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第20章1―16 ぶどう園の労働者のたとえ

 これらの節にふくまれているたとえ話には、否定しがたい困難さがともなっている。それを正しく説き明かす鍵は、直前の章をしめくくった箇所のうちに探し求めなくてはならない。そこでは使徒ペテロが私たちの主に驚くべき問いを発していた。「私たちは、何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか」。そこではイエスが驚くべき答えを与えておられた。主は特にペテロと弟子の仲間に対して約束をしておられた。「あなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです」。また主はご自分のため損失をこうむるすべての人々に対して一般的な約束をしておられた。「その百倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます」*。

 さて私たちはペテロがユダヤ人であったことを念頭に置かなくてはならない。ほとんどのユダヤ人と同じく、彼もまた異邦人の救いに関する神のご計画については無知なまま育ったはずである。実際、使徒行伝を見ると、その無知を除き去るには天からの幻を要したことがわかる(使徒10:28)。さらに私たちは、ペテロと弟子の仲間の信仰と知識が弱く乏しいものであったことを念頭に置かなくてはならない。彼らはキリストのために払った自分の代償を過大評価しがちであったろうし、独善とうぬぼれに陥りやすかったはずである。この2つを2つとも私たちの主はよく知っておられた。それゆえ主は、ペテロと彼の仲間にとって特に益となるようにこのたとえ話を語られたのである。主は彼らの心を読んでおられた。どのような霊的治療が彼らの心に必要であるかを見て取った主は、時をおかずにそれを施された。一言で云うと、主は彼らに芽生えつつあった高慢を抑え、彼らにへりくだりを教えられたのである。

 このたとえ話を解き明かすにあたり、「デナリ」や「市場」や「監督」や「時」の意味にはさほどこだわる必要はない。そのようなことに拘泥すれば、しばしば下らぬ議論で分別を曇らされるものである。いみじくも、ある偉大な神学者はこう云っている。「たとえ話の神学は理屈ではない」。クリュソストモスの指示は注目に値する。「たとえ話で語られたすべての事柄を、好奇心にかられて一字一句までつきとめようとするのは間違いである。物語の目的がわかったなら、それをつかんでよしとし、それ以上かかずらうべきではない」。このたとえ話には、一通り眺めただけで、2つの大きな教訓がはっきり示されているように見える。その2つが、大体このたとえの意図する目的にあてはまるようである。私たちは、その2つだけで満足することとしよう。

 まず第一に学ぶのは、国々をまことの神知識へと召すにあたって、神は自由で主権的な無条件の恵みを行使されたということである。神は、ご自分の時に、ご自分のやり方にのっとって、地の諸族を目に見える教会へと召し出されるのである。

 この真理は神が世界を取り扱ってこられた歴史の中に驚くべき仕方で示されている。まず「日の」明けそめるころに、イスラエル人が神の民となるために召され選び出される。後の時代、使徒たちの説教によって異邦人の一部が召される。現代では、宣教師たちの労によって他の者らが召されつつある。その他の者らは、何千万もの中国人やインド人のように、「だれも雇ってくれないため、何もしないで立っている」。これらすべての理由は何か。私たちにはわからない。わかるのはただ、神は世々の教会から高慢をはぎとり、誇る機会をことごとく取り去ることをよみされるということである。神はご自分の教会の古くからの枝が若い枝を見下すことを決してお許しにはならない。神の福音が現代の異教徒たちに差し出しているのは、キリストによる罪の赦しと神との平和であり、それは聖パウロに与えられた救いに何ら劣りはしない。ティンナバレーやニュージーランドに住む回心者は、三千五百年前に死んだ至聖の族長に何ら引けをとることなく天国にはいることを認められる。ユダヤ人と異邦人を隔てていた古の壁は取り除かれている。信仰を持つ異教徒が、信仰を持つイスラエル人と「共同の相続人となり、ともに同じ望みにあずかる者となる」ことを妨げるものは何もない。歴史の「五時ごろ」に回心した異邦人も、ユダヤ人と同じように真実に現実に栄光を受け継ぐ者となる。彼らが天の御国において、アブラハム、イサク、ヤコブと席につくとき、御国の子らの多くは永遠に追い出されているであろう。まことに「先の者があとになり、あとの者が先になる」。

 私たちが第二に学ぶのは、国々の召しと同じく個人の救いにおいても、神は主権者としてふるまわれ、ご自分の行為の説明はなさらないということである。「わたしはわたしのあわれむ者をあわれ」む(ロマ9:15)。

 これは、私たちがキリスト教会の至る所で現に見聞きしている、まぎれもない真理である。ある人は、テモテのように若年のころ悔い改めと信仰に召され、主のぶどう園で40年、50年と働き続けているかと思えば、ある人は、あの十字架上の強盗のように人生の「五時ごろ」に召され、火の中の燃えさしのように取り出される。きのうはかたくなに悔い改めを拒む罪人であったかと思うと、きょうはパラダイスにいるのである。しかしながら、福音の示すあらゆる基調からして、私たちはその両者とも神の前にはひとしく赦されていると考えざるをえない。両者とも、ひとしくキリストの血によって洗われ、キリストの義を着せられている。両者とも、ひとしく義と認められ、ひとしく受け入れられ、最後の日にはひとしくキリストの右手に見いだされるのである。

 疑いもなくこの教理は、無知で未熟なキリスト者にとっては奇異に聞こえるに違いない。これは人間性の高慢を打ちくじく。自分の義を立てようとする者に何の誇る余地も残さない。これは人を同一水準にし、へりくだらせる教理であり、多くの人をぶつぶつ云わせる。しかし全聖書を排除するのでない限り、この教えを排除することはできない。キリストに対して真の信仰を持つ人は、たとえ信じて一日しかたっていなくても、キリストに従って50年間歩んできた人に劣らず完全に神の前で義と認められている。最後の審判の日にテモテがまとっている義は、十字架上で悔い改めた強盗の義と何ら変わるところがないであろう。ふたりとも、ただ恵みによってのみ救われるであろう。ふたりとも、キリストにすべてを負うであろう。私たちはこれを好まないかもしれない。しかし、それがこのたとえ話の教えであり、このたとえ話のみならず新約聖書全体の教えなのである。へりくだりをもってこの教えを受け入れることのできる者こそ幸いである!

 いみじくもホール主教は云う。「神の慈愛の深さを大いならしめることができる限り、だれにも文句を云う筋合いはない」。

 このたとえ話を離れる前に、必要と思われる注意をいくつか頭に入れておこう。聖書の中でも、これはしばしば歪曲され、誤り適用されてきた部分である。人がこの箇所から引き出してきたものは、しばしば乳であるよりも毒であった。

 このたとえ話のいかなる部分からも私たちは、いかなる程度においてであれ、救いが行ないによって得られるなどと考えたりしないように注意しよう。そのように考えることは聖書のあらゆる教えを転倒させることである。来たるべき世で信仰者が受け取るものはものはみな、正当な報酬などではなく、ことごとく恵みによる施しである。神はいかなる意味においても決して私たちに借りがあるのではない。すべてをなしおえたとしても、私たちは役に立たないしもべである(ルカ17:10)。

 このたとえ話から私たちは、ユダヤ人と異邦人の区別が福音によって完全に取り払われたなどと考えたりしないように注意しよう。そのように考えるのは、旧約新約の双方に記された、あからさまな預言の多くに矛盾することである。義と認められることにおいては、信仰を持つユダヤ人と信仰を持つ異邦人の間には何の区別もない。しかし民族としての特権においては、イスラエルは今なお特別な民であり、「国々の中に数えられてはいない」。神がユダヤ人に対して持っておられる目的には、まだ成就しなくてはならないものが多くある。

 このたとえ話から私たちは、救われた魂がみな同じ程度の栄光を受けるなどと考えたりしないように注意しよう。そのように考えるのは、聖書のあからさまな聖句の多くに矛盾することである。すべての信仰者の資格は疑いもなく同じキリストの義である。しかし全員が天国で同じ立場に立つわけではない。「それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです」(Iコリ3:8)。

 最後にこのたとえ話から私たちは、人生の終わり近くまで悔い改めを引き延ばしても大丈夫だなどと考えたりしないように注意しよう。そのように考えるのは、危険きわまりない欺瞞である。人は、キリストの声に従うのを拒むことが長ければ長いほど、救われる見込みが少なくなる。「今は恵みの時、今は救いの日です」(IIコリ6:2)。死の床で救われた者はほとんどいない。ひとりの強盗が十字架の上で救われたのは、だれも絶望しないためである。しかし、それがただひとりであったのは、だれもつけ上がることのないためである。「五時ごろ」という言葉に偽りの安心を感じて、おびただしい数の魂が滅びへの道をたどったことを忘れてはならない。


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第20章17―23 来たるべき死に関するキリストの宣言、真実な弟子にも混在する無知と信仰

 これらの節の中で第一に注意すべきは、主イエス・キリストが間近にせまるご自分の死についてなされた明確な宣言である。主が弟子たちにこの驚愕すべき真理を教えられるのは三度目である。主は彼らにご自分、すなわち驚異の奇蹟をふるう彼らの師が、まもなく苦しみを受けて、死ななくてはならないと告げておられる。

 主イエスは初めから、ご自分の前に待ち受けるものを知っておられた。イスカリオテのユダの裏切り、不正な審理、ポンテオ・ピラトへの引き渡し、嘲弄、鞭打ち、いばらの冠、十字架、ふたりの悪人の間での磔刑、釘打ち、槍刺し---そのすべてがすべて、主のみ思いの前では開かれた絵巻のように明らかであった。

 何か恐ろしい外科手術を前にしている人ならよくわかると思うが、ことをあらかじめ知らされることほど苦悩を増し加えるものはない! しかし、これらのうち1つとして私たちの主を揺るがしはしなかった。主は云われる。「私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」(イザ50:5、6)。主はその一生を通じて遠くカルバリを見ておられたにもかかわらず、右にも左にもそれず、そこへ向けて穏やかに歩を進められた。確かに主の悲しみにせまるほどの悲しみはなく、主の愛ほどの愛はなかった。

 主イエスは自発的に苦しみを受けられた。主が十字架で死なれたのは、それを避ける力がなかったからではない。主は意図的に、故意に、自由意志によって苦しみを受けた(ヨハ10:18)。主は、ご自分の血を流すことなくして、人間の罪の赦しがありえないことを知っておられた。ご自分が世の罪を取り除くため死ななくてはならない神の子羊であることを知っておられた。ご自分の死が、咎を贖うためささげられなくてはならない、定めのいけにえであることを知っておられた。これらをすべて知った上で、主は進んで十字架へ向かわれたのである。主は、ご自分が世に来られた目的であるこの大事業を完遂することに一心にとりくんでおられた。すべてがご自分の死にかかっていることをよくご存じであった。その死がなくては、ご自分の奇蹟も説教も、世にとってほとんど何にもならないであろうことをよくご存じであった。主が三度、弟子たちの注意を、ご自分が「死ななくてはならない」ことに向けられたのも不思議ではない。キリストの苦しみの意味とその重要さを知る者こそ、祝された幸いな人である!

 これらの節の中で次に注意すべきは、どれほど真実なキリスト者にも、無知と信仰が入り混じっていることがありうるということである。ここではヤコブとヨハネの母が、子らを連れて主のもとへ来て、わが子のため異様な願いをしている。彼女が求めたのは、彼らが「あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように」なることであった。彼女は、たった今主がご自分の受ける苦しみについて述べたことをきれいさっぱり忘れてしまったと見える。熱望する彼女には、主の受ける栄光しか考えられなかった。十字架に関する主のはっきりとした警告は、彼女の息子らに関するかぎり、まるでむだであったように思われる。彼らの思いは、主の王座と、主が権威をまとう日のことだけであった。彼らの求めには相当の信仰も見られるが、それにもまして相当の弱さが見られる。確かにナザレのイエスを来たるべき王とさとりえたのは立派だが、その王が統治し始める前に十字架につけられなくてはならないことを忘れていたのはひどい誤りである。まことに神の子らのうちで「肉の願うことが御霊に逆ら」うのは避けられない。いみじくもルターは云う。「肉は十字架につけられずして栄化されることを常に求める」。

 世の中には、この婦人とその子らに非常によく似たキリスト者が大勢いる。彼らは神のことがらの一部は理解し、一部はよく知っている。キリストに従うだけの信仰はある。罪を憎み、この世から出て行くだけの知識はある。にもかかわらず彼らは、多くのキリスト教真理について悲しいほど無知なままである。彼らは無知なまま語り、無知なまま行動し、多くの悲しむべき過ちを犯す。その聖書知識は断片的なものにすぎない。自らの心を知ることは極度に乏しい。しかし私たちはこれらの節から、そのような人をも優しく取り扱うことを学ばなくてはならない。主は彼らを受け入れておられるからである。彼らが無知であるからといって、恵みも神への信仰もない者とみなしてはならない。たとえ心のおもてにごみの山が積み上げられていても、その底に真の信仰が埋もれていることもありうることを忘れてはならない。一時はこれほど不完全な知識しかなかったゼベダイの子らが、後にはキリスト教会の柱となったことを思い起こさなくてはならない。それと同じように、信仰生活をひどい暗黒のうちに歩みはじめた信者も、最後には聖書に通暁した、ヤコブとヨハネの衣鉢を立派に継ぐ人となるかもしれない。

 これらの節の中で最後に注意すべきは、ゼベダイの子らの母と二人の息子の無知な願いに対して主が与えておられる厳粛な叱責である。主は云われる。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです」。彼らは師の報酬にあずかりたいと願ったが、まず師の苦しみにあずからなくてはならないことを考えもしなかった(Iペテ4:13)。キリストとともに栄光に包まれたいと願うなら、キリストの杯を飲み、キリストのバプテスマを受けなくてはならないことを彼らは忘れていた。十字架を負う者だけが栄冠を受けることがわかっていなかった。主のことばはもっともである。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです」。

 しかし私たちは、ゼベダイの子らと同じ過ちを犯していないと云いきれるだろうか。彼らと同じ誤りに陥っていないと云いきれるだろうか。愚かしい軽率な願いをしていないと云いきれるだろうか。私たちは「費用を計算しない」で祈ったり、どれほどの犠牲が伴うかも考えず何かを与えてくださいと求めることがしばしばあるのではないか。これらは心を探られる問いである。残念ながら、これらの問いに満足な答えを出せる者は多くないように思われる。

 私たちは、魂を救い、死後天国へ行かせてくださいと願う。確かにそれは良い願いである。しかし私たちは十字架を負い、キリストに従っていく心備えがあるだろうか。キリストとひきかえにこの世を捨てるつもりがあるだろうか。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る覚悟があるだろうか。賞を受けることができるように戦い、労苦し、走る覚悟があるだろうか。世のあざけりに立ち向かい、キリストのための艱難を忍ぶ覚悟があるだろうか。これに何と答えるか。その覚悟がないなら、主は私たちにも云われるであろう。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです」。

 私たちは、聖く罪なき者としてくださいと神に願う。確かにそれは良い願いである。しかし私たちは、私たちを聖くするため、神がその知恵により私たちにくぐり抜けさせようとするかもしれないどんな道をも踏み越える覚悟があるだろうか。患難によってきよめられ、愛する者の死別によって乳離れし、損失と病と悲しみによって神に近づけられる備えができているだろうか。おお、これらは厳しい問いである! しかし、もしその覚悟がないなら、主は私たちに云われるであろう。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです」。

 この節を離れるにあたり、今後祈りにおいて神に近づく際には自分のしようとしていることをよく考えるよう厳粛に決意しよう。軽率、無思慮、性急な願いをしないようにしよう。いみじくもソロモンは云う。「神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな」(伝道5:2)。


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第20章24―28 キリスト者間における偉大さの基準

 これらの節は短い箇所ではあるが、信仰を告白するすべてのキリスト者にとって非常に重要な教訓をふくんでいる。それが何か見ていこう。

 まず第一に学ぶのは、キリストの真の弟子たちの間にも、高慢、嫉妬、出世欲がありうるということである。聖書は何と述べているだろうか。「このこと」すなわちヤコブとヨハネの願い「を聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた」。

 高慢は最も古くからある、最も有害な罪の1つである。高慢によって、一部の御使いたちは堕落した。彼らは「自分の領域を守ら」なかったのである(ユダ6)。高慢によってアダムとエバは誘惑され、禁断の木の実を食べることになった。彼らは自分たちの分際に飽き足らず、「神のようになり」たいと願ったのである。高慢によって神の聖徒たちは、回心後最大の害を受ける。そこでフッカーは云う。「高慢は人の心に堅くこびりついた悪徳であり、ありとあらゆる欠点を1つずつ取り除いていったとしても最後の最後まで残っており、それを除くことほど困難なことはまずまれである」。ホール主教の奇抜な、しかし真実な云い回しによれば、「高慢は肌着と同じで、私たちが最後に脱ぎ捨て、最初に身につけるものである」。

 第二に学ぶのは、自分を否定して他に親切にする生き方こそキリストの御国で偉大な者となる真の秘訣だということである。聖書は何と述べているだろうか。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい」。

 この世の基準と主イエス・キリストの基準は大きく異なっている。異なっているどころか、まるで正反対である。世の子らの間で最も偉いとされるのは、最も広い土地、最も多くの富、最も多くのしもべ、最も高い地位、最も強い権力を持つ者である。神の子らの間で最も偉大な者とされるのは、自分の同胞の霊的、物質的幸福を高めるため最も多くを行なう人である。真の偉大さは受けることにではなく、与えることにある。良いものを利己的にかき集めることにではなく、他に分け与えることにある。仕えられることにではなく、仕えること、あぐらをかいて、ちやほやされることにではなく、腰軽く他の人の世話を焼くことにある。神の御使いらは、宣教師の働きの方を、オーストラリアの金鉱夫の働きよりはるかに美しいものと見ている。彼らにとってはハワードやジャドソンのような人々の労苦の方が、将軍らの戦勝や、政治家や閣僚らの演説などより、はるかに興味深いものである。これらのことを忘れないようにしよう。偽りの偉大さを追い求めることのないよう警戒しよう。唯一まことの偉大さを追い求めよう。主のこのことばには深遠な知恵が豊かに秘められている。「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20:35)。

 第三に学ぶのは、主イエス・キリストはすべての真のキリスト者の模範とされているということである。聖書は何と述べているだろうか。私たちが互いに仕えあうのは、「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためで……あるのと同じです」。

 主なる神は、そのあわれみによって、ご自分の民が聖くされるため必要なものをすべて備えておられる。聖潔を追求する者らにはこれ以上ないほど明確な教え、これ以上ないほど高い動機、これ以上ないほど力強い励ましに満ちた約束を与えておられる。しかし、それだけではない。神はさらに彼らのために、最も完璧な模範、すなわちご自分の御子の生涯という実例を備えておられる。その生涯にならって自分の人生を形づくるよう命じておられる。その足跡に従って歩むよう命じておられる(Iペテ2:21)。これこそ私たちが自分の気質、言葉、手のわざをかたどるようつとめなくてはならない原型である。「私の主はこのような話し方をするだろうか。私の主はこのようなふるまいをするだろうか」。これこそ私たちが日々自分をためすべき問いである。

 これは何と私たちをへりくだらせる真理であろう! 何と私たちの心を探る真理であろう! これは何と声高に「いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨て」(ヘブル12:1)るよう呼ばわっていることだろう! キリストをみならうと公言する者は、どのような者であるべきであろう! 聖くない汚れた生き方をしながら、軽薄な口先だけの告白で自己満足するとは、何と貧しく無益な信仰であろう! 悲しいかな、模範としてのキリストを全く認めない者は、やがてキリストからご自分の救われた民とは全く認められないことを知るであろう。「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」(Iヨハ2:6)。

 最後に、キリストの死が罪のための贖いであることを学ぼう。聖書は何と述べているだろうか。「人の子が来たのは、多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである」。

 これは聖書中、最大の真理である。これを堅く握り、決して手放さないよう注意しよう。主イエス・キリストは単に殉教者として死んだのでも、自己犠牲と自己否定の完全な模範として死んだのでもない。主の死のうちにそれしか見えない者は、真理のかけらもつかんでいないのである。キリスト教の礎石そのものを見落し、福音の慰めをすべて取りのがしているのである。キリストが死なれたのは、人の罪のためのいけにえとしてである。その死は人の不義のための和解を生み出すためであった。ご自分をささげることによって私たちの罪を取り除くためであった。私たちが当然受けるに値する呪いから私たちを贖い出し、神の義を満足させるためであった。さもなければ神の義は私たちを断罪せずにはすまなかった。それを決して忘れないようにしよう!

 私たちはみな生まれながらに負債者である。私たちは聖なる造り主に数多くの才能を負っており、その借りを返すことはできない。私たちには自分のそむきの罪が贖えない。私たちは弱くもろく、日々負い目を増し加えるしかない。しかし神はほむべきかな、私たちにできなかったことをなすためキリストは世にくだられた。私たちに払えなかったものを支払うことをキリストは引き受けられた。それを支払うため、キリストは私たちにかわって十字架の上で死なれた。「キリストが……ご自身を……神におささげになった」(ヘブル9:14)。「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々のための身代わりになったのです。それは……私たちを神のみもとに導くためでした」(Iペテ3:18)。もう一度云う。このことを決して忘れないようにしよう!

 これらの節を離れる前に自問してみよう。私たちのへりくだりはどこにあるのか。真の偉大さを私たちはどう考えているか。私たちの模範は何か。望みは何か。これらの問いにどのような答えを出すかにいのちが、永遠のいのちがかかっている。幸いなのは、真にへりくだって、いのちのあるうちに善をなそうとつとめ、イエスの足跡にしたがって歩み、キリストの血で支払われた自分の代価にすべての希望をかけている人である。そのような人こそ真のキリスト者である!


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第20章29―34 ふたりの盲人のいやし

 これらの節には、ある感動的な出来事が記されている。主は、エリコの近くの道ばたにすわっていたふたりの盲人をいやしておられる。この事件の状況には、信仰を告白するキリスト者全員が覚えておく価値がある、興味深い教訓がいくつかふくまれている。

 まず第一に私たちは、時として思いもよらぬ所に何と強い信仰が見いだされるかに注意しよう。このふたりの人は盲目であるにもかかわらず、イエスが彼らを助けることができると信じた。彼らはイエスの奇蹟を1つも見たことがなかった。彼らは主の顔も知らず、ただ人の噂に聞いていたにすぎなかった。それにもかかわらず彼らは、主が通られると聞くやいなや「叫んで言った。『主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ』」。

 このような信仰の前で私たちは恥じ入るべきである。あらゆる証拠の本、聖徒の伝記、神学書の山にもかかわらず、少しでも子どものように単純にキリストのあわれみと御力に信頼する者の何と少ないことか。信者ですらその信仰の高さは、与えられた特権にくらべて異様に不釣合いなことが多い。聖書をろくに読めもしない無学な人の多くが、自分を弁護してくださるキリストに全幅の信頼を置いているのに、博覧強記の神学者らが迷いと疑いにさいなまれているのである。人間的に云えば最初となるべき者らは、しばしば最後となり、最後の者はしばしば最初となる。

 別のこととして私たちは、魂の益のためにはあらゆる機会をつかんで用いることがいかに賢明であるかに注意しよう。この盲人たちは「道ばたにすわっていた」。もしそうしていなければ、彼らは決していやされることがなかったかもしれない。イエスは二度とエリコに戻らなかったから、彼らは二度とイエスに会うことがなかったかもしれない。

 この単純な事実から私たちは、恵みの手段を勤勉に用いることの大切さを認めよう。私たちは決して神の家に集うことをないがしろにしたり、神の民の集会から離れたり、聖書を読むのをおこたったり、密室で祈る習慣を途切れさせたりしないようにしよう。確かに、聖霊の恵みもなしに、こうしたことだけしていても救われはしない。おびただしい数の人々がこうしたことを行ないながらも、罪過と罪の中に死んだままでいる。しかし、まさにこうしたことを行なううちに、魂は回心し救われるのである。こうしたことこそイエスが歩まれる道である。「道ばたにすわっていた」者らこそ、いやされる見込みが多い。私たちは自分の魂の病を知っているだろうか。この名医に診てほしいという願いをいくらかでも感じているだろうか。もしそうなら私たちは、「救われることになっているなら、いやでも救われるさ」などと云って無為に過ごしていてはならない。私たちは立ってイエスがお通りになる道に出て行かなくてはならない。この次にお通りになるときが最後にならないとどうして知れよう。私たちは日々「道ばたにすわって」いよう。

 別のこととして私たちは、キリストを熱心に、また執拗に求めることがいかに大切かに注目しよう。この盲人たちは、主とともにいた群衆から「たしなめ」られた。人々は彼らを「黙らせようと」した。しかし彼らは、そんなことで黙りはしなかった。彼らは自分に助けが必要であることを感じていた。だれがおしとどめようとかまわなかった。「彼らはますます、『主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。』と叫び立てた」。

 彼らの行ないのこの部分は、私たちにとって最も重要な模範である。自分の魂の救いを求めはじめたなら、反対されて思いとどまったり、困難で落胆したりすべきではない。私たちは「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」(ルカ18:1)。あのしつこいやもめや、真夜中にパンを乞い続けた友人のたとえを思い出さなくてはならない。そのように私たちも自分の願いを恵みの御座に持ち出し続け、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と云わなくてはならない(創32:26)。友人、親族、隣人は意地悪を云い、この熱心さをけなすかもしれない。白い目で見られ、助けになる人も同情してくれないかもしれない。しかしそんなことで決して動揺してはならない。自分の病が感じられるなら、魂の名医イエスを見いだしたいと願うなら、また自分の罪をさとり、それを赦してほしいと願うなら、うむことなく願い続けよう。「天の御国は……激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(マタ11:12)。

 最後に私たちは、主イエスがご自分を求める者らに対していかに優しくあられるかに注目しよう。「イエスは立ち止まって、彼らを呼ん」だ。主はこの盲人らに向かって、その願いは何かと優しくおたずねになった。その願いを聞かれ、彼らの求めたことを行なわれた。主は「かわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようにな」った。

 ここには、どれほど心に刻みつけてもたりないあの古い真理、すなわち人の子らに対する主イエスの思いやり深さが、またも示されている。主イエスは単に力ある救い主というだけでなく、私たちの思いをはるかに越えて恵み深く、思いやり深く、優しい方である。パウロが、「人知をはるかに越えたキリストの愛」と述べるのも当然である(エペ3:19)。パウロのように私たちも、その愛をより深く「知る」ことのできるように祈ろうではないか。私たちは、貧しくふるえながら悔い改めた罪人として、恵みのうちにある幼子として、キリスト者生活をはじめたとき、その愛が必要である。またその後、このせまい道をしばしば過ち、しばしばつまずき、しばしばうなだれながらたどるときも、その愛が必要である。人生のたそがれを迎え、「死の陰の谷を歩く」ときも、その愛が必要である。では私たちはそのキリストの愛を堅くにぎり、日々心の中心にすえておこうではないか。次の世で目ざめるときまで、私たちは決してその愛に自分がどれほど多くを負っているかさとることはないであろう。

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