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第12章1―13 安息日に関する真の教えとユダヤ人の誤り

 この箇所で際立っている1つの大きな問題は、安息日の問題である。私たちの主の時代、ユダヤ人の間ではこの問題について多くの奇妙な意見がまかり通っていた。パリサイ人は、安息日に関する聖書の教えに人間の伝統を付加し、それによって安息日の真の性格を覆い隠してしまっていた。これは、キリスト教会内でもしばしば様々な意見が持たれ、現在も人々の間に幅広い意見の違いが存している問題である。私たちは、ここに語られた主の教えから、この問題について何が学べるか見てみよう。

 まず第一に私たちは、この箇所から、私たちの主イエス・キリストは週ごとの安息日遵守を廃棄してはおられないことを学びとろう。主はここでも他の四福音書のどこでも、そのようなことはしておられない。安息日問題に関するユダヤ人の誤りについては、主はしばしばご自分の意見を表明しておられる。しかし、主の弟子が安息日の遵守を全くやめるべきであるというような教えは一言も見られない。

 これに注目することは非常に重要である。安息日問題に関する主のおことばの表面だけをとらえたため起こった間違いは、決して少なくも軽くもなかった。おびただしい数の人々が、キリスト者は十戒の第四戒とは何の関係もないのだという性急な結論に飛びつき、モーセの犠牲律法と同様、安息日律法は私たちを縛らないと考えている。こうした結論を裏書きするようなものは新約聖書に全く存在しない。

 真実は、私たちの主は週ごとの安息日を廃棄されなかったということである。主は単に、安息日を不正確な解釈から解き放ち、人のこしらえた付け足しから安息日をきよめられただけのことである。主は十戒から第四戒を切り放しはしなかった。ただ、当時パリサイ人が安息日にこびりつかせ、その日を祝福の代わりに重荷としてしまっていた不幸な伝統を、第四戒から剥がし取っただけである。主は第四戒をその本来の姿、すなわち神の永遠の律法の一部として残しておかれた。律法はその一点一画も永遠にすたれることはない。願わくは、私たちがこれを決して忘れることがないように!

 第二に私たちはこの箇所から、私たちの主イエス・キリストは、真に必要な行動とあわれみのわざはみな、安息日にも行なうことを許しておられることを学びとろう。

 これは、今私たちが考察している聖書の箇所から、疑問の余地ないほどはっきり証明される原則である。主は、安息日に麦畑の穂を摘んでいた弟子たちを弁護しておられる。それは聖書で許可されていた行為であった(申23:25)。彼らは「ひもじくなっ」て、実際に食物を必要としていた。それゆえ彼らを非難すべきではない。---主は、安息日に病気の人を癒すことの正しさを主張しておられる。その人は病と痛みに苦しんでいた。そのような場合に助けの手を差し出すことは、決して神の命令に背くことではない。私たちは、決して良いわざを行なうことを休んではならない。

 私たちの主が、必要なわざ、あわれみのわざは安息日にも行なってもよいと示すために用いられた議論は、驚くべき、また反論しようのないものであった。主は、主と主の弟子たちを律法違反のかどで非難していたパリサイ人たちに、ダビデとその連れの者たちが、他の食物がないため、幕屋から取られた聖なる供えのパンを食べたことを思い出させておられる。主は彼らに、宮にいる祭司たちは安息日にも動物をほふり、ささげ物をささげるなどの働きをせざるをえないことを思い出させておられる。主は彼らに、羊でさえ安息日に穴に落ちたなら、彼ら自身、それが苦しんで死ぬのを放っておくよりは、引き上げるだろうことを思い出させておられる。何よりも主は、いかなる神の定めも、明らかな愛の義務をないがしろにさせるほど極端に押し進められてはならないという、偉大な原則を定めておられる。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」。律法の第一の板は、私たちに第二の板を破らせるような解釈をされるべきではない。第四戒は、私たちを隣人に対して不親切で無慈悲な者とするように解説されるべきではない。このすべてには深い知恵がある。私たちは、「この人が話すように話した人は、いまだかつてありません」との言葉を思い出させられる。

 この問題を後にするにあたり、私たちは決して、キリスト教の安息日の神聖さを軽んじるような気を起こさないよう用心しよう。私たちは、この恵み深い主の教えを、安息日の神聖を汚す云い訳にしたりしないように注意しよう。主がこれほど明確に示してくださった自由を乱用したり、おのれの利己的な満足のため行なうにすぎないことを、あたかも「必要とあわれみ」のための行為のように見せかけて安息日に行なったりしないようにしよう。

 この点をなぜ警告するかというと大きな理由がある。安息日についてパリサイ人の犯した間違いは1つの極端である。しかしキリスト者は別の極端で間違いを犯す。パリサイ人は、安息日の神聖さを増大させようなどととしていたが、キリスト者は、あまりにもしばしば、安息日の神聖さを減少させ、その日を怠惰に、世俗的に、無関心に過ごすことを好んでいる。願わくは私たちがみな、この問題についての自分自身の行動を吟味するように! 救いに至るキリスト教は、安息日の遵守と密接に結びついている。願わくば私たちが、私たちの偉大な目標が「安息日を覚えて、これを聖なる日と」することであることを決して忘れないように! 必要なわざは行なってよい。「安息日に良いことをすること」、そしてあわれみを示すこと「は、正しい」。しかし、安息日を無為に、娯楽を求めながら、世的に費やすことは完全な間違いである。それはキリストの模範と正反対であり、神の明白な命令に背く罪である。


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第12章14―21 パリサイ人の邪悪さ、キリストの慰めに満ちたご人格

 この箇所で第一に私たちの注意を引くのは、ここに例証される、人間の心の絶望的な邪悪さである。私たちの主に答えるすべもなく論破されたパリサイ人らは、ますます罪の深みにはまりこんでいった。彼らは、「出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した」。

 私たちの主が、そのような仕打ちを受けなくてはならない、どんな悪を行なったというのか。何1つない。主の生涯には非の打ちどころがなかった。主は聖く、人を傷つけることも、汚れに身を染めることもなく、罪人たちと一線を画し、善を行なう日々を送っていた。主の教えには非の打ちどころがなかった。主は、ご自分の教えが聖書にも人の理性にもかなっていることを証明した。それには誰も反論できなかった。しかし、これほど完全な生涯を送り、完全な教えを説いたにもかかわらず、主は憎まれた。

 これが人間の本性である! 回心していない心は神を憎み、できるものなら、好機がありさえすれば、常に神への憎悪をむきだしにする。未回心の心は神の証し人を迫害する。少しでも神の心を持ち、神にかたどり新しくされた人がいると毛嫌いする。なぜあれほど多くの預言者が殺されたのか。なぜ使徒たちの名はユダヤ人から疫病神のように放逐されたのか。なぜ初代教会の殉教者らは殺されたのか。なぜヤン・フスやプラハのヒエローニュムス、リドリやラティマーは火刑に処されたのか。彼らが何か罪を犯したためではない。何か邪悪な行為に走ったからではない。彼らはみな、敬虔であったがために苦しめられたのである。未回心の人間の本性は、敬虔な人々を憎む。それは神を憎んでいるからである。

 真のキリスト者は、主イエスが出会ったのと同じ仕打ちを受けても決して驚いてはならない。「世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません」(Iヨハ3:13)。生まれながらの人間の敵意を受けずにすむような生き方は、どこか中途半端な、どこか神と歩みをともにしていない生き方である。だから、もし自分がもう少し完全な人間になり、もう少し首尾一貫した人になれば、だれからも愛されるようになるだろうに、などと良心を痛める必要はない。それは全くの間違いである。私たちが思い出さなくてはならないのは、この地上に完璧な人はたったひとりしかおられなかったこと、そしてそのお方は愛されずに憎まれたのだということである。世が憎むのは信者にある欠点ではなく、敬虔さである。世の敵意をかきたてるのは信者に残る古い性質ではなく、新しい性質のあらわれである。このことを忘れずに、忍耐強くあろうではないか。世はキリストを憎んだ。従って世はキリスト者を憎むのである。

 この箇所で第二に私たちの注意を引くのは、聖マタイが預言者イザヤの言葉を引いて描き出している、私たちの主イエス・キリストの、慰めに満ちたご人格である。「彼はいたんだ葦をおることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」。

 いたんだ葦、くすぶる燈心とは何と理解するべきであろうか。この預言者の云い回しは、疑いもなく比喩である。この2つの表現は何を意味しているのだろうか。最も単純な説明はこうである。聖霊はここで、現在のところは恵みが弱く、悔い改めがか細く、信仰の小さい人々を描写しているのである。このような者たちに対し主イエス・キリストは、この上もなく優しく、思いやり深くあられる。たとえいたんだ葦は弱くとも折られはしない。くすぶる燈心の火の粉は小さくとも消されない。弱い恵み、弱い信仰、弱い悔い改め、これらはみな私たちの主の目には尊い。これは恵みの御国において永遠の真理である。主は強い方であるが、「だれをもさげすまない」(ヨブ36:5)。

 ここに明言された教理には、慰めといたわりが満ちている。どのキリスト教会にも、この教理によって平安と希望を語られなくてはならない者が大勢いる。どのような会衆の中にも、福音を聞くとすぐ、こんなに弱い自分など救われるはずがないと絶望する者が必ずいる。そうした人々は、自分の知識や信仰や希望や愛が取るに足らず、ちっぽけすぎるように思えるため恐れに満ち、落胆してやまない。そうした人は、この聖句の慰めを豊かに味わうべきである。弱い信仰しかない人は、強い信仰の人と同じくらい大きな喜びを持つわけにはいかないかもしれないが、キリストの救いにあずかる点にかけては、強い信仰の人と同じくらい現実の、また真実の救いを手にすることができるのである。幼児のいのちは、成人のいのちに負けない、立派ないのちである。火の粉の火は、燃えさかる炎に負けない、立派な火である。最も程度の低い恵みでさえ永遠の財産である。それは天からくだったもの、主の目に尊いもの、決して打ち負かされないものなのである。

 サタンは、神に対する悔い改めと、私たちの主イエス・キリストに対する信仰の始まりを軽くみなすだろうか。否である。断じて否である。サタンは、自分の時が長くないのを見て、瞋恚を燃やす。---神の御使いたちは、キリストにあって神に立ち返ろうという思いの芽生えを軽んずるだろうか。否である。むしろその光景を見るとき、彼らの間には「喜びがある」。主イエスは、強くもたくましくもない信仰や悔い改めには一顧も払わないだろうか。否、断じて否である! タルソのサウロという「いたんだ葦」が主を叫び求めはじめるやいなや、主は「彼は祈っています」と云って、アナニヤを遣わしておられる(使9:11)。キリストへ向かいはじめた魂の最初の動きをばかにするのは、たいへんな間違いである。無知なこの世には、好きなようにあざ笑わせておこう。私たちは確信できる。「いたんだ葦」も「くすぶる燈心」も、私たちの主の御目には非常に尊いものなのである。

 願わくは私たちがみな、これらの事柄を心に銘記し、必要なとき自分自身のため他の人々のために用いることができるように! 火の粉1つでも真暗闇よりはましであり、小さな信仰でも全くの無信仰よりはよい。これは信仰生活の座右の銘とすべきである。「だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか」(ゼカ4:10)。キリストはそれをさげすまれない。キリスト者もそれをさげすんではならない。


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第12章22―37 キリストの敵らの冒涜、知識に逆らう罪、むだな言葉

 この聖書箇所には「理解しにくいところ」がふくまれている。特に聖霊に逆らう罪については、どれほど学識ある神学者によっても十分完全に解き明かされたことがない。これがどんな罪でないかを聖書から示すことは難しくないが、これが何の罪であるかを明確に示すことが難しいのである。しかしもし、ここかしこに人間の計り知れない深い部分を秘めていないとしたら、聖書は神の書ではないであろう。むしろ私たちは、こうした節からさえ、無学な者にもたやすく理解できるような、知恵深い教訓を知りうるようにしてくださった神に感謝しようではないか。

 まず第一に私たちはここから、心かたくなで偏見に満ちた人々が信仰に反対して語る冒涜には限度がないということを知ろう。私たちの主が悪霊を追い出しておられる。するとたちまちパリサイ人らは、あれは「悪霊どものかしらの力で」追い出しているのだと声を上げるのである。

 これは、ばかげた非難であった。私たちの主は、悪魔が自分の王国の破壊に手を貸したり、「サタンがサタンを追い出し」たりするなどという考えがいかに理不尽であるか示しておられる。しかし、腹の底から信仰に敵対している者にとって、愚かすぎること、理不尽すぎることなど1つもない。キリストの福音を攻撃しようとして、論理も常識も平常心も失ったのは、パリサイ人だけにとどまらない。

 確かにこの非難は異様に聞こえるが、これは神のしもべらに対してしばしばなされた非難である。彼らの敵は、彼らが目をみはるようなわざを行ない、この世に影響を与えていることは認めざるをえなかった。キリスト者の労苦の結果を直視せざるをえなかった。否定はできなかった。では彼らは何と云うか。パリサイ人が主について述べたのと同じことを云うのである。「これは悪魔だ」。キリスト教初期の異端者たちは、アタナシオスに対してこの種のことを語った。ローマ・カトリック教徒たちは、マルチン・ルターについてこの種の流言を広めた。この世の続く限り、こうしたことは続くであろう。

 傑出した人々に対し、理由もなく恐ろしい非難が浴びせかけられるのを聞いても、私たちは決して驚いてはならない。「彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう」。これは古くからある手口である。キリスト者の議論に反論できず、キリスト者の業績を否定できないとき、悪人たちのとる最後の手段は、キリスト者の人格を誹謗することである。もし私たちがそのような目に遭うことになったら、辛抱強く耐え忍ぼうではないか。キリストと潔白な良心がついている限り、満足できるはずである。偽りの非難をされたからといって天国に行けなくなるわけではない。最後の審判の日、私たちの人格の潔白は晴らすことができる。

 第二に私たちはこれらの節から、信仰に対し中立の立場を取ることは不可能であることを知ろう。「キリストの味方でない者はキリストに逆らう者であり、キリストとともに集めない者は散らす者です」。

 どの時代の教会にも、この教えを叩き込まれなくてはならない多くの者がいる。彼らは、信仰について中道を歩もうと懸命に努力する。彼らは多くの罪人たちほど悪人ではないが、さりとて聖徒でもない。彼らは、キリストの福音が提示されるとき、その真実であることを感じるが、自分の感じたことを告白することは恐れる。そのような感じを抱いていることで彼らは、自分は他の人々ほど悪くはないとうぬぼれはするが、主イエスが定めた信仰と行為の基準からは尻込みする。彼らはキリストの側に立って大胆に戦うことも、公然とキリストに逆らい立つこともしない。私たちの主は、このような者はみな危険な立場にあると警告しておられる。信仰の問題において取るべき立場は2つに1つ、つくべき陣営は2つに1つ、くみすべき側は2つに1つである。私たちはキリストの味方としてキリストの教えのために労しているか。そうでないなら私たちはキリストに逆らっているのである。私たちはこの世で善をなしているか。そうでないなら害悪をなしているのである。

 ここに主張された原則は、私たちがみな心にとめておくべきことである。キリスト教では、日和見を決めこまずに決然とした態度を取らない限り、平安を得ることも他人に善をなすこともできない。そう堅く思い定めようではないか。ガマリエルの道は、一度も人を幸福にしたり、役に立つ者としたことがなかったし、これからも決してないであろう。

 第三に私たちはこれらの節から、知識に逆らう罪が極度に罪深いものであることを知ろう。

 これが、聖霊に逆らう罪に関する主のことばから自然に引き出される実際的結論であると思われる。このことばは、疑いもなく難解なものであるが、罪の重さに程度があると証明していることは、まず間違いない。人の子の真の宣教を知らずに犯した罪は、聖霊が与えられた後の真昼の光の中で犯された罪ほど重い罰を受けることはない。光が明るければ明るいほど、その光をしりぞける者の罪責は大きい。福音の性格についての知識が明瞭であればあるほど、故意に悔い改めと信仰を拒む者の罪は大きい。

 ここで教えられている教理は、聖書のこの箇所にしかないわけではない。聖パウロはヘブル人らに云う。「一度光を受け……たうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」。「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばき……を、恐れながら待つよりほかはないのです」(ヘブ6:4―6、10:26、27)。これは私たちが、至る所で悲しむべき証明を見いだしている教理である。敬虔な両親のもとで育った未回心の子どもたち、敬虔な家庭で働く未回心の奉公人、福音的な教会に集う未回心の教会員、こうした人々を感動させることほど難しいことはない。彼らは全く無感覚になっている。蝋を溶かすのと同じ火が、粘土を硬くする。---さらにこの教理は、過去の時代に悲劇的な最期を迎えた人物たちの生涯によっても、恐るべき確証を受けている。パロ、サウル、アハブ、イスカリオテのユダ、ユリアヌス帝、フランチェスコ・スピエーラらは、私たちの主のことばの意味を恐ろしいまでに例証している。どの例をとっても、そこには明確なキリストの知識と、意図的にキリストを排斥することが相伴って見られる。どの例でも、頭には光がありながら、心には真理への憎悪がある。そしてどの者の最期も、「永遠のまっ暗なやみ」であるように見える[ユダ13]。

 願わくは神が私たちに、自分の受けた知識を---小さな知識であれ大きな知識であれ---用いる意志を与えてくださるように! 与えられた知識をないがしろにし、自分の特権をむだに費やす危険に警戒することができるように! 私たちには光があるだろうか。ならばその光に十分見合う生き方をしようではないか。私たちは真理を知っているだろうか。ならば真理のうちを歩もうではないか。これが、赦されることのない罪に陥らないための最善の対策である。

 最後に私たちはこれらの節から、私たちが日々発する言葉に注意を払うのは非常に重要であることを知ろう。私たちの主は、「人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません」と告げておられる。また、「あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです」とつけ加えておられる。

 主のことばのうち、これほど心探られるものはほとんどない。大部分の人にとって、言葉ほど無造作に発しているものは、おそらくないであろう。彼らは日々のつとめを果たしながら、何の気なしに、深く考えることもなく、ぺらぺらと言葉を口にしている。まるで、正しいことを行なっていさえすれば、何と語っているかはたいした問題ではないと思っているかのようである。

 しかし本当にそうだろうか。私たちの言葉はそれほど取るに足らない軽いものだろうか。この聖書箇所を見ては、その通りと云うわけにはいかない。水の味が泉の水質を示す証拠であるのと同じく、言葉は私たちの心の状態を示す確実な証拠である。「心に満ちていることを口が話すのです」。唇は単に心の思いを表に出すにすぎない。私たちの言葉は、最後の日、私たちの取り調べ項目の1つとなるであろう。私たちは、自分のなした行動だけでなく、自分の発した言葉についても申し開きをしなくてはならなくなる。まことにこれはこの上もなく厳粛な事柄である。たとえ聖書にこれ以外の聖句が全くなくとも、この箇所だけで私たちは、自分が「神のさばきに服する」者であること、自分が、自分の義にまさる義、すなわちキリストの義を必要とする者であることを確信するに違いない(ピリ3:9)。

 この箇所を読むとき私たちは、過ぎた過去を思い起こしてへりくだろうではないか。私たちはみな、何と多くのつまらぬ、愚かで、むだで、軽薄浮薄な、罪深い、有害なことを語ってきたことか! 私たちの何と多くの言葉が、風に舞い散るあざみの種の冠毛のごとく、決して死に絶えることのない害毒を他の人々の心に蒔き散らされてきたことか! 古の聖徒の言葉を借りれば、何としばしば私たちは、友人に会うとき、「後になって、しなければよかったと思うしかないような会話」をしてきたことか! 次のバーキットの言には深い真理がある。「冒涜的な嘲弄や無神論者の冷笑は、語った者の舌が死んだ後も、聞いた者の心にはこびりついている。語られた言葉は物理的には一瞬だが、道徳的には永久に続く」。ソロモンは云う。「生と死は舌に支配される」(箴18:21)。

 言葉に関するこの箇所を読むとき私たちは、いまだ来ないこれからの日々を思って警戒しようではないか。神の恵みにより、私たちは自分の舌について今以上に注意深くなり、舌の用い方において今以上に厳格になることを決意しよう。自分の「ことばが、いつも親切で」あるように、私たちは日々祈ろう(コロ4:6)。毎朝私たちは聖なるダビデとともに云おう。「私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために」。彼とともに、強い人に向かって力を叫び求めよう。「私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください」。聖ヤコブはいみじくも云う。「もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です」(詩39:1、141:3、ヤコ3:2)。


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第12章38―50 不信仰の力、部分的で不徹底な回心の危険、弟子たちに対するキリストの愛

 この箇所の冒頭は、旧約聖書の歴史の正しさを驚くべき仕方で証ししている箇所の1つである。私たちの主は、南の女王を真に生き、真に死んだ、現実の人物として語っておられる。主はヨナの物語にふれ、ヨナが大魚の腹の中で奇跡的に保たれたことを否定しようのない事実としておられる。人々が、新約聖書の著者は信じると告白しながら、旧約聖書に記録された出来事などおとぎ話だとあざけるようなとき、私たちはこのことを思い出そう。そうした者らが忘れているのは、そのように云うことで自分が、キリストご自身をあからさまに軽蔑しているということである。旧約聖書の権威と新約聖書の権威は、ともに立つかともに倒れるか2つに1つである。福音書記者を霊感してキリストについて書かせた、同じ御霊が、人々を霊感してソロモンやヨナについて書かせたのである。今日において、このことは決してどうでもいいことではない。心に刻みつけておこうではないか。

 これらの節で私たちの注意を引く第一の実際的教訓は、不信仰の驚くべき力である。

 律法学者やパリサイ人らが、どのように私たちの主にもっと奇蹟を見せてほしいと求めているか注目すべきである。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです」。彼らは、もう少し証拠を見せてもらえば自分たちも確信し、弟子になるというふりをしている。イエスがすでになされた数多くの驚異には、目をつぶってである。彼らにとっては、主が病人を癒し、らい病人をきよめ、死人を生き返らせ、悪霊を追い出しただけでは十分でなかった。彼らはまだ得心しなかった。さらに多くの証拠を要求した。彼らは、私たちの主がそのお答えの中ではっきりと指摘されたことがわからなかった。すなわち、彼らには信じようとする意志が全くなかったのである。彼らが確信するための証拠は十分あったが、彼らは確信したいと願っていなかったのである。

 キリスト教会にも、こうした律法学者やパリサイ人らとまるきり同じ状態の者がたくさんいる。彼らは自分にへつらって、もう少し証拠がありさえすれば、自分もすっぱりキリスト者になるのだが、などと云う。もう少し別な議論によって、理性的に知的に満足するならば、ただちにすべてをキリストのために投げ捨て、十字架を負い、キリストについて行こう、などと夢想している。しかしそれまではただ待っているというのである。何という盲目さであろう! 彼らには、自分のまわりに証拠の山があることがわからない。実のところ、彼らは確信したくないのである。

 願わくは私たちがみな不信仰の霊に対して警戒するように。この悪は、この後の世で増大しつつある。子どものような単純な信仰に欠けること、これが今の時代と社会の全階層で増え広がりつつある特徴である。教会や社会の中で、もし指導的な人々の行動に驚かされるなら、その何百という例の真の説明は、彼らから信仰がきれいさっぱり欠落していることにある。神が聖書の中で告げておられることすべてを信じようとしない人は、必然的に、道徳的、信仰的な問題において、どっちつかずの、煮え切らない態度をとるに決まっている。「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない」(イザ7:9)。

 これらの節で私たちが出会う第二の実際的教訓は、部分的で不徹底な回心には、すさまじく大きな危険があるということである。

 汚れた霊が一度離れてから戻って行った人について、私たちの主がどれほど恐るべき姿を描き出しているか注目すべきである。このことばは何と恐ろしいことか。「出て来た自分の家に帰ろう」! この描写は何と真に迫っていることか。「家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました」! そしてその結末は何と戦慄すべきものか。「出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を7つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住み着くのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります」! この描写は、悲痛な深い意味に満ちている。これをさらに詳しく吟味して、知恵を学びとろうではないか。

 この描写に見られるのが、私たちの主が来臨された時代のユダヤ人の教会と民族の歴史であることは疑いを入れない。確かに彼らは、最初は神の特別の民となるためにエジプトから召されたにもかかわらず、偶像礼拝の傾向から完全に抜け出したことは一度もなかったように見える。確かに彼らは、後になってバビロン捕囚から贖い出されはしたが、その恵みへの感謝を神に十分報いたことは決してなかったように見える。確かに彼らは、バプテスマのヨハネの説教によって覚醒されはしたが、その悔い改めは表面的なものだったとしか思えない。私たちの主が語られたとき、民族としての彼らは、かつてないほど、かたくなで、ねじ曲がった民になっていた。下劣な偶像礼拝のかわりに、死んだような形式主義が幅をきかせていた。「最初のものよりも悪い7つのほかの霊」が彼らをわがものにしていた。彼らの最後の状態は、急速に最初の状態よりも悪化しつつあった。残すところわずか40年で、彼らの不義は頂点に達した。狂気にかられた彼らはローマとの戦争に突入し、ユダヤはまさに混乱の都バベルそのものと化した。エルサレムは陥落し、神殿は破壊され、ユダヤ人は地上のすべての国に散らされた。

 さらにこの描写に見られるのが、キリスト教会全体の歴史であることも、ほぼ間違いないであろう。確かに彼らは、福音説教によって異教の暗黒から解放されはしたが、真にその光に応じた歩みをしたことは一度もなかったように思われる。確かに彼らの多くは、プロテスタント宗教改革のとき蘇生はしたが、その特権を正しく用いた者、あるいは「完全を目ざして進んだ」者はだれひとりなかった。多かれ少なかれ彼らの改革は、志半ばで中途半端に終わってしまった。彼らはみな、あまりにもしばしば、表面的な改革だけで満足してしまった。そして今、多くのところで、「汚れた霊が自分の家に帰って」きて、教会がかつて見たこともない不信仰とにせ教理を噴出させようとしている徴候が見受けられる。一方では不信仰、もう一方では形式的な迷信が跋扈する中で、何らかの恐るべき反キリストが出現するお膳立ては完全に整ったように思える。信仰を告白するキリスト教会の「後の状態」が、「初めよりもさらに悪くなる」恐れは十二分にあると云える。

 中でも最も悲しく痛ましいのは、この描写に見られるのが、多くの個々人の魂の遍歴であるということである。ある人々は、その生涯の一時期、感情的にキリスト教の影響を強く受けるように見える。彼らは自分の生き方を改める。多くの悪習をなげうち、多くの善行にはげむようになる。しかし彼らはそこで立ちどまってしまい、それ以上のことをしない。そしてしだいにキリスト教から全く離れてしまう。悪い霊が彼らの心に戻ってきて、それが「あいていて、掃除してきちんとかたづいている」のを見いだしたのである。いまや彼らは、それ以前のどんなときよりも最悪の状態になる。良心は無感覚になっており、宗教的感情は枯渇したようになる。彼らは、神から良くない思いに引き渡された者のようになる。彼らを「悔い改めに立ち返らせることはできない」と云えよう。一度はキリスト教にふれて、強い宗教的確信を経験しながら、再び罪と世に舞い戻った者ほど絶望的に邪悪な状態になる者はない。

 いのちを大切と思うなら、私たちはこれらの教訓が心に深く刻みつけられるように祈ろうではないか。中途半端な生活改善だけで満足してしまい、神に対して完全に回心することも、罪のからだを完全に殺すこともしないでしまうようなことが決してないようにしよう。心から罪を追い出そうと努力するのは悪くないが、それと同時に、罪にかわって神の恵みを受け取るように注意しよう。前の借家人、つまり悪魔を追い払うだけでなく、聖霊が私たちのうちに住んでくださっていることを確かにしよう。

 これらの節で私たちが出会う最後の実際的教訓は、主イエスがその真の弟子たちに対して抱かれる暖かい情愛である。

 天の御父のみこころを行なう者すべてのことを、主がどう語っておられるか注目すべきである。主は、そうした人々は「わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」と云われる。これは何と恵み深いことばであろう! 私たちの親しき主がその肉における親族に対して持っておられた愛情の深さを、誰がはかり知れよう。それはきよい、無私の愛であった。それは、ゆるぐことない、人知を越えた愛であったに違いない。しかしここで私たちが見るのは、主への信仰を持つ人々は、みな主の親族とみなされているということである。主は彼らを家族の一員として、骨の骨、肉の肉として愛し、思いやっておられる。

 ここには、真のキリスト者たちをその信仰ゆえに嘲り、迫害する者らすべてに対する厳粛な警告がある。彼らは自分が何をしているかわかっていない。彼らは王の王の近親を迫害しているのである。最後の日に彼らは、すべてをさばくお方が「わたしの兄弟、姉妹、また母」とみなすみなす人々を嘲っていたことに気づくであろう。

 ここには、すべての信者に対する豊かな励ましがある。彼らは、自分たちで気づいているよりも、はるかに主の目にとっては尊い存在なのである。彼らの信仰はひ弱で、悔い改めは薄く、力は小さいかもしれない。この世においては貧しく、困窮しているかもしれない。しかし、この章の最後の節には、「だれでも」という言葉が燦然と輝いており、彼らを勇気づけてくれている。信じる者は「だれでも」キリストの近親である。この世においても永遠においても、この偉大な長兄は信者に必要なものを備えてくださり、彼らが決して捨てられることのないようにしてくださる。贖われた者の家族には、イエスが覚えていない「妹」はひとりもいない(雅歌8:8)。ヨセフは親族すべてのために莫大な食料をたくわえていた。主イエスもまたご自分の親族が必要とするものを豊かに備えていてくださる。

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