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第28章1―11 キリストの復活

 これらの節が述べている最大の主題は、私たちの主イエス・キリストの死からの復活である。これはキリスト教の土台に横たわる根本的真理の1つであり、それゆえ四福音書の中でも特別な注意が払われている。四人の福音書記者は全員、私たちの主がどのように十字架にかけられたかを、微に入り細にわたって描写しているが、四人が四人とも、それに劣らぬ明確さをもって、主がよみがえられたことをも物語っている。

 主の復活がこれほど重要視されていることには何の不思議もない。これは、主が世に来られた目的である偉大な救済のみわざの証印であり、礎石である。これは、主が私たちにかわって支払いを引き受けられた負債を主がお支払いになったこと、私たちを地獄から解放するため戦われた戦いに主が勝利されたこと、私たちの天の御父が私たちの債務保証人、代理人として主を受け入れられておられることに対する、この上もない証拠である。もし主がその墓場の牢獄から二度と現われなかったら、私たちはどうして自分の贖いの代価が完全に支払われたことを確信できただろうか(Iコリ15:17)。もし主がこの最後の敵との死闘から二度と立ち上がらなかったなら、私たちはどうして、主は死に打ち勝たれ、悪魔という、死の力を持つ者に打ち勝たれたと安心するすることができただろうか(ヘブ2:14)。しかし神に感謝すべきことに、私たちは疑いの中に捨ておかれてはいない。主イエスはまことに「私たちが義と認められるために、よみがえられた」。真のキリスト者は「イエス・キリストが死者の中からよみがえれられたことによって……新しく生まれさせられ、生ける望みを持つように」されている。彼らはパウロとともに大胆にこう云うことができる。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが……いてくださるのです」(ロマ4:25、Iペテ1:3、ロマ8:34)。

 私たちには、この素晴らしい真理がこれほど明確に、また十分に証明されていることについて、神に深く感謝すべきである。主の公生涯におけるあらゆる事実の中でも、主がよみがえられたという事実ほど議論の余地なく立証されているものはない。これは驚くべきことである。人間性に根ざす不信仰を知っておられる神は、その知恵によって、この件について雲のような証言の山を備えてくださった。キリストの復活ほど、神の友らが信じることの遅い事実はない。これほど神の敵らがやっきになって論駁したがる事実はない。しかし、友らの不信仰や敵どもの敵意にもかかわらず、この事実は徹底的に立証されている。その証拠は、偏見を持たない公正な人には、常に反論の余地ないものと思われる。イエスのよみがえりを信じることを拒否するなら、この世に証明できるものは何1つなくなるであろう。

 これらの節で注意したいのは、キリストが死者の中からよみがえられた際の栄光と威光である。ここには「大きな地震があった」とある。また「主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわった」とある。私たちの主が墓から出て来られるとき、御使いの助けを必要とされたと考えることはない。主はご自分の力でよみがえられた。片時もそれを疑う必要はない。しかし神はそのみこころによって、主の復活にしるしと不思議が伴うことをよしとされたのである。神の御子が死者の中から征服者としてよみがえる際には、地が揺れ動き、光輝く御使いが現われることがふさわしいように思われる。

 私たちは、この主の復活の仕方のうちに、主を信じる民の復活の型と保証が示されていることを見落とさないようにしよう。墓は、定められた時を越えて主を封じ込めておくことはできなかった。主の民を封じ込めておくこともできないであろう。ひとりの光輝く御使いが主のよみがえりの証人となった。光輝く御使いの群れが、よみがえりを迎える信者たちを集める使者となるであろう。主の復活のからだは、新しくされてはいたが現実の、実体をもった、まことの肉体であった。主の民もまた、栄光のからだを持ち、かしらと似た者らとなるであろう。「キリストを見るとき、私たちはキリストに似た者となる」(Iヨハ3:2)。

 このことを思って私たちは慰めを受けようではないか。試練、悲しみ、迫害は、しばしば神の民が受けなくてはならない分である。病い、弱さ、痛みは、しばしば彼らの粗末な地上の幕屋を傷つけ、すり減らす。しかし彼らの最上の時は、まだ来ていない。忍耐強く待つべきである。そうすれば栄光の復活を迎えるであろう。私たちがいつ死ぬか、どこに葬られるか、どのような葬式をあげるかは大したことではない。問われなくてはならない最大の問題は、「私たちはどのようにして復活するか」ということである。

 次に注意したいのは、キリストが復活されたとき、主の敵どもが感じた恐怖である。ここには、御使いの姿を見て「番兵たちは……恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」とある。どれほど酸鼻な光景にも慣れきっていた、この豪胆なローマ兵たちは、彼らをおののかせるような光景を目にしたのである。彼らの勇気は、神の御使いをひとり見ただけで、たちまち萎えしぼんでしまった。

 この事実のうちにも、私たちは、来たるべき出来事の型と象徴を認めよう。終わりの日、ラッパの響きが鳴り、キリストが栄光に包まれて世をさばくために来られるとき、不敬虔でよこしまな者たちはどうするであろう。小さい者から大きい者まですべての死者が墓からよみがえるのを見るとき、また神のすべての御使いが、あの大きな白い御座のまわりに集まっているのを見るとき、彼らはどうするであろう。自分がもはや神の臨在から逃れることができず、とうとう神と顔を合わせなくてはならないと知ったとき、何という恐怖、恐慌が彼らの魂を襲うことだろう。おお、人々が賢くふるまい、自らの最後を悟っていられたらどんなによいことか。おお、彼らが復活とさばきのあることを覚え、「小羊の怒り」(黙6:16)というものがあることを覚えていられたら何とよいことであろうか。

 次に注意したいのは、キリストの友らに対して御使いが告げた慰めの言葉である。ここには御使いが、「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています」と云ったとある。

 これらの言葉のかげには、深い意味がある。それは、復活を待ちわびる、あらゆる時代の信者の心を勇気づけるための言葉であった。終わりの日、この世に何が起ころうと、真のキリスト者には何も恐れる理由がないと思い起こさせるための言葉であった。主は天の雲に乗って現われ、地は焼き尽くされる。墓はその中にいる死者を出し、海はその中にいる死者を出す。さばきの座が設けられ、数々の書物が開かれる。御使いたちは麦と殻をより分け、良い魚と悪い魚をふるい分ける。しかしこうしたことすべての中にあっても、信者が恐れなくてはならない理由は何もない。キリストの義を身に着せられた彼らは、しみも傷もない者であるとわかる。唯一のまことの箱舟に安全に乗り込んだ彼らは、神の怒りの洪水が地上に炸裂するときも傷つくことはない。そのとき主のこのことばは完全に成就するのである。「これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」。そのとき、信じようとしなかった邪悪な者たちは、この言葉がいかに真実であったかを思い知るであろう。「幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は」(詩33:12)。

 最後に注意したいのは、復活後、主が弟子たちに伝えられた恵み深いおことばである。主は、みからだに敬意を表しにやって来た女たちの前に姿を現わされた。最後まで十字架から離れず、最初に墓に赴いた彼女たちは、最初によみがえりの主にお目にかかる特権にあずかった。そして彼女たちに主は、ご自分の弟子たちにその知らせを伝えるよう命じられたのである。主が真っ先に思われたのは、ご自分の、散らされた小さな群れのことであった。「行って、わたしの兄弟たちに……言いなさい」。

 「わたしの兄弟たち」という、この単純なことばには深く心を打つものがある。これは、何度となく思い返すに値することばである。弱く、もろく、誤りがちなこの弟子たちを、なおもイエスは「わたしの兄弟たち」と呼んでおられる。自分を売りとばした兄たちに「私は弟のヨセフです」と云って慰めたヨセフのように、主は彼らを慰めておられる。彼らは、自分たちの告白を大きく裏切り、悲しいほど人に対する恐れに屈伏したにもかかわらず、なおも主の「兄弟たち」であった。神の御子は、栄光に輝くお方、死、地獄、墓に打ち勝たれた勝利者であるにもかかわらず、なおも「心優しく、へりくだって」おられる。主はご自分の弟子たちを「兄弟たち」と呼んでおられるのである。

 この箇所を閉じるにあたり、少しでも真の信仰を知る者は、心慰められようではないか。このキリストのおことばに励まされて、主に大胆により頼み、恐れないようにしよう。私たちの救い主は、決してご自分の民をお忘れにならない。主は彼らの弱さをあわれまれるお方である。主は彼らをさげすまない。彼らの弱さを承知していながら、彼らを捨て去りはしない。私たちの偉大な大祭司は、私たちの長兄でもあられるのである。


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第28章12―20 弟子たちに対するキリスト最後の命令

 これらの節をもって、マタイの福音書は完結する。この箇所の冒頭で示されているのは、盲目的な偏見というものが、真理を信ずるまいとするあまり、どれほど馬鹿げたことを信じたがるかということである。次に示されるのは、弟子たちの中には、どれほど心弱く、どれほど信じることの遅い者らがいたかということである。そして最後に、私たちの主が地上で最後に語られたことばのいくつかが記されている。この尋常ならざることばに、私たちはすべての注意を向けるべきであり、向けなくてはならない。

 まず第一に注目したいのは、神が私たちの主イエス・キリストに与えられた栄誉である。主は云われる。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」。

 これは聖パウロがピリピ人に向かって宣言した真理である。「神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」(ピリ2:9)。この真理は、ある人々が無知にも想像したように、キリストの神性に関する真の概念から決して損なうものではない。これは単に、三一の神の永遠のお取り決めにより、人の子イエスは万物の相続者として任命されているという宣言にすぎない。彼が神と人との仲保者であられること、救われるすべての者の救いは彼の上に置かれたこと、また彼があわれみと恵みといのちと平安の大いなる源であられることを宣言しているにすぎない。この「喜びのゆえに」こそ主は「十字架を忍び」通されたのである(ヘプ12:2)。

 私たちは、畏敬の念をもってこの真理を抱き、これを決して手放さないようにしよう。キリストは死と地獄の鍵を持つお方である。キリストは油注がれた祭司として、ただひとり罪人に赦免を与えうるお方である。生ける水の泉として、ただひとり私たちをきよめうるお方である。君主であり救い主として、ただひとり悔い改めと罪の赦しを与えうるお方である。この方のうちにすべてが満ち満ちている。この方こそ道であり、門であり、光であり、羊飼いであり、逃れの祭壇である。「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」(Iヨハ5:12)。願わくは私たちがみな、このことを理解しようと努力するように。疑いもなく人は、父なる神、御霊なる神のことをすぐに軽視しがちである。しかし、キリストのことはどれほど高く評価しても足りはしない。

 第二に注目したいのは、イエスがご自分の弟子たちに負わせた義務である。主は彼らに、「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じられた。彼らは自分の知識をひとりじめにしておくのではなく、他の人々に伝えるべきであった。救いはユダヤ人だけに啓示されたなどと思うのではなく、全世界に知らしめるべきであった。全世界の人々を弟子とし、全世界に向かってキリストが罪人のために死なれたことを告げ知られるよう努力すべきであった。

 私たちは、この厳粛な命令が今も完全に有効であることを決して忘れないようにしよう。他の人々にイエスを知らせるために全力を尽くし、心からそれを祈り求めることは今もなお、キリストの弟子たる者すべての、避けられない義務である。この義務をおこたっておいて、私たちの信仰はどこにあるのか。私たちの愛はどこにあるのか。全世界に福音を知らしめたいと願わない者が、本当に福音の価値を理解しているかどうかは疑わしいというべきであろう。

 第三に注目したいのは、ご自分の福音を信じる者らに対してイエスが求められる公の告白である。主は使徒たちに、弟子として受け入れた者たちには「バプテスマを授け」よと命じておられる。

 キリスト者の中には、別段障害もないのに、バプテスマを受ける必要などないと云う人々がいるが、私たちの主のこの最後の命令を読むとき、なぜそのような結論に達しうるのか想像するも困難である。このことばは、キリストの教会への加入者全員に施すべき外的な儀式、という以外の意味にはとれないと思われる。外的なバプテスマが救いに絶対不可決ではないということ、これは十字架上で悔い改めた盗人の例を見ても明らかである。彼はバプテスマを受けずにパラダイスへ行った。外的なバプテスマだけでは、しばしば何の益ももたらされないこと、これも魔術師シモンの例から明らかである。バプテスマを受けたにもかかわらず彼は、「苦い胆汁と不義のきずなの中にいる」ままであった(使8:23)。しかしバプテスマが完全にどうでもよい問題であるとか、全くなくてもよいとかいう主張は、この箇所における私たちの主のことばと矛盾していると思われる。

 このことばから明らかに得られる実際的教訓は、人はキリストに対する信仰を公に告白する必要があるということである。隠れ信者でいるだけでは十分でない。自分が何者か、だれに仕えているかを人に知られることを恥じてはならない。キリスト者だと思われたくないかのようにふるまうのではなく、むしろ自分の十字架を負い、世の前で自分の主人を告白しなくてはならない。主のことばは非常に厳粛である。「わたし……を恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます」(マコ8:38)。

 第四に注目したいのは、主の弟子と告白するすべての者にイエスが求めておられる従順である。主は、ご自分が命じておいたことをみな守るよう彼らに教えよと、使徒たちに命じておられる。

 これは心探られるおことばである。これは名目だけ、形式だけのキリスト教では何の役にも立たないことを示している。真のキリスト者とみなされるのは、主のことばを実生活で守り行なう者、主が命じておかれたことを行なおうとする者であることを示している。バプテスマの水や、主の晩餐のパンと葡萄酒だけでは、だれの魂も救われない。礼拝に出席し、牧師の話を聞き、福音に同意するだけでしかない信仰は、何の役にも立たない。私たちの生活はどのようなものか。自分の家の内外での行動はどのようなものか。山上の説教は私たちの基準、規範となっているだろうか。私たちはキリストの模範にならおうとしているか。主が命じられたことを行なおうとしているか。自分が新しく生まれたこと、神の子どもであることを証明したければ、これらの問いに肯定の答えを出さなくてはならない。従順だけが真実の証拠である。「行ないのない信仰は」、それだけでは「死んでいる」(ヤコ2:17、20、26)。イエスは云われる。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です」(ヨハ15:14)。

 第五に注目したいのは、これらの節で私たちの主が、ほむべき三位一体について厳粛に言及しておられるということである。主は使徒たちに向かって、「父、子、聖霊の御名によって」バプテスマを授けよと命じておられる。

 これは、三位一体の偉大な教理をあからさまに教える明白な聖句の1つである。これは、父、子、聖霊を3つの別個の人格として語り、なおかつ三者を同等のお方として語っている。一方は御父であり、一方は御子であり、一方は御霊である。しかし、この三者はおひとりなのである。

 この真理は大いなる神秘である。私たちはこれを受け入れ、信ずるだけでよしとし、これを説き明かそうとするようなことは厳につつしもう。理解できないことには同意しないというのは幼稚な愚かしさである。私たちは地べたを這い回る虫けらであり、どれほど探求しても神と永遠についてはほとんどわかっていない。へりくだりと畏敬の念をもってこの三位一体の教理を受け入れるだけで十分とし、むだな質問はしないことである。私たちは、このほむべき三位一体のすべての位格が働いてくださらなければ、罪深い魂はひとりとして救われることはできないと信じよう。人間を創造する際に協力された父、子、聖霊が、人間を救う際にも協力しておられることを喜ぼう。そしてここで立ち止まろうではないか。私たちは、理論的には説明がつかないことでも、実際上は受け取ることができるのである。

 これらの節で最後に注目したいのは、イエスが結びに語られた恵み深い約束である。主は弟子たちに告げておられる。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」。

 これほど人を慰め、力づけ、元気づけ、きよくすることばを考えることはできない。弟子たちは、意地悪な冷たい世間に放り出された孤児のようではあっても、自分たちが見捨てられたと考えるべきではなかった。彼らの主人は常に「彼らとともに」おられる。彼らは、パロのもとに遣わされたモーセと同じような難事を託されてはいたが、落胆すべきではなかった。彼らの主人は確かに「彼らとともに」おられる。これほど、これを初めて聞いた者たちの状況にうってつけのことばはありえない。これほど世の全時代の信者たちに慰めを与えることばは想像できない。

 真のキリスト者はみな、このことばを堅く握り、心に銘記しようではないか。キリストはいつも「私たちとともに」おられる。キリストは、私たちがどこへ行こうと「私たちとともに」おられる。主は、最初に世に来られたとき、「インマヌエル(神は私たちとともにおられる)」となられた。そして主は、その地上での活動を終えて、まもなく世を去ろうとされるときも、ご自分は常に、「私たちとともに」あるインマヌエルであると宣言しておられるのである。主は日々私たちとともにあって罪と咎を赦し、日々私たちとともにあってきよめと力を与え、日々私たちとともにあって守り支え、日々私たちとともにあって先立ち導いてくださる。悲しみの中でも喜びの中でも私たちとともにおられ、病のときも健康のときも私たちとともにおられ、生きるにも死ぬにも私たちとともにおられ、地上においても永遠においても私たちとともにおられる。

 信者にとって、これ以上に力強い慰めがあろうか。何が起ころうと、少なくとも彼らだけは、友なき孤独には決して陥らずにすむのである。キリストが常に彼らとともにおられる。彼らは墓をのぞきこんでダビデとともに云うことができる。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」。彼らは墓のかなたを望み見て、パウロとともに云うことができる。「私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(詩23:4、Iテサ4:17)。主がこれを語られた。主はいつまでもこのことばを守られるであろう。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」。私たちはこれ以上のことを望むことはできない。信じ続け、恐れないようにしよう。真のキリスト者となる者は、すべてを手にすることになる。これほどの王を持つ者はいない。これほどの祭司、これほど身近な同伴者、これほど信頼できる友を持ちうるのは、キリストの真のしもべたちだけである。

マタイ福音書講解[了]

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