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苦しみを光へ[抄訳]

「私は懲らしめを受けました。私はもう罪を犯しません。私の見ないことをあなたが私に教えてください。私が不正をしたのでしたら、もういたしません」 ヨブ34:31、32

 この世は苦しみに満ちています。「女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです」[ヨブ14:1]。「ちりの中に土台を据える泥の家に住む者はなおさらのことである。彼らはしみのようにたやすく押しつぶされ」る(ヨブ4:19)。この世は時として「涙の谷」と呼ばれます。どんな家庭にも試練は訪れるのです。神の子らも例外ではありません。むしろ、彼らにとって試みに遭うことは「必要」ですらあるのです。「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」[Iペテ4:12]。ということであれば、私たちにとって最も重要なことは、苦しみに遭う備えをすることではないでしょうか。上に挙げたヨブ記のことばから、どのようにすれば苦しみを益とかえることができるのか、またなぜそれがふさわしいことであるのかについてお話ししたいと思います。

 I. 苦しみを益とかえる3つの方法

 1. 罪を告白し、服従を学ぶこと。これは、神のなさることはすべて正しいとする思いになるとです。「私は懲らしめを受けました」。これこそ、神がイスラエルにくだした艱難のさなかにあって、ダニエルが感じた思いでした。「主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので」す(ダニ9:7、8)。「主はそのわざわいの見張りをしておられ、それを私たちの上に下しました。私たちの神、主のみわざは、すべて正しいのです。私たちが御声に聞き従わなかったからです」(ダニ9:14)。

 ここで注目したいのは、こうしたすべてのことにおいてダニエルが、自分の不義に対する罰を受け入れているということです。同じことは、ネヘミヤ書の9章33節にも見られます。「私たちに降りかかってきたすべての事において、あなたは正しかったのです。あなたは誠実をもって行なわれたのに、私たちは悪を行なったのです」。レビ記26章40節にも同じことが書かれています。「彼らは、わたしに不実なことを行ない、わたしに反抗して歩んだ自分たちの咎と先祖たちの咎を告白する」。同じく41節の中ほどにはこうあります。「そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう」。以下26章の最後まで、同じようにつづいていきます。神がここで語っておられるのは、もし彼らが自分たちの悪に対する罰を受け入れるなら、神は彼らをかえりみてくださるということです。これが苦しみを益とかえる第一の方法です。

 これは、あなたがたの多くと何と異なっていることでしょう。あなたがたは自分の不正に対する罰を受け入れません。日頃は神のことなど考えず、神などいないかのような生き方をしていながら、いざ苦しいことが起こると、神なんか!と、神に向かって怒りのこぶしを振り上げるのです。1. まず思いにおいてそうです。2. 続いて激しい言葉を発し、神をのろい出します。神は暴君だ。神が愛ならなぜこんなことをする。ひどすぎるではないか。こんな神など信じられるか、と。これこそ、黙示録の第五、第六の鉢がぶちまけられたときに人の口から発せられる言葉でしょう。これこそ地獄で聞かれる言葉でしょう。神がその御怒りを注がれるとき、人が発する呪いの言葉でしょう。そして3番目に、この神への怒りは行ないに現われます。人は言葉だけでなく、行ないでも神に逆らうのです。もし私が今ここであなたがたの心をあらいざらいさらけだして見せることができたなら、あなたがたにも見えることでしょう。自分の不平不満がいかなるものか。神に対する自分の怒りがどれほどのものか。そして私の云うことがどれほど正しいかが。

 忘れてはなりません。足ることを知ることが大切なのです。一体あなたがたに不平を云えるような権利があるでしょうか。神のお取り扱いに不服を云えるような権利があるでしょうか。国会の議事進行を自分たちに決めさせろ、などという子どもがいたとしたら、どう考えるべきでしょう。では、どうしてあなたがたが神のご支配に口出しなどできましょうか。私たちは、ヨブとともに云うべきなのです。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」、と。

 2. 苦しみを益と変える第二の方法は、へりくだって神の意図しておられるところを探り求めることです。「私の知らないことをあなたが私に教えてください」。これが、苦しみを益とする正しいやりかたです。これは、ヨブ自身がその試練を受けとめたしかたでもありました。「私は神に言おう。『私を罪ある者となさらないように。なぜ私と争われるかを、知らせてください』」(ヨブ10:2)。同じ態度は、23章3節にも見られます。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。私は御前に訴えを並べたて、ことばの限り討論したい。私は神が答えることばを知り、私に言われることが何であるかを悟りたい。神は力強く私と争われるだろうか。いや、むしろ私に心を留めてくださろう。そこでは正しい人が神と論じ合おう。そうすれば私は、とこしえにさばきを免れる」。最後まで読んでいくと、やがてヨブは、なぜ神が彼をこのように扱われたのかを知らされたことがわかります。

 ヨシュアにも同じことがありました。「ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。ヨシュアは言った。『ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。私たちは心を決めてヨルダン川の向こう側に居残ればよかったのです。ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができましょう。カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか』」(ヨシ7:6-9)。苦しみが訪れたときヨシュアは、その説明がなされるのを待ちました。これは使徒パウロにも見られた態度です。「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか」[使22:10]。しかし、みなさん。通常あなたがたの間で見られるのは、これとは全く逆の態度ではないでしょうか。神が子どもを取り去られたとき、あるいは一家の主人を病の床につかせるとき、人はなぜそうされたのかと神に問いかけるでしょうか。あなたがたは神の懲らしめを軽く見ているのです。みなさん。苦しみに遭うとき、神にその意図を問いかけないのは恐ろしいことです。

 同じことは神の子らであるキリスト者にも起こります。あなたがたは、これまで何らかの偶像を愛してきました。隠れた罪を、人の知らない情欲を楽しんできました。だから神は苦しみを送られたのです。そんなときあなたがたは神に説明を求めるでしょうか。同じことは教会にも起こります。教会員に聖さがないためです。そのようなとき神は、おそらくラオデキヤに対してなさったのと同じように、教会を苦しみに遭わせることでしょう。私たちは神に説明を求めるでしょうか。求めないのです。しかし、それこそ貧しさと乏しさにあえぐ私たちがしなくてはならないことです。

 3. 苦しみを益と変える第三の方法は、罪を捨てることです。「私はもう罪を犯しません」。「私が不正をしたのでしたら、もういたしません」。神が苦しみをお送りになる大きな目的は、あなたがたに罪を捨てさせることです。「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」(箴28:13)。それが、マナセに対する神のお取り扱いでした。またこれはすべての苦しみについて云えることでしょう。神があなたがたを苦しめるのは、あなたがたに罪を捨てさせるためです。あなたがたは神のあわれみの声に耳を傾けません。神の愛のみ声に耳を傾けません。しかし神は、あなたがたをむちで打ってでも、ご自分のもとに引き寄せようとしてくださるのです。

 しかし、苦しみにあって逆に神から離れ去る人の何と多いことでしょう。罪にとりつかれた者が苦しみにあって、ますます神から遠ざかり、ますます罪に沈みこむことの何と多いことでしょう。「エフライムは生焼けのパン菓子となる」。雷に打たれて、葉をみな落としたあげく野ざらしになっている老木、あなたがたの中にはそのような人々がいます。あなたがたの家族の中にもそういう人々がたくさんいます。あなたがたに云います。もしあわれみによっても、さばきによっても、立ち返ることがなければ、神はあなたがたをお捨てになるしかありません。

 II. 苦しみの理由を神に問うことがなぜふさわしいのか

 1. なぜなら、あなたがたを取り扱っておられるのは神だからです。あなたの家族に対するこの苦しみ、あなたに対するこの苦しみ、それは神から来たものです。「神に身をこわくして、だれがそのままで済むだろうか」[ヨブ9:4]。

 2. また、それがあなたがたの苦しみにおける神の目的だからです。神のご目的は、救われていない者を救い、ご自分の子らを聖めることです。私は信じています。日差しがあなたがたの家に射し込むごとに、それはあなたがたを神のもとへ立ち戻らせるためのものであると。苦しみもまた同じであり、あなたがたを神に立ち返らせるためのものなのです。また、もしあなたがたが神の子であるというのであれば、あなたにふりかかる苦しみはみな、あなたが後生だいじにかかえこんでいる偶像を捨てさせ、神に立ち返らせるためのものなのです。

 3. 最後の理由は、神はあなたを滅ぼすことがおできになるからです。少し考えれば当然のことではないでしょうか。自由に苦しみを引き起こすことがおできになるようなお方は、最終的に滅びをもたらすこともおできになるはずです。あなたの肉体に火を投じ、発熱させて苦しめることをなさるお方は、また、地獄に火を投じて、あなたのためにその炎を燃え上がらせておられるお方でもあるのです。

[了]

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