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第14章1―12 バプテスマのヨハネの殉教

 この箇所には、神の殉教者の書の1ページが記されている。バプテスマのヨハネの死の物語である。ヘロデ王の邪悪さ、ヨハネがヘロデに対して行なった大胆な叱責、その結果起こった忠実な叱責者の投獄、そしてその不名誉な死の状況、これらはみな私たちの教訓のために書かれている。「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」(詩116:15)。

 バプテスマのヨハネの死は、聖マタイよりも聖マルコの方で詳しく物語られている。今のところ、聖マタイの記述から2つの一般的な教訓を引き出し、それだけに注意を集中しておけば十分と思われる。

 私たちは第一に、良心の大きな力を学びとろう。

 ヘロデ王は「イエスのうわさ」を聞いて、侍従たちに「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」と云っている。彼は自分があの聖者にどのようにむごい仕打ちをしたか思い出し、心がなえてしまったのである。彼の心は、彼がヨハネの敬虔な勧告をさげすみ、汚らわしく忌まわしい殺人を犯したと告げていた。彼の心は、たとえヨハネを殺したとしても、なおその清算をする日があることを告げていた。彼とヨハネは再び会うことになろう。ホール主教の言葉は至言である。「邪悪な人間、特に血の罪を犯した人間に責め苦を与えるには、彼自身の心があれば十分である」。

 すべての人には生まれながらに良心が備わっている。これを決して忘れないようにしよう。私たちはみな、堕落し、失われ、絶望的によこしまな者として生まれついていながらも、神はご自分について証言するものを私たちの胸に残しておかれた。それは聖霊の助けなしには不十分で盲目の導き手である。それは誰をも救うことができない。誰をもキリストに導かない。それは「焼きごてをあてられたように」、踏んでも蹴っても無感覚になることがある。しかしあらゆる人には良心というものがあり、その人のうちで責め合ったり弁明し合ったりしている。聖書と経験の双方がそう宣言している(ロマ2:15)。

 良心は、その忠告を故意に拒む者は国王でさえ惨めにすることができる。パウロの説教を聞いたペリクスがそうだったように、この世の君主たちをも恐れとおののきで満たすことができる。彼らが発見するのは、説教者を投獄し斬首する方が、自分の心の中で彼の説教を縛りあげ、彼の叱責の声を沈黙させるよりもたやすいということである。神の証し人たちは道半ばにして命を絶たれることがあるが、彼らの証言はしばしば彼らの死後も長く残り、働き続ける。神の預言者たちは永遠に生きはしないが、その働きはしばしば彼らを越えて生きながらえる(IIテモ2:9、ゼカ1:5)。

 深く考えることをしない不敬虔な者らはこのことを覚え、自分の良心に逆らって罪を犯さないようにするべきである。自分の罪は、自分を「確実に見つけ出す」ものと知るべきである。しばらくの間は宗教のことを笑い、あざけり、馬鹿にすることができるかもしれない。こう叫べるかもしれない。「何をびくつく? 私の生き方のどこが悪い?」 このような者らは、そう大言壮語しながら実は自ら悲惨の種を蒔いており、遅かれ早かれ苦い収穫を刈り取ることになる。彼らのよこしまさがいつの日か彼らを襲い、ヘロデのように彼らは、「神に向かって罪を犯すのは、悪く、苦々しい」ことに気づく(エレ2:19)。

 教役者や教師は、人には良心があることを覚えて、大胆に働き続けるべきである。教えは必ずしも空しく宙に消えて行くわけではない。訓戒を与えても何の実も結ばないように見えるからといって、それは必ずしもむなしく失われはしない。教えは、たとえかえりみられず、何の役にも立たず、忘れ去られてしまうように思われても、必ずしもむだになるわけではない。説教を聴く者たちには良心がある。私たちの学び舎の子らには良心がある。多くの説教、多くの教えは、それを説教した者、教えた者がバプテスマのヨハネのように墓に葬られた後でも再びよみがえってくる。幾千もの人々は私たちの正しいことを知っている。ヘロデのようにあえてそれを告白しないだけである。

 第二に私たちは、神の子らはこの世で報いを期待してはならないことを学びとろう。

 敬虔な人生を送りながら報われなかった者をひとり選ぶなら、それはバプテスマのヨハネである。その短い生涯の間、彼がどれほど傑出した人物であったか、また彼がどのような最期を迎えたかをしばし考えてみよう。「いと高き方の預言者」であり、「女から生まれた者の中で」最も「すぐれた人」であった人物が、悪漢のように投獄されているのを見るがいい。34歳にもなるやならずで彼が非業の死を遂げさせられたのを見るがいい。「燃えて輝くともしび」が吹き消され、忠実な説教者がその義務を果たしたがために殺されたのを見るがいい。しかもそれを行なったのが、一個の姦婦の憎悪を満足させるための、気まぐれな暴君の命令だったのである! まことに、無知な人をして「神に仕えて何の得があろうか?」と叫ばしむるような事件が1つでもこの世にあったとすれば、それはここにある事件であった。

 しかしこの種のことは、いつの日か審きがあることを示している。すべての肉なる者の霊の神は、最後には審理所を開き、あらゆる者に行ないに応じて報いを与えられる。バプテスマのヨハネ、使徒ヤコブ、ステパノ、ポリュカルポス、フス、リドリ、ラティマーの血の責めが要求されるときがやがてくる。それはみな神の書に書かれている。「地はその上に流された血を現わし、その上に殺された者たちを、もう、おおうことをしない」(イザ26:21)。世は地を審く神がおられると知るであろう。「ある州で、貧しい者がしいたげられ、権利と正義がかすめられるのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもうひとりの上役がおり、彼らよりももっと高い者たちもいる」(伝5:8)。

 すべてのキリスト者は、最も良きものはまだ来ていないことを覚えるべきである。今現在苦しみを受けるとしても不思議に思わないようにしよう。今は試練のときである。私たちはまだ学校にいる。私たちは、もしも今良きものを受けていてはとうてい学びえないもの、すなわち忍耐や寛容、親切、柔和を学びつつあるのである。しかし、やがて永遠の休暇がはじまる。そのときを思って、私たちは静かに待っていようではないか。それはすべてを償ってあまりあるものである。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」(IIコリ4:17)。


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第14章13―21 パンと魚の奇蹟

 これらの節には私たちの主イエス・キリストの最も偉大な奇蹟の1つが記されている。5つのパンと2匹の魚によって「女と子どもを除いて、男五千人」を養った、五千人の給食である。私たちの主が行なわれた奇蹟のうち、新約聖書でこれほどしばしば言及されているものは1つもない。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの全員がこれを詳しく物語っている。明らかにこの事件は、私たちの主の伝記において特別な注意を払われるべきものとされているのである。その注意を払い、何が学べるか見てみよう。

 第一にこの奇蹟は私たちの主が神の力を持っておられたという論駁の余地ない証拠である。

 5つのパンと2匹の魚のようにわずかなもので、五千人以上の人々の空腹を満たすなど、その食物を超自然的に増加させるのでなければ不可能なことは明々白々である。このようなことは、どんな魔術師も詐欺師もにせ預言者もあえて試みたことがない。そうした者も、病人を一人直すとか、死体を1つよみがえるとかいうふりなら、奇術やごまかしを使って、信じやすい人々に成功したと思い込ませることはできるかもしれない。しかし、ここに記録されているほど偉大なわざを試みようとは決してしないであろう。一万人もの空腹な男女と子どもたちに満腹したと思い込ませるようなことができないことはわかりきっている。そのような者は、その場でペテン師、詐欺師の化けの皮がはがされるであろう。

 しかし、これこそ私たちの主が実際に行なわれた偉大なみわざであり、これこそ主が神であるという決定的な証拠である。主は、以前はなかったものを存在せしめた。そのままでは50人も満足させられなかったような食べ物から、目で見、手でふれられる現実の食物をつくりだし、五千人以上もの人々に与えられた。ここに、「すべての肉なる者に食物を与えられる」お方(詩136:25)、この世界とその中にあるすべてのものをお造りになったお方の御手を認めないような者は、盲目と云わざるをえない。創造のみわざは、神おひとりに属する大権である。

 私たちは、このような箇所をしっかりつかんで離さないようにすべきである。私たちの主が神の力をお持ちであるという、あらゆる証拠を心に銘記しておくべきである。無感動で未回心の教条主義者なら、この物語にほとんど何の価値も認めないかもしれない。しかし真の信者はこれを記憶にたくわえておくべきである。世と悪魔、また自分の心のことを思い、自分の救い主、主イエス・キリストが全能であられることを神に感謝するようにするべきである。

 第二にこの奇蹟は、私たちの主が人々に対して抱いておられた同情心を際立って示す例である。

 イエスは、人里離れた寂しい所で、飢え疲れて今にも倒れそうな「多くの群衆を見られ」た。主は、この群衆の多くは真の信仰もご自分に対する愛も全く持っていないと知っておられた。彼らが主について来たのは、流行からか、好奇心からか、それと同じくらい卑しい動機からであった(ヨハネ6:26)。しかし私たちの主はすべての者をあわれまれた。すべての者が必要を満たされ、すべての者が奇蹟によって与えられた食物にあずかった。すべての者が「満腹した」。空腹のまま帰った者は一人もなかった。

 ここに、罪人に対する私たちの主イエス・キリストの心を見ようではないか。主は常に変わらない。主は今も古の時代と同じく「あわれみ深く、情け深い神、怒るのに遅く、恵みとまことに富」む主である(出34:6)。主は人をその罪に応じて取り扱わず、人の不義に応じて報いない。主はその敵さえも恵みで満ち足らせられる。それゆえ、最後まで悔い改めない者ほど弁解の余地ない者はないであろう。主の慈愛は彼らを悔い改めに導いておられる(ロマ2:4)。地上の人々に対するお取り扱いすべてにおいて、主はご自身を「いつくしみを喜ばれる」お方として示しておられる(ミカ7:18)。私たちは主のようになる努力をしよう。昔の著者のひとりは云う。「私たちは、病んだ魂に対するあわれみと同情心に満ちあふれているべきである」。

 最後にこの奇蹟は、福音が全人類の魂の必要に十分答えうるものであると生き生きと象徴している。

 私たちの主の奇蹟には、例外なく深い象徴的な意味があり、重要な霊的真理が教えられている。このことにほぼ間違いはないが、その解釈は敬虔かつ慎重に行なわなくてはならない。多くの教父たちのように聖霊が全く意図していなかったような寓意を読みとることのないよう注意しなくてはならない。しかし、もし私たちの主が行なわれた奇跡のうちで、表面から汲みとれる平明な教訓以外に、明らかに象徴的な意味がある奇蹟があるとすれば、おそらくそれは今私たちの前にあるこの奇蹟である。

 私たちにとって、この寂しい場所にいる空腹な群衆は何を表わしているだろうか。これは全人類の象徴である。人の子らは滅びゆく罪人の大群衆であり、世という荒野の中で無力に、望みなく、破滅へ向かいながら、餓死しつつある者たちである。私たちはみな羊のようにさまよって行った(イザ53:6)。私たちは生まれながらに神から遠く離れている。私たちは、自分の危険を十分悟ってはいないかもしれない。しかし実は私たちは「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者である」(黙3:17)。私たちと永遠の滅びの間はほんの一歩である。

 このパンと魚は何を表わしているだろうか。その場の必要を満たすには明らかに不十分であったにもかかわらず、奇蹟によって一万人もの人々を養うに足るだけのものと変えられたこのパンと魚は、罪人のため十字架につけられたキリストという教理の象徴である。キリストが罪人の身代わりとなられ、その死によって世の罪を贖われるという教えの象徴である。生まれながらの人にとって、この教理は弱さそのものに思われる。十字架につけられたキリストは、「ユダヤ人にとってはつまづき、異邦人にとっては愚か」である(Iコリ1:23)。にもかかわらず十字架につけられたキリストは、「天から下って来て、世にいのちを与える」、「神のパン」となった(ヨハ6:33)。十字架の物語は、世界のどこで説かれようと、人類の霊的必要を満たしてあまりあるものである。身分、年齢、民族を問わずおびただしい数の人々が、それは「神の知恵、神の力」であると証言している。彼らはそれを食べて「満腹した」。彼らはそれが「まことの食物、まことの飲み物」であると知った。

 これらのことをよく熟考しよう。私たちの主イエス・キリストが地上でなされたみわざには、どれをとっても非常に深い意味がある。その深さを測りつくすことのできた者はいない。主のことばと行ないには、どれをとっても非常に豊かな教えの鉱脈がある。それを完全に探りきわめた者はない。福音書の多くの箇所は、エリヤのしもべが見た雲のようで(I列18:44)、見つめれば見つめるほど大きくなっていく。聖書には、測り知れない豊かさがある。聖書以外の書物は、何度も読めば貧弱で陳腐になるが、聖書は読めば読むほど豊かな味わいを見いだすようになるのである。


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第14章22―36 湖の上を歩くキリスト

 これらの節で語られている話は、類のないほど興味深いものである。ここに記録された奇蹟は、キリストとその民の性格をこの上もなくはっきり照らし出している。主イエスの御力といつくしみ、そして主のえり抜きの弟子たちにすら見られる信仰と不信仰の混合が、美しく例示されている。

 まず第一に私たちがこの奇蹟から学ぶのは、私たちの救い主が全被造物に対してどれほど絶対的な支配権を持っておられるかということである。私たちは主が、あたかも乾いた地面の上であるかのように「湖の上を歩いて」おられる姿を見る。弟子たちの舟を翻弄していた荒れ狂う波は神の御子に従順に従い、その足元で固い床となった。ほんの風のひと吹きでも波立つ流体の表面が、岩のように私たちの救い主の足をささえた。貧しく弱い私たちの理性には、この出来事すべては全く理解不可能である。ドッドリッジによれば、2本の足が海の上を歩く絵は、不可能なことを示すエジプトの象形文字であったという。物質としての肉体が水の上を歩くのは物理的に不可能であると科学者は云う。しかし私たちにとっては、それがなされたということだけで十分である。初めに大海を創造されたお方にとって、望むときにその波の上を歩くことなど児戯に等しいと思い出すだけで十分である。

 ここには真のキリスト者すべてを励ますものがある。キリスト者はみな、造られたものでキリストの支配のもとにないものは何1つないことを知るべきである。「万物が彼に従う」。ひとときの間、主はその民が試みに会い、問題の嵐に翻弄されることを許すかもしれない。主が助けに来られるのは主の民が望むよりも遅く、「夜中の3時ごろ」になるまで近づかれないかもしれない。しかし主の民は、風も波も嵐もすべてキリストのしもべであることを決して忘れてはならない。それらはキリストのみ許しなくば動くことができない。「大水のとどろきにまさり、海の力強い波にまさって、いと高き所にいます主は、力強くあられます」(詩93:4)。私たちはヨナとともにこう叫びたくなったことがあるだろうか。「潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました」(ヨナ2:3)。私たちは、それが「主の」波であることを思い出そう。私たちは忍耐強く待っていよう。イエスは今から私たちのもとへ、「湖の上を歩いて」やって来られるのかもしれない。

 私たちがこの奇蹟から第二に学ぶのは、イエスがご自分を信ずる者らにどれほど大きな力を授けることがおできになるかである。私たちは、シモン・ペテロが舟をおり、自分の主と同じように水の上を歩くのを見るのである。これは私たちの主の神性の何と素晴らしい証明であろう。ご自分で湖の上を歩くこと自体、途方もない奇蹟であるが、貧しく弱い弟子のひとりに同じことを行なわせることは、それ以上に偉大な奇蹟であった。

 この逸話のこの部分には深い意味がある。ここには、私たちの主の声を聞き、主に従う者のため、主がどれほど大きなことをできるが示されている。主は、彼らが一度は不可能と思っただろうようなことを行なわせることができる。主は彼らに、主がおられなければ立ち向かうことなど思いもよらなかったような困難と試練の間をくぐり抜かせることができる。彼らに火の中、水の中を無事に歩く力、あらゆる敵に打ち勝つ力を与えることができる。モーセがエジプトで、ダニエルがバビロンで、初代の聖徒たちがネロの宮廷で経験したことはみな、主の大能の力の例である。私たちは、自分の義務を果たしているかぎり何も恐れないようにしよう。水は深く見えるかもしれない。しかしイエスが「来なさい」と云われるなら、恐れる理由は何1つない。「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます」(ヨハ14:12)。

 私たちがこの奇蹟から第三に学ぶのは、キリストの弟子が不信仰によってどれほど大きな困難を招くかである。私たちは、ペテロがしばらくは大胆に水の上を歩いているのを見る。しかし彼は、しだいに「風を見て」こわくなり、沈みかける。肉の弱さが霊の意欲を圧倒しはじめた。彼は今受けたばかりの、自分の主の優しさと力との素晴らしい実証を忘れた。最初の一歩を踏み出させてくれた同じ救い主は、永遠に彼をささえ続けることができるに違いないと、彼は考えなかった。一度水の上におり立ったならば、最初に舟を離れたときよりも自分がずっとキリストに近づいていることに思い至らなかった。恐れが彼の記憶をさらっていき、恐怖が彼の理性を混乱させた。彼は風と波と自分にせまる危険のことしか考えられず、信仰は崩れ落ちてしまった。「主よ。助けてください」と叫ぶしかなかった。

 ここには、多くの信者の経験が何と生き生きと描かれていることだろう。キリストに従う最初の一歩を踏み出すだけの信仰は持ちながら、同じ足取りで歩み続けるだけの信仰には欠ける信者が何と多いことだろう。彼らは試練や危険に遭いそうになると、たちまち恐慌をきたす。自分たちを取り巻く敵に目をやり、自分たちのもとに押し寄せてくるように思われる困難に目を向ける。彼らはそうしたものを見つめるあまりイエスを見ることを忘れてしまう。そしてすぐに彼らの足は沈みだす。彼らの心は内側でなえてしまい、彼らの希望は消えうせ、彼らの慰めは姿を消す。しかし、なぜこのようなことになるのか。キリストは変わっておらず、彼らの敵は彼らにまさってはいないというのに。その理由は、単に彼らがペテロのようにイエスを見つめることをやめ、不信仰に屈したことにある。彼らはキリストのことを考えるかわりに、自分の敵のことを考えるようにさせられたのである。願わくは私たちがこれを心に銘記して、知恵を学ぶように!

 私たちがこの奇蹟から最後に学ぶのは、私たちの主イエス・キリストが弱い信者に対してどれほどあわれみ深いかである。私たちは、ペテロが主に向かって叫ぶやいなや、主が手を伸ばしてペテロを救われたのを見る。主はペテロが自分自身の不信仰の報いを受けて深い水の中に沈んでいくままにはなさらなかった。主はペテロの困難と、ペテロをそこから救い出すことしかお考えにならなかったように見える。主が口にされた唯一のことばは優しい叱責であった。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」。

 私たちはこの奇蹟のしめくくりにおいて、はかり知れない「キリストの優しさ」に目をとめるべきである。主は、人の心の中に真の恵みがあるときには、多くを忍び、多くを赦すことができる。母が自分の幼子のわがままさ、かたくなさにもかかわらずそれを優しく扱うように、主イエスもご自分の民を優しく扱われる。主は回心前の彼らを愛し、あわれみ、回心後の彼らをいやまさって愛し、あわれまれる。主は彼らのもろさをご存じであり、大きな寛容をもって接してくださる。主は私たちに、疑いを抱くのは信仰がないしるしではなく、単に信仰が弱いだけであると知らせようとしておられる。そしてたとえ私たちの信仰は弱くとも、主は常に喜んで私たちを助けてくださる。「もしも私が、『私の足はよろけています』と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように」(詩94:18)。

 ここには、キリストに仕える人を励ます何と多くのものがあるだろう。イエスのような救い主がともにおられるなら、なぜキリスト者の走路を走り出すことを恐れることがあろうか。私たちが倒れるとき、主は私たちを再び引き起こされる。私たちが過つとき、主は私たちを立ち戻らせてくださる。しかし主のあわれみがことごとく私たちから取り去られることは決してない。主は「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と云われ、そのおことばを守られる(ヘブ13:5)。願わくは私たちが、小さな信仰をさげすまないのと同時に、決して小さい信仰のまま安閑としていてはならないことを覚えていられるように。私たちの祈りは常に、「私たちの信仰を増してください」でなくてはならない。

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