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キリストの再臨[抄訳]

「だから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴く頃か、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰ってきたとき眠っているのを見られないようにしなさい」 マルコ13:35-36


 I. この箇所から教えられるのは、キリストはもう一度戻って来られるが、それがいつかはわからない、ということです。

 1. キリストはもう一度戻って来られます。これは聖書全体が証言していることです。家の主人は長い旅に出たまま、ずっと家を離れているかもしれません。しかしやがて戻って来るのです。キリストが弟子たちを離れて天に上って行かれたとき、雲がかれを包み隠して見えなくなってからも弟子たちは上を見上げて立ちつくしていましたが、そこに御使いが現われて告げました。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」。主イエスは雲に包まれて上って行かれました。そして主は雲に乗って戻って来られるのです。

 2. キリストは突然戻って来られます。これも聖書全体が証ししていることです。

(1) ある箇所でそれは、不注意な野の獣を陥れるわなにたとえられています。「その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです」[ルカ21:34, 35]。

(2) また、盗人にもたとえられています。「主の日は夜中の盗人のように来る」[Iテサ5:2]。

(3) また、突然到来する花婿にもたとえられています。「ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした」[マタ25:6]。

(4) また、洪水の水にもたとえられています。「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱船にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです」[マタ24:37-39]

(5) また、ソドムとゴモラに降り注いだ炎の雨にたとえられています。「また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現われる日にも、全くそのとおりです」[ルカ17:28-30]。

(6) そしてここでは、家の主人の突然の帰宅にたとえられています。「家の主人がいつ帰って来るか、わからないからです」。

 私は、人の子の再臨について神は何と述べておられるかと、へりくだりつつ祈り心をもって預言のことばを調べている方々の心をくじくつもりはありません。もし私たちが、あの十二弟子のように、「あなたの来られるときや世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう」と、四六時中想像をたくましくしているのでなければ、さほど害はないでしょう。しかしここで心に刻み込むべきことは、主は突然戻って来られるという真理です。世の人々にとっても、神の子らにとっても、主は突然戻って来られます。「人の子は、思いがけないときに来るのです」。「家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴く頃か、明け方か、わからないからです」。あなたは、主キリストがやがて帰って来られると信じつつ日々生活しているでしょうか。そうしていないという人の信仰には、欠けがあると云わなくてはなりません。

 II. 目を覚ましていなさい。

 1. 牧師は常に目をさましているべきです。「だから、目をさましていなさい」[35節]。この言葉は特に門番に向けて語られています。私たち教職者は何と目をさましているべき理由があることでしょう。多くのことにより私たちはしばしば眠りこみます。(1) 信仰の欠けによって。牧師が十字架につけられたキリスト、よみがえられ、再び来られるキリストの姿を見失うと、目をさましつつ人々の魂の見張りをすることができなくなります。信徒は、自分の牧師が常に目をさまし、常にキリストを見上げていられるよう祈るべきです。(2) 勝手気ままな多くの魂を見ることによって。これがどれほどキリストのしもべをよろめかすものか会衆は夢にも思わないものです。年若い説教者が燃える心をもってキリストのことを伝えよう、罪の赦しと、新しい心のことを語ろうとしてやって来ます。それは神の真理であると知っています。単純に、自由に、全心全霊をこめて語ります。人々を説得しようと力を尽くします。彼は彼らが陽光のもとにあるつららのように溶かされるだろうと期待します。ところが聴衆は死人のように冷たく、自分の罪の中に生き、自分の罪の中に死ぬのです。このことによって、どれほど多くの若い説教者が幻滅し、熱心をそがれることでしょう。兄弟姉妹のみなさん、私たちが眠ってしまうことのないよう祈ってください。人々が気ままであればなおのこと、目をさましていることができるように祈ってください。

 2. キリスト者は目をさましていなくてはなりません。「わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい」(37節)。もしキリストが間近に来ておられるのなら、(1) 罪赦されぬままキリストを迎えるようなことがないよう用心しなさい。キリスト者の多くは、キリストを日々新たに思い描きつつ生きてはいないようです。目を開けているべきときに、まぶたを固く閉ざしているのです。もしキリストのうちにとどまりたければ、今、かれに来ていただきなさい。また後にしようなどと思わず、いま来ていただきなさい。(2) 何らかの罪を犯している最中に再臨を迎えるようなことがないよう用心しなさい。私の思い違いでなければ、多くのキリスト者はさまざまな罪の中を常々歩んでいるように見えます。一体どうしてそのようなことをしていられるのか見当もつきません。しかし、事実そのように見えるのです。あるキリスト者は贅沢の中で、あるキリスト者は貪欲の中で、あるキリスト者は悪い友達の中で眠り込んでいるようです。そのような状態で救い主の来臨を迎えたらどうなるか考えてもみなさい。この基準によって毎日の仕事を点検してみなさい。日々の感情を、毎日の楽しみを点検してみなさい。今しようとしていることの最中に、主が再臨されるとしたらどうだろうか、と。

 3. またキリストをまだ信じていない人は、何と恐るべき状態にあることでしょう。突然死を迎える人がいます。何と恐ろしいことでしょう。悔い改める瞬間もなく、祈る間もなく取り去られてしまうのです。キリストの再臨はそれより突然に起こります。その日そのときがいつかだれも知りません。あなたは神にとって赤の他人です。福音に従ってもきませんでした。そんなあなたが、主の怒りの日にどうするつもりなのですか。主を信じ、必ず来る御怒りからのがれるようにしなくてはなりません。

[了]

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