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第16章1―12 律法学者・パリサイ人らの敵意、彼らに対するキリストの警告

 これらの節で私たちの主は、またしてもパリサイ人とサドカイ人の飽くなき敵意の的となっている。通常この2つの党派は敵対関係にあった。しかしキリストを迫害する点にかけては一致団結したのである。これこそ非・神聖同盟であった。しかし今日の私たちも、似たようなことを何としばしば目にすることであろう。意見も習慣も全く異なる人々が福音を嫌うことにかけては意気投合し、福音の進展を阻止するためには手を組むのである。「日の下には新しいものは一つもない」(伝1:9)。

 この箇所で特に注意すべき第一の点は、私たちの主が以前用いたことのある言葉を繰り返しておられるということである。主は云われる。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」。このマタイの福音書の12章39節を開くと、主はこれと全く同じことを前にも語っておられたことがわかる。

 人によっては、こんなことは取るに足りない些細なことと思われるであろう。しかし実はそうではない。これは、聖書を愛する誠実な人々の多くを悩ませてきた問題に解決の糸口を与えるのである。したがってここでは特に注意すべきである。

 ここからわかるのは、私たちの主は同じことを何度も語られるのを常としていたということである。主はあることを一度語ったら二度と繰り返さないようなことはなかった。明らかに、ある真理を何度も何度も提示して、弟子たちの心により深く印象づけようとするのが主の習慣であった。主は、霊的なことに対する私たちの記憶の弱さをご存じであった。私たちが、二度聞いたことは一度聞いたことよりもよく覚えておけることをご存じであった。それで主は、ご自分の倉から新しい物だけでなく古い物も取り出しておられるのである。

 さて私たちは一体ここから何を学ぶだろうか。ここで教えられるのは、多くの人のように四福音書の記事をむりに調和させようとする必要はないということである。マタイの福音書とルカの福音書に同じ主のことばがあるからといって、必ずしもそれが同じときに語られたと考える必要はない。あるいは、その前後で語られている出来事が必ずしも同じと考える必要はない。マタイは主イエスのご生涯の1つの出来事を語り、ルカは別の出来事を語っているが、主のことばが全く同じであったこともありうる。同じことばが用いられているため、2つの出来事を同一の出来事と考えて非常な困難に陥った聖書学者は少なくない。しかし、私たちの主はしばしば同じことばを違った場面で用いることがあったと考える方がはるかに安全である。

 これらの節で特に注意すべき第二の点は、主がこの機会をとらえて弟子たちに与えられた厳粛な警告である。主は明らかにユダヤ人の間に見られる偽りの教えと、その教えがふるっていた有害な影響力に胸を痛めておられた。そこで主はこの機会に警告を発されたのである。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」。この言葉にどのような含みがあるか眺めてみよう。

 この警告はだれに対して向けられたものか。十二弟子である。キリスト教会最初の教職者たち、福音のためすべてを捨てた人々である。その彼らすら警告されている! どれほどすぐれた人々も所詮は人であり、いつ誘惑に陥るかしれない。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(Iコリ10:12)。いのちを愛し、幸せな日々を過ごしたいと思う者は、「注意して気をつけなさい」という云いつけを、自分に必要ないことなどと決して思わないようにしよう。

 私たちの主は何に対して警告しておられるか。パリサイ人やサドカイ人たちの「教え」に対してである。パリサイ人は、福音書でしきりに語られている通り、自分を義人と自認する形式主義者たちであった。サドカイ人は、懐疑的で、自由思想がかった、半分不信者のような者らであった。それにもかかわらずペテロが、ヤコブが、ヨハネが、こうした教えに対して警戒しなくてはならなかった! まことに、どれほどすぐれた、どれほど聖い信徒であっても、用心を怠ってはならないというべきである!

 私たちの主は、弟子たちに偽りの教えを警戒するよう命じるにあたって、どんな象徴を用いておられるか。主はこの偽りの教えをパン種と呼んでおられる。パン種のように、それは真理の全体にくらべれば小さく見える。パン種のように、それは信仰の体系の中に混入されると少しずつ全体の性質を変えていく。何と多くが、しばしばほんの一言の中に込められていることか! 使徒たちは、あからさまな異端という危険だけでなく、「パン種」にも警戒しなくてはならなかった。

 これらすべての中には、信仰を告白するすべてのキリスト者の注意を強く喚起するものがある。この箇所における私たちの主の警告は、恥ずべきほど無視されている。キリスト教会が福音の約束と同じくらい福音の警告を学びとる努力をしてきたならよかっであろうに。

 そこで私たちは主が、この「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種」についてのおことばを、どの時代にもあてはまることとして語っておられるのを忘れないようにしよう。それは主と同時代の人々のためばかりでなく、キリスト教会にとって永続的に有益なものとして語られている。これを語られたお方は、預言的な目でキリスト教の未来の歴史をごらんになった。この偉大な医師は、パリサイ人の教えとサドカイ人の教えがご自分の教会を世の終わりまで疲弊させ続ける二大疾患となることをよく知っておられた。キリスト者の中には常にパリサイ人やサドカイ人がいるだろうことを、主は弟子たちに伝えておこうとされたのである。彼らの子孫は途絶えることがない。彼らの名は変わるかもしれないが、彼らの精神は常に同じである。それゆえ主は私たちに向かって叫ばれるのである。「注意して気をつけなさい」。

 最後に、この警告の個人的適用として私たちは、聖なるねたみをもって自分自身の魂を見張り続けることにしよう。私たちの住む世界は、パリサイ人やサドカイ人が絶えずキリスト教会を牛耳ろうとやっきになっている世界であることを忘れないようにしよう。この世界には福音につけ足したがる者がいるかと思えば、福音から差し引きたがる者がある。福音を覆い隠そうとする者があれば、それを跡形もなく切り刻もうとする者がある。ある者はあらんかぎりに余計なものを加えて福音を窒息させようとし、別の者はあらんかぎりに真理を差し引いて福音を出血多量死させようとしている。ただ、どちらの思い通りにさせても、キリスト教の生命力が奪われ、破壊されるという点では同じである。私たちはこの2つの誤りのどちらに対しても油断せず、祈りつつ警戒していよう。ローマ・カトリックというパリサイ人を喜ばせるために福音に何かをつけ加えることも、合理主義者というサドカイ人を喜ばせるために福音から何かを取り去ることもしないようにしよう。私たちのよって立つべき原則は、「真理、完全な真理、完全に純粋な真理」、何もつけ加えられず何も差し引かれていない真理としよう。


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第16章13―20 ペテロの気高い告白

 この箇所には、キリスト者の間に痛ましい意見の相違と分裂を引き起こしてきた言葉がいくつかある。人々は、互いに対する愛をなくすほど逆上して、その意味について論争してきたが、それにもかかわらず相手を納得させることができないでいる。ここでは、その論議の的である言葉を手短かに眺め、そこから実際的な教訓を引き出すだけにとどめよう。

 さてこの主の驚くべきおことばはどう解すべきだろうか。「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」。これは使徒ペテロそのひとが、キリスト教会のよってもって立つべき土台になるということだろうか。このような解釈は、どう控え目に云っても、きわめてありうべからざるものと思われる。過失と過誤を免れえないアダムの子らのひとりを、霊の神殿の土台として語るのは、聖書の通常の語法とは似ても似つかない。何よりも説明がつかないのは、もし私たちの主がそのようなことを意図しておられたとすれば、なぜ主は「わたしはあなたの上にわたしの教会を建てます」と云わずに、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」と云われたのか。

 この箇所の「岩」が真に意味しているのは、私たちの主はメシヤであり神であるという、ペテロが告白したばかりの真理であると思われる。主はいわばこう云われたのである。「あなたがペテロ、すなわち岩と呼ばれるのは正しいことです。なぜならあなたは今、大いなる真理を告白したからです。その真理の上にわたしは、いわばそれを岩として、わたしの教会を建てます」*1

 しかし私たちの主がペテロに対してなされた約束はどう理解すべきだろうか。「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます」。これは、魂を天国に入れるか入れないかを決める権利がペテロの手にゆだねられたということだろうか。ばかげた考えである。そのような職務はキリストご自身の特別の大権である(黙1:18)。ではこのことばは、ペテロが他の使徒たちにまさって卓越した第一の地位を占めるということだろうか。初代教会の時代、そのような意味がこのことばに付与されていたという証拠は皆無である。ペテロが他の十二弟子にまさる高位階級にあったという証拠は全くない。

 ペテロに与えられた約束の真の意味は、彼が、ユダヤ人と異教徒の両方に対して最初に救いの扉を開くという特権を与えられたということであると思われる。これはペンテコステの日に彼がユダヤ人に向かって説教したおりに、また異邦人であるコルネリオの家を訪問したおりに、文字通り成就した。どちらの場合も彼は「かぎ」を用いて信仰の扉を開けはなった。そして、この事実については彼自身も感じとっていたらしい。彼は云う。「神は……あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音を聞いて信じるようにされたのです」(使15:7)。

 最後のことばはどう理解すべきだろうか。「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています」。これは、使徒ペテロは罪を赦し、罪人に免罪を与える何らかの権威を持つことになるということだろうか。このような考えは、私たちの偉大な大祭司としてのキリストの特別な職務をおとしめるものである。私たちの知る限り、ペテロであれ他の使徒たちであれ、そのような権威を行使した者はだれひとりいない。彼らは常に人々をキリストにゆだねている。

 この約束の真の意味は、ペテロとその兄弟使徒たちには、権威をもって救いの道を教える任務が特に委託されるようになるということと思われる。あたかも旧約時代の祭司たちが、らい病人がきよめれているかどうかを権威をもって宣言したように、使徒たちは人の罪が赦されているかどうかを権威をもって「宣言し宣明する」よう任命されたのである。それだけでなく、彼らは論議の対象となる問題について、教会を導く定めと規則を書き記すよう特に霊感されるはずであった。彼らは、あることは「つなぐ」、すなわち禁ずることになり、あることは「解く」、すなわち許すこととなった。異邦人は割礼を受けなくともよいというエルサレム会議の決定は、この権威が行使された1つの例である(使15:19)。しかし、これは特に使徒たちだけに委託された権威である。彼らがこの権限から解任されたとき、後継者として立つ者はなかった。彼らに与えられたこの権威は、彼らの死とともに消えうせたのである。

 論争の的となっている言葉については、ここまでとしたい。おそらく私たちの個人的啓発のためには、これで十分であろう。ただしこうした言葉は、どのような意味に取られようとローマ教会とは一切関係ないということだけは覚えておこう。さて、これからは私たち自身の魂により直接的に関係する点に注意を向けていきたい。

 まず第一に私たちは、使徒ペテロがこの箇所で行なった気高い告白を称賛しよう。彼は、私たちの主の「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」という問いに答えて、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と云っている。

 ほんの一瞥だけでは、不注意な読者には使徒のこのことばには取り立てて著しいところは何もないように見えるかもしれない。この言葉が主によってこれほど激しく称賛されているのが異常に思われるかもしれない。しかし、そのような考えは無知と無思慮の現われである。信仰を告白するキリスト者の間で生きる者が、キリストを神から遣わされた神の御子であると信ずるのと、かたくなで不信仰なユダヤ人の間で生きている者がそう信ずるのとでは大違いである。それを人は忘れている。ペテロの告白の偉大さは、それがキリストの味方がほとんどなく、敵対者が数多い中でなされたという点にある。ペテロがこの告白をしたとき、彼自身の国家指導者である律法学者、祭司団、パリサイ人らはみな彼の師に対立していた。彼がこの告白をしたとき、私たちの主は「仕える者の姿をとり」、富も、王たる威厳も、また王の王としての目に見える何のしるしもお持ちでなかった。そのようなときこのような告白をするには、大きな信仰と、大きな決断力が必要であった。ブレンティウスが云うように、この告白そのものが「キリスト教全体の要約であり、信仰に関する真の教理の概略」である。それゆえ私たちの主は云われたのである。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです」。

 私たちは、ペテロがここで披瀝している心からの熱情と熱心をみならうべきである。私たちは、この聖徒が時折り見せるむらのある言動と、三度も繰り返された主を否む言葉とによって、彼をあまりにも過小評価しがちかもしれない。これは大きな間違いである。そのあらゆる欠点にもかかわらず、ペテロは真実な心で、熱心に、誠実に主に仕えるしもべであった。そのすべての不完全さにもかかわらず、彼は多くのキリスト者が範とするのが賢明な模範を示している。彼のような熱心は浮き沈みが激しく、堅忍不抜に1つの目標を追求する安定さには時として欠けることがある。彼のような熱心さは、的はずれになることがあり、時には悲しい過ちを犯してしまう。しかし彼のような熱心は蔑まれるべきものではない。このような熱心さは眠った心を覚醒させ、まどろんだ心を揺り動かし、他の人々を行動に駆り立てる。キリストの教会においては、いかなるものもまどろみや、なまぬるさや、無感動よりはましである。シモン・ペテロやマルチン・ルターのようなキリスト者がもっとたくさんいたなら、キリスト教国にとって幸いであったろう。

 次の点として私たちは、私たちの主がご自分の教会について語られたとき何を意味しておられたかに注意しよう。

 イエスが岩の上に建てると約束された教会とは、「信仰を持つ人々全員のほむべき集団」のことである。それは、ある特定の国や場所にある、目に見える教会のことではない。それは、あらゆる時代、民族、国民の信者全体のことである。それは、キリストの血によって洗われ、キリストの義を着せられ、キリストの御霊によって新しくされ、信仰によってキリストに連なり、生きたキリストの手紙となっている人々全員によって構成された教会である。聖霊のバプテスマを受けた者全員、真実まことに聖い人々全員の教会である。1つのからだである教会である。この教会に属する者はみな1つの心、1つの思いを持ち、救いに必要なものとして同じ真理を抱き、同じ教理を信じている。それは、たった1つのかしらしか持たない教会である。イエス・キリストご自身こそそのかしらである。「御子はそのからだである教会のかしらです」(コロ1:18)。

 私たちは、この点に関する数々の誤りに警戒しよう。「教会」という言葉ほどひどく誤解されている言葉はほとんどない。これほど純粋な信仰をひどく傷つける誤りはめったにない。この点に関する無知によって、おびただしい数の狂信者、宗派心、迫害が生み出されてきた。人々が監督教会、長老教会、独立教会について口論し議論をかわしてきたありさまは、あたかも特定の教派に所属することが救われるために必要であるとか、その教派に所属していさえすれば当然キリストに属する者に違いないといわんばかりである。その間中彼らは、救われるために不可欠な唯一の真の教会の姿を見失っているのである。神の選民の真の教会に属しているのでなければ、どこで礼拝していたとしても最後の審判の日には何の役にも立たない。

 最後に私たちは、私たちの主がその教会に対してなされた輝かしい約束に注意しよう。主は云われる。「ハデスの門もそれには打ち勝てません」。

 この約束が意味しているのは、サタンの力も決してキリストの御民を滅ぼすことはないということである。エバを誘惑して最初の創造に罪と死をもたらした者も、信者を打ち倒して新しい創造に滅びをもたらすことは決してないのである。教会というキリストの神秘的からだは決して死ぬことも朽ち果てることもない。たとえしばしば迫害や苦難、苦悩や屈辱に遭おうとも、教会は決して最期を迎えることはない。パロやローマ皇帝が何度怒りを発そうとも、教会は生き残る。エペソ教会のように、目に見える諸教会はすたれるかもしれない。しかし真の教会は決して死なない。モーセが見た柴のように、それは火で燃えはしても焼け尽きはしない。その教会に属するすべての者が無事に栄光のもとに連れていかれる。そのつまづきや失敗や欠点にもかかわらず、世と肉と悪魔の攻撃にもかかわらず、真の教会に属する者はひとりとして打ち捨てられることはない(ヨハ10:28)。

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*1 ここで主張した見解は近代になって生じたものでも、特にプロテスタント的な見解というわけでもない。これは古代のクリュソストモスの見解であった。また十六世紀にマエンヌのフランシスコ会で高名をはせたローマカトリックの説教者フェラスがそのマタイ説教集の中で教えている見解である。

 ここで一言付言しておいた方がいいと思うが、聖書が「全教父たちの一致した意見」に従って解釈できるなどと考えるのはとんでもない間違いである。全教父の一致した意見などというものはない。そう云われると何か高尚なことのように聞こえるが、事実の裏づけは全くない。教父たちの意見の違いは、ホイットビーとギル、あるいはマシュー・ヘンリーとドイリィとマントの相違なみに著しいものである。[本文に戻る]


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第16章21―23 ペテロへの叱責

 これらの節の冒頭で、私たちの主はご自分の弟子たちに対して、驚くべき偉大な真理を明かしておられる。それは、近づきつつある十字架上の死という真理であった。ここで初めて主は、「ご自分がエルサレムに行って……苦しみを受け、殺され……なければならない」という愕然とすべき事実を弟子たちに通告しておられる。主が地上に来られたのは王国を受けるためではなく死ぬためであった。支配し、仕えられるためではなく、いけにえとして自らの血を流し、多くの人のための贖いの代価として自分のいのちを与えるためであった。

 この知らせが弟子たちにとってどれほど異様で不可解なものと思えたか、私たちにはほとんどはかりしることができない。大部分のユダヤ人と同じく、彼らには苦難に遭うメシヤなどという考えは全く思いもよらなかった。彼らは、イザヤ書53章が文字通り成就しなくてはならないことを理解していなかった。律法に規定された数々の犠牲がみな、神のまことの小羊なる方の死を指し示していることをわかっていなかった。彼らが考えていたのはただ、世の終わりになって初めて起こるメシヤの輝かしい再臨のことだけであった。彼らはメシヤの王冠だけを考えるあまり、メシヤの十字架は目に入らなかった。私たちはこのことを覚えておくとよい。この問題を正しく理解することによって、この箇所に含まれている教訓に強い光が当てられるのである。

 これらの節から私たちが第一に学ぶのは、真にキリストの弟子であっても、大きな霊的無知を抱いていることがありうるということである。

 この箇所における使徒ペテロの言動ほど、この事実を明らかに証明するものはない。彼は私たちの主に向かって、十字架上の受難など思いとどまらせようとして云う。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずがありません」。彼は私たちの主が世に来られた真の目的を理解していなかった。彼の目は、主の死の必要性に対して盲目であった。実際彼は、できるものならどんな手を用いてもその死を妨げようとした! それにもかかわらずペテロが回心していたことは確かである。彼はイエスがメシヤであることを本当に信じていた。彼の心は神の目には正しいものであった。

 こうした事柄によって示唆されているのは、私たちは人を、善意のある良い人だからといって無謬であるとみなしたり、恵みが乏しくわずかな人だからといって何の恵みも持っていないとみなしたりしてはならないということである。ある兄弟は桁はずれな賜物を持ち、キリストの教会の中で明々と輝く光であるかもしれない。しかし彼が人間であること、そして人間である以上、大きな過ちを犯すことから免れてはいないことを忘れないようにしよう。また別の兄弟はごくわずかな知識しかないかもしれない。教理上のほとんどの点について正しく判断できず、言葉においても行動においても間違いを犯すかもしれない。しかしもし彼にキリストに対する信仰と愛があり、教会のかしらをかしらとして認めているのなら、忍耐をもって彼とつきあおうではないか。彼はペテロのように今は暗黒の中にあるかもしれない。しかしペテロのように、いつの日か福音の完全な光に浴することもありうるのである。

 これらの節から私たちが第二に学ぶのは、キリストの贖いの死という教理ほど徹底的に重要な聖書教理はないということである。

 私たちの主がペテロを叱責しておられる口調ほど、この事実を明らかに証明するものはない。主は彼を「サタン」というすさまじい名で呼びつけている。あたかも彼が敵であり、ご自分の死を妨げようとすることで悪魔のわざに加担しているというかのようにである。主は今しがた「幸いです」と呼びかけたばかりの人物に対して云っている。「下がれ。あなたはわたしの邪魔をするものだ」。主はたった今あれほど激賞した気高い告白をした者に向かって云っている。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。主がこれほど強い言葉を発されたことは一度もない。これほど慈愛に満ちた救い主が、これほど真実な弟子に対して、これほど厳しい叱責を与えなくてはならなかったという以上、これは実に大きな誤りであったに違いない。

 その真相は、主は十字架の死がキリスト教の中心教理としてみなされることを望まれたということにある。身代わりとしての主の死に対する正しい理解、その死によってもたらされた益の正しい認識こそ、聖書に立つ信仰の根幹である。決してこのことを忘れないようにしよう。教会政治や礼拝形式の問題においては、私たちと違う考え方をする人々も無事天国へ行き着くであろう。しかし平和の道としてのキリストの贖罪死という問題については、真理は唯一である。ここで誤れば永遠に滅びるしかない。多くの場合、間違いを犯すのは風邪をひくようなものである。しかしキリストの死について間違って考えることは命とりになる。ここでは堅く立って動かされないようにしよう。この立場を一歩も譲らないようにしよう。私たちのあらゆる希望は、「主が私たちのために死んでくださった」ことにつきるのでなくてはならない(Iテサ5:10)。この教理を手放せば、堅固な希望は何1つないのである。


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第16章24―28 自己否定の必要、まことのいのちの価値

 これらの節と前の箇所との関連を知るには、主が世に来られた目的について弟子たちが誤った印象を抱いていたことを思い起こさなくてはならない。ペテロのように彼らは、十字架の死という考えに耐えられなかった。イエスは地上の王国を打ち立てるために来られたのだと思っていた。師が苦しみを受けて死ぬ必要があることなど理解できなかった。彼らは、師に仕えることによって世俗の栄誉とこの世での報いを享受することを夢見ていた。真のキリスト者がキリストのように「苦しみによって……完全な者とされ」なくてはならないことを理解していなかった。私たちの主は、著しく厳粛なことばをもってこうした誤解をただしておられる。このことばを私たちは胸のうちにたくわえておくべきである。

 これらの節から第一に学びたいのは、人はキリストに従おうとするなら、困難と自己否定を覚悟しなくてはならないということである。

 私たちの主は、ご自分に従う者は「十字架を負」わなくてはならないと語って、弟子たちの甘い夢想を打ち砕いておられる。彼らが期待していた栄光の王国が打ち立てられるのはまだまだ先のことであった。主のしもべになろうとする者は、迫害と患難を覚悟しなくてはならなかった。魂が救われることを望むなら、「いのちを失う」としても満足しなくてはならなかった。

 この点を明確に理解しておくことは私たち全員にとって良いことである。真のキリスト教は、来たるべき世における栄光の冠を差し出すとともに、今の世においては日ごとに十字架をもたらすものである。それを忘れて自分をごまかしてはならない。肉は日ごとに十字架につけられなくてはならない。悪魔には日ごとに立ち向かわなくてはならない。世には日ごとに打ち勝たなくてはならない。私たちには戦うべき戦いがあり、携わるべき戦闘がある。これはみな真の信仰とは切っても切れない関係にある。それなしに天国を勝ち取ることはできない。「十字架なしに栄冠なし」という古いことわざほど真実なものはない。これを一度も経験したことがないという人は、魂が貧しい状態にあるのである。

 これらの節から第二に学びたいのは、人の魂ほど高価なものはないということである。

 私たちの主は、この教訓を教えるために、新約聖書の中でも最も厳粛な問いを投げかけておられる。この問いは、あまりにも有名で、あまりにも繰り返されることが多いため、人々はその重い意味を見失いがちであるが、私たちが自分の永遠の幸福をないがしろにしたくなるようなときは常にトランペットのごとく耳に鳴り響かせるべき問いである。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」。

 この問いにはただ1つの答えしかない。地の上にも下にも、まことのいのちを失ってその代わりになるものは何1つない。金で買えるもの、人が与えうるものの中で、自分の魂とくらべものになるものはない。世界とその中にふくまれているものはみな一時的なものにすぎない。すべてはうつろい、滅し、過ぎ去っていく。魂は永遠である。この一語こそあらゆる問題の鍵である。これを心に深く刻みつけよう。私たちはふらついた信仰生活をしているだろうか。苦難を恐れているだろうか。道はあまりにも狭く見えるだろうか。私たちの師のことば、それで「何の得がありましょう」を両耳に響かせよう。そして二度と疑わないようにしよう。

 最後に学びたいのは、キリストが再臨されるときこそ御民がその報いを受け取るときだということである。「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします」。

 直前の節がどのようなことを教えていたかを思うとき、主のこのおことばには深い知恵がふくまれている。主は人の心をご存じであった。私たちがいかに早く落胆しがちであるか、いかに簡単にイスラエルのように「途中でがまんできなくなり」がちであるか(民21:4)をご存じであった。それゆえ主は私たちの前に恵み深い約束を差し出しておられるのである。主は、かつて地上に来られたのと同じくらい確実にもう一度やって来られると私たちに思い起こさせておられる。そのときこそご自分の弟子たちがその良いものを受け取るときであると教えておられる。イエスに仕えイエスを愛した者らは、いつの日か、栄光と栄誉と報いをふんだんに与えられるであろう。しかしそれは再臨の際の経綸であり、初臨のときのそれではない。甘みの前には苦みが、栄冠の前には十字架がなくてはならない。最初の降誕は十字架刑の経綸であり、二度目の降臨は王国の経綸である。もし主のご栄光をともにしたいと願うなら、主の屈辱にあずかることをも甘んじて受けなくてはならない。

 さて今これらの節を離れる前に、ここに込められている問題について真剣に自己吟味しようではないか。私たちは十字架を負い、自分を殺す必要があると聞かされた。では私たちはそれを負い、日々実践しているだろうか。私たちはまことのいのちの価値を聞かされた。ではそれを信じる者としての生き方をしているだろうか。私たちはキリストの再臨について聞かされた。では希望と喜びをもってそれを待ち望んでいるだろうか。これらの問いに満足な答えを出せる人こそ幸いである!

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