主に従い通しなさい[抄訳]「ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる」 民数記14:24
この節から私たちが教えられるのは、主に従い通すことほど幸いなことはないということです。
I. 主に従い通すとはどういうことでしょうか。それは、
1. 一生涯キリストに従い通すことです。
それがカレブの生き方でした。彼は死ぬまで主に従い通しました。彼は85歳の老人になっても「イスラエルの神、主に従い通した」と記されています[ヨシ14:14]。彼は若いころだけ主に従ったのでも、一時的な熱心にかられて従っていたのでもなく、一生主に従っていきました。それが従い通すということです。
多くの人はロトの妻のように、いったんは滅び行くこの世から逃れようとします。神の使いに手をおかれ、警告の言葉を受けた彼女は心を大きく動かされ、一度は住んでいた町から逃げ出しました。しかしすぐにいや気がさして、後ろをふりむき、塩の柱となってしまいました。そのように多くの人も心を揺さぶられ、いのちがけで逃れようとして、悔いの涙を流し、救いを求めはしますが、じきに昔の仲間や肉の欲望に誘われて、後ろをふりむき、後戻りしていくのです。また多くの人はヨハネ6章に書かれている人々のように、一時的にはキリストを求め、見かけは信者のようになりますが、やがてキリスト教には自分の気にくわない教理や義務があることに気づきます。「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」。離れ去って行かないのが主に従い通す人です。また多くの人はガラテヤ人のように、一度は喜んで受け入れた純粋な福音から迷い出て、別の教えにとびつきます。そして一度は愛と尊敬を注いでやまなかった真実な牧者の言葉を憎むようになります。さらに苦しいときだけキリストに従おうとする人も少なくありません(詩篇78:34)。人間関係に悩んだり、病床についたり、愛する者を失ったりすると宗教心を出して聖書を読んだり、泣いたり、祈ったりしますが、のど元をすぎると、この世や誘惑や昔の友人たちのもとに舞い戻るのです。そういう人も主に従い通していません。
私たちの多くは主に従い通すことの少ない者ではないでしょうか。あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げたのですか、とパウロは云います[ガラ5:7]。主を信じ、教会に加わったばかりのころのような真剣さ、熱心さ、決意はどこにあるでしょうか。いつのまにか、ずるずるべったりと旧来の生き方に逆戻りしているようなことはありませんか。
主に従い通したければ、主のみことばにとどまっていなくてはなりません。「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です』」(ヨハ8:31)。あなたがたは「この福音によって救われるのです」とパウロは云いますが、それには「この福音のことばをしっかりと保っていれば」という条件がついていることを忘れてはなりません[Iコリ15:2]。
私たちはマリヤのように主の足元にひざまづき、みことばを聞く者でありつづけましょう。
また老シメオンのように、年老いてもなお「正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」者でありつづけましょう。おそらく彼は若年のころに神に心を定めたのでしょうが、それは若気の至りによるものではありませんでした。彼は主に従い通したのです。
また私たちは、なつやめしの木のようでなくてはなりません。「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう」(詩92)。なつやめしの木とレバノンの杉に共通した素晴らしい性質は、枯れる寸前まで実を結びつづけるということです。生きた信仰者もそれと同じく、最後の最後までキリスト者でありつづけ、御霊に満たされつづけ、愛に満たされつづけ、聖さに満たされてつづけいるものです。よい葡萄酒のように、年ふれば年ふるほど熟成の度をましていくのです。「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きをまして真昼となる」[箴4:18]。
私たちはパウロのようでなくてはなりません。回心の日以来、彼は新しく創造された者でした。キリストの愛が彼を取り囲み、もはや彼は自分のために生きるのではなく、彼を愛し彼のために死んでよみがえってくださった方のために生きる者となりました[IIコリ5:14、17; ガラ2:20]。決して彼は道なかばで手を抜いたり、戦いを投げ出したりしませんでした。「うしろのものを忘れ、ひたすらに前のものに向かって進み、……目標をめざして一心に走っているのです」[ピリ3:13-14]。年老いても彼は愛と熱心とあわれみの炎を失いませんでした。「私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」[IIテモ4:6-7]。彼は主に従い通し、一度も後ろをふりむきませんでした。決して立ち止まらず、決してまどろまず、さながら第二のカレブでした。救いを完成するためには、私たちもそのようでなくてはなりません。
「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」。 幸先よい出だしを切る者が、ではなく、最後まで従い通す者が救われるのです[マタ10:22]。
また主に従い通すとは、
2. 一心にキリストに従うことです。
そのようにカレブは主に従い通しました。一心に、全き心をもって、そのあらゆる行ないにおいて、主に従い通しました。
(1) ほとんどのキリスト者は、主に従い通すことをせず、どこかに従いきれていない部分を残しています。あらゆる面でキリストの似姿となっているようなキリスト者はほとんどいません。大方の人はそんなことは無理だと考え、初めからあきらめています。そこまですると都合が悪いと考える人もたくさんいます。とりあえずは、あれこれの欠点を目こぼししておこうとするのです。
ある人々はキリストのへりくだりにならおうとしません。キリストは、へりくだるべき罪など何一つお持ちでなかったにもかかわらず、真にへりくだっておられました。自慢することも、世の称賛を求めることもしませんでした。ところがまともに救われたキリスト者の中にも、この点でキリストに似ていない人々がいます。彼らは高慢で、自分が救われたことを誇り、他の人とは違うといって誇るのです。
キリストの自己否定にならおうとしない人もいます。主は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられました。それは私たちが主の貧しさによって富む者となるためでした。また私たちがまだ罪人であったときに、キリストは私たちのために死んでくださいました。さらに主には頭に枕するところもありませんでした。それにもかかわらず、キリスト者であるはずの多くの人々は、何よりも自分の慰めと安逸を求めています。この点において彼らは、完全にはキリストの御霊に聞き従っていません。
愛においてキリストに従っていない人もいます。キリストは愛そのものでした。主が世にお下りになったのは愛のためでした。かいばおけに寝かされたのは愛のためでした。罪を犯さぬ服従の生活を送られたのは愛のためでした。死なれたのは愛のためでした。にもかかわらずキリスト者であるという人々の中には、この点において主に従わない者があります。主が愛されたように愛さない者がいます。この世の人々に何の同情も示さない人、わが家でぬくぬくとくつろいで、福音を知らない人々が滅びていくのを平然と眺めている人々がいます。愛から行動する人の何と少ないことでしょう。
(2) 多くのキリスト者の信仰生活には浮き沈みがあります。
エペソの教会がまさにそうでした。一時は彼らも、神から「すべての霊的祝福をもって祝福され」、「御前で聖く、傷のない者にしようと」愛をもって選ばれていました[エペ1:3-4]。彼らは神に愛される子らとして神に従う者、キリストが彼らを愛したように愛のうちを歩む者でした。しかし、やがて沈滞の時期が訪れ、キリストの叱責を受けることになりました。「あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」[黙2:4]。彼らはカレブとは違い、主に従い通さなかったのです。
ダビデについても同じことが云えます。公然と露骨な大罪に陥ったころの彼は、魂がぼろぼろに腐食し、骨という骨が砕けてしまったかのようです。彼は神がその御霊を永遠に彼から取り去ってしまわれるのではないかと恐れました[詩32:3-4; 51:11]。彼は主に従い通さなかったのです。
ソロモンも例外ではありません。治世初期の彼は、主に従い通す見込み十分でした。主はギブオンで彼に現われ、「あなたに何を与えようか。願え」と云われました。「神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた」[I列3:5; 4:29]。また神殿建立の恵みをお与えになり、あらゆる点で富む者としてくださいました。にもかかわらずソロモンの末路は悲惨なものでした。「ソロモン王は、多くの外国の女を愛した。ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった」[I列11:1、4]。彼は主に従い通さなかったのです。
アサも同じでした。「アサは、彼の神、主がよいと見られること、御目にかなうことを行なった」(II歴14)。信仰によって彼は、百万ものクシュ人の軍勢を打ち破りました。また契約を結んで、ユダの全土がその誓約に加わりました。にもかかわらず彼は悲しい失敗を犯しました。イスラエルの王が攻めのぼってきたとき、彼の信仰はくじけてしまいました。老年になって両足とも病気にかかったときも、主を求めることをしないで、医者を求めました。彼は主に従い通さなかったのです。
カレブのように主に従い通すつもりなら、このような生き方に陥ってはなりません。どんなときにも裏おもてなく、後退することなく、主に従わなくてはなりません。そのためには、
(1) 「われは主のもの」と云えるような者でなくてはなりません。「ある者は『私は主のもの』と言う」[イザ44:5]。神は云われます。「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」。キリスト者は代価を払って買い取られた者です。もはや自分自身のものではないのです。 カレブのようになりたければ、自分を主に明け渡さなくてはなりません。理性を、意志を、感情を、からだとそのすべての部分を、目も舌も手も足も、明け渡さなくてはなりません。これだけは手放せないという部分を全然残さず、すべてを主のものとしなくてはなりません。自分を主に明け渡すこと、それは素晴らしい体験です。主の御霊に満たされ、主のみことばに支配され、小さな、しかし主の臨在の満ちあふれる器となること、主の御名を帯びた、栄光に至るべく昔から定められていた器となることは素晴らしいことです。これが主に従い通すということです。
(2) 主と同じかたちを身に映す者でなくてはなりません。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(IIコリ3:18)。私たちの愚かな心は、少しくらいサタンのかたちを残しておいた方がいいと考えます。しかし私たちにとって最も幸いなのは、あらゆる点で主イエスのおもかげを映し出すことです。いかなる裏おもてもなく、あらゆる点で主と似た者となることです。主と同じように愛し、主と同じように泣き、主と同じように祈る、このように主の似姿に変えられていくことです。「私は……目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」[詩17:15]。
(3) 主の律法のすべてを心におさめていなくてはなりません。 「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す」[エレ31:33]。幸福な信仰生活の条件は、律法のあらゆる部分を心の中のしかるべき場所におさめ、それがやすやすと消し去られないように深々と心に刻みこむことです。これが主に従い通すということです。
また主に従い通すとは、
3. いかなる苦難に遭おうとキリストに従うことです。
カレブはそのようにしました。会衆は彼を「石で打ち殺そうと言い出し」ました。それでも彼は気にとめませんでした。どんなわざわいがふりかかろうと自分の義務を果たそうとしました。彼は主に従い通したのです。万事好調の間は主に従いながら、いったん嵐がくると主に従わない者の何と多いことでしょう。冬がくると、ツバメは飛び去ってしまいます。ツバメに似た者は少なくありません。多くの者は従い通さないのです。
II. では、どのようにすれば主に従い通すことができるでしょうか。
1. まず主から目を離さないことです。これこそカレブが主に従い通せた力の源泉でした。彼は、目に見えない方を見るようにして、忍び通しました。彼はいつも彼の前に主を置いていました。もしもカレブが名声や、富や、人気や、誉れを求めていたとしたら、従い通すことはできなかったでしょう。
主に従い通したい者は、主を十分よく知らなくてはなりません。主のうるわしさを見ることによって、私たちは主に従うよう引き寄せられます。「私の愛する方は万人よりすぐれ、すべてがいとしい」。「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」。キリストのうちには、魂を引き寄せて従わせる、えもいわれぬ美しさがあります。あらゆる神性のきわみがキリストのうちには宿っています。主はそれを私たちを救うために差し出しておられるのです。
主のふさわしさによって、私たちは主に従うよう引き寄せられます。主は私たちの魂の必要に最もふさわしく答えることのおできになる方です。私たちは罪にまみれていますが、主は義に輝いておられます。私たちは弱さにまとわりつかれていますが、主は力に満ちておられます。キリストほど、私たちの魂の必要に完璧に答えることのできる方はいません。ひよこは、親鳥の広げた羽根の中に飛び込んで行きます。鳩は岩の裂け目に向かって飛んで行きます。ノアは箱船に乗り込みます。そのように私たちの魂はイエスに従うのです。
主の豊かなあわれみによって、私たちは主に従うよう引き寄せられます。「わたしのもとに来る者を、わたしは決して捨てません」。主は七度を七十倍するまで赦してくださいます。
このように王のうるわしさを見ることで魂は王にすがり、王について走るようにされます。「私のたましいは、あなたにすがり」----「私たちの前に置かれている競争を走り続けようではありませんか。イエスから目を離さないで」。
2. 第二に、聖霊の内住です。カレブは、「ほかの者と違った心(霊)を持って」いました。他の斥候らは肉の人でしたが、カレブには違う心がありました。彼のうちには聖霊が住んでおられ、彼を導き、ささえ、新しく作りかえておられたのです。主に従い通す者はみなそうです。神の御霊は魂の中で泉となり、永遠のいのちへの水がわき出るのです。ロトの妻はうしろをふりむきましたが、彼女には聖霊の内住がなかったのです。御霊は満たす霊です。御霊は心をすみずみまで満たすことを喜ばれます。「御霊に満たされなさい」。「どうか望みの神があなたがたを満たしてくださいますように」。
III. 最後に考えたいのは、私たちはなぜ主に従い通さなくてはならないか、ということです。
「わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる」。他の10人の斥候は疫病のため死に、民は荒野で倒れました。しかしカレブとヨシュアは、主に従い通したために、約束の地にはいることができたのです。
1. それは唯一の幸せな人生だからです。
この世で、一生の間キリストに従い通した人生ほど幸福な人生はありません。信仰の道からずるずる後退していった人ほどみじめなものはありません。キリストに従う生き方からわき道にそれるたびに、私たちは自分をみじめさに追いやる種を蒔いているのです。それは、おびえと、孤独と、心の乾きをもたらします。唯一の幸せな人生は、一心に従い通すことです。私たちは普通、あれやこれやの偶像を手に入れることが幸福であると考えますが、それは全くの思い違いです。真の幸福とは自分を明け渡すことであり、身も心もすべてを主にささげることです。そこに少しでもかげひなたがあれば喜びはそこなわれます。のびのびとした主との交わりはそこなわれます。最も神と親しく歩んでいるときこそ、最も幸せなときではないでしょうか。常にそうありたいものです。心の腐敗は暗闇と悲惨を招きます。唯一の幸福は、すべてのものを喜んで失うことにあります。多くのキリスト者は、進んで自分を否定しようとはしません。キリストのために苦しもうとはしません。非難や迫害を甘受しようとしません。しかしキリストはそれに百倍もまさるもの、良心の平安をくださるのです。
2. それが用いられ、役に立つ人生を送る道だからです。
成長するキリスト者とは、用いられているキリスト者のことです。キリストに従い通しているキリスト者です。アブラハムへの祝福は、「わたしはあなたを祝福し……あなたの名は祝福となる」でした[創12:2参照]。これはパウロにおいて顕著な事実でした。彼はキリストに従い通しました。そして彼は何という祝福となったことでしょう。キリストに従い通せば、だれでもそうなることができるのです。あらゆる点でキリストの似姿を身に映すキリスト者がひとりでもいれば、この国、この時代にとって何という祝福となることでしょう。役立たずの場所ふさぎになってはなりません。キリストに従い通すことで、自分の子女や隣人の人々にとってあなたは何という祝福となることでしょう。
[了]
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