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来たるべき永遠の刑罰[抄訳]

「そこでは、彼らを食らううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」----マルコ9:48

 聖書を読むとき非常に興味深く思われるのは、どのような人物が地獄について語っているかということです。ある人々は、地獄について語るのは福音説教ではないと考えます。また別の人々は、無教養な人間には地獄について語る資格がないといいます。確かにこれは厳粛な主題であり、あだやおろそかに語ることはできません。しかし、これが福音説教でないという人々に対して私が云いたいのは、これは真理である、----神のみことばである、ということです。またこれについて語るのは正しくないという人々に注目してほしいのは、これについてだれが一番多く語っているかということです。

 I. まず考えたいのは、聖書の中で地獄について語っているのはだれかということですが、最初に名前があがるのはダビデです。ダビデは神の心にかなう者と呼ばれた人ですが、それでも地獄について語っています。詩篇の作者であり、数々の麗しいイスラエルの詩篇を作詩したダビデ、それにもかかわらず彼は地獄について何と語っているでしょうか。「よみの綱は私を取り囲み」(詩18:5 <英欽定訳>)。また、「死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い」(詩116:3)。また彼は地獄からの解放をどのように歌っているでしょう。「あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです」(詩86:13)。そして彼は、キリストを受け入れようとしない不敬虔な者らの運命についてもこう告げています。「悪者どもは、よみに帰って行く。神を忘れたあらゆる国々も」(詩9:17)。「主は、悪者の上に網を張る。火と硫黄、燃える風が彼らの杯への分け前となろう」(詩11:6)。「死が、彼らをつかめばよい。彼らが生きたまま、よみに下るがよい」(詩55:15)。さて地獄について口にすることが適当かどうか、どうあなたがたが判断するにせよ、ダビデにとってそれは悪いことではありませんでした。彼は地獄について歌っているからです。

 二番目に取り上げたい人物はパウロです。彼はキリストの愛に満たされ、罪人に対する愛にあふれた人でした。疑いもなく、神がイエスを愛された愛はパウロのうちにも宿っていました。彼は自分の敵をも愛す人物でした。アグリッパの前に立ったとき、彼がどのような思いをいだいていたことでしょう。「私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです」(使26:29)。彼は、自分を迫害し、反対する者たちにさえ、自分と同じ愛----同じ喜び----同じ平安----同じ栄光の望みが与えられることを願っていたのです。パウロは一度も地獄という言葉を使ってはいません。それだけ見ると、あたかもそんなにひどい言葉は口にしないでいたかったかのように見えます。しかし彼は何と云っているでしょうか。「もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか」(ロマ9:22)。「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです」(ピリ3:18-19)。「人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります」(Iテサ5:3)。「そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです」(IIテサ1:7-9)。

 兄弟姉妹のみなさん。こうした言葉を見るかぎり、人々に対する愛を豊かに持っている人ほど、地獄について多く語っているのではないでしょうか。

 次にあげたい人物は、あの主に愛された弟子ヨハネです。彼は最後の晩餐のとき主の胸にあたまをもたせかけ、主のみむねからあふれるような愛を受け取った人です。彼は愛にあふれた性格の持ち主でした。彼の残した手紙がどれほど愛情深く書き記されているか見てみてください。彼は読者たちに、「愛する者たち」、「子どもたちよ」と呼びかけています。それにもかかわらず彼は地獄について語っています。地獄のことを七度も「底知れぬ所」、----すなわち罪人が永遠にわたって沈んでいく底無しの穴と呼んでいます。また地獄を「神の激しい怒りの酒ぶね」と呼びます(黙14:19)。さらに地獄を「火の池」という名でも呼んでいます(黙20:14)。地獄が「地獄」と呼ばれるのはよくあることです。しかし、主に愛された弟子ヨハネだけがそれを「火の池」と呼んでいるのです。

 次にあげたいのは主イエスご自身です。主は神のみもとから来られたお方であり、「神は愛」であられ、また主が来られたのは、火から燃えさしを取り出して救うためであったにもかかわらず、主は地獄について語っておられます。主イエスほど慰めに満ちたことば、いたわりに満ちたことばを語られたお方はなかったにもかかわらず、----また「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え」られたにもかかわらず[イザ50:4]、----またあの人が話すように話した人は、いまだかつてありませんでしたとされたにもかかわらず[ヨハ7:46]、----主は地獄についてお語りになりました。主は云われます。「兄弟に向かって……『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタ5:22)。しかし、主のみ口から出たことばのうちで最も恐ろしいのはこのことばであると思います。「おまえたち蛇ども。まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう」(マタ23:33)。また、「のろわれた者ども。わたしから離れて、……永遠の火にはいれ」(マタ25:41)。さらに主はそのたとえ話の中でも地獄について語っておられます。「御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです」(マタ13:49、50)。そして主は私たちが冒頭であげた聖句をも繰り返し語っておられます。このマルコのことばほどあからさまなものがあるでしょうか。「信じない者は地獄に落ちます」[マコ16:16 <英欽定訳>]。

 II. それでは、なぜこうした人々が、これほどどぎつく地獄について語っているのか考えて見ましょう。

 1. なぜならそれは本当のことだからです。キリストは誠実で、偽りのない証人であられます。かつて主はこう云われました。「もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう」[ヨハ14:2]。また主はピラトにこう語られました。「真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」[ヨハ18:37]。主ご自身が「真理」であられました。「神は……偽ることができません」[へブ6:18]。主イエスは地上に下られたとき愛をたずさえて来られました。主が来られたのは罪人に地獄のことを教え、彼らを地獄から救う救い主のことを教えるためでした。ということであれば、どうして主が地獄について口をつぐんでいられたでしょう。主は地獄の淵を深々とのぞきこまれました。どうしてそれを語らずにおられたでしょう。ダビデやパウロやヨハネも同じです。パウロは云います。自分はすべてのことを少しもためらわず知らせてきた、----神のご計画の全体を余すところなく知らせておいた、と[使20:10、27]。さて、もし彼が地獄について口をぬぐって何も云わないでいたとしたら、どうしてそのようなことが云えたでしょう。どんな教会の牧師であっても事はかわりません。もし私がこれから二度と地獄について説教しないとしても、その分地獄の住み心地がましになるとでもいえるでしょうか? いいえ。地獄はおとぎ話でも妄想でもありません。現実のものです。本当にあるのです。事実存在するのです。ですから私たちは語らずにすますことはできません。

 2. 第二に、彼らが罪人に対する愛にあふれていたからです。真の友は人にお追従を言う輩ではありません。ご承知の通り、キリストの胸には愛があふれれていました。愛ゆえに、主は頭に枕するところもない生活を選ばれました。愛ゆえに主は地上に下り、死んでくださいました。愛ゆえに、主は涙しながらこう云われました。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」(マタ23:37)。それと同時に主は云われました。「おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう」。パウロも同じです。「こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです」(IIコリ5:11)。パウロは罪人らのため涙を流すことのできる人物でした。「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです」(ピリ3:18)。彼は涙をしたたらせながら手紙を書いていたのです。そうです。私たちは人を愛すれば愛するだけ、地獄について多くを語らなくてはならないでしょう。そのままでは地獄におちて罪の人生の当然の報いを受けるしかない人々に警告を発さないような人は愛の人ではありません。そんな人は相手を愛してはいません。自分を愛しているだけなのです。厳しい真実を告げて相手を怒らせることを恐れているだけなのです。自分が傷つきたくないだけなのです。ですから忘れないようにしましょう。真実の愛は警告を発するものだということを。

 3. 第三に、なぜ彼らがこれほどあからさまに地獄について語ったかというと、それは自分に血のとがめが負わされないためです。イエスは、人々の血の責任がご自分に帰されることをお望みになりませんでした。だからこそ、「消えることのない火」や「尽きることのないうじ」について語られたのです。主は語っておられます。「あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」。神も罪人の血のとががご自分に帰されることをお望みにはなりませんでした。「わたしは誓って言う。--神である主の御告げ。--わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」[エゼ33:11]。ダビデも同様です。「血の罪から私を救い出してください」(詩51:14)。ダビデがこれほどあからさまに語っているのは、血の罪ゆえの恐れのためでした。パウロも同じです。「私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちの血について責任がありません」(使20:26 <新改訳聖書欄外訳参照>)。どんな教会の牧師であっても同じです。私たちは自分の良心に責めを負わないようにしなくてはなりません。そしてもしあなたがたが、赦されることも、救われることもないまま神の審きの座に出るとしたら、あなたがたの血の責任はあなたがた自身に帰されるのです。昨日私は外を歩いていたとき、その考えが圧倒的な力をもって迫ってくるのを感じました。私の説教を聞いたあらゆる人が、やがて神の審きの座に出て、天国へ行くか地獄に行くかが決まるのだ、と。ですからみなさん、私はあなたがたに警告しないではいられませんし、地獄について語らずにはいられません。

 III. 次に神のみことばの中で、地獄を示すものとされている呼び名について考えましょう。最初の呼び名は「火」です。それは私たちの理解力に合わせて地上的な要素からとられた名前です。そのようにキリストは、私たちの理解力に合わせた名をご自分のものとして教えてくださいました。それは羊飼い、門、岩、ぶどうの木、シャロンのばら、などです。そのように神は天国について語られるときに、それをパラダイス、堅い基礎の上に建てられた都、透き通ったガラスのような純金の大通り、真珠でできた門、と語っておられます。さてこうした呼び名のどれ1つとして、それだけで天国のすべてを描写しつくすことはできません。なぜなら、目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそのようであるからです。それと同じように神は、地獄について語られるときには、それを「火の炉」「底知れぬ所」「滅び」などとお呼びになるのです。さて、こうした呼び名の1つだけでは、役に立ちません。しかしこれらすべてを一緒に考えてはじめて、地獄がどのようなものかおぼろげに思い描くことができるのです。

 地獄に与えられている最初の名前は「火」です。シオンの山の南側には葡萄の木で覆われた谷間があります。それはマナセが自分の子どもらを火あぶりにしてモレクにささげたヒンノムの谷です。さて、キリストはこの谷を称して云われました。「火の谷」、と。また「火の燃える炉」と[マタ13:42]。壁は炎、上も下も炎、どこを見ても回り中が炎なのです。また、それは火の池とも呼ばれています[黙19:20]。これは火の炉とも似たものです。それは、黄銅色に燃え上がる山並みに取り囲まれています。その表面を吹き抜ける風は一陣もありません。永遠に限りなく炎、ただ炎が燃えさかるのです。それは「焼き尽くす火」と呼ばれます。「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう」(イザ33:14)。これとへブル書12:29をくらべてみましょう。----「私たちの神は焼き尽くす火です」。すべてを焼失させるのは火の性質であり、地獄の火もそれと同じです。しかし、この火は決して堕ちてきた者たちを消滅させることがないのです。おゝ! それは、決して消えることのない火です。轟々と燃え上がる火山でさえ、いつかは業火を吹き出さなくなり、岩も鉄も燃え溶かすその火も消えることでしょう。しかし地獄の火は決して消えないのです。

 神のみことばの中で地獄に与えられているもう1つの名前は「牢獄」です。それで私たちは、大洪水の時に滅びた大勢の人々がこの牢獄の中に閉じこめられていることを教えられるのです[Iペテ3:19]。あゝ! 罪人よ、もしあなたがここに閉じこめられたなら、最後の1コドラントを支払うまで、そこから出てくることはできません。そして、そのようなことができる人はいません。なぜなら、その格子は神の正義と聖さであるからです。

 地獄に与えられているもう1つの名前は「穴」です。それは底知れぬ所です[黙20:1]。そこに落ちた者は永遠にいつまでも沈みつづけます。それは日ごとに深く深く沈み続け、やむことがない状態です。おゝ、罪人よ。今こそ神に立ち返り、こう叫ぶときではないでしょうか。「私を泥沼から救いだし、私が沈まないようにしてください」。----「深い淵は私をのみこまず、穴がその口を私の上で閉じないようにしてください」[詩69:14、15]、と。

 聖書の中で地獄に与えられている別の名前は、「神の手の中に陥ること」です。「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです」(へブ10:31)。「わたしがおまえを罰する日に、おまえの心は耐えられようか。お前の手は強くありえようか」(エゼ22:14)。罪人よ。神はあなたがたの不倶戴天の敵となられます。罪人が死ぬことに喜びを覚えず、むしろ彼が生きることを望まれる神ですが、もしあなたがキリストなしに死ぬとしたら----もし信じずに死ぬとしたら----もし救われずに死ぬとしたら、神はあなたの永遠の敵となられます。おゝ、神が怒りを燃やされるとき、あなたはどうしようというのでしょうか。

 地獄に与えられた別の名前は、「第二の死」です。「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である」(黙22:14)。これがアダムへの神の警告の意味です。「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」。これが第一の死です。みなさんは、死にゆく人の枕頭に立ったことがあるでしょうか。あえぎながら空気を求める口元を見つめ----歯をくいしばり----夜具をにぎりしめる姿を見たことがあるでしょうか。----その、しだいに息づかいが乏しくなり、最後には息絶えていく姿を。これは第二の死に似ています。おゝ、その人は何とか死を押し止めようとします、しかしその努力はむなしいのです。永遠の死にのみこまれるのを感じ、神がその人を取り扱われるのを感じ、陰惨な暗黒の絶望の中に沈み込んでいくのです。これこそ、罪あるまま死ぬ人が味わなくてはならない死です。そして、決して終わることのない死なのです。

 地獄に与えられているもう1つの名前は、「外の暗やみ」です。キリストは地獄を「外の暗やみ」と呼びました。「しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され……るのです」(マタ8:12)。「あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ」(マタ22:13)。IIペテロ2:4にも同じことが書いてあります。----「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました」。またユダ13節も同じです。----「さまよう星です。まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています」。おゝ、愛するみなさん。これこそ地獄です。「まっ暗なやみ」。----「外の暗やみ」。----「暗やみの穴の中」。

 IV. さて次に私が示したいのは、聖書で語られている地獄が存在の消滅ではないということです。ある人々は、たとえ自分たちは救われないとしても、死ねば自分の存在は消滅するのだと考えています。これは嘘です。そのことを、これから考えていきましょう。

 1. まず第一に、地獄に堕ちた人々の泣き叫ぶ声について考えてみてください。「彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。……私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』」(ルカ16:24)。また、マタ22:13の言葉を見てください。「そこで泣いて歯ぎしりするのだ」。おゝ、こうした言葉は明らかに、地獄とは存在の消滅ではないことを示しています。地獄では救われずに死んだ大群衆が束ねられて、大いなる収穫の日を待つことになります。「まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい」(マタ13:30)。そこには神をあざけってきた者らの束があるでしょう。----安息日を破ってきた者らの束----酩酊する者らの束----偽善者らの束----親どもの束、子らの束があるでしょう。彼らはそれぞれ互いの断罪のための証人となることでしょう。

 2. 地獄が存在の消滅ではないということは、刑罰に程度があるということからもわかります。「そのツロとシドンのほうが、……さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ」(マタ11:22)。また、パリサイ人らは「人一倍ひどい罰」を受けるとも語られています[マタ23:14]。すべての人は、自分の犯してきた行ないの程度に応じてさばかれるのです。

 3. 地獄が存在の消滅でないということは、ユダの運命について考えてもわかります。「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」(マタ26:24)。ユダは今、生まれてなどこなければよかったと願っているのです。彼は今、死にたいと考えているに違いありません。しかし未来永劫に死ぬことはできません。地獄に堕ちるすべての人がそう考えるでしょう。おゝ、そうです。もしもキリストによって救われずに死ぬとすれば、たとえ教会に通っていようが、親兄弟がキリスト者であろうが、その人は生まれてこなければよかった----緑の大地や青い空を見たことがなければよかったと思うはずです。おゝ、愛するみなさん。地獄に堕ちるよりは、全然人生を味わない方がましなのです。おゝ、今このときも地獄には、自分の生まれた日を呪っている大勢の人がいるのです。

 4. 地獄が存在の消滅でないのは、それが永遠の地獄だからです。一部の弱くて愚かな人々は、自分の空想心のおもむくままに、地獄も燃え尽きてしまうとか、自分の倦んだ魂を洗う場所へ行くことができると考えています。つまりそれは、地獄と折り合いをつけようというわけです。しかし、もし地獄に堕ちた人々の魂とからだを苦しめる炎が消えるときがあるとすれば、イエスは嘘つきだったことになります。なぜなら主はここにあげた聖句ではっきり云っておられるからです。その火は消えることがない、と。

 それは永遠のものです。なぜならそれは永遠を指し示すこと以外に決して使われていない言葉で形容されているからです。「そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る」(黙14:11)。その煙は永遠にまで消え去ることがないのです。

 また、「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける」(黙20:16)。これを黙4:9、10とくらべてみましょう。「また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき」云々。ですから、地獄に堕ちた人々の苦しみは、神の永遠とともに語られているのです。ということは、もしも神が生きることをやめるようなことがあるとすれば、彼らの苦しみもやむことがあるかもしれません。また、地獄の永遠と天国の永遠は、全く同一の言葉で語られています。「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である」(黙22:5)。聖徒たちの永遠に使われているのと同じ言葉が、地獄に堕ちた者たちの永遠にも使われています。「彼らは永遠に苦しみを受ける」。ということは、天国に上った聖徒たちがその玉座から転げ落ちたり、彼らの不滅の王冠がそのかしらから落ちたりするようなことがあるとすれば、罪人が地獄から逃れることもあるかもしれません。しかし、それは決して決してありえないことです。----それは永遠の地獄、「永遠にまで」続く地獄だからです。

 永遠とは決して終わることのない御怒りであり、永遠に来たるべき御怒りです。おゝ、知恵ある者として、このことを理解し、自分の行く末をさとる人が多く起こされますように。

 V. さて、地獄について学んできた私たちは、これらすべてをどう適用すればよいでしょうか。

 1. まず最初に、すでに信仰を持っている方に申し上げます。愛するみなさん。これまで私が語ってきた地獄のすべては、あなたが、私が、落ちて当然の場所でした。私たちは、火の池の上に宙づりになっていました。そこから主は私たちを救ってくださったのです。主はあなたや私のため「牢獄」に入ってくださいました。----あなたや私に対する神の御怒りの杯をきわみまで飲み干してくださいました。----正しい方であられたのに、正しくない者のため死んでくださいました。おゝ、主が私たちのためになされたことのために、私たちはどれほど主をたたえ、愛し、崇めなくてはならないことでしょう。おゝ、私たちは死の河を越えて御国に着くそのときまで、決して決して、私たちのため地獄を忍ばれた御苦しみがどれほどのものか、----私たちの不義がどれほどの犠牲によって赦されたのか、はかり知ることはないでしょう。しかし、おゝ愛するみなさん。ぜひとも地獄のことを考え続けてください。あなたには、御怒りの日のため神の怒りを積み上げつつある未信者の友がひとりもいないでしょうか? まことの神に祈ることを知らない親や兄弟や姉妹が、ひとりもおられないというのでしょうか? そうした方々に対するあわれみの心はないのでしょうか? その方々に向かって、地獄について警告するあわれみの声を、あなたは一度も発さないつもりなのでしょうか?

 2. 次に、現在、懸命にキリストを求めておられる方に申し上げます。私が個人的に知っている方もおられますが。みなさん、この燃える炉の中から逃れるようにと、みなさんの魂を覚醒させてくださった神のあわれみの何という深さでしょう。おゝ、魂の滅びから逃れたいという真剣な思いを与えるとは、何というあわれみでしょう。確かに、あなたの友人がたは、案ずることなど何もない、と云うでしょう。おゝ、来たるべき御怒りから逃れる心配などしなくていいというのですか? おゝ、愛するみなさん。知ってください。キリストがどれほど尊いお方かを。キリストこそ来たるべき暴風からの隠れ場、嵐からの避難所です。この世のものはみな一片のごみのようなものです。キリストにくらべれば一切は損です。キリストこそ、すべてのすべてです。----そのキリストがあなたに無条件で差し出されているのです。----みなさん、キリストはわがものと云えるときがくるまで、決して気をゆるめずに懸命に求め続けていきなさい。

 3. 最後に、キリスト教を信ずるつもりのない方に申し上げます。あなたは馬鹿です。なのに賢いつもりでおられる。しかし、私はぜひともお願いしたい。聖書を調べてみなさい。永遠の地獄について私が云うことなど信じなくてもよいでしょう。しかし聖書が永遠の地獄について語るのは神の証言なのです。おゝ、もしそれが真実だとしたら、----この世の終わりに火の池が存在するとしたら、----第二の死があるとしたら、----それが魂の消滅でなく永遠の地獄だとしたら、おゝ、罪の中を生き続けることがどれだけ賢明なことでしょうか。あなたは自分が賢いと思っています。----自分は狂信者ではない、----偽善者ではない、と思っています。しかし、やがてあなたは苦悶の中で歯ぎしりすることになるのです。それは必ずやってきます。そのとき、あなたを最も苦しめる苦い思いは、自分は地獄について聞かされていた、なのにキリスト教を拒んでしまった、という記憶でしょう。おゝ、ですから、立ち返りなさい。立ち返りなさい。なぜむざむざ死のうとするのですか。

[了]

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