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第14章 寡婦時代

 スポルジョン夫人の寡婦時代はほとんど12年間続き、ある意味で、1892年以来の生活は、並外れてさびしいものであったに違いない。確かに二人の息子は常にそばにいて母の心を慰め、励ましてくれたし、願いを口にしさえすれば、亡夫の多くの友人たちがいつでも喜んでその願いをかなえようとしてくれてはいたが。しかしながらこの婦人は、どれほど深い嘆きを覚えていようと、他の人々を思いやり、善を施す働きから身を引き離し、うちにこもることはしなかった。実のところ夫人の晩年は、その寄る年波と弱さを考えに入れれば、生涯で最も忙しい時期であった。《書籍基金》は決して停止信号を受けることが許されなかったし、《牧師救援基金》は、いつなりとも経済的に困窮した、しかるべき教役者を助ける用意ができていた。また、元々の組織から枝分かれした他の多くの働きも順調に成長を続けていた。その上でスポルジョン夫人は、相当の時間を文筆活動に費やした。その主著はもちろん、ハラルド氏の援助を得て、故人の日記と手紙と様々な記録とを元に編集された『C・H・スポルジョン自伝』である。同書は、広く知られているように、四冊の大型本からなる堂々たる大著で、完成までにスポルジョン夫人が何年もかけて、夫の書簡、説教、著書を丹念にふるいにかけて材料を集めたものである。

 スポルジョン夫人自身、夫の家庭生活と結婚生活を扱っている章を自ら記したが、そうした章の多くの箇所には、夫人が常にいだいていた、夫のもとに行きたいという切ない憧れが示されていた。ある箇所では、このように書かれている。「あゝ! 愛するあなた。私たちが、われを忘れるほど喜びとしていた、ほむべき地上の絆は、今やほどかれてしまっており、定命の私の目から死があなたの姿を隠してしまっています。ですが、死でさえあなたを私から切り離したり、私たちの心を堅く結び合わせていた愛を引き裂くことはできません。私はその愛が今なお生きて成長しているのを感じます。また、その愛が完全に、また霊的な形で育ちきるのは、ただ私たちが栄光の国で会い、御座の前でともに礼拝するときのほかをおいてないと信じます!」 この言葉が書かれたのは1898年だが、それと夫人の《書籍基金》の1891年度年次報告書を比べてみると、時間と仕事のおかげでこの婦人がどれほど聖なる諦念をもって、自分の憧れ求める再開の時を待ち望むようになったかが分かる。スポルジョン夫人は、夫の死後まもない頃にはこう書いているのである。「おゝ、愛する、愛するあなた! 今の私は、このうら寂しい生活の一瞬ごとに不思議に思います。あなたなしに、どうやって生きていけるというのでしょう! あれほど長年月の間あなたの愛で満たされ、満ち足りていた心は、あなたがいない今、まるでうつろに感じ、打ちひしがれずにはいられません!」

 文章家としてのスポルジョン夫人は、まれにみる文筆の賜物を有しており、夫人の文体は夫といささか似たものがあった。まだスザンナ・トンプソン嬢だった頃に夫人は、C・H・スポルジョンの求めにより、清教徒の牧師トマス・ブルックスの著作から抜粋した小さな本を編集するという仕事の手伝いをすることになった。恋する人から、「一冊の古めかしい、錆びたような見かけの本」を渡され、それを読み通して、その中の段落か文章の中で、特に甘やかであるか、趣があって美しいか、教えられるかするものに印をつけてほしいと頼まれたのである。そして、この若い娘は、恐れおののきながらも引き受けることにした。その結果は、『昔の川(ブルックス)から取られたなめらかな小石たち』と題された小著となった。ちなみに、スポルジョン夫人が労した最初の著作物であるこの本は、最近パスモア&アラバスター社によって復刊されたばかりである。『書籍基金のために働いた私の十年』および『十年後』については先に言及したが、ことによると、スポルジョン夫人の著作の中で最上のものは、それぞれ次のように題された三冊の優美で小さな霊想書であると感じられるかもしれない。『無代価の恵みと死に給う愛という古い真理を鳴り響かせる組み鐘』、『ヘンナ樹の花ぶさ、あるいは、病んで悲しむ魂を励まし慰める言葉』、『一かごの夏のくだもの』。各巻は、それ自体として完結している。例えば、『組み鐘』においては、あらゆる頁でまさに鐘が鳴り響いているのが聞こえる。どのような種類の霊想書に目を向けても、この一冊の語り出しの言葉にまして甘やかで真実な響きを伝えているものは見つけるのが困難であろう。「『ご自分の御子をさえ惜しま[なかった]……方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう』[ロマ8:32]。愛する主よ。信仰の指は今朝、喜びをもってこの甘やかな組み合わせ鐘の鍵に触れ、喜びに満ちた響きをもって、あなたの恵み深い御名をほめたたえようとしています! 『どうして……なさらないことがありましょう!』 『どうして……なさらないことがありましょう!』 『惜しまなかった方が!』 『どうして……なさらないことがありましょう!』 「これは何という絶対的な勝利の真珠でしょう! どのような疑いや不確かさの音符も、この《天的な》音楽を損なってはいません。わが心よ、目覚めなさい。そして、お前の信仰こそこのように栄光に富む旋律を奏でているものであることを悟りなさい。それを信じて喜ぶことなどできそうにないというのですか? ですが、それは、ほむべきほどに真実なのです。というのも、主ご自身がこの恵みを与えておられ、その上で、その恵みがもたらす感謝と賛美の貢ぎ物を受け取ってくださるからです。この美しい調べの鍵を何度も何度も叩きなさい。というのも、信仰は今日、祝祭を催し、救いの確信という喜びは驚異を成し遂げるからです。『惜しまなかった方が!』 『どうして……なさらないことがありましょう!』

 「聞きなさい。ここで繰り返されている否定表現が、どれほど栄光に富むような形で、神が喜んで祝福しようとしておられる事実を断言しているかを! この銀の鐘は本当に一切の悪いものを追い払う力です」。こうした書物に加えてスポルジョン夫人は、霊想その他の内容を記した、幾部かの『ウェストウッド小冊子』を著した。また、最近になるまで、過去数年間にわたって夫人自身が発行責任者となっていた『剣とこて』誌にたびたび寄稿していた。もう1つ、夫人が祈りを持って大きな関心を寄せていた働きは、『スポルジョンの絵入り暦』に記す日々の聖句を選び、その小さな冊子の刊行を準備することであった。ほぼ三十年もの間、夫人は聖書箇所を選んだ。そして、見つけるべき聖句が、年ごとに新鮮なものであり、かつ、文脈から切り離されても助けになる短いものであるという2つの必要条件を満たさなくてはならなかったことを思えば、それは決して軽い務めではなかった。

 他の種類の働きにもスポルジョン夫人は携わり、それを例によって情熱をこめて行なった。例えば、1895年に「ウェストウッド」が改装されつつあったとき、夫人はしばしの間ベクスヒルに行って滞在し、同地にバプテスト派の《会堂》が1つもないことを知ると、それが確立されるための祈りと働きを始めた。その努力の結果、まず、ある学校の付属会堂が開所し、1897年にはスポルジョン夫人自身が、見事な教会堂の礎石を据えた。「神の栄光のために、また、夫人の愛する夫君の非難されることのない生涯と、四十年に及ぶ公的な奉仕と、その印刷された聖書により今なお続けられている《福音》の布告をいつまでも記憶するために」である。この会堂は、その翌年、何の負債を負うこともなしに開所した。

 また1899年、現在のメトロポリタン・タバナクル――[火災で焼け落ちた]最初の会堂の代わりに建てられた建物――を建築するための寄付を募っている間、スポルジョン夫人は、ただ単にその《再建基金》に惜しみなく寄付を行なったばかりでなく、ある日――2月8日――タバナクルの地下で歓迎会を開き、その出席者たちから同基金への寄付金を一度におよそ6,367ポンド受け取った。

 1903年の夏、スポルジョン夫人は重い肺炎に罹り、病床に伏すことになった。そして、寝たきりになったまま二度と回復することがなかった。双子の息子たちのどちらか一方が毎日のように見舞いに訪れ、その生涯最後の日々にある母親を慰め、元気づけた。夫人は次第に弱り衰えていき、9月最初の週には、いのちの残り火があまりにもか細くなったために、いまにも揺らめいて消えるのではないかと思われた。そのときでさえスポルジョン夫人は、これほど長いこと信頼を置いていた神を信じる強い信仰を明らかに表わした。「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望もう」*[ヨブ13:15]と、かすかな声で語ると、次のような賛美歌の一節を引用し、その後の節を読み上げてほしいと付き添いの人々に要請したのである。「過去(すぎ)し主の愛 つゆ思わせず、困難(なや)めるわれを 主、捨て沈めんとは」。しかし、このか弱い夫人には、思いもかけず粘り強い生命力が宿っていた。日に日に弱っていきはしたが、それから数週間ながらえたのである。10月7日、夫人は息子のトマスに別れの祝福を与えた。「祝福が――お父様の神様の二重の祝福が――お前と兄さんの上にありますように」と口にしてから、少し後で、「お別れよ、トム。主がお前を永久永遠に祝福してくださいますように! アーメン」。最期が間近になって夫人は衰えた両手を組んで、顔を天の光で輝かせながら、大きくはっきりと口からこの言葉を発した。「ほむべきイェス様! ほむべきイェス様! 見えます、栄光にあふれる《王》が!」

 スポルジョン夫人は、1903年10月22日、木曜日の午前8時半に安らかに息を引き取った。そして、夫君のなきがらが横たわるノーウッド共同墓地に葬られた。C・H・スポルジョンが埋葬された折に、きわめて美しい言葉を述べたアーチボルド・ブラウン牧師が、ソーデイ牧師とともに、この大説教者の夫人のなきがらを前にして告別式を執り行なった。

  



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