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渇ける魂に潤いを[抄訳]

「わたしは潤いのない地に水を注ぎ」 イザ44:3

 神は心の渇いた人々に潤いを与えます。

 心の渇きを覚えて教会に来られた方がいるでしょうか。

 神はしばしば、魂を目覚めさせようとして、長い間、心に渇きを送られます。魂に苦しみを与え、安らぎを取り上げ、いわば荒野に追いやり、清流を求めてさまよわせるようなことをされるのです。そうした魂は、安らぎを求めて山や丘を巡り歩くのに、何の潤いも見いだせません。一滴でもいいから口を湿らす水を得ようと、あの泉からこの泉へと捜し歩き、あえぎながら、さまざまな宗教、哲学、人生観に口をつけてみますが、何の慰めも得られません。これが渇いた魂です。

 神がそのような魂に救いを与えてくださるとは何と素晴らしいことでしょう。「わたしは潤いのない地に水を注ぐ」。聖書のどこを開いても、神はそのように疲れた人たちを、特別に優しく扱ってくださると書いてあります。神の完全な現われであるキリストは、優しく云われました。「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え……るようにされる」。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」。キリストの奇蹟の多くは、そんな重荷を負った魂のために行なわれました。医者という医者を巡り歩いては全財産を使い果してしまったあの女性は、良くなるどころか悪くなる一方だったのに、キリストの衣のふさにさわっただけで完全にいやされました。「主よ。わたしをお助けください」、と叫びながらついていった別の女性は、長いこと答えてもらえませんでしたが、とうとうおことばをいただきました。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」。また別の人は、18年も腰が曲がったままだったのに、イエスの手が置かれると、たちどころに腰が伸びました。

 疲れた魂のみなさん。これがイエスです。イエスはあなたをもいやしたいと望んでおられます。イエスにはそうなさる気持ちも力もあると信じましょう。そうすれば魂に潤いが来ます。

 イエス以外の人は何の助けにもなりません。ほかの医者に行ってもむだです。良くなるどころか悪くなるだけです。イエスのもとにとどまりましょう。イエスの前で膝まずき、礼拝し、「主よ。わたしをお助けください」、と云い続けましょう。

 渇いた魂に潤いが、疲れた魂に安らぎが与えられる時を待ち望みましょう。神がこのみことばを実現してくださることを乞い求めましょう。「わたしは潤いのない地に水を注ぐ」。

 また、キリスト者のみなさんは心が渇いているでしょうか。信仰者には、みな心の渇きがあるべきです。残念ながら今の時代は、心に健全な飢え渇きを覚えているキリスト者が少ないのではないでしょうか。

 真に飢え渇いている人には次のようなしるしが伴います。

 (1) みことばに対する渇き。ふたりの人が荒野を旅していたら、どちらがのどが渇いているかはすぐわかります。そういう人は、始終あたりを見回し、井戸を捜しているからです。12の泉と70本のなつやめしがあるエリムにたどりついたとき、イスラエルは何と喜んだことでしょう。渇ける信者も同じです。彼らはみことばを愛します。みことばを読み、説教を聞くことを愛します。これで満足ということがありません。愛する兄弟姉妹。みなさんはそうなっているでしょうか。かつて信仰の炎が大いに燃えた時代はそのようでした。人々は祝祷が終わっても、もっと説教が聞きたいと会堂に残っていたものです。神の子らのうちに、ほとんど渇きが見られないというのは恐るべきしるしです。世の人が教会の礼拝や祈祷会に寄りつかないのは不思議ではありません。しかし、教会の人々がみことばを求めず、教会にも来ない。これには唖然とします。私の魂はそうした人々の高慢を思ってひそかに涙を流します。近い将来、神がみことばのききんを起こされないように願うものです。

 (2) 熱心な祈り。赤子は母乳を飲みたくなると黙っていません。魂の渇ける信者も同じです。魂に渇きを覚えると祈りによって秘密の井戸に赴き、人知れずいのちの水を汲むのです。彼らは祈祷会を大切にします。町が深刻な水ききんに襲われたら、人々は寄り集まって井戸を掘る相談をするでしょう。今この国にあるのは恵みのききんです。恵みの炎が燃えないため魂が日々滅んでいくのです。集まって祈りましょう。「あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」。

 (3) 恵みにおいて成長したいとの強い望み。信者の中には、回心したらそれで満足してしまう人がいます。どっかりとあぐらをかいて何も求めず、願わないのです。これではいけません。本当に魂の渇いた人は、求道中と同じ熱心さで完全な救いを求めるでしょう。「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」。

 渇ける魂のみなさん。私の望みは、みなさんの祈りに答えて恵みの最初の一滴がみなさんのひび割れた唇に落ちてくることです。そうです。神は恵みを注がれます。「麗しいぶどう畑……わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている」(イザ27:2、3)。「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む」(イザ12:3)。

[了]

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