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第2章

 

「誘惑に陥る」とはいかなることか――単に誘惑されることではない――誘惑に征服されることではない――それに落ち込むこと――その表現の真意――誘惑に陥る場合に必ず伴う事がら――通常以上に執拗なサタンあるいは情欲――がんじがらめにされた魂――そのようにがんじがらめにされる時期が明らかにされる――「試練の時」(黙3:10)について。それは何か――いかにして、ある誘惑がその時に達するか――それがそこに達したと何によってわかるか――それを防ぐため私たちの《救い主》によって規定された手段――目を覚ましていることについて。それは何を意味するか――祈りについて

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  II. 誘惑とは何かを示したので、第二に私が明らかにすべきことは、誘惑に陥るとは何か、ということである。

 1. これは単に誘惑されることではない。私たちが全く何の誘惑も受けなくなるほど誘惑から自由になるのは不可能である。サタンがその力と悪意を有し続け、世と情欲が存在し続ける限り、私たちは誘惑されるであろう。ある人は云う。「キリストが私たちに似た者となられたのは、誘惑を受けるためであった。そして、私たちが誘惑を受けるのは、私たちがキリストに似た者となるためである」。おしなべて誘惑は、私たちの戦い全体に広くわたっている。それは私たちの《救い主》が、ご自分の伝道活動の時期を、「さまざまの試練の時[temptations]」と呼んでおられるのと同じである(ルカ22:28)。私たちは、全く誘惑されなくなるなどという約束を何1つ与えられていない。また、誘惑から絶対的に解放されるように祈るべきでもない。なぜなら、それが聞き届けられるといういかなる約束も有していないからである。私たちが祈るよう命じられているのは、「私たちを試みに会わせないで……ください」、ということである(マタ6:13)。私たちが祈って警戒すべきなのは、「誘惑に陥る」ことである。私たちは誘惑されても、誘惑に陥らないでいることがありえるのである。ということは、――

 2. この云い回しで意図されているのは、サタンや私たちの自身の情欲の、単なる通常の働きではない。これらは私たちを日々誘惑し続けるに決まっている。この、誘惑に陥るということには、聖徒たちの日常的な働きではない、尋常ならざる何かがある。それは、彼らにふりかかるものの中でも特に、あの手この手を尽くして彼らを何とか罪に引き込もうと、魅惑したり恐怖させたりする何かである。

 3. それは、ある誘惑によって征服されることではない。それは決して、私たちが誘惑によって倒れたり、誘惑された罪あるいは悪を犯したり、妨害された義務をせずにすませたりすることではない。人は「誘惑に陥った」としても、まだその誘惑によって倒れないでいる場合がある。神は、ある人のために脱出の道を備えることがおできになる。人が誘惑に陥っても、神はその罠を打ち壊し、サタンを踏みにじることがおできになる。魂を、たといそれがすでに誘惑に陥っていても、圧倒的な勝利者とすることがおできになる。キリストは誘惑に陥ったが、みじんもそれによってくじかれることはなかった。しかし、――

 4. それは、使徒が表現しているように、「誘惑に陥る(empiptein)」ことである(Iテモ6:9)。それは、人が罠や仕掛けのほどこされた穴、あるいは深みに落ち込み、そこでがんじがらめにされるようなものである。その人は、即座に殺されたり、滅ぼされたりはしないが、がんじがらめにされ、閉じ込められてしまう。――どうすれば自由になれるか、解放されるかがわからない。それで、同じことが、「あなたがたをとらえた誘惑」、とも云い表わされているのである(Iコリ10:13 <英欽定訳>)。すなわち、誘惑によってとらえられ、もつれさせられ、その紐で縛られ、当座は脱出の道を見いだせないことである。それでペテロは云うのである。「主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出……(す)ことを心得ておられるのです」(IIペテ2:9)。彼らは誘惑によってがんじがらめにされていた。神は、そこから彼らを救い出すしかたを心得ておられるのである。私たちは、ある誘惑が自分の中に入ることを許すとき、「誘惑に陥っている」。それが扉を叩いている間、私たちは自由である。だが、何らかの誘惑が入り込んできて、心と談判したり、精神と論じ合ったり、感情をそそのかして魅惑したりするとき、それが長くかかろうと短かかろうと、また、それを私たちに気づかせず、気取られないようにしようと、魂の注意を引いていようと、私たちは「誘惑に陥っている」のである。

 それで、私たちが誘惑に陥る場合には、以下のことが必ず伴う。――

 (1.) 何らかの優位に立つか、何らかの機会に乗じたサタンが、人を恐怖させるか魅惑することによって、迫害か誘いかけによって、自分自身によってか他の者によって、人を罪に至らせようと通常よりも熱心に誘いかけること。あるいは、何らかの情欲や腐敗が、サタンの教唆か外的な物事に乗じられて、順境における場合のように人を挑発するものとなるか、困難における場合のように人を恐怖させるものとなるかして、私たちの内側を通常にまさって激しく擾乱させること。そこには、誘惑の元締めと、誘惑の種々の素因が、特別な動きを見せることが伴わなくてはならない。

 (2.) 心が、徹底してがんじがらめにされたあまり、自らを弁護する議論をぶったり、理屈をこねたりせざるをえなくなるが、すでに注入された毒やパン種を、完全には排出することも追い出すこともできず、むしろ、よほど厳重に警戒を固めていないと、不意をつかれてがんじがらめにされるのをなかなか避けられないこと。そのため、魂は叫び、祈り、さらに叫ぶが、しかし解放はされない。パウロが、自分の誘惑から救出してくださるように三度も「主に願った」が、聞き届けられなかったのと同じである。依然として、がんじがらめにされたままである。このことは普通、次の2つの時期のいずれかにおいて起こる。――

 [1.]サタンが、神の許しによって、神ご自身が最もよくご存じの種々の目的のため、魂に対する何らかの格別な優位を占めたとき。ペテロの場合がそうであった。――サタンは彼を麦のようにあおぎ分けることを願って、聞き届けられた[ルカ22:31]。

 [2.]ある人の種々の情欲や腐敗が、その人の置かれた境遇によって、格別に挑発的な事物や機会に出会い、誘惑にかられる状況になるとき。ダビデの場合がそうであった。この2つについては後述する。

 事がこうした事態に及ぶとき、人は誘惑に陥っているのである。これは「試練の時[hour of temptation]」と呼ばれる(黙3:10)。――すなわち、誘惑がその極みに達する時期のことである。このことをしっかり理解しておけば、現在の、「誘惑に陥る」とはいかなることかという吟味に、さらなる光が投ぜられるであろう。というのも、試練の時が私たちに臨むとき、私たちは誘惑に陥っているからである。あらゆる大いなる、また切迫した誘惑には、その時がある。それが極みに達する時期、それが最も力強く、活発で、大きな影響を及ぼし、優勢となる時期がある。多少とも、そこに至るまでの時間は長く、それがしきりに促す時間は長いかもしれない。だが、それは、先に言及したような他の内的な、あるいは外的な物事の生起と手を組んで、危険な時となる時期がある。そしてそのとき、大方の場合、人は誘惑に陥るのである。これによって、一時はある人に対してほとんど、あるいは全く何の力も持っていなかった誘惑が――かつては軽蔑し、その動きを嘲り、容易に対抗できたはずの誘惑が――、別の時には、いとも容易にその人をとりこにしてしまう。その誘惑は、他の状況や物事の生起によって、新たな強さと効きめを手に入れたのである。あるいは、その人が気力を失って、弱くなったのである。その時が来たため、その人は誘惑に陥り、誘惑に屈したのである。おそらくダビデは、以前のもっと若かった頃にも、姦淫か殺人の誘惑を受けたことがあった。たとえばナバルの事件がそうである。だが、試練の時はまだ来ていなかった。その件について誘惑は、まだ優位に立っていなかった。それでダビデは、後になるまで逃れていられたのである。種々の誘惑にさらされている人々は――そうでない者がいるだろうか?――、こうしたことを予期しておくがいい。そうした誘惑には、ある時期があるであろう。以前よりも、その誘いかけが強圧的なものとなり、その理屈づけがまことしやかになり、種々の口実が見事なものとなり、回復の望みがありがちに思われ、種々の好機が広く開けたものとなり、悪の扉が美しくなる時期があるであろう。幸いなことよ。そのような時期に対して備えをしている人は。それなしには決して逃れられない。これが、先に述べたように、誘惑に陥る際に必ず伴う第一のことである。もし私たちがここにとどまっていれば、私たちは安全である。

 ちなみに、他の詳細に説き及ぶ前に、次の点についても大まかに示しておこう。――第一に、通常はいかにして、あるいはいかなる手段によって、ある誘惑がそのに到達するか。第二に、いかにして私たちは、ある誘惑がその絶頂に達し、その時となったとわかるか。

 第一に、最初の方のことを、誘惑はいくつかの方法で行なう。――

 (第一に)ある誘惑は、精神に長々しい誘いかけを行ない、それが誘っている悪としばしば親しく交わらせることで、それを小さく見くびらせる思いを生み出す。こうした成り行きに持って行ければ、その誘惑は、その時に近づいていくのである。それが最初に魂に圧力をかけ始めたとき、魂はそれが目当てとすることの醜悪な様相に驚愕し、「おれは犬なのか?」、と叫んだかもしれない。だが、こうした探りを入れることが日増しに強くなるのでない限り、魂は、その悪と親しく交わることによって、以前のようにはそれにぎょっとすることがなくなり、いわば、それと馴れ合うようになり、むしろ、「あんなに小さいではありませんか」、と叫びがちになる。そのとき誘惑はその絶頂に近づきつつある。情欲は精神を誘い込み、がんじがらめにし、いつでも「はらめる」ようになる(ヤコ1:15)。こうしたことについての詳細は、後段で私たちが、誘惑に陥らされているか否かを知る手立てについて調べる際に述べることにしたい。私たちがいま調べているのは、誘惑そのものの時と力についてである。

 (第二に)その誘惑が、すでに他の人々を圧倒しており、魂が嫌悪で満たされることなく、彼らと彼らの生き方を忌まわしく感ずる思いも、あわれみも、彼らの解放を求める祈りも魂を満たさないとき。これにより、その誘惑は優位に立ち、その極みへと引き上げられることになる。その誘惑が、同じ時期にだれかに襲いかかり、多くの人々を圧倒してわがものにするとき、これはその誘惑を、非常に大きく、また多くの点で優位に立たせるため、確かにその時が近づきつつあるに違いない。ある誘惑が他の人々を圧倒することは、私たちに対して、その時を至らせるための手段なのである。ヒメナオとピレトの脱落は、「ある人々の信仰をくつがえしている」、と云われている(IIテモ2:17、18)。

 (第三に)ある誘惑が、他の、絶対に悪とは云い切れない多くの事がらと絡み合うことによって。たとえば、ガラテヤ人を福音の純粋さから堕落させようとする誘惑がそうであった。――迫害からの自由、ユダヤ人たちとの一致と和合。そうした、それ自体としては良い事がらが申し立てられ、誘惑そのものに活力を与えていたのである。しかし、今のところ私は、何らかの誘惑が、ふくれあがり、力を強め、他を圧する大きな影響力を持つものとなるには、いかなる優位を占めなくてはならないかについて詳しく述べようとは思わない。それがそうした優位を占めることになる原因は、種々の状況や、機会や、もっともらしい申し立てや口実や、その誘惑に乗らざるをえないような事がらを行なうべき必要性などにあるが、そうしたもののいくつかについては、後段の方で語らなくてはならないからである。

 第二に、二番目のこととして、それは以下のことからわかるであろう。――

 (第一に)その落ちつきのない切迫感と理屈づけによって。誘惑がその時に達したとき、それは落ちつきをなくす。それは戦いの時であり、それが魂に何の落ちつきも与えないのである。サタンは自分が優位に立っていることを見てとって、その軍勢の糾合を考える。ここで圧倒しなければ、未来永劫望みはないとわかっているからである。ここにいくつもの機会があり、いくつもの優位があり、いくつもの、もっともらしい申し立てと口実がある。ある程度の地歩は、すでに前々からの理屈づけによって得られている。さらにここには、悪を目こぼすべき理由がいくつもあり、後から努力すれば赦されるだろうとの希望がいくつもあり、準備は万端整っている。いま彼が何も行なえなければ、すべては何も手をつけないまま計画倒れに終わるしかないであろう。それでサタンは、キリストに反抗するあらゆる事がらの準備が整ったとき、それを「試練の時」とするのである。ある誘惑が、「一千もの仇なすわざ(mille nocendi artes)」を見いだし、扉の内側では種々の想像と推論によって押しまくり、外側では種々に誘いかけ、優位に立ち、機会に乗じて押しまくるとき、魂はその時が来たのだと知るべきである。そして、神の栄光と自分の幸福は、自分がこの試練に及んで、いかにふるまうかにかかっているのだと知るべきである。この点については、以下において、個々の場合に即して見ていきたい。

 (第二に)それが、恐怖させることと誘いかけることを同時に仕掛けるとき、その2つは、誘惑の全軍勢をなすものとなる。その双方が一緒になるとき、誘惑はその時に至っているのである。ウリヤを殺害した際のダビデの場合、そこには、その両方がそろっていた。そこには、自分の妻に対する、そして、ことによるとダビデ自身に対する、ウリヤの復讐に対する恐れがあり、少なくとも、自分の罪が公表されることに対する恐れがあった。また、そこには、彼が渇望していた女をすぐにも楽しめるではないかという誘いかけがあった。人々は、時として罪への愛によって罪に引きずり込まれていき、その結果として起こることへの恐れによって、その中に閉じ込められることがある。しかし、いずれにせよ、これら2つが相合う場合には、何かが私たちを誘い込み、何かが私たちを恐れさせ、その間になされる理屈づけが、たちまち私たちをがんじがらめにしてしまう。――ならば、それは試練の時である。

 こういうわけで、これこそ「誘惑に陥る」ということであり、これこそ、その「時」である。それらの詳細については、この論述を展開していく中で取り上げられるであろう。

 III. これを防ぐために、私たちの《救い主》が規定なさった手段がある。それは2つのことである。――1. 「目を覚ましていること」。2. 「祈ること」。

 1. 最初のことは一般的な表現であるが、いかなる意味においても、眠りから目を覚ますという本来の意味だけに限定されるべきではない。目を覚ましているということは、守りを固めること、用心すること、また、守りを固めて用心するためのあらゆる方法と手段を考えること、敵が自分に近づいてくるあらゆる方法と手段を考えることに等しい。使徒はそう云っている(Iコリ16:13)。ここで「目を覚ましている」というのは、「堅く信仰に立つ」こと、良い兵士のように「男らしくある」ことなのである。それは、「用心する」こと、あるいは、自分に気を配ることに等しく、私たちの《救い主》によってしばしば云い表わされたことに等しい。たとえば、黙3:2がそうである。一様な注意深さと勤勉さを、神によって規定されたあらゆる方法と手段を通して、自分の心とあり方について、サタンの好餌と手練手管について、世にある罪の種々の好機と利点について働かせ、がんじがらめにされないようにすること。それが、この言葉によって私たちが強調されていることにほかならない。

 2. 第二の指示、祈ることについては、私が語る必要はない。その義務と重要性は、あらゆる人に知られている。単に私は、これら2つが、魂を誘惑から保とうとする信仰の努力全体をなしていると付言するのみである。



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