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第1章 幼年時代

 スポルジョン夫人は、1832年1月15日に生まれた。彼女は、その少女時代の半分をロンドン南部の郊外で、半分をロンドン市中で過ごした。当時のロンドン市中は、今とは違い、居住区域がまだあったからである。政治的な意味では、世情は騒然としており、戦争や、戦争の噂があったが、おそらくそうした国々の動揺のことは、この若いおとめの耳にはほとんど入ってこなかったであろう。英国の少女たちはその頃、新聞の朝刊や夕刊を読むことが許されておらず、時代の最新の出来事に関する意見を表明するよう励まされてもいなかったからである。彼女の父R・B・トンプソン氏と彼女の母は、折にふれサザク区のニューパーク街会堂に通っており、彼らの娘スザンナも彼らに同行するのが常であった。それで、その牧師ジェームズ・スミス(後にチェルトナムに異動)の牧会活動に彼女は親しんでいた。「風変わりで、荒削りな説教者でしたが、魂をキリストに導くというほむべきわざには熟達していました」、とスポルジョン夫人はスミス師を評している。「私は何度も彼が、受洗志願者にバプテスマの儀式を執行するのを見たことがあります。そうしたとき私は、泣きたいほどの憧れをもって、自分にもあのように主イエスを信ずる信仰を告白できる時が来るのかしらと思ったものです。また、私が今でも思い出すのは、昔風の小粋な格好をした古参執事で、その人を私はたいそう恐れかしこんでいました。彼は法律家で、絹の靴下と、以前の世代に流行っていたような膝で締まる形の半ずぼんを穿いていました。賛美歌を会衆に伝える時が来ると、彼は講壇の真下にある聖書台の所に立ち、私が座っている所からは、その横姿が見えました。記憶に間違いがなければ、彼は背の低い、恰幅のよい人で、その丸々と太ったからだが、くっきりと形のわかる足の上に乗っていて、長い燕尾の上着を着ている様子は、まぎれもなく巨大な駒鳥といった風情でした。そして、彼が賛美歌の歌詞を甲高い、さえずるような声で発声するときには、まさに駒鳥と瓜二つだと思えました!」

 こうしたニューパーク街会堂における初期の経験は、スポルジョン夫人の人生の中でも、最も生彩に富む記憶の一部となっている。「さらにまた」、と彼女は続けて云う。「私が覚えているのは、全く何の階段もついていない奇妙な講壇です。それは、燕の巣を大きくしたような形をしていて、後ろ側から、壁の中の扉をくぐって中に入るようになっていました。私の子どもっぽい想像力は、その講壇の中に教役者がすうっと姿を現わす薄気味悪さに、いつも興奮させられたものです。ある瞬間には、その大きな箱はからっぽなのに、――次の瞬間、ちょっと聖書か賛美歌に目を落としてから顔を上げると――そこには全く落ち着き払った様子の説教者がいて、椅子に腰かけているか、立ち上がって今にも礼拝を開始しようとしているのです! 私はそれが面白くてたまらず、もちろんそこには平凡な扉があって、そこを通って牧師先生がその説教壇に立つのだとわかってはいたものの、だからといって私が好んでふけっていた、その神秘的な出現と退出に関する空想的な考えが妨げられたり、説明をつけられたりすることはありませんでした。しかし確かに奇妙なことは、それほど私にとって魅惑的であった当の講壇こそ、やがて私の最愛の人となり、地上における私の人生の光となる人を、私が最初に見た場所だったということです」。

 この少女がニューパーク街会堂を訪れる頻度は、疑いもなく、普通の少女たちのそれを上回っていたに違いない。この事実によって老オルニー夫妻は、彼女にたいへん好意をいだくようになり、しばしば彼女を自宅に招待するようになった。自然と、こうした訪問を行なった際の日曜日には、彼女はオルニー夫妻に伴って会堂に行くこととなり、このようにして、その後の彼女の人生にとってかくも大きな役割を果たすことになる場所と、ひとかたならぬ縁を結ぶことになったのである。敬虔な家庭の中で育てられ、熱心なキリスト者の友人たちを有していたスザンナ・トンプソンは、個人的な生活におけるキリスト教信仰の重要性について無関心であったわけではなかった。だが、かの由緒あるポールトリー会堂で、S・B・ベルニュ師によってロマ書10:8――「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある」――からなされた説教こそ、この少女のうちに、初めて自分が《救い主》を必要としているとの思いを個人的に感じさせたものであった。彼女はこう云っている。「その集会をきっかけにして、私の魂には真の光が明け初めてきました。主は、そのしもべを通して私に云われたのです。『あなたの心をわたしにささげなさい』、と。そして主の愛に押し迫られて、その夜、私は、自分を全く主に明け渡すことを厳かに決意しました」。

 この当時は、キリスト者育成協会のようなものは何もなく、初信の回心者を主への奉仕に携わらせるような試みはほとんどなされていなかった。気の合う若い人々との交わりが欠けていたこと、心を専念させ、さらなる神知識へと導くべきキリスト教の働きがなかったことは、多かれ少なかれ、この回心の後で魂が感じた喜びと楽しみが、まもなく冷淡で無関心な状態に取って代わられた理由だったに違いない。「暗闇と、落胆と、疑いの時期が私を通り過ぎていきました」、と彼女は云う。「それでも私は、自分のキリスト教体験を私自身の胸中に注意深く包み隠していました」。スポルジョン夫人の判断によると、この点におけるためらいや内気さこそ、彼女の魂の病んだ、また眠りこんでいた状態の原因であった。まさにこの重大な時においてこそ彼女は、ほんの数年もしないうちに、他のいかなる人々よりも自分にとって愛しい存在となる男性の影響を初めて受けることとなったのである。



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