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第18章1―14 回心とへりくだりの必要性、地獄の実在

 これらの節で私たちが第一に教えられるのは、回心が必要であることと、その回心は子どものようなへりくだりによって表わされるのでなくてはならないということである。弟子たちは私たちの主のもとに来てこう尋ねた。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょう」。彼らはまるで半分しか光を受けず、全く肉的な期待に満ちた者であるかのような口をきいている。彼らが受けた答えは、まさに彼らをその白昼夢から覚ますためのものであった。キリスト教の基礎中の基礎に属する真理をふくむ答えであった。「あなたがたも回心して子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」(新改訳聖書の欄外註参照)。

 このことばを心に深く刻みこもうではないか。回心なくして救いはない。私たちはみな、性質の完全な転換を必要としている。私たち自身のうちには、何の信仰も、恐れも、神への愛もない。私たちは「新しく生まれなければ」ならない(ヨハ3:3)。私たち自身は、本来とうてい神の御前に生きるにふさわしくないものである。「回心し」ない限り、天国は私たちにとって何の天国でもない。これは、あらゆる社会的地位、身分、階級を通じて同じである。すべての人は罪のうちに生まれた御怒りの子らであり、すべての人は例外なく新しく生まれ新しく創造される必要がある。私たちには新しい心が与えられなくてはならない。新しい霊が植えつけられなくてはならない。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくならなくてはならない。キリスト教会でバプテスマを授けられ、聖書を読んだり集会に集ったりすることはよい。しかし、結局のところ、「私たちは回心しているだろうか」?

 自分が本当に回心しているかどうか知りたい人がいるだろうか。自分自身をためす基準を知りたいと思っているだろうか。真の回心を示す最も確実なしるしはへりくだりである。もし私たちが本当に聖霊を受けているなら、私たちはそれを柔和で子どものような霊によって示すはずである。子どものように私たちは自分自身の力や知恵をつまらぬものとみなし、天におられる御父に全くより頼むであろう。子どものように私たちは、この世において多くを望まず、衣食と父の愛があれば満足するであろう。まことに、これこそ心探る試験である! これは、世にあまねく云われる回心、転向のたぐいの不健全さを暴露するものである。ある党派から別の党派への転向はたやすいものである。ある宗派から別の宗派への改宗、ある意見から別の立場への転換はたやすいものである。そのような転向はどんな魂をも救わない。私たちがみな必要としているのは、高慢からへりくだりへの転換、自信満々の思いから謙遜な思いへの転向、うぬぼれから自己卑下への転向、パリサイ人の心から取税人の心への変換である。救われたいと願うなら、このような種類の回心をこそ経験しなくてはならない。これこそ聖霊によってもたらされる回心である。

 これらの節から次に教えられるのは、信者の前につまずきの石を置くのはすさまじく大きな罪だということである。この件に関する主イエスのことばは格別に厳粛なものである。「つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。……つまずきをもたらす者は忌まわしいものです」。

 人々の魂の前につまづき、またはつまづきの石を置くというのは、いかなることであれ、私たちが彼らをキリストから引き離したり、彼らを救いの道から遠ざけたり、真のキリスト教に愛想をつかさせたりするような行動をとるときのことである。それは、迫害や嘲笑や反対、あるいは決然とキリストに仕えようとするのを思いとどまらせようとしたりするような直接の行為である場合もあれば、自分の信仰告白にもとる生き方をしたり、自分自身の行動によってキリスト教をいとわしく嫌なものとしてしまうような間接的な行為である場合もある。いずれにせよ、そのようなことを行なうとき私たちが大きな罪を犯しているということは主のことばにより明らかである。

 ここに定められている教理には非常に恐ろしいものがある。私たちは心の奥底まで深く自分を探ってみるようかき立てられるべきである。私たちは、この世で善を行なおうと願うだけでは十分でない。私たちは自分が害をなしていないと確実に安心できるか。私たちはキリストのしもべらを公然と迫害してはいないかもしれない。しかし自分の生き方、自分の模範によって害悪をなしているようなことが1つもないであろうか。裏おもてのある信仰告白者がひとりいるためにどれほどの害がなされうるか考えるだけでも恐るべきものがある。そのような者は不信者に口実を与える。世俗的な者に、はっきりした決断を下さないままでいる云い訳を与える。救いを求める求道者をさえぎる。聖徒の心をくじく。つまり彼は悪魔のために働く生きたメッセージなのである。キリストの教会の中で、そうした「つまずき」がどれほど多くの魂を滅びへと追いやってきたかは、ただ最後の審判の日だけが明らかにするであろう。ナタンがダビデに対して行なった告発の1つは、「あなたはこのことによって、主の敵に侮りの心を起こさせた」ことであった(IIサム12:14)。

 これらの節から次に私たちが教えられるのは、来たるべき未来に死後の刑罰は確実にあるということである。この点について、私たちの主は2つの強い表現を用いておられる。主は「永遠の火に投げ入れられる」と語り、「燃えるゲヘナに投げ入れられる」と語る。

 これらのことばの意味は明白で取り違えようのないものである。来たるべき世には云いようもなく悲惨な場所があり、悔い改めず信じないまま死んだすべての者は究極的にはそこに引き渡されなくてはならない。神に逆らう者すべてを焼き尽くす「激しい火」があることを聖書は明らかにしている(ヘブ10:27)。悔い改めて回心する者すべてに天国を差し出しているのと同じ確かなみことばが、不敬虔な者はみな地獄へ行くとはっきり宣言しているのである。

 この恐るべき主題について、何者からもむなしい言葉で欺かれないようにしよう。この終わりの日には、未来に永遠の刑罰などないと公言し、あの悪魔の古い論法を繰り返して「あなたがたは決して死にません」(創3:4)と云う者らが群がり起こっている。そうした議論がどれほど説得力あるように聞こえても、私たちは決して動かされないようにしよう。昔からの道に決然と立ち続けよう。愛とあわれみの神は正義の神でもあられる。その神は確実にさばきをお求めになる。ノアの時代の洪水、ソドムを焼き尽くした火の雨は、いつの日か神がなされることを私たちに示すためのものである。キリストご自身ほど明確に地獄についてお語りになった方はいない。かたくなな罪人らはやがて、「小羊の怒り」というものがあることを、取り返しのつかぬ思いとともに知るであろう(黙6:16)。

 これらの節から私たちが最後に教えられるのは、神はどれほど小さくどれほど卑しい信者にも、途方もない価値を置いておられるということである。「この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません」。

 このことばは単に小さな子どもたちのためばかりでなく、すべての真のキリスト者を励ますためのものである。それは、このことばが百匹の羊と1匹の迷い出た羊のたとえ話との関連で語られていることから、疑う余地なく明らかであると思われる。このことばは、私たちの主イエスは羊飼いでああり、ご自分にゆだねられたたひとりひとりの魂を優しく世話してくださるお方であることを私たちに示すためのものである。主の群れのうち最も幼く、最も弱く、最も病弱なものも、主にとってはその最も強いものと同じくらいかけがえがないものである。彼らは決して滅びない。主の御手から彼らを奪い去る者はない。主はこの世の荒野の中、彼らを優しく導いて行かれる。主は一日たりとも彼らを駆り立てすぎて死なすようなことはない(創33:13)。どのような困難のさ中にも彼らを見捨てない。どのような敵を前にしても彼らを守られる。彼が語られたこのことばは文字通り実現する。「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」(ヨハ18:9)。このような救い主がおられる以上、徹底したキリスト者になりはじめることをだれが恐れる必要があるだろう。このような羊飼いがおられる以上、一度はじめた後で投げ捨てられることをだれが恐れる必要があるだろう。


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第18章15―20 キリスト者間の不和解決の原則、教会戒規の性格

 主イエスのこれらのことばには、しばしば誤って適用されてきた表現がある。「教会の言うことを聞け」との命令が、神のみことばの他の箇所と相矛盾するような形で解釈されてきたのである。この言葉は、教理上の問題では目に見える教会の全体に最終的権威があるものと誤って適用され、教会が多くの暴政をふるう口実とされてきた。しかし聖書の真理が乱用されてきたからといって、それを用いることをないがしろにしてよいという法はない。どのような聖句であれ、ある人々が歪曲して害毒に変えてしまったことがあるからといって、顔を背けてはならない。

 まず第一に、兄弟間の争いについて主が定められた規定がいかにすぐれているかに注意しよう。

 もし私たちが不幸にして同じ教会に属する教会員から何か害を受けたなら、最初に取るべき手段は、行って「ふたりだけのところで」責めることである。彼は、アビメレクがアブラハムにしたように、意図せずして私たちに害を加えたのかもしれない(創21:26)。ルベン、ガド、マナセの三部族が自分の国に帰ったとき築いた祭壇のように、相手の行動には何かしかるべき理由があったかもしれない(ヨシ22:24)。いずれにせよ、この友情ある、誠実で直截な対処こそ、得られるものなら最も兄弟を得る可能性の高い道である。「やわらかなことばは憤りをとどめる」(箴25:15)。相手がすぐに、「私が悪かった」と云い、多大な償いをしないとも限らないではないか。

 しかしもしこのような手続きが何ら事態の改善をもたらさないなら、第二の手段を取るべきである。私たちは「ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行き」、その人たちの前で、その兄弟を責めるべきである。自分の過ちが人に知られたと知って彼の良心が目覚めさせられ、恥じて悔い改めないとも限らないではないか。そうならない場合でも、少なくとも私たちは、自分が兄弟を立ち返らせようというあらゆる努力を払ったこと、そしてそのような訴えを受けてもなお彼が故意に償いをすることを拒んだことに対する承認を得ることになる。

 最後に、もしこの第二の手続きも役に立たなかったなら、私たちは自分の属するキリスト者の集会にすべてを告げるべきである。私たちは「教会に告げ」るべきである。個人的にいさめるだけでは動かされなかった心も、事態が公のものとされることを恐れて動かされないとも限らないではないか。そうならない場合、その兄弟の問題について取るべき見解は1つしか残されていない。私たちは悲しみつつも、彼がすべてのキリスト者の原理をふりはらい、「異邦人か取税人」と同程度の動機でしか動かされようとしない者とみなさなくてはならない。

 この箇所は、私たちの主の教えの中に組み合わされた知恵と優しい配慮を美しく示す一例である。これは人間の性質に対する何と深い知識を示していることか! キリスト者同士のいさかいほどキリスト教信仰に害をもたらすものはない。そのような争いが世間の前に引きずり出される前に、いかなる手段をとることも、いかなる困難を忍ぶこともいとうべきではない。またこれは、あわれな人間の性質の敏感さに対する何と微妙な思慮深さを示していることか! 「ふたりだけのところで」責めるという規則を実践していさえするなら、醜聞ざたになる多くの亀裂を防げるであろう。私たちの主のこの部分の教えがより注意深く学ばれ、実践されるならば、教会とこの世の双方にとって何と幸いなことであろう。世の続く限り不和や分裂のなくなることはないであろう。しかしもしこれらの節によって勧められている道がまず取られるならば、その多くはたちどころに消え去ることであろう。

 第二に私たちは、キリスト者の集会においては戒規を実行すべきであるという論拠をこれらの節がどれほど明白に示しているかに注意しよう。

 私たちの主は、キリスト者同士の争いにどうしても決着がつかない場合、それを教会、すなわち彼らの属するキリスト者の集会の裁定にゆだねよと命じておられる。「教会に告げなさい」。それが集会全体の総意による処置という形を取るにせよ、集会の権威を委託された指導者や長老たちの決定という形を取るにせよ、信仰を告白するキリスト者の集会はみな、その構成員の道徳上の行動に認知を与えるものである。主の意図がそこにあったことは、この箇所から明らかである。またどのような集会も、不従順で手に負えない構成員を礼典にあずかることから排除する権威を有している。主がそう意図しておられたことも明らかである。「教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」。主は肉体的経済的処罰や社会的制裁のことは一言も語っておられない。霊的な処罰を下すことだけが主によって教会に許されたことである。そしてその処罰が正しく下されたなら、それを軽くみなすべきではない。「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれて……いるのです」。大体このようなことが、教会戒規について私たちの主が教えておられることと思われる。

 この問題の全体を困難が取り巻いていることは否定してもむだであろう。この問題ほど、この世の影響が教会の行動に重くのしかかってきた問題はない。この問題ほど、教会が多くの間違いを犯してきた問題はない。教会は、時には惰眠をむさぼり、時には盲目的な峻厳さにかられる誤ちを犯してきた。疑いもなく陪餐停止の権威は、すさまじい乱用と歪曲をこうむってきた歴史があり、ケネルが云うように、「私たちはこの世のありとあらゆる陪餐停止にまさって自分の犯すもろもろの罪を恐れるべきである」。それにもかかわらず、このような箇所を前にしては、教会戒規がキリストのみこころに沿うものであること、賢明に用いられるならば教会の健康と安寧を増進させるためのものであることを否定することは不可能である。どれほど邪悪で不敬虔な人々であれ、どれほど生き方の異なる人々であれ、何のわけへだてもなく主の晩餐の席につくことを許すなどというのは、正しいことであるはずがない。いかなるキリスト者も、そのような事態が生じないように自分のもてる力をふるう義務と責任がある。この世に完璧な交わりは望むべくもないとはいえ、きよさこそは私たちがめざすべき目標である。教会員として認められるための資格が高い教会ほど、豊かに富み栄えている教会を常に示す最良のしるしの1つである。

 最後に私たちは、キリストが、その御名によって集まる人々に、どのように恵み深い励ましを差し出しておられるかに注意しよう。主は云われる。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」。このことばは、私たちの主の神性を示す驚くべき証拠である。ひとり神のみが同時に一箇所以上の場所に存在することができるのである。

 このことばには、信仰上の目的でともに集まることを愛する人々すべてに対する慰めがある。すべての公同礼拝のための集会、すべての祈祷と賛美のための集会、すべての伝道集会、すべての聖書を読むための集会に、王の王が出席し、キリストご自身が集っておられるのである。私たちはそのような集会に集まる人数の乏しさに、それをこの世的な目的のために集まる人々の人数とくらべては、しばしば落胆するかもしれない。時として私たちは、古の敵のように「この哀れな……人たちは、いったい何をしているのか」(ネヘ4:2)と叫ぶ底意地の悪い世間のののしりや嘲りを耐えがたく思うかもしれない。しかし決して失意にかられることはない。私たちは大胆にこのイエスのおことばによりすがってよい。このような集会にすべてにおいて、私たちはキリストご自身と同席しているのである。

 このことばには、公同の礼拝をないがしろにし、それ以外の教会の集会にも決して集おうとしない人々すべてに対する厳粛な叱責がある。彼らは主の主との交際に背を向けているのである。彼らはキリストご自身と出会う機会を取り逃がしているのである。教会の集会は弱々しくて力がないなどと云ったり、家にいても教会に行くのと同じくらい恵みが得られるなどと云ってもむだである。私たちの主のことばがそのような議論をたちどころに沈黙させてしまう。キリストが臨在しておられる集会をばかにしたように語る人は、確かに賢いとは云えない。

 願わくは私たちがみなこれらのことをよくよく考えるように。今まで霊的な目的で神の民の集いに出席してきた人は、これからもそうし続け、恥じないようにしよう。またこれまでそうした集会を軽蔑してきた人は、自分の生き方をよく反省し、知恵を学ぶことにしようではないか。


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第18章21―35 赦すことをしなかったしもべのたとえ

 これらの節で主イエスが扱っておられるのは、非常に重要な問題、すなわち受けた悪を赦すという問題である。このよこしまな世に住む私たちは、どれほど気をつかって暮らしても、不当な仕打ちを受けずにすむわけにはいかない。人から悪を受けたときの身の処し方を知ることは、私たちの魂にとって重大なことである。

 まず第一に、主イエスが一般的な原則として定めておられるのは、私たちは他の人々を最大限まで赦すべきだということである。ペテロは、「兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」と問うた。主は答えて云われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」。

 もちろん、ここで定められた原則は、無条件で野放図に解釈されてはならない。私たちの主が意味しておられるのは、法律違反や公序良俗を乱す行為を黙って見逃せということではない。盗人や暴漢を、とがめだてせず許してやれなどと語っておられるのではない。主が意味しておられるのはただ、自分の兄弟に対しては、努めて寛大な、あわれみと赦しに満ちた心を持つようにしなくてはならないということである。私たちはいさかいを起こすよりは、多くを忍び、多くを耐えるべきである。相争うよりは、多くに目をつぶり、多くを甘受すべきである。うらみ、復讐、仕返しなどは打ち捨てるべきである。そのようなものはキリストの弟子たる者に全くそぐわない。

 もしも主のこの原則がより多くの人の知るところ、実行するところとなるなら、どれほど世界は幸せになるであろう! 人類の悲惨のどれほど多くが、口論や争議や訴訟や、いわゆる「自分たちの当然の権利」に人々がしがみつくことから生み出されていることか! もし人が今より赦しと和解に意を用いるようになれば、そうした悲惨のうちどれほど多くが、きれいさっぱり避けられることか! 燃料なしに火が燃え続けることはできない。同じように、相手がいなくては争うことはできない。このことを決して忘れないようにしよう。私たちひとりびとりは、神の恵みによって、争いをしたがる側には決してならないように決意しよう。悪に報いるには善をもってし、のろいにかえて祝福を与え、敵意を和らげ、敵をして友とならしめるよう決意しよう(ロマ12:20)。クランマー大主教に見られた素晴らしい性質の1つは、危害を加えられたなら、相手を友としないではいられなかったことにあった。

 第二に私たちの主は、私たちが赦しの心を発揮するための強力な動機を2つ与えておられる。主がお語りになった物語の男は、自分の主人に莫大な額の借金をしていたが、「返済することができなかった」。それにもかかわらず、清算の時がきたとき、主人は彼に同情し、その「借金を免除してやった」。ところが当の男は、自分が赦された直後に、ほんのわずかな借金があったしもべ仲間を赦そうとはしなかった。それどころか相手を投獄し、びた一文負けてやろうとはしなった。自分もあわれみを受けた以上、当然人にもあわれみを施すべきであった、このよこしまで無慈悲な男は、結局、一転して罰を受ける立場となった。このたとえ話の最後は、主の印象的なおことばでしめくくられている。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです」。

 このたとえ話から明らかなのは、私たちは他人を赦す1つの動機として、自分自身神からの赦しを必要とする者であることを思い起こすべきだということである。私たちは、毎日多くのことにおいて欠け多く、「なすべきことをなさざるままにし、なすべからざることをなし来たりし」者である。私たちは、毎日あわれみと赦しを必要としている。隣人が私たちに対して行なった罪など、私たちが神に対して行なった罪にくらべれば、微々たるものにすぎない。確かに、私たちのように貧しく過ちがちな者が、兄弟から受けた害を仰々しく云い立てたり、意固地に赦そうとしないなどというのは、どう見てもみっともいいことではない。

 他人を赦すべきもう1つの動機として私たちはみな、最後の審判の日と、その日自分をさばくことになる基準を思い起こすべきである。その日、人を赦そうとしなかった者には何の赦しも与えられない。そのような者に天国にはいる資格はない。そのような者は、「あわれみ」を唯一必要な肩書とし、「あわれみ」が永遠の主題として歌われるような住まいをありがたく思うことはできないであろう。確かにもしイエスが栄光の御座につくとき、その右に立とうというなら、私たちは地上にいるうちから赦すことを学ばなくてはならない。

 これらの真理を私たちは深く心に刻みこもう。遺憾な事実だが、赦しということほど実行をないがしろにされているキリスト者の義務はほとんどない。人々の間にどれほど多くの無情さ、無慈悲さ、意地悪さ、冷たさ、不親切さがはびこっているかは、見るも痛ましいほどである。しかし新約聖書の中でこれほど強く命ぜられている義務はほとんどないし、これをおこたることほどはっきり人を神の国から締め出している義務もほとんどない。

 私たちは自分が神との平和を持ち、キリストの血によって洗われ、御霊によって生まれ、恵みによって神の子とされているという証拠を示したいと思うだろうか。この箇所を思い出そう。天におられる私たちの父と同様に、私たちも赦しを与える者となろう。だれか私たちに害を及ぼした者があるだろうか。今この日、その人を赦そう。レイトンが云うように、「私たちは自分を赦すことには厳しく、他人を赦すことには寛大であるべきである」。

 私たちは世に善をもたらしたいと思うだろうか。他人に影響力を及ぼし、まことの信仰の美しさを見せたいと思うだろうか。この箇所を思い出そう。教理など鼻にもひっかけない人々も、赦しに満ちあふれる心を理解することはできるのである。

 私たちは自分自身恵みにおいて成長し、歩みと言葉とわざのすべてにおいて、より聖くなりたいと思うだろうか。この箇所を思い出そう。かんしゃくを押さえ切れず、人を赦そうとしない心ほど聖霊を悲しませ、魂に霊的暗黒をもたらすものはないのである(エペ4:30―32)。

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