第13章1―23 種蒔きのたとえ これらの節から始まるこの章で注目すべきは、ここにふくまれたたとえ話の数である。ここでは、7つの驚くべき霊的真理の例証が、教会の偉大なかしらによって、自然という本を通して描かれている。そのようにすることによって主は、被造世界のどんなものからでも、信仰を教えるための助けを引き出すことができると教えておられる。「適切なことばを見いだそうと」する者たちは、これを忘れるべきではない(伝12:10)。
この章の冒頭から始まる、種を蒔く人のたとえは、非常に広く適用できるたとえの1つである。このたとえの正しさは、絶えず証明されている。神のことばが宣べ伝えられ、解き明かされ、人々がそれを聞くため集まるところではどこでも、このたとえの言葉が正しいと証明されている。このたとえの教えは、原則として、どのような会衆の中でも起こることである。
まず第一に私たちはこのたとえから、説教者の職務は種蒔きの仕事に似ていることを学びとろう。
種を蒔く人と同じく、説教者は、実りを見たいと思うなら、良い種を蒔かなくてはならない。彼は、教会の伝統や人の教えではなく、純粋な神のことばを蒔かなくてはならない。これがなくては、彼の労苦はむだである。彼はあちこちへ出かけ、多くのことを語り、毎週の牧会活動を忙しくこなしているように見えるかもしれない。しかし、天国に行ける魂の収穫、生きた結果、回心は全くないであろう。
種を蒔く人と同じく、説教者は勤勉でなくてはならない。いかなる労苦も惜しんではならない。自分の仕事を成功させるためには、考えうる限りすべての手段を用いなくてはならない。忍耐強く「すべての水のほとりに種を蒔き」、「望みを抱いて蒔かなくては」ならない。「時が良くても悪くてもしっかり」やらなくてはならない。困難や失望によって妨げられてはならない。「風を警戒している人は種を蒔かない」。確かに、勤勉に労苦しさえすれば必ず成功するとは限らない。しかし、労苦と勤勉なしに成功することはありえない(イザ32:20、IIテモ4:2、伝11:4)。
種を蒔く人と同じく、説教者はいのちを与えることはできない。彼は自分の責任としてゆだねられた種をばらまくことはできるが、それに育てと命ずることはできない。真理のことばを人々に提供することはできるが、人々にそれを受け取らせたり、実を結ばせたりすることはできない。いのちを与えるのは、神の厳かな特権である。「いのちを与えるのは御霊です」。神だけが「成長させてくださる」(ヨハ6:63、Iコリ3:7)。
これらのことを私たちの心に刻み込もうではないか。神のことばのまことの教役者となるのは、決して軽いことではない。教会にあぐらをかき、怠惰で、おざなりの働き人になるのはたやすいが、忠実な種蒔き人となることは非常に困難である。私たちは、特に説教者のことを祈りに覚えるべきである。
次に、私たちはこのたとえから、神のことばを聞いて益を受けない人には、様々な種類があることを学びとろう。
私たちは、固い「道ばた」のような心で説教を聞くかもしれない。不注意で、ふまじめで、無関心な聞きかたをするかもしれない。十字架につけられたキリストが熱っぽく示されても、全く冷淡に、自分と何の関係もないことであるかのようにキリストの苦しみを聞くことがあるかもしれない。耳に言葉がはいるのは早くとも、たちどころに悪魔がそれらを奪い取り、私たちは説教など何も聞かなかったかのように帰宅するかもしれない。悲しむべきことに、このような聴衆は決して少なくない! 古に偶像について云われたことは、彼らについてもことごとくあてはまる。「目があっても見えません。耳があっても聞こえ……ません」(詩135:16、17)。真理が彼らに及ぼす影響は、水が石に当たるのと同じである。
私たちは喜んで説教を聞いていても、その印象は一時的で、長続きしないかもしれない。私たちの心は「岩地」のように、暖かい感情や良い決心という草むらを繁茂させるかもしれない。しかし、その間、魂に深く根をおろすような感化は全く受けておらず、迫害や誘惑の北風が吹くとすぐに、私たちの見せかけの信仰は枯れてしまう。悲しむべきことに、このような聴衆は決して少なくない! 説教を愛好しているというだけでは、恵みのしるしにならない。すでにバプテスマを受けた何千何万という人々は、エゼキエルの時代のユダヤ人のようである。「あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない」(エゼ33:32)。
私たちは説教を聞き、その1つ1つの言葉に同意しながらも、この世の吸引力のため、その説教から何の益も受けないかもしれない。私たちの心は、「いばらの中」のように、心づかいと快楽と世的な計画といった雑草がはびこって、ふさがれてしまうかもしれない。私たちは、本当に福音を好み、福音に従いたいと願いながらも、最後には心を完全に占領してしまうような何かをも、無意識のうちにこっそり愛することによって、福音が実を結ぶ機会を奪っているかもしれない。悲しむべきことに、このような聴衆は決して少なくない! 彼らは真理をよく知っている。いつかはきっぱりキリスト者になろうと望んでいる。しかし、彼らは決してキリストのためにすべてを投げ捨てるところまではいかない。決して「神の国とその義とを第一にする」決心をしない。そして、自分の罪の中で死ぬのである。
これらは、私たちがよく思いはかるべき点である。私たちは決して忘れるべきではない。みことばを聞いて何の益も受けないという場合は1つだけではない。私たちは説教を聞きに来るだけでは十分ではない。来て、なおかつ不注意であることもありえる。また不注意に聞かないだけでも十分ではない。私たちの受け取る印象は一時的なものにすぎず、すぐに消え去るものかもしれない。さらに、その印象が一時的なものでないだけでも十分でない。私たちがこの世にしがみつき続けることによって、そうした印象はいつまでたっても何の結果ももたらさないかもしれない。まことに、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」(エレ17:9)。
最後に、私たちはこのたとえから、みことばを正しく聞いたという証拠はただ1つしかないことを学びとろう。その証拠とは、「実」を結ぶことである。
ここで語られている「実」とは、御霊の実である。神に対する悔い改め、主イエス・キリストに対する信仰、生活と人格の聖さ、祈り深さ、へりくだり、愛、心の霊的な姿勢、---これらだけが、神のことばの種がその正当な働きを私たちの魂に行なっているという証拠である。こうした証拠がなければ、どれほど高潔なことを公言していても、私たちの信仰はむなしい。そのような告白は、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じである。キリストは云われた。「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結ぶ……ためです」(ヨハ15:16)。
このたとえ全体の中で、これよりも重要な部分は1つもない。私たちは決して不毛の正統主義、正しい神学的見解を冷たく固守するだけで満足していてはならない。明確な知識、暖かい感情、申し分のない告白だけで満足してはならない。私たちは、自分が愛すると告白している福音が、自分の心と生活の中に積極的な「実」を結ぶのを見るのでなくてはならない。これが真のキリスト教である。聖ヤコブの次の言葉は、しばしば私たちの耳に警鐘を鳴らすべきである。「みことばを行なう人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコ1:22)。
私たちは、この重要な問いを自問しないまま、これらの節の前から離れないようにしよう。「私たちはどのように聞いているか?」 私たちはキリスト教国に生きている。大多数の人々は、毎週礼拝に通い、説教を聞いている。ではどのような精神でその説教を聞いているだろうか。それは私たちの人格行動にどのような影響をもたらしているだろうか。「実」と呼ぶに値するものを私たちは何か指摘できるだろうか?
最終的に天国にたどりつくためには、毎週定期的に教会に通い、説教者の話を聞く以上のことが必要である。これは確実である。神のことばは、私たちの心で受け入れられ、私たちの行動の原動力とならなくてはならない。神のことばは、私たちの内なる人のうちに実際的な印象を生み出し、それが私たちの外側の行動となって現われるのでなくてはならない。もしそうでないなら、それは最後の審判の日に、私たちの罪状をふやすだけのことである。
HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT
第13章24―43 麦と毒麦のたとえ これらの節の大半を占める、「麦と毒麦」のたとえは、今日特に重要な意味を持っている*1。ここに語られたたとえは、多くのキリスト者が妄想しているような、海外伝道や国内宣教に対する過度の期待を正すのにうってつけのものである。願わくは私たちが、このたとえにしかるべき注意を払えるように!
まず第一に、このたとえは、信仰を告白する教会には、世の終わりまで、常に善人と悪人が混在するであろうことを教えている。
目に見える教会はここで、種々雑多な人々からなる集団として示される。それは、「麦と毒麦」が肩を接して育つ広大な畑である。私たちはどのような会衆の中にも、信者と未信者、回心者と未回心者、「御国の子どもたち」と「悪い者の子どもたち」がみな、すでにバプテスマを受けた者として、入り混じって存在することを覚悟していなくてはならない。
説教者がどれほど純粋な福音を語ろうと、これを防ぐことはできない。こうした状況は、どの時代の教会にも存在していた。これは、初期の教父たちの経験であった。宗教改革者たちの経験であった。そしてこれは、現代の最もすぐれた牧会者たちの経験である。目に見える教会が、あるいは何らかのキリスト教の集会が、「麦」だけで構成されていたようなことはいまだかつて一度もない。かの魂の大敵たる悪魔は、常に「毒麦」を蒔こうと意を用いている。
教会がどれほど厳格で思慮深い戒規を実行しようと、これを防ぐことをできない。監督派であろうと長老派であろうと組合教会派であろうと、この事態に変わりはない。私たちがどれほど教会をきよめようとしても、完全に純粋な集会を保つことは決してない。毒麦が麦に混じって見いだされるはずである。偽善者、えせ信者が入り込んでくるはずである。そして何よりも悪いことに、私たちが純潔さを確保しようと努力しすぎることは、善よりも害を及ぼすことになるのである。私たちは、多くのイスカリオテのユダの類いを勇気づけ、多くのいたんだ葦を折る危険を犯すことになる。熱心に「毒麦を抜き集め」ようとすることによって、「麦もいっしょに抜き取る」おそれがある。このような熱心さは無思慮のそしりをまぬかれないものであり、しばしば多大な害を及ぼしてきた。毒麦さえ抜き取れれば麦に何が起ころうとかまうものか、などという者は、キリストの心とはほど遠いところにいる。そしてつまるところ、次のアウグスティヌスの寛大な言葉には深い含蓄があるのである。「きょう毒麦である者も、明日は麦となるかもしれない」。
私たちは、宣教師や牧師の働きによって、全世界が回心することを期待しがちだろうか。このたとえを直視し、そのような考えには用心することにしよう。現在のような状態では、私たちは決して地上のすべての住民が神の「麦」となるのを見ることはないであろう。毒麦と麦は「収穫まで、両方とも育つままに」なる。この世の王国は決してキリストの王国にはならない。千年期は、王ご自身が戻られるまで決して始まらない。
私たちは、にせキリスト者がこれほどいるのだからキリスト教は真実であるはずがない、などという不信者のあざけりの議論に悩まされたことがあるだろうか。このたとえを思い起こし、動揺しないようにしよう。不信者にはこう告げよう。私たちは君たちのあざけっている事態には全然驚かない。私たちの師は、千八百年も前から、こういう事態になると心備えをさせておられたのだ、と。主は、ご自分の教会が「麦」だけでなく「毒麦」をもふくむ畑となるだろうことを見通し、予告されたのである。
私たちは、自分の属するプロテスタント教会には回心もしていない教会員が大勢いるといって、別の教会に移ろうかという気を起こしたことがあるだろうか。このたとえを思い出して、自分のしようとしていることに注意しよう。私たちは決して完璧な教会など見つけることはできない。私たちは、一生の間、教派から教派へと渡り歩き、いつまでたっても失望し続けることになりかねない。どこへ行こうと、またどこで礼拝しようと、私たちは常に「毒麦」を見つけるであろう。
第二にこのたとえは、世の終わりには、目に見える教会に属する者たちが、敬虔な者と不敬虔な者に分離される日がやってくることを教えている。
現在のような混合状態は永遠に続きはしない。麦と毒麦は最後になって分かたれることになる。主イエスは、再臨の日に「その御使いたちを遣わし」、信仰を告白するキリスト者たちすべてを、2つの大きな集団にされる。これらの力ある刈り人たちは、何の間違いも犯さない。彼らは過つことない判断力によって、正しい者と悪い者を識別し、おのおのの者をしかるべき所に置く。聖徒でキリストの忠実なしもべであった者たちは、栄光と誉れと永遠のいのちを受け取る。世的で不敬虔で不注意で未回心の者たちは、「火の燃える炉に投げ込」まれる。
このたとえのこの部分には、特に厳粛なものがある。この意味は取り違えようのないものである。私たちの主ご自身が、あたかも私たちの心に深く銘記させようとするかのように、尋常ならざる明晰さで説き明かしておられる。主が結びとして「耳のある者は聞きなさい」と云われたのも当然である。
不敬虔な者は、このたとえを読むとき身震いするべきである。悔い改めて回心しない限り確実に訪れる運命を、この恐ろしいことばの中に見るべきである。今のまま神を無視し続けるのは、自ら災いの種を蒔くにひとしいことを知るべきである。自分が最後には「毒麦の束」の中に集められて焼かれることになることを思うべきである。確かに、このような末路をたどるしかないとあれば人は考えてしかるべきである! いみじくもバクスターが云うように、「私たちは不敬虔な者に対する神の忍耐を誤解してはならない」。
キリストを信じる者は、このたとえを読むとき慰めを受けるべきである。主の大いなる恐るべき日、自分には幸福と安全が備えられていることを見るべきである。大天使の声と神のラッパの音は、信者には何の恐怖でもない。それらは、長いこと待ち望んでいた完璧な教会と完璧な聖徒の交わりに加わるがいい、という招きなのである。ついに悪人どもを分離した信者の集いは、何と美しく見えることであろう。ついに毒麦が取り去られた麦は、神の穀物倉で何と清らかに見えることであろう。世的で未回心の者と絶えず接触して曇らされることがもはやなくなった恵みは、何とまばゆい輝きを放つことであろう。現在、正しい者らはほとんど知られていない。世は、彼らの師に何の美も認めなかったように彼らにも何の美も認めない。「世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです」(Iヨハ3:1)。しかし、正しい者たちは、いつの日か、「天の父の御国で太陽のように輝きます」。マシュー・ヘンリーの言葉を借りれば、「彼らの聖化は完成させられ、彼らの義認は公にされる」。「私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます」(コロ3:4)。
______________________________________
*1 「からし種」および「パン種」のたとえは、将来マルコまたはルカの福音書講解において考察するので、ここでは取り上げないこととする。[本文に戻る]
HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT
第13章44―50 宝と真珠と地引き網のたとえ 「畑に隠された宝」と「良い真珠を捜している商人」のたとえは、同じ1つの真理を伝えようとしていると思われる。疑いもなく、2つはある一点で著しく相違している。「宝」を見つけたのは特に探す気もなさそうだった人であり、「真珠」を見いだしたのは実際に真珠を捜していた人であった。しかし、見つけた後の行動はどちらも全く同じである。両者とも「持ち物を全部売り払って」見つけたものを手に入れようとした。この点では、どちらのたとえの教えもぴったり一致している。
この2つのたとえは、救いの重要さを本当に確信した人は、すべてを捨ててもキリストと永遠のいのちを勝ち取ろうとすることを教えるためのものである。
私たちの主の語る二人の人はどんな行動をとったか。一人は、「畑に隠された宝」があると確信した。その畑を買えば、どれほど高い金額を支払うことになろうと十分見合うだけの財宝が隠されていると確信した。もう一人は、自分の見つけた「真珠」に莫大な価値があり、どんな値段で買おうと決して損にならないと確信した。二人とも、途方もない値打ちのものを見いだしたことを確信していた。現在どれほどの犠牲を払おうと手に入れるだけの価値はあると二人とも信じていた。他人は驚き怪しんだかもしれない。ただの「畑」や「真珠」にそれほど多額の金額を払うとは大馬鹿だと思ったかもしれない。しかし二人は自分のしようとしていることを承知していた。それが安い買い物であると確信していた。
この単純な話の中にこそ、真のキリスト者の行動の秘密が隠されている。真のキリスト者があのようなあり方、生き方をしているのは、その価値があると完全に確信しているからである。彼はこの世から出て行く。古い人を脱ぎ捨てる。以前の無益なつきあいを捨て去る。マタイのようにすべてを捨てる。パウロのように一切をキリストのゆえに「損と思」う。なぜか。キリストは、自分の捨てたすべてを償って余りある方であると確信しているからである。彼はキリストのうちに無限の「宝」を見ている。尊い「真珠」を見ている。これが真の信仰である。これが、まぎれもない聖霊のみわざの証印である。
この2つのたとえにこそ、多くの未回心の人々の行動を解き明かす真の鍵がある。彼らが信仰についてあのような態度をとるのは、他の人と違うようになるだけのものがあるとは真に確信していないためである。彼らは決心をためらう。十字架を負うことに尻込みする。どっちつかずの態度を決め込む。決定的な一歩を踏み出そうとしない。大胆に前に進み出て、主の側につこうとしない。なぜか。彼らは、そうするだけの価値があるかどうか確信していないのである。彼らには信仰がない。「宝」が目の前にあるかどうかはっきりしない。これほど高価な値段を払うだけの「真珠」かどうか納得していない。彼らは、キリストをわがものとするため「持ち物全部を売り払」う決心がまだできない。そして、あまりにもしばしば、そのまま永遠の滅びに至る! 人がキリストのために何も賭けないというとき、私たちが引き出さざるをえない悲しい結論は、その人は神の恵みを得ていないということである。
海におろされた地引き網のたとえは、いくつかの点で麦と毒麦のたとえと共通するところがある。これは、目に見えるキリスト教会の真の性質という最も重要な主題を私たちに教えるものである。
福音宣教とは、大きな地引き網をこの世という海の真中におろすことであった。その網が集める、信仰を告白する教会は、雑多な人々の集団となるはずであった。その網の囲みの中には、良い魚悪い魚の区別なく、あらゆる種類の魚がはいるはずであった。教会の内部には、回心者だけでなく未回心者が、真の信者だけでなくえせ信者が、すなわち様々なキリスト者がはいるはずであった。確かに最後には良いもの悪いものの分離がなされるが、それは世の終わりまでは行なわれない。これが、偉大な師がその弟子たちに向かって、彼らが見いだすことになるだろうと告げられた教会のありようであった。
このたとえの教訓を私たちの思いに深く刻みこんでおくことは非常に重要である。キリスト教において、目に見える教会の性格ほど大きな誤解を持たれている点はほとんどない。おそらく、これほど魂にとって危険な誤解はないといっていい。
このたとえから私たちは、信仰を告白するキリスト者の会衆はみな混合体とみなされなくてはならないことを学ぼう。彼らはみな「良いものと悪いもの」、回心者と未回心者、神の子らと世の子らをふくむ集会であり、そのようなものとして語られ語りかけられなくてはならない。バプテスマを受けた者すべてに、あなたがたは新しく生まれている、御霊を受けている、キリストのからだである、聖徒であるなどと告げるのは、こうしたたとえの前では全く弁護できない。そのような種類の説教は人を喜ばせ、いい気にさせるかもしれないが、有益でも人を救うものでもない。痛ましいことにそれは、自分の義を頼む心を助長し、罪人を眠らせておくことになる。それはキリストの率直な教えを覆し、魂に滅びを招く。そのような教えを聞いたことがあるだろうか。もしあるなら「網」のことを思い出そう。
最後に私たちは、単なる名簿上の教会員籍だけで決して満足しないと堅く心に定めよう。私たちは地引き網の中にいながらキリストのうちにいないことがありうる。バプテスマの水は、いのちの水で洗われていないおびただしい数の人々の上に注がれている。パンと葡萄酒は、信仰によってキリストに養われていない何千何万もの人々によって口にされている。私たちは回心しているだろうか。「良い魚」のうちにはいるだろうか。これこそ大いなる問いである! この問いに最後まで答えずにすますことはできない。網はすぐ「岸に引き上げ」られ、あらゆる人の信仰の実態があばかれる。良いものと悪いものは永遠に分離される。悪い者には「火の燃える炉」が待っている。確かにバクスターが云うように、「これらの取り違えようもない言葉が必要としているのは、これ以上の解説よりも信仰と熟考である」。
HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT
第13章51―58 キリストが故郷で受けた扱い、不信仰の危険 これらの節で私たちが第一に注目すべきは、私たちの主が、この章の7つの素晴らしいたとえをしめくくっておられる、印象的な問いかけである。主は云われた。「あなたがたは、これらのことがわかりましたか」。
個人的な適用は説教の「魂」と呼ばれてきた。適用のないメッセージは、宛名のない手紙を投函するようなものである。それは素晴らしい名文で、日付も署名も正しく記されているかもしれないが、役立たずである。なぜなら、めざす宛先に届かないからである。私たちの主の問いかけは、真に心探る適用の見事な模範である。「あなたがたは、これらのことがわかりましたか」。
説教を聞く格好だけして、意味を理解しないのでは何の益にもならない。それではラッパの音や太鼓の響きを聞くのと同じであろう。ラテン語で行なわれるローマ・カトリックの典礼に出席しているのと同じであろう。人は知性を働かせ、心が感動しなくてはならない。理性で思想を受け取らなくてはならない。新しい思考の種を獲得しなくてはならない。それがなくては聞いても聞かなくても同じである。
この点を明確にしておくことは非常に重要である。この件については途方もない無知がまかり通っている。おびただしい数の人々が定期的に礼拝に通って来ては、それだけで信仰の義務を果たしたつもりでいるが、何の思想も持ち帰らず、何の感動も受けていない。日曜の夜、帰宅した彼らに何を学んだか聞いてみるがいい。彼らは一言も答えることができない。一年の終わりに、信仰の知識においてどこまで進歩したか調べてみるがいい。彼らの無知さかげんは異教徒なみである。
この点で私たちは自分の魂に注意しよう。教会に行くときは肉体だけ出席させるのでなく、理性も知性も感情も良心も忘れずに連れていこう。しばしばこう自問しようではないか。「私はこの説教から何を受けたか。私の心を感動させたのはどんな真理だろうか」と。疑いもなく知性は信仰のすべてではない。といって知性が無に等しいということはできない。感情が最も大切であることに間違いはない。しかし決して忘れてならないのは、普通、聖霊は理性を通して感情にふれてくださるということである。まどろみながら怠惰に不注意な聞き方をする者には、決して回心の見込みはない。
これらの節で第二に注目すべきは、私たちの主がご自分の故郷で受けられた意外な扱いである。
主は、ご自分がお育ちになったナザレの町に来て「会堂で人々を教え始められた」。疑いもなく主の教えは常と変わらぬものであった。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」。しかし、それはナザレの人々には何の影響も及ぼさなかった。彼らは「驚い」たが、その心は無感動だった。彼らは云った。「この人は大工の息子でありませんか。彼の母親はマリヤではありませんか」。彼らは主をよく知っていたために、主をあなどった。「彼らはイエスにつまづいた」。そして彼らは主から厳粛な寸評を引き出した。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです」。
この物語の中に私たちは、人間性の陰鬱な一面が示されていることを悟ろう。私たちはみな、恵みに馴らされ、恵みを手軽に得られるとなると、それを軽んじがちな者である。英国で大量に出版されている聖書や信仰書、また豊かに供されている恵みの手段、毎週聞ける福音説教、これらはみな、ことごとく過小評価されがちである。信仰においては、他の何にもまさって「馴れすぎは侮りを招く」ということが悲しい真実である。どれほど言い古され、どれほど陳腐な文句になってしまっていようと真理は真理である、ということを人は忘れてしまう。そして、言い古されているからといってそれを軽蔑する。悲しいかな、そうすることで彼らは神を怒らせ、恵みを取り上げられるのである!
私たちは敬虔な信者の親族や使用人や隣人たちが必ずしも回心するわけではないのを不思議がることがあるだろうか。傑出した福音の教役者の教区民が、しばしばその聴衆の中で最もかたくなで悔い改めにくい者らであることを不思議がることがあるだろうか。もう不思議に思うことはやめにしよう。私たちの主のナザレでの経験に注意し、知恵を学ぼうではないか。
私たちは、もしイエス・キリストを見、そのことばを聞けたなら、忠実な弟子になっていただろうと夢見たことがあるだろうか。もし主のそば近くに生き、主の生涯を目の当たりにしていたなら、今のように中途半端でぐずついた、なまぬるい信仰生活はしていないはずだと考えているだろうか。もしそうなら、そのような考えはこれきりやめにしよう。ナザレの人々を見て、知恵を学ぼうではないか。
これらの節で私たちが注意すべき最後のことは、不信仰の破滅的な性質である。この章の最後は、恐ろしいことばでしめくくられている。「イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった」。
この一言にこそ、おびただしい数の魂が永遠の滅びに陥る秘密がある! 彼らが永遠に滅びるのは、信じることを望まないからである。地にも天にも、これほど救いの妨げとなるものはない。彼らの罪は、どれほど多くともみな赦されることができる。御父の愛はいつでも彼らを迎え入れようとしている。キリストの血はいつでも彼らをきよめようとしている。御霊の力はいつでも彼らを新しくしようとしている。しかし大きな壁がたちふさがっている。彼らは信じることを望まないのである。イエスは云われる。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」(ヨハ5:40)。
私たちはみな、この呪わしい罪を警戒しようではないか。これこそ人間の堕落を引き起こした、かの古い根源の罪である。この罪は、御霊の力により真の神の子らのうちでは切り倒されていながら、再び芽吹き急激に伸張しようと常に機を窺っている。神の子らが日々守られるよう祈らなくてはならない大敵が3つある。高慢、世的になること、不信仰である。このうち不信仰ほど大きなものはない。