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第27章1―10 イスカリオテのユダの最期

 この章の冒頭では、私たちの主イエス・キリストが異邦人の手に引き渡されたようすが語られている。ユダヤ人の祭司長や長老たちは、ローマの総督ポンテオ・ピラトのもとへ主を引っ立てていった。この出来事のうちに私たちは神の指を見ることができる。神の摂理によって、異邦人がユダヤ人ともどもにキリストの殺害にかかわることは定められていた。神の摂理によって、祭司たちが「王権はユダを離れ」たと告白することは定められていた。彼らがだれかを死罪にしようとするなら、ローマ人のもとへ行くしかなかった。それゆえヤコブの言葉は成就したのである。メシヤ、すなわち「シロ」はまさしく「来」たのである(創49:10)。

 今読んだ箇所の大部分を占める中心的な主題は、にせ使徒イスカリオテのユダの陰惨な最期である。これは教えと示唆に富んだ主題である。ここに何がふくまれているかよく考えてみよう。

 ユダの最期から教えられるのは、私たちの主にかけられたすべての嫌疑について、主の潔白は明白に証明されたということである。

 もし、主イエス・キリストについて動かぬ証拠を示せる生き証人がいたとしたら、イスカリオテのユダこそその人であった。イエス側近の使徒であり、公私を問わず、そのすべての旅程をともにし、そのすべての教えを耳にした同伴者、ユダであれば、言葉であれ行ないであれ、私たちの主に何か落ち度があったとしら、絶対に見落とすことはなかったはずである。主から離反し、主をその敵の手に渡した裏切者には、主を有罪と証明すべき立派な理由があったはずである。もし、かつての師が犯罪者、いかさま師であったと彼が立証できたなら、彼の行動も少しは正当化され、云いわけが立ったであろう。

 ではなぜイスカリオテのユダは表に出なかったのか。告発すべき理由があったなら、なぜユダヤ議会の前で堂々と告発しなかったのか。なぜ彼は、祭司長らとともにポンテオ・ピラトのもとへ行き、イエスは悪人であると立証しなかったのか。答は1つしかない。ユダが証人として表に出なかったのは、彼の良心がそれを許さなかったからである。いくら悪人であっても、キリストについて自分が何も立証できないことはわかっていた。いくらよこしまな者であっても、自分の師が聖く、罪なく、無実で、非の打ち所ない、真実なお方であることはよくわかっていた。これを決して忘れないようにしよう。主の審理にイスカリオテのユダが欠席していたということ、これは神の子羊が傷なき、罪なき人であられたという数ある証拠の中の1つである。

 ユダの最期から別のこととして教えられるのは、悔い改めるにも遅すぎることがあるということである。ここにははっきり、「ユダは……後悔し」と書かれている。さらに彼が祭司らのもとへ行って、「私は罪を犯した」と云ったとさえ書かれている。にもかかわらず、彼が救いに至る悔い改めをしなかったことは明らかである。

 これは特に注意を払わなくてはならない点である。ことわざに「悔い改めるに遅すぎることはなし」という。これは、その悔い改めが真実である限りにおいて、疑いもなく正しい。しかし不幸にして、遅い悔い改めは、まがい物であることが多い。人が自分の罪を痛感し、悲しみ、強い罪意識と、深い良心の呵責を覚えることがある。しかしそれにもかかわらず、心から悔い改めていないこともありうる。身にせまる危険、または死への恐れが、そうした感情を呼び起こしているにすぎず、魂の内側には聖霊の働きが全く何も及ばされていないということもありうる。

 私たちは、遅い悔い改めにたよりすぎないよう警戒しよう。確かに「今は恵みの時、今は救いの日」である。ひとりの盗人が、まさに死なんとするとき悔い改めて救われたのは、だれも絶望することのないためである。しかし、それがたったひとりであったのは、だれもつけあがることのないためであった。私たちは、自分の魂にかかわることは何1つ先延ばしにしないようにしよう。何にもまして悔い改めを先延ばしにしないようにしよう。好きなときにいつでも悔い改められるなどという幻想を抱いてはならない。この件に関するソロモンの言葉は非常に恐ろしいものがある。彼は云う。「そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。私を捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない」(箴1:28)。

 ユダの最期からさらに教えられたいのは、不敬虔な人生は、最後の最後になって、何と不毛な慰めしかもたらさないかということである。彼は、師を売り渡した代金、銀貨30枚を神殿に投げ捨て、魂に苦悶しながら去って行った。その金には大きな代償が伴った。受け取っても何の喜びも感じられなかった*1。「不義によって得た財宝は役に立たない」(箴10:2)。

 まことに罪ほど過酷な主人はない。罪のしもべとなる者には、甘い約束が山ほどなされるが、何1つ履行されない。罪の楽しみはほんの一時であり、その報いは悲しみ、罪悪感、自責の念、そしてあまりにもしばしば、死である。肉のために蒔く者は、まさに滅びを刈り取るのである。

 私たちは罪を犯すよう誘惑されているだろうか。では、「あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい」とのみことばを忘れず、誘惑に抵抗しようではないか(民32:23)。私たちが肝に銘じておきたいのは、この世においてであれ来たるべき世においてであれ、現在においてであれ最後の審判の日においてであれ、罪と罪人は、遅かれ早かれ顔と顔とをつき合わせ、苦い清算をしなくてはならないということである。私たちは肝に銘じておこう。ありとあらゆる取引のうちで、罪ほど割に合わないものはない。ユダも、アカンも、ゲハジも、アナニヤとサッピラも、みなその事実を突きつけられ滅していった。聖パウロの言葉はむべなるかなである。「その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか」(ロマ6:21)。

 ユダの最期から最後に教えられたいのは、大きな特権を与えられた人が、それを正しく用いなかった場合、どのように悲惨な最期を迎えることになるかということである。ここでこの不幸な男は、「外へ出て行って、首をつった」とある。これは何とおぞましい死に方であろう。キリストの使徒、かつての福音の説教者、ペテロやヨハネの同伴者、それが自殺し、備えも罪の赦しもないまま、神の御前に突進していったのである。

 光と知識に逆らう罪人ほど罪深い者はない。これを決して忘れないようにしよう。これほど神を怒らせる罪はない。聖書を見るとき、こうした罪人ほど突然、すさまじい訪れによって、この世から取り去られることの多かった者はない。ロトの妻や、パロや、コラ、ダタンとアビラムや、イスラエルの王サウルがいい例である。バンヤンの厳粛な言葉がある。「後ろ向きに倒れる者ほど、深く穴に落ち込む者はない」。箴言にはこうある。「責められても、なお、うなじのこわい者は、たちまち滅ぼされて、いやされることはない」(箴29:1)。願わくは私たちがみな、受けた光に従って生きていけるように。聖霊に逆らうという罪がある。真理の明確な知識を頭に宿しながら、熟慮の上で罪への愛を心に抱き続けることは、その罪を犯す早道である。

 さて今、私たちの心はどのような状態だろうか。私たちは自分の知識、自分の信仰告白に安住しきっているだろうか。ユダのことを思い出し、警戒しよう。私たちはこの世に執着し、心の中で金を第一の地位に置いているだろうか。ではやはり、ユダのことを思い出し、警戒しよう。私たちは何らかの罪をもてあそび、そのうち悔い改めればいい、などという安直な考えにひたっていないだろうか。ではやはり、ユダのことを思い出し、警戒しよう。ユダは私たちの戒めのため灯台のように立てられている。彼のことをよく見つめ、信仰の破船に遭わないようにしようではないか。

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*1 ここで否定のできない非常に大きな問題となるのは、「預言者エレミヤ」の言葉として引用された言葉が、現在エレミヤ書として伝わっている書物のどの部分にもなく、預言者ゼカリヤの書物に見いだされるということである。この難関については次のような解決が示唆されている。

 1、ある人々によれば、マタイが引用した預言は、書かれこそしなかったが真実エレミヤによって伝えられたものであり、ゼカリヤはそれを記録して後世に伝えただけだという。この見解を一笑に付しえない事例として、使徒20:35にある主のおことばは福音書には記されていないこと、ユダの手紙にエノクの預言が記されていることを思い起こすべきである。
 2、ある人々によれば、ユダヤ人は旧約聖書のうちすべて預言をふくむ部分にはエレミヤの名を冠していたのであり、マタイはエレミヤがその預言を伝えたという意味で云ったのではないという。これはライトフットの見解である。
 3、ある人々によれば、もともとマタイは特定の預言者の名は記さずにただ「預言者」と書いたのを、無知な写字生によって「エレミヤ」という言葉が挿入されたのだという。この見解を支持する人々に公平を期すため云っておくと、現存する最古の版の1つであるシリヤ語版ではエレミヤ抜きで単に「預言者」としか書かれていない。福音書のペルシャ語版でもエレミヤという言葉は省かれている。
 4、ある人々によれば、もともとマタイは「預言者ゼカリヤ」と書いたのを、無知な写字生がエレミヤに変えてしまったのだという。この見解を支持する人々に公平を期すため思い起こさなくてはならないのは、手書き原稿では名前がしばしば略字で書かれたということである。そして IOU と ZOU は似ていなくもないということである。

 私はこれらの解決法について意見は差し挟まないことにする。こういう幾多の解釈者を悩ませてきたような問題は、今の時代に決着がつくとは思われない。

 ただしこの問題の解決法として1つだけ反対しておきたいものがある。それは現代の多くの神学者たちによって採用されている解決である。すなわち、「マタイはここでうっかりとんでもない間違いを犯してしまったのだ。彼は記憶を頼りに間違った引用をしたのであり、本当はエレミヤではなくゼカリヤと云うつもりだったのだ」。私に云えるのは、ここまで来ると聖書の霊感を全否定せざるをえないということだけである。聖書の記者たちがこのような間違いを犯したこともありうるということになれば、私たちは引用された聖句を全く信用できなくなる。このような議論はアリウス主義者やソッツィーニ主義者を大喜びさせるだけである。彼らはこうした議論でしたい放題を始めるであろう。<言語>霊感説を捨てた瞬間に私たちは底なしの沼に落ち込むことになるのである。[本文に戻る]


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第27章11―26 ピラトの前で有罪宣告を受けるキリスト

 これらの節には、主がローマ人総督ポンテオ・ピラトの前に立たれた次第が物語られている。この光景は、神の御使いらの驚嘆の的であったに違いない。いつの日か世界をさばくお方、しかも「暴虐を行なわず、その口に欺きはなかった」(イザ53:9)お方が、あえて裁かれ、断罪されることをよしとされたのである。いつの日かピラトやカヤパが永遠の宣告を聞くことになるお方が、不正な宣告が下されるのを黙って耐えられたのである。この沈黙の受難は、イザヤの言葉の成就である。「毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」(イザ53:7)。この沈黙の受難にこそ、信者はそのすべての平安と希望を負っている。この受難によってこそ、自らのうちに何も誇るべきもののない彼らが、さばきの日にも大胆でいられるのである。

 この場におけるピラトの態度から学びたいのは、無節操な権力者がいかに憐れむべき状態にあるかということである。

 ピラトは、私たちの主が死に相当することを何も行なっていなかったことを、内心では喜んでいたようなふしがある。ここでははっきりと、「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていた」と語られている。彼自身の、偏見なき判断だけを働かせていたなら、おそらく彼は私たちの主に対する告訴を却下し、主を釈放していたであろう。

 しかしピラトが統治していたのは、ねたみ深く、不穏な民衆であった。彼が何よりも願っていたのは、彼らの気に入られ、彼らの歓心を買うことであった。彼は、人々の賞賛を受けている限り、自分が神の前にどれほどの罪人であるかなど気にもとめなかった。主の命を救おうという気持ちはあったが、それがユダヤ人の不興を買うことを恐れた。したがって彼は、民衆の憤懣をイエスからバラバに向けようという弱々しい努力を行ない、また自分の良心を満足させるため群衆の面前で手を洗うというさらに弱々しい努力の後で、ついに、自ら「義人」と呼んだその人を罪に定めたのである。彼は、妻がその神秘的な夢の後で送って寄こした不思議な警告を退けた。自分自身の良心の声をさえぎった。彼は「イエスを……十字架につけるために引き渡した」。

 このあわれな男のうちには、世の多くの支配者たちの姿が生き写しにされている。いかに多くの人々が、公務における自分の誤りを重々承知していながら、その知識に従って行動する勇気を持たぬことか。彼らは民衆を恐れ、笑い者になることにおびえ、不評を買うことに耐えられない。死んだ魚のように彼らは流れに浮かぶ。人の称賛こそ彼らが額づく偶像であり、その偶像のためには良心も内心の平安も不滅の魂も犠牲にするのである。

 私たちはこの世でどのような立場にあるにせよ、筋の通った歩みをするよう努力し、ご都合主義に流されないようにしよう。人の称賛は、あてにならず、はかなく、不確かである。今日あったかと思うと明日はない。私たちは神を喜ばせることを求めよう。そうするとき他のだれの顔色も気にならなくなる。神を恐れよう。そうするとき他のだれを恐れる必要もなくなる。

 これらの節におけるユダヤ人のふるまいから学びたいのは、人間性の絶望的な邪悪さである。

 ピラトの煮え切らない態度は、祭司長や長老たちに、自分たちの行動について考え直す好機となったはずである。ピラトが主の断罪に異議を唱えたことで、再考の時間があったはずである。しかし主の敵たちの心に再考の余地は全くなかった。彼らは自分たちの邪悪な行為につき進んだ。ピラトの提示した妥協案を拒否した。実に彼らは、イエスよりも、バラバと名乗る重罪人の方を自由にする方を好んだのである。彼らは私たちの主の十字架刑を求めて大声で叫び立てた。そして彼らは、むこうみずにも主の死の咎目を自らの上に負うと云い、この不吉な言葉を発することで決着をつけた。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」。

 では主は、何をしたために、これほどユダヤ人に憎まれたのか。主は盗人でも人殺しでもなかった。主は彼らの神を冒涜することも、彼らの預言者を罵ることもなかった。主は愛に生きた方であった。主は「巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされ」た(使10:38)。主は神の法についても人の法についても、何の罪や違反も犯されなかった。にもかかわらずユダヤ人は主を憎み、主が殺害されるまで騒ぎ立ててやまなかったのである。実に彼らが主を憎んだのは、主が彼らに真理を語ったためであった。彼らが主を憎んだのは、主が彼らのわざについて彼らの非を証言されたからであった。彼らは光を憎んだ。それは、光が彼ら自身の暗闇をあばいたためであった。一言で云えば、彼らがキリストを憎んだのは、主が義であり彼らが邪悪であったため、主が聖く彼らが汚れていたため、主が罪の非を鳴らしたにもかかわらず彼らが自分のもろもろの罪を保ち、手放すつもりなど毛頭なかったためであった。

 このことに注目しよう。人間性の腐敗ほど信じる人、理解する人の少ないものはまずない。人は完璧な人を見さえしたら、その人を愛し敬うだろうと空想する。彼らはうぬぼれてこう云う。「自分がいやなのは信者と名乗る人々の偽善性であり、彼らの信仰自体ではない」。彼らが忘れているのは、神の御子というかたちで真に完全な人が地上におられたとき、彼は憎まれ、死に至らされたということである。この事実1つだけでも、あの古い云い回しの真実を証明するに足るものがある。「未回心の者らが、もし神に手をかけることができたなら、神を殺すであろう」。

 私たちは、決して世の邪悪さに驚かぬようにしよう。世の悪を嘆き、それを軽減する努力はしても、決して世の悪の大きさに驚かぬようにしよう。人間の心が考えつけない悪、人間の手になしえない悪などない。私たちは、生きる限り自分自身の心も信用しないようにしよう。たとえ御霊によって新しくされていても、人の心は「何よりも陰険で、それは直らない」(エレ17:9)。


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第27章27―44 兵士らから受けたキリストの苦しみ、十字架刑

 これらの節では、主イエス・キリストが、ピラトによる有罪宣告の後でどのような苦しみを受けられたかが語られている。主が残忍なローマ兵の手から受けた苦しみ、十字架上で受けた最後の苦しみが描かれている。これは驚嘆すべき記録である。なぜなら、この苦しみを受けておられる方を思い起こすがいい。永遠の神の御子ではないか。これらの苦しみがどのような者らのために忍ばれたか思い起こすがいい。私たちと私たちのもろもろの罪こそ、このすべての悲しみの原因ではなかったか。彼は「私たちの罪のために死なれた」のである(Iコリ15:3)。

 第一に注目したいのは、私たちの主の苦しみがどれほど大きく、どれほど苦痛に満ちたものであったかということである。

 主の肉体が忍ばれた苦痛の一覧は、実にすさまじいものである。死の数時間前に、これほどの苦しみが肉体に加えられることはめったにない。どれほど残虐な行為にたけた種族も、私たちのほむべき主の骨肉の上に課せられたほど激しい拷問を敵に対して積み上げることはできまい。主が現実に生身の肉体を持っておられたことを決して忘れてはならない。主の肉体は私たちと全く同じく、同じように敏感で、同じように傷つき、同じように激痛を感じるものであった。ではその肉体がどのような仕打ちを受けたか見てみよう。

 思い出さなくてはならないのは、私たちの主が一晩中ほぼ一睡もせず、非常な疲労を耐えておられたということである。主はゲツセマネからユダヤ人の議会へ連行され、その議会からピラトの裁判の間に引っ立てられた。主は二度も裁判にかけられ、二度も不正な有罪判決を受けられた。主はすでに群衆から鞭打たれ、残虐な打擲を受けておられた。そして今、これらすべての苦しみの後で、残虐行為の専門家集団、思いやりや同情で動くことなど全くありえない、ローマ兵に引き渡されたのである。この無情な者どもは、すぐに思いのままを主に向かって行ない出した。彼らは「イエスの回りに全部隊を集めた」。主の着物を脱がせ、緋色の上着を着せてなぶりものにした。「いばらで冠を編み」、あざけりながら主の頭にかぶらせた。そして最後に、主にもとの着物を着せて、ゴルゴタという所に主を連れ出し、ふたりの強盗の間で主を十字架につけた。

 しかし十字架とはどのような刑罰であったか。その姿を思い描き、その悲惨さを考えてみよう。十字架につけられる人間は、端に横木のついた材木、または枝木が横に張り出した木の幹の上に仰向けに寝かせられる。そして両手を広げさせられ、釘で横木に打ちつけられる。同じようにして両足も、十字架の縦木に釘づけられる。こうしてからだが釘でしっかり固定されると、十字架は持ち上げられ、地面に堅く打ち込まれる。そしてそこに哀れな受難者は吊り下げられ、苦痛と疲労によって最期が訪れるのを待つ。重要な臓器が何1つ傷つけられていないため、死は突然やっては来ない。しかし両手両足から来る気が狂うような激痛に耐えながら、身動きすることもできないのである。これが十字架による死である。これがイエスが私たちのために味あわれた死であった。6時間の長きにわたり、そこに吊された主は、物珍しげに眺める群衆の前で、裸のまま、全身から血を流していた。頭にはいばらが突き刺さり、背中は鞭で切り裂かれ、両手と両足は釘で裂かれ、最後の最後まで残虐な敵どもから嘲られ、ののしられていた。

 私たちは、これらのことをしばしば思い巡らそうではないか。キリストの十字架と受難の物語をしばしば読み返そう。そして忘れないようにしたいのは、これらすべての恐ろしい苦しみが、愚痴ひとつ洩らさずに耐え忍ばれたということである。私たちの主の口からは、何のいらだちの言葉も発されなかった。主は、死においても、その生に劣らず完全であられた。最後に至るまで、サタンは何も主のあらを見いだせなかった(ヨハ14:30)。

 第二に注目したいのは、私たちの主イエス・キリストの受難はすべて代償のためのものであったということである。主が苦しまれたのはご自分の罪のためではなく、私たちの罪のためであった。主は、その受難のすべてにおいて私たちの比類なき身代りだったのである。

 これはこの上もなく重要な真理である。この真理なくして、私たちの主の受難の物語は、どれほど事細かに詳細が語られていても、永久に不可解な謎と思えるに違いない。しかしながらこれは、聖書がしばしば語ってやまない真理であり、これ以上ないほど明確に語られている真理でもある。すなわちキリストは、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」。キリストは「罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです」。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。キリストは、「私たちのためにのろわれたものとなって……くださいました」。「多くの人の罪を負うために……ささげられました」。「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(Iペテ2:24、3:18、IIコリ5:21、ガラ3:13、ヘブ9:28、イザ53:5、6)。願わくは私たちがみな、これらの聖句を忘れることがないように。これらは福音の大切な礎石である。

 しかし私たちは、キリストの十字架上での受難は代償のためのものだったと、ただ何となく信じるだけで満足していてはならない。私たちは、主の受難のあらゆる部分から、この真理を教えられるべきである。ピラトの法廷からその死の詳細に至るまで、主の姿を追ってみるがいい。そのすべての歩みにおいて、主は私たちの偉大な代理者であり、代表であり、かしらであり、保証人であり、代行者であり、---神なる友として私たちの立場に立たれ、受難という、この上もなく貴いその功績によって私たちの救いを贖ってくださった方である。主は鞭打たれただろうか。それは「彼の打ち傷によって、私たちがいやされ」るためであった。---主は無罪であるのに有罪宣告を受けただろうか。それは、私たちが罪あるにもかかわらず、無罪放免されるためであった。---主はいばらの冠をかぶっただろうか。それは私たちが栄光の冠をかぶるためであった。---主はその着物を脱がされただろうか。それは私たちが永遠の義を身に着るためであった。---主はあざけられ、口汚く非難されたであろうか。それは私たちが栄誉と祝福を与えられるためであった。---主は悪人とみなされ、罪人のうちに数えられただろうか。それは私たちが罪なき者とみなされ、すべての罪について義と認められるためであった。---主は自分を救えないと宣言されただろうか。それは主が彼らを完全に救うことができるようになるためであった。---最後に主は、最も痛ましく最も不名誉な死に方をしただろうか。それは私たちが永遠に生き、最も気高い栄光へと高められるためであった。私たちは、これらのことを熟考しようではないか。これらは覚えられておくべき値打ちがある。平安へ至る真の鍵は、キリストの代償の受難を正しく理解することである。

 私たちの主の受難の物語を読み終えるにあたり、私たちは深い感謝の念を抱こう。私たちの罪は数多く、大きい。しかしその1つ1つについて、偉大な贖いがなされている。キリストの受けた苦しみのすべてのうちに無限の功績がある。それは神であり人であるお方の苦しみであった。確かに、キリストが死んでくださったことについて神を日々たたえるのは適切な正しいことであり、私たちの欠くべからざる義務である。

 最後に、しかし重要なこととして、受難の物語から私たちが常に学ばさせられたいのは、力の限りを尽くして罪を憎むということである。罪は私たちの救い主のすべての苦しみの原因であった。私たちの罪がいばらの冠を編み、私たちの罪が主の両手両足に釘を打ち込み、私たちの罪のために主の血は流された。確かに十字架につけられたキリストを思えば、私たちはすべての罪を忌み嫌うべきである。英国国教会の受難説教の言葉は至当である。「この十字架についたキリストの像を常に私たちの心に刻みつけておこう。それが私たちの思いをかき立て、罪を憎ませ、全能の神への熱い愛に駆り立てさせるようにしようではないか」。


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第27章45―56 キリストの死、それに伴ったしるし

 これらの節には、主イエス・キリストの苦しみの終結が記されている。6時間にわたる苦悶の後も、主は死に至るまで従順であられ、「息を引き取られた」。この物語の中で特に注目に値する3つの点がある。それらに注意をしぼってみよう。

 まず第一に注目したいのは、死の直前に主イエスが発せられた尋常ならざることばである。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」!

 このことばには、定命の人間には決してはかり知りえない深遠な神秘がある。疑いもなく、主がしぼりだされたこのことばは、単なる肉体的苦痛によるものではない。そのような説明は全く不満足なものであり、私たちのほむべき救い主に不名誉を帰すものである。このことばは、世のもろもろの罪という巨大な重荷が、どれほどすさまじい重圧をもって主の魂にのしかかっていたかを示すものであった。主がどれほど真実に、また現実に、私たちの身代りであられたかを示すものであった。主は罪とされ、私たちのためにのろいとされ、世の罪に対する神の義なる怒りをご自分の身で耐えておられた。その恐るべき瞬間、私たちの不義はことごとく完全に主の上に負わされた。彼を砕いて痛めることが主のみこころであった(イザ53:10)。彼は私たちの罪を身に負い、私たちのそむきの罪を引き受けられた。神の永遠の御子が、一時的にせよ「見捨てられた」と語ったのである。その重荷は実に重かったに違いない。主は私たちのため、まさに現実の、文字通りの身代りとなってくださったに違いない。

 このことばを私たちの心に刻みこみ、忘れないようにしよう。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」とのキリストの叫びほど、罪の罪深さを証しし、主が代償のため苦しまれたことを証しするものはない。この叫びによって私たちは、罪を憎む思いをかき立てられ、キリストへの信頼をますます深めるべきである*1

 第二に注目したいのは、私たちの主の最期を記した数語のうちに、どれほど豊かな内容がこめられているかということである。ここには簡潔に、主は「息を引き取られた」と語られている。

 これほど重大な臨終はいまだかつてなく、これほど決定的な出来事はいまだかつてなかった。ローマ兵たちや観衆たちは、何の驚くべきことも見なかった。彼らが見たのは、単にひとりの人が、他のだれとも同じように、十字架にかけられた者が普通見せるような苦悶と痛みとともに死んでいった姿である。しかし彼らは、そのかげで永遠の救いにかかわる事柄が決されたとは夢にも思わなかった。

 その死によって、罪人が神に負っている巨大な負債は全額支払われ、信じるすべての者に向かっていのちの扉が開け放たれたのである。その死によって、神の聖なる律法の義しい要求は満たされ、神は「ご自身が義であり、また」、不敬虔な者を「義とお認めになる」ことができるようになったのである(ロマ3:26)。その死は単なる自己犠牲の模範ではなく、人間の罪に対する完全な贖いであり、なだめであり、全人類の運命に影響を及ぼすものであった。その死によって、神の完全な聖と完全なあわれみをいかに両立させうるかという難問が解決された。その死によって、あらゆる罪と汚れをきよめる泉が開かれた。その死はサタンに対する完全な勝利であり、かれを公然と破滅させた。それは「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし」た(ダニ9:24)。その死は、これほどの犠牲がなくては罪は贖えないことを示して、罪の罪深さを証明した。その死は、ご自分の御子を遣わしてまでも贖いをなしてくださった神の、罪人に対する愛を証明した。イエスが呪いの木の上で私たちの身代りに死なれたとき、地が揺れ動いたのも当然である。キリストの魂が「罪過のためのいけにえ」(イザ53:10)とされたとき、世界の磐石の枠組みが震え、驚愕しても不思議はなかった。

 最後に注目したいのは、私たちの主が死を迎えられたとき、ユダヤ教神殿の中心部で、いかに驚くべき奇跡が起こったかということである。ここには「神殿の幕が……真二つに裂けた」とある。神殿の至聖所とその他の部分を隔てていた垂れ幕、大祭司だけしか通ることのできなかった垂れ幕が、突如として「上から下まで二つに裂けた」。

 主の死に伴った数々の不思議なしるしの中でも、これほど意義深いものはない。3時間にわたる真昼の暗闇は、尋常ならざる出来事であったに違いない。岩を裂いた地震は途方もない衝撃であったに違いない。しかしこの、突然「幕が上から下まで真2つに裂けた」出来事には、知識あるユダヤ人ならだれしも心刺される意味があったに違いない。もしこの垂れ幕が裂けたとの知らせにも驚き恐れを覚えなかったというのであれば、大祭司カヤパの良心は、実にかたくなであったと云わなくてはならない。

 その幕が裂けたことによって、儀式律法の終結と消滅が宣言された。それは、いけにえと儀式による古い経綸がもはや必要でなくなったというしるしであった。その務めは終わりを告げた。キリストが死なれた瞬間から、その役目は消え去った。地上の大祭司、贖いのふた、血の注ぎかけ、香を焚くこと、贖いの日、これらはもはや不必要になった。真の大祭司がついに現われたのである。真の神の子羊がほふられたのである。真の贖いがついになされたのである。象徴や影はもはや必要ではなくなった。願わくは私たちがみなこのことを忘れないように。今、祭壇やいけにえや祭司制度を立てるのは、真昼にろうそくを灯すようなものである。

 その幕が裂けたことによって、全人類に対して救いの道が開かれたことが宣言された。キリストが死なれるまで、神のみもとに出る道は、異邦人には知られておらず、ユダヤ人もおぼろげにしかわかっていなかった。しかし今やキリストが完全ないけにえとしてささげられ、永遠の救いをかちとってくださったため、暗闇と秘儀は過ぎ去ることになった。今やすべての人が、イエスに対する信仰により大胆に、確信をもって神に近づくよう招かれることになった。全世界の前で扉は開け放たれ、いのちの道が示された。願わくは私たちがみなこのことを忘れないように。イエスが死なれたとき以来、平安に至る道は決して神秘に包まれるべきものではない。そこには何の制限もあるべきではない。福音は、代々にわたり何世代もの間隠されてきた奥義の啓示である。今、信仰に神秘をまとわせるのは、キリスト教の最大の特徴に対する思い違いである。

 私たちはこの十字架の物語を読むたびに、賛美の念で心を満たされよう。私たちは、罪の赦しという希望の根拠について、この物語が与えてくれる確信のために、神をたたえよう。私たちのもろもろの罪は多く、大きいかもしれない。しかし私たちの偉大な身代りによってなされた支払いは、それらすべてにはるかにまさる重みがある。また私たちは、天におられる私たちの父の愛について、この物語が明かしてくれる見方のために、神をたたえよう。御子をも惜しまず、私たちすべてのために引き渡された方が、私たちにすべてを与えてくださることは確実である(ロマ8:32)。最後に大切なこととして、イエスが信ずる民すべてに対して抱いておられる同情の念について、この物語が明かしてくれる見方のために、私たちは神をたたえよう。主イエスは私たちの弱さに心を動かされるお方である。主は苦しみがどういうものかご存じである。主は、虚弱な肉体と弱い心をもって邪悪な世に生きる者らが、まさに必要とする救い主なのである。

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*1 以下に引用した文章は、このきわめて厳粛な聖書箇所に光を投げかけるものとして注目に値すると思われる。

 「この言葉を発されたとき私たちの主が感じておられたのは、人類に対する御父の怒りであった。その人類の身代わりとして主は、全人類のもろもろの罪に対する正当な報いを受けておられたのである。『どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と云われたとき主は、神がひとときの間その慰めに富むご臨在の感覚と幻を取り除かれたことを示しておられた。『わが神』と云われたとき主は、その永遠の御父の確かで恵み深い御助けを堅く確信するという信仰の強さを示しておられた」 ホール主教

 「地獄に落ちた魂が永遠にわたってあげる呻きや咆哮のすべてをもってしても、罪の邪悪さ苦々しさを表現するものとしては、『わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という短い言葉にくらべれば無限に弱々しいものでしかない」 ジェイミスン [本文に戻る]


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第27章57―66 キリストの埋葬、復活を阻止しようとする敵どもの無駄な用心

 これらの節には、私たちの主イエス・キリストの埋葬のようすが語られている。私たちの贖い主が身に負われた偉大な救いのわざが完全に遂行されたことを確実にするためには、もう1つだけ必要なことがあった。私たちの罪を十字架上でになわれれたその聖なる肉体が、実際に墓の中に横たえられ、よみがえらなくてはならなかった。主の復活は、救いのみわざ全体の証印となり、かなめ石となるべきであった。

 神はその無限の知恵によって、不信者や不信心者の反論を予知し、答を備えておられたのである。神の御子は本当に死んだのか? かれは本当によみがえったのか? 彼の死には何かまやかしがあったのではないか? 彼の復活には何かごまかしか、欺きがあったのではないか? こうした類の反論はみな、疑いもなく機会さえあれば持ち出されたに違いない。しかし最初から最後まで見通しておられるお方は、このような反論の可能性を封じられた。すべてをつかさどるその摂理によって、神は、イエスの死と埋葬に何の疑いの余地もない状況へと事を運ばれた。ピラトは主の埋葬を許可した。愛する弟子は遺体を亜麻布にくるみ、岩に掘られた新しい、「まだだれをも葬ったことのない」墓に納めた。祭司長ら自身、主のからだが置かれた場所に番兵をおいた。ユダヤ人と異邦人、友人たちと敵たちが、声をそろえて証言している偉大な事実は、キリストは正真正銘、まさしく現実に死んで、墓に葬られたということである。これは決して疑うことのできない事実である。主は現実に「痛められ」、現実に苦しまれ、現実に「死なれ」、現実に「葬られた」。これを肝に銘じておこう。これは何度も思い返すべき事実である。

 これらの節からまず学びたいのは、私たちの主イエス・キリストには、無名の友人たちがいるということである。

 私たちがここで目にしている箇所ほど、驚くべき形でこの真理を例証するものはない。私たちの主が死なれたとき、アリマタヤ出身のヨセフという人物が名乗り出て、主を葬る許可を求めている。これまでの主の地上でのご生涯の中で、私たちは、一度もこの人物について聞いたことがないし、これ以後二度と聞くこともない。私たちには何もわからないが、彼はキリストを愛し、キリストに敬意を表した弟子であった。使徒たちが主を見捨て去っていたそのとき、主への尊敬を表明することが危険であったそのとき、主の弟子であると告白しても地上的には何の得もないように思われたそのときに、ヨセフは大胆に名乗り出て、イエスの遺体の引き渡しを願い出て、自分の新しい墓に葬ったのであった。

 この事実には慰めと励ましが満ちている。ここで示されているのは、地上には、主を知り主に知られている、もの静かで、遠慮がちな人々がいるが、教会にはほとんど知られていないということである。キリスト者の間の「賜物にはいろいろの種類がある」ということである。消極的にキリストの栄光を現わす人もいれば、積極的にキリストの栄光を現わす人もいる。教会を建て上げる職務について、公の地位を占める人もいれば、ヨセフのように特別な必要があるときしか表に出てこない人もいる。しかし、おのおのすべての人が1つの御霊によって導かれ、おのおのすべての人が自分なりのしかたで神の栄光を現わしているのである。

 こうしたことから、私たちはもっと希望を持つようにしよう。私たちは「たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着」くことを信じよう(マタ8:11)。キリスト教界の薄暗い片隅には、シメオンやアンナやアリマタヤのヨセフのような人々が多数いて、現在は世にほとんど知られていなくても、主が再臨される日には主の宝玉の中でまばゆく輝くのかもしれない。

 これらの節から別のこととして学びたいのは、神は邪悪な人間たちの悪だくみを、ご自分の栄光のために役立たせることがおできになるということである。

 この教訓を驚くべき仕方で教えてくれるのが、主が埋葬された後の祭司ら、パリサイ人らの行動である。この不幸な者らのあくなき敵意は、主イエスのからだが墓に納められてからも、やむことがなかった。彼らは、主が「よみがえる」と語られた言葉を思い出した。それで彼らは、主のよみがえりなどありえないようにしようと決意した。彼らはピラトのもとへ行き、ローマ兵の番兵を手に入れ、主の墓に見張りをおき、石に封印をした。つまり彼らは、「墓の番を」するためにあらゆる手をつくしたのである。

 彼らは自分たちが何をしているか思いもかけなかった。まさか自分たちが、意図せずして、キリストの来たるべき復活という真理について、最も完璧な証拠を用意していようとは夢にも思わなかった。実は彼らは、そこに何らかのごまかしや偽装などありえたはずがないということを証明することになったのである。彼らの封印、番兵、警戒などはみな、数時間のうちに、キリストのよみがえりの証人となった。キリストが墓から出てこられるのを妨げようとするのは、海の波をとどめ、太陽が輝くのを邪魔しようとするようなものであった。彼らは自分たちの悪賢さによって罠にかかった(Iコリ3:19)。彼ら自身の悪企みが、神の栄光を指し示す道具となった。

 教会史は、これと同じような多くの実例で満ちている。神の民にとって最も不都合と思われたことそのものが、実は彼らの益であったことがしばしばであった。「ステパノのことから起こった迫害」は、キリスト教会にどのような害悪を及ぼしただろうか。散らされた人々は、「みことばを宣べながら、巡り歩いた」のである(使8:4)。聖パウロの投獄は、どのような害悪を及ぼしただろうか。それは彼に、今も全世界で読まれ続けている多くの書簡を書く時間を与えたのである。血のメアリー(女王)による迫害が、英国の宗教改革にどのような害悪を及ぼしただろうか。殉教者たちの血は教会の種となったのである。今日、迫害は神の民にどのような害悪を及ぼしているだろうか。それは単に、彼らをキリストにより近づけるだけである。それは単に彼らを、恵みの御座と聖書と祈りに対して、より密接に結びつけるにすぎない。

 真のキリスト者はみな、これらのことを心に刻みこみ、勇気を得るようにしよう。私たちの住む世界では、すべてのことが完全な知恵を持つお方の御手で整えられ、すべてのことがキリストのからだのため絶えず益となるように働いている。この世の権力者らは、神の御手の中にある道具にすぎない。彼らは夢にも思っていないだろうが、神はご自分の目的のために絶えず彼らを用いておられる。彼らは、神がたゆまなく、ご自分の霊的な神殿の生ける石を四角にし、磨き上げるために用いる工具であり、彼らのたくらみや計画はことごとく神の賛美へと向かうのである。私たちは、困難と暗闇の日々には忍耐と希望を持つようにしよう。今私たちに敵対しているように見えることはみな、神の栄光となるように働いている。私たちが見るところは半ばにすぎない。もうしばらくすれば、すべてを見ることになる。そのとき私たちは、今耐え忍んでいる迫害がすべて、神の栄光へと進む「紋章」であり「衛兵隊」のようなものであったことを見いだすであろう。神は、「人の憤り」にも、ご自分をほめたたえさせることがおできになる(詩76:10)。

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