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キリストはともにおられる[抄訳]

「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか」 ヨハネ14:9

 キリストは3年の間、昼夜をわかたず弟子たちとともにおられました。彼らはキリストのあらゆる姿----水上を歩く姿、大群衆に食を給わる姿、死人をよみがえらされる姿を目の当たりにしてきました。あらゆるおことば----会堂で発されたおことば、神殿でのおことば、野でのおことばを耳にしてきました。主は彼らを乳で養い、堅い肉はお与えになりませんでした。彼らの耐えうる限度を超えた教えはなさいませんでした。それにもかかわらず驚くべきは、いかに彼らがキリストの栄光と偉大さについて盲目であったかということです。彼らは愚かで、心にぶく、主に関してなされたすべての預言、主がご自分について語られたすべてのおことばをなかなか信じられませんでした。

 これは主イエスが彼らとともに過ごされる最後の晩でした。主の心は世のものならぬいつくしみであふれていました。しかし主の聖なる心が慈愛といつくしみにあふれればあふれるほど、弟子たちの心は鈍重さと愚かさで満たされていくようでした。「ピリポはイエスに言った。『主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します』。イエスは彼に言われた。『ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか』」。

 2つのことが、このお答えを際立って優しいものとしています。

 1. 主はピリポに、いままで主が彼とともにおられたことを思い出させておられます。主は御父と対等の、神のふところにおられた方でした。なのに彼らのところに来て、彼らとともに住んでくださいました。ご自分をあがめ、礼拝する御使いたちの群れを捨てて、彼らとともに過ごしてくださいました。栄光の王が虫けらどもとともにいてくださったのです。天国から彼らを見下ろしてほほ笑んでくださるだけでも素晴らしいことだったでしょう。しかし主は云われるのです。「わたしはあなたがたとともにいたのだ。道端でも泉のそばでも、湖上でも荒野でも、あなたがたとともにいたのだ。わたしはあなたがたの長兄としてそこにいた。それなのに、あなたはわたしを知らなかったのか」と。

 2. 主は、ご自分が彼らと長い間ともにおられたことも思い出させておられます。「こんなに長い間」と。神の御子が地上を訪れたのがほんの一瞬だったとしても、何と素晴らしいことでしょう。しかし御子は何年もそうされたのです。3年もの間、主は彼らと行をともにされました。主は彼らを教えました。聖書を開かれました。祈りを教えてくださいました。幼い弟たちを導く長兄のようにずっと導かれました。あらゆることを説き明かしたいと願いつつ導いてこられました。何と深いいつくしみが、この「こんなに長い間あなたがたといっしょにいる」とのおことばにはこめられていることでしょう。

 ここから教えられるのは、主キリストは、ご自分が長い間いっしょに過ごしておられる魂には、ご自分のことを知ってほしいと願っておられるということです。

I. まずキリスト者について語りましょう。

 1. キリストは信ずる者とともにおられる

 主はキリスト者である私たちにも、「わたしはあなたとともにいたのだよ」と云っておられます。

 初めて信じたあのときに、恐れと悲しみと苛立ちに波立っていた魂に深い安らぎを与えてくださった方、それがキリストではなかったでしょうか。

 あるいは誰にもわかってもらえない孤独の道を歩んでいたあのとき、優しく手をさしのべ力づけてくださった方、それがキリストではなかったでしょうか。

 また私たちが激しい戦いにあえいでいたあのとき、燃えさかる炎の中でそばについていてくださった方はキリストではなかったでしょうか。苦しみの日に主は「わたしはあなたとともにいる」、「わたしはあなたを捨てて孤児とはしない」と語ってくださったではないでしょうか。

 そしてキリストは祈りの輪の中におられたではないでしょうか。「二人でも三人でもわたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」と語ってくださった方は、私たちの涙も叫びも、ため息一つさえ聞きもらさず、この貧しい祈りを御父のもとにとりなしておられるではないでしょうか。

 このようにキリストは、私たちが信じたそのときからずっとともにおられました。幼くして信じた者には、心身が成長し、成人し、社会に旅立ってから今に至るまでともにおられました。ごく最近に信じた人でも、キリストとともに一日をすごす栄誉と祝福は他のどんなことをしていた日々より重い意味を持つはずです。「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります」[詩84:10]。

 2. キリストはご自分を知ることの薄い者を叱責しておられる

 ですから主は、「ピリポ。あなたはわたしを知らなかったのですか」と叱責しておられるのです。弟子たちは、頭ではキリストのことを知っていると思い込んでいました。しかし心の底からキリストを信じてはいませんでした。今の私たちも同じではないでしょうか。キリストについての事実はたくさん知っている。しかし、心底からキリストを信じている人の何と少ないことでしょう。キリスト者でありながら、キリストをよく知らないという人には次のようなしるしがあります。

 (1) そういう人には本当の幸福感がありません。キリストはすべての罪を赦すことがおできになります。それを信じることができず、重苦しい悲しみの心をいだいて生きている人はいないでしょうか。この十字架にかけられた救い主の上に、神の怒りはことごとく注がれたのです。ですから今も赦しの実感なく歩んでいる者は、確かにキリストを知らない者というべきです。

 (2) そういう人は神との交わりが非常に希薄です。日差しの中に立てば陽光の暖かさが身にしみるように、キリストのうちにある人は、神の愛の暖かさを身に感じて生きているはずです。信じた者は「神の民」です。神がひとみのように守り、手のひらに名を刻んでおられる者たちです。私たちは神の牧場の羊、みつばさの陰におおわれるひな、キリストの裂かれたみからだという幕をくぐりぬけて大胆に恵みの御座に近づくことのできる者、たとえ女が乳飲み子を忘れるようなことがあろうと決して神から忘れられることはなく、しらがになっても赤子のように神に背負われていく存在のはずです。それを感じていないという人は、確かにキリストから「こんなに長い間いっしょにいるのに、わたしを知らなかったのですか」と云われるべき者です。

 (3) そういう人には聖さがほとんどありません。キリストは天と地とその中にあるすべてを支配する権威をにぎっておられます。信ずる者たちひとりひとりのため日夜御父にとりなしの祈りをささげておられます。そして定められた時に目に見える形で地上に再臨なさいます。このようなことをキリスト者は信じ、予期しているはずです。そう考えると、キリスト者がどれほど聖い人格と生活と敬虔さの伴う者でなくてはならないかはわかりきっています。なのに今のキリスト者たちのていたらくはどうでしょうか。

 キリスト者のような顔をしながら、財布の紐は決してキリストにゆだねようとしない者の何と多いことでしょう。自分の稼いだ金だ、どう使おうと勝手だとばかりに、広い家や最新式の家財、旅行や趣味や娯楽のために多額の金銭を費やし、人生を「楽しむ」ことが主たる目的であるかのように生きる。逆に、キリストのための事業や伝道や奉仕が至る所で資金難にあえいでいることを聞きながら、そのためには雀の涙ほどのお金しか(あるいは一銭も)出そうとしない。

 またキリスト者のような顔をしながら、心の中に恨み・ねたみ・そねみ・憤り・叫びの渦巻いている者の何と多いことでしょう。自分の非は認めず、受けた仕打ちは決して忘れず、絶対に赦さない。いつまでもどろどろとした怨恨にとりつかれて生きている。

 さらに世と全く同じような欲望に動かされて生きるキリスト者の何と多いことでしょう。この世と同じ飽食と好色、淫行や不品行、酩酊や遊興、盗み、みだらで下品な冗談、がむしゃらな出世競争、党派心や派閥抗争、仲間外し、いじめ、無慈悲、賭事や博打、無軌道で節制のない生活習慣、仲間のキリスト者の目の届かない所でしていること、口にしていることを見聞きするときに、どうしてその人がイエスとともにいたのだと、あるいはイエスがその人とともにいたのだと想像できましょうか。

 それでは決意しようではありませんか。キリストを知ることの少ない自分と今ここで決別し、今年中にキリストとのより深い交わりに至るよう力を尽くそうと。キリストは今も私たちとともにおられますす。来年という年はないかもしれません。ほんの少しすると、この世でキリストと交わりをもつことができなくなるかもしれません。キリストとともに生きる日々が、もう数日しか残っていないということもありえます。私たちの中には、定められた恵みの日々がほとんど終わりに近づいている人もいるでしょう。私たちのうちの多くは来年いっぱいこの世にいるかどうかもわからないはずです。ですから、光のあるうちに光のうちを歩こうではありませんか。キリストを知ることです。そうすればキリストに似た者となることができるのです。

II. つづいて魂が目覚めつつある方々についてお話ししましょう。

 1.キリストは目覚めつつある魂とともにおられます。

 (1) その魂を目覚めさせたのはキリストです。自分の魂の状態を、ひとりでに思い悩むようになる人はいません。私たちはみな生まれつき霊的に眠っている者です。自分の魂がどのような状態にあるか考えることなどありません。自分が神の前に失われた者であること、神から離れ、いのちを持たず、罪に鼻づらを引き回され、悪魔と罪の奴隷となって生きているなどとは夢にも思いません。それがなぜ、ある日、自分がこれでいいのかと悩むようになるのでしょうか。人生の目的を知らず、正しい生活のできない自分に絶望し、自分の罪を悲しみ、神を求め、救いを求め、解放を求めるようになるのでしょうか。眠っていた状態からなぜこのように覚醒するのでしょうか。

 それは魂に働きかけるキリストのみわざにほかなりません。森に落雷があったあと、木々が切り裂かれ、地面に倒れているのを見るとき私たちは、「これは雷のしわざだ」と云うでしょう。同じように、ある人が自分の魂の絶望的な状態を思って心裂かれ、うちひしがれているのを見るとき私たちは、「これはキリストのみわざだ」と云うのです。みなさんの中には、魂が目覚めつつある方がおられるでしょうか。キリストはあなたとともにおられたのです。キリストはあなたが自分の罪と愚かさの中にいるのをごらんになりました。キリストはあなたをあわれみ、あなたに近づき、あなたの心にふれて、あなたが自分の失われた状態に気づくようにされ、自分の救い主としてキリストを探し求めるようになさったのです。キリストがあなたとともにおられたことに疑いはありません。

 (2) キリストは目覚めつつある魂を追い求めておられるので、そうした魂とともにおられます。いなくなった羊を山に探しにいった羊飼いが何よりもまず探し求めるのは、傷ついて血を流し、谷間で物悲しくめーめー鳴いている羊のはずです。彼は傷ついた羊をやさしく抱きかかえます。良い医者は病院に行ったとき、まっさきに一番重症の患者のもとに駆けつけるはずです。苦痛にあえぎ、うめいている患者の病床にまず赴くはずです。彼はそうした患者にまず心を傾けます。そのように、キリストは血を流し、うめきつつある魂を、ことさらな配慮をもって追い求めておられます。キリストは云われます。「主は心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。主は、私に教えを受けた者の舌を与え、疲れた者をことばではげますことを教えられる」[イザ61:1; 50:4]。あなたの魂は目覚めつつあるでしょうか。もしそうなら、確かにキリストはあなたとともにおられ、あなたをやさしく抱きかかえようとしておられます。

 2. キリストはしばしば目覚めつつある魂と長い間ともにおられます。

 人によっては、救われるまでに長い間、罪意識の重圧を感じつづけなくてはならない人がいます。それが何箇月も、あるいは何年も続く場合さえあります。今年、この教会で多くの人が魂の覚醒を経験したことはまちがいありません。さてキリストは、そうした魂とずっと長い間ともにおられたのです。キリストは一日中ドアの前に立ちつくしておられます。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた」[ロマ10:21]。夜が来てもなお立って待っておられます。「私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている」[雅5:2]。お聞きのみなさんの中に魂が目覚めつつある方がおられるでしょうか。キリストはあなたとずっと長いこと一緒におられたのです。聖書がキリストの証言をしてきました。昼も夜も聖書はあなたとともにありました。教会では牧師たちがイエス・キリストのことを教えてくれました。牧師たちは忍耐強くあなたの歩みを見守り、目覚めのときを待っていました。そしてキリストご自身があなたに手を差し伸べておられました。金持ちの門前に立つどんな乞食にもまさって、キリストはあなたの心のドアの前に立って扉が開くのをずっと待っておられたのです。

 3. それでもなお多くの人々はキリストを知っていません。

 それほど長い間キリストがともにおられたにもかかわらず知りません。キリストを知ることは永遠のいのちです。キリストを見上げさえすれば、今感じているすべての苦痛はいやされるというのに人は見上げようとしません。みなさんの中には、そんな状態の方がおられるでしょう。それがあなたの罪であり、みじめさです。キリストはずっとあなたの心の戸の前に立ち、ノックしておられました。戸を開けさえすれば、あなたは血を流す救い主に出会えたでしょう。あなたのため身を張って義をかちとられた方を目にしたでしょう。そして重荷をおろしてもらえたでしょう。しかしあなたは戸を開けようとはしませんでした。キリストは立って叫ばれました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」。あなたは焼けつくような魂の渇きにもかかわらず、キリストのもとに行って飲もうとはしません。キリストは叫ばれました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。あなたは心を押しつぶすような魂の重荷にもかかわらず、キリストのもとでいのちを得ようとはしませんでした。キリストは叫ばれました。「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがありません」。あなたはキリストとこの世の間をふらふら行き来しています。自分のみじめさは百も承知していながら、この世にしがみついていはす。いつまでそんな状態を続けるのですか。「こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。かわいそうな、不安にみちた魂よ」。覚えておきなさい。世の中には恐れ悩みながら生き、恐れ悩みながら死ぬ人があります。キリストと長い間ともにいながら、キリストを知らなかったというなら、地獄の重みが増し加わるだけです。今キリストに向き合いなさい。新しい年が明ける前にイエスを知るようにしなさい。

III. 魂の目覚めていない人についても語りましょう。

 1. キリストはそうした人々とも、ともにおられます。ある意味で、キリストは彼らとともにはおられません。彼らは世にあってはキリストもなく、神もない者たちです。しかし別の意味では、キリストは彼らとともにおられます。「わたしは、あなたの行ないを知っている」。

 (1) キリストは神の家の中で彼らとともにおられます。私にとって驚きなのは、キリストが神なき人々をなぜこれほど多く教会のに導いてくださるかということです。私には説明がつきません。かつては大群衆がイエスにつき従っていました。今もキリストに心ひかれる多くの人々がいます。みなさんはどうして教会に来るようになったのでしょう。それはキリストの導きの恵みです。そこにキリストはともにおられたのです。キリストはその宝のかぎをひらき、云っておられるのです。「ここに来なさい。金を払わずに買い、代価を払わずに受けなさい」と。

 (2) キリストはいまだ目覚めていない人々と、摂理のうちにともにおられます。魂に働きかける1つ1つの摂理の何とすばらしいことでしょう。それはみなキリストの御手から発されたものなのです。「わたしは戸の外に立ってたたく」。過ぐる年キリストはその摂理のうちにあなたを導こうとしておられました。中には、繰り返しキリストのおとずれを受けた人もいるでしょう。(3) キリストは彼らが罪を犯すときもともにおられます。キリストは彼らのあらゆる汚れた楽しみの中に立っておられます。彼らのあらゆる下品な冗談をお聞きになり、そのあらゆる欲望を知っておられ、そのあらゆる手のわざを見ておられます。「わたしは、あなたの行ないを知っている」。 あなたは自分がくだらぬ楽しみにふけっているそのとき、キリストがすぐそばにおられるということに思いをはせたことがあるでしょうか。かれはあなたのほくそ笑む顔とともに、あなたの魂にのしかかる神の御怒りも見ておられます。あなたが地獄のせとぎわにいながら、あれやこれやの楽しみにうつつをぬかしているのを見ておられます。かれは何と云われるでしょうか。「わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか」、そして「ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください」と云ってくださっているのです。

 2. かれはそういう人々と長い間ともにおられます。イエスはこうした魂と、そのごく幼いときから争っておられると考えてよい理由があります。一部の神学者たちによれば、キリストは時として争うのをやめ、魂が偶像と結びつくにまかせられるといわれますが、イエスは一日中待っておられるという方が聖書と一致していると思われます。みなさんの中には、長い間キリストの訴えを受けてきた方がおられるでしょう。この日、訴えつづけられた一年がまたも過ぎ去ろうとしています。このことを考えてください。キリストの忍耐を考えてください。

 3. それにもかかわらず、そうした人々はキリストを知ることがありません。みなさんの中には、キリストを知る知識が、私がこの教会に赴任したとき以来全然、いえ生まれたときから全然かわっていない人々がおられるようです。もしキリストを知っていたなら、罪の意識で心が張り裂けていたことでしょう。しかし、みなさんの心はまるで平然としています。きょう、救い主がどれほど優しくあなたに訴えかけておられるか耳を傾けてください。「わたしは、こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに」、という救い主のことばに。

 地獄で味わうみじめさの中で最も悲痛なものの1つは、キリストがどれほどしばしばともにおられたかを思い起こすことでしょう。この祈りの家において、また個々の摂理において、そして1つ1つの罪の場面において、キリストがともにおられたのに、あなたはかれを見もしなかったのです! 地獄であなたがたは思い出すことでしょう。キリストが毎回の聖餐式において、いかにしばしば裂かれた救い主として差し出されていたことか、キリストがいかにしばしば無代価の救い主としてそのしもべらによって説教されていたか、いかにしばしばあなたの上に身をかがめ、あなたのため涙を流しておられたかを。にもかかわらず、あなたはそれを全然受け入れようとしなかったのです!

 おゝ、みなさん! この年が、最後の審判の日にあなたに反対して立つ証人になりはしないでしょうか。その日あなたがたの多くが、私を非難して云うではないでしょうか。お前はなぜもっとはっきりと、大声で、繰り返し語ってくれなかったのか。なぜもっとわれわれの家を訪問して、われわれと子どもたちにキリストのことを、栄光への道のことを教えてくれなかったのか。永遠の地獄からわれわれを救うためなら、そのくらい努力してくれてもよかったではないか、と。おゝ、みなさん。今、賢明にふるまいましょう。あなたがたのうちの多くは一年後にはもう生きていないかもしれません。五十人の方が、来年中に人生を終えられるとするなら、あなたがその一人かもしれません。いえ四十人、三十人、二十人、十人が世を去るとしても、あなたはその一人かもしれません。たったひとりしか死なないとしても、あなたがその一人でないという保証はどこにもありません。おゝ、その日このことばは何と恐るべきものとなることでしょう。「こんなに長い間あなたがたといっしょにいたのに、あなたはわたしを知らなかったのですか」。

ダンディーにて、1837年12月31日

[了]

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