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第24章1―14 オリーブ山上の預言、エルサレムの破壊・キリストの再臨・世の終わりについて

 これらの節は、預言を満載した章の幕あけである。これらの預言は、その大部分がまだ成就しておらず、すべての真のキリスト者にとって非常に興味深い預言である。これは、聖霊が「それに目を留めているとよい」とお語りになった主題である(IIペテ1:19)。

 このような聖書の箇所には、常に深いへりくだりと、御霊の教えを乞い求める熱心な祈りをもって近づくべきである。預言の解釈ほど、善良な人々の間を裂いてきたものはない。これほど各派の偏見、独善、極端が、神から祝福として与えられた真理を教会から奪い取ってきたものはない。ある神学者の言葉はけだし当然である。「人が自分のお気に入りの教説を確立するため役に立つもので、ここにないものはない」。

 この章全体の要旨を理解するには、主がこの説教をはじめる糸口となった質問を絶えず念頭に置いておかなくてはならない。これを最後と神殿を後にしたとき、弟子たちはユダヤ人として自然な心情にかられ、宮の素晴らしい建造物に師の注意を向けた。彼らが驚き呆気にとられたことに主は、宮は完全に破壊されつくすであろうと告げられた。そのことばは、弟子たちの心に大きな影を落としたと思われる。主がオリーブ山で腰をおろされるや、彼らはみもとに来て、不安気に尋ねた。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう」。これらの言葉のうちにこそ、今私たちの前にある預言の主題を見いだす鍵があることがわかる。ここには3つの点がある。第一にエルサレムの破壊。第二にキリストの再臨。第三に世の終わりである。疑いもなくこの3点はこの章中にふくまれている。区分も分割もしがたいほどもつれあった章ではあるが、この三点はすべて、はっきり際立って見える。こうした考察なしにこの章を説明することはできない。

 この預言の最初の14節は、広く適用できる一般的な教訓を扱っている。これらの節は、ユダヤ人の時代の終わりとキリスト者の時代の終わりの双方に、同じくらい強くあてはまるように思える。一方の出来事が、驚くほど正確にもう一方の象徴となっている。確かにこれらは、「世の終わりに臨んでいる」私たち(Iコリ10:11)の特別な注意に値する。

 私たちの前にある最初の一般的教訓は、惑わしに対する警告である。「人に惑わされないように気をつけなさい」。

 これほど必要とされる警告は思いつけない。サタンは預言の価値をよく知っており、これを軽蔑の対象にしようと常に苦慮している。エルサレムの破壊の前にどれほど多くのにせキリスト、にせ預言者が出現したかは、ヨセフスの著作があますところなく証ししている。今日どれほど多くの手段で人々の目が、来たるべき物事について盲目にさせられているかは、簡単に示すことができよう。アーヴィング派やモルモン教は、キリストの再臨という教理を全く否定する論拠として用いられて、めざましい成功をおさめている。私たちは油断せず、警戒していよう。

 私たちは、成就していない預言の主要な事実について、そのようなことは不可能だなどと云うどのような者にもだまされないようにしよう。あるいはその成就のしかたについて、まず起こりそうにないとか過去の経験とは正反対だとか云うどのような者にもだまされないようにしよう。私たちは、成就していない預言が実現する時について、どのような者にもだまされないようにしよう。特定の日付を予告する者にも、全世界の回心を待望せよという者にも、だまされないようにしよう。これらのどの点についても、聖書の平明な意味だけを私たちの導きとし、人の伝統的な解釈に左右されないようにしよう。私たちは、恥じることなく、自分は成就していない預言が文字通りに実現することを待ち望んでいると云おう。自分にも理解できないことがたくさんあることは率直に認め、しかし自分の立場はねばり強く保ち続け、多くを信じ、多くを望み、いつの日かすべてが明らかにされることを疑わずにいよう。何よりも、苦しみを受けるために来るというメシヤの初臨そのものが、まるで思いも及ばぬありうべからざる出来事だったことを思い出そう。主は、かつて文字通り生身でやって来られたように、やがて文字通り生身で支配するためにやって来られる。これを疑わないようにしよう。

 私たちの前にある第二の大きな教訓は、終わりが来る前に起こる物事について、過度に楽観的で過大な期待をいだくことに対する警告である。これは先の警告にまさるとも劣らぬほど重要な警告である。この警告がこれほど無視されてこなかったら、教会にとっては幸いであったろう。

 私たちは、終わりが来る前に全世界を平和、幸福、繁栄が支配すると期待すべきではない。そのような期待は、大きく裏切られることになる。主は私たちに、「戦争、ききん、疫病」、そして迫害を期待するように命じられた。平和の君が戻って来られる前に平和を期待するのはむだである。終わりに至って初めて、剣は鋤に打ち直され、国々は二度と戦いのことを習わなくなる。そこに至って初めて、地はその産物を出すようになるのである(イザ2:4、詩67:6)。

 私たちは、終わりが来る前に、キリスト教会全体の教理と行ないが純潔になるときが来ると期待すべきではない。そのような期待は、大きな思い違いである。主は私たちに、「にせ預言者」が起こり、「不法がはびこ」り、「多くの人たちの愛が冷たくな」ることを予期するように命じられた。教会の偉大なかしらが帰って来られ、サタンが縛られるときまで、信仰を告白するあらゆるキリスト者が真理を受け入れたり、人々の間で聖潔が規範になったりすることは決してないであろう。終わりに至って初めて、聖く傷のない栄光の教会が出現するのである(エペ5:27)。

 私たちは、終わりが来る前に、全世界が回心すると期待すべきではない。そのような期待は、大きな思い違いである。「福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ……ます」。しかし私たちは、それが全世界で信じられると考えてはならない。確かに福音は、忠実に宣べ伝えられるところであればどこでも、キリストの証しとして「民を召し出し」はするだろうが、キリストが来られるまで国々が完全に集められることは決してない。終わりに至って初めて、水が海をおおうように地は主を知ることで満たされるのである(使15:14、ハバ2:14)。

 私たちはこうしたことを心にとめておき、よく覚えていよう。これらは、まさしく現代のための真理である。私たちはキリスト教会のどのような団体にも過大な期待をしないようにしよう。そうすれば大きく失望することはないはずである。時は長くなく、縮まっているから、私たちは急いで福音を全世界に広めよう。だれも歩くことのできない夜がやって来る。困難な時代が前に控えている。異端や迫害がやがて教会を弱め、悩ませるようになる。主義と主張の苛烈な争いで国々は激しく動揺する。今、善をなすために開いている扉は、やがて永遠に閉ざされることになる。私たちは、ユダヤ教の太陽が暗雲と嵐の中に没したのと同じように、キリスト教の太陽もまた沈んでいくのを目にするかもしれない。何よりも私たちは主の再臨を待ち望もう。願わくは私たちがみな日ごとに、「主イエスよ、来てください!」と祈る心を持てるように(黙22:20)。


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第24章15―28 預言(続き)、エルサレムの第一・第二包囲戦における悲惨について

 主の預言のこの箇所における主要な主題の1つは、ローマ人によるエルサレム陥落である。この大事件は、私たちが今読んだことばが語られてから約40年後に起こった。その全容は歴史家ヨセフスの著述の中に見いだされる。彼の著作は、私たちの主のおことばに対する最良の注釈であり、主の予言の驚くべき真実性を立証している*1。ユダヤ人がその都の包囲戦の間耐え忍んだような恐怖と悲惨は、歴史上類を見ない。それはまさしく、「世の初めからかつてなかったような、ひどい苦難」のときであった。

 エルサレム陥落が、これほど重大視されていることに驚く人々がいる。この章の内容はみな、まだ成就していない事柄のことと考えた方がよいのではないかというのである。こうした人々が忘れているのは、エルサレムと神殿が、古のユダヤ教の経綸における中心的な部分であったということである。エルサレムと神殿が破壊されたとき、古のモーセ律法体系も終わりを迎えた。毎日のいけにえ、毎年の祭、至聖所、祭司団、これらはみな啓示宗教の不可欠の部分であったが、キリストの来臨とともに終わりを告げた。キリストが十字架の上で死なれたとき、それらの役目は終わった。それらは死に、葬られるのを待つだけの存在となった。しかし、その埋葬はひっそり行なわれるべきではなかった。シナイ山の上であれほど厳粛に与えられた経綸は、当然、格別の厳粛さをもって幕を閉じると予想されよう。古来幾多の聖徒たちが、「後に来るすばらしいものの影」を見ていた聖なる神殿の破壊は、当然、預言の一主題をなすと予期されよう。それが、ここでなされているのである。主イエスは、特に「聖なる所」が荒れ果てることを予告された。この偉大な大祭司は、人々をご自分に導く教育係であった経綸の終わりを描き出しておられるのである。

 しかし私たちは、主の預言のこの部分で述べられているのが、最初のエルサレム陥落のことだけと考えるべきではない。主のことばが、さらに広く、深く適用されるものでもあることはほぼ確実である。主の預言はほぼ間違いなく、やがてイスラエルが自らの故地に帰った後で行なわれる、エルサレムの第二の包囲戦にあてはまる。また主の預言が、その地の第二の患難にあてはまることもほぼ間違いない。それは、主イエス・キリストの再臨まで続く大患難である。この箇所をそのように解釈することは、ある人々にとっては驚きかも知れない*2。しかし、その正当性について疑う者は、ゼカリヤ書の最終章、およびダニエル書の最終章を学ぶとよい。この2つの章には厳粛なものがある。これらは、私たちが今読んでいる節に大きな光を投じ、またこれらの節がその直後の箇所とどのような関係にあるかについて大きな光をあてている。

 最後に、この個所にふくまれる教訓を、私たち自身の個人的建徳のために考察することにしたい。以下に述べる教訓は平明で、取り違えようのないものである。少なくともここには、何のあいまいさもない。

 まず第一に、危険から身を避けることは、時としてキリスト者が積極的になすべき義務となりうるということである。主ご自身が、状況によっては「逃げなさい」と御民に命じておられる。

 疑いもなくキリストのしもべが臆病であってはならない。キリスト者は、自分の主を公然と告白すべきである。必要とあらば、真理のために喜んで死ぬべきである。しかしキリストのしもべは、自分の義務の道をさまたげるものでない限り、危険に身を投ずるよう求められてはいない。自分の持ち場で死ぬことが何の益にもならないときには、穏当な手段を用いて個人的な安全をはかることを恥じることはない。この教訓には深い知恵が秘められている。真の殉教者は、必ずしも死に急ぐ者ではない。斬首や火刑を性急に求める者ではない。忍従と祈りのうちに機会を待つことの方が、昂然と敵に立ち向かい、やみくもに戦いに飛び込むよりも大きな恵みの証しであることもある。願わくは私たちが、迫害に遭うとき、どう身を処するか知恵が与えられるように! 臆病風に吹かれてはならないが、無分別になるのもよくない。冷淡なために奉仕を投げ出すこともあれば、熱心すぎて奉仕を投げ出すこともあるのである。

 別のこととして、この預言を語る中で私たちの主は、安息日について特に言及しておられる。「あなたがたの逃げるのが……安息日にならないよう祈りなさい」。

 これは特に注目に値する事実である。私たちの生きる現代は、安息日遵守の義務が、しばしば信者からさえ否定される時代である。安息日は儀式律法と同じく、もはや守る義務はないのだと云われる。しかしこのような考え方が、どうして私たちの主のことばと矛盾しないといえるのか理解に苦しまざるをえない。神殿とモーセ律法の最終的な破壊という、この厳粛な予言を発するにあたり、主はあえて安息日について言及し、その日が決してないがしろにされるべきものではないと位置づけられたのではなかろうか。やがて主の民は、いけにえと儀式とのくびきからは解かれることになるが、安息日を守る義務は残される。そう主は暗示しておられるように思われる(ヘブ4:9)。聖なる日曜日を友とする者らは、この聖句を忘れないよう注意すべきである。これは、やがて非常に重大な意味を持つことになる。

 また別のこととして、神の選民は常に神の特別のご配慮のもとにあることがわかる。この箇所で私たちの主は二度、選びの民について述べておられる。「選ばれた者のために、その日数は少なくされます」。「選民」を惑わすことはできない、と。

 神がキリストによる救いへと選ばれた者らは、この世にあって神から格別な愛を受けている。神にとって彼らは、人類の中にある珠玉である。神は、玉座に座す王たちにもまさって、(その王自身が回心していれば別だが)彼らのことを心にかけておられる。神は、彼らの祈りを聞かれる。すべての国際問題、すべての戦争の結末をして、彼らの益と彼らの聖化のためになるように命じておられる。彼らをご自分の御霊によって守られる。人であれ悪魔であれ、何者にも彼らを御手からもぎとることはお許しにならない。患難が世を襲うときも、神の選民は安全である。願わくは、私たちがこのほむべき者らの数にはいると確信できるときまで、決して心を安んずることがないように! 自分は選ばれていないなどと云える者は誰ひとりいない。福音の約束はみな、どのような人に対しても差し出されている。願わくは私たちが、勤勉をつくして、自分の召しと選びを確かにできるように! 神の選民は、夜昼神を呼び求める人々である。テサロニケ人の信仰と希望と愛を見たときパウロは、彼らが「神に選ばれた者であること」を知っていると云えた(Iテサ1:4、ルカ18:7)。

 最後にこれらの節から私たちには、キリストの再臨は、いつ起こるにせよ全く突然に起こることがわかる。それは、「いなずまが東から出て、西にひらめくように」起こるであろう。

 これは常に肝に銘じておかなくてはならない実際的な真理である。主が肉体をもってこの世に再び来られることを、私たちは聖書によって知っている。主が大患難の時代に来られることも知っている。しかし、その正確な時期、正確な日時は、すべて隠されている。わかっているのは、それが非常に突然起こるということだけである。私たちのなすべき明らかな義務は、いつ主がお戻りになられてもいいように生きることである。私たちは見えるところによってではなく、信仰によって歩もうではないか。キリストを信じ、キリストに仕え、キリストに従い、キリストを愛そうではないか。そのように生きるなら、キリストがいつ戻られても、主をお迎えする備えはできているであろう。

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*1 ヨセフスは次のように述べている。彼がキリスト者でなかったことを思い起こすと、これはいっそう注目に値する言葉である。「他のどのような町もこれほど深い災いの淵に転落したことはない。わたしの考えでは世界が始まって以来のいかなる悲運もユダヤ人のそれとはとうてい比較にならないのである」。[本文に戻る]

*2 教父たちの中でもエイレーナイオスとヒラリウス、また十六世紀のフェラスは、私たちの主の預言のこの部分、すなわち世の終わりに起こるひとりの反キリストの出現の成就について言及している。ヒラリウスの考えによれば、「『荒らす憎むべき者』が聖なる所に立つ」という節は、不信者たちの礼拝を受けるひとりの強大な反キリストが出現するときに成就するという。この節に関連してIIテサ2:4は詳細な研究に値する。[本文に戻る]


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第24章29―35 キリスト再臨の描写

 この箇所で主は、世をさばくためにやって来られるご自身の再臨を描写している。つまるところこれが、この箇所の自然な意味と思われる。それ以下の考え方は、相当に無理な曲解のように思える。もしこれらの厳粛な言葉が、単なるローマ軍のエルサレム侵攻のことでしかないとしたら、聖書からこじつけられないものは何もなくなるであろう。ここに述べられている出来事は、地上の軍隊の進軍などよりもはるかに偉大な瞬間の1つである。これは、まさしく現在の経綸の終焉、すなわちイエス・キリストの肉体をもっての再臨にほかならない。

 これらの節から私たちが第一に教えられるのは、再びこの世に戻って来られるとき主イエスは、尋常ならざる栄光と威光を伴って来られるということである。主は、「大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来る」。主の御前では、太陽、月、星々すら暗くなり、「天の万象は揺り動かされ」る。

 キリストが再び肉体をもって来臨されるとき、それは最初の来臨とは比べようもないほどに異なっている。初臨の際の主は、「悲しみの人で病を知っていた」。主は、卑賎の境遇のうちに、ベツレヘムのかいばおけの中に生まれた。しもべのかたちをとり、人から蔑まれ、拒絶された。裏切られて悪人どもに引き渡された。不正な裁判で有罪宣告を受け、嘲弄と鞭打ちを受け、いばらの冠をかぶせられ、最後には二人の強盗の間で十字架にかけられた。しかし再臨の際の主は、全地の王として、王にふさわしい威厳をもって来られる。この世の王や権力者たちは、ひとりひとり主の御座の前に立たされ、永遠の宣告を受けることになる。主の前ではすべての口がふさがれ、すべての膝がかがめられ、すべての口が「イエス・キリストは主である」と告白することになる。願わくは私たちが、決してこのことを忘れることのないように! 今、不敬虔な者が何をしていようと、最後の審判の日にはキリストをあざける者、信じようとしない者はひとりもいなくなる。イエスのしもべらは、忍耐強く待ち続けてよい。彼らの主人はいつの日か全世界の王の王と認められるのである。

 これらの節から第二に教えられるのは、再びこの世に戻って来られるときキリストは、まずご自分の信徒たちを心にかけてくださるということである。主は、「御使いたちを遣わし」、「その選びの民を集め」られる。

 キリストが栄光のうちに再臨され、最後の審判がはじまるとき、真のキリスト者は完全に安全である。彼らの髪の毛の一筋すら地に落ちることはない。キリストの神秘的なからだ[教会]は、一本の骨も折れることはない。洪水のときノアには箱舟があった。ソドムが滅亡したときロトにはツォアルがあった。神の御怒りが最終的にこの邪悪な世界にぶちまけられるとき、イエスを信ずるすべての者には隠れ場があるであろう。ひとりひとりの罪人が悔い改めたときに天で歓喜の声をあげていたあの強大な御使いたちは、そのキリストの民を喜んで引き上げ、彼らをその主と空中で会わせようとするであろう。キリストの再臨の日は、疑いもなく恐るべき日となる。しかし、信者たちは恐れることなくその日を待ち望んでいていいのである。

 キリストが栄光のうちにお戻りになるとき、真のキリスト者たちはついに一同に会することになる。あらゆる民族の、あらゆる時代の聖徒らが、あらゆる国から集められてくる。欠けた者はない。義人アベルから、この世で神を信じる最後の人に至るまで、また史上最長寿を誇った族長から、一息あえいで息絶えた嬰児に至るまでの、すべての者がそこにいるであろう。神の家族がついに集合するこのとき、これが何と幸いな集いとなるか考えてもみるがいい。地上でひとりかふたりの聖徒と時たま出会うことが喜ばしいのなら、「だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」と出会うことはどれほどはるかに喜ばしいことであろう! 確かに、ほんの数年の間十字架を負い、愛する者と別れることをつらく思うことはない。私たちは永遠に別れることのない再会の日をめざして旅しているのである。

 これらの節から第三に教えられるのは、キリストが地上に戻られるまで、ユダヤ人は他の民族とは別の民としてとどまるということである。私たちの主は云われる。「これらのことが全部起こってしまうまでは、この民族は過ぎ去りません」(新改訳聖書の欄外注参照)*1

 ユダヤ人が別個の民族として存在し続けているという事実は、否定しようもない偉大な奇蹟である。これは不信者が決してくつがえしえない聖書の証拠の1つである。国土もなく、国王もなく、政府もなく、千八百年もの間、全世界に散り散りになっていながら、ユダヤ人は決して住みついた土地の人々に同化しはしなかった。フランス人やイギリス人やドイツ人になったりせず、「ひとり離れて住み」(民23:9)続けた。考えられる理由、それは神の指だけである。ユダヤ民族は、不信心に対する決定的な解答であり、聖書の真実さを証しする生き証人である。しかしユダヤ人は、聖書の真理の証人としてだけみなされるべきではない。彼らの存在は、いつの日か実現する主イエスの再臨を絶えず保証していると考えるべきである。主の晩餐の礼典と同じように、ユダヤ人は、再臨が初臨と同じく現実に起こるものであり、それが真実であると証言しているのである。このことを忘れないようにしよう。地上をさすらうユダヤ人を目にするたびに、私たちは聖書が真実であること、キリストがいつの日か戻ってこられることを示す証拠を見たと思うようにしよう。

 最後にこれらの節から教えられるのは、私たちの主の予言は確実に成就するということである。主は云われる。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」

 私たちの主は、人間に生来備わる不信仰をよくご存じであった。主は「あざける者がやって来てあざけり……『キリストの来臨の約束はどこにあるのか』」と云うであろうことを知っておられた(IIペテ3:4)。ご自分が来られるとき、地上に信仰者はごくわずかしかいないであろうことを知っておられた。いま告げられたばかりの厳粛な予言を、どれほど多くの人が、ありうべからざる愚かなたわごととして軽蔑し、拒否するかを知っておられた。そうした懐疑的な思想に対する警告として、主は特に厳粛な注意を告げておられるのである。人が何と云い、どう考えようと、主のみことばは時至って成就し、実現せぬまま「滅び去り」はしないと主は語っておられる。願わくは私たちがみな、主の警告を心に深く刻むように! 私たちは不信仰な時代に住んでいる。主の初臨を信じた者はほとんどなかったが(イザ53:1)、主の再臨を信じる者もほとんどいない。この悪風に染まらぬよう注意し、魂の救いのため再臨の真理を信じようではないか。これは「うまく考え出した作り話」などではなく、深遠で重大な真理なのである。願わくは神が、私たちに信ずる心を与えてくださるように!

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*1 多くの論議がつきまとう「この時代」という言葉については、これが最も満足のいく、また最も問題点の少ない解釈だと思う。私はこれを「民族」と訳したが、原語にはそのように訳せる意味があり、マタ12:45、17:17、23:36、ルカ16:8、17:25、ピリ2:15でもそのような意味で使われていると思われる。私が主張した見解は新奇なものではない。同じ意見の人々には、ミード、パーレウス、フラーキウス、イリリークス、カローヴィウス、ヤンセン、デュ・ヴェイユ、アダム・クラーク、シュティーアらがいる。
 クリュソストモスやオリゲネス、テオフュラクトスは「この民族」を「真の信者たち」と解している。[本文に戻る]


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第24章36―51 再臨直前の時代の描写、目をさましていなさい

 この箇所には、しばしば非常に誤って適用される節がある。「人の子が来るのは」、しばしば死と同じものとして語られている。主の予期せぬ到来を述べた聖句がよく墓碑銘に書かれ、墓地にふさわしいものと考えられているのである。しかしこの箇所をそのように適用すべき確かな根拠は何もない。死と人の子の到来は全く別のものである。これらの節の主題は死ではなく、イエス・キリストの再臨である。これを忘れないようにしよう。聖書をねじまげ、真の意味を取り違えて用いるのは危険なことである。

 これらの節でまず第一に私たちの注意をひくのは、主イエスが再臨される日、世界がいかに恐るべき状態にあるかということである。

 キリストが戻られるとき、世界は教化されてはいない。それは洪水前の世界と同じ状態にあるであろう。洪水が襲ったとき、人々は「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりし」、俗的なことに狂奔し、ノアの繰り返し語った警告に全く耳を貸していなかった。彼らは洪水などあるはずないと思っていた。危険があるなど夢にも思わなかった。しかし最後には突然洪水が来て、彼らをさらってしまった。ノアとともに箱舟に入らなかった者はみな溺れ死んだ。たちまち彼らは一掃され、何の赦しも回心も備えもないまま、人生の決算をすべく神に会うことになった。そして主は云うのである。「人の子が来るのも、そのとおりです」。

 この聖句に深い注意を払い、心にとどめようではないか。現代は、この問題について多くの奇異な見解がまかり通っている時代であり、それは信仰者の間ですら例外ではない。主が来られる前に異教徒たちもみな回心し、世は主を知る知識で満たされるなどという迷妄にとらわれないようにしよう。教会にも世にもまだ多くの悪が残っているのだから、終末はまだ先のことだなどと妄想しないようにしよう。そのような考えは、今私たちが前にしている箇所の前ではぺしゃんこにされてしまう。ノアの時代は、キリストが再臨される時代の生き写しである。信仰を告白するおびただしい数のキリスト者たちは、実は無思慮で、不信仰で、不敬虔で、世俗的で、キリストもなく、さばきに会う備えもない者たちであったことが明らかになるであろう。そのような者のひとりとなることがないように、私たちは心備えをしていよう。

 私たちの注意を第二にひくのは、主イエスが再臨されるその日には、恐るべき分離分割がなされるということである。ここには二度も、「ひとりは取られ、ひとりは残されます」と書かれている。

 敬虔な者と不敬虔な者は現在入り混じっている。集会でも礼拝堂でも、街でも畑でも、神の子らと世の子らは肩と肩をならべている。しかし、その状態がいつまでも続くわけではない。私たちの主が戻られる日、ついに完全な分割が行なわれることになる。最後のトランペットとともに、たちまち一方は他方から一瞬にして永遠に引き離される。妻は夫と、親は子どもと、兄弟は姉妹と、主人はしもべと、説教者は聴衆と引き離される。主が現われるときには、悔い改めるひまも、心を入れかえる時間もない。すべての者がありのままの姿で取られ、自分が蒔いてきたものに従って刈り取りをすることになる。信者は引き上げられて栄光と誉れと永遠のいのちにはいり、不信者は取り残されて恥と永遠の屈辱に至る。祝福された幸いな者、それは一心にキリストに従っている者らである! ともに集められた彼らだけは、決して離れ離れになることはない。その集いは永遠に続く。主が戻られるとき引き上げられる者らの幸福をだれが云いつくせよう。後に取り残された者らの悲惨さをだれが想像できよう。願わくは私たちが、これらのことを思い巡らし、自分の生き方を考え直すように!

 これらの節で私たちの注意を最後にひくのは、私たちには、キリストの再臨を覚えて目をさましているべき実際的な義務があるということである。私たちの主は云われる。「目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです」。「用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから」。

 これは私たちのほむべき主が、しばしば私たちの注意を喚起しておられる点である。主が再臨のことを多少とも詳しく語られるときには、ほぼ例外なく「目をさまし」ていよという命令をつけ加えておられる。主は私たちのまどろみがちな性質をご存じであった。信仰上の厳粛きわまりない事柄を、私たちがいかに素早く失念してしまうかご存じであった。主の再臨という栄光の教理を、サタンがいかに絶え間なくぼやかそうと努力しているかご存じであった。主は私たちを守るために、永遠の滅びに落ちたくなければ、常に目を覚ましていよとの心探る戒めを与えてくださったのである。願わくは私たちがみな、この言葉に耳を傾けることができるように!

 真のキリスト者は見張り人のような生き方をすべきである。主の日は夜の盗人のようにやって来る。キリスト者は常に警戒を固めているよう努力しなくてはならない。彼らは敵中にある軍隊の歩哨のようにふるまうべきである。自分の持ち場で眠りこけたりすまいと、神の恵みによって堅く決意すべきである。この聖パウロの言葉には、深く思いをひそめるべき価値がある。「ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう」(Iテサ5:6)。

 真のキリスト者は、主人の留守を守る良いしもべのような生き方をすべきである。常に主人の帰りに備え、「主人はまだまだ帰るまい」などという思いに決して流されるべきではない。いつ何時キリストが現われても、すぐに心をこめた暖かいもてなしができるような心を保つようにしているべきである。「主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです」。このことばには非常に深いものがある。信じていることが突然実現したときうろたえるだろうような者は、自分が真の信者であるかどうか疑った方がよい。

 私たちはこの章を厳粛な思いで閉じることとしよう。ここまで読み進めてきたことで、私たちは非常に激しく心探られているはずである。私たちは自分がキリストにあるかどうか、また世に怒りの日が臨むとき、拠るべき安全な箱舟を持っているかどうかを真剣に確かめよう。終わりがくるとき永遠に打ち捨てられるような生き方ではなく、「幸い」と宣言されるような生き方をこころがけよう。最後に、成就していない預言など思弁にすぎず実際の役には立たない、というような、よく聞く考えは頭から叩き出そう。もしこれまで考察してきたようなことが実際的でないとしたら、実際的な信仰など存在しない。聖ヨハネのことばは至言である。「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」(Iヨハ3:3)。

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