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第13章 結婚生活の晩年

 1880年にスポルジョン夫妻は、クラパム区ナイチンゲール小路から、ノーウッドはベウラが丘の「ウェストウッド」に引っ越した。地上における二人の最後の家である。古い家を売ってこの新居を買うに至った尋常ならざる状況のことは、『チャールズ・ハッドン・スポルジョン伝』で細大漏らさず告げられているため、その物語をここで繰り返す必要はあるまい。新しい家には、それまでの家よりも良くなった部分が多々あった。ロンドンの煤煙や騒音から遠く離れて位置していたばかりでなく、各部屋がヘレンズバラ荘よりも広く、便利にできており、地所全体は千坪を越えていた。しかしながら、具体的な転居の前後は、大きな不快さを忍ばなくてはならなかった。もっともスポルジョン夫人の健康は、過去数年間よりはよほど良いものになってはいたが。その日記に夫人はこう記している。「この引越しによって、ひとの穏やかな巣が何と引っかき回されることでしょう。それに、これから永遠に離れ離れになるだろう、今まで慣れ親しんでいた物事が、何と慕わしく見えてくることでしょう。二十三年間身近に接し、幸せな思い出や厳粛な思い出で一杯になっているこの愛しい場所を思うと、心が張り裂けそうになります。家の中や庭園にある、どのくぼみも角々も、甘やかな記憶や悲しい記憶に満ちており、がらんとなった部屋という部屋の壁には、数限りないあわれみの思い出が、精緻な刺繍を施した綴れ織りのようにはりついています。この場所で、ほとんど四半世紀になろうとする、祝福に満ちた結婚生活が営まれたのであり、夫婦のどちらも激しい肉体的苦痛を味わい、何箇月も気力体力の衰えた状態を過ごすよう召されてきたとはいえ、私たちにとってわが家は、『ボキム』[士2:5]になるよりは、はるかにしばしば『ベテル』[創35:15]となってきました。もしも私たちが、やむことなく感謝をささげて黙らせなければ、壁という壁が私たちに向かって恩知らずと叫び立てるかもしれません。というのも、これまで主はここで山ほどの恩恵を与え、その大きな慈愛のしるしで、あらゆる空間を満たしてくださったからです。主のいつくしみという太陽は、私たちの愛する屋敷のあらゆる部分を私たちの心の印画紙の上に焼きつけました。そして、来たるべき日々には別の光や影がそこに反映されるに違いないとはいえ、それらが、こうした感謝に満ちた記憶によって大切に守られるだろう甘美な映像を消し去ることは決してないでしょう。優しい追憶は、病の部屋の光景をぬぐい去れないものにするでしょう。――その部屋は、私たちの霊にとって何度となくほとんど『天国の門』となってきました。愛する夫の細やかな心遣いによって整えられたその小部屋では、望むべくもないと思われた病からの回復がしばしば目にされたのです。書斎は、《牧師》の熱心な働きにとって神聖なものであり、神と自分自身の魂にしか知られない葛藤と心の交わりとを静かに目撃してきました。書庫は、《書籍基金》というほむべき働きのために、絶え間ない略奪と刷新をこうむってきました。こうした思いやりに満ちた環境のすべてから離れて、赤の他人の家に住むのは辛いことです。ですが、私たちは雲の柱が動くのを見て、私たちの《指揮官》の声が『前進せよ』と命じたのを聞いたと思います。ですから、信頼に満ちた従順によって自分たちの天幕を畳んで、主がお命じになった場所へと出発するのです。そして、私たちの新しい家は、私たちの主がともにお住まいになりさえすれば、私たちにとって『タボル』となることでしょう」。

 転居のあとでスポルジョン夫人はこの新居を喜んだ。「あの痛みに満ちた引越によって引き起こされた大騒ぎと厄介にもかかわらず」と夫人は書いている。「ベウラが丘で過ごした二週間は、大きな、そして、いつにない喜びの時となりました。この期間、まれに見るほど連続する健康と力に恵まれた、新しい所有者たちは、自分たちの小王国の様々な興味深い場所を一緒に訪れ、毎日のように嬉しい発見をしました。曲がりくねった庭園の小道を辿っていくと思いがけない空き地に出たり、地面と空の眺めへの賞賛の思いを日に日に強めていったり、浮き立つような清新な気分で明るい光に満ちた爽やかな大気を呼吸したり、絶えず立ち止まっては、このような相続の地を与えてくださった神のいつくしみに驚嘆したりといった具合です。それは、苦痛と病を永遠に谷間の中に置き去りにして、ほとんど新しい人生を送っているかのように思われました。……この明るい黄金の時は長くは続かないかもしれませんが、それを手にしている今この時には非常に貴重なもので、至福の記憶を後に残すことでしょう」。

 土曜日になると、他の家と同じようにここでも夫妻はともに、翌日の朝に夫が語ることになっている説教を作ることにいそしんだ。そして、そのように費やされた時は実に幸いな時間であった。時としてこの説教者は、語るべき聖句を決めかねると、こう言うのだった。「ねえ君、どうしよう。まだ神様が聖句を下さらないんだよ」。するとスポルジョン夫人は、できる限りのことをして夫を慰めるのだった。ことによると、夫人が適切な聖書箇所を示唆できることもあり、その場合、夫人の夫は説教を終えた後で、その説教を指して、「君がこの聖句を与えてくれたんだよ」と言って夫人にしかるべき称賛を送った。この婦人の語るところ、こうした土曜の晩、夫から書斎に呼ばれるときにはいつも、卓子のスポルジョン氏のそばに安楽椅子が引き寄せられており、開かれた本が何冊も積み上げられていたという。夫人は、そうした書物の一節一節を夫の指示するままに読み上げるのが常であった。「そうした古めかしい書物に囲まれている主人は、花々に囲まれた蜜蜂のようでした。どれほどみすぼらしく見える古書からも、甘美な掘り出し物を抽出し、手に入れる方法が分かっているようなのです。そうした書籍の内容が掌を指すように頭に入っており、いま注意を引いている聖書箇所について何事かを記している著者をたちまち指し示すのでした。そして私は、このように心地よい形で、そうでなければ全く知りもしなかっただろう数多くの清教徒その他の神学者に引き合わせてもらえました」。

 ノーウッドへの転居は、C・H・スポルジョンの健康のためになり、毎年行なわれる[南仏]マントンでの越冬を不要にするものと期待されていた。しかし、事はそのようには進まなかった。苦痛を伴うその病は一向に良くならず、夫婦は年ごとに悲しい別離を繰り返さなくてはならなかった。夫は英国の寂しい自宅にいる妻を思い、妻は遠いリヴィエラの愛する者を案じて気が気でなかった。痛風によるその苦悶は時として耐えがたいほどになっていたからである。しかし、そうした時でさえ、妻に対するこの人物の手紙には面白みが満ちていて、この婦人の心を元気づけ、可能な限り物事を明るく見せていた。「今は自分が、何か火山の中からぬっと顔を出したみたいな気がするよ」と、あるときスポルジョンは、重い病状から快方に向かい始めた折に手紙を書いている。その便箋には、山が描かれ、その噴火口の中から頭と肩をせり出しつつある自分の姿が描かれていた。

 時が経つにつれ、この説教者が病床に伏す期間は長くなり、その疾病の苦痛は激しさを増していった。1890年11月に、この人は希望に満ちてマントンに旅立ち、到着するとスポルジョン夫人にこう手紙を書いた。「何と天国にも似た陽射しだろう! まるで別世界のようだ。同じ惑星の上にいるとは全く信じられない。どうか、こういう土地によって完全に元気になれますように! 他の逗留客は三人――三人の米国人婦人――しかいない。君がやって来る余裕は十分ある」。しかし翌日には恐ろしい痛風がこの患者の右手と右腕に襲いかかった。それでもこの人はこう書いている。「日中は人間の最初の先祖が堕落する前のエデンのようだ。頭がしゃんとしたら、きっと愉快に過ごせると思う。熱くなった、この脳の容れ物にオーデコロンを垂らしてみた。それからは、目の前に広がる完璧な風景を眺めていさえすればいいのだ。こんな状態は『悪いもの』じゃない」。しかし病魔の攻撃は日増しに毒々しいものになっていき、この人は八日間も夫人への手紙を書けなくなった。だが、個人秘書を通じて夫人に私信を送った。「愛しているよとあれに伝えてくれ給え。からだは随分と悪く、家にいて君に看病してもらえたらなあと言ってほしい。だが、それがかなわない以上、何とか助けを得て回復したいと」。それから一通の手紙が届いた。その一字一字を判読するのはひどく困難だった。「右手がきかないのは、口がきけなくなるのと同じだね。夜のほかは良くなってきたよ。だれよりも君を愛している。痛みがやって来たときは家にいたいと思ったが、最悪の時はこちらの柔らかくてさわやかな空気が助けになった。ここは天国の門みたいだね。万事順調だ。こうして一行か二行は、もぐもぐと言えるようになったのだ。もう全く口がきけないわけじゃない。主はほむべきかな! 主は何といつくしみ深いお方だろう! ぼくはなおも神をほめたたえる。主が近くにおられれば、いくら不眠に苦しんでも、夜が恐ろしいほど苦いものにはならない」。この手紙には、「君自身の愛するベニヤミンより」と署名されていた。――それを左手で書いた事実に、おどけて言及したものである[I歴12:2参照]。それ以後、病からの回復は遅くなったが、「おゝ、君がここにいたらどんなに良いだろう!」といった表現からは、どれほどスポルジョンが妻にそばにいてほしいと切望していたかがはっきりうかがえる。12月8日、この人物は、「きょうは自分で着替えができたよ」と大喜びで書き記し、しめくくりにこう告げた。「君の手紙には、いつもうっとりする。君の書く文字は、書かれた内容をみな音楽にして奏でてくれるのだ。君の上に神の祝福あれ! だが君は自分の具合がどんなだかは書いてくれないんだね。書いてくれないと、ぼくは君に毎日手紙を書くよ」。スポルジョン夫人は、夫の苦痛をこれ以上増やしたくないという愛情から、自分の衰弱した様子については隠していたのである。その年の英国が厳寒になったとき、スポルジョンはこう書いている。「ひどい寒さになったとのこと、とても案じている。主はじきに祈りに答えて、君にやさしい南風を送ってくださるだろう。そしてそのときには、ぼくも元気になり、散歩に出かけて主の御名をほめたたえることだろう。陽光の一筋によってでも『ウェストウッド』を照らし出せるような何かかを、いま考えつければ良いのだが。もしもぼくの愛が光だとしたら、君は太陽の中で暮らせるだろうとも。明日には君に何本か薔薇の花を贈ることにしよう。そうすれば、それがもっと気候の良い日の預言になると思う」。それから数日後にスポルジョンはこう書いている。「君のためにも、貧しい人たちのためにも、病む人たちのためにも、天候が変わるようずっと祈っている。ぼくの心の炭火を入れた火鉢を君に送ることができたらどんなに良いことだろう。そこには炎が燃え盛っているからね」。この献身的な愛情を与え合う二人は、ともに生きる人生の終幕にあって、このような手紙を交わし合っていたのである。というのも、スポルジョン夫人自身の手紙は手に入っていないが、夫からの返信のそこここに記された言及からして、二人が同じように愛に満ちた性格をしていたことは明らかだからである。

 降誕祭が過ぎるまで、この説教者は大きな苦痛の中にあった。しかしながら、だからといって、「本や手紙の山の中を掘り進める」のをやめたわけではない。そして1891年の元旦にはこう書いている。「ぼくの一番大事な愛する人にとって、今年が幸せな一年となりますように! それがどれほど幸せなものとなってほしいと思っているか示せるものなら、この一字一句を特筆大書したいと思う。……先ほどは心地よい夏の日差しの中を馬車で遠出してきたところだ。おゝ、君がぼくの隣に座っていてくれたなら、どんなに良かっただろう! 今しがた君のとても素敵な手紙を読んだ。いとしい最愛の君のために、そちらの悪天候を変える力があればと、どんなに願っていることか。ぼくには、ただ祈ることしかできないが、祈りは風と雲を動かす御手を動かすのだ。願わくは主ご自身が君を慰め、どんな困難の下にあっても君を支え、ご自分の臨在によって君の欠けを埋め合わせてくださるように。健康の欠けをも、暖かさの欠けをも、夫の欠けをも!」

 その後スポルジョン夫人は、自分の誕生日に一通の手紙を受け取った。その中で夫はこう書いていた。「きっとこの手紙は、大切な君の誕生日に届くものと思う。幾万もの祝福が君の上にあるように! ……何と測り知れない幸いを君は、これまでも今も、ぼくにもたらしてくれたことか! 苦しみにおける君の忍耐と、奉仕における勤勉は、君のうちにおられる聖霊のみわざなのだ。主の御名はほむべきかな。ぼくへの君の愛は、単に自然の情から生じたものであるばかりでなく、恵みによって大きく聖められているため、ボクにとっては霊的な祝福となっている。願わくは、君がなおも支えられるように。そして、たとえ苦しみに遭うことから守られなくとも、沈み込むことからは保たれるように!」

 その間ずっとスポルジョン夫人は、自分自身も激しい苦しみの中にありながら、たゆみなく他の人々を助けるために働いていた。《書籍基金》と《牧師救援基金》は大車輪で活動していた。そして、職を失い、引き続く寒気のためにすさまじい苦境に陥っていた、ソーントン・ヒースの貧民たちを少しでも救済しようと、婦人はウェストウッドに肉汁の無料食堂を開き、貧民街で石炭の無償配給を行なった。それを聞き及んだC・H・スポルジョンはこう書いている。「君が貧しい人たちへの給食をしているのを嬉しく思う。どうかぼくに代わって10ポンドを使ってくれたまえ。決して出し惜しみはいけないよ」。

 ついに2月2日、この患者は、一見すると大いに具合が良くなったため、英国に向かって出発した。同日の朝には、妻に宛てて短い手紙を書き、このように言葉でしめくくった。「ぼくらが互いを失わないようにしてくださった神はほむべきかな」。しかし、一見して良くなったかに思えた健康は、決して本物でも長続きするものでもなかった。本稿は、英国でC・H・スポルジョンが過ごした最後の日々について詳しく物語る場所ではない。この牧師は、1891年7月7日日曜の朝にタバナクルで最後の説教を行なったが、その直後から重篤の状態に陥り、最悪の事態も危ぶまれた。スポルジョン夫人は疲れを知らぬ看護婦となり、その痛ましい試練の中で全国の同情を一身に集めた。前首相グラッドストン氏はこう書き送っている。「わが家も今は憂悶に包まれていますが、その中で私は、悲しい関心とともに、スポルジョン氏の日々の容態について読んできました。そして、ここにお伝えせずにはいられないのは、お二人に対する私の篤く確かな同情の念であり、氏に対する私の心からなる称賛の念です。それは氏が、数々の素晴らしい能力ばかりでなく、それにもまして、一意専心する、常に変わらぬ品格を持っておられるからです」。他の著名人士からも、国教会の何人かの主教をも含めて、見舞いの手紙がスポルジョン夫人のもとに寄せられた。患者の容態は向上せず、10月26日に、妻と数名の友人に付き添われてマントンへと出発した。後にスポルジョン夫人の介添えであり友人でもあるE・H・ソーン嬢が一行に加わり、この二人の婦人は交代で、この動きもならぬ病人の看病に当たった。氏は最初のうちは南部の陽光のおかげで持ち直したように見えた。しかし、1月20日には重体に陥り、スポルジョン夫人が病床に付ききりになった。C・H・スポルジョンは、そこから二度と立ち上がることがなく、五日間意識不明の状態が続いた後で、1892年1月31日、「その妻と四人の親しい友に見守られながら」息を引き取った。

 想像されるだろう通り、これまで心を込めて尽くしてきた妻にとって、夫の死はすさまじい痛手であった。だが夫人を支えるものがあった。自分も遅かれ早かれ、二度と別れも離別もない国で夫とともにいることになると知っていたのである。最初の衝撃が過ぎ去るや否や、この少人数の人々は故人の横たわる部屋で膝をつき、その個人秘書であったハラルド氏が祈りをささげた後で、スポルジョン夫人が祈った。その祈りは、この尊い宝物がこれほど長いあいだ自分に貸し与えられていた恵みに対する感謝を主に申し上げ、これから先に必要とされる強さと導きを恵みの御座に乞い求めるものであったという。その後夫人は、豪州にいる息子トマスに電報を打つことができた。「チチメサレ ハハユダネル」。世界中のあらゆる所から弔意を表する手紙が寄せられ、英国から送られたものの中には、現国王陛下と女王陛下からのお悔やみを記したものも含まれていた。遺体は埋葬のため大至急本国に移送され、そのなきがらに添えてスポルジョン夫人は、マントンから何本もの棕櫚の枝を送った。タバナクルに安置された棺を囲んで立てるためである。夫人自身は、ラ・モートラのハンベリー氏のお客として、もうしばらくリヴィエラにとどまっていた。夫人は言う。「その橄欖の木々と、薔薇で覆われたいくつもの露台とに取り巻かれる中で私は、愛する《主人》から、真の愛情を測る物差しがどこにあるかを教えられました。弟子たちに語られた、主のこのお言葉が思い起こされたのです。『あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです』[ヨハ14:28]。そして、そのようにして私は悟らされました。愛する夫が永遠の至福に浴していることを思えば、私自身の利己的な嘆きや悲しみを乗り越えて、消し去らなくてはならないのだと」。

  



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