 読者の中に、自分は大丈夫だ、自分はためらったりする恐れはない、そう感じている者がいるだろうか。そういう人は、これから私がひとくさり語るロトの生きざまをよく聞いていただきたい。ロトのように生きてみるがいい。それでもしロトと同じ魂の状態へ行き着かなかったとしたら、奇蹟というほかないであろう。

 まず第一にロトについて注目したいことは、彼が、若いころ誤った選択をしたということである。

 アブラハムとロトは、ともに住んでいた時期があった。しかしやがてふたりとも富裕になり、一緒に住むことは不可能になった。アブラハムは年長者であったにもかかわらず、真の謙遜と柔和さの持ち主であって、ふたりが別れて住むことに決めたとき、住むべき地の選択をロトに譲ったのであった。「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう」、と(創13:9)。

 そのときロトはどうしたか。彼は、ソドムの近くにあるヨルダンの低地を見渡し、そこが豊かに肥え、よく潤った地であるのを見てとった。それは家畜を養うのに好都合な牧草が青々としげる土地であった。彼はおびただしい数の牛や羊を持っており、その土地はまさにうってつけのものであった。そこでこの土地を彼を選んだ。それは単に、そこが肥沃な、潤った土地であるという理由からであった(創13:10)。

 それはソドムの町のそばであった! しかし彼は気にかけなかった。彼の隣人となるべきソドムの人々は、邪悪な人々であった。しかし彼はかまわなかった。彼らは神の前に非常な罪人であった。しかし彼にはどうでもよかった。牧草は豊かだ。土地は肥えている。自分の家畜たちにはこういう土地が必要なのだ。この論理の前には、彼がたとえ何らかの不安や疑念を持っていたにせよ、すべてがことごとく押し流されてしまった。

 彼は、信仰によってではなく、見えるところによって選択した。彼は間違った選択をしないように神の助言を求めもしなかった。一時的なものに目をとめ、永遠のものはかえりみなかった。この世の利益は考えたが、魂の益については考えなかった。彼は現世で自分の助けになるもののことしか考えなかった。来たるべき世への厳粛な務めのことは考えなかった。これは悪い出だしであった。

 しかしもう1つ注目したいのは、ロトが理由もなく罪人たちと交友を結んだということである。

 最初、彼は「ソドムの近くまで天幕を張った」、といわれる(創13:12)。すでに述べたように、これは致命的な誤りであった。

 しかし次に登場するとき彼は、ソドムそのものの中にはいりこみ、そこに居住しているのである。御霊ははっきりと告げている。「ロトはソドムに住んでいた」(創14:12)。彼の天幕はどこかへ行ってしまった。放牧地は後にされてしまった。彼は、その邪悪な町の街路の真っ直中に家をかまえたのである。

 彼がなぜ住みかえをしたのか、その理由は語られていない。何かよんどころない事情があったのかどうかもわからない。ただ、それが神からの明白な命令によっていなかったことだけは確かである。もしかすると彼の妻が、郊外よりもつきあいの多い都会ぐらしを好んだのかもしれない。彼女が神の恵みを受けていなかったことは明らかである。もしかすると彼女は、娘たちが立派な婿を見つけ、落ち着いた暮らしをするためには町に住むことが必要ですよ、と云ってロトを説き伏せたのかもしれない。もしかすると娘たちが、陽気な遊び友達を求めて町に住むことをせがんだのかもしれない。明らかに彼女らは、軽率で、浮わついた心の娘らであった。もしかするとロト自身、牧畜業による利を得るために、町暮らしを好んだのかもしれない。人は、自分の願望をもっともらしくする理由には事欠かないものである。いずれにせよ、はっきりしていることは、ロトが正当な理由なくソドムの真中に住んだということである。

 もしキリスト者が、今私のあげた2つのことをするなら、その魂の状態について、次第にかんばしからぬ噂が立つようになったとしても、何も驚くにはあたらない。彼が、ロトのように警告の声に耳をふさぎ(創14:12)、ロトのしたように、さばきと危険の日にためらい、ぐずつく者となったとしても、当然である。

 人生の選択を誤り、非聖書的な選択をし、必要もなく世的な人々のただ中に身を落ち着けようとすること以上に霊性を損ない、永遠の事がらから興味を失わせるものはない。これは魂の脈拍を気の抜けた、微弱なものとしてしまう。これは、人を罪に対して鈍感にし、無感覚にしてしまう。これは、霊的識別力の眼を曇らせ、善悪の区別をあいまいにし、信仰の歩みを常につまづかせる。これは、霊的な意味で手足に道徳的卒中を招くこと、シオンまでの道を、のろのろ歩くいなごのように、よろめき震えながら歩くことである。これは、最悪の敵へ寝返ることである。戦いのさなかで、悪魔にわざわざ有利な地歩を譲ることである。戦闘中に、わざわざ自分の武器を縛ることである。競走中に、わざわざ足枷をはめることである。わざわざ力の源を干上がらせ、精力を麻痺させることである。わざわざ自分の髪の毛を(サムソンのように)切らせ、自分をペリシテ人に引き渡し、自分の目をえぐり出し、自ら奴隷となって臼をひくことである。

 すべての読者は、私の語ることをよく注意して聞いていただきたい。これらのことを、よく心にとめてほしい。忘れてはならない。朝このことを思い出し、夜このことを思い返していただきたい。このことを心の奥底にまでしみわたらせてほしい。もしあなたがためらわず、ぐずつかない者となりたければ、必要もなく世的な人々と交わっていてはならない。ロトの選択に用心するがいい! もしあなたが自分の魂を、かさかさに乾いた、無感動で、不活発で、怠惰で、不毛で、のろまで、肉的で、愚かで、鈍重な状態にさせたくなければ、ロトの選択に用心するがいい!

 a. 自分の住む土地や家を選ぶときには、このことを思い出していただきたい。その家が快適なつくりで、便利な場所にあり、風通しがよく、近隣の環境も美しく、家賃や価格が手頃で、物価が安い、というだけでは十分ではない。まだ考えなくてはならないことがある。あなたは、あなたの不滅の魂のことを考えなくてはならない。あなたの考えている家は、あなたが天国へ向かうのを助ける家だろうか。それとも地獄へ向かうのを助ける家だろうか。無理のない距離のところで、福音が説き明かされているだろうか。十字架につけられたキリストが近くで説き聞かされているだろうか。あなたの魂の見張りをしてくれる真の神の人が近くにいるだろうか。私は命ずる。いのちを大事にしたければ、こうしたことをないがしろにしてはならない。ロトの選択に用心するがいい。

 b. 職業や職場、職種を選ぶときには、このことを思い出していただきたい。月給が高く、時給がよく、仕事が楽で、種々の便益が伴っており、成功する見込みが高い、というだけでは十分ではない。あなたの魂、あなたの不滅の魂のことを考えていただきたい。あなたの魂は養われるだろうか。それとも飢えるだろうか。豊かにされるだろうか。後退するだろうか。日曜は休みだろうか。一週間のうち、その日は霊的なことのために使うことができるだろうか。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いしたい。自分のすることに注意するがいい。性急に決断してはならない。その職場を、あらゆる点から検討するがいい。この世的な見地からばかりでなく、神の見地からも検討するがいい。金では決して買えないものを引き換えにしてはならない。ロトの選択に用心するがいい。

 c. 独身の方々は、自分の夫または妻を選ぶときに、このことを思い出していただきたい。容貌が美しく、趣味が一致し、気が合い、魅力があり、いとしく思われ、一緒に住む立派な住居がある、というだけでは十分ではない。まだ必要なことがある。この世はやがて過ぎ去り、来たるべき世が訪れる。あなたの魂、あなたの不滅の魂のことを考えていただきたい。いま思い描いている相手との結婚は、魂を上へ引き上げるだろうか。それとも下へ引きずりおろすだろうか。魂は、より天的になるだろうか。地的になるだろうか。よりキリストに近づけられるだろうか。世に近づけられるだろうか。信仰はより力強く成長するだろうか。衰え果てるだろうか。私は、あなたがたの永遠の望みにかけて懇願する。これらのことを計算に入れていただきたい。決定的な一歩を踏み出す前に、老バクスターが云ったように、「考えて、考えて、考えるがいい」。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません」(IIコリ6:14)。不信者を回心させるための手段として、結婚をあげているような箇所はどこにもない。ロトの選択を思い出すがいい。

 d. もしあなたが、一流の会社から誘いを受けるようなことがあったなら、このことを思い出していただきたい。高額の所得、安定した職業、雇い主の確信ありげな様子、出世街道をひた走る絶好の機会、といったものだけでは十分ではない。こうしたことは、それなりに良いことである。しかし、それがすべてではない。もしその会社が、日曜も週日と変わらず働き続ける会社であったら、あなたの魂はどうなるであろう。あなたは何曜日を神と永遠のために取り分けようというのか。福音の説教を聞く機会がどこにあるのか。このことを考えるよう、私は厳粛に警告する。魂がやせ衰え、魂が貧困になるとしたら、ふくれた財布が何になろう。地位や出世のために安息日を売り渡してはならない。エサウが一皿の煮物のためにどうなったか思い出すことである。ロトの選択に用心するがいい!

 一部の読者は云うかもしれない。「信仰者なら心配することはないさ。キリストの羊となった者は、決して滅びることがないし、致命的な害を受けることもない。そんな些細なことで大騒ぎすることないではないか」。

 そう。確かにそう考えることもできる。しかし、私は警告しておこう。もしあなたがこれらのことをないがしろにするなら、あなたの魂は決して祝福されない。真の信仰者は、確かに捨てられることはない。たとえためらっていようと、それは変わらない。しかしもしためらっているなら、信仰は決して成長しない。恵みはたおやかな植物である。いたわりながら大事に育てなければ、この悪の世では、たちまち元気がなくなってしまう。枯れることはなくとも、しおれてしまう。どれほど光り輝く黄金も、蒸し暑いところでは、すぐ曇りを生ずる。どれほど灼熱した鉄も、すぐ冷たくなる。鉄をどろどろに溶解させるにはたいへんな労力を要するが、元のように黒く、硬くするには何もしなくていい。ただ放っておくか、冷水につけるだけでよいのである。

 今あなたは熱心で、勤勉なキリスト者かもしれない。栄えていたときのダビデのように、「私は決してゆるがされない」、という心境かもしれない(詩30:6)。しかし、だまされてはいけない。ロトのように歩み、ロトのように選択するだけで、ロトのような魂の状態になってしまうのである。彼がしたようにしてみるがいい。実際に彼と同じような行動を取ってみるがいい。あなたはすぐに自分が、ためらい、ぐずつく、みじめな者となってしまっていることに気づくであろう。サムソンのように、もはや主の臨在がないことに気づくであろう。最後の審判の日にあなたは、優柔不断で、態度のはっきりしない人間となっていることであろう。そして恥を見るであろう。あなたの信仰生活には潰瘍が発生し、知らぬ間にあなたの信仰の活力をむしばむであろう。あなたの霊的力はゆっくりと消耗し、知らず知らずのうちに衰えていくであろう。そしてついにあなたがわれに帰ったとき、自分の手がほとんど主のみわざを果たせず、自分の足がほとんど主の道を歩めず、自分の信仰が一粒のからし種ほどのものでしかないことに気づくであろう。それは、あなたの人生が大きな節目を迎えるときかもしれない。敵が洪水のように押し寄せてくるときや、最も助けを必要としているときかもしれない。

 おゝ、もし信仰者としてためらう者となりたくなければ、、これらのことを考えていただきたい。ロトの選択に用心するがいい!

4. 彼のためらいは、いかなる結果をもたらしたか

 ここで私たちは、ロトのぐずついた性根が最終的にいかなる結果をもたらしたか尋ねることとしよう。

 この点は少なからざる理由から見過ごすわけにはいかない。今日のような時代では特にそうである。多くの人々は今、胸のうちでつぶやいていることであろう。「結局ロトは救われたではないか。義と認められ、天国へ行けたではないか。ならそれで十分だ。天国へ行けさえすれば、満足さ」、と。こうした考えの人は、少し待ってほしい。もう少し話を聞いてほしい。これから私は、ロトの生涯の中で注目に価する二、三の点を示したいと思う。そのあと、あなたの考えも変わるかもしれない。

 この点の考察は非常に重要であると思う。私が声を大にして云いたいのは、傑出した聖さと、傑出して用いられる器であることは最も緊密な関係があるということである。幸福を得ることと「全く主に従う」ことは表裏一体の関係にある。ためらい、ぐずつく信仰者が時代の中で有用な働きをすることはできない。聖徒として成長できず、キリストに似た者となることはできず、信仰はあっても大きな慰めと平安を楽しむことができない。

 a. まず第一に注目したいのは、ロトはソドムの住民の間で何の益も行なうことができなかったということである。

 おそらくロトがソドムに住んでいたのはかなりの年月にわたったであろう。その間、神について語り、人々を罪から引き離すための貴重な証しの機会が数多くあったはずである。しかしロトが何かをなしとげたという証拠は全くない。彼は、周囲の住民の中で何の重みも影響力も持っていなかったように見える。真に光輝く神のしもべには、世の人々でさえ、しばしば尊敬と敬意を払うというのに、ロトにはそれが全くなかった。

 ソドム全市の中で、義人と認められる者は、ロトの家の外にただのひとりもいなかった。彼の隣人のうち、彼の証しを信じた者はひとりもいなかった。彼の知人のうち、彼が礼拝する主を敬う者はひとりもいなかった。彼のしもべらのうち、主人の神に仕えようとする者はひとりもなかった。「町の隅々から来た、すべての人」のうち、その邪悪な行為を彼がとどめようとしたとき、彼の意見に毛ほどでも耳を傾けた者はひとりもなかった。彼らは、「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている」、と云った(創19:9)。彼の生き方には、何の影響力もなかった。彼の言葉は聞き入れられなかった。彼の宗教は誰をも引き寄せなかった。

 それは全くの当然である! 一般に、ためらい、ぐずつく人々は世に何の益ももたらさず、神の教えに何の誉れももたらさない。彼らの塩気は、周囲の腐敗を防ぐには乏しすぎるのである。彼らは、「すべての人に知られ、また読まれ」ることのできる「キリストの手紙」ではない(IIコリ3:2)。彼らの生き方には、人をひきつける魅力やキリストの反映が全くない。このことを忘れないようにしよう。

 b. もう1つ注目したいのは、ロトが、自分の家族、親類、縁者の中の誰をも天国へ導くことができなかったということである。

 彼がどのくらいの大家族であったかは語られていない。しかしソドムを出るよう呼び出された日、彼に少なくともひとりの妻とふたりの娘がいたことは確かである。その他にも、まだ子どもたちがいたかもしれない。

 しかし、大家族であったにせよ小家族であったにせよ、1つのことだけは完璧に明らかと思われる。----彼らのうちに神を恐れる者はひとりもいなかった!

 彼が「出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて」、ソドムに臨もうとしているさばきからのがれるよう警告したとき、「彼の婿たちには、それは冗談のように思われた」、という(創19:14)。何と恐るべき言葉であろう! これは、「お前の云うことなど誰が聞くか」、と云われたにひとしい。この言葉は、ためらい、ぐずつく信仰者に対して世がどのような軽蔑のまなざしを注ぐかを示す悲しい証拠として、世々残ることであろう。

 またロトの妻はどうなったか。彼女は、彼とともに町を出たは出たが、それほど遠くまでは行かなかった。彼女には、それほど急いで逃げ出す理由はないように思われた。そう信ずるような信仰を持ち合わせてはいなかった。彼女は、ソドムを出るとき心をソドムに残してきた。彼女は、ふりかえってはならないとの厳命にもかかわらず、夫の後ろでふりかえり(創19:17)、たちまち塩の柱とされてしまった。

 またロトのふたりの娘はどうなったか。確かに彼女らは無事に逃げることができた。しかしその結果、悪魔のわざを働くこととなった。ふたりは実父を忌まわしい行為へ誘惑し、ありとあらゆる罪の中で最も不潔な罪を犯させたのである。

 つまりロトは、いわば家族の中で孤立していたのだ! 彼は、ただひとりの魂をも地獄の門から引き戻すために用いられることがなかった!

 そしてそれは当然である。ためらい、ぐずつく人々は、自分の家族から見透かされる。見透かされて、軽蔑される。近親者は、信仰については何もわからないとしても、信仰のあいまいさだけはわかる。そこから出る結論は、悲しいが無理のないものである。すなわち、「もしあれが口で云うことを全部信じているとしたら、あんな生き方をしてはいないだろう」、ということである。ためらっている両親から敬虔な子どもが出ることはめったにない。子どもは、耳よりも目で、はるかに多くのことを学ぶ。子どもは常に、親の言葉より行ないの方を心にとめる。このことを忘れないようにしよう。

 c. 第三に注目したいのは、ロトがその生きた証しを何も残さなかったということである。

 ソドムから逃げ出した後のロトについて私たちが知っていることはごくわずかであり、そのわずかも決して満足いくものではない。

 彼がツォアルについて「あんなに小さいのです」、と願ったこと、後にツォアルを出たこと、そして洞穴の中で忌まわしい所業を行なったこと----これらはみな同じことを伝えている。すべてが、彼の内側の恵みの弱さ、彼が陥った霊的状態の低さを示している。

 彼が逃亡してからどれほど生きのびたか私たちにはわからない。彼がどこで死んだのか、いつ死んだのか、再びアブラハムと会うことがあったのか、どのような死に方をしたのか、臨終のとき何と云い、どう思ったのか、そうしたことは全くわからない。すべてが謎である。アブラハムやイサク、ヤコブ、ヨセフ、ダビデの最期については語られているのに、ロトについては一言も語られていない。おゝ、ロトのついた臨終の床は何と陰惨な死の床であろう!

 聖書は故意に彼の周囲に幕を引いているかに見える。彼の後半生には痛ましい沈黙のとばりが巡らされている。あたかも彼が、消える灯火のように世を去り、いやな臭いを残したかのようである。もしも新約聖書がロトを「正しい心」の「義人」と特に語っていなかったとしたら、私たちはロトが本当に救われていたかどうか疑っていたに違いない。

 しかし彼の悲惨な最期は当然とも云える。ためらい、ぐずつく信仰者は、自分が蒔いたものを刈り取るものである。魂が世を去ろうとするとき、しばしば彼らは、自分のためらいの結果をつきつけられる。最期のとき彼らにはほとんど平安がない。彼らも天国へたどり着くことは着く。それは確かである。しかしそれは、うみ疲れ、足を痛め、弱さと、涙と、暗闇と、嵐の中をかいくぐった悲惨な状態で着くということである。彼らも救われる。しかしそれは、「火の中をくぐるようにして助かる」のである(Iコリ3:15)。

 ここまでこの説教を読んできた人はみな、いま私が述べたことをよく考えていただきたい。もちろん誤解してもらっては困る。魂に関することとなると、人はどんな手を使っても揚げ足を取ろうとするものである。

 私は、ためらったり、ぐずついたりすることのない信仰者がすべて、例外なく、世で用いられる偉大な器になるとは云っていない。ノアは百二十年の間、説教し続けたたが、彼を信ずる者はだれもなかった。主イエスは、ご自分の民ユダヤ人からは尊ばれなかった。

 また私は、ためらったり、ぐずついたりしない信仰者がすべて、例外なく、家族や親戚を回心させることができる、とは云っていない。ダビデの子どもたちの多くは不敬虔な者となった。主イエスは、ご自分の兄弟からも信じられなかった。

 しかし私が云っているのは、ロトの悪い選択とそのぐずつきの間には必然的なつながりがある、ということである。ロトのぐずつきと、彼が家族や世に対して全く用いられなかった事実の間には、何かつながりがある。それを否定することは不可能だ、ということである。御霊は私たちがそれを理解するよう望んでおられると思う。御霊はロトを、信仰を告白する全キリスト者に対して戒めとしようとしておられる。ここまで彼の生涯から引き出そうとしてきた教訓は、真剣に考えるべき重要な問題であると私は確信している。

 さて最後に、もう一言語って終わりにしよう。この説教の読者、特に自分がキリスト者だと思う者はみな耳を傾けていただきたい。

 私はあなたを悲しませるつもりは毛頭ない。キリスト者生活を陰惨なものとして描き出すつもりは全くない。私の切なる願いは、友としてあなたに警告したいということである。私はあなたに平安と慰めを得てほしい。私はあなたが安全であるばかりでなく幸福になってほしい。義と認められているだけでなく、喜びにあふれてほしい。このように語ってきたのは、あなたのためなのである。

 あなたの生きているこの時代は、ためらいがちな、ロト的な信仰が至るところに見られる時代である。信仰を告白する道は、多くの点で、かつてそうだったよりもはるかに広く、はるかに薄っぺらなものとなってしまった。現代は、ある種のキリスト教が流行のようにもてはやされている。英国国教会の一派に属し、その勢力伸張のために熱心になる。最新の神学論争に加わる。評判の高い信仰書を買い込み、机の上に積んでおく。集会に出席し、交わりの群れに加入し、説教者の品定めをする。突然出現した扇情的な教派に飛びつき、熱狂的に傾倒する。これらはみな比較的容易なことであり、誰でもしていることである。こうしたことをしても誰も変だとは思わない。そこではほとんど、あるいは何の犠牲を払うこともない。何の十字架を負うこともない。

 しかし、神のそば近く歩み、真に霊的な心を保ち、旅人か寄留者のようにふるまい、時間の用い方や、会話や娯楽や衣服の趣味において世と際立った違いを示し、あらゆる所で忠実にキリストを証しし、あらゆる集団の中に私たちの主の香りを残し、祈りに励み、へりくだり、自分の利益を求めず、気立てがよく、穏やかで、朗らかで、あわれみ深く、忍耐強く、柔和で、どのような形の罪も恐れおののき、世から受ける害に対して常に警戒し、気をゆるめない----こうしたことはまだ、いや、こうしたことこそ、まれなことである!  真のキリスト者と云われる人々の間でさえ、こうしたことはめったに見られない。もっと悪いことに、こうしたことの欠落が、当然なされるべきほどには、感ぜられも、嘆かれもしていない風潮すらある。

 このような時代にあって私は、この説教を読むすべての信仰者の方にあえて忠告したい。目をそらさないでいただきたい。はっきりした物云いに腹を立てないでいただきたい。私はあなたがたに、「熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものと」するよう命ずる(IIペテ1:10)。私はあなたがたに、怠惰にならず、不注意にならず、ちっぽけな恵みで満足せず、世の人より少しましなだけで事足れりとしないよう命ずる。私は厳粛に警告する。決してできないことを試みてはならない。すなわち、キリストに仕えると同時に世と折り合っていこうなどと試みてはならない。私はあなたがたに願い、懇願する。ぜひ中途半端でないキリスト者になっていただきたい。傑出した聖潔を追い求め、聖化の高い階梯をめざし、人生を神にささげ、自分のからだを神への「生きた供え物」とし、「御霊によって歩」んでいただきたい(ロマ12:1; ガラ5:25)。私は、天国に対するあなたがたのあらゆる希望と栄光の望みにかけて要求し、勧告する。もし幸福になりたければ、用いられたければ、ためらっている者となってはならない。

 あなたはこの時代が何を要求しているか知っているだろうか? 諸国家の激動、旧体制の崩壊、王国の転覆、人心の動揺、不安----これらは何を語っているだろうか? これらはみな大声で叫んでいるのである。「キリスト者よ。ためらうな!」、と。

 あなたはキリストの再臨のとき用意ができていたいと思うだろうか? 腰に帯を締め、燭台の火を絶やさず、大胆に、喜んで主を迎えたいと思うだろうか? では、ためらっていてはならない!

 あなたは信仰生活の中で、より多く慰めを感じたいと思うだろうか? 内なる御霊の証しを感じ、自分が信じているお方をよりよく知りたいと思うだろうか? 陰気で、愚痴っぽく、不機嫌で、うちひしがれた、暗いキリスト者でいたくないと思うだろうか? では、ためらっていてはならない!

 あなたは病の日に、また死の床で、自分の救いの確信を堅く握りしめていたいと思うだろうか? そのとき信仰の眼で天が開けるのを見、イエスが立ち上がってあなたを迎えようとしているのを目にしたいと願っているだろうか? では、ためらっていてはならない!

 あなたは世を去った後も、自分が生きたという、太く力強い証しを残したいと思うだろうか? 残された者たちが、安らかな希望をもってあなたを墓に葬り、一点の疑いもなく、あなたの永遠の状態について語り合ってほしいと思うだろうか? では、ためらっていてはならない!

 あなたは自分の時代、自分の世代において用いられる器になりたいと思うだろうか? 人々を罪からキリストのもとへ導き、福音の信仰を飾り、自分の主の教えを人々にとって麗しく、魅力的なものにしたいと思うだろうか? では、ためらっていてはならない!

 あなたは自分の子どもたちや親戚たちが天国へ向かうのを助けたいと思うだろうか? 彼らがあなたに「一緒に進みましょう」、と云ってくれることを願っているだろうか? 彼らがキリスト教を信じ敬う者となることを願っているだろうか? では、ためらっていてはならない!

 あなたはキリストが再び来られる日に、大いなる王冠をいただきたいと思うだろうか? そして、きら星のごとく輝く栄光の聖徒らの中で末席にはつきたくない、最も貧しく、最もみすぼらしい者とはなりたくはないと思うだろうか? では、ためらっていてはならない!

 おゝ、私たちは誰もためらわないようにしよう! 時間はためらわない。死はためらわない。さばきはためらわない。悪魔も、世もためらわない。神の子らもまた、ためらわないようにしよう。

 この説教の読者のうち、自分はためらっている者だと感じている方があるだろうか? ここまで読んできて、心を刺され、胸苦しくなった方があるだろうか? 「これは私のことだ」、とひとり胸に思う方があるだろうか? では、今から云うことを聞いてほしい。そうした魂の状態はよくない。目覚めるがいい。そして立ち上がるがいい。

 もしあなたが今ためらっているなら、今すぐキリストのもとへおもむき、癒していただかなくてはならない。あなたは、あの古い医薬を用いなくてはならない。あの古の泉で身を洗わなくてはならない。もう一度キリストのもとへ取って返し、癒されなくてはならない。何かを行なうための最善の方法は、それを行なうことである。では今すぐ行なうがいい!

 自分はもう絶望だなどと考えてはならない。一瞬たりとも考えてはならない。これまで長年の間、あなたの魂が渇き、まどろみ、不活発な状態であったからといって、よみがえる見込みがないなどと思ってはならない。主イエス・キリストはあらゆる霊の病の医者として定められたではないか。地上におられたとき主は、どんな種類の病も癒されたではないか。どんな種類の悪霊も追い出されたではないか。主を否んだ哀れなペテロを立ち上がらせ、彼の口に新しい歌を歌わせたではないか。おゝ、疑ってはならない。主があなたのうちで、一度お始めになった働きを、もう一度よみがえらせてくださるのを熱く信ずるがいい! ただ、ためらいぐずつくことをやめ、今までの愚かさを告白し、ただちにキリストのもとへ行くことである。まことに、かの預言者の言葉は幸いである。「ただ、あなたは自分の咎を知れ」。「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう」(エレ3:13、22)。

 また私たちは、自分のことだけでなく、他の人の魂のことも思い出そう。もし誰か他の兄弟や姉妹がためらっているのを目にするようなことがあったら、彼らを目覚めさせ、呼び覚まし、ゆり起こすようにしよう。私たちはみな機会のあるうちに「互いに励まし合」おう。「互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうでは」ないか(ヘブ3:13; 10:24)。恐れずに、互いに云いかわそう。「兄弟よ。姉妹よ。あなたはロトのことを忘れたのか? 目を覚ましなさい。ロトのことを思い出しなさい! 目を醒まして、もうこれ以上ためらわないようにしなさい!」、と。


戒めとされた男----ロト[了]


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