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第12章 引き続く《書籍基金》の成功

 本稿の中で、スポルジョン夫人の《書籍基金》の歴史といったようなものを示すことは全くもって不可能である。この働きの成長と成功と発展の詳細な説明を知りたいという人は、スポルジョン夫人自身が著した報告書集、『私の生涯の十年間』と『十年後』を見れば求めるものがあろう。この働きが本当に成長し、本当に成功し、本当に発展した事実は、十二箇月連続の統計値を比較すれば明らかであろう。こういうわけで、1881年に配布された書籍数は7,298冊を数え、C・H・スポルジョンの単体説教は10,517部が小包で送付された。1883年、年間の配布書籍は11,351冊に増え、その翌年は9,149冊と説教が11,981部であったが、三年後の年間配布数は、11,311冊と21,227部の説教である。

 その時以来、送付される冊数は財務状態に従い年々に変動している。また、スポルジョン夫人のからだが次第に弱っていったこともあり、働きは1883年の最高水位点からいささか遠のいていった。夫人によって発行された最後の報告書――1901年版と1902版――が示すところ、その二年間に10,113冊が配布され、同《基金》が開始してから二十七年間で199,315冊の貴重な神学書が、購入するだけの資力を持たない教役者、説教者、宣教師らの手に渡ったという。実際これは、病身の一婦人によって行なわれた奉仕としては驚異的な記録であり、比肩する働きを探すのは困難であろう。《書籍基金》とその支部組織で必要とされる働きの全体を、スポルジョン夫人個人は精を出して行なっていた。通信文のやりとりだけでもいかに重労働であったかは、一箇月に届く手紙の数が平均して五百通にもなり、最も多かった二度の時期には、それぞれ四週間で657通と755通に達していた事実からある程度は察しがつくであろう。また、その働きはみながみな、「瑞々しい果実と花々」ではなかった。というのも、スポルジョン夫人が自分の檸檬の木にいくらか鋭い棘が生えていた事実に言い及んで告げるところ、《書籍基金》との関係においても、そこここに棘があり、不用意に触れると手を傷つけることになるのだった。一部の教役者たちは、そのふるまいからすると明らかに《書籍基金》の性質をはなはだ誤解しているか、自らの役職とは異様に不釣り合いな人格をしているらしく、ほとんど頭ごなしに要求するも同然の手紙を書いて寄こすか、書籍を贈与する際に必要な条件を全く無視して、自分の収入が年間150ポンド――書籍贈与を受けられる収入上限額――を下回るかどうかを尊大な様子で言おうとしなかった。ひとりの人は、自分の経済的状況については一言も言わずに、書籍贈与を要請してきた後で、その収入がこの働きの範囲内に入るかどうか教えてほしいと優しく問われたとき、怒った調子で返答した。「恐れながら小生は、<乞食>と見なされたいとは思っておりませんぞ」。

 上の出来事について述べながらスポルジョン夫人はこう書いている。「《主人》は、守るべきこのお務めを私にお与えになって以来、私が《主人》のしもべたちに対して穏やかな優しい心でお仕えしようとしてきたことをご存知です。ですが時たま、主のしもべたちの中には、私が奉仕している気持ちを全く見てとらず、私の贈り物を、もらって当然の権利であるかのように要求したり、施し物であるかのように蔑視したりする方々がおられます。こうした醜い棘は、私の美しい木にはごくまれにしかありません。私の働きに感謝する、丁寧な、愛に満ちた言葉が送られてくるのが通例で、その規則に外れたものが送られてきても、ごく容易に赦し、忘れることができます。私が年代記編者として、事実に忠実に、また自分の書いている歴史の両面を公正に示す義務を負っていなかったとしたら、このきわめて快く、ほむべき奉仕に伴った、こうした痛ましい部分は記録せずにすませておくべきだったと思います」。

 あれほど病床に伏しがちだったスポルジョン夫人が、《書籍基金》をこれほど活発な状態に保っていられた事実は真に驚くべきである。何度となく夫人は全く寝たきりになり、再び回復期になっても、体力が著しく衰えていたため、主への奉仕に全身全霊をささげ尽くした婦人でない限り、到底これほどの大事業によってしいられる精神的、肉体的な緊張は支えきれなかったであろう。『私の生涯の十年間』は、著者である婦人と出版社の好意によって収益を《書籍基金》に寄付された記録だが、その序文の中でC・H・スポルジョンはこう書いている。「感謝をこめて私は、私たちの天の御父のいつくしみをほめたたえたいと思う。御父が、私の愛する妻を導いて携わらせてくださった働きは、妻にとって言葉に尽くせぬほどの幸いを豊かに生み出すものとなったからである。その働きのために妻が、ここで明らかに示すのはふさわしくないほど大きな痛みを感じさせられたことは、まぎれもない事実である。だが、その働きのおかげで妻が、測り知れないほどの喜びを与えられたことも同じくらい確かなのである。私たちのいつくしみ深い主は、ご自分のしもべたちの必要を満たすという奉仕へと、恵み深くも妻を導き入れたとき、苦しんでいるご自分の娘にとって最も効果的な配慮を行なってくださった。こうした手段によって妻を個人的な悲嘆の中から召し出し、その生活に張りをもたらし、ご自分との不断のやりとりの中に引き入れ、地上的な喜びや悲しみに支配されるものとは全く違う領域の中心近くへと引き上げてくださったのである。こうした経験から考えられる1つの結論を、どの信仰者も受け入れてほしいと思う。人が疾病に苦しんでいるとき、その痛みを最も軽くし、その苦しみに最も良く対抗するための道は、多くの場合、自分を犠牲にして主イエスのための働きに打ち込むことにあるのである」。

 しかしながら、この筆者[スポルジョン]は、その体力が日増しに衰えつつある妻には、現在のような調子で日々増進している働きを続けていく力はないとも語っている。「この日以来、愛する妻は、その働きを緩やかなものにしなくてはならないと感じている。この業務は手に余るものになってしまった。荷車が馬を押しつぶしつつあるのである。この奉仕の一端は他の人々の手に渡されなくてはならない。というのも、私にとっては非常に悲しいことに、過度の圧力によって今では、疲労感の方が着実に増し加わりつつある状況が見えているからである。毎朝、目を覚ますたびに、うず高く積まれた手紙の山が待っており、一日中ほぼ休みなしに机に向かい、手紙を書いては帳簿をつけ、夜になると、今日もほとんど仕事に区切りがつけられなかったという溜息とともに床に就いて眠るという状態を、長く続けられるはずはない。病者がいかに勇敢であっても、愛する者としては、このように絶え間ない労苦のために、気持ちだけはある魂がひしがれていくのを黙って見ているわけにはいかない。愛に満ちた思慮の権化として私は、現在のような程度でこの労働が続けられることに対して、早急に拒否権を発動しなくてはならないと感じている」。

 しかし、ほんの少々仕事が減らされたはしたものの、スポルジョン夫人はその職にとどまり続け、1888年の一時期を除けば、生涯最後まで《書籍基金》を運営した。――1888年の夫人は病状がはなはだ悪化し、その肉体的苦しみによって、働く力が一切なくなり、手紙を開くことさえできなかったのである。――《基金》のための果てしない過重な労働によって、精も根も尽き果てることが何度となくあったが、この働きは最後まで成し遂げられた。しかも、立派に成し遂げられた。書籍を配布するに当たっては、教会や信条による分け隔ては全く行なわれなかった。現在に至るまでに《基金》の恩恵を受けた25,000人強の人々は、英国国教会、バプテスト派、会衆派、あらゆる種類のメソジスト派、長老派、モラヴィア派、フレンド教会、ユニテリアン派、アーヴィング派、ヴァルド派、ネストリウス派、プリマス・ブレザレン、ルーテル派、スウェーデンボルグ派、ハンティンドン伯夫人結社、そしてモリソン派に属する教役者たち、また、膨大な数の伝道者や宣教師たちであった。

 この《基金》初期の時代、絶えずスポルジョン夫人を悲しませていたのは、貧しい地元の説教者たちが書籍を求めて送ってくる、痛ましいほどの要求に応じられないという事実であった。正規の教役者たちからの申し込みが、夫人の寄贈できる冊数を優に越えていたからである。夫人は、1887年の報告書でこの件について言及し、ある手紙を引用してから、こう語った。「これは、助けを求める心からの叫びです。どこかにこの叫びに答えて、その心を揺さぶられる方はおられないでしょうか」。この訴えは、シドニー・B・バグスター氏という、進取の気性に富む一人物の心を本当に揺さぶった。マイルドメイ・パークの議事堂で働くバグスター氏は、《補助書籍基金》という団体を結成し、貧しい信徒説教者の間に神学書を配布する働きを始め、見事に成功させた。その小包を送付する働きは、1888年5月1日に開始され、同じ年の年末までには、126人の説教者が1,142巻の書籍を受け取っていた。バグスター氏は、《補助書籍基金》を1891年まで運営し続け、その後、この働きはスポルジョン夫人に引き渡され、夫人の自宅で行なわれる正規の働きの一部となった。平均すると、現在に至るまで、年間およそ千六百冊が貧しい地元の説教者の間に配布されている。

 年を追うごとに、次第に様々な事態が展開していき、この《書式基金》の献身的な創始者の労働に積み重なっていった。すでに言及された、毎月寄贈される『剣とこて』誌は、この働きの大きな部分を成していた。C・H・スポルジョンの説教や小冊子が毎年何万部も国内外の説教者に発送された。また、《主の働きにおいて一般的に用いるための基金》は、長年にわたり、C・H・スポルジョンの説教を外国語に翻訳し、出版する費用を負担するとともに、困窮する説教者その他の人々や、負債にあえぐ諸会堂、また、金銭的援助を必要とする様々な伝道団体への助けを供していた。

 《牧師たちの援助基金》は、一個の確立された制度となり、毎年スポルジョン夫人は平均して三百ポンド以上の金額を、諸処の牧師やその家族に支給することができた。婦人帽や肩掛けその他の衣料品もまた、《書籍基金》の重要な副産品また補助品目であった。最後までスポルジョン夫人は、その檸檬の木を、自分の働きの尋常ならざる象徴として、いたく愛おしんでいた。『十年後』の巻末に夫人はこう書いている。「その中心的な幹は、比喩的に言えば、《書籍基金》そのものであり、そこから自然とあらゆる枝が派生していき、今も生き生きとつながっているのです。軸となるその幹から発して、強さと有用さにおいてほとんど幹と匹敵しているのが、この木の最も大きな枝であり、《牧師たちの援助基金》を表わしています。そして、続いてこの枝から張り出し、広く広がっている枝があり、そこから《ウェストウッド衣料品協会》の充実した小包箱が多くの貧しい牧師家庭に落とされています。幾重にも織り交ぜられた木の葉を通して透かし見える大枝には、《国内説教頒布》と記されており、それと同じくらい活力にあふれた横枝は《海外説教配布》に専心しています。そして一番天辺にある梢は、《外国説教翻訳》とくっきり記されているのが見えるもので、あらゆる点で、古参の枝たちに匹敵していくだろう見込みがあります。私にとって、こうした枝たちがすくすくと育っていたのは、このうえなく心励まされることでした。というのも、そこに茂っている木の葉には、いのちの木の髄から出た油が豊かに満ちており、文字通り諸国の民を癒やしているからです[黙22:2]。

 一時は元気をなくしていましたが、今は他の枝と同じくらい生き生きと繁茂している若枝の一本は、《補助書籍基金》を象徴しており、別の一本は《『剣とこて』頒布》を思い出させます。また《基金》によって配布されている何十、何百万部もの小冊子をよく表わしているのが大振りの枝々から発している小枝や木の葉です」。その間ずっとスポルジョン夫人は、《書籍基金》の会計にとって、自らがきわめて気前の良い資金供与者であった。夫人の個人的な奉仕は、一般に思われているよりもはるかに大きな金銭的な寄付によって補足されていた。そして、夫人の遺言によって今なお《基金》は相当の恩恵を受けているのである。

  



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