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第1章

 

以下に続く論述の骨格たる聖句の言葉――その言葉が語られた機会と前後関係――それらによって特に目指された事がら――その言葉の手近で一般的な目的に関して考慮すべき事がら――誘惑の一般的性質について。その本質的要素――誘惑の特別な性質――積極的および消極的な意味における誘惑――神がいかにある者らを試みるか――神がそうされる目当て――神がそうされるしかた――特別な性質を有する誘惑について。その活動について――誘惑の真の性質が述べられる

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「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」。――マタ26:41

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 私たちの《救い主》のこの言葉は、三人の福音書記者によって、ほぼ変わらぬしかたで繰り返されている。僅かな違いは、マタイとマルコが上で書かれた通りに記録しているのに対し、ルカがそれを、「起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい」、と記していることでしかない。それで、主の警告の完全なかたちは、「起きて、誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」、といったものであったと思われる。

 ソロモンの告げるところ、ある人々は、「海の真中で寝ている人のように、帆柱のてっぺんで寝ている人のようになる」という(箴23:34)。――これは、破滅のとば口にありながら、何の心配もないと高をくくっている人々のことである。もし一度でも、海の真中の帆柱のてっぺんで寝ている人のようになった哀れな魂があったとしたら、この園における私たちの《救い主》の弟子たちこそ、まさにそれであった。彼らの《師》は、ほんの少し離れたところで、「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」ておられ(ヘブ5:7)、そのとき、彼らのもろもろの罪ゆえの呪いと御怒りに満ちた杯を手に取り、味わい始めておられた*1。――その一方で、彼らを滅ぼすために武装したユダヤ人たちが、ほんの少し離れたところにいた。私たちの《救い主》は、ほんの少し前に彼らに告げたばかりであった。その夜ご自分が裏切られ、引き渡されて殺されることになる、と。彼らは、主が「悲しみもだえ」ておられたのを見ていた(マタ26:37)。否。主ははっきりと彼らに、ご自分が「悲しみのあまり死ぬほど」であると告げ(38節)、それゆえ、ここを離れないで、いま死のうとしている――それも、彼らのために死のうとしている――自分といっしょに目をさましていてほしいと願われた。こうした状況にありながら彼らは、主を少し離れたところに残したまま、あたかも、主への愛も自分たち自身への気遣いも全く打ち捨てたかのように眠り込んでしまったのである! 最上の聖徒といえども、ひとりきりにされると、たちまち、どうしようもない碌でなしになってしまう。私たち自身のあらゆる力は弱さであり、私たちのあらゆる知恵は愚かさである。ペテロはそのひとりであった。――ほんの少し前には、あれほど自信満々に、たとい全部の者が主を見捨てても自分だけはそのようなことはしないと断言していたペテロであった。――私たちの《救い主》は、この件を特に彼に向かって諭された。「イエスは……ペテロに言われた。『あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか』」(40節)。それは、こう云われたも同然であった。「ペテロ。お前は、わたしを決して捨てはしないと自慢した舌の根も乾かぬうちに、そのようなことをしているのか? 一時間も、わたしといっしょに目を覚ましていられないというのに、いざ急場になったとき最後まで耐え抜くことなどありえるだろうか? お前が私のために死ぬというのは、わたしがお前のために死のうとしているときに、のうのうと寝くたばっていることなのか?」 そして実際、これほど大言壮語したペテロがたちまち不注意になり、その約束を守るのを怠ったなどというのは、それだけで考えると、驚くほかはない。だが私たちは、それと同じ裏切りに走りやすい傾向の根が、自分自身の心にも巣くっており、働いているのを見いだすのである。そして、その実が毎日結ばれて、いかに気高い従順への誓いもたちまち嘆かわしい怠慢のうちに終わらせているのを目にしているのである(ロマ7:18)。

 この状況にあって、私たちの《救い主》は、彼らの状態と、彼らの弱さと、彼らの危険について彼らの注意を喚起し、彼らを奮起させ、門口まで近づいていた破滅を食い止めさせようとしておられる。主は云われた。「起きて、目をさまして、祈っていなさい」、と。

 私はここで、私たちの《救い主》が、そのときみそばにいた者たちにこの警告を与えて特に果たそうとなさった目的について詳しく説こうとは思わない。彼らに迫りつつあった大いなる誘惑――十字架のつまずきによる試練――は、疑いもなく主の眼中にあった。――だが私はこの言葉を、キリストのすべての弟子たちに対する一般的な指針――ありとあらゆる時代の弟子たちが主に従おうとするときにあてはまる指針――を含むものとして考察したいと思う。

 この言葉には3つのことが見られる。――

 I. 警告されている――誘惑
 II. それがはびこる手段――私たちがそれに陥ることによって。
 III. それを防ぐための方法――油断せずに、祈ること

 私は、誘惑についてわかりきったことを扱うつもりはない。単に誘惑の一般的な危険と、その危険を防ぐ手段についてのみ扱おうと考えている。だがしかし、私たちが何を主張しているか、何について語っているかを知っておくために、誘惑の一般的性格に関わることを多少は前置きとして語っておくのがよいであろう。

 I. 第一に、試み[tempting]や誘惑[temptation]は、その一般的な性質としては、中立の事がらに入る。ある器の中の液体がいかなるものかを知るために、その器を試し、実験し、試験し、貫通すること。それがこの言葉によって意味されていることのすべてである。こういうわけで、時として神は人を試みると云われる。また私たちは、自分のうちに何があるかを試み、自分自身を探ることを――また、神がそうしてくださるように祈ることを――義務として命じられている。だから誘惑は短刀のようなもので、肉を切ることもできれば、人の喉笛を掻き切ることもできるのである。人の食物にも毒にもなり、人を働かすことも滅ぼすこともできるのである。

 第二に誘惑は、その特定の性質として何らかの悪を意味する場合、人を悪に至らせる積極的なものか、悪と苦しみをうちに有する消極的なものかのどちらかであると考えられる。それで誘惑は患難と解されている(ヤコ1:2 <英欽定訳>)。そうした意味では、私たちは「誘惑に会うときは、それをこの上もない喜びと思」うべきである。別の意味では、私たちは「それに陥る」べきではない。

 また、積極的に考えられた場合、一方でそれは、誘惑の特別の目的――すなわち、悪に導くこと――を果たそうとする誘惑者における意図を意味する。それで、そうした罪をもたらそうという意図においては、「神は……だれを誘惑なさることもありません」、と云われる(ヤコ1:13)。――もう一方でそれは、誘惑の一般的な性質と目的、すなわち、試みを意味する。それで、「神はアブラハムを試練に会わせられた[試みられた]」(創22:1)。また神は、偽りの預言者たちによって試したり、試みたりなさる(申13:3)。

 さて、神がだれかを試みることについては、2つのことを考察すべきである。――1. 神がそうなさる目的。 2. 神がそうなさる方法。

 1. 第一のこととして、神の一般的な目的は2つある。――

 (1.) 神がそうなさるのは、人に、その内側にあるものを示すためである。――すなわち、その人自身を、その人の恵みか、その人の腐敗かに即して示すためである。(いま私は、神の裁きとして人が意固地にされる際に関与し、力を添える誘惑のことは語っていない)。恵みと腐敗は心の深いところに横たわっている。人はしばしば、そのどちらかを探る場合に思い違いをする。私たちが、いかなる恵みがあるかを試そうとして魂をさらけ出させると、腐敗が出てくる。また、腐敗を探ると、恵みが現われる。それで魂は不確かな状態に置かれる。私たちは自分を試すことができない。だが神は、底まで達する定規を携えてやって来られる。神は、その試験用の器具を胆の奥底と魂の最深部に送り込み、人に何が自分の中にあるか、いかなる地金で自分ができているかを見させなさる。このようにして神は、アブラハムを試みて彼にその信仰を見せてくださった。アブラハムが自分にいかなる信仰があるか(つまり、自分の信仰にいかなる力と強壮さがあるか)を初めて悟ったのは、神があの大いなる試練と試みによって、それを引き出してくださったときであった*2。そのようにして神は、ヒゼキヤを試みて彼の高慢に気づかせてくださった。神は彼を捨て置いて、彼に何が自分の心にあるかを見せてくださった(II歴32:31)。そのとき見られたほど思い上がりがちで高慢な心が自分にあると彼が初めて自覚したのは、神が彼を試み、彼の汚物を引き出し、彼の面前にそれをぶちまけなさったときにほかならなかった。聖徒たちが、感謝と、謙遜と、貴重な経験を積むことにおいて、そのような発見から何を得られるかについては、私は扱わないことにする。

 (2.) 神がそうなさるのは、人にご自分を示すためである。すなわち、――

 [1.] 恵みを妨げるという方法によって。人は、神だけが自分をあらゆる罪から守るお方であると見てとる。私たちは、誘惑されるまで、自分自身の力で生きていると考えている。いかなる人があれやこれやを行なっていようと、自分はそうではない、と。だが試練が来るとき、私たちはたちまち、立ち続けるか倒れるかすることによって自分の守りがどこにあったのかを見てとる。アビメレクの場合がそうであった。「(わたしは)あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ」(創20:6)。

 [2.] 恵みを新たにするという方法によって。神は、聖パウロに対する試みが続くことをお許しになり、恵みを新たにするご自分の力の十分さによって、彼にご自分を啓示しようとなさった(IIコリ12:9)。私たちは、誘惑が立ち現われて、それと自分自身の弱さとを比べてみるまでは決して、神がいかなる力や強さを自分たちのために奮っておられるか、また、いかに神の恵みが十分であるかを知ることはできない。解毒剤の効用に気づくのは、毒を呑み込んだときである。また、薬の貴重さがわかるのは病によってである。私たちは、誘惑のうちにいかなる力があるかを知らない限り、決して恵みのうちにある力を知ることはない。試みを受けない限り、決して自分が保たれていると実感することはない。それ以外にも神は、多くの善と恵み深い目的を、その試練と試みによってご自分の聖徒たちに対して実行なさるが、今はそれらについて詳述するつもりはない。

 2. 神がこうしたご自分の吟味と、試みと、試練を実行なさる方法のいくつかを以下にあげてみる。――

 (1.) 神は、人々を途轍もない義務に就かせなさる。それは、彼らが自分にそのような力があるとは到底思えないような、あるいは、実際そのような力がないような義務である。そのようにして神は、息子をいけにえにする義務に召すことによってアブラハムを試みられた。――理性にとっては馬鹿げており、自然の情にとっては苦々しく、いかなる点から見ても彼には悲痛なことであった。多くの人々は、自分の力を全く越えているように思えること――実際、自分の力を現実に越えていること――をさせられて初めて、自分の中に何があるか、あるいは、いかなる力が自分の手の届く所にあるかを知ることになる。神が通常、私たちの手からお求めになる種々の義務は、私たちが自分のうちに有する力に応じたものではなく、私たちのためキリストのうちに蓄えられている助けと救援に応じたものである。そして私たちは、自分には毛頭も能力はないのだという確固たる確信とともに、この上もなく大きな偉業に取り組むべきである。これが恵みの法則である。だがしかし、何らかの尋常ならざる義務が求められるとき、その隠れた意味はまれにしか明らかにされない。キリストのくびきにおいて、それは試みであり、試練である。

 (2.) 彼らを途轍もない苦しみに遭わせることによって。いかに多くの人々が、火刑柱につけられて死に、キリストのための苦しみを耐える強さを、思いもかけず見いだしてきたことか! だが、彼らがそれらに召されたことは試みであった。ペテロが告げるところ、これこそ私たちが試される試練へと召される1つのしかたである(Iペテ1:6、7)。私たちの試練は、「火のような試み」から生ずるが、その目的は、私たちの信仰を試すことにほかならない。

 (3.) 神が物事を摂理的に配して、罪に至らせるきっかけが人を助けるものとされることによって。それが申13:3で言及されている場合であり、他にも無数の事例をつけ加えることができよう。

 さて、こうした事がらは、神から出ており、いま示されたような神の目的がこめられているため、正当には神による誘惑ではない。それゆえ私はこうしたものを、現在の考察とは切り離すことにする。私が示したいと考えている誘惑とは、ある特別な性質を有する誘惑である。すなわち、それが罪を犯させようとする積極的な作用を意味するような場合の(悪をして悪に至らしめるような)誘惑である。

 この意味における誘惑は、悪魔だけから発するか、世や、世の他の人々や、私たち自身や、そうしたすべて、あるいは、そのいくつかの種々の組み合わせから発するものである。

 (1.) サタンは時として、世や、世の中にある物事や者共、あるいは私たち自身をも全く利用することなく、単独に、自分ひとりで誘惑することがある。そのようにして彼は、神に関する邪悪で冒涜的な思念を聖徒たちの心に注入することに携わるのである。それは彼だけの働きであり、世や私たち自身の心にあるいかなるものに乗じてなされるものでもない。というのも、天性はそのようなことに決して加担せず、世にあるいかなる事物や者共も、そうはしないからである。神を思い描いて、神について悪く思い描ける者はだれひとりいない。こういうわけで、そののうちにあるのはサタンだけであり、その刑罰を受けるのも彼ひとりであろう。これらの火矢は、彼自身の悪意という鍛冶場で鍛えられたものであり、その毒液と毒物のすべてが塗りたくられたまま、くるりと向きを変えて彼自身の心に永遠に突き刺されるはずである。

 (2.) 時として彼は、私たちの内側からの助力を全く受けずに、この世を利用し、世と団結して私たちを攻めてくることがある。そのようにして彼は、私たちの《救い主》を誘惑する際に、「この世のすべての国々とその栄華を見せ」た*3。彼が、ここでは詳述できない様々な者共や事物という形をとってこの世に見いだす援助の多彩さ――そこから彼が引き出す、ありとあらゆる種類のありとあらゆる時期における無数の道具立てと武器――については、到底云い尽くすことができない。

 (3.) 時として彼は、私たち自身からの援助をも借りることがある。私たちは、キリストのもとにサタンがやって来て誘惑した場合とは違う。主は、サタンが「わたしに対して何もすることはできません」と宣言しておられる(ヨハ14:30)。私たちはそうではない。ほとんどすべての場合、私たち自身の胸中には、彼がその目的を達するための確実な共犯者がいるのである(ヤコ1:14、15)。このようにして彼はユダを誘惑した。サタンは自分自身でも働いていた。彼は、キリストを裏切る思いをユダの心に入れた。その目的のために、「ユダに、サタンがはいった」(ルカ22:3)。また彼は、「銀貨三十枚」をユダに提供し、と、その中にあるものを働かせた(「彼らは……ユダに金をやる約束をした」(5節))。また、世の中にある人々、すなわち、祭司やパリサイ人たちを働かせた。そして、ユダ自身の腐敗という援助を呼び込んだ。――ユダは貪欲であり、「盗人であって、金入れを預かっていた」[ヨハ12:6]。

 しようと思えば私は、いかに世と私たち自身の腐敗とが、この誘惑という件において、単独で動いたり、サタンと、あるいは互い同士と連携をとって動いたりするかを示すこともできよう。しかし、実を云えば、誘惑の原理と方法と手段、その種類と程度と効力と原因とは、あまりにも云い尽くしがたいほどに数多く、種々雑多であり、摂理や、気質や、霊的また天性による状況などから誘惑が生ずる種々の状況や個々の事例も、あまりにも無数で、整然とまとめるには、あまりにも際限がなさすぎるため、それらの説明をし始めれば、どこまでも延々と続けざるをえなくなるであろう。そこで私は、私たちが油断しないでおくべきものの一般的な性質を叙述するだけでよしとしたい。その後で、目指す本論に入るであろう。

 さて、一般に誘惑とは、いかなる理由においてであれ、ある人の精神と心を、神がその人に求めておられるその従順から、何らかの罪に、いかなる程度においてであれ、誘い、引き寄せるような力あるいは効力を有する、あらゆる事物、状態、あり方、状態のことである。

 特に、ある人にとって、自分に罪を犯させたり、義務をいとわせる何かに至らせたりする原因か、きっかけになるものは誘惑である。それは、悪を心に引き込むことによる場合もあれば、心の中にある悪を引き出すことによる場合もある。あるいは、何か別のしかたで、その人を神との交わりから――また、その人に求められている、不断の、常に変わらぬ、陰日向ない、事と態度における従順から――そらすことによる場合もある。

 この記述を切り上げるにあたり、最後に1つだけ述べておきたい。確かに誘惑という言葉は、相当に活発な意味を有するように思われ、罪そのものに誘い込む力しか表わしていないように見えるが、聖書においては、普通それは、中立的な意味で受けとられており、誘惑の中身か、私たちが誘い込まれる物事を示しているのである。これこそ、ここまでの記述の土台にほかならない。たといそれが何であれ――いかなる物事であれ――私たちの内にあるものであれ外にあるものであれ――、義務の妨げとなるほどの強みがあって、罪を引き起こすか、いかなるしかたであれ罪のきっかけとなるかするようなものはすべて誘惑であり、誘惑とみなされるべきものである。それが取引であれ、仕事であれ、人生行路であれ、仲間、情愛、天性、あるいは腐敗した意図、人間関係、喜び、名声、評判、誉れ、種々の能力、肉体あるいは精神の才能あるいは卓越性、地位、高位、技芸のいずれかであれ、――もしそれらが、いま言及したような目的を進めるか助長するかするものだとしたら、それらはことごとく、最も猛烈なサタンの誘いかけや世俗の魅惑に何ら劣らず、まぎれもない誘惑なのであって、それを見てとっていない魂は、破滅の瀬戸際にあるのである。このことは、先に進むにつれて、より明らかにされるであろう。


*1 ヘブ2:9; ガラ3:13; IIコリ5:21。[本文に戻る]

*2 創22:1、2。[本文に戻る]

*3 マタ4:8。[本文に戻る]

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