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第17章1―13 変貌

 これらの節には、私たちの主の地上での活動における、最も尋常ならざる出来事が語られている。いわゆる変貌と呼ばれる出来事である。それが記録されている順序は美しく、教えに富んでいる。前章の後半は私たちに十字架を明らかにした。ここでは、来たるべき報いの一部が、恵み深いはからいによって現わされている。キリストの受難についてあからさまに語られて悲しまされた心は、キリストの栄光の幻によってたちどころに喜ばされる。このことに注目しよう。私たちはしばしば神のみことばの中の章と章のつながりを追うことをしないために大きな損失を被っているのである。

 ここに述べられている幻には、疑いもなく神秘的なものがある。そうでなくてはならない。私たちはまだ肉体のうちにある。私たちの感覚は粗雑な物質界に慣れ親しんだものである。必然的に、栄化された肉体や死んだ聖徒に対する私たちの概念や知覚はぼんやりとした不完全なものとならざるをえない。そこで私たちは、この変貌の出来事から教えられる実際的な教訓をおぼろげにでも認識しようとすることで満足しよう。

 まず第一にこれらの節には、キリストが再臨されるとき、キリストとその御民がどのような姿になるかについて、驚くべき栄光のかたちが示されている。

 それがこの驚くべき幻が示された1つの大切な目的であったことは、ほぼ疑う余地がない。それは弟子たちに未来の良きものを垣間見させ、彼らを励ますためであった。「御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」のは、再臨のときイエスとそのそばに立つすべての聖徒たちが、どのような威光の姿で世に現われるかをいくばくなりとも弟子たちに示すためであった。ヴェールの一端が引き上げられ、彼らに師の本当の尊厳が示された。彼らは、たとえ主はまだ王のみなりで世に現われてはいないとしても、それは王服をまとう時期がまだ来ていないためにすぎないことを教えられた。この事件について書かれた聖ペテロの言葉から、これ以外の結論を引き出すことは不可能である。彼ははっきりと変貌に言及して云う。「私たちは、キリストの威光の目撃者なのです」(IIペテ1:16)。

 来たるべきキリストとその御民の栄光を心に深く銘記しておくことは有益である。私たちは悲しいほどそのことを忘れがちである。その栄光のよすがとなるものは世にはほとんど見られない。「私たちはすべてのものが」私たちの主に「従わせられているのを見てはいません」(ヘブ2:8)。罪、不信仰、迷信は跋扈している。何万もの人々が実質的には「この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません」と云っている。主の民がどのような姿になるかはまだ明らかにされていない。彼らの十字架や彼らの患難、彼らの弱さ、彼らの戦いはみな明らかである。しかし彼らが未来に受け取る報いのしるしはほとんどない。この点で私たちは疑いに屈さないよう警戒しようではないか。そのような疑いは、この変貌の物語を読み返すことで黙らせよう。イエスと彼を信じるすべての者のためには、人の思いに一度も浮かんだことのないような栄光がたくわえられている。それは約束されているだけではなく、その一端が三人の十分な証人によって実際に目撃されたのである。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来たひとり子としての栄光である」(ヨハ1:14)。確かに目で見られたものは信じてもよいはずである。

 第二にこれらの節には、死者の復活および死後のいのちに対する反駁しようのない証拠がある。モーセとエリヤが目に見える姿で栄光のうちにキリストとともに現われたと語られている。彼らは身体を持つ形で見られた。彼らは私たちの主と語りあっているのが聞かれた。モーセが死んで葬られてから千四百八十年が過ぎ去っていた。エリヤが「たつまきに乗って天へ昇って行っ」てから九百年以上が過ぎ去っていた。しかしここで彼らはペテロ、ヤコブ、ヨハネによって生きている姿を目撃されているのである!

 この幻のこの部分はしっかり握って離さないようにしよう。考えることのある人ならだれしも、死者がどうなるかという問題に不思議な神秘を感じるに違いない。私たちは身近な人々をひとり、またひとりと墓に葬っていく。彼らを狭い棺桶に寝かせると二度と相見ることはなく、彼らの肉体は塵となっていく。本当に彼らが再び生き返ることがあるだろうか? 本当にもう一度彼らの姿を見ることがあるだろうか? 最後の審判の日には、本当に墓が死者をはき出すのだろうか? 神のみことばが何度となくはっきりと言明しているにもかかわらず、人によってはこうした問いが心を時折よぎるものである。

 さてこの変貌の出来事には、これ以上なく明確な死者のよみがえりの証拠がある。ここに私たちは、生者の国を去って久しい二人の人が、肉体をとって地上に現われているのを見いだすのである。彼らはすべての人が復活するという1つの保証である。かつて地上で生きていたことのある人はみな、再びいのちへと呼び戻され、その決算を提出することになる。死者が無に帰すなどということはない。キリストにあって眠った者たちは、族長、預言者、使徒、殉教者、そして今の私たちの時代の最も卑しい神のしもべに至るまで、無事守られていたことがわかるであろう。「私たちの目には見えなくとも、神に対しては、みなが生きているからです」。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」(ルカ20:38)。彼らの霊は、私たちが今生きているのと同じくらい確実に生きている。モーセとエリヤがこの山に現われたのと同じくらい確実に、栄光のからだをとってやがて現われる。これは確かに厳粛な考えである! 復活があるとすれば、ペリクスのごとき者らは恐れてしかるべきである[使徒24:25]。復活があるとすれば、パウロのごとき者らは喜んでしかるべきである。

 最後に、これらの節には、女から生まれたすべての者に対してキリストが無限に卓越しておられることを示す如実な証言がある。

 この点は、弟子たちの聞いた天からの声によって力強く打ち出されている。この天来の幻に幻惑されたペテロは何と云うべきかわからなくなって、天幕を3つ、1つをキリストのため、1つをモーセのため、1つをエリヤのために造ろうと申し出た。実際彼は、自分の神聖な師がこの律法賦与者および預言者と同列であるかのように、三者を並べて配置しようとしたかに見える。するとたちどころに、異常な仕方によって、その申し出は拒絶された。雲がモーセとエリヤを包み、彼らは見えなくなってしまった。と同時に雲の中から声が聞こえ、主のバプテスマの時と同じ言葉が繰り返されたのである。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」。その声は、そこにはモーセやエリヤよりもはるかに偉大なお方がおられるということをペテロに教えるためのものであった。モーセは忠実な神のしもべであった。エリヤは真理の大胆な証人であった。しかしキリストは、そのどちらをもはるかに凌駕するお方であった。彼は律法と預言者が常に指し示していた救い主であった。彼は、すべての者が聞き従うように命じられていたまことの預言者であった(申18:15)。モーセとエリヤは生前偉大な人物であった。しかしペテロと彼とともにいたふたりは、モーセとエリヤが、その性質と威厳と職務において、はるかにキリストに劣る者であることを思い出すべきであった。キリストこそまことの太陽であり、彼らは太陽の光に日々依存する星々であった。キリストこそ根であり、彼らは枝であった。キリストこそ主人であり、彼らはしもべであった。彼らの功績はすべて他から引き出されたものであったが、キリストはだれにも依存しない独自のお方であった。モーセやエリヤを聖なる人としてたたえるのはよい。しかし救いを求める人は、キリストだけを自分の師とし、キリストだけに栄光を帰さなくてはならない。「彼の言うことを聞きなさい」。

 このことばのうちに、キリストの全教会に対する際立った教訓を読み取ろうではないか。人間の性質の中には常に、「人の言うことを聞く」傾向がある。主教、司祭、執事、教皇、枢機卿、公会議、長老派の説教者、独立派の牧師、これらを絶えず人は、神が決して意図されなかったような地位にまで高め、実質上、キリストの栄誉を纂奪することをやめようとしない。この傾向に対して私たちはみな警戒し、油断しないようにしよう。この幻の厳粛な言葉が常に耳に鳴り響くようにしていよう。「キリストの言うことを聞きなさい」。

 どれほど優れた人も人は人にすぎない。族長、預言者、使徒、殉教者、教父、改革者、清教徒ら---これらはみな、一人の例外もなく、救い主を必要とする罪人である。彼らなりに聖く、善を行ない、栄誉ある立場にはある。しかし結局は罪人なのである。決して彼らを私たちとキリストの間に立つ者としてはならない。キリストだけが「子」であり、御父が「これを喜ぶ」お方である。キリストだけがいのちのパンを与えるべく証印を押され、任命されたお方である。キリストだけが御手に鍵をお持ちである。「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です」(ロマ9:5)。私たちは自分が彼の御声を聞き、彼に従っているように気をつけよう。どのような信仰上の教えも、それがどれだけイエスのもとへ導いてくれるかによって評価しよう。救いをもたらす信仰は、「キリストの言うことを聞く」ことにつきるのである。


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第17章14―21 悪霊にとりつかれた少年のいやし

 この箇所には、私たちの主の偉大な奇蹟がもう1つ語られている。主は悪霊にとりつかれたてんかんの少年をいやしておられる。

 これらの節で第一に目につくのは、サタンが時として若年層の上にふるうすさまじい影響力の生き生きとした象徴である。ここにはある人の息子が「てんかんで、たいへん苦しんで」いたとある。悪霊がその子を強制して、その肉体も魂も滅ぼそうとしていたとある。「何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします」。これは、私たちの主の時代にはよくあったことかもしれないが、現代では見ることまれなサタン的憑依現象の1つである。しかし、そうしたことが起こるとき、その犠牲者の親族の苦悩悲嘆がどれほど大きいかは想像に難くない。愛する者の肉体が病いによって痛めつけられるのを見るだけでも悲痛であるのに、肉体と精神が完全に悪魔の支配下に置かれてしまったのを見るのはどれほど痛ましいことであろうか。「これほど大きな悲惨は地獄からも出てくるまい」とホール主教は云う。

 しかし私たちは、今もサタンが若年層の上で霊的支配をふるっている多くの例があることを忘れてはならない。それは、それなりにこの箇所に記されている例と同じくらい全く痛ましいものである。世のおびただしい数の青少年たちは、サタンの誘惑に完全に屈服し、「捕えられて思うままにされている」ように見える(IIテモ2:26)。彼らは神を恐れる心、神の戒めを尊ぶ心を全く投げ捨てている。彼らは種々の肉欲と快楽に仕えている。放蕩三昧の生活に身も心ものめりこむ。両親、教師、牧師の忠告などに耳を貸さない。自分の健康、品性、世間の良俗など一顧もしない。彼らは身のうちのありったけの力をふるって、現世で、そして永遠に、自分自身の肉体と魂を滅ぼそうとしている。彼らは望んでサタンの奴隷となっている。---このような青少年を見たことのない者があろうか。彼らはどの市町村にも見られる。富む者の中にも、貧しい者らの中にも見いだされる。このような青年たちが痛ましくも証明しているのは、サタンは今なお、たとえ今日ではめったに人の肉体にとりつくことはなくとも、ある人々の魂に恐るべき支配をふるっているという事実にほかならない。

 しかしこのような若者たちを前にしても、私たちは決して絶望してはならないことを忘れないようにしよう。主イエス・キリストの全能の力を思い起こさなくてはならない。これらの節で述べられているこの少年の症状は重かったが、キリストのもとに連れてこられるや、「その子はその時から直った」! 両親、教師、牧師らは、青少年がどれほど悪い状態にあろうと彼らのために祈り続けるべきである。彼らの心は今は堅くとも、まだ柔らげられるときがくるかもしれない。彼らの邪悪さは絶望的なほどと思われても、まだいやされるかもしれない。ジョン・ニュートンのように、まだ悔い改めて回心し、最後には最初よりも良い状態で終わるかもしれない。それがだれにわかろう? 私たちは、主の奇蹟を読むとき、どんな魂の回心についても決して絶望しないということを、心の中に原則として堅く定めておこう。

 第二に私たちがこれらの節に見るのは、不信仰がどれほど信仰者を弱めるかという驚くべき実例である。弟子たちは、悪霊が主イエスの御力に屈するのを見て、心配そうに主にたずねた。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか」。彼らが受けた答えには、深い教えが満ちていた。「あなたがたの信仰が薄いからです」。いざというとき自分たちが悲しい失敗をした本当の理由を知りたいというのか。それは信仰が足りなかったためである。

 私たちはこの点をよく考え、知恵を学びとろう。信仰こそ、キリスト者の戦いに勝利する鍵である。不信仰は敗北に至る確かな道である。ひとたび私たちの信仰が衰えしぼむや、それとともに私たちの恵みはみなしおれてしまう。勇気も忍耐も寛容も希望も、たちまち萎え、しぼむ。信仰こそ、それらを支える根なのである。一度は紅海を勝ち誇って横断した同じイスラエル人が、約束の地の国境に達するや、臆病者のように危険から尻込みしてしまった。彼らの神は彼らをエジプトから導き出した、その同じ神であるのに、彼らの指導者は、彼らの目の前で幾度となく奇蹟を行なった、その同じモーセであるのに、彼らの信仰は同じではなかった。彼らは、神の愛と力に対する恥ずべき疑いに屈してしまったのである。「彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであった」(ヘブ3:19)。

 最後にこれらの節に私たちが見るのは、サタンの王国は勤勉と労苦なしに倒せるものではないということである。これが、今私たちが考察している箇所をしめくくる節の教えであるように思われる。「この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません」。このことばには、弟子たちに対する穏やかな叱責がふくまれているかに見える。おそらく彼らは、過去の成功によってあまりにも心高ぶらせていたのかもしれない。おそらく彼らは、師の不在中は、師を目の前にしているときよりも祈りと断食に注意深く励んでいなかったのかもしれない。いずれにせよ彼らは、サタンに対する戦いは軽率に行なってよいものではないとの、あからさまな示唆を私たちの主から受けた。彼らは、この世の君に対して勝利をおさめるのは決して簡単なことはではないとの警告を受けた。熱い祈りと、勤勉な自己鍛練がなければ、しばしば失敗と敗北に遭うであろう、と。

 ここに述べられた教訓は、非常に重要なものの1つである。ブリンガーは云う。「福音書のこの箇所は、私たちの自由を認めてくれる箇所に劣らず、私たちの愛読箇所であってほしいと思う」。私たちはみな、信仰的な行動をおざなりで機械的に行なう習慣を身につけがちである。エリコ陥落に心高ぶらせたイスラエルのように、私たちはついつい彼らのように云いがちである。「彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください」(ヨシ7:3)。イスラエルのように私たちはしばしば、苦い経験をしないと、激しい戦闘なしに霊的戦いに勝つことはできないことを学ぶことができない。主の契約の箱は決して軽々しく手でふれてよいものではない。神の働きは決して軽率になされてはならない。

 願わくは私たちがみな、この主の弟子たちに対することばを心にとどめ、それを具体的に適用することができるように。講壇の上で、日曜学校の教壇で、教区の中で、家庭礼拝において、個人の静思のときにおいて、私たちは勤勉に自分の霊の見張りをしよう。何を行なうときも、「自分の力で」行なうことにしよう(伝9:10)。敵を過小評価するのは致命的な誤りである。私たちに味方してくださる方は私たちに敵対するものより偉大であられる。しかしそれにもかかわらず、私たちに敵対するものを軽んじるべきではない。彼は「この世の君」である。彼は武装して自分の家を守る「強い人」であり、一戦も交えずに「出て行き」、自分の持ち物を手放すようなことはない。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力……に対するものです」(エペ6:12)。私たちは神のすべての武具をとる必要がある。しかもただとるだけでなく、使いこなす必要がある。確実に予想できることは、世と肉と悪魔に対して最も大きな勝利をおさめるのは、ひとりでいるときに最も祈りを積み、「自分のからだを打ちたたいて従わせ」ている人だということである(Iコリ9:27)。


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第17章22―27 魚と納入金

 これらの節に記された事件は、主のご生涯の中でも、聖マタイ以外どの福音書にも記録がない。神殿の納入金を払うために著しい奇蹟が行なわれている。この物語には、私たちが深い注意を払うに値する3つの驚くべき点がある。

 第一に注目したいのは、この世で語られ行なわれているすべてのことを私たちの主は完全に知っておられるということである。ここには、「宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。『あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。』彼は『納めます。』と言った」とある。このやりとりがあったとき、主がその場におられなかったことは明らかである。それにもかかわらずペテロが家にはいるや主は問われた。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか」。主はその会話を、あたかもじかに耳にし、間近に立っていたのと同じように知っておられたことを示されたのである。

 主イエスがすべてをご存じであるという考えには、云いしれず厳粛なものがある。私たちの日常の行動をすべて見ているまなざしがあるのである。私たちの日常の会話をすべて聞いている耳があるのである。私たちが弁明しなくてはならないお方の前では、すべてがあらわで、何1つ隠れたものはない。秘匿は不可能である。偽善はむだである。牧師を欺くことはできるかもしれない。家族や隣人をごまかすことはできるかもしれない。しかし主は私たちを隅から隅まで見通しておられる。キリストを欺くことはできない。

 私たちは、この真理を実際に適用するよう努力すべきである。私たちは、主のまなざしのもとで生きるようつとめ、アブラハムのように「主の前を歩む」ようつとめるべきである(創17:11)キリストに聞かせたくないと思うようなことは一言も口にせず、キリストに見せたくないと思うようなことは何1つ行なわないことを日々の目標としよう。してよいか悪いか判断に迷うときは、常にこの単純な問いによって答えを出すようにしよう。「今イエスが隣におられるとしたら、私はどのようにふるまうだろうか?」 このような基準は何ら突飛なものでも、ばかげたものでもない。このような基準によって妨げられる義務や人間関係は何1つない。妨げられるのは罪だけである。主の臨在を心に覚え、すべての言動をキリストに向かってなそうと心がける者こそ幸いである。

 次に注目したいのは、私たちの主は全被造物に対して全能の権威を持っておられるということである。主は1匹の魚をご自分の会計係にしておられる。口のきけない被造物に、取税人の要求通りの税金を持って来させている。ヒエローニュムスの言葉は至言である。「ここで私は、私たちの主の予知をあがむべきか、偉大さをあがむべきかを知らない」。

 ここに詩篇作者の言葉は文字通り成就している。「あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も。空の鳥、海の魚、海路を通うものも」(詩8:6-8)。

 これは、私たちの主イエス・キリストの威光と偉大さを示す数ある証拠の1つである。初めにすべてのものを創造されたお方だけが、ご自分の意のままにすべての被造物を従わせることができる。「万物は御子にあって造られたからです。……万物は御子にあって成り立っています」(コロ1:16-18)。異教徒の中へ出て行ってキリストのみわざを行なおうとする信者は、安んじてキリストの守りに自分をゆだねてよい。彼が仕えているお方は、すべての権威をお持ちで、地の獣をすら従わせておられる。このような全能の主が私たちの救いのため身をへりくだらせて十字架についてくださったとは何と素晴らしいことであろう! この方が再び来られるとき、全被造物に対するこの権威を、全世界に対して明らかに示されるとは、何という慰めであろう! 「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇はちりをその食べ物と」する(イザ65:25)。

 最後に注目したいのは、私たちの主はつまづきを与えるよりはむしろ喜んで譲歩を選び取るお方だったということである。主は、当然の権利として、この納入金を納める義務などないと主張することができた。神の御子であられる主は、ご自分の御父の家を支えるための税金から免除されてしかるべきであった。「宮より大きな者」であられる方は、その宮を維持するための納税を断ってよい当然の理由があった。しかし私たちの主はそうはなさらなかった。免除を申し立てはしなかった。主はペテロが要求された通り払うよう望んでおられる。同時に主はその理由を宣言しておられる。それは「彼らにつまずきを与えないため」であった。ホール主教は云う。「取税人をつまずかせるよりは、奇蹟が行なわれたのである」。

 この件における私たちの主の模範は、自分をキリスト者と認め、そう自称する者すべての注意に値する。「彼らにつまずきを与えないため」という一言には深い知恵が蔵されている。キリストの民は、たとえ何か完全に同意できないことがあっても、それが人をつまづかせ「キリストの福音に妨げを与え」るようなら、むしろ自分の意見を抑えて、素直に従わなくてはならないことがあることを、この言葉ははっきり教えている。疑いもなく神の権利は決して人に譲ってはならない。しかし私たちの権利は時として譲ってよいことがある。自分の権利を頑強に守り続けるのは非常に立派で英雄的に見えるかもしれない。しかしこのような箇所に照らすと、そのような頑固さが必ずしも賢明であるかどうか、またキリストのみ思いを示すものであるかどうかは疑問である。成熟したキリスト者なら、抵抗し続けるよりも人に譲る方がふさわしいことがあるのである。

 この箇所を私たちは、市民として国民として忘れないようにしよう。私たちは、為政者の政治的決定を必ずしも好むとは限らない。彼らが課す税金の中には賛成しかねるものがあるかもしれない。しかし究極的に重要なのは、現世の権力に抵抗することがキリスト教の原則にとって何か益となるだろうかということである。彼らの決定は自分の魂に実質的な害をもたらすだろうか。もしそうでないなら、私たちは「彼らにつまずきを与えないため」異を立てることはすまい。ブリンガーは云う。「キリスト者は、一時的な重要性しかないもののために社会の秩序を乱すことが決してあってはならない」。

 この箇所を私たちは、教会の一員として忘れないようにしよう。私たちは、自分の集う集会の形式や儀式の一点一画までも完全に好むことはないかもしれない。霊的な指導者が常に賢明であるとは思えないかもしれない。しかし結局のところ、私たちが不満足に思う点とは本当に生死にかかわる問題なのだろうか? 福音の根本的な真理が何か危険にさらされているのだろうか? もしそうでないなら、私たちは「彼らにつまずきを与えないために」騒ぎ立てることはすまい。

 この箇所を私たちは、社会の一員として忘れないようにしよう。私たちがいやでも暮らさざるをえない共同体の中には、キリスト者である私たちには退屈で無益で役に立たないような慣習やしきたりがあるかもしれない。しかし、それは何か根本的な原則にかかわっているだろうか? それは私たちの魂に害を与えるものだろうか? それに逆らうことによって私たちはキリスト教の伸展にとって何か益をもたらすことになるだろうか? もしそうでないなら、私たちは「彼らにつまずきを与えないために」忍耐強く忍ぶことにしよう。

 この私たちの主のおことばがより学ばれ、熟考され、用いられるならば、教会と世の双方にとってよいことであろう。病的な几帳面さ、良心の(誤ってそう呼ばれる)潔癖さによって、どれほどの害悪が福音の伸展にもたらされてきたか、だれに知れよう! 願わくは私たちがみな、あの異邦人への使徒の模範を覚えていられるように。「私たちは……すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです」(Iコリ9:12)。

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