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第26章1―13 主の頭に香油を注いだ女

 私たちは今、主イエス・キリストが地上で送られた公生涯の最後の場面に近づきつつある。これまで私たちは主のおことばと行ないについて読んできた。これから読もうとしているのは、主の受難と死についてである。これまで私たちは主を偉大な預言者として見てきたが、これからは偉大な大祭司として見ていくのである。

 これは聖書の中でも、特別な敬意と注意を払って読むべき箇所である。私たちの立つ所は聖なる地である。ここに私たちが見るのは、女のすえがいかにして蛇の頭を砕いたかである。旧約聖書のすべてのいけにえが長い間指し示していた偉大ないけにえである。私たちを「すべての罪から……きよめ」る血がいかにして流され、「世の罪を取り除く」小羊がいかにしてほふられたかである(Iヨハ1:9、ヨハ1:29)。キリストの死のうちに私たちが見るのは、義なる神がいかにして不敬虔な者を義と認めることができるかという偉大な神秘である。四福音書がみな、この驚異に満ちた出来事を詳細に語っているのも不思議ではない。これ以外のことなら、主のご生涯には、ひとりの福音書記者をのぞいて他の三人が沈黙を守っている点が少なくない。しかし十字架刑になると、四人全員によってこと細かに語られているのである。

 今読んだ節で最初に注目したいのは、主がいかに念を入れて弟子たちの注意をご自分の死に向けておられるかということである。主は彼らに語られた。「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます」。

 このことばと直前の章との関連は非常に印象的である。私たちの主は、世の終わりにご自分が力と栄光をもって再臨されることを子細に説き明かしたばかりであった。最後の審判とその恐るべき結末を物語り、ご自分こそ、万民をその王座の前に集める審き主であると語ったばかりであった。しかしここで主はたちどころに言葉をついで、ご自分の十字架刑のことを語り出される。終末のご栄光についての素晴らしい予告がまだ弟子たちの耳に響いているうちに、主は来たるべきご自分の受難について彼らにもう一度語られる。主は、王として君臨する前に、まず罪のためのいけにえとして死ななくてはならないこと、王冠を受ける前に、まず十字架の上で贖いをなしとげなくてはならないことを彼らに思い出させておられる。

 キリストの贖いの死ほど重要な事実はない。これは神のみことばのうちでも、霊の目を常にすえていなくてはならない中心的な事実である。主の血が流されなければ、決して罪が赦されることはない。これはキリスト教の根底をなす根本的真理である。この真理をぬきにした福音など、かなめ石のないアーチ、土台のない高層建築、太陽のない太陽系である。もちろん私たちは主の受肉を重んじよう。主の模範、奇蹟、たとえ話、みわざ、みことばを重んじよう。しかし何にもまさって、主の死を重んじようではないか。私たちは主の再臨と千年の支配を希望して喜ぼう。しかしそのほむべき真理さえ、十字架上の贖いにまさって重く見られてはならない。「キリストは私たちの罪のために死なれた」という真理、これこそ聖書最大の真理である。私たちはこの真理に日ごとに立ち帰り、この真理から日ごとに魂の養いを受けよう。ある者は古のギリシャ人のようにこの教理をあざけり、「愚か」と呼ぶかもしれない。しかし私たちは、パウロとともにこう云うことを断じて恥じないようにしよう。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」(ガラ6:14)。

 これらの節で第二に注目したいのは、キリストが、ご自分に栄誉を帰す者らに、どれほどの栄誉を与えたいと願っておられるかということである。

 ここには、主が「らい病人シモンの家におられる」とき、ひとりの女が食卓についておられる主のもとへ来て、つぼいっぱいの高価な香油を主の頭に注いだと記されている。疑いもなく彼女がそうしたのは、主への崇敬と愛からであった。彼女は主から大きな恵みを魂に受けていた。そのお返しにどれほど尊い栄誉のしるしをささげようと高価すぎることはないと考えた。しかし彼女のこの行為を見守っていた者たちの中には、不賛成の声を上げた者もいた。彼らはそれを「むだなこと」と云った。その香油を売った代金を貧者に施した方がよかったというのである。しかしすぐさま主は、この心の冷たいあら探し屋らを叱責された。主は彼らに、この女は「りっぱなことをしてくれた」のだ、それを主は受け入れ、承認なさると告げておられる。そして主は驚嘆すべき予告をなされた。「世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」。

 この小さな出来事から教えられるのは、キリストがいかに完全に未来を見通しておられたか、またいかにたやすく栄誉をお授けになれるかということである。この女に関する主の預言は、私たちの目の前で毎日のように成就している。聖マタイの福音書が読まれる所ならどこでも彼女の行ないは知られている。多くの王や皇帝や将軍たちの行ないや称号は、砂に書いた文字のように完全に忘れ去られているというのに、一人の貧しい女の感謝に満ちた行動は、百五十もの異なる国語で記され、世界中で知られているのである。人々の賞賛は数日しか長続きしないが、キリストの賞賛は永遠に絶えることはない。不朽の栄誉へ至る道は、キリストに栄誉を帰すことである。

 最後に、しかしこれも重要なこととして、この事件から示されるのは、来たるべき最後の審判の日の前兆である。その大いなる日、地上でキリストの栄誉のためになされたことは、何1つ忘れられていなかったことがわかる。その日、議事堂での雄弁、戦士たちの偉業、詩人や画家らの作品のことは言及されない。しかし、キリストとキリストの家族のためになされたことなら、どれほどか弱いキリスト者女性の、どれほど小さなことでも、永遠の記録の書に記されていたことがわかるであろう。ほんの親切な一言、ほんの小さな親切、あるいはほんの一杯の冷たい水、ほんのひとつぼの香油も、その記録からはぶかれることはない。彼女に金銀はなかったかもしれない。身分や権力や影響力とは無縁だったかもしれない。しかしもし彼女がキリストを愛し、キリストを告白し、キリストのために働いていたなら、彼女はいと高き所で覚えられている。彼女は集められた全世界の前で賞賛されるのである。

 私たちはキリストのために働くことが何を意味するか知っているだろうか。もし知っているなら、勇気を出し、働き続けよう。これほど心揺さぶる励ましがあるだろうか。私たちは世から笑われ、あざけられるかもしれない。動機を疑われ、行動を曲解され、キリストのため払う犠牲など「むだ」だと云われるかもしれない。時間のむだ、金銭のむだ、体力のむだと呼ばれるかもしれない。それでも私たちは動揺しないようにしよう。ベタニヤのシモンの家におられたお方の目は私たちに注がれている。この方は私たちのなすことすべてを心にとめ、喜んでいてくださる。「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励」もうではないか。なぜなら私たちは「自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っている」からである(Iコリ15:58)。


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第26章14―25 にせ使徒と彼にまつわりつく罪

 この箇所の冒頭には、私たちの主イエス・キリストがいかにしてその仇敵の手に売り渡されたかが記されている。祭司たち律法学者たちは、主を殺したいと切望してはいたが、民衆の騒動を恐れ、何ら打つ手を見いだせずにいた。この局面で、彼らのもくろみのための格好の道具として飛び込んできたのが、イスカリオテのユダという人間であった。このにせ使徒は、銀貨30枚で、師を彼らの手に渡すと請けあったのである。

 イスカリオテのユダほど暗黒の足跡を歴史に刻んだ者はまずない。これほど凄惨に人間の邪悪さを示す証拠はない。「蛇の牙より鋭きは感謝を知らぬ子の心よ」と歌った詩人がいるが、自分の師を裏切るという弟子を何と云うべきであろう。キリストを売れるという使徒を何と云うべきであろう。確かにこれは、主が飲みほされた苦難の杯の中でも、ことさらに苦い部分であった。

 これらの節から第一に学びたいのは、人はどれほど大きな特権を享受し、どれほど偉大な信仰告白をしていたとしても、その心が神と正しい関係にないことがありうるということである。

 イスカリオテのユダは、考えうる限り最高の宗教的特権にあずかっていた。彼は選ばれた使徒であり、常にキリストにつき従っていた。私たちの主の奇蹟を数知れず目撃し、主の説教を絶えず聞いていた。アブラハムやモーセが見もしなかったことを目にし、ダビデやイザヤが聞きもしなかったことを耳にしていた。彼は11人の使徒とともに生活し、ペテロやヤコブやヨハネの同労者であった。しかしこれらすべてにもかかわらず、彼の心は全く変わっていなかった。彼にはしがみついてやまない罪があったのである。

 イスカリオテのユダは、立派な信仰の告白をしていた。はた目には、彼は正しく、模範的で、何の欠点もない者と思われた。他の使徒たちと同じく、彼はキリストを信じ、キリストのためすべてを捨てたかのように見えた。彼らと同じく、彼も遣わされて福音を宣べ伝え、奇蹟を行なった。11人のうち誰ひとりとして彼が偽善者かもしれないなどと疑う者はなかった。主が、「あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります」と云われたとき、だれも「それはユダですか?」とは云わなかった。にもかかわらず、最初から最後まで彼の心は全く変わっていなかった。

 私たちはこうしたことに注目しなくてはならない。これは非常に心へりくだらせ、深い教えを与えてくれる。ロトの妻と同じく、ユダは全教会に対する警告とされるべきである。私たちは彼のことをしばしば考えよう。そして「神よ。私を探り、私の心を調べてください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て……ください」と云おう。神の恵みによって私たちは、健全で、徹底的な心の回心以外の何物でも満足しないようにしようう。

 これらの節から第二に学びたいのは、金銭欲は人間の魂にとって最悪の罠の1つだということである。ユダほど、これを如実に示している例を思い浮かべることはできない。「いったいいくらくれますか」という恥知らずな問いが、彼を破滅させた秘密の罪を暴露している。彼はキリストのために多くのものを投げ捨ててきたが、その貪欲を捨ててはいなかったのである。

 使徒パウロの言葉は、しばしば私たちの耳に響くべきである。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」(Iテモ6:10)。教会史はこの真理の実例であふれている。金のためにヨセフは兄弟たちから売られた。金のためにサムソンは裏切られてペリシテ人に渡された。金のためにゲハジはナアマンを欺き、エリシャにうそをついた。金のためにアナニヤとサッピラはペテロをだまそうとした。金のために神の御子はよこしまな者たちの手に渡された。これほど多くの悪の原因となったものが、これほど愛されているということは、まさに驚異である。

 私たちはみな、金銭欲につけいれられぬよう警戒しよう。現代、世はこの欲望で満ちている。東洋の偶像を拝めと云われたら怖じ気をふるうだろう、おびただしい数の人々が黄金を偶像としている。私たちはみな、大なり小なりこの欲望に感染しがちである。金持ちであって金を愛さない人もいるが、金持ちでなくとも金を愛する人は多い。金銭欲は非常に人を欺く悪徳である。私たちは、とりことされて初めて、その縄目に気づくのである。一度この欲望に支配されてしまうと、私たちの魂はかたくなになり、麻痺し、無感覚で、凍てついた、枯れ萎れた心になってしまう。金銭欲はキリストの使徒をも転覆させた。私たちは、これによって転覆させられることのないように警戒しよう。船も一箇所の浸水から沈没することがありうるように、くつわをかけないたった1つの罪から、魂が滅びに至ることがありうるのである。

 私たちは、この問題に関する聖書の厳粛な言葉をしばしば思い返すべきである。「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう」。「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません」。日ごとに、「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください」と祈るべきである(箴30:8)。私たちの絶えざる目標は恵みに富む者となることである。この世の富で「金持ちになりたがる」者たちは、しばしば、後になってから最悪の取引をしたことに気づく(Iテモ6:9)。エサウのように彼らは、ちっぽけな一時的満足のために、永遠の持ち分を引き換えにしてしまったのである。イスカリオテのユダのように彼らは、永遠の滅びへと自分を売り渡してしまったのである。

 これらの節から最後に学びたいのは、回心しないまま死ぬすべての人々の絶望的な状態である。この問題に関する私たちの主のことばは、きわめて厳粛である。主はユダについてこう云われる。「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」。

 このおことばには、ただ1つの解釈しかありえない。ここではっきり教えられていること、それは、信仰を持たずに生き、恵みを持たずに死ぬくらいなら生まれてこなかったほうがましだということである。このような状態のまま死ぬなら永遠の滅びに落ちるということである。そこに落ちたら二度と出てこられない。それは決して取り返しのつかない破滅である。地獄に変化はない。地獄と天国の間に横たわる深淵を越えることはだれにもできない。

 もし万人救済論が少しでも正しければ、このような言葉が用いられることは決してなかったであろう。もし、早いか遅いかの違いはあっても、だれもが天国へたどりつき、ひとりも地獄に住む者はいなくなるというなら、「そういう人は生まれなかったほうがよかった」とは決して云われなかったに違いない。終わりがあるなら、地獄もさほど恐ろしくはなくなるであろう。何百万、何千万年後に自由と天国が待っているというなら、地獄も耐えがたくはなくなるであろう。しかし聖書に照らしてみると、万人救済論には何の根拠もない。この件について、みことばの教えは、疑う余地もなく明らかである。そこには尽きることのないうじがあり、消えることのない火がある(マコ9:44)。人は「新しく生まれなければ」、いつの日か、生まれなければよかったと思うときが来る。バーケットは云う。「キリストのうちにいるのでなければ、この世にいないほうがましである」。

 この真理を私たちは堅く握り、手放さないようにしよう。世は、地獄が存在すること、それが永遠に続くことを否定する者にこと欠いたためしがない。私たちの生きる現代は、多くの人が、病的な博愛精神によって、神の正義を犠牲にしてまでも神の愛を誇張する時代である。にせ教師たちが「神の愛は地獄そのものよりも低くくだる」などと公言する時代である。私たちは聖なるねたみをもって、このような教えに抵抗し、聖書の教えを固守しよう。昔ながらの道を歩むことを恥じず、永遠の神、永遠の天国、永遠の地獄があることを信じ続けよう。いったんこの信仰を踏みはずしたなら、懐疑主義というくさびの切っ先をこじりこまれたのと同然であり、ついには福音のあらゆる教理を否定することにもなりかねない。私たちは、永遠に続く地獄を信じるか、純然たる不信仰を抱くか、2つに1つであり、妥協の余地は全くない。


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第26章26―35 主の晩餐と最初の陪餐者たち

 これらの節に記されているのは、主の晩餐の制定である。私たちの主は、ご自分の前に待ち受けているものをよくご存じであり、恵み深くも十字架にかかる前に過ごす最後の静かな晩をあえて選んで、教会への別れの贈り物をたまわる機会とされたのである。その夜のことを思い出すたびに、弟子たちにはこの儀式が何と尊く思われたことであろう。この主の晩餐が、ほかのどんな儀式にもまさって激烈な論争を引き起こし、途方もない誤解をこうむってきたのは何と悲しむべきであろう。主の晩餐は教会を一致させるべきものであったのに、私たちの罪が分裂の種にしてしまった。私たちの益となるはずのものは、しばしば転落の原因にさせられてしまうのである。

 これらの節でまず第一に注意しなくてはならないのは、「これはわたしのからだです。これはわたしの血です」という主のことばの正しい意味である。

 いうまでもなく、これこそ目に見える教会を過去幾度となく分裂させてきた問題である。この問題について論争するために、山なす神学書が書かれてきた。しかし神学者たちの間に論議や異論があるからといって、この問題について明確な意見を持つことからしりごみすべきではない。この点で不健全な見解を抱くことによって、人々は多くの嘆かわしい迷信を招き入れてきたのである。

 私たちの主のことばの平明な意味は、「このパンはわたしのからだを表わすものです。このぶどう酒は、わたしの血を表わすものです」ということである。主は、弟子たちに与えられたパンが現実に、文字通りの意味でご自分のからだであると云われたのではない。弟子たちに与えられたぶどう酒が現実に、文字通りの意味でご自分の血であると云われたのではない。この解釈を堅くにぎり、手放さないようにしよう。これは、いくつかの重大な理由から正しい解釈であるといえよう*1

 まず主の晩餐の席上における弟子たちのふるまいを考えると、彼らの受けたパンがキリストのからだであったとか、彼らの受けた葡萄酒がキリストの血であったと信じることはできない。彼らは全員ユダヤ人であり、生まれたときから肉を血のまま食べるのは罪であると教えられていた(申12:23―25)。にもかかわらず、この記事の中には、彼らが主のおことばに驚愕したことを示すものは何1つない。明らかに彼らは、そのパンや葡萄酒のうちに何の変化も認めなかったのである。

 現在の私たち自身の感覚からして、主の晩餐のパンと葡萄酒に何か変化があると信じることはできない。私たちの味覚は、それが現実の、文字通りのパンと葡萄酒であると告げている。聖書は、理性を越えたことを信ぜよと私たちに求めている。しかし私たちは、感覚に反することを信ぜよと命じられてはいない。

 主の人性に関する真の教理を考えても、主の晩餐におけるパンが主のからだであるとか、葡萄酒が主の血であると信じることはできない。キリストの生身の肉体は同時に2つ以上の場所にあることはできない。もし私たちの主のからだが食卓についておられたと同時に、弟子たちによって呑み下されていたというようなことがありえたとすれば、それが私たちとは全く別種の肉体であったことは完璧に明らかである。しかしこのような考え方は、一瞬たりとも、決して認めてはならない。キリスト教の栄光は、私たちの贖い主が完全な神であられるのと同様、完全な人であられるところにあるのである。

 最後に、主が最後の晩餐の席上で語られた言葉の精神を思うとき、主のことばを額面通りに解釈する必要は全くない。聖書は、これと同じような表現で満ちており、それらには、だれも比喩的な意味しか認めないのである。私たちの主はご自分のことを「門」であり、「ぶどうの木」であると語られたが、私たちはそれが象徴であり、たとえであると知っている。したがって主が主の晩餐を定められたときも比喩的な言葉を用いられたのだと考えて悪い理由はどこにもない。むしろ、主の言葉の字句通りな解釈に対する数々の重大な疑義を思えば、比喩的な見方の方がまさっているといえる。

 私たちはこうしたことを心におさめ、忘れないようにしよう。異端のはびこる時代には、よく武装するに越したことはない。人が信仰上の過誤におちいる最大の原因の1つは、聖書の言葉の意味をよく知らず、混乱したとらえ方をすることにある。

 これらの節で第二に注意しなくてはならないのは、主の晩餐は何のために、どんな目的で定められたのかということである。

 これもまた大きな暗黒にいろどられた主題である。聖餐式は、何か神秘的な、理解を絶するものとみなされている。多くの人がこの礼典について書く際に、あいまいで高踏的な言葉づかいを用いてきたために、キリスト教には大きな害がもたらされてきた。この儀式が最初に制定されたようすを思うとき、そのような言葉づかいが完全に的はずれなものであることは明らかである。主の晩餐の目的については、単純な見方をとればとるほど聖書的な見解に近づくと思われる。

 主の晩餐は、いけにえではない。これは決して神に何かを奉献するものではない。ここでは祈りと賛美と感謝のほか、何も神にささげるものはない。イエスが死んだ日以来、罪のためのいけにえは不要となった。イエスは1つのささげ物によって、それまでささげられてきた一切の犠牲を完成された(ヘブ10:14)。祭司や祭壇やいけにえは、神の小羊がご自分をささげられたとき、みな不必要になった。それらの役目は終わり、それらのなすべきことはなくなった。

 また主の晩餐には、信仰を持たない参加者にまで益を分かち与えるような力は何もない。パンと葡萄酒に正式にあずかったという事実だけでは、何の益にもならない。そこには正しい心がなくてはならない。この儀式は生きた魂のためのものであり、死んだ魂のためのものではない。回心した人々のためのものであり、未信者のためのものではない。これは目に見えて明らかなことである。

 主の晩餐は、キリストがお戻りになるまで、その死の犠牲を絶えず思い返すために制定された。この儀式によって授かる益は霊的なものであって、物質的なものではない。その効果を知りたければ、私たちの内なる人を調べなくてはならない。この儀式の目的は、私たちのため十字架上でささげられたキリストのからだと血こそ、罪を贖う唯一のいけにえであり、信者の魂のいのちにほかならないことを、見て触れることのできるパンと葡萄酒という象徴によって、私たちに思い起こさせることにある。それは私たちの貧しく弱い信仰を助けて、十字架にかかられた私たちの救い主とのより親しき交わりに導き、キリストのからだと血による霊的な養いを受けさせるためのものである。これは、贖われた罪人のための儀式であり、堕落しなかった天使たちのためのものではない。これを受けることによって私たちは公に、私たちが罪人であること、救い主を必要としていること、イエスを頼りとし、イエスを愛していること、イエスに養われて生き、イエスとともに生きたいと願っていることを宣言しているのである。このような思いを抱いて聖餐式に集うとき、私たちは自分の悔い改めが深まり、信仰が増し加わり、希望が輝きだし、愛が広やかにされることに気づく。私たちにからみつく罪は弱められ、私たちの恵みは強められることに気づく。主の晩餐は、私たちをよりキリストに近づけるのである。

 私たちはこれらのことを心にとめよう。今のような終わりの時代には、これらを忘れないようにする必要がする。信仰生活の中でも、感覚にまつわる部分ほど歪曲されやすく、誤解されがちなものはない。私たちは、見たり触れたりできるものをみな偶像視し、魔法のように自動的に益をもたらしてくれると期待しがちである。主の晩餐については、特にこの傾向に対して警戒しよう。何よりも私たちは、英国国教会の説教書の言葉にあるように、「これを記憶の犠牲として絶やすようなことがないよう注意しよう」。

 この箇所で最後に短く注意しなくてはならないのは、最初の陪餐者たちの性格である。これは慰めと教訓に満ちた点である。

 私たちの主から初めてパンと葡萄酒を配られたこの小さな集団は、主がご自分の地上での公生涯に伴うようお選びになった使徒たちであった。彼らは貧しく無学な男たちで、キリストを愛してはいたが、信仰にも知識にも乏しかった。彼らは師の言動の完全な意味をほとんど理解していなかった。自分自身の心のもろさにほとんど気づいていなかった。自分たちはイエスとともにいつでも死ねると考えていたが、まさにその夜、全員がイエスを見捨て逃げ出してしまった。これらすべてを私たちの主は完全にご存じであった。彼らの心の状態はお見通しであった。にもかかわらず主は、彼らを主の晩餐をあずからせまいとは思われなかったのである!

 この状況には非常に教えられるものがある。ここにはっきりと示されているのは、高度な信仰の知識や、堅固な恵みの力を陪餐者の必須の資格としてはならないということである。信仰の知識がほとんどなく、霊的な力においては子ども同然という人であっても、だからといって主の晩餐から排除されてはならない。その人は本当に自分の罪を感じているだろうか。本当にキリストを愛しているだろうか。本当にキリストに仕えたいと願っているだろうか。もしそうなら、私たちはその人を励まし受け入れるべきである。疑いもなく私たちは、あらゆる努力を払って、ふさわしくない陪餐者を排除しなくてはならない。決して恵みをもたない人を主の晩餐にあずからせてはならない。しかし私たちは、キリストが退けておられない人を退けるようなことのないように注意しなくてはならない。私たちの主と主の弟子たち以上に厳格になるのは賢いことではない。

 この箇所を離れるにあたり、私たちは主の晩餐に対する自分自身の態度について真剣な自己吟味を行なうことにしよう。私たちは聖餐式に出ないですますようなことがあるだろうか。もしそうなら、どうしてそれが正しい態度であると云えようか。これは、聖餐式など何の役にも立たないと云ってすまされることではない。そう云うことは、キリストご自身を軽蔑し、自分はキリストに従わないと宣言することである。これは、自分のような者は聖餐式にあずかる資格はないと云ってすまされることではない。そう云うことは、自分は死ぬ備えも、神に会う備えもできていないと宣言することである。これらは厳粛なことである。聖餐にあずかろうとしない者はみな、これらのことをとくと考えるべきである。

 私たちは定期的に主の晩餐にあずかっているだろうか。もしそうなら、どのような思いをもってあずかっているだろうか。知性とへりくだりと信仰をもってあずかっているだろうか。自分のしていることを理解しているだろうか。本当に自分が罪人であること、キリストを必要することを感じているだろうか。口先で信仰告白するだけでなく、本当にキリスト者生活を送りたいと願っているだろうか。これらの問いに満足のいく答えを出せる魂は幸いである。そのような者はそのまま前進し、今の状態を保つべきである。

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*1 「ロー主教は、へブル語には『象徴する』とか『示す』という意味を表わす言葉がないことを指摘している。この箇所のギリシャ語がヘブル語またはシリヤ語の慣用表現の影響を受けているのは無理からぬことであり、『これは…です』とは『これは…を象徴します』という意味で使われているのだという。当然この動詞は様々な箇所で同様に用いられている。『三本のつるは三日のことです』(創40:12)。『7頭の雌牛は七年のことです』(創41:26)。『十本の角は…十人の王』(ダニ7:24)。『畑はこの世界のことで…』(マタ13:38)。『七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である』(黙1:20)」。(ワトソンによるマタイ福音書注解、386ページ)[本文に戻る]


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第26章36―46 園における苦悩

 今読んだ節には、キリストのいわゆるゲツセマネでの苦悩が記されている。これは疑いもなく深遠で神秘的な事柄をふくんだ箇所である。私たちはこれを深い尊崇と驚異の念をもって読むべきである。ここには、私たちが決して理解しつくせないものがいくつもあるからである。

 なぜ私たちの主は、ここに記されているように「悲しみもだえ始められた」のだろうか。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」という主のことばを私たちはどう考えたらよいであろうか。なぜ主は弟子たちから離れて行ってひれ伏し、御父に向かって大きな叫び声をもって、三度も祈りを繰り返されたのだろうか。なぜ数々の奇蹟を行なってこられた全能の神の御子が、悲しみもだえ、心乱れておられたのだろうか。死ぬためにこの世に来られたイエスが、なぜ死を間近にして気も絶えんばかりのようすになられたのか。なぜ、なぜ、なぜなのか。

 こうした問いに対する妥当な答は1つしかない。私たちの主の魂にのしかかっていた重圧は死への恐れでも、その苦痛でもない。これまでに何千何万という人々が、すさまじい肉体的苦痛に耐え、呻き声1つあげないで死んできたし、それは私たちの主もおできになったであろう。しかしイエスの心を真に押しつぶそうとしていたのは、世の罪の重みであった。その重みが、今や圧倒的な力で主にのしかかかっていたと思われる。それは、主に転嫁された私たちの罪過という重みであった。贖罪の山羊の頭に罪人の罪過が置かれるように、私たちの罪過が主の上に置かれたのである。その重荷の重さは、決して人の心で測り知りうるところではない! 知っておられるのは神おひとりである。ギリシャ正教会の連祷書はいみじくも、「キリストの知られざる苦しみ」と述べている。この問題に関するスコットの言葉はおそらく正しい。「このときキリストは、地獄へ落とされた霊と同じ種類の悲惨さを耐えておられた。それは、純潔な良心、神と人への完璧な愛、栄光の未来に対する確かな信頼と両立しうる限度いっぱいの悲惨さであった」*1

 しかし主のご生涯のこの部分がどれほど神秘的に思えようと、私たちはここにふくまれている、実践面において貴重な教訓を見落としてはならない。その教訓がいかなるものか、これから見ていくことにしよう。

 まず第一に学びたいのは、祈りは苦難に打ち勝つために用いうる最上の実践的手段だということである。ここにはキリストご自身が、魂が悲しみに沈んだとき祈られたとある。真のキリスト者はみな同じようにすべきである。

 苦しみは、罪の世にあるすべての者が飲まなくてはならない杯である。私たちは「生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように」(ヨブ5:7)。それを避けることはできない。被造物の中でも人間ほどかよわいものはない。私たちの肉体、精神、家族、職業、友人、これらはみな私たちに苦しみをもたらす多くの原因となる。この世で最も聖い聖徒といえども、そうした苦難から免除されることはない。師と同じく彼らは、しばしば「悲しみの人」である。

 しかし苦難に会うとき最初になすべきことは何であろうか。私たちは祈らなくてはならない。ヨブのように、地にひれ伏して礼拝しなくてはならない(ヨブ1:20)。ヒゼキヤのように、主の前に自分の事情をことごとく述べなくてはならない(II列19:14)。私たちがまず第一に助けを求めなくてはならないお方は、神でなくてはならない。私たちは、天におられる私たちの御父に自分の悲しみをすべて告げなくてはならない。私たちは確信をもって信じなくてはならない。私たちが、みこころに完全に服する心で祈っている限り、何事であれ御前に持ち出すにはつまらなすぎたり、些細すぎたりするようなことはない、と。私たちの最上の友なるお方に対して何も隠し立てをしないというのは、信仰のしるしである。そのようにするとき、私たちは答えをいただけると確信してよい。もしそれが「できますなら」、また神の栄光のために求めるものなら、かなえられるであろう。肉体のとげは取り除かれるか、聖パウロの場合のように、それに耐えうる恵みが与えられるであろう(IIコリ12:9)。願わくは私たちがみな、危急の日に備えてこの教訓を心にたくわえておけるように。「祈りは思いわずらいの力をそぐ」。この言葉は真実である。

 第二に学びたいのは、神のみこころに自分の意志を完全に従わせることこそ、人生最大の目的の1つであるべきだということである。私たちの主の言葉は、この点において私たちがならうべき精神の美しい模範である。主は云われる。「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように」。さらに云う。「みこころのとおりをなさってください」。

 聖化も、統制も受けていない意志は、人生に不幸をもたらす最大の原因の1つである。そのような意志は、小さな幼児のうちにも見ることができる。それは生まれつき私たちに備わっている。私たちはみな自分の意を通したいと思う。しかし私たちは、多くを望み、多くを願うくせに、自分にとって何が最善か全く知らず、そんな選択をする資格がないことを忘れている。何の「願い」も持たず、どんな状況でも満ち足りていることを学んだ魂は幸いである。これはなかなか学びとることのできない教訓であり、私たちはそれを死すべき人間の学び舎でではなく、キリストから学ばなくてはならない(ピリ4:11)。

 私たちは自分が新しく生まれたかどうか、恵みにおいて成長しているかどうか知りたいと思うだろうか。では意志という点について、自分がどう変わったか考えてみよう。私たちは失望に耐えることができるだろうか。思いもよらぬ試練、困難がやってきても忍耐強く耐えることができるだろうか。大事に暖めてきた企てや計画が妨害されても、つぶやいたり不平を云わずにいられるだろうか。あちこちへ出て行き忙しく立ち働くのと同じように、1つの場所でじっとがまんし静かに苦しみを受けることができるだろうか。こうしたことで私たちは、自分がキリストの心を持っているかどうかわかるのである。気分の高揚と快活な気質は、必ずしも恵みを受けた証拠ではない。十字架につけられた意志を持つことの方が、はるかにまさっている。このことを私たちは決して忘れてはならない。私たちの主ご自身でさえ、常に喜んでおられたわけではない。しかし主は常に、「みこころのとおりをなさってください」と云うことがおできになった。

 第三に学びたいのは、キリストの真の弟子といえども大きな弱さを持っており、その弱さに対して油断せず祈っている必要があるということである。ここにはペテロ、ヤコブ、ヨハネという、えり抜きの使徒たちが、目をさまして祈っておるべきときに眠りこけていた姿が記されている。そして私たちの主は、この厳粛なおことばを彼らに発しておられる。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」。

 すべての信者には二重の性質がある。彼らは回心し、新しくされ、聖められたとはいえ、今なお内側には腐敗のかたまりをかかえ、罪のからだにとらわれている。聖パウロは、このことを語って云う。「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどんで……いるのを見いだすのです」(ロマ7:21-23)。あらゆる時代の、あらゆる真の信者の経験が、このことを証ししている。彼らは自分が相反する2つの原理の板ばさみとなっていること、その2つが絶えず争っていることを知っていた。この2つの原理をさして私たちの主は、寝ぼけまなこの弟子たちに云われたのである。「心は燃えていても、肉体は弱いのです」。

 しかし主は弟子たちのこの弱さを大目に見ておられるだろうか。断じてそのようなことはない。そのような結論を引き出す人は主のことばを誤解している。主は、その弱さがあらばこそ、油断せず祈るべきであると云われる。私たちが弱さにまとわりつかれているという事実こそ、私たちを奮い立たせ、絶えず「目をさまして、祈って」いさせるようにすべきものである。そう主は教えておられる。

 もし少しでも真の信仰について知っているというのなら、この教訓を決して忘れないようにしよう。もし神とともに慰めのうちを歩み続け、ダビデやペテロのように堕落したくないと思うなら、目をさまし祈っていることを決して忘れないようにしよう。私たちは敵地に潜入した兵士のように生き、常に警戒を怠らないようにしよう。どれほど用心深く歩んでも十分ではない。自分の魂を見張るのに行き過ぎということはない。この世は罠に満ちている。悪魔は絶えず働いている。私たちは、主のおことばを日々トランペットのように耳のうちで鳴り響かせておこう。私たちの霊は、時には非常な意気込みを見せることがある。しかし私たちの肉体もまた非常に弱いものなのである。だから私たちは常に目をさまし、常に祈っていようではないか。

______________________________________
*1 この講解で主張された見解以外に、私たちの主の苦悩についての理にかなった説明はないと思う。キリストへの人間の罪の転嫁を否定し、キリストの苦難の代理的性格を否定するソッツィーニ主義者やその他の神学者は、どのようにすればゲツセマネにおける主の苦悩について満足のいく説明をつけられるというのだろうか。私には見当もつかない。贖罪の教理を全否定し、私たちの主は神ではなく人間にすぎなかったと云うソッツィーニ主義者の原理に立てば、主は苦難を雄々しく耐えた多くの人々よりもはるかに軟弱な人物だったことになる。私たちの主の死は罪のなだめではなく自己犠牲の偉大な模範にすぎないと云う現代の一部の神学者たちの原理に立てば、この箇所で述べられている肉体と精神の深甚な苦悩はやはり説明がつかないものとなる。私には、どちらの見方も私たちの主イエス・キリストの栄誉を傷つけ、完全に非聖書的で、全く不満足なものと思われる。ゲツセマネにおける苦悩という難問を解く鍵は、私たちの罪が真実キリストに転嫁され、キリストが私たちのために罪とされ呪いとされたという昔ながらの教理にしかないと私は信じている。

 この苦悩のもようを述べている箇所には人知の及ばぬ深遠な部分があり、私はあえてそうした部分にはふれないことにする。この時サタンはどの程度まで私たちの主を誘惑することが許されたのか、私たちの主のように完全に罪のないお方が全人類の罪を担うために耐えなくてはならなかった肉体的・精神的苦悩とはいかほどのものであったのか、私たちの主がいついかなる時も真実に神であるとともに真実に人であったとすれば神としての意志と人としての意志はこの時の経験においてどのような役割を果たしたのか、こうした点については特に言及しないことにしたい。こうした問題では、「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くする」ことになりがちである。[本文に戻る]


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第26章47―56 にせ使徒の口づけ、キリストの自発的忍従

 これらの節に私たちが見るのは、私たちの主イエス・キリストの受難の杯が満たされ始めたようすである。ここで主は弟子のひとりから裏切られ、残った弟子たちから見捨てられ、不倶戴天の仇敵どもの捕虜とされている。まさしく主ほど悲しみを味わった者はない。聖書のこの箇所を読むとき決して忘れてならないのは、私たちの罪こそ、これらの悲しみの原因だったということである。イエスは「私たちの罪のために死に渡された」のである(ロマ4:25)。

 ここでまず第一に注意したいのは、主がいかに優しく、へだてなく弟子たちと交わっておられたかということである。

 この点を証しだてているのが、ユダの裏切りの場面における、非常に感動的な状況である。イスカリオテのユダは、師の居場所まで群衆を手引きするにあたって、月光の薄暗がりの中でもイエスを弟子たちから区別するための合図をしめしあわせていた。「私が口づけをするのが、その人だ」。それで彼はイエスのもとに来たとき、「『先生。お元気で』と意って、口づけした」。この事実は、いかに弟子たちが主と親愛のこもった交わりをもっていたかを明らかにしている。東方諸国では、友人同士が出会ったときは口づけをもって挨拶しあうのが普通である(出18:7、Iサム20:41)。それゆえユダが私たちの主に口づけしたとき、彼は単に、使徒たちがみな、しばし師から離れた後で行ないつけていることを行なったにすぎない。

 この小さな出来事から、魂の慰めを引き出そうではないか。私たちの主イエス・キリストは限りなく優しく、全くもったいぶらない救い主である。主は「きびしい方」[ルカ19:21]ではない。罪人を寄せつけず、罪人と距離をおくような方ではない。私たちが愛情よりも畏怖をもって仰がなくてはならないほど、私たちからかけ離れた存在ではない。むしろ主は私たちから兄と、また愛する友とみなされることを望んでおられる。天におられる主の心は、地上におられたときと全く同じである。主は常に変わらず柔和で、あわれみに満ち、卑しい境遇の人々にもへだてなく接してくださる。私たちは主を信頼し、恐れないようにしよう。

 別のこととして注意したいのは、肉的な武器を用いて主と主の福音を守ろうとする者を、主がいかに非難しておられるかということである。主は、大祭司のしもべに撃ってかかった弟子を叱責しておられる。「剣をもとに納めなさい」と命じておられる。そして「剣を取る者はみな剣で滅びます」という不朽の宣告を厳粛に下しておられる。

 剣には正当な役割がある。国々を圧政から守るためには、剣を用いることが正しい場合がある。地上の混乱と略奪と強奪を防ぐためには、剣を用いることが絶対に必要なこともある。しかし剣は、福音を広めたり、守るために用いられるべきではない。キリスト教は流血によって強要するべきではなく、キリスト教信仰は力で脅し取るべきではない。この一言を覚えていなかったために、何度キリスト教会は不幸な歴史を繰り返したことであろう。キリスト教国と呼ばれる国のうち、人の宗教上の意見を変えさせようとして、強制、罰則、投獄、死罪を課すという過ちを犯さなかった国はほとんどない。そしてそれが何をもたらしただろうか。歴史の頁はその答えを明らかにしている。宗教上の対立から起こった戦争ほど血なまぐさい戦争はなかった。嘆かわしいことに、そうした戦争の遂行に最も前向きであった当の人々が、自ら血祭りにあげられたことも一度や二度ではない。願わくは私たちがこのことを決して忘れることのないように。キリスト者の戦いの武器は、肉の物ではなく、霊的な物なのである(IIコリ10:4)。

 別のこととして注目したいのは、私たちの主がいかに自発的に、ご自分の敵たちに、とりことしてご自分を引き渡されたかということである。主が捕えられたのは逃げ道がなかったためではない。みこころであれば、主はご自分の敵どもを簡単に蹴散らすことがおできになったであろう。主は弟子のひとりに告げておられる。「わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう」。

 主が自発的に敵の手にご自分をおまかせになったことは、このことばから明らかである。主は、旧約聖書の型と約束を成就すること、また成就することによって世の救いをもたらすことを意図してやって来られた。真の神の小羊、過越の小羊となるために、自ら進んでやって来られた。人々の不義を身に負う身代わりの山羊となるため自発的にやって来られた。主は、この偉大なわざを完遂することを堅く思い定めておられた。それを行なうには、一時的に「力が隠され」ることがなくはならなかった。そのため主は進んで苦しみをお受けになったのである。主が捕えられ、裁かれ、罪と定められ、十字架につけられたのは、全くご自分の自由意志から出たことであった。

 このことに注目しよう。ここには大きな励ましがある。進んで苦しみを受けられたこの方は、進んで救ってくださる救い主に違いない。全能の神の御子、人々がご自分を縛り、とりこにして引いていくのを、一言で妨げることもできたにもかかわらず、あえてそれをお許しになった御子は、ご自分のもとに逃れてくる魂を喜んで救おうという心で満ちているに違いない。私たちはもう一度、主に信頼することを学び、恐れないようにしよう。

 最後に注目したいのは、いかに多くのキリスト者が、試みにあうまで自分の弱さを自覚していないかということである。その悲しい実例が、主の弟子たちの行動である。私たちが今読んだ箇所はこうしめくくられいる。「そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった」。彼らは、数時間前、自分たちが自信たっぷりに主張したことを忘れてしまった。死んでも師のもとを離れないと宣言したことを忘れてしまった。目の前の危険のほか何もかも忘れてしまった。死の恐れが彼らを圧倒してしまった。彼らは「イエスを見捨てて、逃げてしまった」のである。

 信仰を告白するキリスト者のいかに多くが同じことを行なってきたことだろう。いかに多くが、感情の高揚に動かされて、何があってもキリストを恥としないと約束したことか。彼らは、聖餐式の机の前から、あるいは心打つ説教が終わってから、あるいはキリスト者の集会から、熱意と愛に満たされて出て行く。彼らに向かって信仰が後退しないよう警告する人々がいれば、こう云う。「しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんなだいそれたことができましょう」。しかし何日もしないうちに、こうした感情はさめてしまい、消え去ってしまう。試練がやってくると彼らはつまづき倒れる。彼らはキリストを捨ててしまう!

 この箇所から私たちは、へりくだりと自己蔑視の教訓を学ぼう。私たちは決意しよう。神の恵みによって、謙遜と自己不信の思いを涵養すると。目をさまして祈り続け、神の恵みにささえられ続けない限り、どれほど傑出した者であれ、どんな悪徳に陥っても不思議はない。これを心に銘記しておこう。そして日ごとにこう祈ることとしよう。「私をささえてください。そうすれば私は救われ……るでしょう」(詩119:117)。


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第26章57―68 ユダヤ人議会の前のキリスト

 この箇所では、私たちの主が大祭司カヤパのもとへ引き出され、厳粛な有罪宣告を受けたもようが記されている。それは、ふさわしいことであった。大いなる贖罪の日がやって来たのである。身代りの山羊が示していた驚くべき型は、今まさに完全に成就しようとしていた。ユダヤ教の大祭司は自分の役目通り、犠牲の頭の上に罪が置かれたと宣言し、それから主は十字架につけられるために引き出される。これほど理になかったことはなかった(レビ16:21)。願わくは私たちがこれらのことを深く思い巡らし、理解できるように。私たちの主の受難の各段階には、それぞれに深い意味が隠されているのである。

 これらの箇所で注目したいのは、祭司長たちこそ主の死をもたらした張本人であったということである。これを私たちは忘れてはならない。この邪悪な行為を押し進めたのはユダヤ民族というよりは、カヤパとそのともがらである祭司長たちだったのである。

 これは意味深い事実であり、注意に値する。ここで明確に証明されているのは、聖職者としてどれほど高い地位を占めている人も、それだからといって途方もない教理的過誤や、すさまじい道徳的罪を犯すことから免れるわけではないということである。ユダヤ教の祭司たちは、その系図をアロンまでさかのぼることができる、直系の後継者であった。彼らの職務は至聖の職務の1つであり、特別の責任を伴っていた。しかし、他ならぬその人々こそ、キリストの殺害者だったのである。

 私たちは、いかなる教職者をも無謬とみなさないよう警戒しよう。その聖なる職務は、どれほどしかるべく伝授されたものであったとしても、その人が私たちを誤り導かないという保証はないし、私たちの魂を滅びに至らせることすらありうる。どのような教職者の教えも、行動も、神のみことばによって試さなくてはならない。彼らには、彼らが聖書に従う限りにおいて従うべきである。しかし聖書をふみはずしてまで従うべきではない。イザヤ書で定められているこの格言が私たちの指針とならなくてはならない。「おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばにしたがって語らなければ、その人には夜明けがない」(イザ8:20)。

 第二に注目したいのは、私たちの主がユダヤ人の議会に向かって、どれほどはっきりと、ご自分がメシヤであること、やがて栄光のうちに再臨されることを宣言されたかということである。

 現代、未回心を続けるユダヤ人も決して否定できないことがある。それは、彼らの先祖たちはイエスがメシヤであることを知らずにいたわけではなかったということである。それは、大祭司の厳粛な請願に対する主のお答えだけで十分明らかである。主は議会に対して明確に、ご自分が「神の御子キリスト」であられると告げておられる。そして続けて、今の自分は、彼らが期待していたメシヤのように栄光の姿でやって来たわけではないが、そのような姿で現われる日がやがて来ると警告しておられる。「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります」。彼らは、自分たちが法廷で糾弾している当のナザレのイエスが、王の王たる威光に完全につつまれて現われるのを、やがて見ることになるのである(黙1:7)。

 主がユダヤ人に向かっての語られた最後のことばの1つが、ご自分の再臨について予告するものであったこと、これは見落としてならない驚くべき事実である。主ははっきりと、彼らはやがて栄光につつまれたご自分を見ると告げておられる。疑いもなく、主が用いられたことばは、ダニエル書7章への言及である(ダニ7:13)。しかし主のことばは何の影響も及ぼさなかった。不信仰、偏見、自己義認が厚い雲のように彼らをおおっていた。これほど暗い霊的盲目の例はかつてなかった。英国国教会の祈祷書には、まさにふさわしい祈りが記されている。「すべての盲目から、そして心のかたくなさから、主よ私たちをお救いください」。

 最後に注目したいのは、議会における私たちの主が、どれほどの偽証と嘲弄を耐え忍ばれたかということである。

 虚偽とあざけりは、悪魔が愛用する、昔ながらの武器である。「彼は偽り者であり、また偽りの父である」(ヨハ8:44)。地上における主の公生涯を通じて、これらの武器は絶えず主に対して用いられていた。主は「食いしんぼうの大酒飲み」、「取税人や罪人の仲間」と呼ばれた。「サマリヤ人」として笑い者にされていた。主のご生涯の終幕は、それまでの歩みと全く軌を一にしていた。悪魔は主の敵をそそのかし、害悪に侮辱を加えさせた。主が有罪宣告を受けるやいなや、あらゆるたぐいの卑劣な侮辱が主に浴びせかけられた。「彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ」た。また「イエスを平手で打って」、あざけりながら云った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか」。

 これはみな、何と不思議な、何と異様なことであろう。聖なる神の御子が自ら進んでこのような不名誉に服し、私たちのような惨めな罪人を贖ってくださろうとは、何という不思議であろう。また驚くなかれ、こうした侮辱の言葉1つ1つが、それが起こる七百年も前に予告されていたとは、何という不思議であろう。七百年も前に、イザヤはこう書き記している。「私は……侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」(イザ50:6)。

 この箇所から私たちは、実際的な結論を1つ引き出そう。私たちは、キリストに属する者であるがために嘲笑やあざけりや中傷を耐え忍ばなくてはならないとしても、決して驚かないようにしよう。「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません」(マタ10:24)。私たちの救い主にも、虚偽と侮辱が浴びせかけられたのだとしたら、同じ武器が絶えず主の民に対して向けられたとしても、不思議に思う必要はない。敬虔な人々の名誉を汚し、世の軽蔑にまかせるのは悪魔がよく使う手口である。ルター、クランマー、カルヴァン、ウェスレーらの生涯は、このことを何度となく証明している。もし私たちがこのような仕方で苦しむことを許されたなら、辛抱強く耐え忍ぼうではないか。私たちは、私たちのほむべき主と同じ杯を飲んでいるのである。しかし、そこには大きな違いがある。私たちの場合、最悪でも、その杯の苦みを数滴飲むだけだが、主はその杯を一滴残らず飲みほされたのである。


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第26章69―75 ペテロによる師の否認

 これらの節では、尋常ならざる、また深い教訓に満ちた出来事が物語られている。使徒ペテロによるキリストの否認である。これは、間接的なしかたで聖書の真理を証明する出来事ともいえる。もし福音書が虚構の産物にすぎなかったなら、そこには決して、キリスト教の主要な説教者の一人が、かつては師を否定するほど弱虫で過ちがちな者であったとは書かれなかったに違いない。

 私たちの注意を引く第一のことは、ペテロの犯した罪の完全な性質である。

 これは、大きな罪であった。ここでは、三年もの間キリストにつき従っていた人物、他に先んじてキリストへの信仰と愛を表明していた人物、無限のあわれみと寛容を受け、キリストから愛する友と扱われていた人物、この人物が、キリストなど知らないと三度否定しているのである。これは悪質な罪であった。またこれは、非常に弁解の余地ない状況のもとで犯された罪であった。ペテロは彼の危険についてはっきりと警告され、その警告を耳にしていた。彼は、主の手ずからパンと葡萄酒を授かったばかりであった。死んでも主を知らないなどとは云わないと、声を大にして宣言したばかりであった。これもまた悪質な罪であった。またこれは、見るからに小さなものによって引き起こされた罪であった。か弱い女が二人、あなたはキリストとともにいました、と云った。そばに立つ者らが「確かに、あなたもあの仲間だ」と云った。そこには何の脅しもなかったと思われる。何の暴力がふるわれたようすもない。しかしペテロの信仰を覆すにはそれだけで十分だったのである。彼はみなの面前で否定した。誓いをもって否定した。のろいをかけて誓った。まことに、これは魂をへりくだらせる光景である!

 この物語に注意し、心におさめようではないか。ここではっきり教えられるのは、どれほどすぐれた聖徒もしょせん人間にすぎず、多くの弱さにまといつかれているということである。人は神に立ち返り、キリストへの信仰と希望と愛を抱くかもしれない。しかし、過ちにとらわれ、とんでもない失敗を犯すこともありうる。これはへりくだりが必要なことを私たちに示している。肉体のうちにある限り、私たちには危険がある。肉体は弱く、悪魔は活発に活動している。私たちは決して「私は大丈夫だ」と思ってはならない。またここでは、過ちを犯した聖徒に愛を注ぐべき義務が示されている。私たちは、人が時々つまづき、過ちを犯すからといって、恵みを持たない者、神に捨てられた人とみなしてはならない。ペテロのことを思い、「柔和な心でその人を正して」あげなくてはならない(ガラ6:1)。

 私たちの注意を引く第二のことは、ペテロが主を否むように導かれていった、一連の段階である。

 これらの段階は、私たちの教訓となるように、あわれみによって書き記されている。神の御霊は、これらが書き記されるように配慮してくださり、キリストの教会が益を受けるようにしてくださったのである。それらのあとを1つ1つたどってみよう。

 ペテロを失敗に至らせた最初の段階は、自己信頼であった。彼は云った。「たとい全部の者が……つまずいても、私は決してつまずきません」。第二の段階は怠惰であった。師が目をさまして祈っていなさいと命じたにもかかわらず、そうするかわりに彼は眠っていた。第三の段階は、臆病な妥協であった。師のそばにつき従うかわりに、まず彼は師を見捨てて逃げ、次に「遠くからイエスのあとをつけ」ていった。最後の段階は、必要もないのに悪人たちの仲間にはいったことにあった。彼は大祭司の中庭まではいりこみ、まるで仲間のひとりでもあるかのように「役人たちといっしょにすわった」。そして、そこに最後の失墜がやってきた。のろい、誓い、そして三度にわたる否定である。一見驚かされるように思えるが、彼の心はその備えをしてきたのである。これは彼自身が蒔いた種の実りであった。彼は「自分の行ないの実を食ら」ったのである。

 ペテロの生涯のこの部分を忘れないようにしよう。これは、信仰を告白しキリスト者と自称する者すべてに対する、深い教訓に満ちている。大病をわずらう前には、その症候がからだに現れているはずである。聖徒が大失敗を犯す前には、秘かに後退へ向かう歩みがあるものである。時として、信仰を告白する大聖徒が突然不正行為を犯し、教会とこの世に衝撃を与えることがある。これによって信徒は失望し、つまずき、神の敵は喜び、冒涜する。しかしもし真実が明らかになるなら、このような事件は普通、彼らが秘かに神から離れて歩み出していたことから起こるのである。人々は、公然と失敗するはるか以前に、個人的に失敗している。木々が大音響を立てて倒れるとき、その原因となった内側の腐敗は、倒れて初めて人目にふれるのである。

 私たちの注意を引く最後のことは、ペテロの罪が彼の上にもたらした悲嘆である。この章の最後には、「彼は出て行って、激しく泣いた」とある。

 この言葉には、普通払われるよりもずっと深い注意を払うべきである。ペテロの罪の物語は、おびただしい数の人々が読んできたが、ペテロの涙、ペテロの悔恨について思いをはせる人はほとんどない。願わくは私たちに、ものを見る目、ものを悟る心が与えられるように!

 ペテロの涙から学びとれるのは、不幸と神からの離反との間には密接なつながりがあるということである。聖潔が、ある意味では常にその報いをもたらすのは、神の恵み深いはからいにほかならない。重苦しい心と不安な良心、暗い希望と山なす疑念、これらは常に、信仰生活の退歩と裏おもてのある行動の結果である。「心の堕落している物は自分の道に甘んじる」(箴14:14)。このソロモンの言葉は、二重生活を送る多くの神の子らの経験を描写している。内なる平安を楽しみたければ、神のそば近く歩まなくてはならない。これを私たちの信仰生活の大原則としよう。

 さらにペテロの激しい涙から学びとれるのは、偽善者と真の信者の間には大きな違いがあるということである。偽善者が罪に乗じられた場合、普通は二度と立ち上がれない。再起するだけの、いのちの原理が内側にないのである。しかし神の子が罪に襲われた場合は、真の悔い改めによって再び立ち上がり、神の恵みによって生活を立て直す。ダビデは姦淫を犯し、ペテロは主を否認した。だから罪を犯してもおとがめなしだ、などと決してうぬぼれてはならない。確かにこの神の人たちは大罪を犯した。しかし彼らはその罪のうちにとどまりはしなかった。彼らは深甚な悔い改めを経験し、自分の堕落を嘆き悲しみ、自らの邪悪さをいとい、忌み嫌った。彼らの罪にならう多くの者が、彼らの悔い改めをも見習うようになればよいであろうに。彼らの堕落についてはよく知っているくせに、彼らの回復についてはほとんど知らない者が多すぎる。彼らは、ダビデやペテロのように罪を犯すが、ダビデやペテロのように悔い改めることはないのである。

 この箇所全体は決して忘れてはならない教訓に満ちている。私たちはキリストに望みを置いていると告白するだろうか。では信仰者の弱さ、堕落へ至るまでの段階を心にとめていよう。私たちは、不幸にして道をふみはずし、初めの愛を失ってしまっただろうか。ではペテロの救い主は今も生きておられることを思い出そう。ペテロに示されたあわれみは、私たちにも示される。しかしそれには、悔い改めて、そのあわれみを求めなくてはならない。私たちは神に立ち帰ろう。そうすれば神は私たちを立ち帰らせてくださる。神のあわれみは尽きることがない(哀3:22)。

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