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第15章1―9 律法学者・パリサイ人の偽善、伝統にしがみつく危険

 これらの節には、私たちの主イエス・キリストが律法学者、パリサイ人のある者らと交わされた会話が記されている。一見、この箇所の主題は現代とは無関係に思えるかもしれない。しかし実はそうではない。パリサイ主義は決して死に絶えることがない。ここには非常に重要な真理が定められている。

 第一に学ぶのは、偽善者は一般に宗教の外的な事柄に非常な重要性を付与するということである。

 この律法学者やパリサイ人の文句は、その驚くべき実例である。彼らは主イエスの弟子たちに対する非難を主のもとに持ち込んできた。しかし、それはどのような種の非難であったか。弟子たちが貪欲だったり偽善的であるというのではなかった。彼らが不誠実だったり愛がないというのでもなかった。神の律法の何も破ってはいなかった。ただ彼らが、「昔の先祖たちの言い伝えを犯す---すなわち、パンを食べるときに手を洗っていない」ということだけであった。弟子たちは、昔どこかのユダヤ人が発明した、単なる人間の権威による定めに従っていなかった。これが彼らの究極の罪状であった!

 現代は、このパリサイ精神が全く見られないであろうか。残念ながら、いやというほど見させられているのが実状である。信仰を告白するキリスト者のうち、おびただしい数の人々は、隣人が自分と外的な事柄において同じようにしている限りは、相手の信仰について何の関心も払っていないように見える。隣人は自分と同じ特定のしかたで礼拝しているか。自分と同じようにシボレテと云うことができ、自分好みの教理について多少とも開陳できるか。もしできるなら、たとえ相手に回心の証拠が何もなくとも満足してしまう。しかしもしそれができないと、たとえ相手が自分よりもよくキリストに仕えているかもしれなくとも、絶えずあら捜しに走り、相手と穏やかに話すことができない。私たちは、このような精神に陥らないよう用心しよう。これは偽善の罪の真骨頂である。「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜び……です」(ロマ14:17)。これを私たちの原則としよう。

 私たちがこれらの節から第二に学ぶのは、神のみことばに何かをつけ加えることには大きな危険があるということである。人が聖書につけ足しをするなどという大それたことをするとき、結局は自分自身のつけ足しを聖書そのものよりも重んずるようになりがちである。

 この点を最も驚くべき仕方で明らかにしているのが、弟子たちへのパリサイ人の非難に対して主イエスが答えられたことばである。主は云われる。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか」。主は、救いのため必要なものとして何か他のものを神の完全なみことばにつけ加えようとする考え方すべてを大胆に排撃しておられる。1つの例によって、そうした考え方に潜む有害な傾向をあばき出しておられる。あのパリサイ人らご自慢の伝承が、実はどれほど第五戒の権威を失墜させていたかを示しておられる。つまり、主は決して忘れられてはならない偉大な真理を確立しておられるのである。すなわち、どのような言い伝えにも「神のことばを無にして」しまう傾向が本来ひそんでいるということである。これらの言い伝えの創始者たちはそんなことを何1つ考えていなかったかもしれない。彼らの意図は純粋だったかもしれない。しかし、あるゆる宗教的制度には、単なる人間の権威をもって神のみことばの権威を纂奪しようという傾向があるということ、これこそキリストが明らかに教えておられることである。ブーツァーは厳粛に述べている。「人間の作り出した宗教的伝統に過度の注意を払いながら、神の恵みよりもそれらに信頼を寄せないような者はめったにない」。

 そして私たちはこの真理の陰鬱な証明をキリスト教会の歴史の中に見ていないだろうか。不幸にも、いやというほど見せられているのが実状である。バクスターが云うように、「人は神の掟が多すぎる、厳しすぎると考えながら、自らもっと多くのおきてを作り出し、それを守ることに汲々としている」。私たちは読んだことがないだろうか。神のみことばよりも教会法や儀式手順や教会法令集を賞揚し、それらに従わない者を、泥酔や御名を用いた呪いなどの公然たる罪よりもはるかに重く罰していた人々のことを。私たちは聞いたことがないだろうか。ローマ・カトリック教会が修道士の誓いや独身の誓い、教会祭日や断食日の遵守に途方もない重要性を付与し、それらをまるで家庭の義務や十戒よりも重んじているようであると。また私たちは一度も聞いたことがないだろうか。四旬節の期間に肉を食べることについて、公然たる不潔な生活や殺人よりも大騒ぎするような人々のことを。わが国においてすら私たちは気づいたことがないだろうか。いかに多くの人々が主教制の固守こそキリスト教の最重要問題であるとし、またいかに多くの人々が、悔い改めや信仰や聖潔や御霊の実よりも、いわゆる「英国国教徒らしさ」の方をはるかに重んじているように見受けられるかを。これらの問いには、1つの悲しい答えを出すことができる。パリサイ人の精神は、千八百年をへた今もなお生きているということである。「言い伝えのために神のことばを無にしてしまう」性向は、ユダヤ人と同様キリスト者の中にも見られる。神のみことば以上に人の発明を実質的に称揚するというこの傾向は、今なお猛威を振るっている。願わくは私たちがこれに対して用心し、油断しないでいられるように! 願わくは私たちが、いかなる云い伝えも、いかなる人の作り出した宗教上の制度も、人間関係における義務をないがしろにしてよい理由になったり、神のみことばのはっきりとした命令への不従順を正当化したりすることは決してできないと覚えていることができるように。

 これらの節から私たちが最後に学ぶのは、神が望まれる礼拝は心の礼拝であるということである。このことを私たちの主はイザヤの言葉を引用して確立しておられる。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている」。

 心は、夫婦関係、友人関係、親子関係において最も大切なものである。心こそ、神と自分の魂の関係のあらゆる面で、まず第一に注意を払わなくてはならない点である。私たちがキリスト者となるため最初に必要なことは何か。新しい心である。神が私たちにたずさえてくるよう求めておられるいけにえは何か。砕かれた、悔いた心である。真の割礼とは何か。心の割礼である。純粋な服従とは何か。心から信ずることである。キリストはどこに住まわれるだろうか。信仰により私たちの心の中にである。すべての人に向かって知恵が求めている第一の要求は何か。「わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ」。

 この箇所を離れるにあたり、正直に自分自身の心の状態を吟味してみよう。公の礼拝であれ密室の礼拝であれ、それがどれほど形式的に整っていても、「心が神から遠く離れている」限り全くむだである。このことを心に堅く思い定めよう。ひざまづき、頭を垂れ、声高くアーメンと唱え、毎日1章聖書を読み、主の晩餐に定期的に集う。これらはみな、私たちが罪や快楽や金銭やこの世に執着し続ける限り、役に立たず無意味である。主はすべての人に、「あなたはわたしを愛しますか」と云っておられる(ヨハ21:17)。私たちは、この主の問いに対して満足に答えることができて初めて救われるのである。


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第15章10―20 にせ教師、罪の源泉たる心

 この箇所には、主イエスの驚くべきおことばが2つ記されている。1つは偽りの教えに関するもの、もう1つは人間の心に関するものである。2つとも最大限の注意を払って学ぶべき大切な教えである。

 偽りの教えについて私たちの主が宣言されたのは、偽りの教えに反対するのは義務であること、そうした教えは最終的には確実にすたれていくこと、そのような教えを説く者は捨てられるべきであるということである。主は云われる。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい」。

 この箇所をよく見ると、パリサイ人やその云い伝えに対する主の強いことばに弟子たちが驚いたことは明らかである。おそらく彼らは若いころから、パリサイ人をこの世で最も賢くすぐれた人々とみなすことになれていたであろう。そのパリサイ人を自分たちの師が偽善者と非難し、神の戒めにそむく者と弾劾するのを聞いて彼らは愕然とした。そこで彼らは云った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか」。この問いに私たちは感謝しなくてはならない。こう問われたからこそ主はご自分のおこころを解き明かしてくださったのである。この主のことばに、しかるべき注意が払われたことは一度もなかったといえるかもしれない。

 私たちの主のことばは、平たく云えば、パリサイ人の教えのような偽りの教えは、何の情け容赦もしてはならない木だということである。それは「天の父がお植えにならなかった木」であり、たとえどのような不興を買おうと、私たちには「根こそぎに」する義務がある。その木を惜しむのは愛でも何でもなかった。それは人々の魂に害悪を及ぼしていたのである。その木を植えたのが身分高く、学識ある人々であっても全く関係はない。もしそれが神のみことばに反するなら、それには反対し、反駁し、排除しなくてはならない。それゆえ主の弟子たちが学ばなくてはならなかった正しい道は、非聖書的な教えはすべて反対し、それを「放っておき」、その教えにしがみつく教師たちをすべて見放すということである。遅かれ早かれ彼らは知るであろう。偽りの教えはことごとく完全に覆され、恥辱にまみれ、神のみことばに立っていないものは何も永続しない、と。

 この主のおことばには深い知恵に満ちた教訓がふくまれている。このことばは、信仰を告白する多くのキリスト者のなすべき義務について光を与えている。私たちは、その教訓を見抜き、よくわきまえよう。このおことばに具体的に従ったがために、あのほむべき宗教改革は生じたのである。この教訓には深い注意を払うべきである。

 ここで明らかにわかるのは、私たちには、偽りの教えに対して大胆に抵抗する義務があるということではなかろうか。これは疑いもなく確かである。神の真理が危機に瀕しているとき私たちは、人を立腹させるのではないかという恐れや、教会の譴責を受けるのではないかという恐怖から沈黙を守るべきではない。主の真の弟子なら、誤謬に反対して大胆に声をあげる、ひるむことない証し人たるべきである。ムスクールスは云う。「人々が邪悪で盲目だからといって、真理は隠蔽されてはならない」。

 ここでもう1つ明らかなのは、にせ教師がその迷妄を捨てようとしない場合、彼らを見放すことも私たちの義務であるということではなかろうか。これも疑いもなく確かである。神のみことばを否定するような教職者がいるとき私たちは、偽りの礼儀やうわべだけの謙そんから、その牧師が牧会する教会にとどまるべきではない。非聖書的な教えに従うのは非常に危険である。私たちの血の責任は私たち自身の手に帰すであろう。ホイットビーの言葉を借りれば、「盲人について行ってどぶに落ち込むのは、どう考えても正しいことではありえない」。

 最後に、私たちには偽りの教えがはびこるとき忍耐を持つべき義務があることも明らかではなかろうか。これも疑いもなく確かである。私たちは偽りの教えが長くは続かないことを思って慰められてよい。神ご自身が、ご自分の真理の主張を擁護してくださる。遅かれ早かれあらゆる異端は「根こそぎに」される。私たちの戦いは肉の武器によるものではなく、忍耐と説教と抵抗と祈りによる。ウィクリフが云ったように、遅かれ早かれ「真理は勝利する」。

 人間の心について私たちの主がこれらの節で宣言されたのは、人の心こそすべての罪と汚れの真の源泉であるということである。パリサイ人は、聖潔は飲食物やからだの洗いきよめによって左右されると教えた。彼らは、これらに関して彼らの云い伝えを守る者は神の前できよく汚れがなく、それを無視する者は罪と汚れに満ちていると説いた。主は、すべての汚れの真の源は人の外側にではなく内側にあると弟子たちに示して、この愚劣な教えを覆された。「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです」。神に正しく仕えようとするには、からだの洗いよりもはるかに重要なことが必要である。「きよい心」を追い求めることである。

 ここには人間の性質について何と恐るべき姿が描かれていることか。しかもそれを描き出しているのが、「人のうちにあるものを知っておられた」お方なのである。これは私たち自身の胸のうちにあるものについての、何というすさまじい目録であろう。何と陰鬱な悪の種子の一覧を私たちの主は暴露されたことか。これらの悪の種子が私たちひとりひとりの内側深く潜んでおり、隙あらば活動しようと待ち構えているというのである。自分を義とする高慢な人々は、このような箇所を読んで何が云えるだろう。これは盗人や人殺しの心の描写ではない。全人類の心をありのままに写し出したものである。願わくは神の恵みによって、私たちがこれをよく思い巡らし、知恵を学ぶことができるように!

 私たちは、信仰生活においては何よりも心の状態を第一とするよう堅く決意しよう。教会に通い、キリスト者らしい体裁を整えるだけで満足しないようにしよう。それよりもはるかに深く自らを探り、「神の前に正しい心」(使徒8:21)を持つことを願い求めよう。正しい心とは、キリストの血の注ぎを受けて、聖霊によって新しくされ、信仰によってきよめられた心である。私たちは、神が私たちのうちにきよい心をかたちづくり、すべてを新しくしてくださったと心のうちで御霊が証ししてくださるまで、決して安心しないようにしよう。

 最後に私たちは、いのちの続くかぎり「力の限り、見張って、自分の心を守る」よう固く決意しよう(箴4:23)。心は新しくされた後でさえ弱いものである。新しい人を着た後でさえ欺きに満ちたものである。最大の危険は内側から生ずることを決して忘れないようにしよう。この世から受ける害悪と悪魔による害悪をすべて一緒にしても、私たちが油断し祈りを忘れているとき、自分の心によってもたらされる害悪とはくらべものにならない。幸いなのは、「自分の心にたよる者は愚かな者」というソロモンの言葉を日々思い出す人である(箴28:26)。


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第15章21−28 カナン人の母親

 これらの節には、私たちの主の奇蹟がもう1つ記されている。この奇蹟に伴った状況には格別に興味深いものがある。それを順を追って眺めてみよう。この物語の一言一言から私たちは多くのことを学ぶことができる。

 第一にわかるのは、真の信仰は時として最も思いがけない方面で見いだされるということである。

 カナン人の女が、娘のため私たちの主に助けを求めて叫んでいる。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください」。もし彼女がベタニヤやエルサレムの住民であったとしても、このような願いは大きな信仰のあかしであったろう。しかし彼女が「ツロとシドンの地方」の出身であったことを見るとき、私たちは驚かざるをえない。ここから教えられるべきこと、それは、人を信者にするのは土地柄ではなく恵みだということである。私たちは、エリシャのしもべゲハジのように預言者と同じ家に住んでいながら悔い改めも信仰も持たず世を愛していることがありうる。またナアマンの家中にいたあの若いはしためのように、迷信と暗黒の偶像礼拝のただ中にありながら、神とそのキリストの忠実な証し人であることがありうる。私たちは、単に不都合な境遇にあるからといって、人の魂の救いをあきらめないようにしよう。ツロとシドンの地方に住んでいようと、神の国の座に着くことは不可能ではないのである。

 第二にわかるのは、患難は時として魂にとって祝福となるということである。

 このカナン人の母親は厳しい試練に遭っていたに違いない。彼女は愛児が悪霊に取りつかれているのを見ながら、その苦しみを取り除いてやれないでいた。しかしその苦難が彼女をキリストのもとへ導き、彼女に祈りを教えたのである。さもなければ彼女は無知なまま不真面目な人生を終え、イエスに会うことは決してなかったであろう。確かに彼女にとって苦しみに会ったことは幸いであった(詩119:71)。

 私たちはこのことを心に刻みこんでおこう。試練の中で忍耐を失うことほど私たちの無知を示すものはない。私たちが忘れているのは、あらゆる十字架は神からのメッセージであり、最後には私たちに益をもたらすためのものだということである。試練は私たちを考えさせるためのもの---私たちをこの世から引き離し、聖書に向かわせ、祈りに膝まづかせるためのものである。健康は良いものだが、もし私たちを神へ導くなら病いははるかに良いものである。何不自由ない暮らしは大きな恵みだが、もし私たちをキリストに向かわせるなら逆境はさらに大きな恵みである。いかなることも、いかなるものも、不真面目な人生を送り罪のうちに死ぬよりましである。このカナン人の母親のように苦難に会い、彼女のようにキリストのもとに逃れくる方が、あの「愚かな」金持ちのように安逸な生活を送って最後にはキリストも望みもなく死ぬより何千倍もまさっている。

 第三にわかるのはキリストの民はキリストより優しさや同情に欠けることが多いということである。

 ここに出てくる女は、私たちの主の弟子たちから冷淡にあしらわれている。ツロとシドンの地方の住民には、自分たちの先生の助けを受ける資格などないと彼らは考えたのかもしれない。いずれにせよ彼らは、「あの女を帰してやってください」と云った。

 信者と名乗る者らの中には、このような精神があまりにも多く見られる。彼らは、キリストを尋ね求める者たちを激励するかわりに、その心をくじくことがあまりに多い。彼らは初信者の恵みが真実であることを疑ってかかることが多く、回心後のサウロがエルサレムで受けたような扱いをしがちである。「みなは彼を弟子だとは信じないで……いた」(使9:26)。このような精神に屈することがないよう警戒しよう。キリストのうちにあった心をより豊かに持つよう努力しよう。キリストのように、救いを求める人々に対して常に優しく親切にし、励ましを与えよう。何よりも私たちは、自分たちキリスト者の姿によってキリストを判断しないように絶えず人々に告げていよう。この恵み深い主人には、そのしもべたちのだれにもまさるいつくしみがあることを断言しよう。ペテロやヤコブやヨハネは、苦しんでいる人に対して「あの女を帰してやってください」と云うかもしれない。しかしこのような言葉は決してキリストの口から出たことがない。時に主は、この女に対してなされたように、私たちを長い間待たせたままにしておくかもしれない。しかし主は決して私たちを空し手で帰らせはしない。

 最後にわかるのは、ここには、私たち自身のためにも他の人々のためにも、うまずたゆまず祈るべき大きな励ましがあるということである。

 この箇所ほど驚くべき仕方でこの真理を例証している記事はまずないといえる。この苦渋に満ちた女の願いは、最初完全に無視されたように見えた。イエスは「彼女に一言もお答えにならなかった」。しかし彼女は願い続けた。やがて主の口から出た言葉は、希望をかき立てるようなものではなかった。「わたしはイスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません」。しかし彼女は願い続けた。「主よ。私をお助けください」。主の次のことばは前よりさらに希望のないものであった。「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです」。しかし期待が長引かされても、彼女の心は病まなかった(箴13:12)。そこまで云われても、彼女は沈黙しなかった。そこまで云われても、いくばくかの恵みの「パンくず」を求めようとした。そしてこのねばり強い懇願によって、ついに彼女は恵み深い報いを受け取った。「ああ。あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」。「求めなさい。そうすれば与えられます」、という約束は決して破られることがない(マタ7:7)。

 私たちは自分のために祈るときこの物語を思い出そう。時々私たちは祈りなど何の役にも立たない、やめてしまおうか、と思いそうになる。そうした誘惑に屈さないようにしよう。それは悪魔からのものである。信じて祈り続けよう。自分につきまとう罪に対し、この世の霊に対し、悪魔の策略に対し、祈り続け失望しないようにしよう。なすべき務めを果たす力のため、試練に耐え抜く恵みのため、あらゆる試練の中での慰めのため、「たゆみなく祈り」続けよう。一日の中で膝まづいて祈るときほど有意義に用いた時間はないと確信しよう。イエスは私たちに耳を傾け、みこころのとき答えを与えてくださる。

 私たちは他の人々のためとりなしをするときこの物語を思い出そう。私たちには回心してほしい子らがいるだろうか。救われてほしい親族友人がいるだろうか。このカナン人の女にならい、彼らの魂の状態をキリストの前に持ち出そうではないか。昼夜を分かたずキリストの前で彼らの名をあげ、答えをいただくまで黙らないようにしよう。私たちは何年もの間待たなくてはならないかもしれない。祈っても何も変わらず、とりなしても何の役にも立たないように思えるかもしれない。しかし命の続く限り決してあきらめないようにしよう。イエスは変わることがないと信じよう。カナン人の母親に耳を傾け、その願いをかなえられた方は私たちにも耳を傾け、いつの日か平安の答えを与えてくださる。


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第15章29―39 キリストによるいやしの奇蹟

 この箇所の冒頭には特に注意を払うべき3つの点がある。ここではその3点に限り詳しく見ていこう。

 第一に注目したいのは、人々は、魂よりも肉体の病から解放されることとなると、どれほどの労苦もいとわないということである。ここには、「大ぜいの人の群れが、足なえ、不具者、盲人、おしの人、そのほかたくさんの人をみもとに連れて来た」とある。疑いもなく彼らの多くは、非常に疲れるだろう何マイルもの距離を旅してきていた。病人を旅行させることほど困難で難儀なことはない。しかし、癒される望みは目前にあった。そのような望みに病人はすべてを賭けるものである。

 この人々の行動に驚くのは、よほど人情を解さない人に違いない。驚く理由は何もない。彼らは健康こそこの世で一番の宝だと感じていた。苦痛はあらゆる試練の中で最も耐え難いものと感じていた。だれも肉体の感覚には勝てない。人が自分の力の衰えを感じたとする。からだが衰弱し、血色が悪くなり、食欲がなくなり、一言でいうと病気になったことを知り、医者が必要だとわかったとする。そこに直せない病はない名医がいると聞かせるがいい。その人はすぐさまその医者のもとに出かけるであろう。

 しかし私たちは、自分の魂は肉体よりもはるかに病んでいることを決して忘れず、この人々の行動から教訓を学びとるようにしよう。私たちの魂は、肉体のかかるいかなる疾病よりもはるかに根が深く、はるかに複雑で、はるかに癒しがたい業病に苦しんでいるのである。実際、私たちの魂は罪による疫病にとりつかれている。魂には癒しが必要である。しかもそれは実際に効く癒しでなくてはならない。さもなければ永遠に滅びるのである。私たちは本当にこのことがわかっているだろうか。感じているだろうか。自分の霊的病いに対して敏感だろうか。悲しいかな、これらの問いに対する答えはたった1つしかない! 人類の大多数はこの病を全く感じていない。彼らは目をくらまされている。自分の危険について全く無感覚である。彼らは、肉体の健康のためには医者の待合室に群がる。肉体の健康のためには、長旅をもいとわず転地療養に励む。しかし魂の健康には無関心である。まことに自分の魂の病いに気づく人こそ幸いである! その人はイエスを見いだすまで決して休まないであろう。肉体的な難儀など何ほどのこともない。いのちが、人生が、永遠のいのちがかかっているのだ。彼は「キリストを得」、癒されることにくらべれば、「いっさいのことを損と思」うであろう(ピリ3:8)。

 第二に注目したいのは、私たちの主がみもとに連れて来られた人々を癒された、その驚くべき容易さと御力である。ここで「群衆は、おしがものを言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て、驚いた。そして、彼らはイスラエルの神をあがめた」。

 この言葉に、罪に病む魂を癒す主イエス・キリストの御力が生き生きと示されているのを見るべきである。主が直せない心の病は1つもない。いかなる形であれ主が打ち勝てない霊的疾患は1つもない。情欲という熱病、世に対する愛という全身麻痺、無為怠惰という肺病、不信仰という心臓病、これらはみな主がその御霊を人の子らの魂に遣わされるとき、ことごとく屈服する。主は罪人の口に新しい歌をさずけ、かつてはあざけり冒涜していた福音に対する愛を語らせることができる。主は人の心の目を開き、神の国を見させることができる。主は人の耳を開き、その御声を喜んで聞かせ、主の行く所どこにでもついて行かせることができる。主は、かつては滅びへ向かう広い道を歩んでいた人に、いのちの道を歩く力を与えることができる。主は、かつては罪を犯す道具であった手に、ご自分に仕えみこころを行なわせることができる。奇蹟の時代はまだ去っていない。いかなる回心も1つの奇蹟である。私たちは人が本当に回心した場面を見たことがあるだろうか。そこに私たちはキリストの御手を見たのである。私たちは、たとえ地上におられたときの主がおしの人を語らせ、足なえの人を歩かせるのを見たことがあったとしても、これほど偉大な奇蹟は見なかったにちがいない。

 いま救われることを願い、そのためすべきことが何か知りたがっている人がいるだろうか。私たちは、信仰によってただキリストのもとへ行き、助けを求めなくてはならない。主は変わっていない。千八百年の歳月も主を全く変えてはいない。いと高き神の右の座についていながら、主は今なお偉大な名医である。主はなおも「罪人たちを受け入れて」くださる(ルカ15:2)。主は今なお力強い癒し主である。

 第三に注目したいのは主に満ちていたあわれみの心である。ここで主は、「弟子たちを呼び寄せて言われた。『かわいそうに、この群衆は』」。大群衆の姿は常に厳粛な光景である。そこで私たちは胸を打たれ、ひとりひとりが死にゆく罪人であること、ひとりひとりに救われなくてはならない魂があることを感じるべきである。キリストほど群衆を見て深くあわれまれた方はいまだかつていないと思われる。

 私たちの主が地上で経験されたと述べられている感情の多くが「あわれみ」と呼ばれているのは、興味深い驚くべき事実である。主の喜び、悲しみ、感謝、怒り、驚き、これらすべては時折記録されてはいる。しかし、こうした感情のうち1つとして、主の「あわれみ」ほどしばしば言及されているものはない。ここで聖霊が私たちに指摘しているように思われるのは、これこそ主のご人格の顕著な特徴であり、人々の間におられたとき主の心を圧倒的に占めていた感情であったということである。たとえ話の中の表現をのぞけば、九度以上も御霊は、福音書中に「あわれみ」という言葉を書かせている。

 ここには、非常に胸にせまるとともに、深い教訓に満ちたものがある。神のみことばに偶然書かれたものは何1つない。どこでどのような云い回しが選ばれていても、そこには特別な理由があるのである。この「あわれみ」という言葉は私たちの益のため特別に選ばれているのである。

 神の道に歩み出すことをためらっている人はみな、この言葉に励ましを受けるべきである。自分の救い主が「あわれみ」に満ちておられたことを思い出すべきである。主は彼らを優しく受け入れてくださる。何の代価もなしに赦してくださる。以前の不義ももはや思い出すことはなさらない。必要とするものはすべて豊かに与えてくださる。恐れてはならない。キリストのあわれみは底知れぬ海のように深い。

 聖徒たち主のしもべらは、心が物憂く感じるときこの言葉に慰めを受けるべきである。イエスが「あわれみに満ちて」おられることを思い起こすべきである。主は彼らがどのような世に生きているかご存じである。人の肉体の弱さもろさをご存じである。彼らの敵、悪魔のたくらみをご存じである。そして主は、ご自分の民をあわれんでくださる。失意と憂鬱に身をまかせてはならない。することなすこと弱さと失敗と不完全さがまとわりついていると感じられるかもしれない。しかし忘れてならないのは、「主のあわれみは尽きない」という言葉である(哀歌3:22)。

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