第10章1―15 キリスト教最初の伝道者たちの派遣 この章は、特に厳粛な章である。ここには、キリスト教会で最初に行なわれた叙任式のもようが記されている。主イエスは12人の使徒を選び、遣わしておられる。---ここには、キリスト教の牧師として新しく任じられた者たちに、初めて与えられた訓戒が語られている。主イエスご自身が、それを命じておられる。これほど重要な叙任式、これほど厳粛な訓戒はかつてなかった!
この章の、最初の15節を眺めるとき、明らかに際立っている3つの教訓がある。順を追って学んでいこう。
まず第一に教えられるのは、すべての教役者が必ずしも善良であるとは限らないということである。ここで私たちの主はイスカリオテのユダを使徒のひとりに選んでおられる。この、どんな人の心も見通されるお方は、ご自分の選ばれた者たちの性格をよくご存じであったに違いない。にもかかわらず、主はご自分の使徒たちの中に裏切り者をふくめられたのである!
私たちはこの事実を心に銘記しておくべきである。聖職への任命が救いの恵みを授けるわけではなく、叙任を受けた人々が必ずしも回心しているとは限らない。私たちは聖職者を、教理においても行動においても無謬だなどとみなすべきではない。教皇やその偶像を設け、それをキリストにとってかわらせるような愚を犯すべきではない。私たちは彼らを「私たちと同じような人間」、私たちと同じ弱さに屈しやすく、私たちと同じ恵みを日ごとに必要とする者とみなすべきである。彼らが重大な不祥事を引き起こすことなどありえないとか、彼らがお追従や貪欲や世の誘惑によって害されないなどと思うべきではない。私たちは、彼らの教えを神のことばと照らし合わせ、彼らがキリストに従っている限りは彼らに従うが、その限度を越えてまで盲従すべきではない。何よりも、私たちは彼らのため祈らなくてはならない。彼らがイスカリオテのユダの後継者ではなく、ヤコブやヨハネの後継者であるように祈らなくてはならない。福音の教役者たることには重大な責任がある! 教役者には多くの祈りが必要である。
第二に教えられるのは、キリストに仕える教役者の大きな職務は善を行なうことにあるという点である。彼が遣わされたのは、「滅びた羊」を捜し出し、良き知らせを宣べ伝え、苦しむ者を解放し、悲しみを軽くし、喜びを増し加えるためである。彼の人生は、受けるよりも「与える」人生となるべきである。
これは高く非常に特殊な基準である。このことをよく考量し、注意深く吟味しよう。1つ明らかなのは、キリストの忠実な教役者の人生は安逸の人生ではありえないということである。彼は、肉体も精神も時間も力も、自分の召された職務のために費やす覚悟がなくてはならない。怠惰と不真面目はどんな職業でも悪だが、最悪なのは魂の見張り人が怠惰で不真面目なことである。さらにもう1つ明らかなのは、キリストの教役者の立場は、無知な人々が差し出したり、彼らが不幸にも時々要求するようなものではないということである。彼らが任職されたのは、支配するよりも奉仕するためである。彼らの務めは、教会を思うままに支配するよりも、その必要を満たし、その構成員に仕えることである(IIコリ1:24)。この2つのことがより良く理解されたなら、真のキリスト教にとって何と幸いであろう! キリスト教をむしばむ病の半分は、教役者の職務に対する誤った観念から起こって来ているのである。
最後に教えられるのは、差し出された福音をないがしろにすることほど危険なことはないということである。審きの日には、キリストの真理を聞いて受け入れなかった者らよりは、「ソドムとゴモラの地でも」まだ罰が軽いであろう。
これは恐ろしいほど見過ごしにされている教理であり、真剣に考慮される価値のある教理である。人々が忘れがちなのは、特にあからさまな大罪を犯さなくとも、魂に永遠の滅びを招くには十分だということである。それには、福音を聞き続けながら信じないようにし、真理を聞かされ続けながら悔い改めないようにし、教会に通いながらキリストのもとに行かないようにするだけでよい。そうすれば、まもなく自分が地獄にいることに気づくであろう! 私たちはみな与えられた光に応じてさばかれる。私たちは、与えられた信仰上の特権をどう用いたか申し開きしなくてはならない。「こんなにすばらしい救い」を聞きながら、それをないがしろにするのは、人間の犯しうる最悪の罪の1つである(ヨハ16:9、ヘブ2:3)。
私たち自身は福音に対してどのようにしているだろうか。これは、この箇所を読むすべての人が自らの良心に問わなくてはならない問いである。かりに私たちが品行方正で、どんな人間関係にも不正がなく道徳的であり、教会の集会に欠かさず出席しているとしよう。それはそれなりに良いことである。しかし、私たちについて云えることは、それで終わりだろうか。私たちは本当に真理に対する愛を受け入れているだろうか。キリストは、信仰によって、私たちの心のうちに住んでいてくださるだろうか。もしそうでないなら、私たちは恐るべき危険の中にある。私たちは、福音を全く聞くことのなかったソドムの人々よりも、はるかに罪深いことになる。私たちはやがて目覚めるとき、自分が、その規則正しさ、道徳的高さ、品行方正さにもかかわらず、魂に永遠の滅びを招いてしまったことに気づくことになるかもしれない。私たちは、キリスト教の特権という陽射しをいっぱいに受けながら人生を送ったからといって救われはしない。福音が忠実に語られるのを毎週聞いていたからといって救われはしない。身をもってキリストを知っていなくてはならない。個人的にキリストの真理を受け入れていなくてはならない。キリストとの生きた結びつきがなくてはならない。自らキリストのしもべとなり弟子となっていなくてはならない。さもなければ福音の説教はただ私たちの責任を増し、私たちの罪を重くし、ついには私たちをより深く地獄に沈める役にしか立たない。これは厳しい言葉である! しかし私たちが今読んだ聖書の言葉は、平明で、間違いようのないものである。この言葉はことごとく正しい。
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第10章16―23 キリスト教最初の伝道者たちに与えられた教え これらの節にふくまれた真理は、この世で善をなそうとするすべての人々が熟考すべきものである。自分一個の安楽や慰みしか心がけない利己的な者には、これらの節はほとんど何の意味もないように思えるかもしれない。しかし福音の教役者、また魂を救おうと努めるすべての人にとって、これらの節は興趣つきないものたるべきである。疑いもなくここには、特に使徒たちの時代にしかあてはまないことが多々ある。しかし、あらゆる時代にわたってあてはまることも決して少なくはない。
まず1つのこととして、魂に善をなそうとする者は、期待を控えめにしなくてはならないことがわかる。彼らは、自分の労苦に大々的な成功が伴うと考えてはならない。彼らは、多くの反対に出会うことを見込んでいなくてはならない。自分が「憎まれ」、迫害され、虐待されること、しかも自分に最も身近な人々からさえそうした仕打ちを受けることを覚悟していなくてはならない。彼らはしばしば自分が「狼の中に送り出された羊」のようであることに気づくであろう。
これを常に頭に置いておこう。私たちは、説教するにも教えるにも、家々を訪問するにも手紙を書くにも、忠告を与えるにも何をするにも、聖書と経験が保証する以上の期待を抱かないよう心に堅く定めておこう。人間性は、私たちが考えるよりもはるかに邪悪で腐敗している。悪の力は、私たちが思いもよらぬほど強大である。だれでも何が自分にとって良いことなのか理解しさえするなら、すぐに私たちが告げることを信じてくれるだろうなどと想像してもむだである。そのような期待は決して実らず、失望に終わるしかない。働きを始めたときからこうしたことを知っており、苦い経験から学ばずにすむキリストの働き人は幸いである。これこそ、一度は善をなそうという情熱に満ちていたように見えた多くの人が、なぜやがて身を引いていくかという真の理由である。彼らは法外な期待を抱いて働きはじめた。彼らは「費用を計算」しなかった。彼らは、「若きメランヒトンにとって古き人はあまりに強大すぎる」ことをつい忘れていたと告白した、あのドイツの偉大な改革者と同じ過ちに陥ったのである。
次にわかるのは、善をなそうと志す者は、知恵と良識と健全な精神を祈り求める必要があるということである。主は弟子たちに、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」と教えられた。主は彼らに、ある場所で迫害されたなら、彼らは正当に「次の町にのがれ」てもよいと教えられた。
これほど正しく適用することが困難な主の命令は、他にほとんどない。ここでは私たちのために2つの両極端の間に一本の線が引かれているが、その線を正しく定めるには非常に微妙な判断力が必要である。迫害を避けるために口をつぐみ、信仰を自分ひとりだけのものとしようとすることが1つの極端である。私たちはこの方向で間違ってはならない。逆に、迫害を好んで求め、時間も場所も状況も全く考えないで、出会う人すべてに片端からキリスト教信仰を押しつけて歩くのは、またもう1つの極端である。私たちはこの方向においても、先の方向と全く同じように、間違ってはならないと警告されている。まことに、「このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう」と云うべきである。私たちは「知恵に富む唯一の神」に知恵を求めて叫ぶ必要がある。
今日ほとんどの人が陥りがちな極端は、沈黙と臆病と他人に対する無関心である。私たちの、いわゆる思慮分別は、妥協、もしくは完全に不忠実な態度に変質しやすい。私たちは、ある種の人々には伝道してもむだだと、あまりにも簡単にあきらめがちである。無思慮であるとか、都合が悪いとか、いらざるつまづきになるとか、いやむしろ積極的な害があるとさえ云って、他の人の霊的な益をはかる努力をしようとしない。私たちはみなこの精神に陥らないように油断なく警戒しよう。このような態度の真の原因は、しばしば怠惰と悪魔にある。疑いもなくこのような精神に流されて生きれば、生来の性情にとっては心地よく、面倒もなくてすむであろう。しかし、このような精神で生きる人は、他人のために役立つことになる非常に多くの機会をしばしばどぶに捨てているのである。
逆に、正しく聖い熱心が「知識に基づくものでない」場合がありうることも否定できない。私たちは、ほんの少しの思慮と良識と判断力を働かせれば避けられたはずの、不必要なつまづきを生み出し、大失敗をいくつもしでかし、多くの反対をかきたてることも決してないわけではない。この点で非難されることのないように、私たちはみな注意しよう。キリスト者には、イエズス会士的な謀略とも肉的な処世術とも違う、キリスト者的な知恵があってよいはずである。この知恵を求めようではないか。私たちの主イエス・キリストは、ご自分のため奉仕しようとする者たちに常識を捨て去るよう命じてはおられない。キリスト教信仰には、私たちがどのようにふるまおうと、人々の反感を買わずにはおかないものが十分ある。しかし、わけもなくその反感をかきたてるようなことはしないようにしようではないか。私たちは、「賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩」むように努力しよう(エペ5:15)。
主イエスの信者らは、残念ながら知識と良識と健全な精神の御霊を、十分熱心には祈り求めていないのではないか。彼らは、恵みさえ持っていれば他に何もいらないと空想しがちである。彼らは、恵みに満ちた霊は聖霊だけでなく、知恵にも満ちることを祈り求めるべきであることを忘れている(使徒6:3)。私たちはみなこのことを忘れないようにしよう。大きな恵みと健全な常識は、おそらく世に見ること最もまれな取り合わせであるが、それが不可能でないことはダビデの生涯や使徒パウロの伝道活動が顕著に証明している。しかしながら他のすべての点におけるのと同様に、この点においても主イエス・キリストは私たちの最高の模範である。主ほど真実に忠実なお方はおられなかった。しかし主ほど真に賢明なお方もかつてなかった。私たちは主を師と仰ぎ、主の歩みに従って歩もうではないか。
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第10章24―33 キリスト教最初の伝道者たちに対する警告 世で魂に善をなそうとするのは非常に困難である。そうしようとする者はみな、これを経験によって知るものである。このわざには、途方もない勇気と信仰と忍耐と不屈さが求められる。サタンは自分の王国を守ろうと死に物狂いで戦う。人間性はどうしようもなく邪悪である。害をなすのは易しく、善をなすのは難しい。
主イエスは、福音を宣べ伝えさせるために初めて弟子たちを遣わされたとき、このことをよく知っておられた。彼らを何が待ち受けているか、彼らは知らなくとも主は知っておられた。主は、彼らが落胆するときも元気を出せるような一連の励ましをわざわざ与えてくださった。倦み疲れた海外宣教師、今にも倒れそうな牧師たち、心くじけた教会学校教師、失望落胆した訪問伝道の奉仕者はみな、今読んだ7つの節をしばしば学ぶとき益を受けるであろう。ここに教えられていることに注目しよう。
まず1つとして、魂に善をなそうとする者たちは、自分の偉大な主人よりもいい目を見ることを期待してはならない。「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません」。主イエスは中傷され、益をもたらそうとして来られた当の人々から排斥された。主のみ教えに誤りはなかった。主の教え方に欠陥はなかった。しかし多くの人は主を憎み、主を「ベルゼブル」と呼んだ。主を信じ、主のことばに注意を払った者はほとんどいなかった。確かに私たちは、最善を尽くしても多くの不完全さの入り混じった者でしかないのだから、自分がキリストと同じような扱いを受けても、驚く権利はないはずである。もし私たちがこの世を放っておけば、世も私たちを放っておいてくれるであろう。しかしもし私たちが世に霊的な善をなそうとするなら、世は私たちの主人を憎んだのと同じように私たちをも憎むであろう。
別のこととして、善をなそうとする者たちは、忍耐をもって審きの日を待ち望まなくてはならない。「おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません」。彼らは、今のこの世においては、誤解され、誹謗され、悪口を云われ、中傷され、虐待されることに満足しなくてはならない。たとえ動機を邪推され、人格が激しく攻撃されても、働きをやめてはならない。最後の日にはすべてが公正に正されることを常に忘れてはならない。そのときには、すべての心の秘密が明らかにされる。「主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる」(詩37:6)。彼らの意図の純粋さ、働きにおける思慮深さ、目的の正しさは、最後になって全世界の前に明らかにされる。私たちは倦まずたゆまず、静かに働き続けよう。人々は私たちを理解せず、強硬に反対するかもしれない。しかし審きの日は近づいている。私たちは正しい報いを受けるであろう。主は、再び来られるとき、「やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです」(Iコリ4:5)。
もう1つのこととして、善をなそうとする者たちは、人よりも神を恐れなくてはならない。人は肉体を傷つけることはできるが、人の敵意はそれ止まりである。それ以上のことはできない。神は「たましいも、からだも、ともにゲヘナで滅ぼす」ことがおできになる。私たちは、信仰の義務の道に踏み込むなら、評判、財産、その他人生を快適にするものすべてを失う危険にさらされるかもしれない。しかし、なすべきことが明らかであるなら、そのような危険をかえりみてはならない。ダニエルや、あの3人の少年のように、私たちは神を不快にし、自らの良心を傷つけるよりは、すべてを明け渡さなくてはならない。人の怒りは耐え難いかもしれないが、神の怒りははるかに恐るべきものである。確かに人に対する恐れという罠は、私たちを陥れやすいものだが、それは、それ以上の強い原則、すなわち神に対する恐れという圧倒的な力の前には道をゆずらなくてはならない。いみじくも、かの善良なガードナー大佐はこう述べている。「私は神を恐れている。従って私には、他に恐るべきものは何1つない」。
さらに別のこととして、善をなそうとする者は、神の摂理的な配慮が彼らの上にあることを常に念頭に置いておかなくてはならない。この世に神の許可なしに起こることは1つもない。実際には、まぐれや偶然や運などというものはない。「彼らの頭の毛さえも、みな数えられています」。時として、義務の道は彼らを非常な危険に陥れるかもしれない。先に進めば、健康と生命が危険にさらされるように思えるかもしれない。そのような者は、自分のまわりに起こることがすべて神の御手のうちにあることを思い、慰めを得るべきである。彼らのからだも、魂も、人格も、すべて神が安全に守っておられる。神がお許しにならない限り、いかなる病も彼らにとりつくことはなく、いかなる手も彼らを傷つけることはない。彼らは、自分の出会う恐ろしいものすべてに向かって大胆に云うことができる。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、おまえには私に対して何の権威もないのだ」、と。
最後に、善をなそうとする者は、自分の主にまみえ、自分の最後の分を受け取る日のことを常に忘れてはならない。主から、主の御父の前で認めてもらい、主から主に属する者と云われたければ、人前で主を自分の主であると述べ、主を「認める」ことを恥じてはならない。それは、私たちに大きな犠牲をしいるかもしれない。私たちは、笑い者にされ、嘲られ、迫害され、軽蔑されるかもしれない。しかし私たちは、笑われることを恐れて天国から追い払われることがないようにしよう。私たちは、最後の清算をする、あの恐るべき大いなる日のことを忘れないようにしよう。自分がキリストを愛していること、また他の人にもキリストを知り愛するようになってほしいと願っていることを、人前で明らかにすることを恐れないようにしよう。
キリスト教の伸展のため労する者はみな、今どのような状況にあろうと、これらの励ましを胸に秘めておくべきである。主は彼らの試練を知っておられ、彼らの慰めのためにこれらのことを前もって語られた。主はご自分を信ずるすべての者を思いやってくださるが、ご自分の教えの伸展のために働き、善をなそうとする者ほどキリストに気遣われている者はない。私たちもその数にはいることを求めようではないか。どのような信者も、やる気さえあれば何らかのことができる。どのような人にも、できることは常にある。願わくは私たちがみなそれぞれ、それを見いだす目と、行なう意志を持つことができるように!
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第10章34―42 キリスト教最初の伝道者たちに対する励ましのことば これらの節で教会の偉大なかしらは、ご自分の福音を宣べ伝えさせるために遣わす者らへの最初の訓戒をしめくくっておられる。主は3つの偉大な真理を宣言される。この説話全体の結びとしてふさわしいものである。
まず第一に、主は、ご自分の福音は、そのおもむくところに平和と一致をもたらすものではないことを忘れないよう命じておられる。主が最初に地上に臨まれたのは、すべての人が心を合わせる千年王国を設立するためではなく、争いと分裂を生む福音をもたらすためであった。それが絶えず現実のこととなっているのを見ても、私たちに驚く権利はない。私たちは、福音が家族を対立させ、最も親しい者たちの仲も裂くのを不思議に思うべきではない。多くの場合、福音は確実に分裂をもたらす。それは人が心底から腐敗しているためである。一人の人が信じ、もう一人の人が未信者のままでいる限り、また、一人の人が自分の罪を捨てない決心をしており、もう一人の人が罪を打ち捨てたいと願う限り、福音宣教の結果は分裂以外の何物をももたらすはずがない。責めるべきは福音ではなく、人の心である。
これらはみな深遠な真理であるが、常に忘れられ、見過ごしにされている。多くの人は、キリストの教会内の「一致」や「和合」や「平和」をばくぜんと語る。あたかもそれらが私たちの常に期待すべきことであるかのように。すべてを犠牲にしても守らなくてはならないものであるかのように。このような人々は、私たちの主のことばを思い出した方がよい。疑いもなく、一致も和合も大きな祝福に違いない。私たちは一致と和合を求め、そのため祈り、それを得るためには、真理と良心を別にして、すべてをなげうたなくてはならない。しかし、千年期が来る前にキリストの教会が大いに一致と平和を享受できるなどと考えるのは、あだな夢である。
第二に、私たちの主は、真のキリスト者はこの世にあっては困難を覚悟しなくてはならないと教えておられる。私たちは、牧師であろうと平信徒であろうと、教える立場にあろうと教えられる立場にあろうと、ほぼ何の差別もない。私たちは「十字架」を負わなくてはならない。私たちは、キリストのためには、いのちを失うことさえよしとしなくてはならない。人の機嫌を損ねることも甘んじて受け入れ、困難に耐え、多くの点で自分自身を喜ばせることを拒否しなくてはならない。さもなければ、決して天国に行き着くことはできない。世と悪魔と私たち自身の心が今と変わらない限り、これらのことも変わらぬ真理であり続けるに違いない。
この教訓を自分自身で覚えておき、他人にも銘記させる人は、これが非常に有益であることを知るであろう。誇大な期待ほど信仰生活に害を与えるものはほとんどない。人々は、期待する権利もないような世的楽しみを、キリストに仕えながらも、ある程度楽しむことを求めている。そして自分の求めたものが得られないからといって、幻滅のあまり信仰を捨てる誘惑にかられるのである。キリスト教は最後には栄冠を差し出すものではあるが、その途中では十字架をももたらすことを完全に理解している者は幸いである。
最後に、私たちの主は、ご自分の教えのため労する者たちになされた奉仕は、どれほど小さなものも神の目にとまっており、報われるということを述べて、私たちを元気づけておられる。「わたしの弟子だというので」、ほんの「水一杯」を信者に与えた者は「決して報いに漏れることは」ないのである。
この約束には非常に美しいものがある。これは、この偉大な主人が絶えずご自分のため労する者らに目を注ぎ、彼らの益をはかろうとしておられることを教えている。もしかすると彼らは、だれの目にもつかず、だれからもかえりみられることなく働いているように思えるかもしれない。説教者、宣教師、教会学校教師、貧民街の訪問者たちの働きは、国王や議会や軍隊や政治家たちの活動にくらべると、とるにたらぬ無意味なものに思われるかもしれない。しかし、彼らは神の目には無意味ではない。神は、だれがご自分のしもべらに反対し、だれが助けるか注意しておられる。神は、パウロに対するルデヤのように、だれがご自分のしもべに親切にするか、ヨハネを妨害したデオテレペスのように、だれがご自分のしもべを妨害するかに注目しておられる(使徒16:15、IIIヨハ9)。神のしもべたちが神の収穫のために労する間、その日ごとの経験はすべて記録されている。すべてが神の大いなる記憶の書に書きとめられ、最後の審判の日にすべてが明るみに出される。あの献酌官長は、以前の職務に戻ったとき、ヨセフのことを忘れてしまった。しかし主イエスはご自分の民をひとりも決してお忘れにはならない。主は復活の朝、そんなおことばをいただくなどとは夢にも思っていなかった多くの人々に云われるであろう。「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ……てくれた」(マタ25:35)。
この章を閉じるにあたって、私たちは自問してみよう。自分は、この世におけるキリストのみわざとキリスト教の伸展をどのような光で見ているだろうか。私たちは、それを助けているだろうか、妨害しているだろうか。私たちは、主の「預言者」や「義人」たちを、何らかの仕方で支援しているだろうか。主の「小さい者ら」を助けているだろうか。私たちは、主の働き人らを妨げているだろうか。励ましを与えているだろうか。これは重大な問いである。機会があればいつでも彼らに「水一杯」を与える者は、良いことを賢く行なっているのである。そして主のぶどう園で自ら積極的に働く者は、なお良いことを行なっているのである。願わくは私たちが、自分が生まれ出たときよりも良くなった世界を後に残すことを求めて努力するように。これがキリストの心を自分のものとするということである。これが、この素晴らしい章にふくまれた数々の教訓の価値を見いだすことである。