HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

第22章1―14 大いなる祝宴のたとえ

 これらの節で物語られているたとえは、非常に広い意義をもつものの1つである。その第一義的な適用は、疑いの余地なくユダヤ人を対象としている。しかし彼らにだけ限定することはできない。ここには、福音が説き聞かされている者らすべてにとって、心を探りきわめる教訓がふくまれている。聞く耳がありさえするなら、これは今日の私たちにも語りかける霊的真理を描写しているのである。ある有識の神学者は、賢くも真実な言葉を述べている。「たとえ話は何面にもカットされた宝石に似て、一方向ばかりでなく多くの方向に光彩を放つ」、と。

 第一に注目したいのは、福音の救いは結婚披露宴にたとえられているということである。主イエスは、「王子のために結婚の披露宴を設けた王」について語っておられる。

 福音のうちには、人の魂のあらゆる欠乏に対する完全な備えがある。霊的な飢えと霊的な渇きを解放するために必要なものすべてが与えられている。赦し、神との平和、この世における生きた望み、来たるべき世における栄光、これらが私たちの前にあふれるばかり豊かに置かれている。それは「太った家畜をほふった宴会」である。これらの備えはことごとく神の御子、私たちの主イエス・キリストの愛に負っている。主は私たちをご自分につらなる者とすること、私たちを神の家族の愛児として回復すること、私たちにご自分の義を着せ、ご自分の御国に地位を占めさせ、最後の審判の日には御父の御座の前で欠点なき者として立たせてくださることを申し出ておられる。つまり福音とは、飢えた者への食物、悲しむ者への喜び、追放者への家庭、失われた者への愛の対象を差し出しているのである。これは喜ばしい知らせである。神は、その愛する御子によって、罪深い人間と一致しようと申し出ておられるのである。このことを忘れないようにしよう。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Iヨハ4:10)。

 第二に注目したいのは、福音の招きは広く、大きく、十分かつ無条件のものだということである。主イエスはこのたとえの中で、王のしもべたちが、招待されていた客たちに、「何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」、と告げたと語っておられる。

 神の側には、罪人の魂の救いのため足りないものは何1つない。だれも、自分が救われなかったのは神のせいだと云える者はない。御父は愛し、受け入れようと待っておられる。御子は罪過を赦し、きよめようと待っておられる。御霊は聖化と更新を行なおうと待っておられる。御使いたちは立ち返る罪人を喜ぼうと待っている。恵みはその罪人を助けようと待っている。聖書は彼を教えようと待っている。天国は彼の永遠の住いとなるべく待っている。必要なことはただ1つ、その罪人自身がその気になるということである。これも忘れないようにしよう。この点について逃げ口上を述べたり、些細な詮議だてをしないようにしよう。失われたすべての魂について、神に血の責任はないことはやがて明らかになろう。福音は常に罪人を責任のとれる者、責任を負うべき者として語っている。福音は全人類に門戸を開いている。その申し出の対象外として除外される者はない。この招きは、たとえ信者以外には有効に働かなくとも、全世界にとって十分なものである。せまい門にはいる者は少なくとも、すべての人がはいるように招かれている。

 第三に注目したいのは、福音の救いは、その申し出を受けた多くの者によって拒絶されるということである。主イエスは、王のしもべたちから披露宴に招かれた者たちは、「気にもかけず、……出て行」ったと語っておられる。

 福音を聞くおびただしい数の人々は、そこから全く何の益も引き出していない。彼らは毎週、毎年、それを聞いていながら、信じて魂が救われるということがない。彼らは特に何の福音の必要も感じない。特に何の魅力も福音には認めない。福音を憎んだり、反対したり、嘲笑したりはしないだろうが、心の中に受け入れることはしない。それよりもはるかに好むものがあるのである。富、土地、商売、快楽の方が、彼らにとっては自分の魂よりもはるかに興味深いのである。こうした心の状態は恐るべきものであるが、恐ろしいほどありふれたものでもある。私たちは自分自身の心を探り、自分がそうした心になっていないか注意しよう。あからさまな罪は千人を殺すが、福音に対する冷淡さ、無関心さは万人を殺すのである。多くの人々はやがて自分が、十戒を公然と破ったためにではなく、真理を軽んじたがために地獄にいることに気づくであろう。キリストは彼らのために十字架で死なれたのに、彼らは主をないがしろにしたのである。

 最後に注目したいのは、最後の審判の日、すべてのにせ信仰告白者は摘発され、暴露され、永遠に断罪されるということである。主イエスは、宴席がついに客で埋まったとき、王が彼らを見に来たが、「そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた」と語っておられる。王は、礼服を着ないでやってくるとはどういうわけかと問いただしたが、男は黙っていた。そこで王はしもべたちに、「あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ」と命じた。

 世の続く限り、教会にはにせの信仰告白者があり続けるであろう。真実にもこう述べた人がある。「このたとえ話では、たたき出されたひとりの人物が残り全員を代表している」、と。人の心を読むことはできない。人を欺く者、偽善者らが、キリスト者と自称する者らの中から根絶することはないであろう。福音に従うと表明し、うわべは正しい生活を送っている限り、人がキリストの義を着ていないとあえて断言することはできない。しかし最後の審判の日には何の欺瞞もない。神の誤りなき目がご自分の民とそうでない者を峻別する。まことの信仰以外の何物も、神のさばきの火には耐ええない。みせかけだけのキリスト教はことごとくはかりにかけられ、目方が足りないことがわかる。まことの信者以外の何者も、小羊の婚宴の席につくことはない。偽善者は、それまでどれほど声高に信仰について談義し、どれほど傑出したキリスト者との評価を得ていたとしても、何の役にも立たない。彼が意気軒高なのは一瞬にすぎない。彼は借り物の晴れ着をはぎ取られ、神の法廷の被告席にふるえながら裸で立ち、抗弁する言葉もなく、自ら罪を認め、希望も、なすすべもない。彼は恥辱とともに外の暗やみに放り出され、蒔いたものの刈り取りをすることになる。まことに主のことばは至言である。「そこで泣いて歯ぎしりするのだ」。

 私たちはこのたとえ話の厳粛な光景から知恵を学び、自分の召されたことと選ばれたこととを確かなものとするよう懸命にはげもうではないか。私たち自身、「何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」との言葉をかけられた者たちの中にいるのである。語っておられる方を拒まないようにしよう。他の人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていよう。時は急速に流れている。まもなく王が客を見ようとしてはいって来られる。私たちは婚礼の礼服を着ているだろうか。着ていないだろうか。私たちはキリストを身に着ているだろうか。これこそ、このたとえ話から生ずる大きな問いである。願わくは、それに満足のいく答えを出せるまで、私たちが決して安心することのないように! 願わくは、この心探る言葉が日々私たちの耳に鳴り響くように! 「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」。


HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

第22章15―22 税金納付に関するパリサイ人らの質問

 この箇所で出会うのは、主の地上での最後の日々の間、主に対して仕掛けられた一連の狡猾な攻撃の第一波である。主の不倶戴天の敵パリサイ人らは、主がその奇跡と説教とによって得つつある影響力の大きさを見て取った。彼らは、何とかして主を黙らせるか殺そうと心に決めていた。そこで彼らは主を「ことばのわなにかけよう」としたのである。彼らは「その弟子たちを、ヘロデ党の者たちといっしょに」遣わして、1つの難問によって主を困らせてやろうとした。彼らは、主を告発する種になるようなことを主に云わせたかった。これらの節では、彼らのもくろみが完全に潰えたことがわかる。彼らは何の収穫も得られず、すごすごと引き下がった。

 この節で最初に注意を引くのは、主の敵たちが主に呼びかけた言葉の追従ぶりである。「先生」と彼らは云った。「私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです」。このパリサイ人とヘロデ党の何と言葉たくみなことか! これは何となめらかで甘い言葉であることか! 疑いもなく彼らは、言葉たくみに取り入れば主を油断させるだろうと思ったに違いない。まことに彼らはこの言葉の通りの者らであった。「彼の口は、バタよりもなめらかだが、その心には、戦いがある。彼のことばは、油よりも柔らかいが、それは抜き身の剣である」(詩55:21)。

 信仰を告白するすべてのキリスト者は、へつらいの言葉に用心すべきである。迫害や虐待だけがサタンの武器と思ったら大間違いである。かの悪賢い敵は、私たちを害する兵器をほかにも持っている。かれはそれが大いに効き目のあるものであると知っている。かれは「火矢」や剣で私たちをおびやかすことができないときには、この世の甘い誘いで魂に毒を流し込むことができる。かれの悪だくみには無知でいないようにしよう。「彼は……不意に多くの人を滅ぼ」す。

 私たちはあまりにも、この真理を忘れがちである。私たちは、神が教訓として与えられた聖書中の多くの模範を見過ごしにしている。サムソンに破滅をもたらしたのは何であったか。ペリシテ人の軍勢ではなく、ペリシテ人の女の見せかけの愛であった。ソロモンの信仰を後退させたのは何であったか。外敵の勢力ではなく、彼の数多くの妻たちのへつらいであった。ヒゼキヤ王の最大の失敗の原因は何であったか。セナケリブの剣でも、ラブシャケの脅迫でもなく、バビロン人使節のお世辞であった。しばしば平和は戦争よりも多くの国々を滅ぼしてきた。甘いものは、苦いものよりもはるかに多くの病気の原因となる。太陽は、北風よりもはるかに早く旅人の外套を脱がせる。私たちは追従者を警戒しよう。サタンが光の御使いのように現われるときほど危険な存在となるときはない。世がキリスト者にほほえみかけるときほど危険なときはない。ユダがその主を裏切ったとき、それは口づけによってなされた。世の渋面に耐えられる信者は優秀である。しかし世のへつらいに耐えられる信者は、さらに優れている。

 これらの節で第二に注意を引くのは、私たちの主がその敵たちに返されたお答えの素晴らしい知恵である。パリサイ人たちとヘロデ党の者たちは、カイザルに税金を納めるのはよいかどうかと質問した。疑いもなく彼らは、主がどう答えても、云いがかりをつけられると思っていたに違いない。もし主があっさりと、税金を納めることはよろしいと答えたなら、彼らは民衆の前で主を糾弾し、イスラエルの特権をけがす者よ、アブラハムの子孫をもはや自由とみなさず、外国権力への従属を考える者よと非難したであろう。逆にもし主が税金を納めることはよろしからずと答えたなら、彼らはローマ人に対して主を告発し、自分の税金を納めようとしない反乱分子である、カイザルへの反逆者であると云い立てたであろう。しかし主のふるまいは、完全に彼らのもくろみを挫折させるものであった。主は「納め金にするお金」を見せなさいと云われた。そして、その貨幣の顔はだれのものかと質問された。彼らは「カイザルのです」と答えた。彼らは、ローマ皇帝カイザルの肖像と銘を刻んだお金を用いることによって、カイザルが彼らの上に何らかの権力を持っていることを認めていた。通貨を鋳造する者こそ、その通貨が通用する土地の支配者だからである。そしてすぐさま彼らは、自らの問いに対する抵抗しがたいほど決定的な解答を受け取った。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」。

 この有名なことばが定めているのは、非常に重要な原則である。まず、あらゆるキリスト者には、この世に属する、純粋に霊的でないすべてのことについて、自国の政府に服従する義務がある。政府の要求すべてに賛成してはいないかもしれない。しかし法律は、廃止されるまで従わなくてはならない。「カイザルのものはカイザルに返」さなくてはならない。それとは別に、キリスト者には、純粋に霊的なすべてのことについて、聖書の神に服従する義務がある。いかなる物質的損失、社会的不自由、権力側からの不興をこうむろうと、聖書がはっきり禁じていることを行なおうという気になってはならない。そうした立場は非常につらいものとなりうる。良心のゆえにひどく苦しまなくてはならないかもしれない。しかし聖書の取り違えようもないほど明白な要求を無視して行動してはならない。もしもカイザルが新しい福音を作って通用させようとするなら、彼に従うべきではない。私たちは「神のものは神に返」さなくてはならない。

 この問題は、疑いもなく非常に難解かつ微妙な問題である。確かに教会が国家を飲み込んではならない。同時に、国家が教会を飲み込んでならないことも確かである。これほど良心的な人々を苦しませてきた点はおそらくないであろう。「どこからがカイザルのもので、どこからが神のものか」という問題の解決ほど、善良な人々が意見を戦わせてきた点はない。一方では、政治権力がしばしば良心の自由をすさまじく侵害してきた。それはスチュアート朝の不幸な時代に、英国の清教徒たちが艱難辛苦とともに見いだした事実である。他方、霊的権力はしばしばカイザルの手から王笏をもぎとるほどに、途方もない要求を押し広げてきた。たとえばローマ教会が私たち英国のジョン王を蹂躙した時がそうである。この種の問題に正しい判断をくだすため、すべての真のキリスト者は常に「上からの知恵」を求めて祈るべきである。純粋な思いをもち、日々恵みと実際的な常識を願い求める人は、決して手ひどい過ちに陥ることはないであろう。


HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

第22章23―33 復活に関するサドカイ人らの質問

 この箇所には、私たちの主とサドカイ人たちとの会話が記されている。「復活はない」と云っていたこの不幸な人々は、パリサイ人やヘロデ党の者たちのように、主を難問で困らせようとした。先の人々のように彼らは、「イエスをことばのわなにかけよう」とし、民衆の間での評判を落とそうとした。そして先の人々のようにそのもくろみは、完全にくじかれてしまった。

 まず第一に注目したいのは、聖書の真理に対する愚かで懐疑的な反対は古くからあったということである。サドカイ人たちは、復活および来世の教理の愚かしさを示したいと思った。それで彼らは主のもとへ来て、おそらくはそのためにこしらえたような物語を持ち出した。ある女が七人の兄弟と次々に結婚したが彼らはみな死んで子どもを残さなかった。さて来世で全員が復活したとき、この女は「だれの妻」になるのか、と彼らは質問した。この問いの目的は見えすいている。実は彼らは復活の教理をあざけろうとしていたのである。人が死後再び生きるようなことがあるなら、混乱や争いや見苦しい諍いが起こらざるをえないと当てこすろうしたのである。

 聖書の教理に対してこのような反対がなされても、私たちは決して驚いてはならない。それが来世に関する教理であればなおさらである。目に見えない事柄に「首を突っ込み」、想像上の困難を自分の信じられない理由とする「ひねくれ者」は、おそらく決して後を絶たない。仮定の場合は、不信者の心が好んでたてこもりたがる砦の1つである。そのような心はしばしば自分の想像の影法師をこしらえては、まるで実体をもつものであるかのようにそれと戦う。そのような心は、キリスト教を支持する膨大な量の明白な証拠は見ようとせず、自分だけで反論不可能と思い込んでいる単一の難点にしがみつくことが非常に多い。こうした性格の人々による話や議論は私たちの信仰をみじんも揺るがすべきではない。1つには、神によってもたらされた宗教には当然深遠で測り知れない部分があってしかるべきであることを思い起こすべきである。がんぜない子どもが、どれほど偉大な哲学者にも答えられない質問をすることもある。またもう1つのこととして、聖書には取り違えようもなく明白な真理が数限りなくあることを思い起こすべきである。私たちはまずその種の真理に注意を払い、それを信じ、それに従おうではないか。そのようにするとき、今は理解できないこともやがて明らかとなることは疑いない。そのようにするとき、「私たちに今はわからないことが、あとでわかるようになる」のは確実である。

 第二に注目したいのは、来世の現実を証明するものとして、主が何と秀逸な聖句を持ち出されたかである。主がサドカイ人に突きつけたのは神が柴の中からモーセに語りかけたことばであった。「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出3:6)。そして主は解説を加えて云われる。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」。モーセがこの言葉を聞いたときは、アブラハム、イサク、ヤコブが死んで葬られてから多くの年数が経っていた。三人の中で最後のヤコブが墓に入れられてから二世紀も経っていた。にもかかわらず神は、まだ彼らをご自分の民として語り、ご自分ののことをまだ彼らの神として語っておられる。神は「わたしは彼らの神であった」とは云わず、「彼らの神である」と云われた。

 おそらく私たちは、本気で復活や来世を疑うことはあまりないであろう。しかし残念ながら、理論的には真理を信じながら、実際には理解していないということはありがちである。主がここで解き明かしておられる真実を瞑想しておいて損はない。死者はある意味で今も生きている。これは心に刻みつけておこう。彼らは私たちの前からは去り、彼らの居場所は空席となる。しかし神の目には生きており、いつの日か墓からよみがえり、永遠の宣告を受けることになっている。死後の霊魂絶滅などというものはない。死後絶滅説は悲惨な迷妄である。太陽や月、星、岩山、深海などはいつの日か無に帰す。しかし、極貧の中に生まれた、どれほど虚弱な赤子でも、もう1つの世界で永遠に生き続けるのである。願わくは、私たちがこのことを決して忘れないように! ニカヤ信条の言葉を心から唱えられる人は幸いである。「われは、死ねる者の復活と、来たるべき世の生命とを待ち望む」。

 最後に注目したいのは、主が説き明かしておられる復活後の人々の状態である。主は、サドカイ人たちの想像上の反論を黙らせるために、彼らが復活の状態について完全に思い違いをしていることを示しておられる。彼らは、復活の状態も当然地上の人々と同じように粗野で肉的な存在であると思い込んでいた。主は、次の世で私たちは現実の物質的な肉体を持つだろうが、それは今私たちが知っているものとは非常に異なった組成の、また異なった必要を持つ肉体であると教えておられる。主が救われた者のことしか語っておられないことを忘れてならない。主は救われなかった者のことについては一切口をとざしておられる。主は云われる。「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」。

 私たちは来たるべき天国での生活についてほとんど知らない。おそらく私たちが天国についていだく最も明確な概念さえ、それがどのようなものであるかを考えてのことよりは、それがどのようなものでないかによって引き出されたものである。それは、もはや飢えることも、渇くこともない状態である。病、痛み、疾病はもはやない。老いさらばえることも、死ぬこともない。結婚も、誕生も、絶え間ない代替わりも、もはや不要である。一度天国にはいることを許された者は、そこに永遠に住む。しかし、否定描写から肯定描写に移ると、はっきり告げられているのはたった1つである。私たちは「天の御使いたちのよう」になる。彼らのように私たちは、完全に、ためらいも疲れもなく神に仕えることになる。彼らのように私たちは、いつまでも神の御前にいることになる。彼らのように私たちは、常に神のみこころを行なうことを喜ぶ。彼らのように私たちは、すべての栄光を小羊に帰す。これは深遠なことがらであるが、すべて真実である。

 私たちはこの生き方を送る覚悟があるだろうか。その生き方に加わることを許されたなら、それを楽しめるだろうか。神とともに生き、神に奉仕することは、今の私たちにとって快いことだろうか。御使いたちの仕事は私たちが喜びを感じるものだろうか。これらは厳粛な問いである。もし来たるべき世で復活後天国に行くことを望むなら、生きているうちから天にある者のような心でなくてはならない。(コロ3:1-4)


HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

第22章34―46 最も偉大な戒めに関する律法学者の質問、敵たちに対するキリストの質問

 この箇所の冒頭で、主はある律法の専門家の質問に答えておられる。彼は主に「律法の中で、たいせつな戒めはどれですか」と問うた。その問いは、決して友好的な思いから出たものではなかった。しかし私たちは、それが問われたことに感謝してよい。それによって、珠玉の教訓に満ちた主のお答えが引き出されたからである。このようにして悪から善がもたらされるのである。

 ここで注目したいのは、神と隣人に対する私たちの義務を、これらの節が何と見事に要約しているかということである。イエスは云われる。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。そして、「律法と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」とつけ加えておられる。

 この2つの規則の何と単純で、しかしながら何と広大なことか! 何という短さの中に、何と多くがふくまれていることか! 何と謙遜で、何と人を断罪することか! 私たちが、あわれみと貴い贖いの血を日々必要とする者であることを何と見事に証明していることか! これらの規則がよりよく知られ、よりよく実行されるなら、世界にとって何と幸せなことだろうか。

 愛は、真に神に服従するための偉大な秘訣である。私たちが神に対して抱く思いが、子どもたちが愛する父親に対して抱くような思いであるとき、神の意思を行なうことは喜びとなる。神の戒めが重荷となることはなく、鞭を恐れる奴隷のように奉仕することもない。神の律法を守ろうとすることは喜びとなり、違反を犯すことは悲しみとなる。愛のため働く者ほど立派な働きをする者はない。罰への恐れ、報酬目当ての欲望、これらははるかに劣る動機である。心から行なう者こそ、最もよく神のみこころを行なうのである。子どもたちを正しくしつけたければ、彼らには神を愛することを教えようではないか。

 愛は、同胞に対して正しい態度をとるための偉大な秘訣である。隣人を愛する人は、他人の体や財産や人格に対し、故意に害を加えることを潔しとはしないであろう。それどころか、あらゆることにおいて他人に善をなそうと切望するであろう。あらゆることにおいて他人の慰めと幸福を増進しようと苦慮するであろう。他人の悲しみに耳を傾け、他人の喜びを増やそうと努めるであろう。私たちは自分を愛してくれる人には信頼感をいだく。その人は決して故意に自分に害を加えたりせず、どんな窮地に陥ったときも友となってくれることを知っている。子どもたちを同胞に対して正しいふるまいをする人にしつけたければ、「どのような人をも、自分自身のように愛すること、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにする」ことを教えよう。

 しかし、どのようにすればこの神に対する愛を身につけることができるのか。これは決して生得の感情ではない。私たちは「罪の中に生まれ」、罪人として神を恐れる者である。ならばどうして神を愛することができようか。神を愛せるようになるには、キリストによって神との平和を得る以外にない。自分の罪が赦され、自分が聖なる自分の創造主と和解したと感じるとき、初めて私たちは神を愛し、子としてくださる御霊を受けるのである。キリストへの信仰こそは、神への愛を生じさせる真の泉である。多く赦されたと感じる者こそ、多く愛する者である。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(Iヨハ4:19)。

 では、どのようにすればこの同胞に対する愛を身につけることができるのか。これもまた生得の感情ではない。私たちは利己的な者として生まれ、憎まれ者であり、互いに憎み合う者であった(テト3:3)。自分の同胞を正しく愛するようになるには、心が聖霊によって変えられる以外にない。私たちは新しく生まれなくてはならない。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着、キリスト・イエスにある心を受けなくてはならない。そのとき初めて私たちの冷たい心は真に神のごとき万人に対する愛を知ることができるのである。「御霊の実は、愛……です」(ガラ5:22)。

 これらのことを心に深く刻んでおこう。この終わりの時代には、「愛」や「博愛」に関する、あやふやな意見が至るところで聞かれる。人々は愛や博愛を尊重すると云い、それらが増し加わることを願うと告白しながら、それらを生み出しうる唯一の原理を憎んでいる。私たちは昔ながらの道に立ち続けようではないか。根がなければ花も実もあるはずがない。キリストへの信仰と悔い改めもなしに、神と人への愛が生ずるはずがない。世に真の愛を広める道は、キリストの贖いを説き、聖霊のみわざを教えることである。

 この箇所の結論の部分には、パリサイ人らが主から問いかけられた質問が記されている。敵の数々の問いに対し、完璧な知恵で答えて来られた後で主はついに彼らに、「あなたがたは、キリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか」と問うておられる。即座に彼らは答えて云った。「ダビデの子です」。そこで主は彼らに、なぜダビデは詩篇でキリストを主と呼んでいるのか(詩110:1)と問われた。「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう」。即座に主の敵らは沈黙させられてしまった。「だれもイエスに一言も答えることができなかった」。疑いもなく律法学者やパリサイ人らにとって主が引用された詩篇はなじみ深いものだったに違いない。しかし彼らはその適用を説明することができなかった。それを説明するには、いやでもメシヤの先在性と神性を認めるしかなかった。これはパリサイ人たちの譲れない点であった。彼らのメシヤ観は、メシヤが自分たちと同じような人間であるというものでしかなかった。聖書の専門家であると自負していた彼らの聖書に関する無知、またメシヤの真の性質に関する彼らの低級で肉的な観念は、ここに一挙に暴露された。いみじくも聖霊によってマタイは云う。「その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった」。

 これらの節を離れる前に、主の厳粛な問いを自分自身に実際的に適用しておきたい。「あなたがたは、キリストについてどう思いますか」。私たちはキリストのご人格と職務についてどう思っているか。そのご生涯、また私たちのための十字架上での死についてどう思っているか。その復活、昇天、神の右の御座におけるとりなしをどう思っているか。主の恵み深いことを味わい知っているか。信仰によって主を自分のものとしているか。主が自分の魂にとって尊い方であることを体験しているか。「主はわが贖い主にして救い主、わが羊飼いにしてわが友」と真実云えるか。

 これらは真剣な問いである。願わくは、私たちがこれらに満足な答えを出せるようになるまで、決して安んずることのないように! どれほどキリストについて読んでも、生きた信仰によって彼に結び合わされていなければ何の役にも立たない。もう一度私たちは自分の信仰をためそうではないか。「私たちは、キリストについて、どう思いますか」というこの問いによって。

HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT