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第11章1―15 バプテスマのヨハネに関するキリストの証言

 この箇所でまず第一に注意しなくてはならないのは、バプテスマのヨハネが私たちの主イエス・キリストに伝えているメッセージである。彼は「その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。』」。

 この問いは、ヨハネの方の疑いや不信仰から生じたものではない。この問いをそのように解釈するのは、この聖なる人に対して不当であろう。これは、彼の弟子たちのためを思って問われた問いであった。それは自分の弟子たちに、キリストご自身の口から、その神聖な使命の証拠を聞く機会を与えるための問いであった。疑いもなくバプテスマのヨハネは、自分自身の伝道活動が終わったことを感じていた。内心、自分はもはやヘロデの監獄から決して出ることはなく、確実に死を迎えるだろうと告げるものがあった。彼は、自分の弟子たちが、すでにキリストの弟子たちに対して示していた無知な嫉妬心のことを覚えていた。そこで彼は、このような嫉妬心を永久に拭い去るために最も確実と思われる道を取った。すなわち、彼らに、自ら「聞いたり見たり」させるために遣わしたのである。

 このバプテスマのヨハネのふるまいは、生涯の終わりに近づきつつある牧師、教師、親たちにとって、驚嘆すべき模範である。彼らが第一に気づかうべきは、後に残される者らの魂のことでなくてはならない。彼らの最も大きな願いは、残される者たちがキリストに堅く結びつくよう説き聞かせることでなくてはならない。信徒を地上で導き、指導してきた者たちの死は、常にそのような影響をもたらすべきである。彼らの死によって私たちは、もはや死すことなく、「永遠に存在され」、「変わることのない祭司の務めを持っておられ」るお方に、ますます強固につながっていくべきである(ヘブ7:24)。

 この箇所で第二に注意しなくてはならないのは、私たちの主がバプテスマのヨハネの人物について証言された高い評価である。定命の人間のうち、ここでイエスがその投獄された友によせておられるほどの賞賛を受けた者はひとりもいない。「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」。ヨハネは以前、人々の前で、イエスを神の小羊であると大胆に告白したことがあった。今イエスは、ヨハネが単なる預言者以上の者であると公然と宣言しておられる。

 疑いもなくそこには、半分はヨハネの伝道活動の性質についての無知から、半分はヨハネが云い送った問いに対する誤解から、バプテスマのヨハネのことを軽くみなそうとしたがる人々がいた。私たちの主イエスは、ここに発された宣言によって、そうした批判者たちを黙らせておられる。主は彼らに、ヨハネは臆病者でも、心の定まらぬ、たよりない人間でも、「風に揺れる葦」でもないと教えておられる。そのように考える人がいたとしたら、完全な思い違いであった。ヨハネは、大胆で断固たる真理の証し人であった。また主は、ヨハネのことを、心底は世俗的で、王宮と優美な生活を好む人間だなどと思ってはならないと教えておられる。もしそのように思う者がいたとしたら、途方もない誤りであった。ヨハネは、自分を喜ばすことをしない、悔い改めの説教者であり、国王の不興を買うことも辞さずにその罪を非難する人物であった。つまり主は彼らにヨハネが「預言者よりもすぐれた者」であると知らせたかったのである。ヨハネは、旧約時代のどの預言者よりも大きな栄誉を神から与えられていた。確かに古の預言者たちはキリストについて預言したが、キリストを見ずに死んだ。ヨハネはキリストについて預言したばかりでなく、じかに顔と顔を合わせてキリストを見た。彼らは人の子の日が確かに来て、メシヤが現われることを予言したが、ヨハネはその日の実際の目撃者であり、その日のために人々を整えるという栄えある器であった。彼らは、メシヤが「ほふり場に引かれて行く子羊のよう」であること、彼が「断たれ」ることを予告する使命が与えられたが(イザ53:7、ダニ9:26)、ヨハネには、メシヤを指さし、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と云う使命が与えられていた(ヨハ1:29)。

 私たちの主がバプテスマのヨハネのためになされたこの証言には、真のキリスト者にとって非常に麗しく、慰めに満ちたものがある。ここには、私たちの偉大なかしらが、その肢体すべての生活と性格に対して感じておられる優しいご関心が示されている。ここには、ご自分の教えのために働き、労苦する者らに対して、主がどれほどの栄誉を喜んで与えようとしておられるかが示されている。これは、最後の審判の日、主が御父の御座の前に、彼らをしみも汚れもない者としてお立たせになるとき、一堂に会した世界の前で、主が彼らについてなされるはずの告白の甘やかな前味である。

 私たちはキリストのために労することがどういうことか知っているだろうか。私たちは失望落胆し、自分のしていることには何の意味もなく、自分のことなどだれも気づかってくれないかのように、気力がなえたことがあるだろうか。私たちは病床に伏すとき、摂理によって働きの第一線から退かされるとき、「今までの苦労はむだになった、ここまで必死でやってきたことは何にもならなかった」と感じるよう誘惑されるだろうか。そのような思いには、この箇所のことを思い出して対抗しよう。ひとりのお方が、ご自分のためになされる私たちのすべてのわざを日々記録にとどめておられ、ご自分のしもべたちの行なうわざに、彼ら自身が気づくよりも大きな麗しさを認めていてくださることを思い出そう。獄中のヨハネについて証言されたのと同じ御口が、最後の審判の日、御民すべてについて証言してくださる。彼は、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」と云ってくださる(マタ25:34)。そしてそのとき彼の忠実な証し人たちは、自分の主のために語られた言葉は、一言も報いを受けずにはすまないことを知って驚嘆するであろう。


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第11章16―24 不信仰の理不尽さ、光を用いない危険

 主イエスがこれらのことばを発された直接の契機となったのは、主が地上におられたときのユダヤ民族の状態であった。しかし、これはユダヤ人だけでなく私たちに対しても、声を大にして語りかけている。これは、生まれながらの人の性格のある部分に大きな光を投げかける。今日、多くの不滅の魂が陥っている危険な状態を私たちに教えてくれている。

 これらの節の最初の部分は、多くの不信者が宗教的な事柄に対して示す理不尽さを示している。私たちの主の時代、ユダヤ人たちは、神が彼らに遣わすどのような教師にも文句をつけた。まずバプテスマのヨハネが来て悔い改めを説いた。彼は厳格な人で、社交的な交わりから身を引き、禁欲的な生活を送っていた。ユダヤ人はこれに満足したであろうか? 否である! 彼らは文句をつけて云った。「あれは悪霊につかれているのだ」。次に神の御子イエスが来て、福音を宣べ伝えた。他の人々と同じように生活し、バプテスマのヨハネのような独特の禁欲生活は何も実行しなかった。ユダヤ人は満足しただろうか? 否である! 彼らは文句をつけて云った。「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」。つまり彼らは、わがままな子どもと同じ、ひねくれた、気難しい者だったのである。

 悲しむべきは、信仰を告白するキリスト者のうちにも、このユダヤ人と同じくらい理不尽な人々が何万何千もいるという事実である。彼らはユダヤ人と同じくらいひねくれており、同じくらい気難しい。私たちが何を教えようと、何と説教しようと、文句をつける。私たちがどのような生き方をしようと、満足しない。私たちは恵みによる救い、信仰による義認を教えるだろうか。するとたちまち彼らは、私たちの教えは放埒を招くもの、不道徳な生き方を奨励するものだと叫び立てる。私たちは福音の要求する聖さのことを説くであろうか。するとすぐさま彼らは、私たちはあまりにも厳しすぎる、堅苦しすぎる、正しいにもほどがあるとわめき立てる。私たちは陽気にしているだろうか。すると軽薄だと非難される。私たちは、踊り場や、競馬場や、劇場から身を遠ざけているだろうか。すると、頭が堅いとか、排他的だとか、心が狭いと批判される。私たちは他の人々と同じように飲み食いし、同じような身なりをし、世俗の職業に手を染め、社交界に出入りするだろうか。すると、彼らは皮肉めかした当てこすりで、キリスト者も全然キリスト者でない人も全く変わりないではないか、キリスト者だからといって他の人々よりまともなわけではないではないかと云う。これらはみな、あのユダヤ人の態度の再来でなくて何であろう。「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった」。これらのことばを語られたお方は、まさに人の心というものをご存じであった!

 はっきり云えば、真の信仰者は、その信仰によっても行動によっても、決して未信者を満足させられるなどと期待してはならない。そんな期待は裏切られずにはすまない。信仰者は、たとえどれほど聖い生活をしようと、反対され、あらを捜され、遺憾に思われずにはおかないと心定めておかなくてはならない。いみじくもケネルは云っている。「善良な人々は、どのような行動をとろうと、決して世の激しい非難を免れることはできない。最善の道は、そんな非難などとりあわないことである」。結局、聖書は何と云っているだろうか。「肉の思いは神に対して反抗するもの……です」。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません」(ロマ8:7、Iコリ2:14)。これが事の真相なのである。

 これらの節の第二の部分は、故意に悔い改めを拒むことの途方もない邪悪さを示している。私たちの主は、ご自分の説教を聞き、ご自分の奇蹟を見ながらなおも悔い改めなかった人々の住む町々よりは、「さばきの日には、ツロとシドンとソドムのほうが……罰が軽いのだ」と宣告しておられる。

 このみことばには非常に厳粛なものがある。それをよく見極めようではないか。しばしの間、ツロとシドンがどれほどの暗黒と偶像礼拝と不道徳と不品行の満ち満ちた場所であったか考えてみよう。あのソドムの、口にできないほどの邪悪さを思い起こしてみよう。私たちの主によって名ざされた町々---コラジン、ベツサイダ、カペナウム---が、おそらく他のユダヤの町々と道徳的には大差なかったであろうこと、どう考えてもツロやシドンやソドムよりは、はるかにまともで、はるかに道徳的な町であったことを思い出そう。にもかかわらず注目すべきは、コラジン、ベツサイダ、カペナウムの人々は、福音を聞きながら悔い改めなかったがために、信仰的に大きな特権を受けながら活用しなかったがために、地獄の最底辺に落ちなくてはならないということである。これは何と恐るべきことばであろう!

 確かにこれは、定期的に福音を聞きながら、まだ回心していない、あらゆる人の耳に警鐘を鳴らすべき言葉である。そうした人の罪過は、神の前に何と大きなものであろう! そうした人は、日々何という危険の中を歩んでいることであろう! 生活態度がどれほど道徳的で方正で尊敬に値するものであったとしても、実はそうした人は、偶像礼拝にふけるツロ人やシドン人、あるいはあのソドムの惨めな住民よりも罪が重いのである! 彼らには何の霊的光も与えられていなかった。彼は与えられていながら、ないがしろにしたのである。彼らは全く福音を聞いたことがなかった。彼は福音を聞きながら、従わなかったのである。彼らの心は、彼と同じ特権を受けていさえしたなら、柔らげられていたであろう。ツロもシドンも「悔い改めていたことだろう」。ソドムは「きょうまで残っていたことだろう」。にもかかわらず彼の心は、まばゆいばかりの福音の輝きに照らされながら、固く無感動なままなのである。ここからは、1つの悲しむべき結論を引き出すしかない。最後の審判の日に、彼は彼らよりも罪が重いとされるであろう。さる英国人主教の言葉は、無比の真実である。「私たちのもろもろの罪を重くするものの中でも最も憎むべきは、私たちが自分の義務をしばしば聞いていたという事実である」。

 私たちはみな、コラジンやベツサイダ、カペナウムについてしばしば思いを巡らそうではないか! 福音を聞き、福音を好ましく思うだけで満足していては決して十分ではない。これを肝に銘じておこう。私たちは、それ以上のことをしなくてはならない。実際に「悔い改めて、神に立ち返」らなくてはならない(使徒3:19)。実際に、キリストにつながり、彼と結び合わされなくてはならない。そうなるまで、私たちは恐るべき危険の中にある。ツロやシドン、そしてソドムの住民たちのほうが、英国で福音を聞き続けながら未信者として死ぬ者らよりも、ずっと罰が軽いということになるであろう。


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第11章25―30 キリストの偉大さ、福音の招きの十分さ

 この箇所ほど重要な箇所は四福音書中にほとんどない。これほど短い節の中に、これほど多くの尊い真理をふくんでいるものはほとんどない。願わくは神が私たちに、それらの真理を見る目と、その真価を感じ取る心を与えてくださるように!

 まず第一に私たちは、子どものような、教えられやすい心がどれほど素晴らしいものであるかを学びとろう。私たちの主は御父に、「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました」と云っておられる。

 私たちはここで、なぜある者は福音を受け入れ信じるのに、他の者はそうしないのか説明しようとは思わない。この問題における神の主権は深遠な神秘である。私たちにそれを探りきわめることはできない。しかし究極的に1つのことだけは、永遠に覚えておくべき偉大な実際的真理として、聖書の中で際立っている。福音が隠される人々は一般に、「おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りがある者と見せかける者たち」である。福音が現わされる人々は一般にへりくだっていて、単純な心を持ち、進んで教えを受けようとする者たちである。あの処女マリヤの言葉は、絶えず成就している。「主は……飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました」(ルカ1:53)。

 私たちは、どのような形の誇りをも警戒しよう。知性の誇り、富の誇り、自分自身の善良さの誇り、自分自身の美点の誇りなどである。誇りほど、人を天国から締め出し、キリストにまみえることを妨げるものはない。私たちは、自分がひとかどの者であると思い続けている限り、決して救われない。へりくだりを祈り求め、へりくだりを深めようではないか。自分の真実の姿を知ることを追い求め、聖なる神の前で自分がどのような立場にあるかを探り求めようではないか。天国へ至る道の始めは、私たちが地獄への道をたどりつつあると感じて、御霊から喜んで教えてもらおうとすることである。救いに至るキリスト教の第一歩には、サウロとともに、「主よ。あなたは私が何をすることをお望みなのですか」と云えるようになることがある(使徒9:6 <英欽定訳>)。私たちの主のことばのうちで、「自分を低くする者は高くされる」ということばほどしばしば繰り返されたものはない(ルカ18:14)。

 第二に私たちはここで、私たちの主イエス・キリストの偉大さと、その至高の権威を学びとろう。

 この問題について私たちの主が用いられたことばは、深遠で、驚異に満ちたものである。主は云う。「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません」。まことに私たちはこのようなことばを読むとき云うであろう。「そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません」(詩139:6)。私たちは、三位一体の第一位格と第二位格との間に存する完璧な結合の一端を垣間見ている。所詮は人間でしかないすべての者らに対する、主イエスのはかりしれない卓越性の一端を垣間見ている。しかしこれらすべてにもかかわらず、私たちは告白せざるをえない。この節には、私たちの微弱な理解力をはるかに凌駕する高みと深みがあると。私たちにできることはただ、小さな子どもの心で、その深遠な真理をあがめることだけである。しかし、その真理の半分は、未知の神秘であり続けるであろうことも感じざるをえない。

 しかし、これらのことばから私たちは1つの偉大な実践的真理を引きだそう。私たちの魂の至福にかかわるすべてを決する権威は、主イエス・キリストの御手に授けられているということである。「すべてのものが……‥彼に渡されて」いる。鍵は主が握っておられる。主のもとへ行かなくては、天国へはいる許可を得ることはできない。主が戸口である。主を通してでなくては、私たちは中へはいることはできない。主が羊飼いである。主の声に聞き、主に従わなくては、私たちは荒野で滅びるしかない。主が医者である。主に診てもらわなくては、罪という病から癒されることはない。主が命のパンである。主で養われなくては、魂は満たされることがない。主が光である。主のあとを歩まなくては、暗闇の中をさまようしかない。主が泉である。主の血潮によって洗うのでなくては、きよめられることも、大いなる清算の日のための備えをすることもできない。これらの真理は、何とほむべき、栄えあるものであろう! キリストを持つなら、私たちはすべてを持っているのである(Iコリ3:22)。

 最後に私たちは、この箇所からキリストの差し出す福音の招きの広大さと十分さを学びとろう。

 この章の最後に位置する3つの節は、この教訓をふくむ、実に尊いものである。これは、「キリストは、この自分のような者にも御父の愛を現わしてくださるだろうか」と恐れまどう罪人に、最も恵みに満ちた励ましを与えてくれる。これらは、特別な注意を払って読まれるに値する節である。千八百年間、これらは世にとって祝福であり続け、幾千万もの魂に益をもたらし続けてきた。ここにある文章は、どれをとっても例外なく、思索の宝庫をふくんでいる。

 私たちは、イエスがどのような者を招いておられるかに注目すべきである。主は、自分を正しく立派な人間と自負する者らには語りかけていない。主は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人」に語りかけておられる。これは、途方もなく大勢の者を云い表わすことばである。この倦み疲れた世界には、そのような者がおびただしくいる。自分の心に重苦しさを感ずる者、そしてその重苦しさから解放されたいと切望する者---罪の重苦しさ、悲しみによる重苦しさ、心労による重苦しさ、良心の呵責による重苦しさから逃れたいと切望する者---はみな、いかなる者であろうと、またどのような過去を背負った者であろうと、みな、キリストのもとへ来るように招かれているのである。

 私たちは、イエスがどれほど恵み深い申し出をしているかに注目すべきである。「わたしがあなたがたを休ませてあげます。……たましいに安らぎが来ます」。これらのことばは、何と心を力づけ、慰めを与えるであろう! 安らぎのなさは、この世を特徴づける大きなしるしの1つである。どこを見ても私たちのまわりには、忙しさ、焦り、失敗、失望が立ち塞がっている。しかしここに希望がある。ここに、ノアの鳩にとって箱舟がそうであったように、倦み疲れた者にとって真実な休み場がある、逃れの箱舟がある。キリストのうちには安らぎがある。良心の安息、心の安息、すべての罪に対する赦しの上に築かれた安息、神との平和から流れ出る安息がある。

 私たちは、疲れた者、重荷を負っている者に、イエスがどれほど単純な要求をしておられるかに注目すべきである。「わたしのところに来なさい。……わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」。主は何の厳しい条件も課していない。まず善行を行なわなくてはならないとも、賜物を受けるだけふさわしくならなくてはならないとも語っていない。主が求めておられるのはただ、今の私たちのまま、罪も咎もあるまま、ご自分のもとに来ること、そして小さな子どものように主のみ教えに服することだけである。あたかも主はこう云うかのようである。「休息を求めて人のところに行ってはならない。他から助けがやって来るのを待っていてはならない。今の姿のまま、この日、わたしのところに来なさい」。

 私たちは、イエスがご自分について語ったことが、どれほど勇気づけるものであるかに注目すべきである。「わたしは心優しく、へりくだっている」と主は云う。それがどれほど真実であるかは、代々の神の聖徒たちの経験がしばしば証明して来た。ベタニヤのマリヤとマルタ、つまづいた後のペテロ、復活の後の弟子たち、冷淡な不信を表明した後のトマス、これら全員が「キリストの心優しさとへりくだり」を身にしみて感じた。これは、聖書の中でキリストの「心」が実際に名ざされている唯一の箇所である。これは決して忘れてならないおことばである。

 最後に私たちは、イエスがご自分に仕える道について語ったことが、どれほど勇気づけるものであるかに注目すべきである。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」。疑いもなくキリストに従うなら、担なわくてはならない十字架がある。疑いもなく、そこには耐えなくてはならない試練、戦わなくてはならない戦いがある。しかし福音のもたらす慰めは、その十字架をはるかに凌駕している。この世と罪に仕える道、ユダヤ教の儀式や人の迷信に隷属するくびきに比せば、キリストに仕える道は、途方もなく容易で軽い。主のくびきは、鳥にとっての羽根と同じほどしか重荷にならない。主の命令は悲しいものではない。その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である(Iヨハ5:3、箴3:17)。

 さてここで厳粛な問いをしなくてはならない。「私たちは、この招きを自分自身受け入れているだろうか? 私たちは、すべての罪を赦され、すべての悲しみを取り除かれ、良心のすべての傷を癒されているだろうか?」 キリストの御声を聞こうではないか。主はユダヤ人ばかりでなく私たちにも語りかけておられる。主は「わたしのところに来なさい」と云っておられる。ここにこそ、真の幸福の鍵がある。ここにこそ、心軽やかに生きる秘訣がある。キリストのこの申し出を受け入れるかどうかに、すべてはかかっているのである。

 願わくは、私たちが信仰によってキリストのところに行き、安らぎを得たこと、そして今も日々キリストのところへ行き、新たな恵みの養いを受けていることを、知り、感ずるまで、決して満足しないように! もしすでに主のもとへ行っているのなら、より堅く主に結びつこう。もしまだ一度も主のもとへ行ったことがないのなら、きょう彼のもとへ進み出そうではないか。主のことばは決して破られることがない。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハネ6:37)。

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