第25章1―13 十人の娘のたとえ ここから始まる章は、主がオリーブ山上でなしておられる預言的講話の続きである。この箇所が何のことをさしているかは一目瞭然で、取り違えようがない。最初から最後まで、絶えず言及されているのは、キリストの再臨と世の終わりである。この章全体は大きく3つに分かれている。最初に私たちの主は、ご自分の再臨を理由に、用心深い生き方と心のあり方の大切さを説いておられる。これが十人の娘のたとえである。次に主は、ご自分の再臨を理由に、勤勉で忠実な生き方の大切さを説いておられる。それがタラントのたとえである。最後に主はまとめとして、大いなる最後の審判の日を描き出しておられる。それは、新約聖書中でも無類に荘厳で美しい箇所である。
今読んだ十人の娘のたとえは、特に厳粛で、はっとさせられる教訓をふくんでいる。
その教訓がいかなるものか考えていこう。
まず第一にわかるのは、キリストの再臨のとき、教会は善悪入り乱れた混合状態にあるということである。
信仰を告白する教会は、「それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘」にたとえられている。ともしびを持っているのは全員同じだが、明かりを絶やさないよう入れ物に油を持っているのは五人しかいなかった。全員同じ目当てを抱いているとはいえ、真に「賢い」のは五人だけで、残りは愚かであった。目に見える教会は、それと全く同じ状態にある。その成員は全員キリストの名によってバプテスマを受けてはいるが、全員が本当にキリストの声を聞き、キリストに従っているわけではない。全員キリスト者と呼ばれ、キリスト教を信じると告白してはいるが、全員が心に御霊の恵みを受けているわけではない。全員が本当に自称する通りの者であるわけではない。これが真実であることは、現在私たちが見聞きするところである。再臨のときもそれは真実であろう。そう主イエスは告げておられる*1。この情景をよく心にとめておこう。これは心へりくだらされる光景である。私たちのあらゆる説教と祈り、あらゆる訪問と教え、あらゆる海外宣教、国内伝道の努力にもかかわらず、多くの者が結局は「罪と罪過の中に死んで」いることがわかるのである! 人間性の邪悪さと不信仰は、私たちみながどれほど学んでも学びたりない主題である。
別のこととしてわかるのは、キリストの再臨は、いつになるにしても、思いがけないときに突然人々を襲うということである。
これは、このたとえが非常に驚くべき仕方で示している真理である。「夜中になって」、娘らがうとうとして眠っているとき、「そら、花婿だ。迎えに出よ」と叫ぶ声がした。イエスが世に戻られるときも、これと全く同じである。主がお戻りになるとき、人類の大部分は全く不信仰に沈み、何の備えもしていないであろう。主を信ずる民の大多数は、魂がうとうととまどろんだ状態にあるであろう。商売は、今と全く同じように続けられているであろう。政治、貿易、農業、売買、快楽の追求は、今と全く同じように人々の注意を占め続けているであろう。富者は変わることなくぜいたくを続け、貧者は変わることなく愚痴と不平を云い続けているであろう。教会は変わることなく分裂に分裂を重ね、愚にもつかないことで争い続けているであろう。神学論争は変わることなく荒れ狂い続けているであろう。牧師は変わることなく人々に悔い改めをせまり続け、会衆の大部分は変わることなく決断を先のばしにし続けているであろう。そのような真っ只中に、主イエスは突然出現なさるのである。だれも考えもしていない時に、世はそのすべての活動を中止するよう命ぜられ、驚愕のうちに、その正当な王の前に立つように召還されることになる。ここには、云い知れようもなく恐ろしいものがある。しかしそれがここに書かれている教えであり、文字通り実現するのである。いみじくも、死に臨んだある牧師がこう云い残している。「われわれはみな、半分ねぼけながら生きているのだ」。
次にわかるのは、多くの人は、主イエスが再臨されて初めて救いに至る信仰の価値を見いだすが、そのときには手遅れだということである。
このたとえでは、花婿が来たとき愚かな娘らは賢い娘らに、「油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです」と云ったとある。続いて愚かな娘らは、賢い娘らに余分の油がなかったので、「自分のを買い」に行ったとある。結局、彼女らは、戸が閉ざされた後でやって来て、開けてくれるように叫んだ。「ご主人さま、ご主人さま。あけてください」。しかし、それはむだであった。これらの表現はみな、来たるべき出来事の驚くべき象徴である。私たちは、永遠の滅びに落ちて、このたとえの正しさを身をもって知るようなことがないよう用心していよう。
私たちは心に刻み込んでおくべきである。いつの日か人々は、中途半端なキリスト教がどれほど無価値なものであったかを思い知ることになる。現在、おびただしい数の自称キリスト者が自分の中途半端さなど全く気にしないで生きている。これは否定しようもない事実である。彼らには何の罪意識も、何のキリストへの愛もない。彼らは新しく生まれることなど全く知らない。悔い改め、信仰、恵み、聖潔など、彼らにとっては「空理空論」にすぎない。それは彼らの嫌うもの、あるいは何の興味も持てないものである。しかし、こうした状態はいつの日か終わりを告げる。知識、罪の確信、魂の価値、救い主の必要、これらがみな、稲妻がひらめくように人々の頭に射し込んでくる日が来る。しかし、その時には手遅れである! 主が戻られてから油を買いに走るのでは遅すぎる。この思い違いに気づくときには、取り返しのつかない日が来ているのである。
私たちは、信仰ゆえにあざ笑われたり、迫害されたり、愚かと思われたことがあるだろうか。忍耐強く耐え忍び、迫害する者のため祈ろうではないか。彼らは自分が何をしているか知らないのである。彼らが思いを改める日は必ず来る。やがて彼らは、私たちのことを「賢かった」と云い、自分たちのことを「愚かだった」と告白することになる。全世界はいつの日か、神の聖徒らが賢い選択をしたと認めるであろう。
このたとえから最後にわかるのは、キリストが再臨されるとき、真のキリスト者は、主人のため受けたすべての苦難のゆえに、豊かな報いを受け取ることになるということである。ここには花婿が来たとき、「用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた」とある。
再臨のときに用意ができているのは、真のキリスト者だけであろう。贖いの血で洗われ、キリストの義を着せられ、御霊によって新しくされている彼らは、大胆にその主とまみえ、小羊の祝宴の席につき、二度と外へ出ることがない。確かにこれは幸いな望みである。
彼らはその主とともにいることになる。彼らを愛し、彼らのためご自分をお捨てになった主、彼らを忍耐強く見守り、地上での巡礼の間ささえてくださった主、彼らが心から愛し、多くの弱さ、多くの涙にもかかわらず地上で従ってきた主と、ともにいることになる。これもまた確かに幸いな望みである。
戸はついに閉ざされることになる。すべての痛みと悲しみに対して、意地悪で邪悪なこの世に対して、誘惑する悪魔に対して、すべての疑いと恐れに対して、戸は閉ざされ、再び開くことはない。もう一度云うが、確かにこれこそ幸いな望みである。
これらのことを忘れないようにしよう。これは深く思い巡らすべきことである。これはことごとく真実である。信者には多くの患難があるかもしれない。しかし、その先にはあふれるばかりの慰めがあるのである。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」(詩30:5)。キリストがお戻りになる日に、すべての償いがなされることは確実である。
このたとえの学びを閉じるにあたり、私たちは、内住の恵み以下の何物でも決して満足しないと堅く決意しよう。ともしびとキリスト者であるとの名乗り、また告白とキリスト教の儀式、これらはみなそれなりに良いものである。しかしそれは、「どうしても必要な」1つのことではない。私たちは、自分の心に御霊の油があると知るまで決して安心しないようにしよう。
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*1 公平を期すために云っておくべきだと思うが、解釈者の中にはこのたとえ話について異見を持つ人々がいる。そうした人々は、この十人の娘は全員真の信者であると考え、五人の愚かな娘は信仰から離れた人々であるとか、再臨の際に何らかの特権からは除外されるが最終的には救われる人々であるとする。こうした見解を正しいと認めることはできない。それはこのたとえの結論のはっきりした意味を大きくゆがめるものであり、この箇所における主の講話全体の基調とも不一致で、聖書の多くの箇所と矛盾しているように思われる。
私は、この十人の娘はキリストの可見教会を構成する2つの大きな集団を象徴するものと信じる。すなわち回心した者らと未回心の者ら、口先だけの信仰告白者と真のキリスト者、偽善者と真の信者、愚かな建築者と賢い建築者、良い魚と悪い魚、生者と死者、麦と毒麦の二者である。
この見解は新奇なものではない。同意見の注解者としては主な人々をあげれば、ブリンガー、ブレンティウス、グァルター、ペリカーヌス、ベザ、フェラス、パーレウス、ピスカートル、ムスクールス、リー、バクスター、ケネル、プール、マントン、ヘンリー、バーキット、ドッドリジ、ギル、スコットらがいる。[本文に戻る]
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第25章14―30 タラントのたとえ 今読んだタラントのたとえは、十人の娘のたとえと非常に似ている。両方とも私たちの思いを同じ重要な出来事、すなわちイエス・キリストの再臨に向けさせている。両方とも私たちの前に同じ人々、すなわち信仰を告白するキリスト教会に属する人々を描き出している。この娘らとしもべらは、全く同一の人々である。しかし同じ人々が違った見方で、違った角度から眺められている。それぞれのたとえが教えている実際的な教訓には大きな違いがある。警戒が最初のたとえの基調である。勤勉が第二のたとえの基調である。娘らの話が教会に求めているのは油断しないことであり、タラントの話が教会に求めているのは務め励むことである。
このたとえから第一に学ぶのは、信仰を告白するキリスト者はみな、神から何かを受け取っているということである。私たちはみな神の「しもべ」であり、私たちはみな自分にあずけられた「タラント」を持っている。
「タラント」という言葉は、本来の意味から奇妙にはずれて用いられている表現である。普通これは、人々の並外れた才能や賜物という意味でしか用いられていない。彼らは「タラントのある」人々(タレント)と呼ばれる。このような言い回しを使うようになったのは、ごくごく最近のことである。このたとえで私たちの主が用いておられる意味においては、この言葉はバプテスマを受けたすべての者に分けへだてなくあてはまる。私たちはみな神の目においては「タラント」を持っている。私たちはみなタラントのある者なのである。
私たちが神の栄光を現わすことのできるものはみな「タラント」である。私たちの才能、影響力、財産、知識、健康、力、時間、感性、理性、知性、記憶、愛情、教会員としての特権、聖書を有する者としての有利な立場、これらはみな、ことごとくタラントである。これらはどこから来たのか。いかなる手が与えてくれたのか。私たちはなぜ今のような者であるのか。なぜ私たちは地面をはいずる虫けらではなかったのか。こうした問いに対する答えは1つしかない。私たちの持つものはみな神によって貸し与えられたものなのである。私たちは神のしもべである。神の債務者である。この思いを心に深く刻みつけておこう。
第二に学ぶのは、多くの者は神から受けた特権とあわれみを悪用しているということである。このたとえでは、一人の者が「地を掘って、その主人の金を隠した」とある。その男は、人類の大多数を表わしているのである。
自分のタラントを隠す者は、好機がありながら神の栄光を現わす機会を放棄しているのである。バプテスマを受けていながら聖書を軽んずる者、祈りを欠かす者、聖日遵守を破る者、不信仰な者、肉欲におぼれる者、世的な思いの者、なまけ者、目先のことしか考えない者、快楽を追求する者、金を愛する者、貪欲な者、放縦な者、これらはみな、ことごとく、同じように主人の金を地面に隠しているのである。彼らはあらゆる光を受けていながら、それを用いていない。彼らはもっと良くなれるはずである。しかし彼らは日ごとに神から盗んでいるのである。神が彼らに多くを貸し与えているのに、彼らは何のお返しもしない。ベルシャツァルに対するダニエルの言葉は、あらゆる未信者に文字通りあてはまる。「あなたは……あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした」(ダニ5:23)。
第三に学ぶのは、信仰を告白するすべてのキリスト者は、いつの日か神と清算をしなくてはならないということである。このたとえには、「よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした」とある。
私たちはみな、やがて審判を受けることになる。未来に何の審きもないとしたら、聖書の言葉に意味などないということである。審きを否定するのは、聖書をいいかげんなものとすることにほかならない。未来には、私たちの行ないに応じた審きがある。厳格で、避けようのない審きが確実にある。身分の高い者も低い者も、富む者も貧しい者も、知識のある者も無学な者も、分けへだてなく、私たちはみな神の法廷に立ち、自分の永遠の宣告を受けなくてはならない。それを逃れる道はない。隠れることは不可能である。私たちと神は最後には顔と顔を合わせなくてはならない。私たちは自分に与えられていたすべての特権、自分が受けていたすべての光について、申し開きをしなくてはらない。私たちは、自分が責任を負うべき、責任ある被造物として扱われること、多く与えられた者からは多くが求められることを知るであろう。私たちはこのことを、生きる限り日ごとに思い出すようにしよう。私たちは「自分をさば」き、「さばかれること」のないようにしよう(Iコリ11:31)。
第四に学ぶのは、真のキリスト者は、大いなる清算の日に、豊かな報いを受けるということである。このたとえでは、主人の金を有効に用いたしもべたちが「良い忠実なしもべ」だとほめられ、「主人の喜びをともに喜んでくれ」と語られている。
こうした言葉は、すべての信者に対する慰めに満ちており、私たちは心から驚異と賛嘆を覚えてよい。どれほどすぐれたキリスト者といえども、貧しく、もろい被造物にすぎず、生きる限り日ごとに贖いの血潮を必要としている。しかし、どれほど小さく卑しい信者でも、やがて自分がキリストのしもべとみなされていること、自分の労苦が主にあってむだではなかったことを知ることになる。驚嘆すべきことに、主人を喜ばそうという彼の努力は、彼の主人の目には、彼が夢にも思わなかったほど美しいものに映っていたというのである。キリストへの奉仕のため費やされたすべての時間、キリストのため語られたすべての言葉は、覚えられ、書きとめられていたというのである。すべての信者はこうしたことを覚えて、勇気をもとうではないか。十字架は今は重くとも、栄えある偉大な報酬がすべてを償ってあまりあるであろう。レイトンの言葉はけだし当然である。「ここでは喜びのひとしずく、ふたしずくが私たちのうちにはいるが、そこでは私たちが喜びのうちにはいるのである」。
最後に学ぶのは、キリストの教会の中の、実を結ばない者たちはみな、最後の真判の日に罪に定められ、追い出されるということである。このたとえには、主人の金を地面に埋めたしもべは、主人の性格と要求の高さを「知っていた」ことを思い出させられ、何の云い逃れの余地もなかったとある。このしもべは、「悪い」、「なまけ者」の、「役に立たぬ」者として罪に定められ、「外の暗やみ」に追い出されたとある。そして私たちの主は厳粛なことばを加えておられる。「そこで泣いて歯ぎしりするのです」。
最後の日、未回心のキリスト者には何の弁解の余地もない。現在彼が自己満足をよそおっているための理由はみな、無意味で何の役にも立たない。全世界をさばくお方は公義を行なうことがわかるであろう。失われた魂が滅びに落ちるのは、自分のせいであることがわかるであろう。「知っていたというのか」との私たちの主のことばは、多くの人々の耳に鳴り響き、心の奥底まで突き刺すことになる。おびただしい数の人々が今日「キリストから離れ」、回心もなく生きながら、それがどうしようもないようなふりをしている! そしてその間中彼らは、自分の良心では自分に罪があることを「知っていた」のである。彼らは自分のタラントを埋めているのである。自分にできることをしていないのである。ほどよい時分に、このことを見いだす者は幸いである! 最後の日には、すべてが明らかになる。
このたとえの学びを閉じるにあたり私たちは、神の恵みによって、行ないのともなわない、口先だけのキリスト教では決して満足すまいと厳粛に決意しよう。私たちは信仰について語るだけでなく、実践をしよう。信仰の大切さを感じるだけでなく、何かを行なおう。あの役に立たぬしもべは殺人者であったとも、盗人であったとも、主人の金を使い込んだとさえも語られてはいない。しかし彼は何もしなかった。そしてそれが彼の破滅となったのである! 何もしないキリスト教に警戒しよう。そのようなキリスト教は神の御霊から出たものではない。バクスターは云う。「何の悪いこともしないというのは、石ころにとっては賛辞だが、人間に対する賛辞ではない」。
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第25章31―46 最後の審判 これらの節で私たちの主イエス・キリストは、最後の審判の日を、そしてそのおもだった状況のいくつかを描き出しておられる。全聖書の中で、これほど厳粛で心探られる箇所はほとんどない。願わくは私たちが、この箇所にしかるべき真剣な注意を心から払うことができるように。
まず第一に注目したいのは、最後の審判の日にさばき主となられるのはどなたかということである。それは「人の子」であるとある。すなわち、イエス・キリストご自身である。
ベツレヘムのかいばおけの中に生まれたイエス、仕える者の姿をとられたイエス、その同じイエスが、---人々から蔑まれ拒否され、しばしば枕する所もなかったイエス、この世の君主たちから罪に定められ、打擲と鞭打ちを受け、十字架につけられたイエス、その同じイエスが、栄光のうちに来られるときに、自ら世をおさばきになるのである。このお方に御父はすべてのさばきをゆだねておられる(ヨハ5:22)。最後には、このお方の前にすべての膝がかがめられ、すべての口が「この方こそ主です」と告白するのである(ピリ2:10、11)。
信者はこのことを思って慰められるべきである。かの大いなる恐怖の日に王座につくお方は、あなたがたの救い主、羊飼い、大祭司、長兄、友なのである。この方にまみえるとき、あなたがたには何も恐れる理由はない。
未信者はこのことを思って恐れるべきである。あなたがたをさばくお方は、今あなたがたが軽蔑している福音を伝え、あなたがたが聞くことを拒んでいる恵み深い招きをなされた、その当のキリストなのである。もしあなたがたが不信仰のうちを歩み続け、罪のうちに死ぬとしたら、最後になってどれほど大きな動揺を味わうことであろうか。最後の審判の日、だれかによって罪と定められるというだけでも恐るべきことであろう。しかし、自分が救いをはねつけたお方からさばかれるということはまさに恐るべきことである。詩篇作者の言葉はまさしく正しい。「御子に口づけせよ。主が怒……らないために」(詩2:12)。
第二に注目したいのは、終わりの日にさばかれるのはだれかということである。ここには、キリストの前に「すべての国々の民が……集められ」るとある。
この世に生を受けた者はみな、いつの日かキリストの法廷で申し開きをすることになる。だれもがみな、大いなる王の召還に従い、前に進み出て宣告を受けなくてはならない。地上でキリストを礼拝しに来ようとしない者も、キリストが世をさばくため戻られたときには、いやでもキリストの大いなる審問の場に出なくてはならなくなる。
さばかれる者はみな、大きく2つに区別される。もはや王と臣下、主人としもべ、非臣従派と国教会派などという区別はない。身分や教派の違いについても何も云われない。前のものは過ぎ去ったからである。恵みを受けたか受けないか、回心したかしないか、信仰があるかないか、これが終わりの日には唯一の区別となる。キリストのうちにある者はみな、キリストの「右」の羊の中に置かれる。キリストのうちにない者はみな、キリストの「左」の山羊の中に置かれる。シャーロックの言葉はけだし名言である。「この世でどんな違いがあろうと、キリストがさばき主として来られたとき、その羊として数えられるのでなければ何の役にも立たない」。
第三に注目したいのは、終わりの日のさばきはどのような仕方で行なわれるかということである。ここには、この点について驚くべき事実が詳しく語られている。それがいかなるものか見ていこう。
最後の審判は、証拠にもとづいたさばきである。証言するため進み出るのは人々の行なったわざ、特に彼らの愛のわざである。そこで確かめられるのは、私たちが語っていたことだけでなく、私たちが何を行なっていたかである。私たちが口にしていた告白だけでなく、私たちが実践していた行動である。確かに行ないが私たちを義とするのではない。私たちが義とされるのは、律法の行ないにはよらず信仰による。しかし私たちの信仰が真実であるか否かは、私たちの生き方によって問われる。行ないのない信仰は、それだけでは死んだものである(ヤコ2:17)。
最後の審判は、真の信者すべてに喜びをもたらすさばきである。彼らは、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。……御国を継ぎなさい」との尊いことばを聞くことになる。御父と聖なる御使いたちの前で、彼らは自分の主人からご自分のものと公言していただく。彼らは、主がその忠実なしもべらに賜る報いが「御国」以下の何物でもないことを知る。神の家族の中でも最も小さい者、最も卑しい者、最も貧しい者さえ、栄光の冠を受け、王となるのである!
最後の審判は、未回心の者すべてに困惑をもたらすさばきである。彼らは、「のろわれた者ども。わたしから離れて……永遠の火にはいれ」との恐ろしいことばを聞くことになる。集められた世の前で、彼らは教会の偉大なかしらから何の関係もない者どもと呼ばれる。彼らは自分が「肉のために蒔く」者であったため、「肉から滅びを刈り取」らなくてはならないことを知る(ガラ6:8)。キリストが、「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と云われたときに聞こうとしなかった彼らは、今キリストが、「わたしから離れて……永遠の火にはいれ」と云われるのを聞かなくてはならない。キリストの十字架を負おうとしなかった彼らは、キリストの御国では何の地位も占めることができないのである。
最後の審判は、失われた者と救われた者双方の性格を驚くべき仕方で明らかにするさばきである。右手にいるキリストの羊らは、なおも「謙遜を身に着け」(Iペテ5:5)ている。彼らは自分のわざが少しでも明るみに出されて賞賛されるのを聞いて驚く。また左手の、キリストのうちにない者らは、なおも盲目で自分の義を頼んでいる。彼らは自分がキリストをないがしろにしたとは露ほども感じていない。彼らは云う。「主よ。いつ、私たちは、あなた……を見て、お世話をしなかったのでしょうか」。これを私たちは肝に銘じておこう。地上での性格は、来たるべき世においても永遠にまとわりつく。人は、死んだときと同じ性格をもってよみがえるのである。
最後に注目したいのは、さばきの日の最終的な結果は何かということである。これは決して忘れてならない言葉で語られている。「こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです」。
さばきの後の状態は変わることなく、終わることがない。失われた者の悲惨さ、救われた者の幸福さは、ともに永遠である。この点については、だれにも欺かれてはならない。これははっきり聖書に啓示されている。神、天国、地獄が永遠に存在することは、みな同じように揺るがぬ事実である。神が永遠に存在なさるのと同じくらい確かに、天国は夜のない終わりなき昼であり、地獄は夜明けのない終わりなき夜なのである。
永遠のいのちの素晴らしさをだれが云い表わせよう。それは人の思いも想像も絶しており、他のものと比較し対照することでしか思いはかることができない。それは、戦争と争乱の後で味わう永遠の安息である。悪の世との苦闘の後であずかる、聖徒らとの集いである。衰えゆく弱い肉体との争闘の後で受ける、苦痛なき栄光のからだである。耳で聞いて信じるだけであった主イエスと、顔を合わせて永遠に過ごすことである。まさにこれこそ祝福にほかならない。にもかかわらず、これはことの半分も云いつくしていないのである。
永遠の罰の悲惨さをだれが云い表わせよう。それは全くたとえようも、想像のしようもないものである。肉体をさいなみ続ける永遠の激痛である。良心を責め続ける永遠の呵責である。邪悪な者、悪魔、そしてその使いどもしかいない永遠の集いである。自分でないがしろにした機会、自分でさげすんだキリストを永遠に思い出し続けることである。暗澹たる望みなき未来を永遠に見続けることである。まさにこれこそ悲惨にほかならない。これだけでも耳が鳴り、血も凍る思いがする。にもかかわらず、この地獄絵は本物とくらべものにもならないのである。
私たちは、これらの節を真剣な自己吟味によって閉じることにしたい。自問してみよう。私たちは終わりの日、キリストのどちら側にいることになるだろうか。右手だろうか。左手だろうか。この問いに満足いく答えを出すまで、決して心を安んじない者こそ幸いである。