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10. 思い出されるべき女


「ロトの妻を思い出しなさい」(ルカ17:32)

 聖書の中でも、このページの冒頭に掲げた聖句よりも厳粛な警告はまず見られない。主イエス・キリストは私たちに云っておられる。「ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 ロトの妻は信仰を告白していた。彼女の夫は「義人」(Iペテ2:8)であった。彼女は、ソドムが滅ぼされた日に、夫とともにソドムを出て行った。夫のうしろにいた彼女は、神の明確な命令にそむいて、街の方を振り返った。彼女は即座に打たれて死に、塩の柱にされてしまった。そして主イエス・キリストは、ご自分の教会に向かって彼女を戒めとして高々と掲げて、こう云われるのである。「ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 イエスが名指しておられる人物のことを思うとき、これは厳粛な警告である。イエスは、アブラハムやイサク、ヤコブやサラ、ハンナやルツのことを思い出せとは命じておられない。否、イエスがわざわざ選ばれたのは、永遠にその魂が失われた者である。イエスは声を大にして私たちに語っておられる。「ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 イエスが扱っておられる主題のことを考えるとき、これは厳粛な警告である。イエスはご自分が世を審くため再臨なさることについて語っておられる。イエスが描写しておられるのは、多くの者らが何の備えもないまま不意をつかれる恐ろしい状況のことである。そうした終末の時代のことを念頭に置きつつ、イエスは云われるのである。「ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 これを与えておられるのがどなたであるかを思うとき、これは厳粛な警告である。主イエスは、全く愛とあわれみといつくしみに満ちておられた。主はいたんだ葦を折ることも、くすぶる燈心を消すこともないお方であった。主は不信仰を続けるエルサレムのために泣くことも、ご自分を十字架につけた者らのために祈ることもおできになった。にもかかわらず、その主が私たちに、失われた魂たちのことを思い出させるべきだとお考えになった。その主が云っておられるのである。「ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 これを最初に与えられた人々のことを思うとき、これは厳粛な警告である。主イエスはご自分の弟子たちに向かって語っておられた。ご自分を憎む律法学者やパリサイ人に対してではなく、ペテロやヤコブやヨハネ、その他主を愛する多くの者らに向かって語っておられた。その彼らに向かってすら、主は警告のことばを発すべきだと思われた。彼らに向かってさえ、主は云っておられるのである。「ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 これが与えられた仕方を考えるとき、これは厳粛な警告である。主は単に、「ロトの妻に従わないよう警戒しなさい、彼女をみならわないよう注意しなさい、彼女のようにならないようにしなさい」、と云っておられるのではない。主のことばはそうしたものとは違う。主は、「思い出しなさい」、と云っておられる。あたかも、私たちがみなこの主題を忘れてしまう危険があるかのように、主は私たちの怠惰な記憶をかき立てておられる。主は私たちに向かって、この件を私たちの心の前に常に置いておくよう命じておられる。主は叫んでおられるのである。「ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 そこで私は、ロトの妻から引き出されるべき、いくつかの教訓をここで吟味したいと思う。疑いもなく、彼女の辿った人生には、教会に対する有益な教えが満ちていると思う。今は終わりの日であり、主イエスの再臨は近づいており、教会内における世俗化の危険は年を追うごとに増し加わっている。私たちは、周囲で猖獗をきわめる病に対し防疫手段と解毒剤で身を固め、何よりもまず、ロトの妻の人生について詳しく知っておこうではないか。

 この主題を順を追って考察するため、私は3つのことを行なおうと思う。

1. 私は、ロトの妻が享受していた数々の宗教的特権について語ろう。
2. 私は、ロトの妻が犯した罪について語ろう。
3. 私は、神が彼女に下したさばきについて語ろう。

1. ロトの妻が享受していた宗教的特権

 まず最初に私は、ロトの妻が享受していた数々の宗教的特権について語りたい。

 アブラハムとロトの時代、救いに至る真の宗教は地上でほとんど知られていなかった。そこには聖書もなければ牧師もおらず、教会もなければトラクトもなく、宣教師すらいなかった。神の知識は、恵まれたほんの数家族に属する人々だけのものであった。世界の大多数の住民は、暗愚と無知、迷信と罪の中に生きていた。ロトの妻ほど良き模範と霊的な交わり、明確な知識と平明な警告を得ていた人間は、百人にひとりもいなかった。同時代の何百万何千万という同胞にくらべて、ロトの妻は恵まれた女性であった。

 彼女は、その夫に敬虔な男性を得ていた。彼女は、信仰の父アブラハムを義理の伯父に得ていた。この二人の義人の信仰と知識と祈りは、いやでも彼女の知るところであったに違いない。多年にわたって彼らと天幕生活をともにした彼女が、彼らがいかなるお方の所有物であり、いかなるお方に仕えているかを知らないでいることは不可能であった。彼らにとって宗教は、単なる形ばかりのお勤めではなかった。彼らの生活を律する大原則であり、彼らのあらゆる行動のもととなる最大の動機であった。これらすべてをロトの妻は見ていたに違いないし、知っていたに違いない。これは決して小さな特権ではなかった。

 アブラムが最初に神からの約束を受けたとき、ロトの妻もその場にいたということは十分考えられることである。彼がアイとベテルの間に天幕を張り、祭壇を築いたとき、彼女もその場にいたということは十分考えられることである。彼女の夫がケドルラオメルの捕虜となり、神の干渉により救出されたとき、彼女はそこにいた。シャレムの王メルキゼデクがアブラムを出迎えてパンとぶどう酒を持って来たとき、彼女はそこにいた。御使いたちがソドムにやって来て、そこから逃れるよう彼女の夫に警告したとき、彼女も彼らを目にしていた。彼らがロトたちの手をつかんで町から連れ出したとき、彼女も彼らによって脱出を助けられた人々のひとりであった。もう一度云う。これらは決して小さな特権ではなかった。

 しかし、これらのすべての特権は、ロトの妻の心に何か良い影響をもたらしていただろうか。彼女の得ていたあらゆる好機、あらゆる恵みの手段、あらゆる特別な警告、あらゆる天からのメッセージにもかかわらず、彼女は、恵みも、神も、悔い改めも、信仰もなしに生き、死んでいった。彼女の心の目は決して開かれることがなかった。彼女の良心は、本当の意味では一度も目覚めさせられることがなく、死んだままであった。彼女の意志は、本当の意味では一度も神に従順に従う状態になったことがなかった。彼女の思いは、本当の意味では一度も天にあるものに向けられたことがなかった。彼女の守っていた宗教は、かたちをなぞるだけのものであり、心のこもったものではなかった。何か価値があると自分で思ったためではなく、周囲の人々を喜ばせるためだけに身につけていた偽装であった。彼女はロトの家で一族のだれもがするようにしていたのであり、夫の生き方に合わせ、その宗教には何の反対もせず、彼の後を唯々諾々とついていきはしたが、その間中ずっと、彼女の心は神の御目の前に正しくない状態にあった。この世が彼女の心の中にあり、彼女の心はこの世の中にあった。このような状態で彼女は生き、このような状態で彼女は死んだのである。

 これらすべての中には、大いに学ぶべきことがある。ここには、現代において何にもまして重要な教訓が1つあると思う。あなたの生きている今の時代には、ロトの妻に似た人々がたくさんいる。彼女の例から学べと云われている教訓に、いま耳を傾けようではないか。

 ここで学ぶべきこと、それは宗教的特権をどれほど有していても、それだけではどんな魂も救われないということである。あなたは今、霊的な意味でこれ以上ないほど恵まれた境遇にあるかもしれない。霊的な好機と恵みの機会に十二分に浴しつつ生きているかもしれない。最上の説教を耳にし、珠玉のごとき教えを受けているかもしれない。光と知識、聖さと良き友に囲まれて過ごしているかもしれない。あなたはこうした特権を残らず手にしているかもしれない。しかしなお、あなたが未回心のままであり、最後には永遠に滅びてしまうこともありえるのである。

 はっきり云ってこれは、一部の読者にはひどい教理に聞こえるであろう。私の知る限り、多くの人々は、宗教的特権さえあれば自分もけじめをつけて、まっとうなキリスト者になれるのだがと夢想している。むろん自分が本来あるべき姿にないことは認める。しかし彼らは、自分たちの立場は厳しすぎる、自分たちの困難は多すぎる、と申し立てるのである。夫が(妻が)信仰を持っていさえすれば、あるいは福音の説教が聞けさえすれば、あるいはその他の恵まれた条件が整っていさえすれば、自分たちも神とともに歩めるだろうに、と。

 これはみな間違いである。完全に迷妄である。魂が救われるためには特権以上のものが必要である。ヨアブはダビデの将軍であった。ゲハジはエリシャに仕える若い者であった。デマスはパウロの同行者であった。イスカリオテのユダはキリストの弟子であった。そしてロトには、世俗的で不信仰な妻がいた。こうした人々は自分の罪の中で死んだ。彼らは知識も警告も好機も持ちながら地獄に落ちたのであり、人に必要なのは特権だけではないとの教訓を明らかにしている。人には聖霊の恵みが必要なのである。

 宗教的な特権は尊ぼう。しかし、それだけに頼り切らないようにしよう。人生におけるあらゆる場面で、宗教的な恩恵をむだにしないようにこころがけよう。しかしそれらをキリストの代わりに考えたりしないようにしよう。神が与えてくださるのなら、どんな特権もありがたく用いさせていただこう。しかしそれらが自分の心と生き方に何の実も生み出さないようなことがないように注意しよう。宗教的な特権は、何の益ももたらさないとき、往々にして積極的な害悪をもたらすものである。それらは良心を無感覚にし、責任を増し加え、罪状を重くする。蝋を柔らかくするのと同じ火が粘土を硬くする。生木を育てる陽光が、枯れ木をひからびさせ、格好のたきぎにしてしまう。聖なるものへの不毛ななれ親しみほど人の心をかたくなにするものはない。もう一度云う。人は特権だけでキリスト者になるのではなく、聖霊の恵みでキリスト者になるのである。それなしにはだれひとり救われることはない。

 私は、今日福音的な教会に集う方々ひとりひとりに、今から私が云うことをよく聞いていただきたいと思う。あなたはA師の教会、あるいはB師の教会に通っている。あなたは彼が素晴らしい説教者だと思っている。その説教を聞くのは喜びであり、他のだれの話を聞くよりも大きな慰めを感ずる。その教会に出席するようになって以来、あなたは多くのことを学んだ。彼の聴衆のひとりであることをあなたは大きな特権だと考えている。これらはみな非常に良いことである。あなたの教会の先生のような教職者がもう千人もいたとしたら何とよいことかと思う。しかしとどのつまり、あなたの心の中はどうなっているだろうか。聖霊を受けただろうか? そうでないとするなら、あなたにロトの妻にまさるところは何もないであろう。

 私は敬虔なキリスト者家庭で仕えている使用人の方々に、今から私が云うことをよく聞いていただきたいと思う。神への恐れがつかさどる家庭に住み込んで働けるのは非常に大きな特権である。朝夕の家庭礼拝に集い、みことばが解き明かされるのを規則正しく聞き、日曜日は静かに過ごし、いつでも教会にいくことができるというのは、まさに特権である。これらこそ、奉公先を探すときに求めなくてはならないことである。これらこそ、本当に良い勤め口の証しである。いくら賃金が高くても、仕事が軽くても、それで世俗性や日曜不遵守や罪の埋め合わせにはならない。しかし、こうしたことがらに満足しきってしまわないように用心しなくてはならない。こうした霊的特典をみな持っているからといって、自動的に天国に行けるはずだなどと考えてはならない。あなたは家庭礼拝に出席するだけでなく、自分自身の心の中に恵みがなくてはならない。さもないと、現在のあなたにロトの妻にまさるところは何もないであろう。

 私はキリスト者の両親を持つ子どもたちに、今から私が云うことをよく聞いていただきたいと思う。信仰の篤い父母の子どもとして生まれ、多くの祈りの中で育てられるのは、何にもまさる特権である。ほんの幼少期から福音を教えられ、物心ついたころから罪やイエスや聖霊や聖潔や天国について聞いて育つというのは、実に幸いなことである。しかし、おゝ、こうした特権すべての陽射しをさんさんと受けながら、実を結ばない不毛な状態のままでいないように用心しなくてはならない。いま享受している多くの恩恵にもかかわらず、あなたの心がかたくなで、悔い改めを知らず、世的なままであり続けないように警戒すべきである。親の七光で神の国に入ることはできない。自分でいのちのパンを食べ、自分自身の心に御霊の証しを持っていなくてはならない。自分自身の悔い改め、自分自身の信仰、自分自身の聖潔を持っていなくてはならない。さもなければ、あなたにロトの妻にまさるところは何もないであろう。

 私は神に祈るものである。今の時代の、信仰を告白するすべてのキリスト者がこれらのことを真剣に考えるように、と。願わくは私たちが、特権だけでは救われないことを決して忘れないように。光と知識、忠実な説教と数々の恵みの手段、そして聖なる人々との交わり、これらはみな大いなる祝福であり恩恵である。これらを有する者は幸いなるかな! しかしとどのつまり、どんな特権もそれなしには無用にしてしまうことが1つある。聖霊の恵みである。ロトの妻には多くの特権があった。しかしロトの妻は恵みを持っていなかったのである。

2. ロトの妻が犯した罪

 次に私は、ロトの妻が犯した罪について語りたい。

 彼女の罪の物語は、聖霊によって簡潔に数語で述べられている。「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった」。これ以上何も語られていない。この記述には、むきだしの厳粛さがある。彼女のそむきの罪は、要するに実質的には、ほんの一言のうちに存している。彼女は「振り返った」。

 今この論考を読んでいる読者の中に、その罪が小さなこととしか思えない人がいるだろうか。ロトの妻の過ちは、これほどの罰をもたらされるには些細すぎることのように見えるだろうか。はっきり云って、こうした感情は今何人かの心に起こっているであろう。そこで、この件について今から論じあいたいと思う。耳を貸していただきたい。その振り返りの中には、一見して目に映ることよりもはるかに大きなことが隠れているのである。ここで暗に語られていることは、表だって表現されていることよりもはるかに重大なのである。注意して聞くがいい。あなたは耳をそばだてざるをえないであろう。

 a. その振り返りは小さな事であったが、ロトの妻の真の性格を明らかにした。小さな事の方がしばしば、大きな事よりも人の心の状態を示すものであり、小さな症候群はしばしば不治の病のしるしとなる。エバの食べたりんごは小さな事であったが、それは彼女が純真な状態から堕落し、罪人になったことを証明した。橋桁に見えるひび割れは小さな事だが、それは土台が崩れつつあること、構造物全体が危険な状態にあることを示している。朝ついた1つの小さな咳は、とるに足らない不調に思えようが、往々にして体をこわしつつある証拠であり、肺病、肺炎、そして死に至る。一本の麦わらも風がどちらに吹いているかを示すことができ、一回振り返るだけのことで一人の罪人の心の腐敗した状態を示すことができるのである(マタ5:28)。

 b. その振り返りは小さな事であったが、それはロトの妻の不従順を示した。御使いの命令は単刀直入で取り違えようもないものであった。「うしろを振り返ってはいけない」(創19:17)。この命令に、ロトの妻は従うことを拒んだのである。しかし聖霊は、「聞き従うことは、いけにえにまさ……る」、と云い、「そむくことは占いの罪……だ」、と語っている(Iサム15:22、23)。神がそのみことばによって、あるいはその使者によって、平明に事を告げられるとき、人のなすべき義務は明らかである。

 c. その振り返りは小さな事であったが、それはロトの妻のうちにあった高慢な不信仰を示した。まるで彼女は、神が本当にソドムを滅ぼそうとしておられたのか疑っていたように見える。彼女のようすは、何か危険がせまりつつあるとか、あれほど大慌てで逃げ出さなくてはならないような理由が何1つないかのようである。しかし、信仰がなくては神に喜ばれることはできない(へブ11:6)。神よりも自分の方がよくものをわかっているのだとか、神は本気で脅しているのではないのだとか考え出したその瞬間に、人の魂は大きな危険に陥る。私たちに神のおはからいの理由がわからないとき、私たちの義務は黙って信ずることである。

 d. その振り返りは小さな事であったが、それはロトの妻のうちにあった、この世へのひそかな愛を示した。彼女は、体はソドムの外に出ても、心はソドムの中にあった。彼女は、自分の家から逃げ出したとき、自分の愛情をあとに残してきた。彼女の目は、さながら磁針が北を指すかのように、彼女の宝のある場所に向いた。そしてこれが彼女の罪の最も重大な点であった。「世を愛することは神に敵することである」(ヤコ4:4)。「もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません」(Iヨハ2:15)。

 現在考察している主題のこの部分には、読者の方々の特別な注意を喚起したいと思う。私の見るところ、この部分にこそ主イエス・キリストは私たちを特に着目させようとしておられる。ロトの妻が滅びたのは、この世を振り返ったからである。ここにこそ主は、私たちを注目させようとしておられるのだと思う。彼女の信仰告白は一時は本物らしく、まことしやかに見えたが、彼女は本当の意味では一度もこの世と縁を切ったことがなかった。彼女は一時は安全へ向かう道にいたかに見えたが、そのときですら、彼女の心の最も深く最も奧まった思いは世に向けられていた。世俗化のはかりしれない危険こそ、主イエスが私たちに学ばせようとしておられる主要な教訓である。おゝ、願わくは私たちがみな見ることのできる目と、悟ることのできる心を持てるように!

 キリストの教会にとって、現代ほど世俗化に対する警告が必要な時代はいまだかつてなかったと思う。あらゆる時代には、その時代特有の疫病が蔓延するというが、今現在キリスト者たちの魂が陥りがちな疫病はこの世に対する愛である。それは夜陰に乗じて忍び寄る悪疫であり、昼日中に人々の命を奪う病である。それは「多くの者を切り倒した。彼女に殺された者は数えきれない」。だから私は警告の声をあげざるをえない。信仰を告白するすべての人々の、まどろんでいる良心を目覚めさせる努力をしたい。私は声を大にして云いたい。「ロトの妻の罪を思い出しなさい」、と。彼女は殺人鬼でも姦婦でも盗人でもなかった。信仰告白者だった。しかし彼女は振り返ったのである。

 私たちの教会には、不道徳や不信仰に対しては鉄壁の守りを誇りながら、この世への愛にはころりと屈する受洗者が、何万人もいる。しばらくの間はよく走っていながら、また天国に到達する見込み十分と思われながら、だんだんその競争から離脱し、しまいにはキリストに全く背を向ける人々がごまんといる。では何が彼らの足を止めさせたのか? 彼らは聖書が偽りであると分かったのだろうか。主イエス・キリストが約束を守れないことを見出したのだろうか。否、全く違う。彼らはこの疫病にかかったのである。この世への愛に罹患したのである。私は、この論考を読んでいる、福音を愛し心に偽りのない教職者全員に訴えたい。あなたの会衆を見渡していただきたい、と。私は、年季を積んだあらゆるキリスト者に訴えたい。あなたの身近にいる友人知己を見渡していただきたい、と。私は自分が真実を語っていると確信している。私たちは、いいかげんにロトの妻の罪を思い出すべき時がきているのである。

 a. キリスト者家庭の子弟のいかに多くが、幸先良い出だしを切りながら、落後して果てることか。子ども時代の彼らは、非常に信仰熱心に見える。暗唱聖句を山ほど覚え、飽かずに賛美歌を歌う。罪に対する霊的な感性があり、罪の確信がある。主イエスを愛し、天国に入りたいという思いを口にする。嬉々として教会に通い、説教を聴く。彼らを掌中の玉といつくしむ両親が目を細めて、確かに恵みのしるしだと心にとめるようなことを云う。親族からも、「大きくなったら、どんなにすごい子になるだろうね」、と云われるようなことをする。しかし、悲しむべきことに、何としばしば彼らの美質は、朝霧や夜露のように消え去ってしまうことか! 少年は青年となり、心にかけることといえば娯楽とスポーツ、歓楽と遊蕩だけとなる。少女は若い娘となり、心にかけることといえば衣装や陽気な友だちのことだけとなり、小説や浮かれ騒ぎにふけることだけとなる。いったんはあれほど有望に見えた霊性はどこいへ行ったのか。全くなくなってしまった。葬られてしまった。この世への愛で押しつぶされてしまった。そして彼らは、ロトの妻の足どりをたどっている。彼らは振り返ったのである。

 b. いかなる点から見ても信仰熱心であった夫婦のいかに多くが、子どもたちの成長とともに脱落してしまうことか! 彼らも結婚してまもないころには、骨身を惜しまずキリストに従っているように思われ、良い証しを立てているように見える。福音の説教を聴きに定期的に教会に出席する。多くの良いわざを行なう。彼らが軽薄に遊び暮らす者らとつきあう姿などだれも見たことがない。彼らの信仰と行為はどちらも健全で、片方が欠けているということはない。しかし、悲しむべきことに、若夫婦に家族がふえはじめ、息子や娘たちを世の中に送り出さなくてはならなくなると、いかにしばしば、一種の霊的葉枯れ病が家庭に襲いかかることか。彼らの習慣や衣服、娯楽や時間の使い方のうちに、世俗化のパン種が姿を現わし出す。彼らはもはや、自分のつきあう人々や訪れる場所について厳格ではなくなる。彼らがかつては守っていた、あの明確な分離線はどこにあるのか。かつては彼らの生き方を特徴づけていた、世的な娯楽に対するあの決然たる節制はどこにあるのか。それらはみな忘れ去られてしまう。古暦のようによそへやられてしまう。彼らにある変化がのぞんだのである。この世の精神が彼らの心を支配してしまったのである。彼らはロトの妻の足どりをたどっている。彼らは振り返ったのである。

 c. 一心にキリスト教を愛しているように見えたいかに多くの若い女性が、20歳や21歳になると、すべてを失ってしまうことか! 人生のこの時期まで、宗教的な事柄における彼女たちのふるまいには、全く云うことがない。彼女たちは祈りと静思の習慣を守り、熱心に聖書を読む。機会がありさえすれば貧しい人々を訪問し、日曜学校のある教会なら教師として奉仕する。貧しい人々の物質的、霊的な必要を満たすために仕える。同じキリスト者の友人たちを好み、キリスト教の事柄について話し合うことを愛する。彼女たちの書く手紙は、キリスト教的な言葉づかいや、宗教的な体験で満ちている。しかし、悲しむべきことに、いかにしばしば彼女たちは、水のようにたよりないことを明らかにし、世への愛によって破滅させられることであろう。しだいしだいに、「見えるもの」が「見えないもの」を彼女たちの心から押し出して行き、彼女たちの魂の内側で青々と成育しているものを、いなごの大群のようにことごとく食い尽くしてしまう。一歩一歩彼女たちは、かつてはつけていたけじめある態度から後退していく。彼女たちは、健全な教理を熱心に守ることをやめる。信じる内容によって人の宗教に優劣があるなどと考えるのは「愛がない」ことに気づいたふりをする。社会の習慣から少しでも分離しようとすることは「排他的」だとわかったなどと云う。徐々に彼女たちは、厳格なキリスト教には何の関心も持たないことが如実な、どこかの男性に愛情を捧げるようになる。そして最後には、自分自身のキリスト教の最後のかけらをも捨て去るに至る。彼女たちはロトの妻の足どりをたどっている。彼女たちは振り返ったのである。

 d. 私たちの諸教会のいかに多くの教会員が、熱心で真面目な信仰告白者であった過去にもかかわらず、いまは無気力で、もったいぶった、冷たい者になっていることか! 以前は、彼らほど生き生きとキリスト教を信じている者はどこにもいなかった。彼らほど勤勉に、恵みの手段を用いる者はいなかった。彼らほど福音宣教に重荷を感じ、勇んで良いわざに励む者はいなかった。彼らほど霊的な教えに深い感謝を表わす者はおらず、彼らほど恵みにおいて成長することを切望しているように見える者はいなかった。しかし悲しむべきことに、今はすべてが変わってしまったように思われる。「その他いろいろな事柄への愛」が彼らの心を支配してしまい、みことばの良い種をふさいでしまった。この世の富、この世の報い、この世の文学、この世の栄誉が、今や彼らの愛情の第一位を占めている。彼らと話し合ってみるがいい。霊的な事柄に関しては何の反応も帰ってこないであろう。彼らの日々の過ごし方に注意してみるがいい。神の国については何の熱心さも見えないであろう。一種の宗教は確かに彼らも有しているが、それはもはや生きた信仰ではない。彼らに以前あったキリスト教の泉は涸れ果て、姿を消してしまった。霊の炉心の炎は消え果てて冷たくなってしまった。かつてはあれほど赤々と燃え盛っていた炎は泥土が鎮火してしまった。彼らはロトの妻の足どりをたどっている。彼らは振り返ったのである。

 e. いかに多くの教職者が、数年の間は懸命にその職務に務めながら、今のこの世への愛に引かれて怠惰ななまけ者になることか! 彼らも牧会生活の当初には、キリストのため何もかも捨てて打ち込んでいるように見える。時が良くとも悪くとも、常にきびきびと働いている。その説教には活気があり、その教会は人であふれる。彼らの会衆はよき配慮と世話を受けており、週ごとの家庭集会、祈祷会、家庭訪問は、その喜びとなっている。しかし、悲しむべきことに、いかにしばしば「御霊で始まった」彼らが、「肉によって完成される」ことになり、あのサムソンのごとく、この世というデリラの膝枕の上で力をそり落とされることであろうか。彼らは高位の聖職に抜擢されて豊かな暮らしができるようになる。世的な妻をめとる。高慢になり、学びと祈りをおろそかにするようになる。凍てつく霜が、かつてはあれほど麗しく見えた霊の花々を切り取ってしまう。彼らの説教はその祝福と力を失い、彼らの平日の働きはどんどん少なくなっていく。彼らの入り交じる人々は、以前よりも精選されなくなり、彼らの会話の基調は以前よりも俗っぽくなる。彼らは人の意見を無視することをやめる。「極端な見解」に対する病的な恐れが染みつき、だれかを不快にさせることに対して戦々恐々とするようになる。そしてついには、一時は使徒たちの真の後継者、キリストのりっぱな兵士と見えていた人物が、平日は庭仕事か菜園作りに精を出すか、友人知人の家々を食べ歩く日曜牧師になり果てて、つまらぬ余生を送るのである。彼によっては、だれも不快にならないが、だれも救われない。彼らの教会の座席はがらがらになり、彼の影響力はがた落ちになる。この世が彼をがんじがらめに縛り上げてしまったのである。彼はロトの妻の足どりをたどっている。彼は振り返ったのである。*1

 今まで述べてきたようなことを書くのは悲しいことだが、こうした人々を目にすることの方がはるかに悲しい。一体どうして信仰を告白するキリスト者が、この問題についてもっともらしい議論で良心の目をふさぎ、「立場上やむをえない義務」だとか、「世間並みの儀礼」とか、「辛気くさくない信仰生活」を行なわなくてはならないなどという理屈をつけて、あからさまな世俗化を弁護していられるのか。こうした人々の姿には悲しいものがある。

 私が悲しく思うのは、人生という航海に乗り出した多くの勇壮な船舶が、成功をおさめるあらゆる見込みを有しながら、世俗化という水漏れを生じさせがために、みすみす安全な港湾を目の前にしながら、積み荷もろとも沈没していく姿である。何よりも最も悲惨なのは、この世への愛にむしばまれて問題だらけの人々のいかに多くが、自分の魂には全く問題ないと自分をごまかしているかを見ることである。頭髪には白いもが混じりはじめているのに、自分ではそれと気づかない。彼らはヤコブやダビデやペテロとともに始めていながら、エサウやサウルやイスカリオテのユダとともに終わりそうなようすをしている。ルツやハンナやマリヤやペルシスとともに始めていながら、彼女らはロトの妻とともに終わりそうなようすをしている。

 片手間でやっていけるようなキリスト教には用心しなくてはならない。何か二義的な動機からキリストに従わないよう用心しなくてはならない。親族や友人を喜ばせるためとか、自分の住んでいる土地や家庭の習慣に合わせるためとか、もったいぶるためとか、敬虔なキリスト者だと噂されたいがためとかいう理由からであってはならない。キリストに従うというのなら、キリスト御自身のゆえに従うがいい。全心を傾けるがいい。本物であるがいい。誠実で、妥協せず、一心になるがいい。もしキリスト教を信じようというのであれば、本物のキリスト教を信じるがいい。ロトの妻の罪を犯さないように注意するがいい。

 宗教に深入りしすぎては危ないと考えたり、心ひそかにこの世と歩調を合わせようとしたりしないように用心するがいい。私はこの論考を読むどんな人にも、世捨て人になったり、修道僧になったり、修道女になったりしてほしくはない。あらゆる人が、召されたときのままの境遇にあって、実生活での義務を果たしてほしいと思う。しかし私が信仰を告白するあらゆるキリスト者に衷心から勧めたいのは、幸いを望むのなら、神とこの世との間に何の妥協も結ばないようにせよ、ということである。これは、この上なく重要なことである。できもしない取引をしようとしてはならない。自分の心はこれっぽっちしかキリストに引き渡さず、この世での暮らしは目一杯楽しもうとするような生き方を望んではならない。強欲が過ぎて、あぶはち取らずにならないようにするがいい。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くしてキリストを愛するがいい。神の国をまず第一に求め、その他の事柄はみな、それに加えて与えられると信じるがいい。ジョン・バニヤンが描き出した、二心氏の生き写しにならないように注意するがいい。あなたが幸福になるため、用いられるため、危険から守られるため、魂の安全のため、ロトの妻の罪には用心するがいい。おゝ、私たちの主イエスのことばは厳粛である。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」(ルカ9:62)。

3. 神が彼女に下したさばき

 さて最後に私は、神が彼女に下した刑罰について語ろう。

 聖書は彼女の最期を簡潔に数語で物語っている。「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった」、と。この罪ある女性に神のさばきを執行するため、1つの奇蹟が行なわれた。彼女に最初にいのちを与えたのと同じ全能の御手が、そのいのちを一瞬のうちに取り去ってしまった。血肉をそなえた生身のからだから、彼女は塩の柱に変えられてしまった。

 これは一個の魂が至った恐るべき末路であった! いかなるときも死は厳粛なことである。親切な友人や親族の間での死、自宅のベッドで安らかで穏やかに迎える死、敬虔な人々のささげる祈りを耳にしながらの死、自分の救いを完全に確信し、恵みによる素晴らしい希望をいだき、主イエスによりたのみつつ、福音の数多くの約束という心支えを持ちながらの死、----たとえそのような死であつたとしても、なおも死は深刻なものである。しかし思いもかけぬときに突然、罪の行為の真っ最中に死ぬこと、健康と力の盛りのさなかで死ぬこと、怒りを発した神の直接の介入によって死ぬこと、----これはまさに恐るべきことである。しかしそれこそ、ロトの妻の最期であった。ある人々は非難するが、私は祈祷書中の連祷のこの一節を責める気にはなれない。「いとも良き主よ。われらを突然の死から救い出したまえ」。

 それは一個の魂が至った望みなき最期であった! 時として人は、目の前で息をひきとった人々について、いわば望なきところに望みをつなごうとすることがある。死出の旅に出た愛する兄は、妹は、最後の最後で救いに至る悔い改めをしたかもしれない。ぎりぎりの瞬間になってキリストの着物のへりをつかんだかもしれない。そう云い聞かせようとすることがある。私たちは神のあわれみを思い起こし、御霊の力を思い出し、十字架の上で悔い改めた盗人のことを考えて、そっと心のうちにささやいてみる。救いのわざは死の床にあってさえ進められていたのかもしれない。死の間際にあったため、それを口にする力がなかっただけかも知れない、と。しかし、そうした望みもみな、まさに罪の行為にふけっている最中に突然死んだ人については、ことごとく力を失う。よこしまなわざにふけっている、まさにその時、考える時間も祈る時間もなく、一瞬のうちに死を迎えた魂の場合、どれほど愛に満ちた人も語るべき言葉を失う。それが、ロトの妻の最期であった。それは望みなき末路であった。彼女は地獄に落ちたのである。

 しかし、こうした事柄を肝に銘じておくのは私たち全員にとって有益である。神は、意識的に罪を犯す者らを激しく罰することがある。大きな特権をいくつも与えられていながらそれを乱用した者は、魂に大きな怒りを招き寄せるものである。そう思い起こさせられることは有益である。パロはモーセによってなされた奇蹟をすべて目にしていた。コラ、ダタン、アビラムらは、シナイ山からモーセに語りかける神の声を聞いていた。ホフニとピネハスは神によって立てられた大祭司の息子らであった。サウルはサムエルが預言者として縦横に活動していた時代に生きていた。アハブは預言者エリヤからしばしば警告を受けていた。アブシャロムはダビデの子のひとりであるという恵まれた立場にあった。ベルシャツァルは預言者ダニエルを身辺に置いていた 。アナニヤとサッピラは使徒たちが頻繁に奇蹟を行なっている時代に教会に加わった。イスカリオテのユダは私たちの主イエス・キリストご自身から特に選ばれた同行者であった。しかし彼らはみな、光と知識に反して厚かましく罪を犯したあげく、全員が心を改める間もなく突如破びに至った。そこには悔い改める時間もいとまもなかった。彼らは、それまで生きてきたように死んでいった。それまでと寸分違わない自分のまま、神の御前に突進していった。彼らは自分のもろもろの罪を背負ったまま、赦されることも、更新されることもなく、まるで天国にふさわしくない状態のまま死んでいった。そして死してなお、彼らは語っている。ロトの妻のように、私たちに告げている。光に反して罪を犯すのは危険きわまりないことであり、神は罪を憎むお方であり、死後には地獄があるのだ、と。

 今私が強く思わさせられているのは、ここで私は読者の方々に、地獄という主題について忌憚なく語らなくてはならないということである。ロトの妻の最期という格好の物語を良い機会に、話をさせていただきたい。地獄は現実に存在しており、永遠に存在し続ける。いいかげんにだれかが、このことを歯に衣着せず語るべきなのである。それは私たちに与えられた明確な義務であると思う。近年は、偽りの教理が奔流のように私たちを襲っている。たとえば、神のあわれみは無限に大きいのだから、魂を永遠に罰することなどできないと云い出す者がある。神には地獄の底よりも深い愛があるのであり、人類は、たとえ中にはどれほど邪悪で神を恐れぬ者らがいようとも、遅かれ早かれ全員が救われるのだという。私たちは、使徒的キリスト教という昔からの通り道を離れるよう誘われている。地獄や悪魔や刑罰に関する私たちの父祖たちの見解は、旧弊であり時代遅れだと云われる。私たちは、いわゆる「人に優しい神学」を抱くべきである、地獄など異教徒の寓話か、子どもや愚物をこわがらせるためのおどしだと思え、と云われている。しかしこうした偽りの教えに対して私は抗議したいと思う。むろんそうした論争は痛みと悲しみを伴い、苦悩に満ちたものとなるかもしれない。しかしこれは、見て見ぬふりのできる問題ではない。目をそらすことは許されない。少なくとも私はここで昔ながらの立場を固守し、地獄の実在とその永遠性を断言しようと思う。

 実際これは、ただの思弁的問題ではないのである。典礼式文や教会政治に関する議論と同列に論じてよいことではない。エゼキエルの神殿の意味や、黙示録の象徴の意味と同断にすべきことではない。これは、福音全体の根幹にかかわる問題である。ここには、神の道徳的ご属性、その義と聖ときよさがことごとくかかわっている。人はキリストを信ずる個人的信仰と、御霊による聖化が必要かどうか、そのすべてがかかっているのである。地獄という昔ながらの教理をひとたび打ち倒すなら、キリスト教の全体系のたががはずれ、揺らぎ、がたつき、混乱に陥ってしまう。

 実際これは、人間の理論や思いつきによってしか、ものを云えないような問題ではないのである。聖書は地獄という主題について、だれにでも分かるように、また委細を尽くして語っている。私は主張する。聖書を正直に扱う限りどのような人も、この点について聖書から導き出されるいくつかの結論を避けることは不可能である、と。言葉が全く意味を持たないというのでもない限り、地獄と呼ばれる場所はあるのである。またもし聖句が公平に解釈されるのなら、そうした場所に投げ込まれることになる人々がいるのである。言語に何の意味も伴っていないというのでもない限り、地獄は永遠になくならないのである。私の信ずるところ、この問題について聖書の証拠をはぐらかす論証を見出したなどという人は、もう筋の通った話は何もできないような心の状態に達しているのである。私としては、聖書が地獄の実在と永遠性を教えていないと論ずるくらいなら、自分の存在を否定することも容易であろうと思う。

 a. 私があなたの心にしかと銘記してほしいこと、それは、神はあわれみといつくしみによってキリストを遣わし、罪人の身代わりに死なせてくださったと教えている、その同じ聖書が、それと同時に、神が罪を憎んでおられること、罪をつかんで離さない者、神のお備えになった救いを拒絶する者を、まさにそのご本性のゆえに罰さずにおくことはできないとも教えているのだ、ということである。「神は、実に……世を愛された」、と宣言している、まさに同じ章が、未信者の上には「神の怒りがその上にとどまる」、とも宣言している(ヨハ3:16、36)。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」、という喜ばしき知らせとともに世に送り出された、まさにその同じ福音が、返す刀で、「信じない者は罪に定められます」、と宣言しているのである(マコ16:16)。

 b. 私があなたの心にしかと銘記していてほしいこと、それは、神が、悔い改めた者たちにあわれみを示すことがおできになるのと同様に、かたくなな者たち、不信仰を続ける者たちをいずれ罰し、ご自分の敵たちに復讐することもおできになるということ、そしてそれを聖書の中の幾多の証明によって告げておられるということである。洪水による古の世界の水没、ソドムとゴモラの焼却、紅海におけるパロとその全軍勢の壊滅、コラやダタンやアビラムに対するさばき、カナンの7つの都市の完全な破壊、----これらはみな、同じ畏怖すべき真理を教えている。これらはみな、神を怒らせてはならないということを示す戒め、またしるしとして私たちに与えられたのである。これらはみな、来たるべき事柄を包み隠している覆いの一端を引き上げ、神の怒りというものがあることを思い起こさせるためのものである。これらはみな私たちに平明に告げている。「悪者どもは、よみに帰って行く」、と(詩9:17)。

 c. 私があなたの心にしかと銘記していてほしいこと、それは、主イエス・キリストご自身こそ、地獄の実在と永遠性についてだれよりもあからさまにお語りになっているということである。金持ちとラザロのたとえには、人を震え上がらせてしかるべき事柄がふくまれている。しかしそれも例外的な記述ではない。あの人が話すように話した人はいまだかつてありません、と云われたお方であり、「あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです」(ヨハ14:24)、とお語りになったお方の口唇ほど、多くの言葉によって地獄のすさまじさを云い表した口唇はなかった。ゲヘナ、燃えるゲヘナ、ゲヘナの刑罰、とこしえの罪、よみがえって後のさばき、永遠の火、苦しみの場所、滅び、外の暗やみ、つきることのないうじ、消えることのない火、泣きわめき歯がみする場所、永遠の刑罰、----これらが、これらこそが、主イエス・キリストご自身のお用いになった言葉なのである。近時人々が口にする、福音の教役者は地獄について決して語るべきではないなどという、みじめなたわごとは捨て去るがいい! このようなことを云う人は単に自分の無知を、さもなければ自分の不正直さをさらけだしているにすぎない。四福音書を誠実に読む人なら、だれにでもわかるであろう。キリストの模範にならおうと願う者は地獄について語らなくてはならない、と。

 d. あなたの心に最後に銘記してほしいのは、聖書が私たちに与えてくれる天国についての心慰められる思想の数々は、ひとたび地獄の実在と永遠性を否定するなら、失せ去るということである。死後には、邪悪で不敬虔なまま死んだ者たちのために分離された住みかが何もないのだろうか。死後すべての人は、1つの雑多な集団になって入り交じるのだろうか。もしそうだとするなら、全くもって天国は何の天国でもなくなろう! 互いに一致していないふたりの人が、1つ所に住んで幸せになることなど決してありえない。地獄と刑罰は、その期限が尽きるような時がくるのだろうか? よこしまな者たちは、長期にわたる悲惨な時代をいくつも経た後で、天国に入ることを認められるようになるのだろうか? もしそうだとすると、御霊によって聖化される必要など全くもって打ち捨てられ、さげすまれるであろう。人は地上で聖化され、地上で天国に対する備えができるとは書かれているが、地獄における聖化のことなどどこにも書かれていない。そんな無根拠で非聖書的な理論は捨て去るがいい! 地獄の永遠性は、天国の永遠性と同じくらい明確に聖書中で肯定されている。いったん地獄が永遠でないということを許すなら、神も天国も永遠ではないと云うべきであろう。「永遠の刑罰」という表現で使われているのと同じギリシャ語が、主イエスによる「永遠のいのち」という云い回しや、聖パウロによる「永遠の神」という表現の中で用いられている言葉なのである(マタ25:46; ロマ16:26)。

 これがみな、多くの人の耳に不快きわまりないものに聞こえることは私も承知している。不思議とは思わない。しかし私たちが決着をつけるべき唯一の問題は、「それは聖書的か?」、ということである。それは真実か? そして私は堅く主張したい。それは真実であると。信仰を告白するキリスト者も、しばしば滅びと地獄へ至ることがありうる。それを思い起こさなくてはならない。そう私は声を大にして云う者である。

 地獄に関する平明な教えをみな否定し、それに差別的な名をいくつもつけて、憎むべきものに仕立て上げるのは容易である。それは私も知っている。「狭量さ」、「古色蒼然たる思想」、「硫黄の神学」などといった批判を聞いたことはしばしばである。当今では「幅広い」見解が求められているのだと聞かされることもしばしばである。しかし私が願うのは、聖書と同じくらい幅広くなることであって、それ以上でもそれ以下でもない。私に云わせてもらえば、生来の心が嫌うような部分を聖書からそぎ落とし、神のご計画の何らかの部分を拒否する人こそ、考え方の狭い神学者である。

 私が痛みと悲しみなしに地獄のことを語っていないことは神がご存知である。私は罪人のかしらその人にさえ、福音の救いを喜んで差し出したいと思う。どんな極悪人の、放蕩無頼な人であっても、その死の床にあっては進んで云いたいと思う。「悔い改めて、イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」、と。しかし、聖書が天国と同じように地獄をも啓示していること、福音の教えによれば人間には救われる可能性もあれば滅びる可能性もあることを、定命の人間に隠しておくようなことは決してあってはならない。火事を見つけても沈黙を守る見張り人は、途方もない怠慢の罪に問われる。死につつある患者に、良くなっていますよと云う医者は、偽りの友である。そして、会衆に向かって説教する中で、地獄のことを隠しておく教職者は、忠実な人間でも、愛ある人間でもない。

 神の真理の一部を隠しておくことのどこに愛があるのか? 最も親切な友人とは、私がどんな危険にさらされているかを余すところなく告げてくれる人である。悔い改めていない人、不敬虔な人に向かって未来を隠すことが何の役に立つのか? もし私たちが、「罪を犯している魂は確実に死に至る」、とあからさまに告げないとしたら、疑いもなくそれは悪魔を助けるようなものである。洗礼を受けた多くの人々の見下げ果てた軽薄さの原因が、一度も彼らに地獄のことをはっきり語った者がいなかったことにあるのでないとだれに云えよう? もしも教職者たちがもっと忠実に、必ず来る御怒りから逃れよと熱を込めて勧めるなら、何万人もの人々が回心しないとだれにわかろう? まことに私は、私たちの多くがこの件について罪を犯しているのではないかと恐れる者である。私たちの間にはびこっているのは、キリストの優しい心づかいとは異なる、病的な過敏さである。私たちはあわれみについては語ってきたが、裁きについては語ってこなかった。天国についての説教なら何度となく語ってきたが、地獄についてはほとんど説教してこなかった。私たちは、「下品で、粗野で、熱狂主義的」だと思われたくないという浅ましい恐れに鼻面を引き回されているのである。しかし私たちがきれいに忘れ果てているのは、私たちをさばくお方が主であるということ、また、キリストが教えてくださったのと同じ教理を教える人が誤っているはずがない、ということである。

 もしあなたが健康で聖書的なキリスト者になりたければ、私はあなたに懇願したい。あなたの神学の中に地獄の場所を設けてほしい。このことを心の確固たる原則として定めていただきたい。神は、あわれみの神であるばかりでなく、さばきの神でもあられ、天国の至福の基を据えたのと同じ永遠のご計画が、地獄の苦痛の基をも据えたのである、と。心の中で絶えず思いにとどめていていただきたい。赦されず、新しくされないまま死ぬすべての人は、神の御前に出るにふさわしくなく、永遠に失われなくてはならない、と。彼らは神の御前で幸福になることはできない。自分にふさわしい場所に行かなくてはならない。そしてその場所こそ地獄である。おゝ、この不信仰の今の時代に、聖書のすべてを信ずることは大いなることである。

 もしあなたが健康で聖書的なキリスト者になりたければ、私はあなたに懇願したい。地獄の実在と永遠性をあいまいにしか語らないような牧会者には警戒するがいい。そうした牧師の言葉はなめらかで、耳障りがよいかもしれないが、あなたをキリストに導いたり、信仰に堅く立たせるよりは、魂をなだめて、眠りこませてしまうものである。神の真理の一部をはぶいておきながら、全体を損なわずにいることは不可能である。神のあわれみと、天国の喜びだけを詳細に物語り、主の恐怖と地獄の苦痛については決して説き聞かせないような説教は、悲しいほど欠陥のあるものである。それは大衆の人気を博するかもしれないが、聖書的ではない。人の心を楽しませ、満足させるかもしれないが、救いはしない。神が啓示されたことを何1つ隠し立てしない説教をこそ望むべきである。あなたはそれを仮借なく、残酷だと呼ぶかもしれない。人々をおびえさせるのは、善をなす道ではないと云うかもしれない。しかし、あなたは忘れているのである。福音の大目標が人々を「必ず来る御怒りからのがれ」るよう説得することにあること、また恐怖につき動かされることもなく人が逃れようとすることなど望めないのだ、ということを。信仰を告白する多くのキリスト者にとって、彼らが今よりずっと自分の魂について恐怖を感ずるようになったら、それは益であろう。

 もしあなたが健康なキリスト者になることを望むなら、あなた自身の最期がどのようなものになるかしばしば考えるがいい。それは幸福だろうか、悲惨だろうか。義人の死だろうか、それともロトの妻のような望みなき死だろうか。あなたはいつまでも生きていることはできない。いつかは最期がやってくる。いつかは最後の説教を聴く日が来る。最後の祈りを祈る日が来る。最後の聖書の一章を読む日が来る。そのうちいつか、というひそかな思いも、願いも、希望も、志も、決意も、疑いも、ためらいも、----ついにはすべてが終わる。あなたはこの世を去って、聖なる神の前に立たなくてはならない。おゝ、あなたが賢い者であるように! おゝ、あなたが自分の後の日々のことを考えているように!

 あなたは永遠にはぐらかし続けることはできない。真剣にならなくてはならない時がやって来る。あなたは、あなたの魂の懸念を永遠に遠ざけておくことはできない。神と人生の清算をしなくてはならない日がやって来る。あなたは永遠に歌ったり踊ったり、食べたり飲んだり、衣服を着たり、読んだり、笑ったりふざけたり、計画を立てたり練ったり、金儲けに励み続けることはできない。夏の昆虫たちはいつまでも陽射しの中で楽しみ続けることはできない。いずれ寒く冷たい晩がやって来て、彼らの楽しみを永遠にやめさせることになる。あなたもそれと同じになろう。あなたは今は宗教を遠ざけ、神の遣わされた教役者の勧告を拒否していられるかもしれない。しかしそよ風の吹く頃が近づきつつある。神があなたと語り合おうとやって来られるときが来つつある。そのときあなたの最期はどうなるだろうか。ロトの妻のような望みなき最期だろうか。

 私は神のあわれみによってあなたがたに願う。この問題を真っ正面から見据えていただきたい。私はあなたに懇願する。神のあわれみを漠然と期待することで良心を抑えつけ、この世に心をへばりつかせていてはならない、と。私はあなたに乞い願いたい。神の愛についての子どもじみた夢想によって空頼みしながら、日常の所作や習慣ではあからさまに「御父を愛する愛」が自分のうちにないことを証ししているようなことがないようにしていただきたい。神のうちには川のごときあわれみがあるが、それは悔い改めてイエス・キリストを信ずる罪人のためのものなのである。神のうちには罪人に対する、言葉に尽くせぬ測り知りがたい愛があるが、それは、キリストの声を聞いて、彼に従う者に対する愛なのである。その愛の恩恵にあずかる者となることを求めるがいい。知って犯しているあらゆる罪と手を切るがいい。この世からすっぱり出て行くがいい。祈りのうちに神に向かって激しく叫ぶがいい。あなたの身を、完全に、何の留保もつけずにキリストにゆだねるがいい。あらゆる重荷を打ち捨てるがいい。どれほど愛しいものであっても、魂の救いのじゃまになるようなら、しがみついていてはならない。どれほど貴重なものであっても、あなたと天国の間に割って入るようなものなら、すべて投げやるがいい。この世という古き難破船は、あなたの足下で急速に沈みつつある。唯一必要なことは、救命艇の空席を確保し、無事に陸地にたどりつくことである。熱心に、あなたの召されたことと選ばれたこととを確かなものにするがいい。あなたの家屋や財産に何が起ころうと、天国に行けることが確実になるようにするがいい。おゝ、この世で笑い者にされ、常軌を逸していると思われる方が、会衆の真ん中から地獄に落ちて、ロトの妻のごとき末路を迎えるよりも、百万倍もまさっている!

 そして今、この論考の主題を閉じるにあたり、これを読んでいるすべての方に私はいくつかの問いを投げかけ、この主題を良心に刻み込ませていただきたい。あなたはロトの妻の物語を見てきた。----彼女の特権、彼女の罪、彼女の末路を眺めてきた。あなたは、聖霊の賜物なしにはどんな特権もむだであること、また世俗性の危険と、地獄の実在について告げられた。どうか私にその締めくくりとして、あなた自身の心にいくつか直接的な訴えをさせていただきたい。多くの光と知識と告白に満ちたこの時代にあって、私は1つの灯台を建立し、魂が難破せずにすむようにしたいと願う者である。私は、すべての霊的な航海者が進む水路に1つのブイを係留し、その上にこう塗装しておきたいと心から思う。「ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 a. あなたはキリストの再臨について無頓着に生きてはいないだろうか? 悲しいかな、多くの人がそうである。彼らはソドムの人々のように生き、ノアの時代の人々のように生活している。彼らは、食べたり飲んだり、植えたり建てたり、めとったり嫁いだりしながら、まるでキリストが決して戻ってこないかのようにふるまっている。もしあなたがそのような者のひとりであるなら、私はきょうあなたに云う。「用心せよ。ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 b. あなたのキリスト教はなまぬるく、冷え冷えしたものではないだろうか? 悲しいかな、多くの人がそうである。彼らはふたりの主人に仕えようとしている。神と富の双方の友人であろうと苦慮している。彼らは、一種の霊的なこうもりになろうと力を尽くし、どちらでもない者になろうとしている。徹底的に誠実なキリスト者でもなく、徹頭徹尾この世の人でもないというふうに。もしあなたがそのような者のひとりであるなら、私はきょうあなたに云う。「用心せよ。ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 c. あなたはどっちつかずによろめいており、この世に戻っていきたがってはいないだろうか? 悲しいかな、多くの人がそうである。彼らは十字架を恐れている。キリスト教を貫き通そうとするとき身に招く困難やそしりやあざけりを、心ひそかに嫌っている。荒野やマナには飽き飽きし、できるものならエジプトに喜んで帰りたいのである。もしあなたがそのような者のひとりであるなら、私はきょうあなたに云う。「用心せよ。ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 d. あなたはひそかに、あなたにまとわりつく何らかの罪を愛好してはいないだろうか? 悲しいかな、多くの人がそうである。彼らは、キリスト教の告白ということでは、それなりに立派である。多くの善行を行ない、神の民に非常によく似て見える。しかしそこには必ず何かお気に入りの悪習があり、自分の心から切り離せないのである。隠れた世俗性か貪欲さか情欲が、肌の皮のようにへばりついているのである。もしあなたがそのような者のひとりであるなら、私はきょうあなたに云う。「用心せよ。ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 e. あなたは些細な罪をもてあそんではいないだろうか? 悲しいかな、多くの人がそうである。彼らは福音の本質にかかわる主要教理を信じている。いかがわしい行為には全く手を染めず、神の律法からあからさまに逸脱するようなことは決してしない。しかし、ちょっとした欠点については悲しいほどに無頓着で、悲しいほど素早く云い訳を持ち出す。「ただの短気さですよ」、「ちょっとした軽薄さですよ」、「少し考えが足りなかっただけですよ」、「つい忘れていただけじゃないですか」、と彼らは云い、「神はこんな些細なことを気にしませんよ。完璧な人はいませんからね。神もそこまで要求するはずありませんよ」、と云う。もしあなたがそのような者のひとりであるなら、私はきょうあなたに云う。「用心せよ。ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 f. あなたは宗教的な特権にたよりきってはいないだろうか? 悲しいかな、多くの人がそうである。彼らは福音が毎週説教されるのを聴き、様々な特別集会に出席し、多くの恵みの手段にふれることのできる機会に恵まれていながら、よどんだような生き方を続ける。彼らは、富んでおり、豊かで、乏しいものが何もないように見えるが(黙3:17)、その実、信仰も恵みも、霊的な関心も天国に入るふさわしさもない。もしあなたがそのような者のひとりであるなら、私はきょうあなたに云う。「用心せよ。ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 g. あなたは自分の宗教的知識に頼みを置いてはいないだろうか? 悲しいかな、多くの人がそうである。彼らは他の人々のように無知ではない。真の教理と偽りの教理の違いを知っている。キリスト教について議論したり論じ合ったり、討論したり聖句を引用したりできる。しかし、そうしたすべてにもかかわらず彼らは回心しておらず、罪過と罪の中にまだ死んでいる。もしあなたがそのような者のひとりであるなら、私はきょうあなたに云う。「用心せよ。ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 h. あなたは何らかの形でキリスト教信仰を告白していながら、この世にしがみついてはいないだろうか? 悲しいかな、多くの人がそうである。彼らは人からキリスト者だと思われたがっている。真面目で堅実で、教会出席を欠かさない人だという評判を好んでいる。しかしそれにもかかわらず、彼らの衣服や趣味、交友関係や娯楽は、如実に彼らがこの世の者であることを告げている。もしあなたがそのような者のひとりであるなら、私はきょうあなたに云う。「用心せよ。ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 i. あなたは、死ぬ間際で悔い改めればいいのだと安心してはいないだろうか? 悲しいかな、多くの人がそうである。彼らは自分があるべき状態にないことは承知している。自分が新しく生まれておらず、死の備えができていないことを知っている。しかし彼らは、最後の死の病が訪れたときに、まだ悔い改めてキリストにすがりつく余裕があるだろう、赦されて聖められた者、天国に入るにふさわしい者としてこの世を出て行けるだろうと気楽に考えている。彼らが忘れているのは、人は往々にして突然に死を迎えるということ、たいていの人はそれまで生きてきた通りの状態で死んでいくということである。もしあなたがそのような者のひとりであるなら、私はきょうあなたに云う。「用心せよ。ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 j. あなたは福音派の教会に所属しているだろうか? 多くの者がそうしているが、悲しむべきことに、彼らはそれ以上一歩も先へ進まない! 彼らは日曜ごとに真理を聴きながら、石臼のように硬い心のままである。説教につぐ説教が彼らの耳に鳴り響き、悔い改めて信仰を持つがいい、キリストのもとへ行き救われるがいいとの招きを受けるが、何年経っても彼らは全く変わらない。ひいきの説教者の教えが聴ける教会の座席は常に確保していながら、自分のひいきの罪をも同じように確保しているのである。もしあなたがそのような者のひとりであるなら、私はきょうあなたに云う。「用心せよ。ロトの妻を思い出しなさい」、と。

 おゝ、主イエス・キリストのこの厳粛なことばが私たちすべての心のうちに深く刻み込まれるように! それが、まどろみがちなとき私たちを覚醒させ、死んだように感ずるとき私たちを活性化し、鈍重に感じられるとき私たちを鋭敏にし、心冷たく感じられるとき私たちを暖めてくれるように! それが私たちの後退するとき私たちを生かす拍車となり、脇道へそれようとするとき私たちを押し止める手綱となるように! それが、サタンの狡猾な誘惑が心に投げかけられるとき私たちを守る楯となり、サタンが大胆にも「キリストなど捨ててしまえ、この世に引き返して、俺様に従え」、と云うとき戦う剣となるように! おゝ、私たちがそうした試練のときには、こう云えるように! 「魂よ、お前の救い主の警告を思い出せ! 魂よ、魂よ。お前は主のことばを忘れたのか? 魂よ、魂よ! ロトの妻を思い出しなさい」、と。

思い出されるべき女[了]

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*1 「ドッド博士のことを忘れないようにしよう! 私は、彼が自宅での講義中に自分の牧する群れに向かってこう云うのをこの耳で聴いたことがある。すなわち、自分は、余儀ない事情から、彼らの魂の助けとなる方法をやめざるをえない、なぜならそのため非常な批判にさらされているからだ、と。彼はそれをやめて、世評の動向に右顧左眄し、その腐敗した性質のおもむくまま堕落していった。そして何という不名誉な死を彼はこうむったことか!」(彼は偽金作りの罪で縛り首になった)(Venn: Life and letters, p.238. Edit. 1853.)[本文に戻る]

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