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時は短い[抄訳]

「時は縮まっています。今からは、妻のある者は妻のない者のようにしていなさい。泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです」 I コリ 7:29-31

 この世で過ごせる時間は、つかの間にすぎません。それはほんの一瞬の、30分たらずです。あっというまに、すべてが終わってしまいます。また地上のものはみな変わりゆくものです。山々もぼろぼろの土くれになり、世界一美しい顔にも皺が寄り、どれほどきれいな着物にもしみがつき、朽ち果てていきます。

1. ですから信仰者は、地上の何ものにも執着しない生き方をすべきです。すべてを永遠の光に照らして判断し、ものごとを本当の値打ち以上に重んじないようにしなくてはなりません。この世の物事、悲しみ、喜び、仕事などにふりまわされないようにしましょう。そうしたものを私たちは、すぐに永遠の現実ととりかえることになるからです。

 私たちは、どれほど大切な人にも執着しすぎてはなりません。「今からは、妻のある者は妻のない者のようにしていなさい」。結婚はすべての人が尊ぶべきです。夫はキリストが教会を愛したように妻を愛すべきです。「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません」。それでも妻を偶像にしてはなりません。既婚の信者は、ある面で独身者のようにしているべきなのです。「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」。神が与えてくださった両親には、どれほど敬意と愛情を注いでもたりません。しかし、ある意味で私たちは両親などいないかのようにしているべきなのです。親はわが子を愛し、主にあって訓育すべきです。しかし時が縮まっていることを忘れてはなりません。私たちは主から子どもたちを借りているだけです。たとえ主が、突然ご自分のものをお取り上げになっても驚いてはなりません。牧師には、その務めゆえに深い尊敬を払いましょう。しかし、ある意味で牧師などいないかのようにしているべきです。牧師など見たことも聞いたこともないかのように、ただキリストだけに全くより頼んでいることが必要です。

 デービッド・ブレイナードが記している婦人は、自分の最も大切なものをも、すべて神のみこころに明け渡す信仰を持っていました。「もし神がご主人を取り去られたら、どうやって耐え忍びますか」と問われて彼女は、「あの人は私のものではありません。主のものです。あの人をどうなさろうと、主の自由です」、と答えたということです。

 この世の花々に心をかけないようにしましょう。それらはやがて朽ち果てていくものです。何にもまさってシャロンのばら、谷のゆりを尊びましょう。この方は変わることがないからです。

2. 信仰者は、地上の悲しみにとらわれすぎない生き方をすべきです。この世は涙の谷間です。何かしら悲しみがないという時はありません。けれどもキリストにある者たちは、泣くときも泣かない者のようにしているべきです。「時は縮まっている」からです。

 主にあって死んだ人のために泣いている方があるでしょうか。泣くことがいけないわけではありません。「イエスは涙を流され」ました[ヨハ11:35]。しかし私たちは、泣かない者のように泣くべきです。「時は縮まっている」からです。その人は失われたのではなく、先に出かけたのです。彼らのためという涙は、実は自分のためではないでしょうか。彼らは今幸せなのです。罪人の友なるお方のもとにいる彼らのためなぜ泣くことがあるでしょうか。「彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです」(黙7:16,17)。「時は縮まっています」。あなたもやがて彼らの後を追うことになります。何日もしないうちに、あなたもイエスの胸に頭をもたせかけているかもしれません。私たちは、先に召された人々に、きょうは昨日よりも近づいているのです。やがて私たちは声を合わせて新しい歌を歌うことになります。ですから、泣かない者のようにしていようではありませんか。

 主を信じずに死んだ人のために泣いている方があるでしょうか。その悲しみは確かに深いものでしょう。けれども時は縮まっています。すべてのことが解き明かされるときが来れば、私たちは失われた人のため涙を流すことはなくなるでしょう。やがて完全な栄光に包まれたイエスを見るとき、地上でのことを残念に思うことはなくなるでしょう。アロンは、二人の息子を失ったときも黙っていたのです。

 肉体の苦痛や貧困、病気、世の思いわずらいのために悲しんでいる方があるでしょうか。つぶやかないようにしましょう。「時は縮まっています」。キリストを信じないまま世を去る以上の地獄はありません。今私たちは、その最悪の牢獄からは解放されているのです。あの十字架上の強盗が、パラダイスに入る寸前で今の苦痛について不平を云うなどということが考えられるでしょうか。キリスト者もそれと同じです。キリスト者にとっては、すでに地獄の深淵は干上がってしまいました。現在はただ、病と死という浅すぎるほど浅い小川を渡っていけばいいのです。またキリストはあなたを出迎える以上のことを約束しておられます。この世の旅路を一歩一歩ともに歩んでくださり、み腕で抱きかかえてくださるのです。イエスのみもとに行くとき、今の私たちの悲しみはみな子どもじみて見えることでしょう。主の御前で一日でも過ごせば、今の苦しみを思い出すことは二度とないでしょう。ですから勇敢になりましょう。そして忍耐をもって走り抜くのです。

3. キリスト者はこの世の楽しみにとらわれない生き方をすべきです。

 信仰者がこの世のものを用い、楽しむことには何の問題もありません。実際、キリスト者こそ、この世で最も喜びを感じ、最も幸せになる権利をもっている者というべきです。信仰者には、この世の肉体的慰めを用いる権利があります。初代教会では、「喜びと真心をもって、神を賛美し」つつ食事していました。またキリスト者には、家庭、親族、友情などを喜ぶ権利があります。こうしたものを楽しむことには何の不都合もありません。さらにキリスト者には、精神と知性と想像力についても、その純粋な楽しみを喜ぶ権利があります。神は、こうしたものをみな豊かに与えて楽しむようにしてくださったからです。しかし信仰者は、「喜ぶ者は喜ばない者のように……し、世の富を用いる者は用いすぎないように」すべきです。「時は縮まって」いるからです。

 まもなく私たちは天の御父の食卓につき、キリストとともに新しい葡萄酒を飲むことになります。キリストにあるすべての兄弟姉妹と出会い、未来永劫にわたって神を喜ぶ純粋な楽しみを味わいつづけることになります。ですから現世の楽しみにふけりすぎないことが大切です。子どもは祝宴に出かけたときは、少しずつしか食べないもののようです。それは、後から出てくる、とびきりのごちそうのための余地を残しておくためです。そのように、天の祝宴に向かっているキリスト者も、地上の快楽で食欲をにぶらせてはなりません。どんなものにも執着せず、すべて滅び去るものとみなすべきです。

 人は、どれほど美しい花畑を通りかかっても、その中に寝そべって、一生そこで暮らそうなどとは決して考えないでしょう。同じように、この世の最上の喜びも旅路を慰める花畑にすぎないのです。その芳香を胸いっぱい吸い込みなさい。しかし歩みを遅らせてはいけません。

 イエスはあなたをご自分の饗宴の家へ招いておられます。まもなくイエスと同じ席につこうという神の子らが、この世の宴会に夢中になり、いばらの冠をいただいた御顔をすぐにも仰ぎ見ようという者たちが、華美な衣装や化粧にうつつを抜かしているとは、いい見ものと云うべきです。

 兄弟姉妹のみなさん。もしあなたが何らかの楽しみにふけっていて、祈ることも聖書を読む気もなくなるほどであったり、「そら、花婿だ」と叫ぶ声を聞くのを恐ろしく感じるような生き方、「もう来たのか?!」と云いたくなるような生き方をしているのなら、それは世の富を用いすぎているのです。この世の楽しみにとらわれない生き方をしましょう。「時は縮まっています」。

4. キリスト者は、この世での仕事にこだわらない生き方をすべきです。

 なるほどキリスト者には、自分の職務に勤勉にはげむべき立派な理由があります。未信者について云えば、どうしてあのように忙しくしていられるのか不思議に思うことがよくあります。常にせわしなく、常にこの世の務めに忙殺されている彼らは、永遠の世界にそんなものが何一つないことに思い至らないのでしょうか。肉体の必要のためにこれほど忙しく働きながら、自分の飢えた魂には何の食物も与えないというようなことがどうしてできるのでしょう。しかしキリストにある者たちには、勤勉になるべき理由が大いにあります。

 (1) 信仰者には、きよい良心があります。それは人生の潤滑油です。「陽気な心は健康を良くする」[箴17:22]。心が軽やかだと、仕事もたやすくこなせます。

 (2) 彼らは心から自分の主に栄光を帰そうとこころがけています。キリスト教徒は怠け者だとか、役立たずだなどと言われることにがまんできません。イエスに対する愛によって彼らは、すべての誉れあることに堅く心を留めるのです[ピリ4:8]。

 それにもかかわらず信仰者は、ものを買っても「所有しない者のようにして」いるべきです。「時は縮まって」いるからです。キリスト者がけちんぼうであったり、金銭づくであったりしてはなりません。私たちはしもべにすぎず、この世で所有するものはみな主のものだからです。まもなく栄光の日がやって来るでしょう。そのときには、現在の持ち物にはるかにまさるものをまかせられるのです。私たちはしもべにすぎません。土間の置物に執着しても何にもなりません。なぜならそのうちに私たちの主が、御前で親しく仕えるように私たちを召してくださるからです。

 兄弟姉妹のみなさん。私たちはいざ時が来たなら、いつでも自分の部屋を去って、黄金の竪琴を手にとる備えをしていましょう。自分の仕事机を離れてイエスの御座の前に立つ備え、職場のペンを勝利のしゅろの枝に持ち替える備えをしていましょう。地上の市場を去って、新しいエルサレムの大通りに立つ備えをしていましょう。そこを贖われた民は歩むのです。船が沈むというときに、金貨の大袋にしがみつく者はいません。じゃまな荷物をふり払い、泳ぐ態勢を整えるはずです。この世は沈み行く船、この世の所有物にしがみつく者はそれと一蓮托生で沈んでいく者ではないでしょうか。

 「買う者は所有しない者のようにしていなさい」。「時は縮まって」いるからです。

[了]

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