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第21章1―11 キリストのエルサレム入城

 これらの節にふくまれているのは、私たちの主イエス・キリストの生涯の中でも、特に注目すべき箇所である。ここには、主が公にエルサレムへ入場されたようすが物語られている。これが主の最後のエルサレム入りであり、そのエルサレムで主は十字架にかかられたのである。

 主の生涯のこの出来事には特に驚くべきものがある。これはまるで、外征してきた国王が勝利をおさめて自らの都に戻ってきたかのようである。「群衆のうち大ぜいの者が」、あたかも凱旋行列であるかのようにつき従っている。主のまわりで大きな叫びと賛美が聞かれる。「都中がこぞって騒ぎ立」っている。これらすべては、これまでの主の行ないとは際立って異なっている。これは「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もな」かったお方にはまれな、らしからぬふるまいである。時には群衆から身を引き、時にはおいやしになった者たちにも、「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい」(マコ1:44)と云われたお方らしかぬ行動である。しかし、このすべてには説明をつけることができる。この公然たる入場の理由は難なく見つかることである。それが何か見ていこう。

 簡単に云えば、主はご自分の地上の働きが終わりに近づいていることをよくご存じだったのである。主は、ご自分の来られた目的である最大のわざを、十字架の上で私たちの罪のため死ぬことによって完了させるべき時が近づいているのをご存じだった。ご自分の最後の旅が終わり、地上での働きはカルバリでいけにえとしてささげられることしか残っていないことをご存じだった。これらすべてを知って主は、もはや以前のように身を隠すことをお求めにはならなかった。これらすべてを知って主は、ご自分が死に引き渡されるべき場所に、ことさら荘厳に、また公然とおはいりになることをよしとされたのである。カルバリでほふられるべき神の子羊が、人に知られずひっそりとやってくるのは不適切であった。世の罪のための偉大な犠牲がささげられる前に、すべての目がそのいけにえに向けられるべきであった。主の生涯の最後を飾る行ないは、これ以上ない評判をともなってなされるにふさわしかった。それゆえ主はこの公の入場をされたのである。それゆえ主は驚きに満ちた世の目をご自分に引き寄せたのである。それゆえ「エルサレム中がこぞって騒ぎ立」ったのである。神の子羊の贖いの血は、まさに流されようとしていた。この行為は「片隅で起」るべきではなかった(使26:26)。

 これらのことを覚えておくのはよいことである。主の生涯のこの箇所を読む人の多くは、この時の主のふるまいの真の意味を十分に考えることをしない。さて次に、これらの節が示していると思われる実際的な教訓を考えてみよう。

 これらの節で第一に注意したいのは、主イエス・キリストの全知を示す1つの例である。主はふたりの弟子をある村に遣わし、ご自分のお乗りになるろばがそこで見つかると告げておられる。また、ろばの持ち主が発するであろう問いに対する答えを授け、そう答えるなら、ろばが引き渡されると告げておられる。そして、すべては主が告げられた通りに起こっているのである。

 主の目に隠されたものは何1つない。何も主に秘匿することはできない。ひとりきりであれ人前であれ、夜であれ昼であれ、私的な場であれ公の場であれ、主は私たちの道をすべて知っておられる。いちじくの木の下にいたナタナエルを見ておられた主は今も変わらない。私たちがどこに行こうと世からどれほど引きこもろうと、決してキリストのまなざしから逃れることはない。

 これは私たちの魂に歯止めをかけ、聖める効果を及ぼすべき考えである。私たちはみな、世の支配者たちの臨席が臣下に及ぼす影響を知っている。まともな人間なら、王の目の前では、自分の口と態度と行ないを律するものである。主イエス・キリストが私たちの生き方すべてを完全に見通しておられると思えば、それと同じ効果が私たちの心にもたらされるはずである。私たちはキリストに見せたくないようなことは何も行なわず、キリストに聞かせたくないようなことは何も口にしないようにしよう。生活も行動も態度も、絶えずキリストのご臨在を覚えつつなすようにしよう。もし自分がヤコブやヨハネとともにガリラヤの湖畔を主とともに歩んでいたなら、そうふるまったであろうような仕方でふるまうようにしよう。それこそ天国に備えて訓練される道である。天国では「私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(Iテサ4:17)。

 これらの節で第二に注意したいのは、主の最初の来臨に関する預言がどのように成就したかを示す一例である。主の公然たる入城はゼカリヤの言葉の成就であったと語られている。「あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って」。

 この予告が文字通り正確に成就したことは明らかである。聖霊によってこの預言者が語った言葉は、決して比喩的に実現されたのではない。語った通りに、事は起こった。予告した通りに、事はなされた。この予告がされてから五百五十年もの歳月が過ぎ去っていた。しかし、定められた時が来たとき、長い間約束されていたメシヤは、文字通り「ろばの背に乗って」シオンに乗り込まれたのである。疑いもなくエルサレムの住民の大半には、これは何のへんてつもない出来事と思われたに違いない。彼らの顔にはおおいがかかっていたのである。しかし私たちは、その預言の成就に疑いをさしはさむ立場にはいない。ここにはっきりと書かれているからである。「これは、預言者を通して言われたことが成就するために起こったのである」。

 過去起こった神のみことばの成就から、確かに私たちは、未来に起こる成就について何かくみとるよう求められているはずである。私たちはキリストの再臨に関する預言もまた、主の初臨に関する預言と同じく文字通り成就すると期待してよい。初臨において主は、地上に文字通り肉体をともなって来られた。再臨においても主は、地上に文字通り肉体をともなって来られるであろう。かつて主は、苦しみを受けるため文字通り謙卑の姿をとって来られた。再び主は、世を統治するため文字通り栄光のうちに来られるであろう。主の初臨に関する予言はみな文字通り成就した。主がお戻りになる際の予言もまた全く同じであろう。ユダヤ民族の回復、不敬虔な人々と世の不信に対する審判、選民の召集、これらは文字通り実現するであろう。これを忘れないようにしよう。まだ成就していない預言を学ぶには、確固とした解釈の原則をもつことがまず第一に重要である。

 これらの節で最後に注意したいのは、人々の好意がいかにつまらないものかを示す、印象的な実例である。私たちの主のエルサレム入りの際、主に群がり主をあがめた群衆の中には、主が悪人たちの手に引き渡された際、主のそばに立つ者はひとりもいなかった。「ホサナ」と叫んでいた多くの者が、四日後には、「この人を除け。十字架につけろ」と叫んだ。

 しかし、これは人間性の忠実な描写である。これは、神からの称賛よりも人の称賛を重んじる人々の愚かしさを証明している。実際、大衆の人気ほど気まぐれで不確かなものはない。きょうあったかと思うと明日は消え去る。それは砂の土台のようであり、その上に何かを立てようとする者は裏切られる。そのようなものには気をとめないようにしよう。むしろ私たちは、「きのうもきょうも、いつまでも、同じ」であるお方の好意を求めよう(ヘブ13:8)。キリストは決して変わらない。キリストは、愛する者を最後まで愛される。キリストの恩顧は永遠である。


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第21章12―22 キリストによる商人・買人の神殿放逐、実のないいちじくの木

 これらの節には、私たちの主のご生涯の中でも特に注目すべき事件が2つ記されている。それは、どちらも著しく象徴的、予型的なものであった。それぞれが霊的なことがらのしるしであった。それぞれの事件のうわべのかげには、私たちをさとす厳粛な教訓が秘められている。

 私たちが注意すべき最初の出来事は、私たちの主の神殿来訪である。主が見いだされた御父の家は、ユダヤ人の教会全体の一般的状態を、あまりにもまざまざと映し出していた。すべてが無軌道、無秩序であった。主は、その聖なるやしろが世俗の取引によって汚らわしく冒涜されているのを見いだされた。商いや売買がその門囲いの中で堂々と行なわれていた。遠国から来たユダヤ人に、お望みのいけにえを売りつけようと家畜屋が居並んでいた。外国通貨を国内貨幣に交換しようと両替人が軒を並べていた。牛が羊が山羊が鳩が、まるで市場ででもあるかのように買い手を求めて並べられていた。その聖なる宮には、まるで銀行や両替所ででもあるかのように、金のじゃらじゃら鳴る音が聞こえていたであろう。主の目に映ったのは、このような光景であった。主はそのすべてを聖い憤りをもって見られた。主は「売り買いする者たちをみな追い出し」た。主は「両替人の台……を倒された」。抵抗する者はなかった。人は主の正しさを知っていたのである。反対する者はなかった。利得という卑しい目的のため認可されていた周知の悪弊を主が正しておられるにすぎないことを、みな感じていたのである。慌てふためいて神殿を飛び出して行く商人らの耳に、主がイザヤのこの厳粛な言葉を鳴らしたのも当然であった。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。

 私たちはこのときの主のふるまいのうちに、主が再臨のとき行なわれるわざの著しい予型を認めよう。主はここで神殿をきよめられたのと同じように、目に見える教会をきよめられるであろう。主は教会から汚れた者、不正を行なう者をみな取り除き、教会の囲みの中からあらゆる俗的な信仰告白者を叩き出すであろう。主は、やがて世の前に公然と示されるはずのあの栄光の宮の中に、金を礼拝する者、利得を愛する者が一人でも入り込むのを決して許されない。願わくは私たちがみな、その日を日々心待ちにして生きようとする者であるように! 願わくは私たちが自分をさばく者となり、あの魂が探られ、ふるいにかけられる日に断罪され打ち捨てられるようなことのないように! 私たちはこのマラキの言葉をしばしば学ぶべきである。「だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ」(マラ3:2)。

 これらの節で私たちが注意すべき第二の出来事は、実のないいちじくの木に対する主の呪いである。ここには空腹を覚えられた主が、道ばたのいちじくの木に近づいて行かれたとある。しかし「葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に『おまえの実は、もういつまでも、ならないように。』と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた」。これは私たちの主の公生涯の中でも他にほとんど類例を見ないことである。これは主が、霊的真理を教えるために被造物を害された、ほぼ唯一の例である。この枯れたいちじくの木には、心探られる教訓がある。それは、私たちが耳を傾けなくてはならない説教を語っている。

 葉は茂らせながら実を結んでいなかったこのいちじくの木は、主の時代のユダヤ人の教会を示す、際立った象徴であった。ユダヤ人の教会には、外面を飾るあらゆるものがあった。そこには神殿があり、祭司団があり、毎日の礼拝、毎年の祭、旧約聖書、レビ人の勤行、朝な夕なのいけにえがあった。しかし、こうした敬虔そうな葉の蔭で、ユダヤ人教会は全く実りを欠いていた。そこには何の恵みも、信仰も、愛も、へりくだりも、霊性も、真実な聖潔も、メシヤを受け入れる心もなかった(ヨハ1:11)。それゆえユダヤ人教会は、まもなくこのいちじくの木のように枯れ果てるはずであった。すべての虚飾をはぎとられ、民は地の全面に散らされるはずであった。エルサレムは破壊され、神殿は焼き払われ、毎日のいけにえは取り去られるはずであった。木は朽ちて横倒しになるはずであった。そしてそれは実現した。これほど文字通り成就した予型は1つもない。流浪のユダヤ人を見るたびに、私たちは呪われたいちじくの木の枝を見るのである。

 しかし私たちはここで止まることはできない。ここで考察している出来事には、さらに重大な教訓を見ることができる。これらのことが書かれたのは、ユダヤ人のためばかりでなく私たちのためでもある。

 目に見えるキリスト教会につらなる、実のない枝はみな、枯れ果てたいちじくの木となる恐ろしい危険があるのではないか。まぎれもなくそうである。聖さが見られない教会員の間で掲げられた正統的な信条、悔い改めや信仰をないがしろにしていながら会議や主教や典礼や儀式については自信たっぷりな態度、これらは過去多くの目に見える教会を破滅させ、今後も多くを破滅させるものである。かつては威名を誇っていたエペソ、サルデス、カルタゴ、ヒッポの教会はいまどこにあるのか。ことごとく滅び去ってしまった。彼らに葉はあったが、実はなかったのである。主が彼らに呪いを下し、彼らは枯れたいちじくの木となったのである。「この木を切り倒……せ」という宣告が下ったのである(ダニ4:23)。このことを忘れないようにしよう。教会の誇りに警戒しよう。私たちは高ぶらないで、かえって恐れていよう(ロマ11:20)。

 最後に、実を結ばないキリスト教信者はみな、枯れ果てたいちじくの木となる恐ろしい危険があるのではないか。疑いもなくそうである。人が宗教の葉だけで満足している限り、すなわち、生きているとは名ばかりで実は死んでおり、形だけは敬虔そうでありながら力がない限り、その人の魂はすさまじい危険にさらされている。教会や会堂に通っているというだけで、あるいは主の晩餐にあずかり、周囲からキリスト者と呼ばれているというだけで満足し、内実は心が変えられておらず罪が赦されていないとするなら、その人は日ごとに神を憤らせ、容赦なく切り落とされる運命にあるのである。実である。問題は実である。御霊の実こそ、私たちが救われてキリストにつながっており、天国への道をたどっているという唯一の確実な証拠なのである。願わくは私たちがこれを心に銘記して、決して忘れることのないように!


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第21章23―32 権威の根拠を求めるパリサイ人らに対するキリストの答え、ふたりの息子

 これらの節には、私たちの主イエス・キリストと祭司長、長老たちとの問答が記されている。すべての義なるものに対するこの怨敵らは、主のエルサレム入城と宮きよめがどのようなセンセーションを巻き起こしたかを見て取った。そこですぐさま蜂のように主を取り囲み、主を告発する口実を見つけだそうとしたのである。

 まず第一に注目したいのは、真理の敵は何としばしば、自分よりも正しい者に向かって、何の権威があってそうするのかと問いがちかということである。祭司長らは主の教えに対しては何も云っていない。主の生き方や行ないについては何の非難もしていない。彼らがとびついたのは主の権威づけであった。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか」。

 これと同じ非難を、教会の腐敗の進行をくいとめようとした神のしもべらはしばしば浴びてきた。これはこの世の子らがリバイバルや教会改革をやめさせようと、しばしば用いてきたなじみの手口である。これは宗教改革者たちや清教徒たち、前世紀のメソジストらに向かってしばしば降りかざされた武器である。また今日の都市伝道者や平信徒奉仕者めがけてしばしば射られる毒矢である。たとえある人の働きに如実な神の祝福が注がれていても、相手が自分の派や団体から遣わされていない限り、絶対に認めようとしない人があまりにも多い。名もない働き人が神の器とされて、おびただしい数の魂に回心がもたらされたことがわかっていても、彼らには何ほどのことでもない。なおも彼らは、「何の権威によって、これらのことをしているのか」と叫び立てる。その人が成功しているかどうかは関係ない。その人の権威づけが必要なのである。その人が救いをもたらしているかどうかは関係ない。その人のお墨つきが必要なのである。私たちはこのようなことを聞いても驚いたり動揺したりしないようにしよう。これはキリストご自身に対してすら持ち出された、使い古しの非難なのである。「日の下に新しいものは一つもない」(伝1:9)。

 第二に注目したいのは、この問いに対して主が返された答えに見られる至高の知恵である。主の敵たちは、主がなさっておられることについて、主に何の権威があるかと問うていた。彼らは主のお答えを主を非難する口実にしようと手ぐすねひいていたに違いない。主は彼らの問いの裏を知っておられ、こう答えられた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか」。

 私たちは、主のこの答えを決して云いのがれやはぐらかしと思ってはならない。それは重大な間違いである。主の反問は、実は敵の質問に対する1つの答えだったのである。主は、彼らがバプテスマのヨハネを「神から遣わされた人」ではないと否定する勇気のないことを知っておられた。それが認められるなら、主はヨハネがご自分について何と証言していたかを思い出させるだけでよいことを知っておられた。ヨハネは主を「世の罪を取り除く神の小羊」と宣言したのではなかったか。ヨハネは主のことを「聖霊のバプテスマをお授けにな」る、さらに力のある方と呼んだのではなかったか。つまり、主の問いは主の敵たちの良心に対する痛烈な一撃だったのである。もし彼らが、かつてバプテスマのヨハネの使命を神からの権威によるものであると認めたのであれば、主ご自身の権威も神によるものであると認めなくてはならなかった。もしヨハネが天から来たと認めたのであれば、主ご自身がキリストであると認めなくてはならなかった。

 この困難な世にある私たちは、ここで私たちの主が披瀝しておられるのと同じような知恵が授けられるよう祈ろうではないか。疑いもなく私たちは、聖ペテロが命じている通り「私たちのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていな」くてはならない(Iペテ3:15)。私たちの聖なる信仰の原理について質問されたなら、決してひるむべきではないし、いついかなるときも私たちの行動について弁明し説明する用意ができていなくてはならない。しかし、これらすべてにもかかわらず決して忘れてならないのは、「知恵は人を助けて成功させる」ということであり、福音の大義を擁護するには賢く語る努力をすべきだということである。ソロモンの言葉は深い熟考に値する。「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ」(箴26:4)。

 これらの節で最後に注目したいのは、悔い改める者らに対して私たちの主が差し出しておられる大きな励ましである。それを印象的に打ち出しているのが、この「ふたりの息子」のたとえである。彼らはふたりとも、父のぶどう園に行って働いてくれと云われた。ひとりは、不品行な取税人たちのように、はじめはそれをはねつけたが、「あとから」悪かったと思って出かけた。もうひとりは、外面をつくろうパリサイ人たちのように、行きたいようなふりをしながら結局は行かなかった。私たちの主は云われる。「ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう」。主の敵たちすら、「先の者です」<英欽定訳>と答えざるをえなかった。

 私たちの主イエス・キリストの父なる神は、悔い改めた罪人を無限の愛によって受け入れようとしておられる。これを、私たちのキリスト教の根底にある根本原理としよう。人が過去どのような者であったかは問題ではない。彼は悔い改めて、キリストのもとへ来ただろうか。古いものは過ぎ去り、すべては新しくなっている。人がどれほど正統的な信仰を告白するか、それにどれほど満足を感じているかは問題ではない。彼は本当に自分の罪を捨てているだろうか。もしそうでないなら、彼の告白は神の目に忌まわしいものであり、彼自身いまだ呪いのもとにあるのである。もし私たちがこれまで最悪の罪人であったとしたなら、ここに励ましを受けよう。ただ悔い改めてキリストを信じさえするなら、そこには希望がある。私たちは他人が悔い改めるように励まそう。罪人のかしらそのひとにさえ門戸を大きく開け放っていよう。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Iヨハ1:9)。このみことばは決してすたれることはない。


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第21章33―46 よこしまな農夫らのたとえ

 これらの節のたとえは、特にユダヤ人について語られている。ここに述べられたぶどう園の農夫とは、ユダヤ人のことである。彼らの罪が、ここでは絵画的に繰り広げられている。これは疑う余地がない。彼ら自身、主が「自分たちのことをさして話しておられることに気づいた」とある。

 しかし私たちは、このたとえが異邦人には無関係だと安心してはならない。ここにはユダヤ人のみならず私たちへの教訓も記されている。それが何か見ていこう。

 第一にわかるのは、ある国民がいかに著しい特権を神から授けられたかということである。

 神はイスラエルを選んでご自分の特別な民とされた。彼らを他の国民から取り分け、無数の祝福をお授けになった。全地が暗黒の中にあったにもかかわらず、彼らだけは神の啓示が与えられた。全世界が放置されていたにもかかわらず、彼らだけには律法と契約と神の御告げが与えられた。つまり神は、人がある土地を柵で囲い、周りは荒れ果てるままにまかせて、その土地だけを耕すように、ユダヤ人を取り扱われたのである。主のぶどう畑はイスラエルの家である(イザ5:7)。

 私たちもまた特権を与えられていないだろうか。疑いもなく私たちには多くの特権がある。私たちには聖書があり、だれでもそれを読む自由がある。私たちには福音があり、だれでもそれを聞くことが許されている。五百万人の同胞が全く何も知らない霊的あわれみを、私たちは豊かに持っている。英国一貧しい者でさえ、毎朝こう云うことができる。「世間には私よりも貧しい状態にある不滅の魂が五百万もある。一体どういうわけで、私がそのような人々と違っているのであろうか。おおわが魂よ。主をたたえよ」、と。

 次にわかるのは、ある国民が自分の特権をいかにだいなしにしてしまうかということである。

 主がユダヤ人を他の国民から取り分けたとき、主は当然彼らがご自分に仕え、ご自分の律法を守ることを期待された。苦労してぶどう畑を耕す人は、収穫を期待して当然である。しかしイスラエルは、神のすべてのあわれみにふさわしく応えはしなかった。彼らは異邦の民と交わり、そのならわしにならった(詩106:35)。彼らは罪と不信仰のうちにかたくなになり、偶像崇拝にそれ、神の定めを守らなかった。彼らは神の宮をあなどり、神の預言者のことばを聞こうとせず、悔い改めさせようとして神が遣わした者らを手ひどく扱った。そしてついには、その邪悪さの極致として、神の御子ご自身、すなわち主キリストを殺すに至ったのである。

 しかし、私たち自身は与えられた特権をどう用いているだろうか。まことにこれは重大な問い、考えさせられるべき問いである。残念ながら、国民としての私たちは与えられた光にふさわしく生きていないのではないか。与えられた多くの恵みにふさわしく歩んでいないのではないか。世の何百万もの同胞が、全く神もないかのように生きていることを、私たちは恥とともに告白しなくてはならないのではないか。多くの町々、多くの村々にはキリストの弟子がほとんどなく、聖書を信じる者がほとんどいないように見えることを、私たちは認めなくてはならないのではないか。こうした事実に目を閉ざすことはできない。主が、英国にあるご自分のぶどう畑から受け取っておられる実りは、本来予想される量にくらべると、なさけないほど少ない。私たちはユダヤ人と同じくらい主を憤らせていないか、まことに疑わしいというべきであろう。

 次にわかるのは、与えられた特権をないがしろにする国民や教会に対して、神は何と恐ろしい清算を求めることがあるかということである。

 ユダヤ人に対する神の寛容も、やがて尽きるときが来た。主の死後四十年を経て、ついにユダヤ人の不義の杯は満ち、彼らはその多くの罪について重い懲らしめを受けた。聖都エルサレムは破壊され、神殿は焼かれ、彼ら自身、地の全面に散らされた。「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます」。

 同じことが私たちにも起こるだろうか。神の審判は、これほど多くの恵みにもかかわらず実を結ばないという理由で、英国の上にも下るだろうか。だれにそれがわかろう。かの預言者とともに私たちは、「神、主よ。あなたがご存じです」と叫ぶべきであろう。わかるのはただ、過去千八百年の間、審判は多くの国々と教会の上に下っているということである。神の国はアフリカの諸教会から取り去られ、イスラム勢力がほとんどの東方教会を圧倒した。いずれにせよ、すべての英国人信者は、祖国のためにとりなしの祈りをささげるべきである。特権をないがしろにすることほど神を怒らせることはない。私たちには多くが与えられている。したがって、多くが求められるであろう。

 最後にわかるのは、悪人のうちにも働く良心の力である。

 祭司長や長老たちは、最後には主のたとえ話が特に自分たち自身のことをさしていたことに気づいた。主の最後のことばの鋭さを聞き落とすことはできなかった。彼らは主が「自分たちをさして話しておられることに気づいた」。

 いかなる教会にも、福音を聞く聴衆の中には、こうした不幸な人々と全く同じ状態にある多くの人々がいる。彼らは毎週聞いていることが全く真実であると知っている。自分が間違っていること、あらゆる説教が自分を罪に定めるものであることを知っている。しかし彼らにはそれを認める意志も勇気もない。自分の過去の過ちを告白し、十字架を負ってキリストに従うには高慢すぎるか、世を愛しすぎているのである。私たちはみな、この恐るべき心の状態を警戒しよう。最後の審判の日には、説教者の思いもよらぬほど多くの人々の中で、良心の葛藤が起こっていたことが明らかになるであろう。おびただしい数の人々が、この祭司長たちのように、自分自身の良心によって断罪され、にもかかわらず回心せずに死んだことが明らかにされるであろう。

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