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第19章1―15 離婚に関するキリストの判断、幼子らに対するキリストの優しさ

 これらの節でキリストは、2つの重大な問題についてご自分の意見を明かしておられる。1つは夫婦関係、もう1つは、魂を扱う上で幼児をどのようにみなすべきかという問題である。

 この2つの問題の重要性は、どれほど強く指摘しても足りないであろう。国家の安寧と社会の幸福は、これらの問題を正しく理解することと密接に結びついている。国家とは家庭の集合にほかならない。家庭のしかるべき秩序は、結婚の絆に対する尊重の思いを最高度に高く保つこと、また子女を正しく訓練することに全くかかっている。この2つの点双方について、教会の偉大なかしらがこれほど明確な判断を下しておられることに私たちは感謝すべきである。

 結婚について私たちの主が教えておられるのは、夫婦の結びつきは決して解かれてはならず、許される唯一の例外は、実際行為に及んだ不貞という最悪の理由がある場合に限られるということである。

 私たちの主が地上におられた時代、ユダヤ人の間では、取るに足りない些細な理由が少しでもあれば離婚が許されていた。離婚は、離婚以上の悪---虐待や殺人など---を防ぐためモーセによって許容されてはいたが、しだいに極端に乱用されるようになり、疑いもなく大きな不道徳を生み出す元凶となっていた(マラキ2:14―16)。主の弟子たちの言葉は、この件に関する一般の意見がどれほど低劣なものであったかを浮き彫りにしている。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです」。もちろん彼らの云わんとすることは、「もし、つまらぬ理由でいつでも妻を追い出すことができないなら、全く結婚しないほうがましです」ということであった。このような言葉が使徒たちの口から出ているのを聞くのは実に異様である!

 私たちの主は、ご自分の弟子たちを導くために、それとは大きく異なった基準を明らかにしておられる。まず主は、ご自分の判断の基礎を、結婚制度が始まった原初の定めのうちに置いておられる。主は、人間の創造とアダムとエバの結びつきが語られている創世記冒頭の箇所のことばを引用して、夫と妻の間柄ほど尊重されるべき人間関係はないという証拠としておられる。親子関係は非常に深い関係と思えるかもしれないが、それよりさらに親密な関係があるのである。「人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ……る」。また主はその引用を、ご自分の厳粛なおことばで裏づけておられる。「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」。そして最後に、第七戒を破る者に対する厳重な非難として、些細な理由で離婚してから再婚することを禁じておられる。「だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです」。

 この箇所の調子すべてから明らかなのは、キリスト者は結婚関係をこの上なく尊重しなくてはならないということである。それは楽園において、人間がまだ無垢であったときに制定された関係であり、キリストとその教会との神秘的結合の比喩としてわざわざ選ばれた関係である。死のほか何物によっても断ち切られるべきでない関係である。この関係は、結び合わされた者に対して幸福か悲惨か、また善か悪かの、最大の影響をもたらす関係である。このような関係は、決して無分別に、軽々しく、冗談半分で引き受けるべきではなく、むしろ真剣に、思慮を重ね、熟慮の上で身に負うべきである。多言を要するまでもなく、軽はずみな結婚こそ世に不幸と(あまりにも多くの場合)罪を生み出してきた最大の温床の1つなのである。

 幼児について主は、これらの節でそのおことばと行ない、その訓戒と模範との双方をもって教えておられる。「イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れてこられた」。それは明らかに乳幼児であった。教えを受けるのに幼なすぎるということはあっても、祈りによる祝福を受けるのに幼なすぎるということはない。弟子たちは乳幼児など師の注意には値しないと考えていたらしく、連れてきた者らを叱った。しかし、これは教会の偉大なかしらから厳粛な宣言を引き出すこととなった。「イエスは言われた。『子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです』」。

 この場面における私たちの主のことばと行ないの双方には、非常に興味深いものがある。私たちは、乳幼児の精神と肉体のか弱さ、ひ弱さをよく知っている。世に生まれ出た生き物のうちで、これほどたよりなく、はかないものはない。また私たちは、ここで幼児たちにこのような注意を払われたお方がどなたか知っている。成人相手のその多忙な活動の最中にあえて時間をさき、子らの上に「手を置いて祈って」くださったこの方がどなたかよく知っている。それは永遠の神の御子、偉大な大祭司、王の王、万物をあらしめる方、「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」である(ヘブ1:3)。ここには何と教えに富む光景が繰り広げられていることか! キリスト教会の大部分が昔からこの箇所のうちに、幼児洗礼を支持する間接的な論拠を見いだしてきたのも無理ないことである。

 これらの節から私たちが学ぶのは、主イエスは小さな子どもたちの魂を優しく思いやっておられるということである。おそらくサタンは幼な子をことのほか憎んでいるであろうが、イエスか彼らをことのほか愛しておられることは間違いない。どれほど幼くともイエスの思いと注意に値しないということはない。主の大きなみ心には、玉座の上の王者ばかりでなく、揺りかごの上の赤ん坊もはいる余地がある。主はすべての幼児を、たとえエジプトのピラミッドが朽ち果て、日や月が最後の日に消し去られてもなお滅ぶことのない不朽の原理をその小さなからだのうちに持つ者とみなしておられる。このような箇所がある限り、確かに私たちは幼くして死んだすべての乳幼児は救われると希望してよいであろう。「天の御国はこのような者たちの国なのです」。

 最後に私たちはこれらの節から、大きな期待をもって子どもたちの宗教教育を行なうべき励ましを引き出そう。子どもたちを扱うには、生まれたときから滅びるか救われるかしかない魂を持つ者とみなし、キリストに導く努力をしよう。物心がついたら聖書に親しませ、彼らとともに祈り、彼らのために祈り、彼らにひとりで祈ることを教えよう。そのような努力をイエスは確実に喜んでくださり、祝福してくださる。そのような努力は決してむだにならない。幼年期に蒔かれた種は、しばしば多くの年月を経た後に見いだされる。教会内の幼児たちが、最年長の会員と同じくらい配慮されている教会は幸いである。十字架にかかったお方の祝福は、確かにそのような教会の上にあるであろう。かれは「手を彼らの上に」、小さな子らの上に置き、彼らのために祈られたのである。


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第19章16―22 富める若人

 これらの節は、私たちの主イエス・キリストと、永遠のいのちへの道を求めて主のもとに来たひとりの青年との会話を詳しく扱っている。福音書中の、主と特定の個人との間で交わされたすべての会話と同じく、この会話も特に注意を払うにふさわしいものである。救いは個人的な事柄である。救われたいと願う者はだれでも、自分の魂についてキリストとふたりきりの個人的なやりとりを持たなくてはならない。

 この青年の例から、まず第一にさとらされるのは、人は救われたいという願いを持っていても救われないことがあるということである。ここにいるのは、ちまたに不信仰があふれる時代、自分からキリストのもとにやって来た人物である。彼が来たのは、わが子のいやしを願うためではなく、自分の魂の救いのためであった。彼はのっけから、「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいでしょうか」と率直に問いかけてきた。私たちなら確かにこう思ったであろう。「これは有望だ。ここにいるのは偏見に満ちた役人でもパリサイ人でもない。まじめな求道者だ」、と。しかしながら、そうこうするうちに、その青年は「悲しんで去って」いくのである。彼が回心したことを示すような言葉は一言も記されていないのである!

 私たちは、キリスト教に好意的な感情を抱くだけでは、決して神の恵みを受けていることにはならないということを決して忘れてはならない。私たちは真理を知的に認めるかもしれない。しばしば良心が刺されるのを感じるかもしれない。信心深い思いが呼び覚まされ、自分の魂について思い悩み、多くの涙を流すかもしれない。しかし、これらはみな回心ではない。それは聖霊による純粋な救いのみわざではない。

 不幸にして、この件について語らなくてはならないことがまだある。好意的な感情は、それだけでは恵みでないだけでなく、もしもそのことに自己満足し、感じることに加えて行動に移すことをしないなら、はっきり危険なものとなる。かの道徳問題の権威バトラー主教は、深い含蓄に富む言葉を残している。すなわち、受動的な印象は、繰り返し与えられるうちに力をしだいに失っていく。行為は繰り返しなされているうちに人の心の中に1つの習慣を作り出す。感情は、対応する行動に結びつかないまま何度もひたっていると、最後には何の影響力ももたなくなる、と。

 この教訓を私たちは自分自身の状態にあてはめてみよう。おそらく私たちは、信仰的な恐れや願いや望みを感ずることがどういうものか知っているであろう。そのようなものだけで充足してしまわないよう警戒しよう。心の中に、自分は実際に新しく生まれた者であり、新しく創造された者であるとの御霊の証しを持つまでは、決して満足しないようにしよう。私たちは、自分が本当に悔い改めて、福音によって目の前に置かれた希望を堅くつかんだと知るまで、決して安心しないようにしよう。感情を抱くことはよい。しかし、はるかにまさるのは回心することである。

 この青年の例から、もう1つさとらされるのは、未回心の人はしばしば霊的な事柄について極度に無知であるということである。私たちの主はこの求道者に、永遠の善悪の基準、すなわち道徳律法を指し示しておられる。彼が「すること」についてこれほど大胆に語っているのを見て、主は彼の心の真の状態を引き出すのにうってつけの命令で彼をためしておられる。「もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい」。主は、律法の第二の板を繰り返すことすらしておられる。すると即座にこの青年は、自信たっぷりに答えている。「そのようなことはみな、守っております。何かまだ欠けているのでしょうか」。彼は、神のおきての霊的性格についてこれほど無知なのである。自分が律法を完璧に守り行なっていると信じて疑わないのである。彼は、十戒が行ないのみならず思いや言葉にも適用されるものであること、もし神が彼と論じ合うようなことがあったとしても、「千に一つも答えられまい」(ヨブ9:3)ことに、全く気づいていないように思われる。神の律法の性格について、彼は何と無知であったことか! 神がお求めになる聖さについて、何と低い概念しか抱いていなかったことか!

 陰鬱なのは、この青年と同じような無知がキリスト教会の至るところでふんだんに見られるという事実である。洗礼を受けていながら、その教理知識といえば骨の髄からの異教徒同然という何万もの人々がいる。人間の罪深さがどれほど深甚なものであるかを全く知らない何十万もの人々が毎週、教会堂や礼拝堂に満ちあふれている。彼らは、自分自身の何らかの行ないによって救われることができるはずだという、昔ながらの考えにかたくなにしがみついている。そして死の床に伏す彼らを牧師が訪れると、彼らはまるで一度も真理を聞いたことがなかったかのように盲目であることを露呈するのである。まことに、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです」(Iコリ2:14)。

 最後にこの青年の例からさとらされるのは、心に抱いたたった1つの偶像でも魂を永遠に滅ぼしうるということである。人のうちに何があるかすべてご存じであられる主は、ついにこの求道者にからみついている罪が何であるかをお示しになった。あのサマリヤの女に、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(ヨハ4:16)と語られたのと同じ、心をさしつらぬく御声が、この青年に語りかけている。「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」。たちどころに彼の性格上の弱点は見破られた。永遠のいのちを慕い求めるそのすべての願いと熱望にもかかわらず、彼には自分の魂にまさって愛するものが1つあったのである。それは彼の金銭であった。この試験に彼は耐えることができなかった。彼ははかりにかけられ、目方に不足があることがわかった。そしてこの物語は、この陰惨な言葉で幕を閉じられている。「青年は……悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである」。

 私たちがこの物語の中に見るのは、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根」であるという真理のもう1つの例証である(Iテモ6:10)。私たちはこの青年を、ユダ、アナニヤ、サッピラとならべて記憶にとどめ、貪欲への警戒を学ばなくてはならない。悲しいかな、これこそはおびただしい数の人々を難破させてやまない暗礁である。福音の教役者ならほぼだれしも、自分の会衆の中に、人間的には「神の国から遠くない」のに、決して進歩しているように見えない多くの人々を指摘できるであろう。彼らは願う。彼らは感じはする。真剣である。希望もする。しかし現在の状態にべったりへばりついて決して動こうとしない。なぜか。金銭を好んでいるからである。

 この箇所を離れるにあたり、私たちは自分自身を探ってみよう。この箇所は私たち自身の魂に何と語りかけたろうか。真のキリスト者になりたいという私たちの告白は、本当に正直で真摯な願いだろうか。私たちは自分の偶像をすべて打ち捨ててきたろうか。心ひそかにしがみつき、手を切ることを拒んでいる秘密の罪は何もないだろうか。キリストと自分の魂にもまさってこっそり愛しているもの、愛している人はないだろうか。これらこそ答えなくてはならない問いである。福音を聞き続けている多くの人々のぱっとしない状態の真の理由は、霊的な偶像崇拝にある。聖ヨハネの言葉もむべなるかなである。「偶像を警戒しなさい」(ヨハ5:21)。


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第19章23―30 富の危険、全き献身に対する励まし

 これらの節から第一に学ぶのは、富はその所有者の魂に途方もなく大きな危険をもたらすということである。主イエスは、「金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです」と宣言しておられる。それどころではない。その主張をさらに強めるため1つの格言的な云い回しを用いておられる。「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」。

 私たちの主のことばの中で、これほど驚くべきもの、これほど人間の意見や偏見と真っ向から対立するもの、これほど信じられるところの少ないものはほとんどない。にもかかわらずこのことばは真実であり、無条件で認めるに足るものである。人間だれしも所有したがる富、どのような刻苦勉励をもいとわず得ようとする富、そのためには年より早く老け込むこともあえて辞さない富---その富とは危険きわまりない所有物である。富はしばしば非常な害悪を魂に及ぼす。多くの誘惑にいざない、思いや感情を占めつくし、心を重荷で縛りつけ、天国への道を並外れて困難なものとする。

 金銭欲に対して警戒しよう。もちろん金銭を正しく用い、金銭で善をもたらすことがありえないわけではない。しかし金銭を正しく用いる人がひとりいれば、それを誤って用い、自分と他人に害をもたらす人は何万となくいる。この世の人であれば、望むなら金銭を偶像とするのもよい。世界一の大富豪を世界一の幸せ者とみなすのもよい。しかし「天に宝を積む」ことを標榜するキリスト者は、この点で世的な精神には決然と顔をそむけなくてはならない。黄金を礼拝してはならない。神の目に最もすぐれて見える者は、金銭を最も多く持つ者ではなく、恵みを最も多く持つ者なのである。

 私たちは日々富裕な人々の魂のために祈ろう。彼らはうらやまれるべきではなく、深くあわれまれるべきである。彼らはキリスト者の道を歩むには、重いおもりをかかえている。ありとあらゆる人の中で、彼らこそ「賞を受けられるように走」る見込みが最も薄そうな人々である(Iコリ9:24)。この世における彼らの繁栄は、しばしば来たるべき世における滅びとなる。英国国教会の連祷に次のごとき言葉がふくまれているのもけだし当然である。「われらが富に囲まれるいかなるおりにも、尊き主よ。われらを救い出したまえ」。

 この箇所から第二に学ぶのは、魂のうちに働く神の恵みの力の全能さである。弟子たちは、私たちの主が金持ちについて語ったことばに愕然とした。彼らがこう驚いて叫ばざるをえないほど、それは彼らが富の便宜について抱いていた考えと正反対のことばであった。「それでは、だれが救われることができるのでしょう」。彼らが受けたのは主の寛大なお答えだった。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」。聖霊は、どれほどの大富豪をも、天の宝を慕い求めさせることができる。聖霊は国王にもその王冠をイエスの足元に投げ出させ、神の国のためにはすべてを損とみなすようにさせることができる。その証拠は幾度となく聖書に物語られている。アブラハムは非常に富裕であったが、信仰の父であった。モーセはエジプトの王子または王となれたはずなのに、目に見えないお方のため、その輝かしい将来をすべてなげうった。ヨブは東方で最も裕福な人だったが、神に選ばれたしもべであった。ダビデ、ヨシャパテ、ヨシア、ヒゼキヤらはみな富裕な君主であったが、地上における自分の偉大さにまさって神の恵みを愛した。彼らがみな示しているのは、「主におできにならないことはない」ということであり、信仰はどれほどやせた土地にも育ちうるということである。

 私たちはこの教理を堅くにぎって手放さないようにしよう。人は、どのような立場、どのような境遇にあっても神の国から締め出されることはない。私たちは、どのような人の救いも決してあきらめないようにしよう。確かに富裕な人は特別な恵みを必要としており、特別の誘惑にさらされている。しかしアブラハム、モーセ、ヨブ、ダビデの主である神は今も変わらない。彼らをその富にもかかわらずお救いになったお方は、他の者をも救うことがおできになる。神が事を行なうとき、だれがそれをとどめることができよう(イザ43:13)。

 この箇所から最後に学ぶのは、キリストのためにすべてを捨てる人々に対して、福音は途方もない励ましを差し出しているということである。ここでペテロは主に問うた。主のためになけなしの所有物をなげうった彼と他の使徒たちは、見返りに何がいただけるのですか、と。彼が受けた答えは、これ上なく寛大なものであった。キリストのため犠牲を払うすべての人々には、完全な補償がなされる。彼らは「その百倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます」(新改訳聖書の欄外注参照)。

 この約束には、心を非常に奮い立たせるものがある。現代では、異教世界で回心する者を除いて、文字通り信仰のゆえに家や親族や土地を捨てることを求められることはまずない。しかし真のキリスト者であれば、自分の主に対して真実に忠誠を貫こうとする限り、何らかの形で試練に遭わないことはないはずである。十字架のつまずきは取り除かれてはいない。冷笑、嘲笑、からかい、家族による迫害は、英国においても信仰者がしばしば受けるものである。良心にもとらずキリストの福音に堅く立とうとするとき、しばしばこの世の愛顧は取り去られ、地位や身分は危機にさらされる。この種の試練にさらされている者はみな、これらの節にある約束に慰めを見出すべきである。イエスは彼らの必要を見越して、彼らの慰めとなるようこのことばを発されたのである。

 キリストに従うことによって、真の意味で損をする者はひとりもいないことは確かである。信仰者は、決然とキリスト者生活を歩み始めるとき、しばらくは損失をこうむるように見えるかもしれない。信仰ゆえにもたらされる艱難によって、ひどく落胆させられるかもしれない。しかし長い目で見ると、そのような人が決して損をしないことは確かである。キリストは、私たちが失った友をつぐなってあまりある友人を私たちのため起こすことができる。私たちに対して閉ざされた心や家々にまさって暖かく親切な心と家々を開くことができる。何よりもキリストは私たちに、彼のため投げ捨てた地上のすべての楽しみをはるかに上回る良心の平安、うちなる喜び、輝かしい希望、幸福な感情を与えることができる。キリストはご自分の類いない名誉をかけてそう誓われた。いまだかつてそのことばに欺かれたという者はない。私たちも主に信頼し、恐れを捨てようではないか。

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