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第23章1―12 律法学者・パリサイ人の教えに対するキリストの警告

 私たちが今から読もうとしているのは、ある意味で、四福音書中、最も尋常ならざる章である。ここには、主が神殿の壁の中で語られた最後のことばが記されている。これらの最後のことばは、律法学者やパリサイ人の正体を完膚なきまでにあばき、彼らの教えと行ないを舌鋒鋭く叱責している。ご自分の地上での時が終わりに近づきつつあることを十分ご承知であった主は、もはやユダヤ人の指導的教師らに対するご自分の意見をさしひかえようとはしておられない。弟子たちを残してまもなく去って行くことを知っておられた主は、群狼の中の羊のようになるだろう彼らに対し、彼らを取り巻くにせ羊飼いたちついて、歯に衣着せぬ警告を語られたのある。

 この章全体は、誤りに対する大胆かつ真実な告発のめざましい模範である。どれほど愛にあふれた心の持ち主でも、峻烈な叱責の言葉を用いることができないことはないという、驚くべき証明である。何よりもこれは、不忠実な教師の罪がいかに重いかという恐るべき証拠である。世の続く限り、この章はあらゆる牧師、教師に対する警告であり、道しるべとなるべきである。キリストの目には、他のどのような罪にもまして、彼らの罪ほど罪深いものはないのである。

 この章の冒頭にある12の節で最初にわかるのは、にせ教師の職務と行ないは区別しなくてはならないということである。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています」。その正否はともかく、彼らはユダヤ人社会で公の指導的宗教教師という立場を占めていた。権威の座についている彼ら個人がどれほど不忠実であろうと、職務そのものが彼らを尊敬される資格ある者としていた。しかし、職務は尊敬すべきであっても、彼らの悪い生き方をまねてはならなかった。また彼らの教えも、聖書に従っている限りは守るべきであったが、神のみことばと矛盾するようなときは従うべきではなかった。ある偉大な神学者の言葉を借りれば、「モーセの教えを教えている限り、彼らの云うことは聞くべきである」が、それ以上のことをすべきではなかった。これが主の意図であったことは、この章全体の調子から明らかである。ここで偽りの教理は、偽りの行為と同じくらい非難されている。

 ここで私たちの前に置かれている義務は、非常に重要なものである。人間の心には極端に走りたがる傾向が常にある。私たちは、教職者の職務を偶像のようにあがめるか、不当な軽蔑をもって扱いがちである。この両極端のどちらに対しても警戒する必要がある。牧師の行動にどれほど賛成できないとしても、あるいはその教えにどれほど不満があろうと、決してその職務に対する敬意を忘れてはならない。相手個人について何と考えていようと、その権能に対しては敬意を払えることを私たちは示さなくてはならない。聖パウロがあるとき示した模範には、注目してよい。「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない。』と書いてあります」(使23:5)。

 これらの節から第二にわかるのは、信者の間に見られる裏おもてのある言動、見せびらかし、虚栄心は、キリストにとってことさらに不快なものであるということである。裏おもてのある言動ということで注目すべきは、主がパリサイ人について何を真っ先に述べているかである。彼らは「言うことは言うが、実行しない」。彼らは、他人に要求することを自分は実行していなかった。見せびらかしということで主が宣告されたのは、彼らの行動はみな「人に見せるため」のものだったということである。彼らはその経札を、すなわち聖句をしるした細長い羊皮紙で、多くのユダヤ人が服の上につけていたものを、途方もなく広い幅にしていた。またその衣のふさ、すなわち神を思い出させるためモーセがイスラエル人につけさせた飾り(民15:38)を、途方もない長さにしていた。そしてこれらはみな自分に注意をひきつけ、人々に何と聖なる人だろうと賞賛させるためであった。虚栄心ということで主は、彼らが公の場で「上席」を与えられることや、へつらうような称号で呼びかけられることを愛していると語っておられる。これらを私たちの主があげられたのは、みな厳しく非難するためであった。主は私たちが、これらすべてに対して油断せず祈っていることを望んでおられる。これらは魂を滅ぼす罪である。「互いの栄誉を受けて……あなたがたは、どうして信じることができますか」(ヨハ5:44)。もし世々のキリスト教会がこの個所をもっと深く熟考し、この個所の精神にもっと無条件で従っていたなら幸いであったろうに。パリサイ人以外にも、他人に厳格にあたり、衣服の聖さを気取り、人の称賛を愛した者はいる。教会史の年代記は、おびただしい数のキリスト者がパリサイ人そっくりの歩みに走ったことを示している。願わくは私たちがこのことを覚えて悟りを得るように。洗礼を受けた英国人が、精神においては全くのパリサイ人であることは十二分にありえる。

 これらの節から第三にわかるのは、キリスト者は神とそのキリストのみに属する称号と栄誉をほかの何人にも決してささげてはならないということである。私たちは、「だれかを、われらの父と呼んではいけません」。

 ここに定められた原則は、聖書を越えて無原則に解釈してはならない。教職者をその職務のゆえに高く尊敬することは禁じられていない(Iテサ5:13)。聖徒の中でもことにへりくだりの徳にひいでた聖パウロすら、テトスのことを「信仰によるわが子」と呼び、コリント人には「この私が福音によって……あなたがたを生んだのです」と語っている(Iコリ4:15)。しかし、なおも私たちは、人に属してもいない地位や栄誉を無神経に与えないよう細心の注意をしなくてはならない。決して彼らが私たち自身とキリストの間にはいることを許してはならない。どれほど傑出した人も無謬ではない。彼らは私たちのため贖いをなしうる司祭ではない。神と私たちの間にある魂の問題を扱いうる仲保者ではない。私たちと同じ人間である。同じきよめの血潮、同じ更新の御霊を必要とする人間である。高位の聖職者という区別はあっても、つまりは人にすぎない。

 最後にわかるのは、キリスト者を何よりも傑出した者とする恵みはへりくだりだということである。キリストの前で偉大な者となりたければ、パリサイ人とは完全に異なる目標をめざさなくてはならない。キリスト者の大望は教会を支配することではなく、教会に仕えることでなくてはならない。バクスターの言葉は至言である。「教会の大いなる人とは、大いに奉仕できる人のことである」。パリサイ人たちの願望は栄誉を受けること、「先生」と呼ばれることであった。キリスト者の願望は、善をなすこと、他者への奉仕に自分をささげ、自分の持つすべてをささげることでなくてはならない。まことにこれは高い基準である。しかし、これ以下で決して満足してはならない。私たちのほむべき主の模範、使徒たちが書簡で記すはっきりとした命令は、どちらも同じように「謙遜を身に着け」(Iペテ5:5)るよう私たちに求めている。このほむべき恵みを日々追い求めようではないか。どれほど世からさげすまれようと、これほど美しい恵みはない。救われる信仰と神へのまことの回心をこれほど明らかに証拠だてるものはない。これほどしばしば私たちの主から勧められている恵みはない。主のおことばのうちで、今読んだ個所をしめくくることばほど繰り返されているものはほとんどない。「自分を低くする者は高くされます」。


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第23章13―33 律法学者・パリサイ人に対する8つの非難

 これらの節には、ユダヤ教の指導者たちに対する私たちの主の非難が8つの項目に分けて記されている。神殿の中央に立ち、耳を傾ける群衆に取り巻かれて主は、律法学者やパリサイ人の主立った誤りを、容赦なく公然と告発しておられる。八度、主は、「忌まわしいものだ」という厳粛な表現を用いておられる。七度、主は彼らを「偽善者」と呼んでおられる。二度、主は彼らのことを目の見えぬ手引きどもと語り、二度、「愚かで、目の見えぬ人たち」と云い、一度などは「蛇ども、まむしのすえども」と述べておられる。私たちはこのことばづかいに注意しよう。これは厳粛な教訓を教えている。これは、どのような形をとろうと律法学者やパリサイ人の精神が、神の目にはどれほど全く忌まわしいものであるかを示している。

 私たちの主が持ち出された8つの非難を手短に眺め、この個所全体から、いくつかの一般的な教えをくみとるようにしよう。

 最初の「忌まわしいものだ」は、福音の進展に対する律法学者、パリサイ人らの組織的な反対に対して向けられている。彼らは「天の御国をさえぎって」いた。彼らは御国に自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせようとしなかった。彼らはバプテスマのヨハネの警告の声を退けた。イエスがメシヤとして彼らの間に現われたとき、かれを認めることを拒否した。彼らはユダヤ人求道者を引き留めようと腐心した。彼らは福音を自分も信じず、他人がそれを信じることもあらゆる手立てをつくして妨害した。これは大きな罪であった。

 第二の「忌まわしいものだ」は、律法学者、パリサイ人らの貪欲で、自分の威勢ばかりを高めたがる精神に対して向けられている。彼らは、やもめの家を「食いつぶし」、見栄のために長い祈りをする。彼らは、信心深そうなふりをすることで、弱く寄るべない婦人たちの信じやすさにつけこみ、彼女たちの霊的な支配者のようになってしまう。彼らは、このように不正に手に入れた影響力を自分自身の利得のために乱用してためらうことがなかった。つまるところ、宗教で金儲けに励んでいたのである。これもまた大きな罪であった。

 第三の「忌まわしいものだ」は、律法学者、パリサイ人らが支持者を獲得しようとする熱情に対して向けられている。彼らは、「改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回」っていた。うまずたゆまず人々を自分たちの党派に誘い入れ、自分たちの意見を受け入れさせようと努力していた。彼らには、それで人の魂に益をもたらそうとか、人々を神に導きたいという望みはこれっぽっちもなかった。単に自分たちの一派の兵隊を増し加え、自分たちの信奉者をふやし、自分たち自身の勢威を高からしめようという一心であった。彼らの宗教的熱情は党派心からのものであり、神への愛ゆえに起こったものではなかった。これもまた大きな罪であった。

 第四の「忌まわしいものだ」は、誓いに関する律法学者やパリサイ人らの教えに対して向けられている。彼らは誓いと誓いの間に巧妙な区別を設け、イエズス会士ばりに、誓いには拘束力のあるものとないものがあるなどと説いていた。彼らは、神殿にささげられた「黄金をさして」誓われた誓いは、「神殿をさして」誓われた誓いよりも重いとした。このようにすることによって彼らは、第三戒を有名無実のものとし、それと同時に、施物や供物の価値を過大にみなさせることによって、自分たちの利益を増していたのである。これもまた大きな罪であった*1

 第五の「忌まわしいものだ」は、信仰の重要事よりも些事を高しとする律法学者やパリサイ人らの行動、すなわち後のものを先にし、先のものを後にする態度に対して向けられている。彼らは、「はっか」その他の薬草の十分の一をささげることで大騒ぎをし、自分がいかに厳格に神の律法を守る者かを見せつけていた。ところが同じ彼らが、正義や博愛、正直などという、だれの目にも明らかな義務をないがしろにしていたのである。これもまた大きな罪であった。

 第六および第七の「忌まわしいものだ」は、非常に似通っているので区分することが困難である。これは、律法学者らの宗教の一般的な特徴に対して向けられている。彼らは、外側の清浄さや上品さを、内側の聖潔さや魂のきよさ以上に重んじていた。杯や大皿の「外側」をきよめることは宗教的義務としながら、自らの内なる人についてはないがしろにしていた。彼らは、さながら白く塗った墓と同じく、外側はきれいで美しいが、内側は腐敗でいっぱいであった。「外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」。これも大きな罪であった。

 最後の「忌まわしいものだ」は、過去の聖徒に対する律法学者やパリサイ人らの見せかけの尊崇心に対して向けられている。彼らは「預言者の墓」をたて、「義人の記念碑」を飾りたてた。しかしながら彼ら自身の生き方は、彼らが「預言者を殺し」た人々と同じ心の持ち主であることを証明していた。彼ら自身の行動は、彼らが生きた聖徒よりも死んだ聖徒の方を好む者であることを日々あかししていた。死んだ預言者を尊ぶふりをしていた当の人々が、生きて目の前にいるキリストには何の美点も認められなかった。これもまた大きな罪であった*2

 これが、主の描き出されるユダヤ人教師らの陰鬱な姿であった。私たちは、悲しみと恥をもって顔をそむけよう。ここに、人間のぞっとするような本性は赤裸々にあばかれている。不幸にもこれは教会史上何度も再現された姿である。この律法学者、パリサイ人らの性格のどの点であれ、キリスト者と自称する者らがしばしばならった歩みであることは簡単に示すことができる*3

 この箇所全体から私たちは、主が地上におられたときのユダヤ民族がいかに嘆かわしい状態にあったかを学びとろう。教師がこのような者らである場合、教えられる者らはどれほど悲惨な暗黒のうちにあったことだろう。まことにイスラエルの不義はその極みに達していた。まさに、義の太陽がのぼり、福音が宣教されるべきときは到来していたというべきである。

 この箇所全体から私たちは、偽善がいかに神の目に忌まわしいものであるかを学びとろう。この律法学者やパリサイ人らが糾弾されているのは盗人や殺人者であったためではなく、骨の髄から偽善者であったためであった。私たちはどのような信仰生活を送ろうと、仮面だけはかぶらないよう決意しよう。いかなる努力を払っても、誠実に、ありのままの自分でいるようにしよう。

 この箇所全体から私たちは、不忠実な教職者がいかに危険な立場にあるか学びとろう。自ら盲目であるというだけでも、たいへんな障害である。いわんや、盲目のまま他人の手引きになるなど何千倍も危険である。ありとあらゆる人の中で、未回心の教職者ほど責めを負うべき悪人はなく、未信者のままの牧師ほど厳しく裁かれる者はないであろう。そのような者に対する厳粛な言葉がある。「彼は未熟な水先案内人に似ている。他人を道連れにせずにはおかない」。

 最後に、この箇所から誤った考えに陥らないよう警戒しよう。信仰生活では告白をしないにこしたことはないなどと思ってはならない。これは危険な極端化である。偽善者がいるからといって、真実な告白者がいないことにはならない。贋金がたくさんあるからといって、どんなお金もにせものだということにはならない。他人の偽善を見て、キリストを告白するのをやめたり、すでに行なった告白から動かされたりしないようにしよう。私たちはイエスを見上げながら前進し、イエスのうちに安らい、過ちから守られるよう日々祈り、ダビデとともに云おうではないか。「どうか、私の心が、あなたのおきてのうちに全きものとなりますように」(詩119:80)。

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*1 このように誓いに小細工を施すのはユダヤ人特有の癖ではなく異邦人の間でもよく知られたことであった。古代ローマの詩人マルティアリスがこのことに特に言及しているのは注目すべき事実である。
"Ecce negas, jurasque mihi per templa Tonantis:
Non credo: Jura, verpe, per Anchialum." -- Martial ix.94 [本文に戻る] 

*2 この問題に関するベルレンベルガー聖書の一箇所は非常に奇抜なものがある。
 「モーセの時代に善人はと問えば、アブラハム、イサク、ヤコブであったろうがモーセではなかった。彼は石で打たれるべきであった。サムエルの時代に善人はと問えば、モーセ、ヨシュアであったろうがサムエルではなかった。キリストの時代に問えば、サムエルもふくめて過去の全預言者であったろうが、キリストとその使徒たちではありえなかったろう」。
 ラテン語の諺にいう「死人は噛みつかない」とか「死んでからなら神様あつかい」なども同じ真理を示している。[本文に戻る]

*3 この機会に一言云っておきたいが、この章における私たちの主のことばは預言的な意味があると私は強く確信している。主は、後の時代にご自分の教会にどのような堕落がわき起こるか予見しておられた。不幸にもこの律法学者やパリサイ人たちの教えや慣習は、疑いもなくローマカトリック教会の目立って堕落した慣行の多くと非常に似通っている。[本文に戻る]


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第23章34―39 キリストのユダヤ人に対する最後の公的宣告

 これらの節は、私たちの主イエス・キリストが、律法学者、パリサイ人らについてなされた説教のしめくくりをなしている。これは、主が教師として公然と人々の前で語られた最後のことばである。主の、余人の及ばぬ優しさとあわれみ深さとは、この公的な伝道活動の最後にあたって、驚くべきしかたで現わされている。主の敵らは不信仰を続けたが、主は最後の最後まで彼らを愛し、あわれまれたのである。

 これらの節から第一に学ぶのは、神は不敬虔な者らに対し、しばしば大きな骨折りをなされるということである。神はユダヤ人らに「預言者、知者、律法学者たち」を遣わされた。何度となく警告を与え、繰り返し御告げを送られた。叱責もなしに罪を犯し続けるままにはなさらなかった。彼らには、注意されなかったから悪を続けたのだと云うことは決してできなかった。

 これは、通常、神が悔い改めないキリスト者をお取り扱いになるやり方である。神は罪の中を歩むキリスト者を、悔い改めに招くこともなしに切り捨てはしない。病や患難によって彼らの心の扉を叩き、説教や友人の忠言によって良心を攻めたて、目の前で墓を開き、その偶像を取り去ることによって、自分の生き方を彼らに考えさせてくださる。しばしば彼らは、こうしたことが何を意味するか見当もつかず、神のどのような恵み深い語りかけに対しても目しい、耳しいである。しかし彼らは、たとえ遅すぎることになろうと最後には、神の御手を認めることになる。彼らは、「神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない」ことを見いだす(ヨブ33:14)。彼らは、自分たちがユダヤ人のように預言者、知者、律法学者たちを遣わされていたことに気づく。すべての摂理のうちには、1つの声がなり響いている。「悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。……なぜ、あなたがたは死のうとするのか」(エゼ33:11)。

 これらの節から第二に学ぶのは、神はご自分の使者や牧師たちの受ける扱いに目をとめておられ、いつの日か正しい裁きををなさるということである。民族としてのユダヤ人は、しばしば神のしもべたちに対して最も浅ましい仕打ちを加えた。真理を語ったからといって、彼らを敵として扱った。ある者は迫害し、ある者は鞭打ち、ある者は殺しさえした。彼らは自分たちのふるまいについて責任が問われることなどないと考えていたかもしれない。しかし私たちの主イエスはそれが間違いであると告げておられる。彼らのすべての行為を見ておられた目があり、彼らの流したすべての罪なき血を、永遠に記憶される書物に記帳する手があった。「神殿と祭壇との間で殺された」ザカリヤは、死ぬ間際に「主がご覧になり、言い開きを求められるように」(II歴24:22)と語った*1が、その言葉は、八百五十年の後にもなお地に落ちてはいなかった。何年もしないうちにエルサレムでは、この世が見たこともないような血の審問が行われることになっていた。聖都は破壊されることになっていた。多くの預言者を殺した国民は、民族そのものが飢饉と疫病と剣によって荒廃させられることになっていた。その生き残りは、地の四方に吹き散らされ、殺人者カインのように「地上をさまよい歩くさすらい人」となることになっていた。これがどれほど文字通りに実現したかは周知の事実である。私たちの主のことばは至言である。「まことに……これらの報いはみな、この時代の上に来ます」。

 私たちはみな、この教訓をとくと肝に銘じておくべきである。私たちは、あまりにも「過去のことは水に流そう」と考えがちであり、自分にとって過去のこと、終わったこと、昔のことは、決してあばき出されることがないと思いがちである。しかし私たちは、神にとって「一日は千年のようであり」、神の御目には千年前の出来事も今この瞬間の出来事と同じくらい新鮮に映じていることを忘れている。神は、「すでに追い求められたことをこれからも捜し求められ」(伝3:15)、何よりも神は、ご自分の聖徒らに対する取り扱いの責任を問われる。代々のローマ皇帝が流した初代教会のキリスト者らの血、ヴァレンス派やアルビ派の人々の血、サン・バルテルミーの虐殺で流された血、宗教改革の時代火刑に処せられた殉教者らの血、異端審問によって死刑にされた人々の血、これらの血の責めはみな、すべて今後追求される。古いことわざに云う。「神の正義のひき臼はゆっくり回るが、砕かずに残すものは1つもない」、と。この世は、やがて「さばく神が、地におられる」ことを知るであろう(詩58:11)。

 今現在神の民を迫害している者は、自分の行ないに注意するべきである。他人を信仰ゆえに傷つけ、嘲り、馬鹿にし、中傷する者はみな大きな罪を犯していると知るべきである。隣人が自分より善人であるとか、祈っているとか、聖書を読んでいるとか、魂のことを考えているとかいう理由で迫害するすべての者のことをキリストは覚えておられる。「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ」と云われたお方は生きておられる(ゼカ2:8)。審判の日に、王の王はご自分のしもべらを侮辱した者どもにその責めを問われるであろう。

 これらの節から最後に学ぶのは人が永遠の滅びに落ちるのは自分の責任だということである。

 主イエス・キリストのこのことばは、非常に驚くべきものである。「わたしは……あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」。

 この表現には、特に注意に値するものがある。これは人間の説明によってしばしばぼやかされる1つの神秘的な問題に光を投じている。ここには、救われない多くの者らに対してもキリストがあわれみといつくしみの感情を抱いておられること、人が滅びる最大の秘密は自分自身の意志の欠如にあることが示されている。確かに人間は生来無力であり、自分の力では良い思いに至ることも、自ら立ち返って信仰を持ち、神を呼び求める力もないが、それでも自分自身の魂を滅ぼすという強大な能力は有していると思われる。確かに善に対しては無力だが、悪に対してはなおも強力である。人は自ら何事もなしえないという言は正しい。しかし常に覚えておかなくてはならないのは、無力さの根幹はその人の意志にあるということである。悔い改めて信じる意志を奮い起こすことはだれにもできないが、キリストを拒み、自分勝手に生きる意志は生まれつきすべての人に備わっており、最後まで救われなければ、その意志が身の破滅となるのである。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」(ヨハ5:40)。

 この主題を離れる前に私たちは、キリストに不可能なことはないと思い返して慰めを受けよう。この世で一番かたくなな心でも、主の御力の訪れる日には従順にされる。恵みに抵抗することは、疑いもなく不可避である。しかし聖書が人を責任ある存在として語っていることも決して忘れないようにしよう。ある人々については、「あなたがたは……いつも聖霊に逆らっているのです」と語られている(使7:51)。人が滅びるのは、キリストが救うことを欲しておられないためでも、望んでも救われえない人があるためでもなく、人がキリストのもとに来ることを望まないためである。このことを私たちは理解しよう。私たちは常に、今考察している箇所と同じ立場をとるようにしよう。キリストが人を集めたいと願われても、人は集められたいと願わないのである。キリストが人を救いたいと願われても、人は救われたいと願わないのである。人が救われるのは全く神から出たことであり、人が滅びるのは全く自分自身から出たことである。これを私たちの信仰の大原則として堅く定めよう。私たちのうちにある悪はことごとく私たち自身のものあり、もし私たちのうちに何らかの善があるなら、それはことごとく神のものである。救われた者らは来世ですべての栄光を神にささげるであろう。失われた者らは来世で自分が自分を滅ぼしたことに気づくであろう。(ホセ13:9)。

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*1 注目すべきことに、ここで語られているザカリヤは歴代誌ではエホヤダの子と述べられている。私たちの主はバラキヤの子と語っておられる。この食い違いを解決しようとしてある人々は、ここで語られているザカリヤはヨアシュの時代に殺された人物ではありえず、全くの別人であると考える。しかしそのようにすべき十分な理由はないと思われる。今のところ最も満足がいく説明は、ザカリヤの父はエホヤダとバラキヤという2つの名を持っていたということである。ユダヤ人の間では、2つの名を持つことはごくありふれたことであった。マタイはレビと呼ばれていたし、ユダにはタダイという呼び名があった。
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