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第11章 《書籍基金》成長する

 《書籍基金》が創設される数箇月前にスポルジョン夫人は、一鉢の大きな庭園用植木鉢に檸檬の種を何個か植えていた。少なくとも一個は芽を出して、すくすく育つことを願ってである。果たせるかな、一個の種は本当に根付いて、二枚の小さな葉をつけた細い茎が現われ、持ち主から優しい世話を受けることとなった。陽気な気分をしていたある時、スポルジョン夫人は、当時は存続し続けるかどうか覚束なかったが、素晴らしい可能性を秘めている「傷みやすい苗木」であった、自分の《書籍基金》を、この小さな檸檬の木と思いの中で結びつけた。そして、その木が順調に育っていくにつれて、この木を、《基金》の幸いな行く末を占う予兆のようなものと見なそうと決心した。その葉の一枚一枚は、遅かれ早かれ手に入るに違いない百ポンドの合計額を表わすものと勘定するのである。その木は堅実に成長し続け、不思議なことに、《基金》もその木と歩調をともにしていた。青葉が繁れば、新たな寄付者たちが名乗りを上げて、スポルジョン夫人が行なっている愛の労苦を助けてくれた。そして、その歴史を通じて《書籍基金》とこの檸檬の木は、その双方を愛しく思っていた、この婦人の思いの中で1つに結びついていた。

 寄付を懇請しはしなかったが、基金に欠けることはなかった。1876年8月から1877年1月までの間には926ポンドもの金額を受け取り、第二年の最後までには2,000ポンドを越える寄付が寄せられては、支出されていた。時間の経過とともに、この働きを必要とする人々がいかに広範囲にわたっているかは明らかになるばかりであった。スポルジョン夫人が毎週受け取る何十通もの手紙には、いずれも哀れを誘う内容が綴られており、書籍を受け取った人々が表明する感謝の言葉も、その強い言葉遣いにおいて全く痛ましいものがあった。それまでに夫人は、夫による信仰の学校で訓練を受けていたため、自分の使命を実行するための資金も、日々増し加わる通信と組織の働きに対処できるための健康と力も、人間にではなく神に求めた。「《書籍基金》は、《王の宝物庫》からその食糧と養いを得ています」と1877年に夫人は書いている。「そして私は主にあってこう誇らざるをえません。この働きの実行のため必要なものとして支給された一切の品々には、《天国》の手柄を示す刻印がくっきり押されているのです。私がこう申しますのは、これまでに主以外のどなたの助けも求めることなく、どんな人からの寄贈をも懇請したことがないのに、お金は常に流れるようにやって来て、支給品は絶えず必要に応じた分だけ送られているからです。この一年でたった一度だけ、主は私の信仰を試すために、送るべき書籍の数が贈られてきたお金を上回ることをお許しになりました。そしてそのとき、ほんの一瞬だけ、私は恐れの影に圧倒されました。けれども、その暗雲はきわめてすみやかに過ぎ去り、新たな支給が続いたことによって私は、これまでにないほど、先に立てた決心に満足させられました。それは、天に私が有している《宝物庫》の無尽蔵の蓄えだけを頼りにしようという決意です。私が、愛に満ちたこの感謝の思いを、まず主の御足の前に置きたいと申しましても、私の働きのために『高貴なこと』[イザ32:8]を心にいだいてくださる方々のうち誰ひとり、それを恩知らずな言葉だとして私を非難しはなさらないでしょう。むしろ、私と一緒になって主を賛美してくださることでしょう。主は、この方々の心をこれほどまでに甘やかに傾けて、ご自分の困窮するしもべたちを助けたいという思いを起こさせてくださったのですから、喜びに満ちてこう語ることでしょう。『おゝ、主よ。私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません』と[I歴29:14参照]」。

 「私は、『教役者たちに本を送るために』といって初めていただいた寄付金のことを思うと、今も胸がいっぱいになります。それは匿名の送り主による五シリング分の切手でしかありませんでしたが、とてもありがたいもので、私にとっては1つの啓示のようになりました。というのも、この贈り物のおかげで、この働きがどれほど用いられ、どれほど明るい輝きを発するものになりえるかという展望が目の前に広がったからです。からし種のようだった私の信仰は、たちまち『大きな』木に育ち、希望と期待という甘やかな鳥たちが枝に宿って歌をさえずるようになりました。私は息子たちに言いました。『見ていてごらんなさい。主はこの働きのために何百ポンドでも送ってくださいますからね』。それから何日間は、母が告げた何百ポンドという言葉は、わが家で陽気な冗談やからかいの種となりました。けれども今や主は私を笑わせてくださいました。というのも、何百という数字は何千にもなっているからです。主は、『私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施す』[エペ3:20]ことをしてくださいました。そして、このような神を信じ、頼りにしている信仰は、確かに不可能なことを前にしても微笑んで、『そのとおりになります』[マタ21:21]と言うべきなのです」。

 スポルジョン夫人が着手したこの働きは、しばらくすると単に本を支給するだけの働きにはとどまらなくなった。1877年の初頭、ひとりの友人が夫人に対して多額の資金を差し出し、どうか極度の経済的困窮の中にある貧しい教役者を助けるために必要だけの額を自由に引き出してほしいと言ったのである。夫人の夫や他の友人たちがこの金額にさらに追加したため、非常に有用な、かつ大いに必要とされていた《牧師救援基金》が創設され、《書籍基金》にとって価値ある、補助的な存在となった。その年の終わりにも、数名のキリスト者婦人たちが、貧しい牧師家庭のための暖かい服その他のふさわしい服を支給する働きに着手し、この部門の働きもまた現在に至るまで成長し続けている。

 なおも別の形で進展したのは、二人の親切な人が、自力ではキリスト教誌を購読する余裕のない六十名の教役者たち各人に、『剣とこて』誌を一年間定期的に送付するための資金を供してくれたときである。ことによると、スポルジョン夫人が元々いだいた考えのこうした展開は、その少し前に婦人が園丁から語られた言葉によって予兆されていたかもしれない。「この檸檬の木は、お宅にまで届きますよ、奥様。枝をどんどん生やしとりますでな」。

 1878年、スポルジョン夫人の疾患は急性期に達し、実際そのとき豪州にいた息子トマスが今すぐ帰国するようにとの至急電報を受け取ったほどだった。しばらくの間夫人は、まず生き延びられないのではないかと思われていたが、危篤状況を乗り越えることができ、なおも寝たきりのままではあったが、再びその注意力を《書籍基金》にだけ注げるようになった。しかしながら、この働きは、夫人の病にもかかわらず縮小しなかった。滞っていた分はすぐに埋め合わされ、その年は創設以来最も大きな成功を収めたからである。このようにスポルジョン夫人は、時折、苦痛と大儀さの時期を忍ぶよう召されてはいたが、決して絶望することも、このように険しい通り道を通らせるよう定めた不思議な摂理に反抗することもなかった。たとい人生の謎に困惑するときが一瞬でもあったとしても、すべての事がらを良く行なわれる《お方》に信頼することによって、夫人はたちまち慰めと慰謝を見いだすのだった。

 夫人の日記や帳面には、その生涯で最も辛い時期をくぐり抜けつつあった際の夫人が、魂でいかなる経験をしていたかについて告げる文章が数多く含まれている。こうした危機的な時に触れて、夫人はこう書いている。「とある非常に暗く陰鬱な日の終わりに、夜闇の深まろうとしている中で私は長椅子で横になり休んでいました。そして、その居心地の良い小部屋のすべてが明るく輝いているというのに、外の暗闇の一部が私の魂の中に忍び入り、霊的な視界を覆い隠してしまったように思われました。私は、苦しみという、この険しく滑りやすい通り道の間中、自分の手を握っているはずであり、霧に包まれた自分の足を導いているはずである御手を見てとろうと努めましたが、何にもなりませんでした。悲しい心の中で私は尋ねました。『なぜ私の主は、ご自分の子どもをこのようにお取り扱いになるのですか? なぜこれほど鋭く苦い痛みの訪れをのべつにお送りになるのですか? なぜこのような長患いによって、私が主の貧しいしもべたちのために行ないたくてたまらない甘やかな奉仕をささげるのを妨げておられるのですか?』 こうした駄々っ子のような質問には、すみやかな答えがやって来ました。そして、奇妙な言葉ではありましたが、私自身の心の意識的な囁き以外に何の解釈者も必要ありませんでした。しばらくの間は沈黙がその小部屋を支配し、その沈黙を破るのはただ暖炉の上で燃える樫の丸太がパチパチいう音だけでした。突如として私は、甘く優しい音を聞きました。小さくて、はっきりとした、音楽的な音色、窓の下にいるコマドリの柔らかな震え声のような音です。『あれは何かしら?』と私は付き添ってくれていた人に言いました。その人は暖炉に照らされながらうたたねをしていたのです。『こんな季節の夜に外で鳥が鳴いているはずがないわ』。私たちは耳をすませました。するともう一度、かすかで物悲しい音色が聞こえました。とても甘やかで、とても美しく、それでいながら、とても神秘的な音だったので、しばし私たちは全くの不思議の念に打たれました。そのうちに、付き添ってくれていた人が叫びました。『火にくべた丸太から聞こえるのよ!』 そしてすぐに私たちは、この驚きの主張が正しいことを確かめました。火が、その古い樫の木の内奥で捕われの身となっていた音楽を解き放っていたのです。ことによると、この木は何の問題もない順風満帆の日々にこの歌を蓄えていたのかもしれません。その頃には、鳥たちがその枝々の上にとまって陽気に囀り、穏やかな日光がその柔らかな葉っぱの上に黄金の斑点をつけていたことでしょう。ですが、その後でこの木は年を取り、硬くなりました。節くれ立った年輪が積み重なるたびに、この長く忘れられていた旋律が封印されていきました。そのとき、荒々しい炎の舌がやって来て、この木の冷淡さを消滅させ、その火の激しい熱が、たちまちこの木から一個の歌と一個のいけにえを無理矢理引き出したのです。おゝ!と私は思いました。患難の火が私たちから賛美の歌を引き出すのだとしたら、実際私たちはきよめられるし、私たちの神は栄光をお受けになるのです!

 「もしかすると、私たちの中にはこの古い樫の丸太に似た者がいるのかもしれません。――冷たく、硬く、鈍感な者が。その私たちが、美しい旋律の音を発するには、燃える火で取り巻かれなくてはならないのです。そのとき、神への信頼、また神のみこころに喜んで従う心という優しい音色が解き放たれるのです。そんな物思いにふけっているうちにも火は燃え、私の魂は、このように奇妙な形で説明されたたとえ話に甘やかな慰めを見いだしました。火の中の歌! もしもこの固く無情な心の中から和音を引き出す道が、情けないことにそれしかないとしたら、この炉が以前より七倍も熱されますように」。苦しみの中にあったこの婦人は、いかにその夫の霊と信仰を先取りしていたことであろう。やがてその夫は、上で述べられたのとほとんど同じ主旨の言葉を書くことになるのである!

 こうした初期の頃の――そして実際、現在に至るまでの――《書籍基金》の財務的な物語は、小規模ながらも、《ストックウェル孤児院》や《牧師学校》ときわめて似通っている。資金は、特に要請もしないのに全く思いもかけない方面から、まさに必要とされているときにもたらされ、さらに多くがやって来て欠けを補填するだろうという満腔の信仰と期待とによって遅滞なく費やされた。燃える樫の丸太の使信について語られた記録の一、二箇月後に、スポルジョン夫人の帳面には次のような言葉が書き込まれている。「私の心は、主のいつくしみ深さをほめたたえ、あがめます。そして私の手は、乾ききった地を潤す恵みの雨のように甘く私の霊を爽やかにしてくれたあわれみのことを、今すぐ記しておきましょう。本日の午後、ひとりの忠実で気前の良い友人が《書籍基金》のために百ポンドをもたらしてくれました。それは、敬神の念に満ちた感謝と大きな喜びを引き起こすことでした。というのも最近は、基金の流入が以前よりも鈍りがちであるにもかかわらず、異常に大部数の書籍が毎週のように発送されているからです。しかし私は、この気高い寄付を受け取ってから数時間経った後で初めて、主のやさしいご配慮と、憐れみに富んだ愛とを完全に悟りました。主がこの助けを送ってくださったのは、私が最もそれを必要とすることになるとご存知だったまさにその時だったのです。その晩の遅便で、書籍代金の四半期勘定が届きましたが、それが膨大な額に上っていたために、大急ぎで私は帳簿に向かい、利用可能な残高を調べてみました。そのとき覚えた感情は、とても容易には忘れられないでしょう。見れば、数時間前に受け取った百ポンドの贈り物がなかったとしたら、私は六十ポンドの借金を負うところだったのです。御父はこのようなご配慮をもって雀が地に落ちないようにされたのではないでしょうか。手持ち資金がこれほど大きな不足分をかかえていると知ったとしたら、私は一晩中まんじりともせずに大きな悩みをかかえて苦しんでいたことでしょう。ですが主は、その細心の気配りを行なう愛によって、そうした事態が起こらずにすむようにしてくださったのです。『私が呼ぶ前に主はお答えになりました』。そして苦難が間近に迫っていようと、主は仰せになります。『それはあなたには、近づかない』[詩91:7]。わが魂よ。主をほめたたえよ。主の愛に満ちた『恩恵』を何1つ忘れるな[詩103:1-2 <英欽定訳>参照]。この事件の中に見られるのが単なる偶然でも、たまたま重なった幸運な巡り合わせでもなく、愛に満ちた主の導きと支えの御手であることを悟って私の内側には喜びと渦が生じました。主は私のために、このように快い励ましと救いの道を確実きわまりなく整え、整然と定めてくださっていたのです。『私は悩む者、貧しい者ですが、主が私を顧みてくださる』[詩40:17 <英欽定訳>]。この時にかなった祝福によって、主の素晴らしい愛は私の魂に対してひときわ鮮やかに啓示されたように思われました。一枚の小切手が、内なる霊的な恵みを、形として目に見えるように表わすしるしとなりました。

 「この喜びをともにしてほしくて愛する夫のもとに急いでいくと、夫はその《主人》の恵みと御力という、この昔ながらの甘やかな物語に喜んで耳を傾けてくれました。それから私に代わって熱烈な賛美の言葉を短く神にささげた後で、私たちの恵み深い神がこのように著しい解放を遣わす手段となった、物惜しみしない友人に次のような手紙を認めました。――「親愛なる――兄。本日の午後、兄がこちらに送られたわけをお知らせしたいと思います。兄は私の愛する妻にとって、また私にとって、何というあわれみの天使となったことでしょう。主が兄を祝福し給わんことを。あなたがこちらを立ち去ってからすぐに、妻は書籍代金の四半期勘定として340ポンドの請求書を受け取りましたが、お持ちくださった小切手を除くと、そのときには280ポンドしか蓄えがなかったのです。けなげなこの妻は、これまで一度も収入以上に支出したことがありませんでした。ですから、もしあなたがおいでにならなかったとしたら、60ポンドの借り方になったことで心が押しつぶされてしまっていたのではないかと思います。間一髪の所で兄を送ってくださった主は、何と恵み深いお方でしょう! 私たちは夫婦揃って主をほめたたえました。それから、深い感謝の思いを込めて、ともにあなたのために祈りをささげました。主が兄を祝福し、兄の思うところ一切を越えて、今日の惜しみない贈り物を埋め合わせてくださいますように。私は、この一言を書き添えずにいることはできません。たとい将来こうした試練がやって来るとしても、今回の件は、私たちの信仰を助けて安んじさせる幸いな記憶となる、輝かしい事実の1つにほかなりません。神の祝福がありますように。――敬具。C・H・スポルジョン』」。

 スポルジョン夫人の日記にこのような内容が記されてから正確に一週間後に、見れば同様の趣旨のことが書き込まれている。「新しい友人から20ポンドが! 私は心の中でずっとこの言葉を口ずさんでいました。『優しい神様の何というご親切!』 今週の初めは、いつもと違い書籍の注文書を送ることにためらいを覚えていました。手持ち資金の乏しさからすれば大幅に在庫を増やすなど許されなかったからです。ですが思い切って事を行なってみたところ、ご覧なさい! 主は今の不足を満たすに必要なものをすべて送ってくださったのです。そして、それとともに私の魂にも堅い確信を送ってくださいました。『主に信頼する者は、だれも恥を見ない』と」。

 今や資金は、相当な多額が送られてくるようになり始めた。一個人から二十五ポンドや五十ポンドが寄付されることは決してまれではなかった。全タバナクル教会がC・H・スポルジョンに贈呈した素晴らしい《銀婚式の贈り物》から《書籍基金》は100ポンドを受け取り、《牧師救済基金》は別に200ポンドを贈ってくれた。もちろん、失望も多々あったが、試練は信仰を増し加えるだけであった。そういうわけで、見込まれていた200ポンドの遺贈を失った後でスポルジョン夫人はこう書いている。「古くからの愛する友だちが《書籍基金》へと遺してくれた200ポンドの遺産が、遺言状に法的な不備があったために失効してしまいました。こういうわけで、愛する故人の優しい思い出は決して奪われることがないとはいえ、私の愛する働きのための素晴らしい助けの方は失われました。それは彼女が、自分の旅立ちによって私が味わう悲しみを多少なりとも軽くし、これまで絶えず寄せてくれた愛の援助が途切れることをある程度まで補おうとしてわざわざ遺してくれたものだったのですが。私は自分の失望を雄々しく忍ぼう、私自身の悲しみを、やはり同じようにして、はるかに大きな損失を被った《牧師学校》の校長への同情の中で減らそうと努めました。そして私は、このように、約束されていた大金を思いがけず失ったことに、最初はいささか『打ちひしがれた』気分になりましたが、それ以来この上もなく心を支えられ慰められてきました。というのも、『主がそれよりも多くのものを与えることがおできになる』[II歴25:9参照]と分かっており、そのように思うことで、あらゆる不平の念が取り除かれ、今ひとたび人間的な助けから目を離し、必要が起こるたびに主から供される、無限に確実な財産を見上げることができるようにされたからです。ことによると、私にはそのような教訓が必要だったのかもしれませんし、そうした教訓は『丸暗記する』のが賢明なのでしょう。私が、あの気前の良い遺贈の知らせを聞いて有頂天になりすぎ、許されても良い喜びに、多少肉的な誇りも混ぜ合わせて自分の富を数え上げていたことは全くありえます。確かに一度は、今年の年末が、過去のあらゆる総計をも上回るものと計算しました。そして主は、それが私にとって良くないとご覧になり、地上に蓄えられた富をあまりにも多く受け取るのは、絶えず私の神に信頼するという、愛のこもった姿勢を崩させ、危うくしかねないと見てとられたのでしょう。そうした姿勢を、これまで主は喜びとするよう私に教え、恵み深く尊び、報いてこられたのです。また私は、この困った出来事から、より謙遜に、またより心から主を、その大きな不変の『御意志』ゆえに、また、『その道は私たちと異なる』がゆえに、ほめたたえることを学べるだろうとも思います」。

 1879年、スポルジョン夫人自身は比較的健康を回復したが、その夫が病に倒れ、南仏に行かざるをえなくなった。その療養地からは容態を知らせる短信が母国で案じる妻のもとに頻繁に送られた。しかしながら、《書籍基金》の働きによって夫人は、自分の悲しみについてくよくよ考え込まずにすんでいた。12月の日誌には、このように書かれている。「神はほむべきかな! 今はより良い知らせがやって来ています。電報は来なくなり、痛みをこらえる可哀相な手による弱々しい筆跡で書かれながらも、思いがけないほど愛しい手紙が何通も届きました。こうした辛い折には、山のようにある仕事がありがたいものとなっています。というのも、日々差し迫った通信を行なわざるをえないため、悲しみにひたっている暇などないからです。そして、これほど必要に迫られた申し込みが主から送られている間は、《書籍基金》の運営が停止することなどありえません」。

 こうした贈呈本の送り先は、英国内の貧しい説教者に限られてはいなかった。むろん大半は当然英国内に送付されたが、多くの宣教師が《書籍基金》から贈られたスポルジョンの著作によって助けられ、西印度諸島や、阿弗利加その他の現地人説教者らも同《基金》の恩恵にあずかった。1879年6月、かねてよりスポルジョン夫人が創始し、実行し続けていたこの善良な働きについて耳にしていたシエラレオーネの主教チータム博士は、配下の有色人牧師たちのひとりのために『ダビデの宝庫』を所望したいとヘレンズバラ荘の夫人宛てに要請した。直ちにスポルジョン夫人から、それらをはじめとする書籍を送りますと約束された同主教は、帰任する前に《基金》の資金提供者として名を連ねた。ジャマイカでも、英国人宣教師と現地人牧師らの双方がこうした書籍を大いに重宝した。

  



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